「あれ?」
ここはどこだろう、と一瞬自分がどこにいるのか分からなくて、周りをじっくりと見渡し、ようやくここが祠堂の保健室なのだということに気づいた。 部屋の中には誰もいなくて、ぼくはいったい何が何だか分からなくて、しばらくベッドに横になった体勢のまま記憶を辿った。 「そうだ・・屋上で・・・え、っと・・・」 ギイと一緒に屋上にいたんだ。ギイが眩しい笑顔でぼくのことを愛してると言ってくれて。 それから・・・ 一気に蘇った記憶に、ぼくは心臓が掴まれるような痛みを感じて、勢いよく起き上がった。 とたんに頭がずきんと痛んだ。 「いった・・・」 手をやると、包帯が巻かれていることに気づいて、怪我をしたのかと肩を落とす。 傷の痛みよりも、自分とギイの身に降りかかった出来事の記憶で動悸が激しい。 ギイはどこにいるんだろうとベッドを抜けようとしたとき、がらりと保健室の扉が開いて、中山先生が姿を見せた。その後ろには松本先生もいる。 「お、気づいたか葉山」 「先生」 白衣を翻してぼくに近づくと、立ち上がろうとしていたぼくの肩を押し返した。 「動くんじゃない。頭打ってるんだぞ」 「あの、ギイは・・・そうだ、絵利子ちゃんも・・・」 中山先生は眉を寄せて、どこか困ったような表情を見せ、だけど何も言わずにぼくの傷の具合を確認し始めた。 「先生」 「いいから、ちょっと動くんじゃない」 ぴしりと言われては逆らえない。確かに怪我はしているし、正直なところ頭以外も身体のあちこちが痛い。打ち身なんだろうけど、だけどそれほどの怪我だとは思えない。 だけどとりあえずは中山先生のされるがまま、大人しくすることにした。 その様子を松本先生が心配そうに見守っていた。 どんな時でも冗談を言ってその場を和ませる松本先生が無言なのも気になった。 二人ともどこか緊張しているようにも見えて、ぼくの怪我ってそんなにひどいものなのだろうか、と少し不安になってしまった。 けれど、怪我の様子を見終わった中山先生は「大丈夫そうだな」とうなづき、 「だが、頭は怖いから、このあと病院に連れていくよ」 と言った。 祠堂は山奥にあって怪我をしてもすぐに病院に行けるような環境ではない。だから医師免許を持つ中山先生が常駐しているのだけれど、それでも検査できるような設備が整っているわけではない。 だから緊急性がある場合は、先生の車で提携している街の病院へと行くことになっているのだ。 ぼくの怪我はたいしたことはない。じゃあギイはどうなったんだろう。 「松本先生、あの・・・ギイは?えっと、ギイの妹の絵利子ちゃんも無事なんですか?」 「ああ、葉山が庇ってくれたおかげで、無事だよ。かすり傷ひとつないよ」 「よかった」 あの時、突然ギイに襲い掛かってきた朝比奈珊瑚。 そばに絵利子ちゃんがいた。それからのことははっきりと覚えていないんだけど、無意識のうちに身体が動いていたように思う。 ギイと絵利子ちゃんを守らなくちゃと思って。 「・・・朝比奈・・くんは?」 まさかぼくが怪我をさせてしまった、なんてことはないだろうか。 松本先生は渋い表情のままため息をついた。 「興奮状態が続いているから、生徒指導室で島田先生がついておられる」 「怪我とかは?」 「・・・・」 「ぼく、何か・・・」 無我夢中で覚えていないけれど、彼に対して何かしてしまったのだろうかと手が震えた。 松本先生はそうじゃなと首を振った。 「いや、葉山じゃない。崎がな・・」 「え?」 ギイが? 「朝比奈は葉山に手を出そうとしたらしく、それを見た崎が朝比奈を殴ったんだよ」 「ギイ・・・」 思いもしなかった事実に、ぼくは息を飲んだ。 祠堂ではどんな理由があるにせよ、暴力沙汰はご法度だ。停学だったり、下手をすれば退学になるっていうのに。 「先生、ギイは悪くないんです。あの時・・ぼくを守ろうとして・・・きっとそうなんです。朝比奈くんのことを傷つけようとか、そんなことを思って殴るようなギイじゃないっ」 「分かってるよ。落ち着け、葉山」 「だけどっ」 「葉山」 松本先生は中山先生に何か目配せすると、小さくうなづいた中山先生は保健室を出て行った。 ギイはどこにいるんだろう。 暴力を振るったのなら、ギイはゼロ番で謹慎させられているのだろうか。 ギイに会いたい。会わなくちゃ。 居ても立っても居られなくて、ぼくは松本先生を押しのけて保健室を出ようとした。 「葉山っ」 その腕を取られて、ぼくは思わずその手を振り払ってしまった。 「葉山。時間がないんだ」 「え?」 「今からここに、崎が来るから」 「・・・・」 辛い思いを絞り出すように、松本先生がぼくから視線を逸らす。 何だろうか。 何だかすごく嫌な予感がしてならなかった。 ここにギイが来る。 暴力事件を起こして、謹慎しているであろうギイが、いくら先生たちから絶大な信頼を寄せられているからといって、そんなことが許されるのだろうか。 だけどギイに会いたい。 無事だということを、ギイに会って確認したい。 絵利子ちゃんのことも。ちゃんとギイの口から大丈夫だよと聞きたかった。 ギイがここに来てくれるというならそれでも良かった。 ほどなく保健室の扉が開き、中山先生に連れられてきたギイが姿を見せた。 「託生っ」 ギイはぼくへと駆け寄ると、人目をはばからずぎゅっと抱きしめてきた。 あまりの力強さに怯みながらも、ぼくはおずおずとギイの背に手を回した。 「ギイ、よかった・・・無事だったんだね」 「・・・・っ」 ギイは無言のままなおもぼくのことを抱きしめる。 こんなところ、先生の目の前でするのはどうなんだろう、とぼくがギイの身体を押し返すと、松本先生がちらりと壁にかけられた時計を見た。 「崎、時間がない」 「・・・わかってる」 「10分だけだ」 「・・・15分。松本先生、15分だけ。頼む」 ギイの真剣な声色に、ぼくはぎゅっと彼のシャツを握り締めた。 松本先生はわかったよ、と頷いて中山先生とともに保健室を出て行った。 二人きりになると、ギイはぼくの頬を両手で包み込んだ。 「怪我は?大丈夫か?」 「平気だよ。かすり傷・・・だと思うけど、このあと病院に行くみたい」 「そうか・・」 「ギイこそ、朝比奈くんのこと殴ったって」 ギイの右手にはぼくと同じように包帯が巻かれている。人を殴ったことなんてないけれど、殴られた方だけじゃなく、殴った方もそれなりに怪我をするものなのだろうか。 ぼくはそっとギイの右手に触れた。ギイはぼくの手を握ると、 「殺してしまうところだった」 「ギイっ」 不穏な発言に、ぼくは思わず声を上げた。 「自分でも驚いてる・・・お前が襲われたのを目にしたら、かっとなった。自分で感情をコントロールできないなんて初めてだった。お前に何かあったら・・・オレは・・」 「ギイ・・・大丈夫だよ。馬鹿だな、殴っちゃうなんて・・・下手したら退学だって知ってるだろ?」 もちろんそんなことにはならないだろう。だってどう考えてもギイに非はないのだ。 しばらく謹慎になるかもしれないけれど、それくらいの処分は仕方がない。 「託生」 ギイはぼくをベッドに座らせると、その隣に腰を下ろした。 「託生のおかげで絵利子は無事だったよ。かすり傷ひとつない。ありがとな」 「ううん、よかったよ」 「ちゃんと顔を合わせてお礼を言いたいって言ってたけど、今はちょっと無理っぽいから、それはまた次に会った時にな、ごめんな」 ギイが本当にすまなそうに言うから、大丈夫だよと笑ってみせた。ギイが誰より大切にしている妹の絵利子ちゃん。女の子が怪我なんてしたら大変だ。無事で本当に良かった。 「・・・・託生」 「うん?」 「ごめん」 「・・・何が?」 今回のこと?たぶんぼくが動かなくてもギイならもっと上手に・・・誰も怪我することなくあの場をおさめられたから? それとも我を忘れて朝比奈くんを殴ってしまって、謹慎・・・もしくは停学になってしまうこと? そのせいでしばらく会えなくなるから、だからごめんって言ってるの? 何も言わないギイに、ぼくは少し怖くなった。 松本先生の様子もおかしかったし、こんなのちょっとした事故のようなものなのに、どうしてそんな暗い顔をしているんだろう。 「託生・・・これから・・・しばらく会えなくなる」 「・・・・」 「オレはこのままアメリカに戻らないといけなくなった」 「・・・何で?」 帰る?アメリカに? いったい何の冗談だろうか。 退学ってこと?ギイがぼくを庇って朝比奈くんを殴ったから?そのせいで退学になるってこと? 「待って、ぼく、先生にちゃんと話を・・・説明をするからっ。ギイは悪くないって・・・っ」 「違うんだ、託生。今回のことは・・・今回のことだけが原因じゃない。もう、ずっと前から決まっていたことだったんだ」 ギイの言うことが全然理解できなかった。 卒業したら、ギイはアメリカに帰ることはぼくだってちゃんと知っている。 だけどまだ卒業まで半年近くあるじゃないか。 このタイミングで帰るなんて話、聞いたことなかったじゃないか。 「ギイ・・・何言ってるのか全然わからないよ」 「・・・時間がないんだ。託生、オレの話を聞いてくれ。こんな形で、打ち明けるつもりはなかった。秋休みも、一緒にいるつもりだった。その時にもっと時間をかけて、お前と話をするつもりだったんだ」 「・・・」 これから打ち明けられることが何であれ、ぼくには辛い話なのだということは気づいていた。 聞くのは怖い。 だけど、それを聞くぼく以上に、話をしなくてはならないギイが辛い思いをしていることも分かるから、ぼくは聞きたくないと言いそうになることを必死でこらえていた。 ギイはぼくの手を握ると、うつむくぼくに静かに話しかけた。 「もともと、卒業まで・・・いや、3年のこの時期まで一緒にいられる予定じゃなかった。最初からそういう約束で祠堂に留学させてもらった。だけど託生と恋人同士になれて、もっと一緒にいたくて、ずるずると帰国を延ばしていた。両親との約束を中途半端にしていたのはオレが悪い。上手く説得できるはずだって、勝手におかしな自信を持ってて、オレがやり方を間違えた」 「・・・・」 「夏休みに話し合って、秋休みまでって、それが限度だって言われて、さすがにこれ以上はもう無理だなって思った。だから託生にその話をしようって思ってた。少し早いけど、一足先に祠堂を卒業するからって」 「最初から?最初から卒業まではいられないって分かってた?そんな大事なこと、どうして言ってくれなかったんだよ」 そんな素振り見せたことなかった。 ずっと一人で抱えていたなんて、気づきもしなかった。 「・・・言えなかった。何とかならないかって往生際悪く考えてたし、託生に寂しい思いさせるって分かってたから。だけど、ちゃんと話すつもりだったんだ。話をして、二人この先どうすればいいかも考えようって思ってた・・・でも・・・」 「・・・」 「今回のことで、もう秋休みまでっていう猶予はもらえなくなった。このまま、この部屋を出たら、その足でオレはアメリカに帰国する」 「今?このまま帰っちゃうの?嘘だろ?だって、そんな・・・」 あまりに突然すぎて気持ちの整理どころか、理解するのも追いつかない。 「ぼくのせい?ぼくを守るために、ギイが朝比奈くんを殴っちゃったから?だから・・」 「違うよ。託生のせいじゃない。絵利子を守ってくれて、むしろ感謝してるくらいで、誰も託生のせいだなんて思っていない。だけど、謹慎にしろ停学にしろ、ちょうどいいからこのまま帰国しろって言われたら反論できない。祠堂にいる間、もし何か問題を起こしたら即帰国っていうのも、約束のひとつだったから」 それでも、本当ならこんな急に、誰にもお別れを言えずに帰国するなんて。 そんな予定じゃなかったはずだ。 「嫌だよ、ギイ・・・」 思わずそんな言葉が零れ落ちた。 「このまま・・・こんな別れ方嫌だよ・・・」 「託生」 ギイがさらに強くぼくの手を握り締める。よく知っているギイの温もり。 少し前まで、卒業したら遠距離か・・・なんてぼんやりとは思ってた。 まだまだ先の話で、卒業してからの付き合い方を考えるのはもっと先でいいって思ってた。それが、いきなり今すぐ考えろと言われてもどうすればいいか分からない。 「ぼくが・・・覚悟を決めなかったから?ぼくが、ちゃんとギイとの将来を考えなかったから?まだまだ先のことだからって、進路のことも、その先のことも、ギイはちゃんと考えてくれてたのに、ぼくが曖昧な態度でいたから?」 「違うよ」 「一緒にいたいんだって、ちゃんと言葉にしていれば良かった?」 そうすれば、ギイはぼくに話をしやすかったのかな。 そうすれば、もっと早いうちに二人で将来のことを考えることができたのかな。 今まで適当にしていたつもりはないけれど、もっと二人でいる時間を大切にできたのかな。 今さら後悔しても遅いけど、もっともっとこれからのことを考える時間はあったというのに、ぼくはそれから逃げていたのだ。 「一緒にいたい・・・ギイ」 ついさっきまで、ギイがぼくのために日本に残るのは駄目だと思っていたし、ぼくがついていけないのなら、快く送り出さなくちゃと思っていた。それは嘘じゃない。本当にそう思ってた。 だけど、こんな形でいきなり離れ離れになるなんて思ってもみなかったから。 じわじわと目元が熱くなり、溢れた涙がぱたぱたと手の甲に落ちた。 「ごめっ・・・我儘・・言うつもりない・・のに・・・」 ギイはこつんとぼくの額に自分の額をくっつけると、 「泣くなよ」 と小さく言った。 辛そうなギイの声に、涙は止まるどころか次から次へと溢れてくる。 分かってる。これは永遠の別れなんかじゃない。ただあまりに突然だったから、心がついていかないのだ。 ギイと一緒にいたい。 今になって、それが本当に本当にぼくが一番望むことなのだと気づいた。 「このまま一緒に逃げようか」 「・・・・」 「託生がそうしたいって言うなら、オレは・・・」 ぼくは力いっぱい首を横に振った。 もしぼくがそうしたいと言えば、本当にギイはここからぼくを連れ出すだろう。ギイのことだから、ありとあらゆる手を使って、二人で生きていけるようにするんだろう。 だけど、それはギイが本当にしたいことじゃない。ぼくだって同じだ。 ただ一緒にいたいからというだけで、ギイが本当にやりたいことを、彼の人生をダメにはしたくない。 そんなことくらい分かっているはずなのに、逃げようなんて口にしてしまうくらい、ギイが弱っているのが何よりも辛かった。ぼくよりも、ギイの方が傷ついてる。 今のこの現実から逃げたいと思うくらいに。 だけど、ぼくはギイを引き留めてはいけないんだ。それはしちゃいけない。 みっともなく泣いてしまったけど、ぼくは濡れた頬を拭って顔を上げた。 「ただの遠距離恋愛だろ?ギイ」 「・・・・」 「そうだって言ってよ」 「・・・・そうだな。ただの遠距離恋愛だな」 離れていても、気持ちが変わることなんて絶対にない。 「毎週、会いにきてくれるんだよね?」 「・・・・」 「毎晩、電話だってくれるんだよね?」 以前そうしてくれたように。ギイがそう言ってくれたように。 ギイから言われた時は、そんなことって思ったけど、だけど付き合いだしてから、長く離れることなんてなかったから、本当にそうなることを思うと堪らなく不安になる。 「しばらくは・・・無理かもしれない・・・」 「しばらくってどれくらい?」 「・・・」 「一か月とか?」 「・・・」 「一年とか?」 答えないギイに、それ以上を聞くことができなくなった。 ギイにもきっと分からないのだ。いったいどれくらいの時間があれば、また今までみたいにぼくと一緒にいられるのか。 できない約束はしない人だから、だから何も言わないのだ。 二年?三年?そんなに長い間、ギイのいない毎日を耐えることができるのだろうか。 「何の約束もできなくてごめん。待ってて欲しいだなんて、オレが言える立場じゃないことも分かってる。託生にしてみれば、何がなんだか分からないことばかりで、オレのこと信じることなんてできないかもしれないけど、だけど、待ってて欲しい。次に会えた時には、全部ちゃんと話すから。託生が知りたいって思うこと、ひとつだけじゃなくて全部答えるから。こんなことしか言えなくてごめん。だけど、オレのこと・・・好きでいて欲しい」 「・・・っ」 「オレのこと待っていて欲しい」 他人が聞けばきっとバカバカしい一方的な言い分だと思うのかもしれない。 ギイの事情は何も聞けないままに、いつまで待てばいいのかも分からず、会えない時間もただ好きでいて欲しいだなんて。だけどギイの想いはすべて伝わってくる。 離れてしまうことへの不安な気持ちも、寂しさも、やるせなさも、ぼくが感じていることはすべてギイも同じように思っている。 ギイは今まで何度もぼくにこの先どうしたいのかを聞いていた。 将来のことも含めてちゃんと話がしたいと言っていた。 それを先延ばしにしていたのはぼくだ。 ギイは何も悪くない。 逃げていたのはぼくの方だ。 覚悟をしなくてはいけないのがぼくの方だ。 大丈夫。 ちゃんと繋がっていられる。 お互いが同じ気持ちでお互いのことを想っていられるのだから、心配することなんてないのだ。 「待ってるよ」 ぼくは間近にあるギイの淡い色の瞳を真っすぐに見つめ返した。 「ずっと待ってる。当たり前だろ。卒業したら遠距離恋愛するって言ってたんだから、しばらく会えないのは覚悟してたよ。それが少し早くなっただけ。一年や二年会えないくらい我慢できるよ。今度会う時までに、ちゃんとギイとの将来のことも考えるから。ちゃんと覚悟も決めるから。会えないのは寂しいけど、だけど、これが最後じゃないよね?必ずまた会えるよね?」 「当たり前だろ」 ギイが笑顔を見せて、ぼくのことを胸に抱きしめた。 甘い花の香り。 大好きなギイの温もりも、匂いも、ぼくはずっと覚えていられるだろうか。 「待ってて、託生。二十歳になったら、オレ、託生のこと強奪しにくるから」 「はは・・・じゃあ2年だけ待てばいいの?ほんとに?」 「2年で会えるように頑張るよ」 「ギイ」 「うん?」 「ギイ、ぼくのこと好き?」 一番知りたいギイの気持ち。今、現在の。 これから先、会えない時間に負けずに乗り越えるために、どうしても聞いておきたい。 屋上で同じことを聞いて、もちろん答えなんて分かってるけど、だけどもう一度ギイの口から答えを聞きたい。聞いておきたい。それがぼくが頑張れる唯一の縁になるはずだから。 「・・・何度も聞かされて耳にたこかもしれないが」 同じ前置きをして、ギイが小さく笑う。 「オレは、託生を、愛してます」 「うん」 また涙が溢れてどうしようもなくなった。 笑ってまたね、と言わなくてはいけないのに、ギイの顔をちゃんと覚えておかないといけないのに、涙が溢れてちゃんと見えない。 「ぼくも・・・ギイのこと・・・愛してます」 誰よりも何よりも。 覚えていてギイ。 ぼくはギイのことが誰よりも大好きで、少しくらい会えないからって気持ちが変わることなんて絶対なくて、何があってもギイのことを信じていることができるんだって。 同じように、ギイは誰よりもぼくのことが好きで、少しくらい会えなくたって気持ちが変わることなんてなくて、ちゃんとぼくのことを信じてくれている。 そう信じることだってできる。 ギイがぼくのことを愛しているって言ってくれるから、ぼくはちゃんとそう思える。 大丈夫。 寂しくても、辛くても、ぼくはずっとギイのことを好きでいられる。 ギイがそっとぼくにキスをする。 愛してるよ、と伝えるために、ぼくもギイにキスを返した。 きっかり15分で松本先生がやってきて、ギイは最後だから遠慮することもなくなったのか、堂々とぼくに最後のキスをして、保健室を出て行った。 あっけない別れだった。 誰もいなくなった保健室で一人、ぼくはたった今の出来事がまだ現実のものとは思えなくて、しばらくぼんやりとしてしまった。 本当にギイは行ってしまったのだろうか。 冗談だよって、ゼロ番に行けば姿を現わすんじゃないだろうか、とそんなことを考えてしまう。 「ギイ・・・」 溢れそうになる涙を必死に堪えた。 遠距離恋愛が少し早く始まっただけなのだから、何も心配することはないし、不安に思うこともないのだ。 ただちょっと、いきなりすぎたから気持ちがついていかないだけだ。 そのあとはギイとの別れを悲しんでいる暇もないほどに慌ただしかった。 松本先生と入れ違いに戻ってきた中山先生に連れられて、車で麓の街の病院へ行き、精密検査を受けることになった。 問題なしとの結果をもらい、再び祠堂へ戻ってきたときにはもう文化祭は終わっていた。 ギイが帰国したことも、朝比奈くんの事件のことも、まだ誰も知らないようで、寮はまだ文化祭の熱が冷めやらず、ふわふわとした雰囲気に包まれていた。 ぼくが怪我をしたことは、同室の三洲には伝えられたようで、もし夜中に何か異変があったらすぐに中山先生に連絡をするように、と厳命されたようだった。 三洲はぼくが怪我をした理由までは知らされなかったが、何かあることは感じとったらしく、深く言及してくることはなかった。 「ごめん、三洲くん、いろいろ迷惑かけちゃって」 「いいさ。早く寝た方がいい。疲れた顔してるぞ」 「うん、そうだね」 確かに一日が長くて、何だか疲れてしまった。 もうこの上の部屋にギイはいないのだと思うと、知らずとため息がもれそうになる。 ギイは今頃飛行機の中なのだろうか。何を思っているのだろうか。 疲れてはいるものの、つらつらとそんなことを考えていると眠れそうにない。 何しろまだ消灯まではずいぶん時間があるのだ。 三洲はぼくに背をむけて机に向かっている。いつもの背中を見ていると何故かほっとした。 明日、ギイが帰国したことが知れれば、きっと学校中が大騒ぎになるのだろう。 先生方がどんな風に伝えるかは分からないけれど、勝手な憶測でギイのことを噂されるのは嫌だな、と思っていると、ふいにノックの音が聞こえて三洲が立ち上がった。 「おや、めずらしい」 ぼくがベッドの中から扉の方へと視線を向けると、そこには章三が立っていた。 よぉといつものように軽く手をあげると、章三は三洲へと顔を向けた。 「三洲、悪いが少し席を外してくれないか。葉山と二人で話したいことがある」 「・・・かまわないよ。一時間ほどで戻る」 三洲は章三とは比較的友好関係を結べているので、嫌味ひとつ言うでもなく、あっさりと頼みを受け入れて部屋を出て行った。 章三はベッドの脇に椅子を引き寄せて腰をおろした。ぼくも起き上がって章三と向かい合う。 「怪我したって?大丈夫か?」 「うん。怪我したこと、誰から聞いたの?」 「ギイだ」 「・・・ギイに会ったの?」 章三は顔の前で手を合わせると、小さく息を吐いた。 「本当に運が良かった。たまたまちょっと用があって寮に戻ってたんだ。ギイがえらく慌てた様子で僕のところへ来て、今からアメリカに帰国することになった、もう戻ってはこないって言うから、何の冗談かと思った」 「うん」 「時間がなくて、本当に一言二言しか交わせなかった。葉山が怪我をしたこと、ギイが帰国すること、たぶん、しばらくは会えなくなること。何が何だか分からなくて、呆気にとられたよ。あいつ、本当に最後までびっくり箱みたいなヤツだな」 「・・・そうだね」 「葉山のこと頼むって言われたよ」 「・・・っ」 ぼくははっとして章三を見上げた。 章三はどこか納得してないような、だけど諦めたような、そんな表情をしていて、驚くぼくに苦笑した。 「ギイがいなくなったあと、葉山が今まで通り頑張れるように、力になって欲しいって言われた。まったく、あいつは僕を何だと思ってるんだろうな。僕は葉山のお母さんじゃないんだぞ」 「・・・はは、ほんとにね」 「・・・大丈夫か、葉山?」 「大丈夫だよ。永遠のお別れってわけじゃないし、また会えると思うし」 章三はそうだなとうなづいた。 そして手にしていた大きな紙袋をぼくへと差し出した。 「なに?」 「ギイから」 受け取って、中を見ると、そこにはぼくがずっと使っていたバイオリンが入っていた。 紛失事件があったあと、ギイが預かってくれていたストラドだ。 永久貸与と言って、ギイがぼくに貸してくれている大切なバイオリン。 ギイ、時間のない中で、わざわざ章三に預けてくれたのか。 「大事なものだから、間違いなく葉山の手に渡るように僕を探していたらしい」 「うん・・・」 また涙が溢れてきて止まらなくなった。 泣き顔を見られたくなくて咄嗟にうつむく。 「確かに渡したからな」 「うん・・・ありがとう、赤池くん」 「最後に話はできたのか?」 「・・・少しだけ。たった15分だけど」 「僕は5分もなかった。言いたいことだけ言って、ハグして終わり。あいつ、今度会ったらただじゃおかない」 ハグなんて冗談じゃない、とでも言いたそう章三の口調に思わず笑ってしまった。 ギイは何だかんだ言っても章三のことを誰より信頼しているのだ。大事なバイオリンをぼくに渡すために、時間のない中、必死に章三を探したんだろう。文化祭でごった返す中、それでもちゃんと出会えてしまうあたり、さすがギイ。運を持っている。 「赤池くん」 「何だ?」 「寂しくなるね」 半年もすれば卒業で、みんなとも会えなくなる。 三年間一緒にすごした仲間たちと会えなくなるのは寂しいことだし、だからと言って避けられないことだとも分かっている。 ギイはアメリカへ帰り、ぼくは日本で大学へいく。 そう決めていた。 それがほんの少し早くなっただけなのに、どうしてこんなに辛いんだろう。 「葉山、そんなに心配することはないさ。あいつのことだから、何としてでもこの状況を変えてまた葉山に会いにくるさ。どうせ葉山だって遠距離になって会えないからって、ギイと別れることなんて考えないんだろ?だったらとりあえずは目の前にある問題を一つづず片付けていくのが一番いい。案外とそれが近道だったりする」 「そうかもね。ありがとう、赤池くん。赤池くんと友達になれて良かったな。卒業しても・・・ギイがいなくても仲良くしてよね」 「当たり前だろ。別にギイがいるから葉山と友達だったわけじゃない」 章三はあっさりと言うと、そろそろ戻るよと立ち上がった。 ギイがいなくなったことが知れれば、きっと章三もあれこれ聞かれて大変だろう。 だけど、相棒としては上手く騒ぎを収めるんだろう。 章三は帰ってしまい、ぼくはベッドに横になった。 目を閉じて、ギイのことを考える。 今度会える時、いったいいつになるか見当もつかないけれど、だけどその日は必ず来るから、だとしたら、その日までぼくは一人で頑張らなくてはならない。 ギイに恥ずかしくないように。 胸を張って、少しは成長した姿でギイの前に立ちたい。 ギイのいなくなった祠堂はそれまでとは全く違う学校生活になってしまった。 3年になってから、それまでのフランクなギイではなくなって、どこか近寄りがたい雰囲気を漂わせていたから、下級生たちからすれば雲の上の人だったかもしれないけれど、親しくしていた同級生たちからは、今回の出来事は青天の霹靂で、しばらくは悪意のない憶測が飛び交った。 朝比奈くんの犯した行為は知られることはなかったけれど、秋休みが終わってからも祠堂に復帰することはなく、密やかに自主退学をしたのだとあとから聞いた。 ギイがいなくなったことで、祠堂を去った下級生が数人いたらしいので、その一人だと思われているようだった。 朝比奈くんはギイのことが好きでどうしようもなかったのだ。 だけどその思いが叶うことがなかった時、恋心が憎しみに変わることもあるんだとぼくにも分かる。 共感はできないけれど、理解はできる。 彼がしたことは決して許されることではないけれど、でも責め立てることもできない。 ギイの突然の帰国の理由を、ぼくも章三もいろんな人から聞かれたけれど、本当に分からないからと言うしかなかった。実際、それは本当だったし。 基本的には平和な祠堂にとって、ギイの突然の帰国は大事件だったけれど、それでも1週間もすれば次第にみんないつもの生活へと戻っていき、特に3年生たちは受験に向けてまっしぐらの時期になったこともあって、誰もギイの名前を口にしなくなった。 まるで最初からギイがいなかったかのように思えて、ぼくはそのことで寂しさを感じないわけにはいかなかった。 そんなぼくのことを、矢倉も八津も政貴も、みんなが心配してくれた。 よっぽど落ち込んでしまっていると思われたのか、さりげなくぼくが一人にならないようにと、誰かしらが一緒にいてくれた。 一人でいるとどうしてもいろいろ考えてしまうので、他愛ない話をしてくれる友人の存在は本当にありがたくて、これはギイがぼくに残してくれたプレゼントの一つだと思った。 ぼくが怪我をした時、もちろん実家にも連絡がはいった。母はすぐにでもやってくると言い張ったようだけれど、何しろ山奥祠堂まで来るのはなかなか大変なので、病院での検査は問題なかったし、ぼくはわざわざ来なくてもいいよと電話で伝えた。 それでも次の日には祠堂にやってきて、ぼくの怪我の具合をあれこれと確かめた。 学校側の対応についても一通り説明を受け、何とか納得をして帰っていった。 そんな風に母親に心配されるのは少しくすぐったく、申し訳なくも思った。 下界よりも一足先に祠堂に冬がやってくる頃には、3年生たちは実家へ戻り、それぞれの受験にあわせて祠堂へ戻ってもいいし、戻らなくてもいいしという状況になった。 ぼくは須田先生のレッスンを受けていたので、冬休みに帰省をして、そのまま受験まで実家で過ごす予定だった。 バイオリンの練習一色の毎日だったけれど、久しぶりに少しばかり休息をすることになった。 その日は、同じ大学を受験する政貴と大学の下見をするために待ち合わせをしていた。 祠堂から音大を受験する人はほとんどいないので、政貴がいてくれるとずいぶんと心強かった。 「葉山くん、ずいぶん重装備だね、今日はそこまで寒くないと思うけど」 「えっ、めちゃくちゃ寒いよ。カイロ二つもってきた」 「ほんとに?まぁ受験の時には必要かもね、手がかじかんでちゃ演奏ができない」 「ほんとだよ」 白い息を吐きながら、キャンパス内をあちこち見学した。広々とした校内にはあちこちから楽器を練習している音が聞こえてくる。それだけで何だか気持ちが高揚してきた。 政貴もいい雰囲気だよね、とどこか嬉しそうだった。 一通り見終わったあと、校内のカフェ(食堂ではなくカフェがある)で温かい飲み物でも飲もうということになった。 「葉山くん、ギイから何か連絡あった?」 「ううん」 「そっか。今頃何してるんだろうね」 「ずいぶん無理言って祠堂にいたようだから、今頃両親のもとで、きりきり働かされたりするんじゃないかな」 「きりきりか」 政貴が笑う。 ギイがすでに大学卒業もしていたということを、あとから松本先生に教えてもらった。 だとすれば今さら学校へ行っているとは思えないし、もともとお父さんの仕事を手伝っていたことだし、やっぱり何かしらの仕事をしているんじゃないだろうか。 あのギイが何の連絡もしてこないということは、実はもっと大変な状況にあるのかな、とも思う。 心配は心配だけど、でも今は目の前の受験を無事終わらせなくてはいけない。 しばらくは会えないと言われているのだから、あれこれ気を揉んでもどうにもならない。 「それにしても、来年から交換留学制度が導入されるなんて、それも行先がニューヨークだなんて、これはもう何としてもつかみ取らないとね」 政貴が少しばかり興奮したように言った。 さっき受け取った大学案内のパンフレット。その中に交換留学のことが記載されていた。 ギイがいるニューヨーク。 大学生になったらアルバイトをしてお金を溜めて、何とかしてアメリカに行きたいと思っていたけれど、こんなチャンスがあるのなら、頑張らないわけにはいかない。 「でも、まずは合格しなくちゃね」 「うん、頑張ろう」 政貴と一緒にこの大学に通えるよう、あと少し頑張ろう。 ちらほらと校内を行きかう先輩たちは手に楽器を持っている。 音楽のことを専門で学べることができるなんて、今から楽しみだ。 ぼくは少しぬるくなったカップを両手で包み、やっぱりここに入学したいなと強く思った。 まだ合格するとも限らないけれど、新しい生活を初めて、新しい経験をして、今よりもっと強くなりたいと思う。 会いたいな、ギイ。 ふいにその思いが強く胸の奥に湧き上がった。 今度会った時には、ギイはぼくが知りたいことは全部教えてくれると言ったよね。 突然の帰国の理由も、アメリカに帰ってから何をしていたのかも、そしていったいいつからギイはぼくのことを好きでいてくれたのかも。 ぼくの知らないところで、ギイはぼくのことを見つけてくれていた。 いったいいつ、ぼくたちは出会っていたんだろう。 いったいいつ、ギイはぼくを見つけてくれたんだろう。 二十歳になったら、ぼくがギイを強奪に行くよ。 ギイがぼくを探し出してくれたように、今度はぼくがギイのことを探し出す。 そして今度会ったら、もう二度と離れない。 ぼくはギイのことが好きだから離れたくないのだと、誰に対しても胸を張って言えるくらい、強い大人になりたいと思う。 今思えば覚悟なんてとっくにできていたのだ。ギイを失うことなんてできないのだから。 「待ってて、ギイ」 今度はぼくが、会いに行く。 |