Precious Days 2



その次の日から、ギイの言う通り忙しさに拍車がかかった。
まさか実行委員がこんなに忙しいものだとは思ってもみなかったので、本当に毎日へとへとになってしまった。
ギイに指名されて、それほど深く考えずにOKした実行委員だったので、実は何をするかあまりよく分かってなかったのだ。
実行委員は言ってみれば裏方だ。そりゃもう何でもさせられるから、忙しくないわけがない。
おまけに実行委員の仕事に加えて、ぼくにはもう一つ、例のミニコンサート用の曲の練習もしなくてはならなかった。
利久の言う通り、クラシックではない、もっと馴染みのある曲をいくつか選択して、ぼくは放課後の実行委員の仕事が終わったあとに、バイオリンの練習をすることにした。
その頃には部活も終わっているので、音楽室の片隅を無断借用することにした。
譜面台もあるし、何より音楽室がある階は他の教室がないので人が少ない。
聞きにきてくれる人には申し訳ないとは思うのだけど、とにかく練習できる時間が少ないので、そこそこの練習で弾けるような曲にした。
「3曲もあればいいって、ギイは言ってたけど、どうしようかなぁ」
人前で弾くということを除けば、こんな風に何を弾こうか考えるのはけっこう楽しい作業だった。
手にした楽譜を眺めては、好きな部分をちょっと弾いてみたり。
今まで弾いたことのな曲を頭の中で鳴らしてみたり。
たった一人での作業だけど、それが楽しい。
ふんふん、と鼻歌まで出てしまう。
薄暗い教室の中、楽譜を眺めてあれこれとシミュレーションすることに没頭していたので、ギイが入ってきたことにはまったく気づかなかった。
ふいに後ろから抱きつかれて、ぼくは文字通り飛び上がらんばかりに驚いた。
あやうく手にしていたバイオリンを落とすところだ。
「ギ、ギイっ!!!!何だよ、もう・・驚かすなよ。心臓が止まるかと思った」
「はは、そんなに驚いたか?ごめんごめん」
ちっとも悪びれず、ギイはちゅっと音をさせて頬にキスをする。
「オレの仕事、今日は早く終わったからさ、久しぶりに託生と学食行くかなと思って誘いにきた」
「ああ、もうそんな時間なんだ」
壁の時計を見ると、もう19時。
道理でお腹が空くわけだ。
「託生、何弾くか決めたのか?」
「うん。利久の助言通り、みんながよく知ってる曲にした。さすがに歌謡曲とまではいかないけど、それほど難しくないから何とかなりそう」
「そっか」
手際よくバイオリンをケースに仕舞って、使っていた椅子と机を片付ける。
「お待たせ、行こうか、ギイ」
「・・・・」
「なに?どうかした?」
何だか嬉しそうにぼくを見るギイに、足が止まる。
そんなに夕食に行くのが嬉しいの?
もしかしてすっごくお腹空いてるのを我慢してるとか?
もう19時だもんね。
「ごめん、ギイ。先にバイオリンだけ部屋に置きに行きたいんだけど、それくらいなら我慢できる?」
恐る恐る聞いてみると、
「は?お前、何言ってんだ?」
ギイは吹き出した。ぼくの手からバイオリンのケースを取り上げると、肩を抱いて歩き出す。
「本番まであと二日だな。託生の演奏、楽しみにしてるからな」
「頑張るよ。ギイは二日間ウェイターするの?」
「一日目は午前中、二日目は午後に少しな。部活やってる連中はそっちの出し物でも忙しいし、オレたちみたいな帰宅部はクラスの出し物に貢献しないとな」
そう言って、ギイはいたずらっぽくウィンクしてみせる。
「とにかく、楽しい文化祭になるといいな」
「うん、そうだね」
ぼくにとってはほとんど初めての文化祭。
うん、とても楽しみだよ、ギイ。






そして文化祭当日。
普段祠堂に来客などほとんどないのだけれど、文化祭にはどういうわけか麓から大勢の人が押し寄せる。
離れて暮らす息子の姿を一目みようとやってくる両親たち。
年頃の息子たちとしては、特に来て欲しいとは思わないのだが、かといって絶対に来るなともいいにくい。
それに加えて、祠堂の文化祭での出し物はかなり力が入っていると評判で、それを知る麓の一般の人も遊びにくる。
さらに今年は妙に女の子たちの姿が多い。
原因はもちろんギイだ。
麓の女子高生でギイを知らない子なんていないんじゃないかなぁ。
とにかく目立つことこの上ないルックスのギイなので、去年ギイが祠堂に入学してすぐに、ギイの存在は女の子たちの間で広まったらしい。
今年の文化祭で甘味処をするということも、彼女たちはいち早く知るところとなり、ウェイターをするギイの姿を一目見ようという女の子たちが大挙して、2−Dの甘味処は朝から大繁盛だった。

(こんなに繁盛してるんだから、ミニコンサートなんてしなくていいんじゃないのかな)

なんて今さら言っても仕方ないんだけど。
実行委員の仕事で校内中を走り回っていたぼくは、ほんのちょっとできた時間にクラスへ立ち寄ってみた。ずらりと並んだ順番待ちの女の子たちに、一瞬怯む。

(ギイってもてるんだなぁ)

なんて、今さらながらに実感して、そしてそんなギイが自分の恋人だなんてことが何とも不思議な気がしてため息をつく。
教室へ入ると、そこはまさしく戦場なみの忙しさだった。
章三がその場にいる級友たちに的確に指示を出し、みんなテキパキとそれをこなしていく。
すごいなぁとぼんやり見ていると、章三がぼくを見つけた。
「葉山、いいところへ来た。手伝っていけ」
さっそく章三がクリームの入ったボウルを差し出す。
「え、悪いけど手伝えるほどの時間はないんだよ。ちょっと様子を見にきただけだし」
「何言ってるんだ。立ってるものは親でも使えっていうくらいの忙しさだぞ、お前のダンナのおかげでな」

(ダンナって・・・)

ここで口答えすると、また倍にして返されるのは目に見えてるので黙っておくことにした。
ぼくは客席となっている教室へとちらりと視線を向けた。
忙しなくオーダーを聞いているギイは、白いシャツに黒のベスト。何ていうか、そりゃもういつもよりずっとカッコよくて、そう見えるのは、恋人の欲目だけではないだろう。
客席の女の子たちの目がハートになっているように見えるのは錯覚ではなさそうだ。
それにしても。
「うわー。美味しそうだなぁ。さっすが赤池くん」
次々と完成していく甘味にぼくは思わず目が釘付けになる。どれもこれもとても綺麗で、女の子が喜びそうなデコレーションが施されている。さすが章三。味だけじゃなくて見た目でも勝負してるんだ。

(ああ、食べたい)

作る側より食べる側に回りたいよ。
「葉山ー、そんな顔したって、それは売り物だ」
章三が冷たく言い放つ。分かってるよ、それくらい。
がっかりしたぼくに、章三がくすりと笑う。
「・・・実行委員で忙しいだろうが、明日の夕方に来いよ。何か作ってやるから」
「え、ほんとに?やったね」
でもそんな特別扱いしてもらっていいのかな。そんな疑問が浮かび、それが表情に現れたのだろう。
聡い章三がすぐにフォローをしてくれる。
「心配しなくても。客寄せの芸出しをしてくれる連中に、労いのおやつを出すってギイが決めたんだよ。だから、遠慮せずに食べに来い。何かリクエストがあれば聞いておくぜ」
「そうなんだ」
さすがギイ。客足が遠のく時間帯に一芸を披露するのはぼくを含めて4組。
手品だったり漫才(!)だったり、けっこう前評判がいいので集客は期待できるのだけれど、それだけにプレッシャーもある。クラスのために頑張る人のために、少しくらいの特典を、とギイは考えてくれたのだろう。
赤池くんの作る甘味。すごい特典だ。
「葉山のバイオリンは明日の午後4時からだっけ?楽しみにしてるぜ」
「赤池くん、頼むからプレッシャーかけないでよ」
「なに言ってんだ、これくらいで」
あー今から緊張してきた。
いやいや、とりあえず実行委員の仕事に没頭することにしよう。あくまで手伝いをさせようとする章三を振り切って、ぼくはそそくさと2−Dをあとにした。
その後はミニコンサートのことなんて思い出すこともないくらいこき使われて、夜を迎えた。
ギイは徹夜で手伝いがあるとかで、その夜は寮の部屋には戻ってこなかった。
おかげで(っていうと怒られるけど)、ぼくは誰に邪魔されることなくぐっすりと眠ることができた。



そして文化祭二日目。
この日のぼくの仕事は、校内のゴミ拾いだった。
昨日同様、今日も朝から大勢の人が遊びにきていた。となると、あちこちでゴミが溢れるのだ。
きちんとゴミ箱に入れられたゴミの回収と、マナー悪く校内のあちこちで捨てられるゴミを拾って回るのが、実行委員の仕事の一つだった。
ぼくは同じクラスのもう一人の実行委員である高橋と朝からあちこち歩き回った。高橋とは去年も同じクラスだったけど、話をするようになったのは同じ実行委員になってからだった。
1年のとき、ぼくは誰とも進んで話をしようとはしなかったし、バリアを張っていたぼくに声をかける人もいなかった。
けれど今思えば、1年の時、高橋は決してぼくに嫌な態度を取ったりしない数少ないクラスメイトの一人だった。もちろん親しくしていたわけではないけれど、人間接触嫌悪症を理解してくれていたのか、面白がってぼくに近づいたりはしてこなかった。
高橋もまたギイに実行委員を指名されたのだ。細かいことによく気がつくから、というのがその理由だ。
うん、確かによく人のことを見ている人だと、一緒に仕事をしていて感じる。
フォローが上手で、決して恩着せがましくない。
おかげでぼくはずいぶんと助けられている気がする。
大きなゴミ袋を手に、焼却場へと向かう。その道すがらも落ちているゴミを拾った。
「はー。こういう時ばかりは、祠堂は無駄に広いなぁと実感するよな」
「そうだね」
「そういや葉山、今日はコンサートするんだって?」
「え、うん、まぁ」
はぁ、すっかり忘れてたのに思い出してしまった。
高橋はすごいなぁと素直に感心してくれる。
「実行委員にコンサートか。今年は大活躍だな、葉山は」
「うーん、ギイにいいように使われてるだけのような気がするけどね。お互いギイに指名されたしさ」
どれもこれもすべてギイに仕組まれてしまったことだ。
ほんと人使いが荒いんだよね。恋人相手でも容赦ない。
「まぁ大変な役目だけど、できると見込まれての指名だと思えば嬉しいかな。あのギイに認められたわけだし」
「高橋くんはね。ぼくはおまけのような気がするよ」
実行委員なんて大変な仕事、知っていたら誰もやりたがったりしないだろう。
「そんなことないさ。それに、ギイも喜んでるみたいだったけど?」
「え?」
高橋はよっこらしょ、と焼却炉にゴミ袋を放り投げる。
「ギイが?」
「あー、うん。ギイと葉山は級長と副級長で、たいてい一緒に仕事してるだろ?ギイが言うには、葉山はゆっくりと時間をかけて丁寧にする仕事には向いてるけど、実行委員みたいにスピード勝負みたいな仕事は苦手だと思うから、助けてやってくれよな、ってさ」
「そうなんだ」
「そのときに、ギイが『託生は実行委員の仕事嫌がってなかったか?』って聞くからさ、俺が『けっこう楽しそうにしてるし、苦手っぽくもないけどな』って答えたら、ギイがすげぇ嬉しそうに笑ったんだよ」
「・・・・」
実はさ、と高橋が内緒話を打ち明けるように言った。
「去年、葉山はほとんど文化祭に参加してなかっただろ?ギイさ、去年も葉山のこと気にしてたんだぜ。せっかくのイベントだから楽しんで欲しいのにな、って。だから、今年、葉山が文化祭に参加して、楽しんでるのが嬉しいんじゃないのかな」
「うん・・」
「ギイってほんと、友人思いっていうか、いいヤツだよな」

(ああ、ギイ・・・)

ぼくはふいに涙が出そうになって、必死にそれを堪えた。



昼までずっとゴミ集めに奔走し、慌しく食事をしたあとは、またあちこちで呼び出され雑用に追われた。本当に、ミニコンサートのことなんて考えている時間もなくて、気がつくと開演30分前になっていた。
ぼくは慌てて寮の部屋に戻ってバイオリンを手にすると、2−Dへと舞い戻った。
すると、そこは廊下にまで溢れた人で大変なことになっていた。
ギイがウェイターをしている時以上の混雑ぶりに、いったい何ごとかと驚いてしまった。
それがぼくのバイオリンを聴きにきた人たちだというから、さらにびっくりした。
「託生」
ギイがこっちこっちと手招きする。
「ギイ!いったいどうなってんの?何でこんなに人が集まってるのさ?」
「いや、外からのお客も呼びこまなきゃな、と思って、校内のいろんなところでビラを撒いたんだよ。別に託生の時だけじゃなくて、他の連中の出し物の時もな。そしたらこれがすごい効果でさ」
「それにしたって、こんなに・・・」
宣伝しすぎだよ。おまけに半分は祠堂の生徒じゃないか。まぁ売り上げが上がれば別に生徒だっていいんだけどさ。
「ま、ちょっと集まりすぎた気はするけどさ」
「う・・ん・・」
ああ、どうしよう。まさかこんなに人が集まるなんて思わなかったから、ドキドキしてきた。
ぼくが俯いて深呼吸しようとした時、その手をギイがふわりと握った。
「ギイ・・・?」
「大丈夫。かぼちゃだろ?」
「うん」
「それでも緊張しそうなら・・」
ギイが少し屈んでぼくの耳元に顔を寄せる。

(他の誰も見ないで、オレだけ見て演奏してろ)

そう言って、ギイが掠めるように頬にキスした。
「今のは激励の印な。ガンバレよ、託生」
周りの人間に聞こえるように言って、ギイがぽんとぼくの背中を叩く。
ギイのキスは挨拶みたいなものだから、とみんな気にもしない。

頬への軽いキス。

たったそれだけなのに、不思議とぼくは落ち着いた。
ほんと、いつだってギイはぼくの精神安定剤だ。
一つ深呼吸をする。
バイオリンを手にして、教室に入ると待っていたお客さんたちがわっと拍手をしてくれた。



バイオリンを構えて目を閉じる。
決して演奏するのに適した場所ではないけれど、でも耳を傾けてくれる空気が優しくて、ぼくは思うままに音に身を任せた。
普段あまり弾くことのないジャンルの曲だけど、でも一曲目を弾き終えると、惜しみない拍手が聞こえて、やっと肩の力が抜けた。
そしてようやく集まってくれている人の顔を見ることができた。
利久はちゃっかりいい席に座っていて、心配そうにぼくを見ている。
教室の入口付近で章三と一緒にいるギイを見つけた。
優しく微笑まれて、ぼくも少しだけ笑ってみせる。
緊張はしていたけど、それは心地よい緊張だった。集まってくれた人をかぼちゃだなんて思わなくてもいいほどに。
たぶん、ギイが見ていてくれているからだ。

大丈夫。

ぼくがギイだけを見ていなくても、ギイがぼくだけを見てくれているから安心できる。
「じゃあ次は、友達が聴きたいと言った曲を」
ちらりと利久を見て、テレビでおなじみの曲を弾き始めると、ぱっと利久の顔が笑顔になる。
その曲は、やはりみんなも良く知っているようで、手拍子までもらってしまうくらいに盛り上がった。
一番大きな拍手をしていたのは利久で、こっちの方が恥ずかしくなるくらいだった。
そのあと短い曲を2曲ほど弾いて、最後に夏のサロンコンサートで弾いたカノンを弾いた。
この曲もみんながよく知っているものだし、シンプルだけどとても綺麗な曲で、ぼくにとって、とても大事な曲だった。
佐智さんと一緒に弾いた時のことを思い出しながら、ぼくは周りに観客がいることも忘れてカノンの音を追った。最後の音が消えて、しばらくその余韻に浸っていたぼくは、聞こえてきた拍手にようやく我に返った。
夢の世界から一気に現実の世界に引き戻されて、あたふたと頭を下げて教室を出る。
「葉山、上手かったぜ」
「びっくりした、俺、久々に感動したよ」
「あ、ありがと」
次々と声をかけられ、肩を叩かれ。恥ずかしくて、とにかくその場を早く立ち去りたかったのに、ばたばたと教室を出てきた利久にがしっと抱きつかれてしまった。
ぼくはびっくりして固まってしまった。
「ちょっ!利久、なにするんだよ!!」
「託生!!俺、感動した!!すっげぇ良かった。俺のためにあの曲弾いてくれたんだよな。嬉しいよ」
「わ、わ、分かったから、離してって・・」
そんなことされたら、さらに目立つじゃないか!
おまけに・・。
利久に抱きつかれたぼくを不穏な眼差しで見ているのは、同じように教室から出てきたギイだ。
隣の章三が笑いを堪えた顔でその様子を眺めている。
何とか利久を引き剥がして、
「バイオリン、寮の部屋に置いてくるからっ!」
と、逃げるようにしてその場を離れた。



クラスの一員として、何とか少しばかりの力を貸せてよかったと胸を撫で下ろす間もなく、文化祭を無事締めくくるため、つまり後片付けで、実行委員は最後の最後までこき使われた。
ようやく解放されて寮の部屋に戻ると、ちょうどギイがシャワーを浴びて浴室から出てきたところだった。いつも帰るのが遅いギイよりも遅かったなんて。
いやはや、実行委員なんて来年は絶対にやらないぞ。
「おかえり、託生。ご苦労さん」
「ただいま。はー、やっと終わったよ」
「オレもついさっき帰ってきたとこ。託生もシャワー浴びて来いよ。すっきりするから」
「そうだね。うん、そうするよ」
言って、そうだ、と思い出した。
「ギイ、これ一緒に食べようよ」
「うん?」
ぼくは手にしていた袋をギイへと差し出した。
それは章三が約束してくれていた、ご褒美のデザートである。
ミニコンサートが終わったあと、ご褒美のことなんてすっかり忘れていたぼくを、章三はわざわざ探しにきてくれて、リクエストは何だ、と聞いてくれた。
章三の作るデザートなら何だって美味しく食べれることは間違いないのだから、わざわざ聞きに来てくれなくてもよかったのに、と言うぼくに、
「どうせなら食べたいものを作ってやるよ。久しぶりにいい音楽を聴かせてもらったお礼も兼ねてな」
と言った。
なので、ぼくは遠慮なくリクエストをした。
章三はちゃんとそれを作ってくれた。おまけに、すぐには食べることのできないぼくのために、氷をいっぱいいれたクーラーボックスで保管してくれていた。
ほんと至れり尽くせりとはこのことだ。
ここまでしてもらうとあとが怖い気がしないでもなかったけれど、章三の気持ちをありがたく受けることにした。
「ギイ、もしかしてウェイターの合間に何か食べた?」
目の前に美味しそうなものがいっぱいあって、つまみ食いを我慢できるギイではなさそうだ。
しかし、ぼくの言葉にギイは憮然とした表情を見せた。
「食べれるわけないだろ?章三のやつ、商品に手を出すなって、ずっと監視してるんだぜ」
「はは、確かに商品だよね」
ギイは袋の中を覗き込み、お、と目を輝かせた。
中にあるのは抹茶ゼリーである。
「・・・託生、お前わらびもち食べたいって言ってなかったか?」
不思議そうな顔をするギイに、ぼくは笑ってしまう。
「でも抹茶ゼリーも食べたいって思ったよ」
ぼくが章三に抹茶ゼリーをリクエストすると、章三は先ほどのギイと同じことを言った。

『抹茶ゼリーねぇ』
『・・何だよ、べつにいいだろ』

1ヶ月ほど前、2−Dの教室で、メニュー一覧を見ながら、ぼくはわらびもちを、ギイは抹茶ゼリーが食べたいと言っていたのを、章三はちゃんと覚えていたのだ。
意味深に笑う章三に、ぼくは思わず視線を逸らしてしまった。
『ま、僕が作るんだから、何でも美味いからいいけどな』
章三はふふんと笑ってぼくのリクエストをきいてくれた。
甘味処でお客さんに出していたのは小ぶりな器でだったけれど、ぼくに作ってくれたのは、その倍はありそうなガラスの器で、とても一人では食べ切れそうにないものだった。
たぶん、ぼくのリクエストが半分ギイのためのものだと気づいたのだろう。
だから、ちゃんと二人で食べれるようにと器を大きくしてくれたに違いない。
ほんとよく気がつく相棒だ。
「馬鹿だな、自分の食べたいものをリクエストすればよかったのに」
ギイが苦笑しながら、でもちょっと嬉しそうにぼくを見る。
「だから、ぼくも食べたかったんだってば」
うっかり赤くなりそうになって、ぼくは慌てて器を覆っていたラップを外した。
「美味そうだなぁ」
「うん」
スプーンを持ってきて、二人で抹茶ゼリーを口にした。
見た目だけじゃなくて、ほんとに美味しい。やっぱり章三が作るデザートは絶品だ。
ギイがほら、とスプーンですくったゼリーをぼくの口元へと運ぶ。
食べさせてもらうなんて普段なら恥ずかしくてできないけれど、二人きりだからまぁいいか、とぼくは素直に口を開ける。オレにも、とねだるギイにしょうがないからゼリーを食べさせてあげた。
「託生、今年の文化祭はどうだった?」
「え?んー、何か、あっという間だったな。実行委員だったし、忙しくて。でも楽しかった」
「そっか」
ぼくの言葉に、ギイが嬉しそうに微笑む。
「ギイのおかげだね」
「オレの?」
「うん。ギイのおかげで、すごく楽しい文化祭だった」
ぼくは去年、文化祭なんてほとんど参加しなかったも同然だ。クラスの出し物を積極的に手伝うわけでもなく、友達とあれこれ屋台を冷やかすでもなく。
寮の部屋にいて、なるべく人に会わないようにとしていたくらいだ。
だから、今年の文化祭が、祠堂での初めての文化祭だといっても過言ではない。
ギイは、去年の分までぼくが文化祭を楽しめるようにと、実行委員に指名したんだろう。
そのおかげでぼくは普段なら話をしないであろう人たちと親しくなって、友達も増えた。
ミニコンサートに出ることになって、今まで弾いたことのないジャンルの曲を弾くこともできた。
たった2日の文化祭だったけれど、いろんな経験ができた。
ほんの少し世界が広がった、というのは大げさかもしれないけれど。
だけど、ギイのおかげで本当に楽しい文化祭だった。
高校生活の、とてもいい思い出になる。
「ありがとう、ギイ」
ぼくの言葉に、ギイは嬉しそうに目を細めた。ぼくが言うお礼の意味を、きっとギイはちゃんとわかってて、でもそれには触れずに話を逸らす。
「実はちょっと心配してたんだぜ」
「心配って?」
「ほら、オレと章三で半ば強引に託生の出演決めちまったからさ。オレの一存で、実行委員にも任命しちまったし。もしかしてすっげぇ無茶させちまったかなーって」
「無茶なんてことないよ」
ぼくは笑った。
「ぼくも最初はギイに実行委員に指名されて、困ったなって思ったんだけど、だけど、いろいろやってるうちに楽しくなったし」
実行委員会は1年から3年まで各クラスから選出された人間が一同に集まる。
もちろん知らない顔の方が断然多いんだけれど、皆やる気いっぱいで、意見も活発に出るし、それまで話すこともなかった人と一つの目的のために力を合わせるということの楽しさみたいなものが、少し分かったような気がするのだ。
実行委員になったおかげで、委員仲間とは校内で会えば声を掛け合うようになったし、時々食堂で一緒にご飯を食べることもある。
友達・・というほどじゃないかもしれないけれど、親しい顔見知りが一気に増えた感じなのだ。
「だからさ、ギイには感謝してるんだ。去年のぼくなら絶対に考えられないことだったから」
「・・・・複雑」
ぼそりとギイが言って、ため息をついた。
「え?何が?」
「お前、オレの知らないうちにいろんなヤツと仲良くなってるみたいだし、いや、まぁそれは全然いいんだけどな。けど一緒に食事しただと??そんな話聞いてないぞ」
「そうだっけ。でも別に報告しなくちゃならないようなことでもないだろ?」
悪いことじゃないんだし。
「わーかってるよ。ただのヤキモチだ。何か、お前がオレだけのものじゃなくなっていく気がしてさ。困ったなーって思ったんだよ」
少し唇を尖らせてそんなことを言うギイは、いつもの自信満々の彼ではなくて、ずいぶんと子供っぽく見えて笑ってしまった。
「ギイにヤキモチ焼かれるような仲じゃないよ。ただの実行委員のよしみっていうか」
「はー。お前ぜんぜん分かってないな」
こりゃ実行委員に指名したのは失敗だったかなーとギイは苦笑する。

去年もぼくのことを気にしていてくれたギイ。
そして今年もこっそりとぼくの心配をしてくれていたギイ。
そんな風に、ギイはいつでもぼくのことを考えていてくれるのだ。わかっているのに、あまりに静かに、気づかれないようにそういうことをするから、ぼくの知らないことが本当はたくさんあるのかもしれない。

「ギイが好きだよ」
「おや、なんだよ、オレもしかして誘われてる?」
嬉しそうにギイがぼくを引き寄せる。
「そういうんじゃなくて」
「何だ、そりゃ」
ギイががっくりと肩を落とす。
「ただギイに好きだよ、って言いたくなったんだ」
いつも思っているけれど、なかなか口には出せないから。
たぶん、ギイが思っているよりもずっと、ぼくはギイのことが好きなのだ。
「ありがと、ギイ、大好きだよ」
「ふうん」
もっと言って、とギイが甘えたようにぼくにねだる。
気持ちとしては、珍しくぼくもギイに甘えたい感じだった。だって、文化祭の準備期間中、ぼくたちはほんと清らかな生活を送っていたのだ。
身体は疲れているはずなのに、このまま眠ってしまうのはもったいないような、そんな気恥ずかしい気持ちになっていた。
そんなぼくの気持ちが伝わったのか、ギイは小さく笑ってぼくの頬をきゅっと摘んだ。
「シャワー浴びてこいよ。待ってるから」
「ん、でも・・・ギイも疲れてるんじゃない?」
「ばーか、託生からお誘いをスルーするなんてもったいないことするわけないだろ。ほら、さっさと行って来いよ」
いや、別に誘ったわけじゃ・・・ないんだけど、でもやっぱりそうなるのかな。
そう思うと急に恥ずかしくなってしまったけれど、でも今夜はギイと一緒に眠りたかった。


ギイのおかげで、ぼくの世界は変わっていく。
できないと思っていたことも、ほんとはずっと簡単なことなのだと、彼が教えてくれる。
知らなかったことを知るようになり、話したことのない人と話をするようになった。
心地よい疲れがどういうものかを初めて知った。
忙しすぎると文句を言いながらも、でもどこかでそれを楽しんでいる自分が嬉しかった。
それはすごく些細なことかもしれない。
だけどギイがいなければ、どれも一生知ることはできなかったことなのだ。
きっとどれだけ言葉にしても、感謝の気持ちを伝えることはできないだろう。


怒涛の二日間の文化祭が終わり、本当なら翌日の体育祭のために体力回復をしておかなくてはならなかったのに、その夜は二人して妙に盛り上がってしまい、おかげで次の日大変な目に合うことになった。

疲れてテンションが高くなるっていうのも初めての体験だった。
けど、これだけは一度だけでいい、かな。





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あとがき

文化祭楽しそうだなー。しかし文化祭の翌日に体育祭って!もうへとへとじゃん。若いって素晴らしい!(笑)