夕食も終えて、305号室でぼくは英語の宿題と格闘していた。
ギイはもちろんさっさと終わらせてしまって、のんびりとベッドに腹ばいになって、何やら読書に勤しんでいる。 いいよなー、英語が母国語だなんて。 とは言うものの、じゃあぼくが日本語に長けているかと言われればそうでもないし(ギイ曰くは限りなく不自由だと言われるし)、母国語が何かと言う問題ではなく、単に頭の出来の違いなんだろうなと思う。 まぁそんなことを考えていても宿題が終わるわけでもないので、ぼくはせっせと目の前の英文を和訳していった。 ようやく一通り終わってやれやれとテキストを閉じて振り返ると、ギイはまだ熱心に雑誌を読んでいる。 ずいぶん熱心だなーと思って声をかけてみた。 「ギイ、何読んでるの?」 「んー?ちょっとこっち来いよ」 手招きされてベッドの端に腰を下ろすと、すかさず腕を引かれてギイの隣に引き倒された。 「ギイっ」 「まぁまぁ。こうしたら一緒に読めるだろ?」 読めるだろって・・・それ英語の雑誌じゃないか。読めるわけがない。 ぼくがじろりとギイを睨むと、ギイは悪びれない表情でくすりと笑った。 「怖い顔するなって。なぁ、これどう思う?」 「なに?」 「10代にしておきたいこと」 ギイはぴたりとぼくに肩をつけると、雑誌のページをとんとんと指で叩いた。 「10代のうちにしておきたいことが載ってたんで、いろいろ考えてたんだ」 「ふうん。できてるかどうかってこと?」 「まぁ、そうだな」 「どんなことが書かれてるの?」 興味を引かれて聞いてみると、ギイは 「じゃあ、ちょっと難しそうなのから始めるか」 と言って箇条書きされたセンテンスの一つを指さした。 「一つ目、『社会の仕組みを観察する』」 「社会の仕組み?あのさ、もしかしてそれってビジネス関係ばかりなの?」 「まさか。10代にしておきたいことだって」 「ふうん。・・・社会仕組み・・・考えたことないんだけど」 「まぁそうだよな」 「でもギイは考えてそう」 何しろお父さんの仕事のお手伝いをしてるらしいから、すでに社会に半分足を突っ込んでるようなものだよね。 「まぁオレはちょっと特殊だとしてもさ、10代って10歳から19歳まで、小学四年生から大学生だろ?大学行ってバイトでも始めたら社会の一端を垣間見ることにもなるよな」 「ああ、そっか。じゃあそれはバイトでもし始めてから観察することにするよ」 「OK」 じゃあ次な、とギイが続ける。 「二つ目『お金とビジネスについて学ぶ』」 「それもバイトし始めてから」 「はは。託生、何のバイトしたいんだ」 問われて、え、と言葉に詰まる。 世間じゃ高校生でバイトするのは普通なのかもしれないが、さすがに山奥の全寮制の高校ではバイトなんてできやしない。なので当然ぼくもまだ働いたことはないのだ。 「まだ考えたことないけど、飲食店とかコンビニがオーソドックスなのかなぁ?」 「託生、ファミレスで注文を間違えずに聞き取れるのか?」 「あのね、ぼくだってそれくらいできるよ」 たぶん。やったことないけど、それくらいできるはずだ。 「じゃあ託生が飲食店でバイトするなら、オレ、毎日食べに行くよ」 「遠慮しときます」 何だか緊張していらない失敗をしてしまいそうだ。 「ギイは?お金とビジネスについては学んでるよね?」 「まぁ望んだわけじゃないけどな」 面白くなさそうに言って、じゃあ次、とギイが続ける。 「三つ目『思考と感情が人生を動かしていると知る』 「・・・・難しいね」 「んー、でもさ、その通りだろ?考えることと思うことが行動になるわけで、それが人生を動かしていくことになる。普通にやってることだけど、普段はそんなこと考えたりしないよな」 「うん。そっか。じゃあ考えることも思うことも真面目にしないといけないんだなぁ。それがそのまま将来に繋がるってことだよね?」 「そうそう。だから託生、ちゃんとオレのこと真面目に考えてくれよな」 「どうして?」 「将来に繋がるって言ったばかりだろ?」 将来ねぇ。いったいギイはどれくらい先のことを言っているのやら。 「次は?」 「四つ目な、『人生に正解はないと知る』」 「あー、深いね」 「確かに。託生は?そんな風に思ってる?」 「どうかな。今言われるまでそんなこと考えたことなかったけど・・・でも、確かにそうだよね。これが正解なんて人生はないんだよね」 例えば今こうしてギイと付き合ってることだって、誰かに言わせれば間違ってることなのかもしれない。 だけど、正しくなくてもぼくはギイと一緒にいたいと思う。 「他人から見たら駄目なことでも、自分にとって正解だって思えればいいってことなのかな?」 「そうだな」 ギイは何故か嬉しそうにぼくを見た。 「じゃ次、五つ目は『世間の常識と親の言うことを一度疑ってみる』六つ目は『10代の頃の両親をイメージする』」 親の言うことを一度は疑ってみる、か。 もとより、ぼくは親の言うことを信じてなかったような気がする。 何より兄さんのことを大切にしていた両親が、ぼくに対して言うことなんてどこまで信じていいか分からなかったから。兄さんが亡くなってからは特にそうだ。 黙り込んでしまったぼくの肩をギイが引き寄せる。 「オレはさ、物心ついた頃から周りの誰のことも疑ってばかりだった。かろうじて親のことは信用してるけど、でも自分とは別の人間だとも思ってる。誰かを100%信用するって難しいことだよ。託生だけが特別じゃない」 「・・・ギイは、ぼくのことも疑ったりする?」 Fグループという大企業をゆくゆくは継ぐというギイ。 自分は冷たい人間かもしれないなんて口にしたこともある。 今の言葉で、じゃあぼくはどうなんだろうと思ってしまったのだ。 ギイは驚いたように目を見開いて苦笑した。 「託生の何を疑う必要があるんだ?」 「それ、馬鹿にしてる?」 「違うよ。オレは自分が愛してる人のことまで疑うような人間にはなりたくないってこと」 「うん・・・ごめん・・・」 「オレこそ変なこと言った。ごめんな」 ううん、とぼくは首を振る。 「ねぇ、10代の頃の親なんて想像したことある?」 沈んでしまった空気を変えるために、ぼくは明るく聞いてみた。 「ないなぁ。親ってさ、生まれた時から親だしさ。今のオレたちと同じ年齢の時があったなんて想像したりしないよな」 「だよね」 くすくすと笑って、そう言えば親の若い頃の写真も見たことないなぁと思う。 「あれだよな、親にもオレたちと同じような高校時代があったわけだから、同じような悩みもあって、だから何でもできるなんて思っちゃいけないってことなのかな」 「うーん、そうか、そうだよね・・・」 だから間違いも犯すし、弱いとこもあるってこと? だめだな、まだ親のことを冷静に考えることはできそうにない。 もっと大人になったら、ぼくは両親のことをもっと心穏やかに話せるようになるのだろうか。 「託生、次行く?」 「うん、ねぇそれっていくつあるの?」 「17」 「え。そんなにあるの?10代でしないといけないこと」 「しないといけないことじゃなくて、しておきたいこと」 ギイは笑って訂正すると、そして次からはもっと軽いことだから、と言った。 「七つ目、『好き嫌いをはっきりさせる』。託生はできてるよなー」 「そうかな?そういうギイだって好き嫌いははっきりしてるよね」 「じゃ、これは二人ともクリアってことで」 うーん、いいのかな。まぁ好き嫌いがはっきりしてるっていうのは悪いことじゃないよね。 「八つ目。『将来、何で食べていくか考える』九つ目『何を学ぶか考える』」 「考えたことない」 きっぱりと言うと、ギイが呆れたようにぼくを見た。 「そろそろ考えた方がいいだろ?」 「そうなの?だってまだ大学のことですら考えてないんだけど」 「大学選ぶにしてもさ、どんな職業につきたいかによって左右されるし、何を学ぶかも変わってくるだろ?」 「まぁ・・・そうだよね」 それは分かってるけど。確かにもう高校二年だし、ちゃんとそういうの考えないと駄目なんだろうなって思うんだけど。上手く考えられないんだ。 ギイはちゃんと考えてるんだろうな。大学とかどうするんだろう。 そんなことを考えるとちょっと不安にもなってくる。 だってギイはアメリカ人だから。 卒業したら離れ離れになることもあるのかな、って。 「まぁそのうち嫌でも決めなきゃいけない時がくるからさ、もうちょっと時間かけて考えるのもありだよな」 「うん、そうだよね」 ああ、こうして考えると、ぼくって何もできてないなぁ。17個もあるのにまともにできてるものなんてほとんどない。 ギイはちゃんとクリアしていってるっていうのに。 大丈夫かなぁ、ぼく。 「じゃあ次な。『一生を左右する本や映画と出合う』。託生は本も読んでるし、最近は一緒に映画もよく行ってるし、これはって思うものあるんじゃないのか?」 「そうだね。一生を左右するっていうほど大げさじゃなくても、考え方が変わるようなものとかはあったかも」 「オレもそういうのはあるかな。じゃあこれは二人ともクリア。じゃあ次は『幸せで素敵な大人と出会う』」 「幸せで素敵な大人かー。ギイは島岡さんとか?」 「島岡?」 「だって素敵な大人の人だよね?」 ぼくが知る限り、島岡さんはギイとまるで友達のように付き合っていて、ぼく自身は島岡さんと親しいわけでも何でもないんだけど、仲がいいんだろうなぁって思うのだ。 お父さんの秘書をやってるっていうくらいだから、頭のいい人なんだろうなって思うし。そんな素敵な人と兄弟のように仲のいいってことを羨ましく思う。 「そうだなぁ、じゃあそういうことにしておくか」 「何それ」 照れ隠しなのか、適当な相槌を打つギイに笑ってしまう。 「ぼくはまだそういう大人の人には出会ってないな」 「じゃあこれからの出会いに期待、だな」 「うん」 そういう大人の人に出会うのも楽しみだけど、ぼく自身も幸せで素敵な大人になれたらいいのにな、と思うのだ。 「次は、『一生つきあえる親友を見つける』。託生は片倉?」 「そうだね、ギイは赤池くん?」 「相棒だからな、親友でもあるよな。でも、章三は託生の親友でもあると思うけどな」 「え?」 赤池くんが? そうなのかな。もしそうだとしたら、何かちょっと嬉しいな・・・ 「オレたちどっちも祠堂で親友を見つけたんだなぁ」 「高校時代の友達は一生の友達になるんだって」 「ああ、そうだよな」 ギイがどこか感慨深くうなづく。 卒業したらきっとなかなか会うこともできなくなるだろうけど、それでもずっと友達でいたいと願えば、絆は切れることはないんじゃないだろうか。 「よし、じゃあ次な『外国語を習う』」 「・・・英語の授業」 「じゃなくてな、お前、もうちょっと真剣に英語がんばってくれよ」 「どうして?」 「将来、オレとNYで暮らすことになるかもしれないだろ?」 えー。NY??? 「ないよ」 「即答するな」 ギイがむぎゅっとぼくの頬を摘む。 だって、NYだなんて考えたこともないし、だいたい行ったことすらないんだよ? それに英語は苦手だし。どっちかと言うと行きたくない。 「はー。こんな冷たい恋人を持つオレって不憫。かーわーいーそー」 白々しくギイが溜息なんかついてみせる。 「うるさいよ、ギイ」 ぼくはどんっとギイの肩に自分の肩をぶつける。 「まぁ、そういうとこ、託生らしいけどな。しょうがない、おいおい行きたくなるように仕向けていくか。じゃあ次。『初めての旅に出る』」 「旅かー。実はあんまり行ったことないんだよね。家族旅行の記憶もないなぁ」 何しろ兄さんが病気がちだったし、そんな遠出はしたことない。 そういうものだと思ってたから、寂しいなんて思ったことはないのだけれど。 「ギイはあちこち旅をしてるよね」 ロシア以外は行ったことあるんだよね?この年でそれってすごいよね。 「旅じゃない。あれは単なる移動。旅ってああいうのじゃなくて、訪れた場所のことをもっと知るようなさ。なぁ託生、今度オレと旅に出よう?」 旅に出るって、旅行とはちょっと違う響きだよね。何ていうか、楽しいだけじゃない何かもっとわくわくするような。それがギイと一緒ならもっとエキサイティングなものになりそうだ。 「行きたいな、ギイと旅」 「よし、じゃ約束な」 「うん」 じゃあ次な、とギイが雑誌に視線を落とす。 「『夢を生きる』」 「夢を生きるってどういうこと?」 ぼくが聞くと、ギイもうーんと少し考えた。 「やりたいことを好き勝手にするっていうのとはちょっと違うよな、自分の夢のために努力するっていう感じかな」 「ああ、なるほど」 「託生はどう?託生の夢ってなに?」 夢か。 そうだよね。夢のために努力するには、まず自分の夢が何かちゃんと分かってないと駄目だよね。 ぼくは夢について考えてみた。 「前は・・・ギイと出会う前は、夢なんて考えたことなかったし、ぼくにはそんな夢を描くなんてことできないって思ってた。でもギイに会えたおかげで嫌悪症が治って、ほんの少し明るい未来みたいなものを考えてもいいのかな、って、そう思えるようになったんだ」 「・・・」 「もう一度バイオリンを弾けるようにもなったし、友達も増えた。去年のぼくからすれば、それだけでも夢みたいなことで、その先って正直まだ真剣に考えたことないんだよ」 ギイはぼくの手を掴むと、きゅっと握り締めた。 「どんな夢を描いたっていいんだ。叶いそうにないものだって。夢ってそういうものだからさ」 「うん」 「それに、託生の未来は明るいに決まってるからな。何しろオレと一緒なんだから」 「そうなの?」 自信たっぷりのギイの言葉にぼくは思わず笑ってしまう。 「そうだよ。少なくともオレは、ある意味決められたレールの上を走るしかない人生なのかって思ってたけど、託生のおかげで夢をかなえるために頑張ろうって思えるようになった。オレも託生のおかげで明るい未来を考えられるようになったんだ」 「ギイの夢って何なの?」 そういえば聞いたことないな、と思って尋ねてみると、ギイはちょっと考えた後、 「内緒」 と笑った。その笑顔があまりに綺麗だったものだから、ぼくはうっかりと赤くなってしまった。 「託生、顔が赤い」 「うるさいよ」 「変なヤツ」 くすくすと笑うギイは絶対分かってて言ってるに違いない。やなヤツだ。 「じゃ次、『運命について考える』」 「ああ、うん。それは、ある、かな」 「ふうん」 「ギイは?」 「あるよ」 「ふうん」 「・・・・」 「・・・・」 何となく同じことを考えてそうなので、それ以上追求することはやめた。 だってぼくの想像が正しければ、ギイのことだからめちゃくちゃ恥ずかしいことを言いそうだから。 「次で最後だよね、17個目」 「そうだな」 「何だか、ここまでの内容で、ちゃんとできてるものの方が少ないなぁ。ギイはできてることの方が多いよね」 「できてるっていうか、まぁ考えたことがあるって程度だけどな。でも託生、10代ってまだあと2年もあるんだぜ?できそうかなって思うヤツはチャレンジしてみたらいいし、駄目でも何の問題もない」 「うん、そうだね」 「で、最後な」 ギイはどこかニヤついた顔でぼくを見る。 「なに?」 「いや、これは託生もクリアしてるなぁと思って」 え、何だろう。ギイはぼくの顔を覗きこむと静かに言った。 「『恋をする』」 その甘い響きに、ああ、とぼくは笑ってしまった。 「恋してる?託生」 「たぶんね」 「たぶん?」 ギイがぼくを抱きかかえるようにして、くるりと体を反転させた。 あっという間に組み敷かれてしまい、真上にある綺麗なギイの顔にドキリとする。 「何だ、たぶん、て」 ギイが拗ねたように唇を尖らせる。 「重たいよ、ギイ」 「託生、恋してる?」 「してるよ」 「オレに、してる?」 何だよ、その質問。 ギイ以外に誰に恋してるって言うんだよ。 そんなこと今さら言わなくても分かってるくせに。 気恥ずかしくて口にはできないぼくに、ギイはふと思い出したように言った。 「これさ、20代、30代、40代って、それぞれの世代でしておきたいことっていうのがあるんだ」 「へぇ」 「その世代になったら、また一緒に確認しような」 「うん」 「一人じゃ無理なことでも、二人でならできることもあるかもしれないだろ」 例えば「恋をする」のように。 うなづくぼくに、約束、と言ってギイはそっと口づけた。 それはまるでこれから先もずっと一緒にいようという約束のようで嬉しくなる。 10代でしておきたいこと、その一つをきみとできてとても嬉しい。 こんな風に、20代、30代と、同じ時を一緒に過ごしていけますように。 ぼくは目を閉じて、心からそう思った。 |