Beautiful World


※一度はやりたい観用少女のオマージュです。(設定は微妙に捏造)
※完全パラレルです。そしてギイが相当へたれてます。
※ご臨終ネタとなりますので苦手な人はご遠慮ください。



「義一さん、着きましたよ」
静かに声をかけると、ギイは目を開け、深く沈みこんでいたシートからゆっくりと身を起こした。
毎日、分刻みで仕事に追われ、移動の車の中で僅かな休息を取るのが日常になっている。
今もほんの30分ほどの間ではあったが、死んだように眠り込んでいた。
たった30分でも、不思議と疲れは取れるようで、ギイは大きく伸びをすると、向かい側に座っていた島岡にすっきりとした表情を見せた。
そんな様子を見ると、彼はまだ若いんだなとしみじみと思う。
「何時だ?」
「5時10分前です」
「じゃ、少しぶらぶらする。今日はもう帰っていいぞ、あとは適当に帰るから」
仕事から解放される喜びからか、妙に楽しそうな声色のギイに、島岡も微笑んだ。
「久しぶりですね、赤池さんたちにお会いになるのは」
「そうだなぁ、ここんとこ忙しくて、ろくに連絡もできてなかったからなぁ」
どこか当てつけがましい視線を向けるギイを、島岡は軽く受け流した。
島岡がまだ歳若いこの上司の下で秘書として働くようになってもう5年。
最初の頃こそ危なっかしいと思うこともあったが、今ではもう島岡が心配することなど何もないほどに、与えられた仕事を完璧にこなすようになった。
高いIQと持ち前のバイタリティでどんな困難なプロジェクトも成功させ、誰もが羨む容姿と人当たりの良さで、取引先からの評判も上々だった。
何でも手に入るだけの財力と地位を持ち、ギイ自身も己の人生を楽しんでいるように見える。
順風満帆な人生だと、皆口をそろえてギイに羨望の眼差しを向ける。
けれど、決して満たされることのない彼の心の内を知る者が、いったいどれだけいるだろうか。
彼の笑顔を見るたびに、それが本当の笑顔ではないと知る島岡の胸は痛んだ。
幼い頃からギイのことをよく知っているだけに、彼には幸せになって欲しいと願う反面、そんな日はもう来ないのかもしれないとも思う。
「島岡?」
「あ、すみません。では私はこれで。あまりハメを外されませんように」
「何言ってる。久しぶりに友達に会うんだ。ハメ外さないでどうする」
「ギイ」
「はいはい。じゃあな、お疲れさん」
ギイは悪戯っぽい笑みを浮かべて車を降りた。
通りを横切るギイの姿を見送って、島岡は本社へ戻るために車を走らせた。





大通りを横切り、スタンドで紙コップのコーヒーを買う。
ようやく夏の暑さが過ぎ去り、これから一番いい季節がやってくる。休暇が取れれば旅行にでも行きたいなとも思うが、付き合ってくれそうな友人たちにも仕事があり、そうそう簡単に休みが合うわけもない。
一人で寂しく休暇を過ごすくらいなら、仕事をしていた方がまだましか、と結局年中馬車馬のように働くことになる。
ギイはコーヒーを飲みながら、道行く人を眺めた。
寄り添う歩く恋人たちの姿に思わず笑みがこぼれる。
幸せそうに語り合う彼らを見ていると、遠い昔のことがふいに甦り、懐かしい面影が胸を掠めた。
それと同時に言いようのない胸の痛みに息が苦しくなる。
振り払うように大きく息を吐き、空になった紙コップをゴミ箱へと投げ入れた。
「そろそろ行くか」
今から向かえば約束の時間にちょうどいい頃だろう。
時間には几帳面な相棒を待たせると、また文句を言われるに違いない。
ギイは足早に待ち合わせの場所に向かった。
自分の方が早いと思っていたのに、到着するとそこには赤池章三が立っていた。
「早いな」
久しぶりに会う相棒に笑うと、章三も笑って手を上げた。
「元気そうだな、ギイ」
「おかげさまで。何ヶ月ぶりだ?」
「3ヶ月ぶりくらいかな。仕事は大丈夫だったか?」
「今日はもう終わった。今夜は飲むぞ!」
「まぁ久しぶりだしな、付き合うとするか」
ニヤリと笑うギイに、章三はしょうがないなというように肩をすくめた。
お互いが一番気を使わずにいられる相手には違いないものの、学生時代とは違い、社会人ともなると、なかなかゆっくりと会う機会もなく、たまに会えるとなるとどうしても飲み明かすことになってしまう。
もっと頻繁に会うことができればいいんだけどな、とお互いが口にはしないが思っていた。
何でも知っていた高校時代とは違い、今はどうしても互いの動向を知るのが後手後手になる。
別にギイのすべてを知っていたいわけではなかったが、卒業をしてから、章三はいつもギイのことを心配していた。
肩を並べて歩きながら、しばらく他愛ない世間話と互いの近況報告に花を咲かせる。
「奈美子ちゃんは元気か?」
「元気元気」
「子供たちは?」
「そっちも元気だ。毎日うるさくしてるよ」
ため息をつきつつも、やはりどこか嬉しそうな相棒の姿に、ギイが微笑む。
章三が長く付き合っていた幼馴染と結婚して、子供が生まれ、幸せな生活を送っていることは自分のことのように嬉しい。
このまま幸せなままでいて欲しいと心から思う。
「なぁギイ」
「うん?」
「今、付き合ってる人、いるのか?」
突然の章三の問いかけに、ギイは目を丸くして、そして楽しそうに笑った。
「いるわけないだろ。毎日親父にこき使われて、そんな暇ないって。それに、しばらくは一人でいい」
「・・・そうか」
それ以上何かを言うことはできず、章三は口を閉ざした。
ギイの言う「しばらく」がいったいどれくらいなのか、章三には分からなかった。
もしかすると、もうこのまま一生一人でいるつもりなのかもしれないとも思う。
いや、恐らくそうするつもりなのだろう。
誰もが見惚れるほどの容姿を持ち、仕事でも成功をし、その気になればより取り見取りで相手を選べるというのに、ギイにはまったくその気がない。
章三にとって、ギイは一番の相棒でかけがえのない親友だ。
だからギイには幸せになって欲しいと思っている。けれど、ギイはそれすらも拒絶しているように見えて、もどかしいような切ない気持ちになる。
そのまましばらく無言で人気のない通りを歩いた。
高校時代にもよくこうして一緒に歩いた。祠堂の校内を、麓の町を、時には旅行先の知らない街を。
もっともあの頃は2人きりではなかった。
いつも穏やかな笑顔を浮かべていた友のことを思い出だして、章三は小さくため息をついた。
彼がここにいればどんなに良かったか。
「どっちだ?」
交差点でギイが立ち止まる。
章三はこっちだと右手へと足を向けた。



どこか懐かしい雰囲気を残す裏通り。いつもとは違う街並みに、ギイは物珍しそうに視線を巡らせた。
このあたりは用がなければ足を踏み入れない地区だったが、立ち並ぶ店構えは品がよく、歩いている人たちもセンスの良さが見てとれた。
「章三が好きそうな雰囲気だな」
「そうだな。だから今回の仕事はやりがいがあったよ」
章三がとある店の改装を任され、その店が今日オープンするというのを聞き、ギイは忙しいスケジュールを調整して時間を作ったのだ。
建築家になるという夢を叶えた章三が初めて一人で任された仕事だった。
将来的には自分の事務所を持ちたいという章三にとって、これは大きな一歩だ。
それが分かっているからこそ、ギイはその喜びを一緒に味わいたいと思ったのだ。
「三洲には感謝しているよ」
章三は静かに微笑んだ。
全寮制の男子校、祠堂学院で同級生だった三洲から、店の改装したいので、設計をしてくれないかと依頼があったのは1年ほど前のことだった。
同級生のよしみだけで依頼されたのであれば断るつもりの章三だったが、三洲から、以前章三が手がけた物件を見て気に入ったからだと言われ、まだまだ一人前と胸を張れるほど実績を積んでいるわけでもなかったが、それならばと引き受けたのだ。
幸いなことに、コンセプトさえ守ってくれればあとは任せると言ってもらえたおかげで章三がやりたいと思っていたことはほぼできた。
それだけに自信もあった。
「三洲か、久しぶりだなぁ。オレ、相変わらず歓迎されなかったりするのかな」
苦笑するギイに、章三も肩を揺らす。
「高校時代からあんまり変わってないかもな。相変わらずクールというか、簡単に心を見せないというか。だが、さすがにこれから客商売をするんだから、ちょっとは愛想も良くするんじゃないか?」
「あの三洲が?想像できないな」
「営業スマイルくらいお手の物だろ」
「なるほど」
こっちだ、と章三が角を曲がる。
目の前に現れた店に、ギイは一瞬目を見張った。
クラシカルな造り。近代的な街の中に、そこだけ違う世界へ来たかのような錯覚に陥りそうなほどに、その店は周囲とは違う装いを見せていた。けれど浮いているわけではない。
落ち着いた色の壁を囲むように緑を添えて、そこだけが一枚の絵のようにも見える。
「いいな」
「そうか?」
ギイのお世辞ではない心からの賛美の言葉に、章三はまんざらでもないように笑った。
それにしても今日からオープンだというのに、店はひっそりと人気がない。
祝いの花でも贈るべきだったかと考え、
今更ながらに、ここが何の店なのかを聞いていなかったことに気づいた。
飲食店ではなさそうだ。
洋服?でもない。
あの三洲が店をやるなんて、未だに信じられないので、何の店かがまったく予想ができない。
「入ろう。三洲が待ってるから」
「ああ」
章三に促されて扉を開けると、中はひんやりと薄暗く、客は一人もいなかった。
「儲けるつもりはあるのか?」
店はいい感じなのだから、もうちょっと何とか・・・
思わずつぶやいたギイだったが、店の奥へと足を踏み入れ、ぎくりと立ち止まった。
左右の椅子にずらりと人が座っていた。
けれどすぐに、それが人ではないことに気づいた。
「やぁ、崎、赤池、いらっしゃい」
中から出てきた三洲に、ギイはぎこちなく片手を上げた。
高校時代もそれほど親しかったわけではなかったが、かといって仲違いをしているわけでもなかった。
どちらかというと三洲がギイのことを避けていた部分がある。
けれど、話をすれば余計な気遣いをしなくてもいい、とても話しやすい友人でもあった。
「三洲、開店おめでとう」
「ありがとう。赤池のおかげでいい店ができたよ」
三洲と章三が和やかに話す間も、ギイは店の中にずらりと座るものから目が離せないでいた。
それに気づいた三洲がくすりと笑う。
「どうした、崎。見るのは初めてかい?」
「ああ、いや・・・以前に一度だけ。だけど、こんなにたくさん・・・」
アンティークものの椅子に座っているのは人ではなく人形だった。
見た目は人そのもの。どう見ても人形には見えない。けれど、目を閉じたまま動くことはない。
「ドールか・・・すごいな」
ギイは居並ぶドールの迫力に言葉もなかった。



ドールは今では数少なくなった「名人」の称号を持つ職人たちが作り上げる「生きる人形」である。
その美しさはもとより、手に入れるためには驚くほどの大金が必要となる。
しかも、ただ大金を積めば手に入るというものではなく、ドールたちは眠ったまま、持ち主に巡り会えることを待っているのだ。
ドールにとって本当の持ち主が現れれば自然と目覚める。
どれほど望んでも、ドールが目覚めなければ手に入れることはできない。
それだけに希少価値は上がり、今ではドールの存在は夢物語のように語られることもある。
ギイは一度だけ目覚めたドールを目にしたことがある。
父親の友人が手に入れたというドールは美しい少女の姿をしていて、普通に会話もしたし、どこからどう見ても人にしか見えなかったので、最初はドールだと気づかなかったくらいだった。
それほどまでに人にしか見えないドールが、店にずらりと並ぶ様子はある種異様とも言えた。
眠ったままのドールたちは死んでいるかのようにも思えたからだ。
「それにしても、三洲がドールの店をするなんてな」
ようやく少し気持ちが落ち着いて、ギイと章三は窓際に置かれた椅子に腰を下ろした。
三洲が用意してくれたコーヒーを口にして、ぐるりと店内を見渡す。
なるほど、ドールの店ならばそうそう客がいなくても仕方がないと、ギイは納得した。
何しろ金で買えるものではないのだから。
三洲は2人の正面に座ると、見慣れたシニカルな笑みを浮かべた。
「もともとは祖父が店をしていたんだよ。知ってるかもしれないが、ドールを扱える店は限られていて、この街じゃ祖父の店しかなかった」
「へぇ」
「祖父が亡くなる前に、俺に店を継いで欲しいと言ってね。最初はそんなつもりは全くなかったんだけど、ドールを手放すこともできないし、まぁやむを得ずという感じでやることになったんだ」
店を継ぐものがいなければ、眠ったままのドールは持ち主に出会うこともできず、永遠に眠ったままになってしまう。三洲にはそれが忍びなかった。
小さい頃か祖父の店でドールを見てきた三洲は、やはりドールに愛着もあったし、簡単に見捨てることはできなかった。だから店を継ぐ決心もできた。
そして、どうせやるなら店の内装もすべて新しくしようと思い、章三に依頼をしたのだと言う。
冷やかしで客が入ってこないような少し敷居の高い店構えを。
そしてドールたちが居心地のいいように静かな空間を。
三洲が章三に頼んだのはこの二点で、その他は好きにしてくれていいと言った。
出来上がった店は三洲を満足させるに十分なものだった。
「それにしても壮観だな。これだけドールがいると」
ギイは改めてドールを眺めてため息をつく。
「崎はドールを持ちたいとは思わないのか?セレブな連中の間じゃ、ドールを持ってることは一種のステータスのようなものだろ?」
三洲の言葉にギイは軽く肩をすくめた。
「まったく興味がないな。人形遊びする歳でもないし、生き物を飼うような時間も余裕もない」
「ドールはペットじゃないからね、飼うという感覚とはちょっと違うんだけどな」
素っ気無いギイの物言いに、三洲が苦笑する。
いわゆる上流階級に属する連中が、一時期ドールを手に入れるのに躍起になっていたことはギイも知っている。
金さえ出せば何でも手に入ると思っている人間にとって、それだけでは手に入らないものというのはひどく魅力的に思えるのだ。
自分が選ぶのではなく、ドールが持ち主を選ぶという点においても、ドールを手に入れれば自分は特別な人間であるという優越感に浸れる。ギイにはそんなことで優越感に浸る趣味もなかったし、美しいドールには単純に興味はあったが、それは未知のものを知りたいという好奇心、ただそれだけだ。
欲しいと思ったことはなかった。
「だが、いくら欲しいと思ったところで、ドールが目覚めなければ手に入れることはできないんだろ?」
章三が指摘すると、それはそうだ、と三洲が笑う。
「人が選ぶのではなく、ドールが選ぶのか。ずいぶんと高慢な人形なんだな」
ギイが言うと、三洲はそうじゃないよと否定した。
「ドールは純粋なんだよ。自分の持ち主にしか目覚めないなんて、一途だとは思わないかい?」
「さて、どうかな。オレはドールを欲しいとは思わないから何とも」
肩をすくめるギイに三洲と章三は顔を見合わせて苦笑した。
興味があるものとないものがはっきりしていて、いっそ気持ちいいくらいのギイの言葉に、三洲はそれ以上何を言うでもない。
「さて、久しぶりに会えたことだし、飲みに行くか?近くにいい店がある」
「そうだな。支度をするから少し待っててくれ」
三洲が立ち上がり、店の奥へと姿を消した。
ギイも席を立つと、もう二度と見ることはないであろうドールたちをゆっくりと見て歩いた。
どれも綺麗な服を着て、行儀よく座っている。一つ一つ見ていくと、どれも同じ顔はしておらず、肌の色も髪の色も違う。
長い睫と白い頬。
結ばれた赤い唇。
どのドールも端整で美しい。
ビスクドールのような硬質な美しさではなく、どこまでも人間のような柔らかな美しさを持っている。
いったいどうやって作るのだろうか、とギイは首を傾げた。
ドールがどのようにして作られるのは謎に包まれている。職人から職人へと受け継がれる技は決して外へ漏れることはない。
店を営む三洲ならば知っているのかもしれないが、そうそう簡単には教えてくれないだろう。
ギイはふと一体のドールに気づいた。

(少年?)

ギイは首を傾げた。。

(ドールって少女だけじゃなかったのか・・・?)

髪は肩ほどまであるものの、そのドールはどう見ても少年のものだった。
薄暗い店内の片隅にひっそりと眠る少年に近づき、その顔を目にしたギイは、ぎくりと足を止めた。
俯いたその顔立ちが、愛しい人の面影に似ている気がしたのだ。
けれどよく見るとそっくりというわけではない。そのことにわけもなくほっとした。
けれど、何故か心惹かれる。
単なる感傷なのか、それとも好奇心か。
何かに誘われるように手を伸ばして、ドールの頬に触れてみた。
その肌はひんやりとしているが柔らかく、人間のそれと何も変わらない。

(バカだな・・・)

彼がここにいるはずがないのに。
ギイは小さく頭を振ると、ドールから手を引いて一歩後ずさった。
その時、ふと違和感を感じて目を細めた。
ドールが動いた気がしたのだ。
そしてそれは気のせいではなかった。
ドールはゆっくりと顔を上げると、閉じていた瞼を開けた。
黒曜石のような黒い瞳。
ギイと目が合うと、小首を傾げた。
真っ直ぐにギイを見つめる潤んだ瞳。
不思議そうにギイを見るその表情はあどけなく、何か言いたげに微かに唇が動く。
そして笑った。
花のように、美しい笑顔で。
その蕩けるような甘い笑みに、ギイは言葉もなく立ち尽くした。
「どうした、ギイ」
動けないでいるギイの肩を章三が叩いた。
そしてギイの視線の先にいるドールを見て目を見開いた。
章三もまた、今まで眠っているドールしか見たことがなかったのだ。目覚めたドールを初めて見た章三は、ドールの可愛らしさに言葉を無くした。
「ギイ、お前何かしたのか?」
「するわけないだろ。これ、もしかして目覚めたのか?」
「目を開けてるからな。たぶん・・・・」
ギイも章三も、こんな状況に遭遇するのは初めてで、これが目覚めた状態なのかなんて判断のしようもなかった。
しかし目の前のドールはどう見ても目覚めている。
黒目がちな大きな瞳で、じっとギイを見ている。
「どうかしたか?」
支度を終えた三洲が2人に声をかけ、困ったような2人の様子に眉をひそめた。いったい何事かと肩越しに覗き込んだ三洲の視線の先には目覚めたドール。
きょとんとしているドールに、大の大人3人が固まる。
「・・・・誰が目覚めさせた」
低く三洲が尋ねる。
「いや・・えっと・・・」
「崎か?」
「目覚めさせたわけじゃない、勝手に目を開けたんだ」
一応反論してみせるギイに、三洲はやれやれというようにため息をついた。
「まさかお前がこのドールの持ち主になるなんてね」
「おい、ちょっと待て。オレはドールなんていらないぞ」
慌ててギイが言い募る。もともとドールに興味なんてないのだ。欲しいと思ったこともない。
「だが、目覚めてしまっては仕方がない」
「何が仕方ないんだ?」
「ドールは波長が合わないと目覚めない。唯一の持ち主が現れるまではずっと眠り続けるものなんだ。崎に反応して目覚めたのだとしたら、これは崎のドールだよ」
三洲の言葉にギイは唖然とした。別に無理やり起こしたわけでもない。
ドールが勝手に目覚めただけなのに、それが自分のせいだなんていわれるのは納得できない。
「いらない」
生き物を飼うなんてまっぴらごめんだ。
あっさりと言い切るギイに、三洲は冷めた視線を投げかけた。
「持ち主が引き取らないのなら、このドールは枯れてしまう」
「枯れる?」
三洲は目覚めたばかりのドールの髪を、慈しむようにそっと触れた。
「ドールは持ち主が見捨てれば、その時点で枯れて死んでしまう」
「・・・っ」
その言葉にギイが一瞬表情を曇らせて、ドールを横目で眺めた。
言葉が分からないのか、それとも自分が置かれている状況が理解できないのか、ドールはただじっとギイを見つめている。
ドールについての知識などまったくないギイは、いきなり迫られた決断に舌打ちをしたくなった。
仕事では不要だと思えるものはいっそ冷酷だと言われるほどあっさりと切り捨てることができるギイだったが、目の前で生きているドールがこのままでは死んでしまうなどと言われては、じゃあどうぞ、とは言えないではないか。
それに。
一瞬足を止めてしまうほどに、このドールはどこか彼に似ている。
そのドールを自分のせいで枯らしてしまうのは、どうしても心が痛む。
よせ、と頭では思っているのに・・・
「・・・一人で食事はできるんだろうな」
ギイは低く唸りながら三洲に訊ねた。
「風呂に入ったり・・・まさかトイレのしつけをしろなんて言わないだろうな」
「まさか」
三洲が吹き出す。
「ドールは基本的な生活はひとりでちゃんとできる。忙しい崎の手を煩わすようなことはないと思うから安心していいよ」
「・・・・」
それならば、別に自分が世話をすることはない。執事とメイドに食事を頼んでおけばすむ話だ。
少し安心したギイは、渋々といった様子を見せながら
「分かった。引き取るよ」
と言った。
それを聞いた三洲と章三はどこかほっとした表情をした。
「ああ、崎、もう一つ言っておきたいことがある」
にっこりと極上の笑みを見せる三洲が何かを企んでいることくらい、長い付き合いでギイも分かっている。
嫌な予感に眉をひそめるギイに、三洲は人の悪い笑みを浮かべて言った。
「ドールは持ち主の愛情を糧に生きているんだ。だからちゃんと大切に、愛情を注いでやること。人任せになんかするんじゃないぞ」
「なっ・・・それは話が違うだろっ」
「何が?普通に可愛がってやればいいだけのことだろ?愛情不足になると枯れるからな」
三洲が真面目な表情で言うと、ギイは一瞬言葉に詰まり、ぎこちなく視線を逸らした。
「・・・・じゃあ、いずれ枯れるかもしれないな」
ギイが自嘲気味につぶやく。
「誰かに・・・何かに愛情を注ぐなんて、オレはもうできそうにない」
「ギイ」
章三がぽんとその肩を叩いた。
「とにかく、目覚めてしまったものは仕方がない。ちゃんと面倒みてやれ」
「章三、お前他人事だと思って・・・」
忌々しそうにギイが舌打ちする。
「じゃあ崎、先に支払いをしてもらおうかな」
三洲がどこまでもビジネスライクな口調でギイに言った。
「はぁ???」
ちょっと待て。
確かに引き取るとは言ったが、別に欲しくて引き取るわけでもないのに、どうして金を払う必要があるんだ?おかしいだろ、それは。
おまけに・・・
「何だ、この値段はっ!」
三洲から手渡された明細に目を通したギイは、思わず叫んだ。
人形の値段とは思えないその数字に、呆然とする。
「ふざけんなよ、三洲」
「ふざけてないよ。一応友達価格で割り引いておいた」
「嘘つけ」
横から明細を覗き込んだ章三も、げっと言葉を無くした。片や三洲は涼しい顔だ。
「世界に一つのドールだ。それくらい当然だろ。だいたい、崎にとっちゃ小遣い程度の金額だろうが」
「バカ言うな」
げんなりとギイは肩を落とす。そりゃ確かに払えない金額ではない。
けれど趣味として使うにしては大金すぎる。
何度も言うが、別にドールなんて欲しかったわけではないのである。
ギイははーっと大きくため息をついた。
「さ、おいで」
そんなギイには頓着せず、三洲がドールを手招く。それまで薄暗い部屋の片隅にいたドールが灯りのもとへ歩み出る。そこでようやくその顔立ちをちゃんと見ることができた。
黒い髪に黒い瞳。
白い頬に、薄く開いた唇。少し不安そうにギイを見るドールは、やはりどことなく彼に似ていた。
「良かったな、崎がちゃんとお前を引き取ってくれるそうだ」
三洲がドールの髪を撫でて、その背をギイへと押し出す。
ギイは深々とため息をつき、そして半ばヤケクソ気味にドールへと笑顔を見せた。
「オレは崎義一、お前の持ち主になったらしい。とにかく、これからよろしくな」
ドールはぱっと顔を輝かせて笑顔を見せた。
自分の持ち主に対して見せる笑顔は蕩けそうなほどに可愛らしい。
とは言うものの、ドールはドールである。
ギイにとっては、ペットの範疇でしかない。
「あー、島岡を呼び戻して、こいつ先に連れて帰ってもらうか。それから飲みに行こう」
その言葉に章三が三洲が顔を見合わせた。
「おいおい、ギイ。そりゃ可哀想だろ。ギイがいない初めての場所に、一人で行かせるのか?ちゃんと連れて帰ってやれよ」
「何だって?」
章三の言葉に、ギイはとたんに気色ばむ。
「飲みに行くのはいつでもいける。ドールが一人でちゃんと留守番できるようになったら、声かけてくれよな」
「章三、お前、やっぱり楽しんでるだろ」
「しょうがないだろ。こんな不安そうな顔されちゃ」
章三がドールへと視線を移す。
確かに目覚めたばかりで右も左も分からないドールを、島岡に預けて自分は遊びに行ってしまうというのも気が引けるが、だが、せっかく久しぶりに飲みに行こうと楽しみにしていたというのに、どうしてドールを優先しなくてはいけないんだ。
今日は予定が狂いっぱなしで厄日なのかと思ってしまう。
「崎、一応ドールの取り扱いについてメモしておいたから。帰ってから目を通してくれ。あと、ドールの主食はミルクなんだが、どうする?普通のものでもかまわないが、うちで扱ってるヤツの方が栄養がいい」
「分かったよ。必要なものは一式揃えてくれ。足りなくなったら、また買いにくる」
こうなったら腹をくくるしかない。
三洲に薦められるままに、必要なものを用意してもらい、支払いを済ませた。
「名前、つけてやってくれよな」
店を出る間際、三洲がギイに言った。
「その子は銘がついてない。持ち主が命名してくれればいい」
「はいはい」
「崎、枯らすなよ」
「わかってるよ、いくら払ったと思ってるんだ。一日で枯れたりしたら泣くに泣けない」
冗談めかした口調でギイが笑う。一日じゃ枯れないよ、と三洲が冷静にたしなめる。
3人は店を出て、通りでタクシーを拾い、ドールを先に乗せた。
「ギイ」
ドールのあとに乗り込もうとしたギイを章三が引き止める。
「ずっと仕事ばかりしてるんだろ?たまには息抜きしないと、倒れちまうぞ」
「息抜きに人形遊びか?子供じゃないんだぞ」
「何でもいいさ、少しは・・・」
「はいはい、じゃあな章三。近いうちに飯でも行こう」
ギイはタクシーに乗り込むと、いつもの笑顔で章三に手を振った。
後部座席の奥にちょこんと座ったドールは、ギイが乗り込むと、どこか心配そうに視線を向けてきた。
ギイは大丈夫だよ、というように微笑んでみせた。
「今から家に帰るんだ。今日からはそこがお前の家にもなる。オレはあんまりいないけど、ちゃんと世話してくれる人がいるから心配しなくていい」
「・・・・」
「ん?」
ドールはこくんとうなづいたものの、特に何を言うわけでもない。
ギイは先ほど三洲からもらったドールの取り扱いメモをポケットから取り出した。
ドールについての知識なんてまったくないので、とりあえず一通り目を通してみる。
「そっか、しゃべれないのか。ああ、でも教えれば話せるようになるんだな。ふうん。主食はミルク・・だけ?1週間に一度、砂糖菓子をあげる・・か。他のものは与えない方がいい?育つってどういう意味だ?まぁいいか、とりあえずミルクを用意すればいいってことだな」
ギイはやれやれとシートに沈み込み、目を閉じた。
まさか自分がドールを飼うことになろうとは。
だいたい三洲がおかしな店をオープンさせるからいけないんだ、などと半ば八つ当たり気味なことを考えてしまう。
その時、ギイの手にふわりとドールの手が重なった。
小首を傾げ、ギイの様子を伺っている。
見た目はどこまで可愛らしく、考えてみればドールには何の罪もないのだ。
「大丈夫だよ。何も心配しなくていい」
「・・・・」
しゃべれなくてもギイの言葉は理解できるようで、ドールは小さくうなづいた。


ギイが暮らすペントハウスには必要最低限の使用人しか置いていなかった。
身の回りの細々したことを任せている執事と、家事全般を手がけているメイドが1人。
独身の一人暮らしなのでこれだけの人数でもまったく問題はなかった。
何しろ朝は早くから仕事へ行くし、帰ってくるのも遅い時間ばかりで、彼らにしてみれば物足りないことも多いだろうと思う。
今日は友人たちと飲みに行くと言っていたギイがずいぶんと早く帰宅してきたので、執事のライアンは内心首を傾げながら主人を出迎えた。
「おかえりなさいませ義一様。ずいぶんとお早いお戻りで」
「ああ、ちょっと予定が変わってしまったんだ」
「どうかなさいましたか?」
「ある意味大変なことに」
ギイが深々とため息をついたので、ライアンは一体何事かと理由を尋ねた。
「実はドールを引き取ることになっちまったんだ」
「は?」
今まで数々の出来事を経験していて、少しのことでは動じることのないライアンだったが、ギイの答えは予想を超えたもので、すぐに反応することができなかった。
「ドール、といいますと・・・」
「ああ、噂の生きた・・・人形?」
ほら、入るんだ、とギイが後ろを振り返り、ドールを招き入れた。
ギイに促され、ドールがおずおずと姿を見せた。
ライアンはもちろんドールを・・・生きて動いているドールを見るのは初めてだったので、思わずまじまじと見入ってしまった。その視線から逃げるようにドールがギイの後ろに隠れる。
「こらこら、何隠れてるんだ」
ギイがドールの腕を取る。
ライアンは不躾な視線を向けたことに気づいて、小さく咳払いした。
「失礼しました。可愛らしいドールですな。少年のドールがいるとは初めて知りました」
「そうだよなぁ、オレも少女ばかりだと思ってた。とにかくどういうわけか、目覚めてしまったから、引き取らないわけにもいかなくてさ。そういうわけで、今日からここで一緒に暮らすことになったから。よろしく頼むな」
「はい。それは、もちろん・・・。ですが、私はドールの世話をするのは初めてなのですが」
「ああ、これ説明書な。自分のことは自分でできるみたいだから、それほど手を煩わせることはないみたいだし、あ、まだしゃべれないみたいだから、言葉は教えた方がいいな」
うるさくされるのはごめんだが、意思疎通ができないといろいろと面倒だ。
「はぁ・・・あ、義一様、お食事はどうなさいますか?」
「ミルクだってさ」
「いえ、義一様は何か召し上がってこられたのでしょうか?」
「オレ?ああ、そっか章三たちと飯行く予定も潰れちまったんだよなぁ、腹減ったな」
「ではすぐにご用意を。ドールにはミルクを?」
「うん、そこの荷物にいろいろ入ってるから。ミルクも特別なヤツだってさ。無くなったら三洲の店に買いにいってくれ」
「承知いたしました」
ギイは自室へ戻ると、上着を脱いで私服に着替えた。一緒に入ってきたドールを見て、さて、と思う。

(服がいるよな。オレの服ではサイズが合わないだろうし)

明日にでもライアンに頼んで、適当に揃えてもらうかと、ギイは必要なものをあれこれと考える。
あとは・・
「こっちにおいで」
呼ぶと、ドールは何の躊躇いもなくギイのそばへとやってきた。見上げる瞳はやっと自分を目覚めさせてくれた持ち主への不安で満ちている。
「そんな目でオレを見るな」
「・・・・?」
「お前、やっぱり似てるな」

(ギイ・・・)

甘く自分の名をを呼ぶ恋人のことを思い出し、きしりと胸が痛んだ。
彼もよく不安そうに自分を見つめていた。その度に、大丈夫だと何度も言って彼を抱いた。
何も心配しなくていいと言っていたのに、自分は結局何もできなかったのだ。
息苦しくなるほどの後悔を振り払うように、ギイは小さく息をついてドールを見た。
「・・・名前、考えないとダメだな。さて、どうしたものか」
ギイがソファに座ると、傍らにドールも座る。
ドールは持ち主の愛情を糧に生きると、三洲は言った。
ギイが愛情を注げる相手はこの世で一人しかいない。
彼の代わりにするつもりなど毛頭なかったけれど、ドールを枯らさないように見せ掛けだけでも愛情を注ぐのならば、つける名前は一つしかない。
「・・・託生」
声に出してみると、それは違うとギイの何かが押しとどめる。
片手で口元を覆い、目を閉じる。
何度も何度もやり過ごそうとしてはできない感情が再び甦ってきそうになり、堪えるように肩で息をした。

(だめだ・・・)

考えてはいけない。
思い出してはいけない。

その時、冷たい手がそっとギイのそれに触れた。
ゆるゆると瞼を開けると、目の前には心配そうに自分を見つめるドールがいた。
ぎゅっとギイの手を握るドールに、ギイは微笑んだ。
似ていると思ったのは、この瞳のせいだったのか、と思う。
自分だけを真っ直ぐに見つめる黒い瞳。
「タクミ・・・」
「・・・・」
「お前の名前はタクミだ」
こくりとドールが・・タクミがうなづいた。
よし、とギイがタクミの髪を撫でる。
「明日、少し髪を切ってもらうといい。綺麗な髪だけど、短い方が似合いそうだ。必要なことがあれば執事のライアンに。あとはセシルが面倒を見てくれる。オレは仕事で遅くなることが多いから、2人の言うことはよく聞いて仲良くするんだ。ああ、家の中のことも2人に教えてもらうんだぞ、分かったか?」
タクミは小さくうなづく。
「さて、と。疲れただろ?お前だって何も分からないことだらけだもんな。ドールもやっぱり夜になると眠くなるのかな」
いろいろと知らないことが多すぎてさっぱり分からない。
そういえば、友人の一人がドールを持っていたな、と思い出す。
明日にでも連絡してもう少し詳しいことを聞いてみるかと思った。
望んだわけでもなく、いきなり自分のものとなったドールに特別な感情を抱いているわけではなかったが、ギイは何事もきちんと把握していないと気がすまない性格だった。。
とりあえず、と言ってタクミをダイニングへと連れて行く。
メイドのセシルが用意してくれた食事がテーブルに並んでいる。
「義一様、そのドールのミルクは温めた方がよろしいんでしょうか?」
「え、オレに聞くなよ。あーどうかな。冷たいよりは温かい方がいいんじゃないか?」
席に座らせると、タクミはきょろきょろと辺りを見渡した。
セシルが温めたミルクをタクミの前に置く。
「さ、召し上がれ」
初めて見るドールにセシルも興味津々といった感じで、マグカップを手にするタクミを見守っている。タクミは何かを確認するようにギイを見る。ギイがうなづくと、やがてこくこくと美味しそうにミルクを飲み始めた。
そんなドールに目に、その場の全員が、ほっとした表情を見せた。
「セシル、そいつの名前はタクミだ」
「はい、分かりました」
「明日、少し髪を切って身奇麗にしてやってくれないか。服もいるだろうし・・家の中のことも教えてやってくれ」
「承知いたしました。お部屋はいかがいたしましょうか?」
「部屋?」
犬や猫ならその辺りにゲージでも置くところだが、さすがにそういうわけにもいくまい。
かといって、客間を一部屋ドールのために与えるというのもどうかとも思う。
「あー、そうだな、どうするかな」
ギイは食事をしながらも、困ったことになったなと考えていた。
タクミはミルクを飲んでしまうと、そのまま大人しくギイの食事が終わるのを待っている。
所在なさげというわけでもなく、ただそれが当然という感じで大人しくしている。
誰かが食事の席にいるのが久しぶりで、何だか不思議な感じがした。
「タクミ」
呼びかけるとタクミはふっと顔を上げて、不思議そうにギイを見る。
「言葉は覚えられるんだろう?」
「・・・・?」
「ライアンから教えてもらうんだ。黙ったままそうして座られているとこっちも居心地が悪い」
ギイの言葉にタクミは素直にうなづいた。
とりあえずその夜はタクミのために客間を用意した。
浴室の使い方を教え、パジャマ代わりにシャツを一枚与えるとギイは一人で自室に戻った。
不安そうにするタクミのことはあえて見ないふりをした。
小さな子供じゃないんだし、身の回りのことは一人でできると三洲が言っていたから大丈夫だろうと結論づけたのだ。
「やれやれ、だな」
上着を脱いでベッドに横になる。
今日は久しぶりに章三たちとハメを外すはずだったのに、いったい何がどうなってこんなことになったのか。
欲しくもないドールに大金を払い、ましてやタクミと名づけるなんて。

(どうかしてる)

ギイは自嘲気味に笑った。
本当は枯らしたってかまわなかった。
あのまま店に取り残しても良かったのだ。だけど、何となく成り行きで引き取ることになってしまった。
愛情を糧に生きるから愛情を注げと言われたところで、本当に枯らさずにいられる自信もない。
なぜなら自分の中にはもう愛情なんて呼べるものは一欠片だって残っちゃいないからだ。
自分が持つ愛情のすべては、彼に捧げた。
それなのにドールを引き取るなんて。
「馬鹿馬鹿しい」
こんな日は寝てしまうに限る。
ギイはシャワーを浴びるとベッドに入った。
目を閉じると、三洲のあの不思議な店が思い浮かんだ。
無言のまま居並ぶ眠ったままのドール。
ギイに反応して目を開けたタクミ。
目があうと嬉しそうに笑った。

(ギイ)

いつも柔らかな笑顔で自分のことを愛してくれた恋人の姿が甦る。
彼の声も、彼の温もりも、彼の優しい笑みも、すべて鮮明に思い出せる。

(愛してるよ、ギイ)

ギイは起き上がると両手で顔を覆った。
託生のことを思い出すと、幸せな気持ちで胸がいっぱいになり、そして次には耐え切れないほどの悲しみが襲い掛かる。

(考えちゃだめだ)

自分に言い聞かせるようにつぶやく。
それでも指先が冷たくなっていくのを止められない。
息が苦しくなって、嫌な汗が流れる。
もう何度も繰り返している長い夜の始まりだ。
ギイは大きく深呼吸をして、ベッドを抜け出すと、チェストの引き出しを開けて睡眠薬を口に含んだ。
水差しの水で流し込んで、何とか息を整える。

(大丈夫。深呼吸をして、ただ痛みが通り過ぎるのを待つんだ。もう何度もそうしてきただろう)

ギイは再びベッドに横になると、目を閉じて何も考えないようにと努力した。
楽しいことも、悲しいことも、何も考えない。
それは自分が空虚になっていく虚しい作業ではあったけれど、そうしなければ眠りは訪れない。
薬の力を借りて、ギイが本当に何も考えなくてもいい深い眠りに落ちたのは、それからしばらくしてのことだった。




翌朝、いつもの時間より少し早く目覚めたギイは、そういえば、と思い出して客間を覗いてみた。
ベッドの中のタクミはすやすやと眠っていて、ギイはその安らかな寝顔に苦笑した。
起こす必要もないと思い、そのまま扉を閉める。
仕事へ行く支度をして、いつものようにダイニングで朝食を取る。
「義一様、本日のお帰りは?」
「今日?いつもと同じだと思うけどな。どうして?」
「いえ・・・」
めずらしく口ごもる執事のライアンに、ギイは目を通していた新聞から目を上げた。
「ああ、タクミのことか?悪いが、オレがいたところで手助けできるとは思えないし、どちらかと言うと、お前がちゃんと面倒見てくれるのを期待してるんだがな」
「それは、もちろんですが、何しろドールの面倒を見るのは初めてなものでして・・・」
「だからオレも同じだって。まぁそれほど心配しなくても、大丈夫だろ」
「そうでしょうか」
いつも泰然としていて、落ち着いているライアンが不安そうな表情をするのを見るのは初めてで、ギイはくすりと笑った。
気持ちがわからないでもないが、かといってギイが何かできるわけでもない。
「大丈夫だって。別に噛み付いたりしないだろうし。とりあえず身の回りのことできるらしいから手間をかけるようなことはないと思うが、家の中のこと教えてやってくれ。あと、髪も切って、服も揃えてやってくれ。何か分からないことがあれば、三洲に連絡を。オレよりずっと頼りになる」
「承知いたしました」
それでもまだライアンは不安そうにしていたが、ギイにしてみてもドールに関しての知識はまったくないのだ。
とにかくあとはよろしくと言い置いて、半ば逃げるようにして、ギイは迎えにきた車に乗り込んでペントハウスをあとにした。
「え、ドールを、ですか?」
車の中で、昨日の顛末を話すと、島岡は当然のように目を丸くした。
誰よりもギイがどういう人間かを知っているだけに、彼がドールを欲しがるとは思わなかったのだ。
「ああ、成り行き上やむを得ず」
「ですが、確かあれは・・・」
「持ち主の愛情を糧に生きるなんて、すごいよな。他力本願もいいところだ」
「・・・・」
黙り込む島岡にギイは薄く笑う。
「心配しなくても、簡単に枯らしたりはしないよ。勝手に押し付けられたに等しいが、タクミのためにいったいいくら払わされたと思う?」
「タクミ・・?」
「ああ、ドールの名前。自分でつけろって三洲に言われた」
何でもないことのように言うギイに島岡は僅かに眉をひそめた。
「だからといって・・・」
「いいんだ」
今日の会議の資料を取り出し、この話はもう終わりだと無言のうちに告げるギイに、島岡は素直に口を閉ざした。
何を言ったところで、一度決めたことを翻すようなギイではないことは、島岡が一番よく知っている。
ドールを引き取ると決めたのであれば、それが本意でなくとも、それなりに責任を持って対処するだろう。できないのであれば、たとえそれがドールを枯らすことになったとしても引き取ったりはしなかっただろう。
ギイには潔い反面、ひどく冷淡な部分もある。
一時期そういう冷たい一面は薄れていたようにも思えていたが・・・

(ギイがドールにタクミと名づけるなんて)

島岡にはそれがいいことなのかそうでないことなのか判断ができなかった。
それきりギイはタクミのことを話すことはなく、オフィスに到着するといつものように分刻みで仕事が押し寄せ、それを淡々とこなしていった。何も変わらないいつもの日常だった。
島岡もギイがドールの持ち主になったことをすっかり忘れていた。
その日の大方の仕事が終わると、ギイは残りは明日に回すようにと島岡に告げた。
「珍しいですね、まだ早い時間なのに」
もちろん早いといっても十分遅い時間ではあった。どこかで区切りをつけないといつまでたっても仕事を続けるギイを諌めるのが島岡の役目になっているというのに、ギイの方からそんなことを言うなんて、と首を傾げた。
「ああ、ライアンが困ってるといけないからな」
ギイの言葉に、島岡は、ああと笑った。
そこでようやくギイがドールの持ち主になったのだということを思い出したのだ。
そしてギイという人はそういう人だったな、ということも。
興味がない風を装って・・・実際それほど興味がないにしても、自分が招いたことで誰かが困っているのを捨ててはおけないのだ。
「では車を回します」
「頼む」
さて、とギイは考えた。
ライアンは優秀な執事で、例え困った状況であっても的確に対応をしてくれているだろうとは思うものの、何しろ相手はドールだから、どうなっていることか。
ギイはくすりと笑いを漏らした。
普段これといって波風の立たない生活をしているライアンたちにしてみれば、タクミがいることで少しは暇を潰せたのかもしれない。そう思うと、タクミを連れて帰ったことも悪くなかったかと思えた。




ペントハウスに帰ると、いつも通りライアンが迎えに現れた。
普段ならギイが帰宅する時刻ではないので、内心驚きはしたものの、それを表情に表すことはない。
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
「すぐにお食事の支度を」
「うん。タクミは?」
「リビングにおります」
先を歩くギイの後ろでライアンが今日の報告を始める。
「特に変わったことはございませんでした。タクミに言葉を教えろとのことでしたので、試してみたのですが」
「だめだったか?」
「そうですね、さすがにすぐにはしゃべれるようにはならないようで・・・申し訳ございません」
「別に謝ることじゃないさ。ま、しゃべれなくても困ることがないならそれでいい」
タクミは目覚めるとギイがいないことにひどくがっかりしたようで、まるで置いてきぼりをくらった子供のような様子に、ライアンたちは何とも複雑な気持ちになったという。
見た目はまだ子供ということもあり、知らない場所で不安そうにしているのが可哀想になり、メイドのセシルはあれこれと話しかけてみた。
返事が返ることはなかったが、タクミはセシルにも人懐こい笑顔を見せたという。
「ドールは基本的には持ち主にしか懐かないと聞いていたのですが、どうやらタクミはそうでもないようですね」
「ふうん。扱いやすくてよかったな」
ギイがリビングに入ると、ソファに座っていたタクミがギイの姿に満面の笑みを浮かべて立ち上がった。
その姿に、ギイは言葉を失い立ち尽くした。
髪を短くし、シンプルなシャツを着たタクミは、昔自分のそばにいた託生を思い出させた。
特に顔が似ているわけではないのに。
どういうわけか、タクミを見るたびに彼の面影が甦る。
嬉しそうにぱたぱたと近づいてきたタクミは、いきなりギイに抱きついた。
両腕を身体に回して嬉しそうに頬を寄せる。
「おいおい・・・」
一瞬、託生に抱きつかれたような気がして動揺した。
タクミは母親が迎えてにきてくれたかのように、ギイに頬をすり寄せる。
小さな子供のような仕草に、ギイは苦笑してそっとタクミを引き剥がした。
「そんなに熱烈歓迎してくれなくてもいい。食事はしたのか?」
ライアンを振り返ると、それが・・・と困ったように眉をひそめる。
「指示された通り、ミルクを温めて与えてみたのですが、口にしようとしません。朝から何も食べてないので、心配していたんです」
「タクミ、どうして飲まないんだ?腹減ってないのか?」
「・・・・」
困ったやつだな、とギイは肩を落とす。
そして、そういえばと思い出して、ライアンにミルクを持ってくるように告げた。
ダイニングのテーブルに着き、斜向かいにタクミを座らせる。
すぐに温められたミルクが運ばれ、ギイはそれを直接タクミへと手渡した。
すると、素直に受け取ったタクミは、カップに口をつけて、美味しそうにミルクを飲んだ。
その様子に、ライアンは呆気に取られた。
「何と・・・あれほど言っても口にさえしなかったのに」
「ライアンが悪いんじゃない。確かドールは主人からのミルクじゃないと口にしないって説明書に書いてあったんだ。忘れてたよ」
もともときちんと三食食べなければいけないというものでもないようだし、腹が空けば勝手に食事をするだろうと思っていたのだが・・・。
ギイはタクミへと身を乗り出して、その目を覗き込んだ。
「タクミ」
「・・・・?」
「オレがいなくてもちゃんと食事はするんだ」
「・・・・」
「お前が食事をしないと、オレが困る」
「・・・・?」
「オレは忙しくて、食事の時間に帰ってこれないことの方が多い。オレの帰りを待っていたら、いつまでたっても食事なんてできないからな。オレがいなくても、ちゃんと食事はするんだ。いいな?」
タクミは何かを考えるようにギイの言葉を聞いていたが、やがて素直にこくんとうなづいた。

(やれやれ。頑固なんだか素直なんだか)

思わず笑いが漏れた。
そういうところも似ているな、と遠い昔のことを思い出した。
託生もそうだった。一見優しそうに見えて、けれど一度決めたことは曲げない強さがあった。
辛いこともたくさんあったはずなのに、そういうことは口にしなかった。
俯くタクミに、別に怒ってるわけじゃないからな、と告げて、ギイは自分の食事を始めた。
こんな時間に自宅で食事ができるなんて本当に久しぶりのことだった。
タクミはミルクを飲み干してしまうと、大人しくギイの食事が終わるのを待っている。
「髪を切ってもらったんだな。何だかさらに幼くなった感じだが、よく似合ってるよ」
ギイの言葉にタクミが嬉しそうに笑う。
それにしても、ギイのいない間いったいタクミは何をしているのだろうか。話ができるわけでもなく、一人で外出できるでもなく。一日中家でぼんやりしているだけなのだろうか。
字が読めるなら書斎にある本を好きなだけ読めばいいのだが、どうもまだドールについての知識がなく戸惑うことが多い。
そこまで考えて、ギイは軽く頭を振った。
別にそこまで心配してやる必要はまったくないのだ。相手は人間ではなく単なるドールなのだから。
言ってみればペットと同じで、なまじ姿形で人間と同じだから気になるだけで、犬でも飼ったつもりでいればいいのだと思いなおす。
食事が終わり、食後のコーヒーを運んできたライアンは綺麗なガラス瓶をテーブルに置いた。
「義一様、昼に三洲様のお店へ行っていろいろと教えていただいたのですが、ドールは週に一度は砂糖菓子を与えてやるといい、と。ちょうどいい品が入っているとのことでしたので買い求めたのですが」
「そっか。砂糖菓子ねぇ。タクミ、食べるか?」
声かけると、タクミはギイのそばに近づいた。
ガラス瓶の蓋を開けると、中には綺麗な色の砂糖菓子が入っている。タクミはそれを目にすると、ぱっと顔を輝かせた。
どうやら好物らしいが、それほどに美味なのだろうか?
甘いものにはそれほど興味がないギイは砂糖菓子を摘んでしげしげを眺めた。
手にした砂糖菓子をタクミの口元へ運ぶと、タクミは素直に口を開けてぱくりと砂糖菓子を食べた。
口に含んだとたん、満面の笑みを浮かべる。
「美味いか?」
こくんと頷くタクミに、良かったな、と思わずギイも笑みを零した。
もっと欲しいという目をするタクミだったが、一度にたくさん与えてはいけないと三洲から聞いたというライアンの言葉に従って、ギイはガラス瓶に蓋をした。
「1週間に一度でいいっていうんだから、それ以上はだめだ」
「・・・・・」
唇を尖らせるタクミの頭を撫でて、ギイは立ち上がった。
「おいで」
そのままタクミを連れて自室へと向かう。
素直についてきたタクミをソファに座らせると、ギイは机の上に置いてあった本を手にした。
普段仕事が終わって帰宅すると深夜に近く、こんな風にゆっくりと自分だけの時間を持つことなどなかなかできない。読みかけの本を読んでしまおうと思ったのだが、何となくタクミを放っておくのも可哀想な気がしてつい部屋に連れてきてしまった。
「字が読めないんじゃ仕方がないが・・・」
大人しく座っているタクミに、ギイは本棚から一冊の写真集を取り出して手渡した。
「写真なら見るだけだし暇つぶしにはなるだろ?」
大判の写真集はずっしりと重く、タクミは両手で受け取ると、そっとテーブルの上にそれを置いた。
表紙をめくると、そこには美しい風景の写真が広がっている。
世界中の四季折々の自然を集めた写真集に、タクミが目を輝かせる。
「気に入った?」
ギイが聞くと、タクミはこくりとうなづいた。
「じゃ、しばらくそれを見てるといい」
ギイもまた本を片手にごろりとベッドに横になった。
静かな夜だった。
それでなくてもペントハウスには人が少なく、皆ギイが声をかけない限りは顔を見せることもない。
ギイ自身、仕事の時は別として、プライベートな時間では一人でいることが多く、昔のように誰かと一緒に時を過ごしたいと思うこともなかった。
話すことをしないタクミはソファに座ったまま、食い入るように写真集を眺めている。
人の気配をさせないタクミは、そこにいてもまったく気になることもない。
一時間ほど本を読んで、ギイがふと部屋に一人きりではないことを思い出してタクミへと視線を向けると、タクミは写真集の上に顔を伏せてぐっすりと眠り込んでいた。
ベッドから降りると、ギイはさらりとしたタクミの髪をかき上げた。
「タクミ・・・?」
呼びかけると伏せられた長い睫が微かに震えた。
けれど起きることはなく、ギイは小さくため息をついた。
このままここに置いておくわけにもいかないので、そっとその身体を抱き上げた。
華奢な身体は軽く、眠っていても重さを感じさせることはなかった。
自室の扉を足で開けて廊下へ出ると、昨日タクミを眠らせた部屋へと入った。
真っ暗な部屋を横切り、綺麗に整えられたベッドへとタクミを横たえた。
まるで小さな子供のようなあどけない寝顔に何とも言えない気持ちになる。
別に特別に愛情を感じているわけではない。
けれど、ギイのことを慕うタクミを見ていると、それはやはり温かい気持ちにもなった。
「おやすみ」
上掛けをかけやり、ギイは静かに部屋を出た。
自分もまた眠ってしまおうと自室へ戻り、シャワーを浴びると、ギイは部屋の明かりを落としてベッドに横になった。
目を閉じて、眠りを訪れるのを待つ。
毎日遅くまで仕事をしていて、身体も神経も疲れているはずなのに、いつもよりもずっと早い時間のせいか、なかなか眠りが訪れることがなかった。
音のない静かな暗闇の中で、思い出すのは託生のことばかりだった。
幸せな記憶を辿り、そして最後には息ができなくなるほどの痛みに襲われる。
それもまたいつものことだ。
祠堂を卒業してすぐは眠れない日々が続き、さすがに体力の限界が訪れたため、やむを得ずギイは医者から睡眠薬をもらった。その当時は薬がなければ眠ることができなかった。
その頃に比べれば今は薬を使うのはほんの時折で、大抵は何とか自力で眠ることができるのだから、まだましだと言える。
ギイはベッドの中でぎゅっと丸くなって冷えた身体を抱きしめた。

(大丈夫・・・)

何度も何度も自分に言い聞かせて、けれど痛みが消えていくことはない。
どれくらい時間が過ぎただろうか。
ギイはゆっくりと起き上がると、ベッドを抜け出した。
ペントハウスは静まり返っている。ギイは裸足のまま廊下を歩き、タクミが眠る部屋の扉を開けた。
中はひっそりとしていた。まるで誰もいないような静けさに、ギイは一瞬足を止めた。
自分が馬鹿なことをしている自覚はあった。
けれど、どうしても一人では眠れそうにない。
少しの逡巡のあと、そのままベッドへと近づき、すやすやと眠るタクミの顔を覗きこんでみる。
「タクミ?」
小さく呼びかけてみると、タクミは身じろいで、そしてゆっくりと目を開けた。
そこにギイがいることを知っても、さして驚くでもなく、眠そうに何度か瞬きをするだけだ。
ギイは手を伸ばして、その頬に触れてみた。
柔らかい頬。
くすぐったそうに笑って、タクミがギイの手に自分のそれを重ねる。
昔、同じようにギイの手を取ってくれた恋人の姿が思い出されて、ギイは突き上げる衝動を押さえることができず、覆いかぶさるようにしてタクミを抱き寄せた。
掻き抱くようにしてその細い身体を抱きすくめる。
タクミは苦しそうに一瞬身をすくめて、けれど逃げるようなことはしなかった。

(温かい)

ドールも同じように体温を持っているんだな、と今さらのように気づいた。
そのまま上掛けを剥いでベッドの中に潜り込む。
長い腕を伸ばして抱きしめると、タクミは嫌がることなくされるがまま、大人しくギイの腕の中におさまった。
ようやく冷たくなっていた指先が温かくなり、普通に息ができるようになる。
誰かの体温を感じるのは本当に久しぶりで、ほっとした。
大人しくされるままになっているタクミを抱きしめて、しばらくそのまま彼の温もりを確かめた。
人間ではなくドールなのだと分かっていても、その温もりは確かにあって、ギイのことを包み込んでくれる。
「タクミ・・・」
「・・・・」
「名前、呼んでくれよ」
昔みたいにギイって呼んでくれたら、本当に泣いてしまうかもしれないとギイは思った。
それでもいいから、名前を呼んで欲しかった。
話すことができないのだと分かっていても、願わずにはいられない。
「託生・・・」
「・・・・」
「託生・・・・っ」
強くタクミを抱きしめると、やがてそっと、タクミがギイの髪を撫でた。
「・・・・っ」
何度も何度も、子供をあやすように優しく。
その仕草にわけもなく涙が溢れそうになる。

腕の中にいるのは愛しい人ではないと分かっていても、
自分のことを抱きしめてくれる存在がそこにあることに安堵する。
ギイがタクミを抱くのを同じ強さで、タクミもまたギイのことを抱きしめてくれる。

(眠れそうだ)

遠い昔に、同じように託生を抱いて眠った。
幸せで、温かくて。
ギイはタクミを抱く腕の力を緩め、その首筋に顔を埋めた。
タクミからはミルクと砂糖菓子の甘い匂いがした。





「ギイ・・・・」
遠くで自分を呼ぶ声がする。
「ギイ・・・起きて・・」
ゆるゆると肩を揺らす手に、ギイは低く唸って目を開けた。
眩しい光に、夜が明けたことを知る。
久しぶりにぐっすりと眠れた気がして、もう少し気持ちのよい眠りを貪っていたい。
「ギイ・・・」
優しく甘い声を耳にして、そこでようやくこの部屋で自分の名前を呼ぶ者などいないということを思い出して、一気に目が覚めた。
勢いよく起き上がったギイが目にしたのは、不思議そうに自分を見つめるタクミだった。
「おはよう、ギイ」
「・・・・・タクミ?」
話せないはずのタクミの口から名前を呼ばれ、ギイはいったいどういうことかわけが分からずに混乱した。
「お前・・・話せるのか?」
「話せる・・・」
「どうして・・・急に・・昨日までしゃべれなかったじゃないか」
「うん・・・でもギイが、名前呼んでって言ったから・・・」
「・・・・」
「ギイが・・そう言ったから・・・」
まだ声を出すのに慣れていないからか、タクミは途切れ途切れにそう言うと、不安そうにギイを見た。
「そっか・・・オレが言ったから、か」
「うん」
「ドールって・・・分かんねぇな・・・」
ギイはぱたりとベッドに突っ伏した。
ふいに笑いが込み上げて、くすくすと笑った。
一人では眠ることができなくて、何でもいいから温もりが欲しくて衝動的にタクミのベッドに潜り込んだ。
昔のように名前を呼んで欲しいと願うと、タクミはちゃんと声にして名前を呼んでくれた。
タクミはちょこんとベッドの上に座って、笑いを堪えるギイを見つめている。
何とも言えない感情が込み上げてきて、ギイはタクミの手を取った。
「タクミ・・・声聞かせて」
「ギイ・・・」
歌うようにギイの名前が音になる。
高すぎ低すぎず、タクミの柔らかい声は耳に心地いい。
「もっと」
「・・・ギイ・・・お腹空いた」
「くくっ、そうだな、腹減ったな」
ギイはベッドから降りると、いったん自室へ戻って服を着替え、タクミと一緒に朝食のためにダイニングへと向かった。
タクミが話せるようになったと知ると、ライアンはずいぶんと驚いたが、どこか安心したように笑顔を見せた。
それはタクミが話せるようになったことで、ギイが嬉しそうに見えたからだった。
ギイに朝食が運ばれると一緒に、タクミの前にもミルクが置かれる。
タクミは両手でカップを持ち、こくこくと飲み干した。
「ミルクは美味いか?」
「美味しい」
「ミルクだけで腹は空かないのか?」
ギイは疑問に思っていたことをタクミに聞いてみる。
「ミルクでお腹はいっぱいになるよ?」
「ふうん。他のものは食べられるのか?」
「義一様」
もう少しで自分の食べているスクランブルエッグをタクミへと差し出しそうになるギイを、ライアンが静かに諌める。ミルク以外のものは与えてはいけないと知っているだろうに、どうも好奇心には勝てないと見える主人にライアンは肩を落とす。
「義一様、そろそろお時間です」
「ああ」
残念そうにギイが立ち上がると、タクミも一緒に席を立った。
「いつ帰ってくるの?」
ギイを見送るライアンと共に、タクミもギイを見送りに玄関先に立った。
何とも可愛い質問をするタクミに、ギイとライアンは顔を見合わせて苦笑する。このペントハウスで、ギイにこんな質問をする人間は今は誰もいない。
「何時になるかは分からないな」
頭の中で今日のスケジュールを思い出そうとしてみるが、スケジュール管理はすべて島岡がしているのでいったい何時に仕事が終わるのかすぐには答えられない。
「早く帰ってきて」
タクミがきゅっとギイのスーツの袖口を掴んだ。背の高いギイを上目遣いに見上げ、首を傾げる。
「早く帰ってきて、ギイ」
「・・・・」
「早く帰ってきて。待ってるから」
「・・・・我侭言わずに大人しくしてろ、いいな?」
ギイがくしゃくしゃとタクミの髪を撫でる。口調は堅いが、けれど目は笑っている。
「ちゃんとご飯食べるんだぞ」
まだ何か言いたそうにしているタクミの頬を摘んで、ギイは振り返ることなくペントハウスを出て行った。
迎えの車に乗っていた島岡は、ギイがやけに楽しそうにしていることに気づいた。
「何かいいことでもありましたか?」
「うん?ああ、タクミがしゃべるようになってさ」
「それは良かったですね・・・と申し上げてよろしいのでしょうか?」
車内で書類を受け取ると、ギイはページを捲りながらそうだなぁと笑う。
「案外楽しいのかもな、ドールと暮らすっていうのは」
「そうですか、一度私も会ってみたいですね、そのドールに」
「いつでもどうぞ。タクミは人見知りしないみたいだしな」
何でもないことのように言うギイの表情が優しいものだったことに、島岡は小さく笑う。
あれほど面倒臭そうにしていたというのに、いったいどういう心境の変化なのか。
いずれにしてもちゃんと世話をしているのならそれに越したことはない。
そしてまた夜まで分刻みでの仕事が押し寄せ、ギイは息つく暇なくひたすら仕事に没頭した。





その夜から、ギイはよほどの急ぎの仕事がない限り、真っ直ぐペントハウスに帰ってくるようになった。
ギイが戻ったと知ると、タクミはこれ以上ないほど嬉しそうに迎えに出る。
無邪気な笑顔を見ていると、どうしても邪険にすることもできなかったし、言葉が交わせるようになるとコミュニケーションも取れるようになり、ドールだということも忘れてごくごく普通に接することができるようになった。
「今日は何をしていたんだ?」
仕事から帰り、自室でタクミと2人きりになると、必ずギイはそう尋ねる。
「今日はギイが貸してくれた本を読んでた」
「ああ、写真集な。タクミはずいぶんと気に入ったみたいだな」
「すごく綺麗だから」
文字は読めないタクミのために、ギイはさまざまな写真集をまとめて購入した。
タクミは思わぬプレゼントを喜び、その1冊1冊を毎日飽きることなく眺めている。
テーブルの上に広げられた写真集を見て、タクミはここはどこ?と一つ一つギイに尋ねる。
「世界にはこんなに綺麗な場所があるんだね」
「ああ、そうだな」
「ギイは、行ったことがあるの?」
「仕事でいろんな国には行くけれど、どれも街中ばかりだしな。そういう写真みたいな綺麗な場所にはほとんど行かないな」
「残念だね」
タクミは写真集の中の風景を指でなぞる。
小さな子供みたいに夢中になっているタクミにギイが声をかけた。
「なぁ、ドールって作られた時からずっと眠ったままだろ?その時は意識はないのか?」
ギイの問いかけに、タクミはゆるゆると首を振る。
「眠ってるのとは少し違う・・・。でも、上手く説明はできない」
「そうか。眠っているのに、どうして自分の主っていうのが分かるんだろうなと思ってさ」
ドールは自分で持ち主を選ぶ。
正しい持ち主が現れると自然に目を開けるというのが、いったいどういう仕組みになっているのかずっと不思議に思っているのだ。
「・・・・分かるんだ」
タクミが小さくつぶやく。
「ギイが現れた時、何か・・・眩しくて、温かくて、綺麗なものを感じた。それまで何度も何度もいろんな人がぼくの前に立って、目を覚まさないかって言うんだけど、ぜんぜんそんな気にはならなかった。だけどギイが現れた時、自然と目が開いた。早くギイのことを見たくて。どうしてかなんて分からないよ。ただギイだから。それだけ」
「そっか」
タクミはギイを見て無邪気な笑みを浮かべる。
そばにいるのが嬉しくて仕方がないというような微笑。
「いつか連れていってやるよ」
「え?」
「タクミが好きな場所に、いつか行こう」
「本当に?」
ギイの言葉にタクミが飛び上がってギイに抱きつく。
「本当に連れていってくれるの?」
「ああ」
「いつ?」
「あー、そうだなぁ、次のバカンスかな。休みを取るよ」
「約束だよ?」
きらきらと目を輝かせるタクミを見ていると、久しぶりにちゃんとした休みを取ってもいいかという気になる。
こんな風にそばにいて、何てことのない話をしていると、まるで遠い昔に託生と一緒にいた時のことを思い出す。
卒業したら、という話を何度もした。
それは決して夢の話ではなく、必ず叶える約束のはずだった。
けれど、永遠に果たすことのできない約束となってしまった。
「ギイ?」
「ああ、ごめん」
タクミはギイの心の動きにひどく敏感だ。ギイからの愛情が生きる糧なのだから、それも当然なのかもしれない。
ギイが笑うとタクミも笑ったし、ギイが塞ぎこむとタクミもまた元気がなくなる。
心配そうにギイを見るタクミの頬を指先で撫でると、タクミは嬉しそうに笑った。
「・・・今夜も一緒に寝るか?」
「うん、一緒に寝る」
タクミのためのように言ってはいるが、実際そうしたいのはギイの方だった。
あの夜から、ギイは眠る時にタクミをそばに置くようになった。
一緒なら不思議と安らかな眠りにつくことができた。
もちろんドール相手に性的な欲求など湧くはずもなく、ただ一緒に眠るだけだ。
冷たいシーツもタクミがいれば温かくなる。
華奢な身体を抱き枕のようにして抱きしめて、ギイは毎晩眠りにつく。
「ギイ、濡れてる」
「うん?」
薄闇の中、タクミがそっとギイの頬に触れた。
指先を濡らすものが何なのか分からずに、タクミは無邪気に尋ねる。
「どうして濡れてるの?」
「・・・どうしてかな」
知らないうちに涙が溢れていたのか、とギイは細くため息をついた。
どれほど時がたっても、時々こんな風に涙が溢れる。
もうそれをどうにかしようなどと思うこともなくなった。ただ自然と涙が止まるのを待つだけだ。
無理に止めようとしてもどうにもならないと、経験から学んだ。
「涙?」
「ああ、そうだよ」
「悲しい時に流れるものだよね」
「そうだね」
タクミはギイの頬を濡らす涙を拭うと、ぺろりとその頬を舐めた。
「・・・しょっぱい」
「ドールは泣いたりしないのかな」
「・・・分からない」
ギイはふっと笑うと、タクミを腕の中に抱きしめた。
「託生・・・・」
「・・・・」
「愛してる・・・・」
同じようにタクミが返してくれればと願ってみても、タクミは何も口にすることはなかった。
それでも良かった。
一人で眠るのはもう嫌だと思った。







「ずいぶんと可愛がってるようだな」
タクミがギイの元へやってきてから2ヶ月ほどたった時、章三がペントハウスへとやってきた。
最近きちんと日曜日には休みを取っていると聞いて、様子を見に来たのだという。
テラスでランチを取りながら、章三はギイの表情がずいぶんと穏やかになっていることに内心驚いていた。
タクミを引き取ると決まった時は、ずいぶんと迷惑そうにしていたから、ちゃんと枯らさずに愛情を注いでいるか心配していたのだ。
「高い金を払ったんだから、そんなに簡単には枯らさないって言っただろ」
「そりゃまぁな。それにしても、まさかしゃべれるようになるとは思ってなかったなぁ」
ギイと一緒に章三を迎えてくれたタクミは普通の人と同じように言葉を話した。
章三の知っている限り、話をするドールというのはあまり聞いたことがなかった。
「オレも驚いてる。けど、基本的に頭はいいんじゃないかな。一度言ったことはちゃんと守るし、たいていのことは自分でできる。簡単な言葉なら読めるようになったし」
「へぇ、そりゃすごい」
章三はライアンが運んできた料理に舌鼓を打つ。
ここで出される料理はどれも舌の肥えた章三を満足させるものばかりで、いつ来ても幸せな気分になれる。
「何しろ、お前が元気そうで何よりだよ」
「何だ、オレのことを心配してたのか?」
思ってもいなかったようで、ギイは章三の言葉に目を見開く。
「心配するさ、当たり前だろ」
「どうして?オレはちゃんとやってるだろ」
空になった章三のグラスにシャンパンを注ぎ、ギイが薄く笑う。
章三はカトラリーを置くと、真面目な顔でギイを見つめた。
「ギイ」
「何だ?」
「僕はギイの相棒だ、って言ってくれたよな?」
「何だよ突然に。ああ、章三はオレの相棒だよ。祠堂にいた時からずっと、章三以上にバランスのいい人にはまだ出会ったことがない」
最高の褒め言葉に、章三はうんとうなづく。
「僕もギイのことは一番の相棒だと思ってる。だから、ギイには誰よりも幸せになって欲しいと思ってる」
「・・・・・」
「ギイ、葉山のことは・・・・」
「託生の話はしたくない」
強い口調で拒絶され、章三は一瞬怯んだ。
けれど、いつまでもそうして逃げているギイをただ見ているのも辛い。
だから今日は、ちゃんとギイと託生の話をしようと決めて来たのだ。いつもいつも、お互いその話題には触れないようにしているが、触れないことの方が本当はおかしいのだ。
今日、タクミのことを可愛がっているというギイを知って、タクミのおかげで、ギイが少しは変われるんじゃないかと思えた。
今ならギイは聞いてくれるかもしれないと、章三は微かな希望に賭けてみることにした。
「ギイ、葉山のことを忘れろなんて言うつもりはない。忘れられるはずもないってわかってる。だけどな、いつまでもそうして葉山のことを思い続けても、辛いだけだろ?だったら・・・」
「オレにこれ以上どうしろっていうんだっ」
ギイが吐き出すように言い捨てた。
「周りが望むようにしてるだろ。ちゃんと仕事もしてる、それなりに人付き合いだってしてる、これ以上オレにどうしろっていうんだ?幸せそうふりをしろって言うのか?すべて忘れたふりをしろって言うのか?誰のためにそんなことをしなくちゃならないんだ?」
「ギイ・・・そうじゃない。そんなことを言ってるんじゃない・・・」
ギイの言う通り、ギイはそれまでと何も変わったところはないような生活を送っている。
自分のやるべきことをちゃんとこなしている。けれど、章三が言いたいのはそんなことではなかった。
どんな形であれ、ギイにちゃんと幸せだと思えるようになって欲しかった。
ただそれだけだ。
「ごめん、章三」
ギイはつい自分が感情的になったことに気づいてぎこちなく謝った。
「このままでいいんだ。ありがとな。心配してくれて。だけど、やっぱりだめなんだよ。オレ、託生じゃなきゃだめなんだ。どれだけ忘れようとしても無理なんだ」
「ギイ・・」
「悪いな、章三が心配してくれてるのは、ちゃんとわかってる。だけど、お前までオレから託生を奪わないでくれ」
章三ははっと顔を上げた。
「頼むよ、章三」
どこまでも穏やかなギイの口調が余計に切なく聞こえた。
自分ではどうしてやることもできないことは章三も最初から分かっていた。どれほどの言葉を尽くしても、ギイが抱えている痛みをすべて取り去ってやることはできない。けれど、何もできずに相棒が苦しんでいる姿を見るのは、やはり辛い。
だけど、結局はギイ自身の問題なのだと思い直す。
章三が何を言ったところで、ギイがきちんと自分の中で区切りをつけない限り、きっと何も変わらないのだ。
そんな日が来るのかどうか予想もできない。
「分かったよ。だけど、僕にできることがあれば、何でも言ってくれ。一人で抱え込んだりしないでくれ、頼む」
「ありがとう、章三」
ギイの心からの言葉に、章三はうなづいた。
食事が終わり、デザートのジェラードが運ばれてきた時、ライアンがギイに声をかけた。
「義一様、島岡様よりお電話が」
「島岡ぁ?何なんだよ、今日は休みだろ」
「お急ぎのようです」
「わかったよ」
ライアンから電話を受け取ると、ギイは章三に悪いなというように片手を上げて席を立った。
章三がジェラードを食べ終え、懐かしいバニラの香りのコーヒーを楽しんでいると、ようやくギイが席に戻ってきた。
「どうした、トラブルか?」
「んー、ちょっとな。章三は30分ほど一人にしても構わないか?」
「それはいいが、帰った方がいいならそうするぜ?」
「いや、指示さえ出せば対応できる程度のことだから。せっかく来てくれたのに悪いな」
「適当にやってるから気にしなくていいぞ」
「ああ、助かる」
ギイは済まなさそうに言うと、そのままテラスをあとにした。
今日は他に用があるわけでもなかったし、章三としても久しぶりにギイとゆっくり話もしたかったので、言われた通りのんびりとギイが戻ってくるのを待つことにした。
ふと、タクミに相手をしてもらうか、と思いついた。
ちゃんと会話もできるようだし、いい時間潰しにはなるに違いない。何しろドールと話ができるなんて初めての経験だ。いい機会じゃないかと考えた。
ライアンにタクミを呼んでもらえないかと聞くと、すぐにタクミをテラスへと連れてきてくれた。
ドールはミルク以外のものは口にしないから、ということで、食事の席には呼ばれていなかったのだ。
「やあ、少し僕の相手をしてもらえないかな。ギイが仕事でね」
章三が言うと、タクミはこっくりとうなづいた。
いい天気だったので、ルーフバルコニーへと出てみることにした。
けっこうな広さのあるバルコニーは、まるで地上の庭と同じように綺麗に手入れされた植物で溢れてていて、そこにいるだけで気持ちがほっとした。
もちろんギイが手入れをしているとは思えないので、すべて執事のライアンがしているのだろう。
バルコニーの端に置かれたベンチに2人して腰かける。
「どう、ギイとは仲良くやってる?」
「はい」
「あいつ、ちゃんと優しくしてくれてるか?」
「ギイはすごく優しくしてくれます」
「そうか、それは良かった」
いくらギイの親友だからといっても、タクミにしてみれば赤の他人にしかすぎない章三のことを、やはりどこか
緊張した面持ちでタクミは見ている。
章三の問いかけにはちゃんと答えるものの、けれどタクミの方から話をすることはない。
会話は途切れがちだったけれど、かといって、一緒にいるのが苦痛ということもなかった。
そういう所も葉山に似ているな、と章三は思った。
さっきまで葉山の話をしていたせいかもしれない。少しばかり感傷的になっているみたいだ、と章三は息をつく。
「あの・・・聞いてもいいですか?」
「うん?何だい」
タクミから声をかけられ、章三は我にかえった。
「ギイのこと教えて欲しいんです」
「ギイのことって?」
「何してる人か・・とか」
「ああ・・・」
普通に知り合った友人が一度は疑問に思うようなことを口にするから、本当にドールと人間との違いが分からなくなるな、と章三は苦笑する。
「ギイは親父さんがFグループっていう世界的企業のトップでね、今は親父さんにこき使われてらしいけど、ゆくゆくは会社を継ぐことになっている。世界中に支社があるから、あいつもあちこち飛び回ってるみたいだな」
「いつも帰ってくるのが遅い」
「うん、だけどタクミが来てからは、ちゃんと日付が変わる前に家に戻ってくるようになったって、さっきライアンさんに
聞いたからな。僕にしてみれば驚きだね」
章三が知る限り、ギイは過労死するんじゃないかと思うほどに仕事をしている。それが辛いことを忘れるためだということは分かっていた。タクミがそんなギイを人間らしい生活に戻してくれたことには感謝しているのだ。
「ギイって、強い人なのかな・・それとも弱い人なのかな・・・?」
「どうして?」
タクミは小首を傾げて章三を見た。
「ギイからはすごく綺麗で強いオーラが出ているんだけど・・夜になるとそういうのが見えなくなるから」
「?」
「夜になると、ギイは泣いてるから」
「・・・・っ」
初めて知る事実に、章三は言葉を失った。そして次にはぎゅっと胸が痛くなった。
分かっていたはずなのに、ギイが泣いているという事実はやはりショックだった。
あのギイが泣いているところなんて、いったい誰が想像できるだろうか。章三さえも、普段のギイを見ている限り、未だにそんな風に苦しんでいることを忘れてしまいがちだ。
わかっていたはずなのに。
ギイがどれほど託生のことを愛していたか、目の前で嫌というほど見せつけられていたのに。
これじゃあ相棒だなんて失格だな、と章三は自分の迂闊さに舌打ちしたくなった。
「託生って誰?」
「え?」
章三はぎくりとしてタクミを見た。タクミは自分が疑問に思ったことを、何の衒いもなく聞いているだけのようでそこに深い意味はないように思えた。
「どうして、託生って名前を知っているんだ?」
「だって、ギイがそう呼ぶから」
「・・・・呼ぶ・・ってタクミのことを?」
「夜、一緒にベッドで寝てると、必ずギイがそう呼ぶから。『託生、愛してる』って。ぼくを見て、そう言うから」
「ああ・・・」
章三はどこか暗澹たる思いがして、やるせなくなった。
「『ギイって呼んでくれ』って言うけれど、だけどぼくは託生じゃないから、呼べなくて。そしたらギイはちょっと笑って、そして泣くんだ」
タクミは淡々と事実だけを述べている。
もしこれが人であったならば、その裏にどういうことがあるのか、ある程度想像もできるのだろうが、ドールはそういうことを考えたりはできないようだった。
ただ純粋に、どうしてギイがそんなことを言って、涙を流すのかが不思議なのだろう。
「ギイはどうして泣くのかな。悲しいことがあると涙が出るって聞いたけど」
「ああ、そうだよ。悲しいことがあったんだ」
章三はぎゅっと両手を握り締めた。
タクミに話すべきかどうか躊躇した。ギイがそんな風にタクミのことを見ているとは思ってもみなかった。
葉山の代わりにしているとは思わないけれど、無意識のうちに何かを求めているのだろうことは分かる。
タクミが意図せずにギイを傷つけたりしないように、ちゃんと教えておくべきなのかもしれない。
「託生っていうのは・・・ギイと僕の高校時代の友人だよ。葉山託生。寮のギイの同室者で、ギイの恋人だった」
今でも葉山の柔らかな笑顔を思い出す。
これ以上ないくらいギイに大切にされていた。
「その人はどこにいるの?どうしてギイと一緒にいないの?」
「葉山は・・・亡くなったんだよ」
「え?」
タクミは言葉の意味が分からないのか、きょとんと章三を見返した。
「死んだんだ。卒業まであと少しの春休みだった・・・」
言葉にすると、忘れようとしていた悲しみが章三を襲った。ギイのことを言えないじゃないか、と自嘲する。
自分だってまだこんなにも辛い。ギイに何かを言えるほど、立ち直っているわけではないと思い知らされる。
「どうして・・・・?」
「どうしてかな、どうしてあんなことになったのか、僕にも分からないよ」
章三はぎゅっと握り締めた拳に額を押し当てた。




ギイと託生が出会ったのは高校一年の時。
2人は1年の頃は同じクラスで、2年になって寮の同室者となった。
いったいいつからギイが託生のことを好きだったのかは分からないけれど、春が過ぎた頃、2人は恋人同士になった。
不純同性交友なんて言語道断というスタンスの章三だったけれど、幸せそうな2人を見ていると、百歩譲って見てみぬふりを決め込むしかなかった。
託生はどちらかというと目立たない方で、すべてのことで周囲から一目を置かれるギイとは釣り合わないんじゃないかと思われがちだったし、章三自身も、どうしてギイほどの男が、と最初は不思議に思った。
けれど2人が一緒にいるのを見ているとそれが普通でしっくりときていて、ギイはちゃんと正しい相手を選んだんだなと思えた。
山奥の全寮制の男子校に、どうして託生が入学したのか、章三はその理由まったく知らなかった。
古くからある伝統のある学校だったし、地方からの入学者も多かったから別に特別な理由などないと思っていたのだ。
けれど、ちゃんと理由はあった。
あとから知ったことだけれど、託生は幼い頃から実の兄から性的虐待を受けていたのだ。
それから逃れるために、託生は実家から遠く離れた祠堂にやってきた。
ギイがそのことをどの時点で知ったのかは分からないけれど、恐らく2人が恋人同士になる頃には知っていたのだろう。
長期の休みになると、ギイは託生を自宅へと招き、実家へ帰すことはしなかった。
その時は何も知らなかったから、そんなに束縛していると嫌われるぞ、とからかったものだけれど、ギイが託生を兄のもとへは帰したくないと思うのは当然のことだったのだ。
もちろん一度も実家へ戻らないというわけにもいかなかったから、そんな時はギイが友人の家に遊びに行くという名目で、一緒に帰っていたらしい。
託生に対して異常な愛情を注ぐ兄からすれば、そんなギイは邪魔な存在だったに違いない。
もしかしたら、ギイが託生の恋人だと気づいていたのかもしれない。
『卒業したら託生は連れていく』
ギイはよくそう言って、章三たちを呆れさせていた。
冗談めかして言っていたけれど、それはギイの本心で、誰にも譲れない決意だったのだ。
兄のいる実家へ託生を戻すことは絶対にしないとギイは決めていて、託生もまた実家を出ることを決めていた。
そして卒業を目の前にした春休み。
これが最後だからと言って戻った実家で、いったいどういうやりとりがあったのか。

「葉山は殺されたんだよ、実の兄貴に」

その知らせを聞いた時、すぐには理解できなくて、まるで現実じゃないことのように思えて章三は混乱した。
託生の命を奪った兄はすでに正気を失っていて、託生のことは誰にも渡さないと繰り返すばかりだったという。




章三の話にタクミは小さく震えた。
残酷な話をしていることは章三も分かっていた。ドールが「人の死」というものがどういうことなのかを正しく理解できているのかどうかさえも分からない。
けれど今一番ギイの近くにいて、彼を慰めているであろう存在のタクミにはちゃんと話しておきたいと思った。
「ギイは・・・一番大切な存在を奪われたんだよ。あとちょっとで葉山を縛るすべてのことから助け出せたはずなのにって自分のことを責めて・・・どうしてあの時一緒にいてやれなかったんだって・・・」
「・・・・・」
「卒業してからのギイは抜け殻みたいで、本当に見ていて苦しくなるくらいだった。だけど僕たちには何もできなくて。もしかしてこのまま後を追うんじゃないかって思うくらいだった」
そんな時、誰とも会おうとしないギイを心配した妹からの連絡を受けて、章三はギイを訪ねた。
暗い部屋で一人ぼんやりと座るギイはまるで別人のようで、章三が部屋に入ったことさえ気づいていないようだった。
章三はカーテンを端へと除け、窓を開け、淀んだ空気を入れ替えた。
『ギイ』
呼びかけに応えないギイ。章三はギイの前にしゃがみこむと、その肩を掴んだ。
『ギイ・・・おい、聞こえてるか?』
『章三・・・?』
ようやくギイが章三に気づいたようで、ほんの少しその瞳に光が戻った。
『お前、ひどい顔してる』
食べていないのか青白い頬は痩せていた。
乱れた髪も、長く着替えていないだろうシャツも、荒れた部屋も、どれも以前のギイからは考えられないものばかりで章三は居たたまれない思いでギイの手を握り締めた。
かけるべき言葉が見つからず、ただそうする他何もできなかった。
何を言ったところで、ギイの痛みを取り除くことなどできやしないのだ。
どれくらいそうして冷たいギイの手を温めていたか。やがてギイが口を開いた。
『章三・・・』
『うん?』
『オレ、もうだめかもしれない』
ぽつりと漏らした言葉に、章三ははっとして顔を上げた。
ギイは静かに涙を流していた。
無表情なまま、涙は次から次から溢れ出す。
頬を伝い、顎先からぱたぱたと落ちた涙が章三の拳を濡らした。
『ギイ・・・』
『どうして・・・オレは・・託生の手を離してしまったんだろう・・・あの時、どうして一人で帰してしまったんだろう。一人で大丈夫だって言った託生の言葉を信じて・・オレは・・・っ』
大きく息を飲み込んで、ギイは上体を折り曲げて叫んだ。
『愛してたのに・・・っ!誰より愛してたのに。どうしてオレから託生を奪うんだっ・・・オレには託生しかいないのにっ』
『ギイっ・・!』
章三は泣き崩れるギイを抱きしめた。
章三の肩先に顔を埋めて、ギイは声を上げて泣いた。
そんな風に泣くギイを見るのは初めてで、このまま狂ってしまうんじゃないかと思うような慟哭に、章三もまた涙を流した。
章三にとっても、託生は大切な友人だった。相棒の恋人だからじゃない。
本当に本当に、託生はかけがえのない人だった。
もう会えない。
どんなに願っても、二度と彼には会えない。
章三にとってさえこんなに辛いことを、
簡単に乗り越えろなんてギイに言えるはずもなく、章三はただギイのことを抱きしめるしかできなかった。



「それでも、傷は少しづつ癒えるんだよな・・・。いや、本当は癒えてなかったんだろうけど、ある時を境にギイは以前のギイに戻ったように見えたんだ。親父さんの仕事を本格的に手伝うようになって、まるでそれしかないみたいに仕事に没頭して。葉山を忘れるためなんだろうってことは分かったし、それでヤツの気持ちが少しでも紛れるならって思った。時間がたてば、また誰かを好きになって、そういうことができるんじゃないかって思ってたんだ」
ギイは強いヤツだから、どんな悲しみでも乗り越えて、また前へ進むことができるはずだと思っていた。
けれどギイにとって、託生はやはり特別な存在だったのだ。
あれから何年も経っているけれど、今でもギイは託生のことを忘れてはいない。
まだ愛していて、癒えない傷を抱えたまま苦しんでいる。
偶然持ち主となってしまったドールにタクミと名づけ、眠るためにタクミをそばに置く。
そして自分の名前を呼ばないタクミに涙するほどに、まだギイは自分を許せてはいないのだ。
「タクミはタクミで、葉山じゃない。それはギイもちゃんとわかってると思う。だけど、誰かの温もりで気持ちが救われることもあるんだろう。いつになるかは分からないけれど、ギイはちゃんと立ち直ることができる男だと僕は信じてる。だからそれまで、あいつのそばにいてやってほしい。ギイが、また誰かを大切に思うことができるようになるまで、一緒にいてやってくれ」
「ぼくは・・・」
タクミは今聞いた話を反芻しているのか、しばらくの無言のあと、章三を見た。
「ギイが辛い思いをするのは嫌だ」
「そうだな」
「ギイには笑っていてほしい」
「うん、それは僕も同じだよ」
「一緒にいれば、ギイは悲しい思いをしなくてもすむ?」

同じ言葉を、昔、葉山からも聞いたなと、章三はぼんやり思った。

ギイも葉山も本当に誰よりもお互いのことを大切に思っていた。
もし運命というものがあるのだとしたら、2人間違いなく運命に導かれて巡り合った唯一の相手だった。
何にも変えられない愛情を永遠のものにしようとしていたギイは、突然理不尽な暴力によってそれを奪われた。

「ギイにはタクミが必要なんだと思う」
章三はまだどこか怯えたような様子のタクミを安心させるために、優しく笑いかけた。
「お前が、ドールでなければよかったのにな」
「・・・・?」
もし人であったなら、あるいはギイは新しい恋ができたのかもしれない。
辛い出来事も過去のことにできたかもしれない。
けれどタクミはドールだから、どれだけ大切にしていたとしてもギイの思いは恋にはならない。
タクミはその言葉にどこか寂しそうな表情をした。
「章三、ここにいたのか。ああ、タクミも」
ギイがバルコニーへ姿を見せた。
「仕事は終わったのか?」
「ああ、何とかな。どうしたタクミ、顔色悪いな。章三にいじめられたのか?」
冗談めかして言うギイの明るい笑顔。タクミは立ち上がると、ぱっとギイに抱きついた。
背中に腕を回してぎゅっと抱きしめる。突然のことに、ギイは戸惑ったようにその背をぽんぽんと叩く。
「どうした?章三、お前タクミに何したんだ?」
「何もしてない。ギイがいなくて寂しかったんじゃないのか?愛されてるなぁ、ギイ」
「羨ましいか?章三」
おどけてみせるギイに、章三は肩をすくめる。
そんな台詞、昔はよく耳にしたなと思い出す。
ギイはタクミの身体を離すときゅっとその頬を摘んだ。
「タクミ、部屋に戻っておいで。オレはまだ章三と話があるから」
「・・・はい」
素直にうなづき、タクミはバルコニーをあとにした。それを見送って、ギイが章三の隣に腰を下ろす。
「いい子だな、最初はドールなんて、て言ってたが、やっぱり一緒に暮らしてみると愛情が湧いたか?」
「そりゃ一緒に暮らしていれば、愛情も湧くさ。まぁあれだな、子供を育ててるような感じなのかもな。無心に甘えられると情も湧く」
「何にしろ、ほっとしたよ。三洲も心配してたからな」
「三洲が?」
「せっかく持ち主と巡り合ったドールが枯れるのは心が痛むんだとさ」
「へぇ、三洲がそんなことを言うなんてな」
一見冷たい印象のある三洲だが、結局のところは優しい男なのだ。
もともと継ぐ気のなかったくせに、ドールたちを見捨てることはできないからと店を継いでしまうほどに。
「大事にしてやれよ。あの子は、ギイだけが頼りなんだからな」
「わかってるよ、ちゃんと大切にするさ」
「ギイにもタクミが必要だろ?」
章三の言葉にギイは困ったように笑った。
昔からこういうことには鋭い相棒を誤魔化せるはずもなかった、と思い直す。
タクミがギイの愛情を糧に生きるように、ギイにとってもタクミは必要だった。
眠れない夜を過ごさないために。
辛い出来事を思い出さないために。





相変わらず簡単な文字しか読めないタクミのために、ギイはいろんな写真集を買い求めた。
風景だけではなく、世界遺産や美術品、美しいものなら何でもタクミは興味持ったし、いつまでも飽きることなく眺めている。
ギイが仕事に出かけると、ペントハウスの一室にある書斎にタクミは篭り、時間がたつのも忘れて写真集を眺めていた。
その日は予定していた会議が早くに終わり、直接出張先から戻ることができた。
ライアンからタクミは書斎だと言われて、よく飽きないもんだと呆れた。そろそろ新しい本を買ってやらないといけないなと思いながら、書斎の扉を開けたが、そこにタクミはいなかった。
ギイはぐるりと部屋を見渡し、次の間へと続く扉が開いていることに気づいてはっとした。
大股で部屋を横切り中へ入る。
「タクミっ」
呼ばれて、そこにいたタクミはびくっと身を震わせて振り返った。
ギイの予想は的中し、タクミは見せたくなかったものの前に立っていた。
「おかえりなさい、ギイ」
「・・・ここに入ってはいけないと言っただろう?」
ギイが自宅で仕事をする時に使う部屋だから、いろいろと機密事項も多くある。だから入ってはいけないとタクミには言い聞かせてあったのに。
「ご、めんなさい・・・」
だめだと言われれば興味が湧くのだろう。子供と同じだ。
ギイはしゅんと立ち尽くすタクミのそばへ寄ると、やれやれとため息をついた。
実際のところ、タクミが見たところで仕事に影響するようなものはなかったのだが、ギイが入室を禁止したのには他に理由があった。
タクミが見ていたのはガラスケースに入ったバイオリンだった。
厳重に保管されているバイオリンは、時価数十億円と言われる名器だったが、ギイにとってこのバイオリンは高級だからという理由で大切にしているわけではなかった。
昔、託生に渡し、彼が弾いていたバイオリン。
元々はギイのものだったが、今となっては唯一これが託生の形見となってしまった。
「・・・気に入ったのか?」
ガラスケース越しに、じっとバイオリンを見つめる託生の髪をそっと撫でる。
「うん、綺麗」
「お前は綺麗なものが好きだな。それなら今度、美術館に連れていってやるよ」
「美術館?」
「美しいものがたくさんある。絵画にしても彫刻にしても」
そういえば、まだタクミを外へ連れていったことはなかったなと思った。
見た目は普通の人間と何も変わらないのだから連れ立って歩くのも問題はない。
ずっとペントハウスの中に閉じ込めているのは可哀想かもしれないと思う反面、閉じ込めて、自分だけを見ていて欲しいとも思う。
タクミはぺったりとガラスケースに額をつけて、中を覗き込む。
「バイオリン・・・」
「ああ、そうだよ。・・・触ってみるか?」
ギイの言葉に、タクミはぱっと振り返って極上の笑みを見せた。
今まで誰にも触らせたことはないというのに、あまりにもタクミが熱心に眺めるものだから、そう言わないわけにはいかなかった。
すっかりタクミに甘くなってるな、と自嘲気味に笑い、ギイはガラスケースの脇にあるパネルを開けた。
暗証番号を入力して、ガラスケースの蓋を開ける。
久しぶりに手にするバイオリンはやはり愛しい人のことを思い出させた。
「ほら、落とすなよ」
タクミは両手でバイオリンを受け取ると、嬉しそうにうなづいた。
ギイはネクタイを緩めると、ソファに座った。
タクミが珍しそうにバイオリンを手にしている姿を見ると、初めて託生にバイオリオンを渡した時のことが甦った。
それがストラディバリウスだと知って、飛び上がるほど驚いた託生。
けれど、どうしても託生に持っていてほしくて半ば無理矢理に押し付けた。
音大を目指して、いつも温室で練習をしていた。ギイが曲をリクエストすると、心を込めて弾いてくれた。
ギイは頬杖をついて、懐かしい思い出に目を閉じた。
幸せだった頃をどれほど懐かしんでも戻ることなどありはしないのに、美しすぎる思い出は嫌でも胸に流れ込んでくる。
その時、キィと弦の響く音がした。
目を開けると、タクミがバイオリンを肩にあてて、調弦している姿があった。
「タクミ・・・?」
淡々と、まるでいつものことのようにタクミは音を確かめて、そしてガラスケースの中から弓を取り出すと、弦に当てた。
「嘘だろ?」
その姿は長くバイオリンを弾いている人のものだった。
あまりのことに、ギイは言葉も出ない。
タクミがゆっくりと弓を引くと、美しい音が室内に響いた。
初めて弾くとは思えない音にギイは目を見開く。
いくつか音を鳴らしたあと、タクミはギイを見てにこりと笑った。
そして、改めて曲を弾き始めた。
それは昔、託生がよく弾いていた曲だった。
ゆったりとした、けれど決して簡単ではない曲を、託生は楽しそうに弾いていた。
今、目の前でバイオリンを奏でるタクミは、その時の託生そのもので、音を鳴らすのが楽しく仕方がないというように夢中になっている。

(ああ、だめだ・・・)

目元が熱くなるのに気づいて、ギイは大きく深呼吸をした。
何度も聞いたその曲は、祠堂にいた頃を思い出させた。託生と2人で温室で過ごした時間。
ふざけあって抱き合った。ギイがキスしようとすると、嫌がって逃げる素振りをした。
あの頃のことを思い出したくなくて、音楽は遠ざけていたのに。
ぼやけた視界の中にいるタクミを見つめていたギイは、ふとその違和感に首を傾げた。

(音が・・・いや、そうじゃなくて)

「ギイ?」
いつの間に曲を終えたのか。タクミがおずおずとギイのそばに寄って来た。
何かを考え込んでいるギイの腕に、タクミがそっと触れる。
そして申し訳なさそうにバイオリンをギイへと返した。
「ごめんなさい・・あの・・・弾いちゃだめだった?」
「いや、いいよ。とても上手だった。どこで覚えたんだ?」
「分からない・・・これ、すごくいい音がする。綺麗で澄んでる」
「ああ、そうだな。タクミには分かるんだな。それにしても、驚いたな。こんなに上手に弾けるなんて」
ギイが言うと託生は嬉しそうに笑った。
「これが好きか?タクミ」
「好き。音が好き」
「じゃあ好きな時に弾けばいいよ。どうせオレは弾けないからな」
そう言ってバイオリンをタクミに渡すと、タクミは大切そうに胸に抱きしめた。

そんなことをあったのだと三洲に話すと、三洲はへぇと面白そうにうなづいた。
ドールのメンテナンスをするから一度連れてくるように、との連絡を受けて、ギイは休日にタクミを連れて三洲の店へと足を運んだ。
店に足を踏み入れたのは章三と一緒に開店祝いに来た時以来だったが、相変わらず店は閑散としていて、本当にこれで採算が取れるのかと不思議でならなかった。
もっとも、ドールが持ち主を見つければ目が飛び出るくらいの金額で取引されるのだから、1体売れればしばらくは困ることはないのだろう。
ペントハウスから初めて外へ出ることになったタクミは最初こそ怯えたようにも見えたが、行き先が三洲の店だと分かるとほっとしたように力を抜いた。
「久しぶりだな、崎」
「ああ、元気そうだな、三洲」
形式だけの挨拶を交わし、ギイは後ろにいるタクミの肩をそっと押した。
「やあ、久しぶりだね、タクミ」
三洲はタクミに笑いかけると、おいでというように手を差し伸べた。
何の躊躇もなく三洲の元へと近づいたタクミを、三洲は上から下まで眺めまわした。
「うん、すごく状態がいいね。ちゃんと愛情をかけて大切にされているみたいだ」
「当たり前だろう」
「崎の場合、それが当たり前かどうか怪しかったからね。じゃあちょっと借りるよ。すぐに終わるから」
三洲はそういうとタクミを奥の部屋へと連れて行ってしまった。
すぐに終わるという言葉通り、30分ほどでメンテナンスは終わったが、タクミはしばらく眠るからと言われた。
メンテナンスがどういうことをするのかは分からなかったが、1時間もすれば目を覚ますと言われた。
その間、三洲の入れてくれたコーヒーを飲みながら、しばらく世間話をしていた時に、ギイはタクミがバイオリンを弾いたのだという話をしたのだ。
「別に教えたわけでもないのにちゃんと弾けたんだ。驚いたよ」
「ああ、タクミはミュージックドールだったんだな」
「ミュージックドール?」
「ドールの中にはある分野に秀でた能力を持つドールがいるんだよ。教えなくても、それは当たり前のこととしてできるんだ。タクミの場合は音楽だったんだな。バイオリン以外の楽器も恐らくこなせるはずだよ。試してみるといい」
「なるほど・・・」
偶然にしては出来すぎてはいるが、託生が大切にしていたバイオリンを、託生の代わりにタクミが弾いてくれるのならば、それもいいかとも思えたのだが。
「なぁ三洲」
「何だい?」
「タクミはさ・・・」
「うん?」
言いかけて、けれど何をどう言えばいいか分からずに口を閉ざした。
そのまま黙り込むギイに、今度は三洲が口を開く。
「崎」
「うん?」
「お前、タクミに何を言った?」
「え?」
いったい三洲が何を言っているのかさっぱり分からない。
「さっき、タクミが言ったんだよ。『ドールは人間にはなれないのかな』って」
「・・・それは・・・」
三洲は深々とため息をつくと、黙り込むギイに釘をさすように言った。
「崎、タクミはドールだ。人間じゃない」
「わかってるさ」
「葉山の代わりにはなれないんだぞ」
「・・・・っ」
そんなつもりはないと、ギイははっきり言うことができなかった。
三洲はそんなギイに言い聞かせるように告げた。
「崎がタクミのことを大切にしてくれているのはよく分かる。持ち主である崎の愛情がなければ、あれほどタクミが綺麗なままでいられるはずがないからな。だけど、タクミはドールだ。お前が葉山に求めたものと同じものをタクミに求めても、何も返ってはこない。タクミがお前のことを好きだと言うのは、お前が持ち主だからだ。もちろんタクミの好きだという気持ちは嘘じゃないさ。見返りを求める打算的なものでもない。だがな、いくら崎が求めても無駄だ」
「オレが、何を求めてるって?」
「葉山が崎に与えてくれたのとを同じ愛情」
「そんなこと・・・」
三洲は祠堂の3年の時に、寮では託生と同室だった。
だからギイとはまた別の意味で、託生のことは気に入っていたのだ。
託生が思いもしないことで亡くなり、三洲もまたひどく辛い思いをしたのだ。
「崎、ドールには愛情という感情はないんだよ。誰かを自分よりも大切だと思ったり、その人のことを思って涙を流すようなこともない。なのに、タクミは崎のことを好きだという気持ちが強くなってきていて、どうすればいいか分からなくて戸惑っている。人であればそれは愛情に変わったかもしれない。でもドールにはそんなことは絶対にない」
あまりにもきっぱりと言うので、ギイは毒気を抜かれたように苦笑した。
「三洲、そんな心配しなくても、オレはタクミを恋人にするつもりはないんだぞ。ドールだってこともちゃんとわかってる。お前、オレがドール相手に不埒なことをするとでも思ってるのか?」
「お前ならやりかねない」
「そんなことあるわけないだろ」
というか、ドール相手にそういうことできるのか?
ギイが試すように三洲に尋ねると、三洲は小さく舌打ちした。
「ドールを所有する連中の中には、ドールが従順なのをいいことに不埒なことをするバカもいるんだよ。もちろん、単なる欲望の捌け口としてドールを扱えば、それはすぐにドールに伝わって枯れてしまうけどね」
「タクミを枯らすようなことはしないよ。約束する」
「そうしてくれ」
三洲のどこまでも真剣な表情に、ギイは軽く肩をすくめた。
「ところで三洲、このあとの予定は?三洲さえ良ければ美味い中華の店を知ってるんだが」
「いいね。ぜひ」
「ギイ・・・」
話がまとまった時、奥の部屋から寝ぼけた様子のタクミが現れた。
見た目には店に来たときと何も変わってはいない。メンテナンスというのはいったい何をするのだろうか、とギイは首を傾げる。
またべらぼうに高い料金を要求されるのではないかと思ったが、友達のよしみで無料だという。
友達でなければいったいいくら要求するつもりなのか、怖くて聞けないでいるギイである。
「タクミ、気分はどうだ?三洲に痛いことされなかったか?」
「おい崎」
タクミはギイの隣にすとんと腰を下ろすと、まだ眠いのかその肩にもたれかかった。
「タクミ、これから食事に行くんだが、どうする?先に戻るか?」
送迎の車は外に待たせてある。どうせ一緒に行ってもタクミは食事をすることはできない。退屈であれば先に帰ってもいいとタクミに尋ねてみる。
タクミはギイを見上げると、一緒に行くと小さく言った。
じゃあ起きろと笑ってギイがタクミの腕を取って立ち上がる。
店の中には相変わらず多くのドールが座っている。
目を閉じて、持ち主が現れるのを待っている。
こんなにたくさんのドールの中、タクミが自分を見つけたのかと思うと不思議な気持ちになる。
傍らのタクミの頭を撫でて、そのこめかみにキスをする。
キスも不埒なことの範疇に入るのだろうか、と一瞬脳裏を過ぎったが、タクミは顔を上げると、くすぐったそうに笑うだけだ。
「行こうか、崎」
現れた三洲の手にポット。
「何だ、それ」
「タクミのためのミルク。俺たちばかり食べてちゃタクミが可哀想だろ。店で一番いいミルクだ。砂糖菓子も用意した」
どうだ、と言わんばかりの三洲の物言いに、思わずギイが吹き出す。
「はは、すごいな。さすが三洲」
やっぱり何だかんだ言っても三洲はドールに愛情があるのだろう。
砂糖菓子と聞いたタクミは目を輝かせ、嬉しそうに三洲を見る。
「タクミの好きなピンクの砂糖菓子だ。どうせ崎はケチっていいものくれないだろう?」
「ケチってない。ていうか、砂糖菓子にもランクがあるのか?」
「もちろん、これは最高級品の砂糖菓子だ。どうせなら買っていくか?友人価格にしておくが?」
「この守銭奴が」
「何とでも」
他人が聞けば仲がいいのか悪いのか分からないような掛け合いをしながら、3人はギイお勧めの中華料理店へと向かった。
三洲の店からさほど離れてはいない場所にある店だったが、三洲は初めてだと言った。
小さいながらも口コミで評判になった店のようで、まだ早い時間だったが店は満席だった。
「いい店だな」
「鱶鰭が美味い」
オーダーは任せるよという三洲のために、ギイが訪れたウェイターにあれこれと注文をする。
タクミは大人しく座って、物珍しそうにきょろきょろとあたりを見渡している。
「タクミも何か食べれるといいんだがなぁ、どうして食べるとだめなんだ、三洲」
注文を終えるとギイが三洲に尋ねる。
「育つんだよ」
「育つって?」
「ドールでなくなるというか・・・別のものになってしまうというか」
「へぇ・・・」
「崎、おかしなことを考えるなよ。ドールでなくなるというのは人間になるって意味じゃないからな」
「分かってるよ。ほんと、信用ないんだなぁ」
やれやれとギイが椅子に深くもたれた。
ビールが運ばれ、乾杯と言って一口飲んだ時、ふいに背後に人の気配を感じてギイが振り返った。
そこには見知らぬ男が立っていた。
三洲は男を見ると、あからさまに眉をひそめた。
「またきみか。いい加減にしてくれないかな」
「三洲さん、お願いしますよ。金ならいくらでも用意するから」
男は空いた席に勝手に座ると、三洲へと身を乗り出した。
「しつこいな。何度も言ってるだろう。ドールは金で買うものではないんだ。いくら欲しいからと言っても、ドールがきみを選ばない限り、手に入れることはできない」
「だから俺を選んでくれるようなドールを作ってくれ」
「馬鹿馬鹿しい。できるわけないだろう」
呆れたように三洲が言い捨てる。
どうやら男がドールを欲しがっていて、三洲がそれを断り続けているようだった。2人の様子からしてずいぶん以前から同じやり取りが続いているように見えた。
「悪いが、友人と食事をしているところなんだ。いきなりやってきて失礼だろう。帰ってくれないか」
「どうしてもドールが欲しいんだ」
「俺の力じゃどうしようもない。新しいドールができたら店に来るといい。そのうちきみを選ぶドールができるかもしれない」
三洲の言葉は何度も繰り返されたもののようで、男は悔しそうに唇を噛み締めると席を立った。
立ち去る間際、何かに気づいたようにギイとタクミを見た。
「・・・・選ばれる人間とそうでない人間の違いはいったい何なんだ・・・」
吐き捨てるように言い、男は店を出て行った。
「すまないね、嫌な思いをさせて」
「いや、大丈夫なのか?」
「しつこい男でね。どうしてもドールが欲しいらしくて、何度も店にやってきては、何とかしてくれってうるさいんだよ」
「それはまた・・・」
面倒な話だなとギイはビールを飲み干した。
男はきちんとした身なりをしていて、金には困っていないようだったが、ドールは金では購えない。
だからこそ、無茶なことを三洲に言っているのだろう。
美しい少女の姿のドールを手に入れることは、確かに一種のステータスだ。
高い金を払えるということが、限られた人間だという証明にもなる。
しかし、そこまでしてドールが欲しいものなのだろうか、とギイは不思議に思う。
「人が欲しいと思うものは人それぞれだよ。金が欲しい者もいれば、地位が欲しい者もいる。手に入らないとなると余計に欲しくなるものだしね」
「ああ、それはそうかもな」
料理が運ばれてきたので、男の話はそこまでとなった。
タクミは三洲からのプレゼントのミルクを片手に、最高級品だという砂糖菓子を口にして、ギイと三洲が四方山話に花を咲かせるのを黙って聞いていた。




以前からは考えられないほどの穏やかな日々が続いていた。
タクミは相変わらず書斎で写真集を眺め、気が向くとバイオリンを奏でた。
試しにピアノの前に座らせてみると、それなりに弾きこなしたが、やっぱりバイオリンを弾いている時が一番楽しそうに見えた。
それすらも託生と重なり、ギイにしてみれば切ないような嬉しいような妙な気分になった。
夜になると、タクミはそれが当たり前のようにギイのベッドで眠った。
何の警戒心も持たずにギイに寄り添う。
「ギイ、温かいね」
「タクミの体温が高いからだろ?オレは普通」
子供の体温なのか、それともドールだからか。
ごそごそとギイの腕に自分のそれを絡めて安心したように息をつくタクミに、ふいに説明のしようがない感情が込み上げ、ギイは甘い香りのするタクミの身体を抱き寄せた。
三洲に、タクミは託生の代わりじゃないとはっきり言われ、それで初めて自覚した。
そうじゃないと三洲には言ったけれど、本当はそうじゃなかった。
タクミが人であったなら、と何度も思ったことがある。
ただ持ち主だからというからではなく、一人の人間として好きだと思って欲しかった。
その気持ちは日に日に強くなっていく。
「タクミ、オレのこと、好き?」
「うん」
「どれくらい?」
「・・・・アラタさんがくれる砂糖菓子と同じくらい」
「はは、それはすごい」
ギイは片肘をついて上体を起こすと、さらさらとしたタクミの髪を指で梳いた。
ゆっくりと身を屈めてその額に口づける。
不思議そうにギイを見るタクミの瞳の色は、託生と同じ色だ。
見つめられるとおかしな気分になる。
誘われるように、ギイは瞼に、頬に、鼻先に小さなキスを繰り返した。
「くすぐったい」
「うん」
そのまま耳元に唇を寄せる。
首筋に顔を埋めて、舌先で柔らかな肌を辿ると、タクミはぴくりと身を固くした。
「ギイ・・?」
「黙って」
シャツの襟元を開いて、薄い肩先を手のひらで撫でる。
まるで人と同じようなしっとりとした感触に、ギイは吸い寄せられるように口づけを繰り返した。
大人しくされるがままになっているタクミを組み敷いて、キスをしようとした時、濡れた瞳でタクミが自分を見ていることに気づいて、ギイは我に返った。
「・・・ギイ?」
「ごめん・・・オレは・・どうかしてる・・・」
ドールなのに。
託生じゃないと、分かっていたはずなのに。
「何やってんだろうな、オレは」
馬鹿なことをした。
誰かの温もりが欲しいと思ったからといって、それをタクミに求めてはいけないのだ。
どれほど託生の面影を持っていても、タクミは託生ではないのだから。
乱れたシャツを直してやり、ギイは再びベッドに横になった。
タクミは自分が何をされようとしていたのかは分かっていないようで、何の躊躇もなく、再びギイのそばにぴたりと身を寄せた。
100%の信頼。自分がひどいことをされるかもしれないなどとはこれっぽっちも思っていないのだ。
「確かにドール相手に不埒なことをする連中も出てくるよなぁ、これじゃあ」
すやすやと安らかな寝息を立て始めたタクミを少しばかり恨めしくも思う。
火が点いてしまった欲望を、さてどうやって沈めたものかとギイは深々とため息をついた。

けれど、そんなことがあったのはそれきりだった。
ベッドを別にするべきかとも思ったが、そうするとまた別の意味で眠れなくなりそうな気がして、結局タクミを手放すことはできなかった。
三洲の店へ行ったことで、外へ出るのも案外と楽しいものだと知ったのか、ギイが休みになるたびに、タクミは外へ行こうと誘うようになった。
以前ギイが言っていたように、近くの美術館へ行ってみると、タクミは初めて目にする美しい絵に心を奪われたようだった。
目を輝かせるタクミを見るとギイもまた嬉しくなり、ねだられるままにあちこちの美術館や博物館を訪れた。
「この世界には綺麗なものがたくさんあるね」
休日の午後をつぶして美術館を隅から隅まで見て回った帰り、ギイとタクミは散歩と称してペントハウス近くの公園を歩いた。
傍から見れば恋人同士に見えたかもしれない。
タクミはギイの手を引いて、あちこち見たがった。
「ここの公園もとても綺麗だね」
「春になると、ほら、あそこの桜並木が一斉に花を咲かせて、そりゃあ綺麗なんだ」
「へぇ」
「花が咲いたら一緒に見に行こう」
「うん。絶対だよ」
「ああ、約束だ」
何てことはない小さな約束でも、タクミは嬉しそうに笑う。
そんな風に、ギイとの約束を宝物のように思うところは託生も同じだったと思い出す。
叶えられなかった約束がたくさんあった。
春にお花見をしようというのは、託生とも交わした約束だった。

(桜の花・・・あいつ、好きだったな・・)

もうずっとずっと昔のことなのに、まだこんなに鮮明に思い出すことができる。
こんな風に託生のことを思い出すのは辛いだけだったのに、不思議と今は泣きなくなるほどの痛みは訪れなかった。
隣にタクミがいて、一人じゃないと思えるからなのかもしれない。
繋いだ手の温もりのおかげで、ギイは薄暗い闇へ引き込まれそうになるのを踏みとどまれるのだと気づいた。
ただ託生のことを愛しているという思いだけが、ギイのことを切なくさせるのだ。
そういえばドールはいったいどれくらい生きるものなのだろうか。
人間ではないにしても、永遠に生きるはずもないだろう。
できることなら、自分より生きてくれればと思う。
大切なものが、先に逝くのはもう嫌だった。
「ギイ?」
立ち止まったタクミがギイを見上げている。
「うん?ああ、ごめん。それにしても、タクミはどうしてそんなに綺麗なものが好きなんだろうな」
「・・・ぼくたちはずっと眠ったまま、持ち主が現れるのを待ってるから」
「うん?」
タクミは目の前の湖を眺めて、水面がキラキラと光を弾く様子に目を細めた。
「暗い中、自分からは何もできなくて、ただ待ってるだけなんだ。ぼくは目覚めた時に現れる世界はいったいどんな所なんだろうって、いつも思ってた。ギイがぼくを目覚めさせてくれて、実際に目にした世界は想像していたよりもずっと綺麗なもので溢れていた」
「・・・・」
「だけど、初めて目を開けて、ぼくの目の前にいたギイが一番綺麗だった」
「タクミ・・・」
「ギイのことが好きだから、綺麗なものが好きなのかな?」
ずいぶん熱烈な告白をしているわりに、タクミは自分の言っていることに自信がないのか首を傾げている。
その姿がおかしくて、ギイは笑った。
まったく、これだから調子が狂うんだと思う。
煽るだけ煽って自覚がないところなんて、託生そっくりじゃないかと呆れてしまう。
ギイは心地よい風に目を閉じた。
こんな風で時間が過ぎていくのなら、それでいいのかもしれないとギイは思った。
愛情ではないかもしれないけれど、タクミはギイのことを好きだと言ってくれる。
恋人にはなれなくても、恐らくタクミはずっと自分のそばにいてくれるだろう。
無理に託生のことを忘れる必要もない。
タクミがいれば、幸せだった頃の思い出の中で生きていくことができる。
それはギイにはひどく魅力的なことに思えた。
ゆっくりと目を開けて、ギイは手を引いてタクミを呼び止めた。
「タクミ、来週、少し長期の休みが取れそうなんだ」
「え?」
「前に約束しただろ?タクミが行きたいところへ行こうって」
「本当に?」
「綺麗なもの、見たいんだろ?どこに行きたいか考えおけよな」
「うん。ありがとうギイ」
ギイの誘いがよほど嬉しかったのか、タクミは満面の笑みを浮かべた。
「さ、そろそろ帰ろう、腹が減った」
「うん」
ペントハウスへと向かって歩き始め、近道となる小路を抜けようとした時、いきなり背後からギイの首元に腕が回されて強い力で引き寄せられた。
声を出す暇さえなかった。
「ギイっ!」
「近寄るなっ」
先を歩いていたタクミにギイが叫んだ。
耳元で聞こえる荒い息遣い。ぐいぐいと首元を締め上げる腕を何とか外そうと、ギイは必死に抗った。
「大人しくするんだ」
「・・・っ・・」
きらりと目の前にかざされたナイフに、ギイは抵抗をやめた。
金目当てならば、命までは奪われないだろう。大人しくして、欲しいというものを渡してやればすむことだ。
タクミは拘束されているわけではないのだから、さっさとこの場から逃げて欲しいのに。
タクミは恐怖のあまり青白い顔をして立ち尽くしている。
このまま逃げろと目で訴えかけても、タクミは動かない。
「逃げるんだ・・・」
小さく言うと、背後の男はぐいっとギイの頬にナイフを当てた。
「この男を助けたいかっ?」
男はタクミへ向かって何かを試すように叫んだ。
ギイは自分を戒める男の声が、以前三洲と食事をした時にドールが欲しいと訴えていた男のものだと気づいた。
どんなことをしてもドールが手に入らないので、タクミのことを狙ったのか。
だとすれば、目的はタクミということになる。
何としてもタクミのことは逃がさなくてはならない。
「タクミ、逃げるんだっ」
「嫌だっ」
タクミがギイに近づこうと一歩を踏み出す。ギイは心臓が止まるかと思うほどに驚いた。
「よせ、タクミっ」
「近づくんじゃない。ほら、お前の大事な持ち主が傷つくのを見たくないだろう?どうだ?」
男はギイを引きずるようにして後ずさり、じっとタクミの様子を伺っている。
何かが変だと気づいた。
タクミが欲しいのなら、さっさとギイを刺して奪って逃げればいい。
それともタクミを脅して自ら自分のもとへ来るようにしたいのか。
いずれにしても、真の持ち主ではない人間がドールを手に入れても、ドールはすぐに枯れてしまうはずだ。
ドールのことを欲しいと思っている男なら、それくらいのことは分かっているはずだろうに。
この男はいったい何がしたいのだろうか。
「泣いてみせろ・・・」
男の言葉にタクミは目を見開く。
「お前の持ち主が死ぬかもしれないんだぞ、泣いてやめてくれと言ってみろ」
「・・・・」
ギイはじりじりと近づいてくるナイフから顔を背けた。恐ろしいほどの強い力に、下手に暴れると本当に刺されることになるだろうと思った。
それでタクミが逃げることができるなら、それでもいいと思ったが、男の目的が分からない今、刺されて動けなくなるのはまずいと思った。男はギイの首元にナイフを当てた。
「いいのか、こいつが死んでも・・・」
「嫌だっ!」
タクミは悲鳴のように叫ぶと、いきなり2人に飛び掛った。
まさかそんなことをするとは思っていなかった男の力が一瞬緩み、ギイはそれを見逃すことなく反撃に出た。
タクミが男の腕を掴み、ギイから引き離そうとする。
「タクミ、よせっ、離すんだっ」
「嫌だっ」
めちゃくちゃに暴れる男のナイフが一瞬、ギイの頬を掠めた。
ひやりとして一気に心臓が高鳴った。
ギイが身体を反転して、男の身体に飛びつき、そのまま地面へと押し倒す。男の腕を掴んでいたタクミもそのまま一緒に地面へと倒れこんだ。
「・・・っ」
不自然な格好で倒れこんだ瞬間、タクミが低く唸り、ぬるりとギイの手が血で滑った。
「タクミ・・・・?」
ギイが慌ててタクミの身体を抱き起こす。タクミの身体には男が手にしていたナイフが突き刺さっていた。
真っ赤な血が地面に広がるのを見た男は慌ててナイフを引き抜くと、そのまま汚いものを捨てるかのように地面へと放り投げた。
「そんな・・・っ」
まさか本当に刺すことになるとは男も思っていなかったようで、目の前で起こった出来事が信じられないというように呆然と座り込んでいる。
「タクミっ!!!」
ギイの声に我に返ったのか、男は這いずるようにして2人から離れると、そのままその場から逃げ去った。
そんな男のことなど、ギイにはどうでもよかった。
どくどくと流れる出る血を少しでも止めたくて、苦しそうに息をするタクミの腹部に手を当てる。
生暖かい血がギイの身体をも濡らしていくのをどうすることもできない。
「タクミ・・・しっかりしろ、大丈夫だ、すぐに助けてやるから」
「いた・・・い・・・」
ギイは真っ赤に染まった手で携帯を取り出そうとするが、手が震えて上手く取り出すことすらできない。
「何て馬鹿なことを・・・。だめだ、死ぬんじゃない・・・っ」
「ギイ・・・」
ぎゅっとギイの胸に抱かれたタクミは苦しそうに肩を上下させている。
「誰かっ!!!助けてくれっ・・・!誰か・・っ」
大声で叫び、ギイはタクミをそっと地面へと横たえると、その小さな手を握り締めた。
「大丈夫だ、心配ない。すぐに助けてやるから・・・」
「ギイ・・・けが・・・してない?」
「オレは・・何ともない・・・タクミが、助けてくれたから」
ダメだダメだ、と声には出さずにギイは叫んだ。
このままタクミを失うことは耐えられない。
けれど、目の前のタクミの細い息遣いに、ギイはぞっとした。今にもそのまま目を閉じて二度と開かなくなるようで、恐怖で声が震える。
「頼む・・・オレを・・・一人にしないでくれ・・・」
「ギイ・・・」
「お願いだ・・・」
タクミはふぅと息をして、ゆるゆると血で染まった手でギイの頬に触れた。
「・・・泣かないで」
言われて自分が泣いていることに気づいた。溢れる涙がタクミの指を濡らす。
どうしようもなく涙が溢れて止めようがない。
「ギイ、悲しいの?」
「・・・・っ・・・ふ・・」
「ごめん、ね。ぼくが・・・ギイを泣かせちゃったの?」
「そうだよ・・・、だから・・もう一度笑わせてくれ・・」
タクミが微かに笑う。力のない微笑みに、ギイはその胸元に顔を埋めた。
「タクミがいないと、オレは・・・どうすればいいか分からない・・・もう二度と・・大切なものを無くすのは耐えられない・・・っ。一人で、オレだけ一人で・・どうすれば・・・」
「だめだよ、ギイ」
ギイの言葉に、それまでとは違うはっきりとした声でタクミが告げる。
「そんなこと、言っちゃだめ・・・。ギイは、生きなくちゃだめ。一人でも大丈夫だから」
そんなことはない、とギイが首を振る。
託生を亡くして、今までどれほど苦しい思いをして生きてきたか。
タクミのおかげで、どれほど気持ちが楽になったか。
それを知っていてそんなことを言うのか。それとも、知らないから言えるのか。
このままタクミまで奪われて、それでも生きろと言うのか。
「ギイ・・」
名前を呼ばれて、ギイはゆっくりと顔を上げた。
タクミはきゅっとギイの手を握りしめた。
「ギイは生きなくちゃだめ。この世界には綺麗なものがたくさんあるから、ギイは・・・ちゃんと見て。ぼくの代わりにちゃんと見て」
「できない・・・」
「ぼくがいなくなっても、ギイは生きなくちゃいけない。失ったものばかり追いかけたりしないで、これから手に入るものに目を向けて。他の人がそうするように、悲しいことは忘れていいんだよ?ちゃんと思い出にして、いつまでも泣いたりしちゃだめ。楽しいことがあったら笑って。ぼくにそうしてくれたみたいに、誰かを幸せにして・・・」
「タクミ・・・」
「約束して?」
「・・・・っ」
次第に弱くなる吐息で、タクミがギイの返事を待つ。
真っ直ぐにギイを見つめる黒い瞳に涙が浮かぶ。
「ギイ・・・」
「わか、った・・・」
「うん。ギイ・・・」
タクミが両手を伸ばしてギイの頬を包み込み、そのままそっと引き寄せる。
乾いた唇が触れ合って、すぐに離れる。
「ギイ・・・愛してる・・・」
「・・・・っ」
「ありがとう、ギイ、ぼくを選んでくれて」
蕩けるようにタクミは笑い、そしてゆっくりと瞼が閉ざされる。
その眦から涙の粒が転がり落ちた。
それは綺麗な琥珀色をした宝石だった。
「タクミ・・・託生・・っ・」
くったりと力の抜けた身体を、ギイは強く抱きしめた。





三洲がライアンから知らせを受けて、ペントハウスを訪れたのは、タクミが命を落とした翌日だった。
朝からひどい雨が降っていて、ペントハウスに着いた時には、上から下までぐっしょりと濡れていた。
「三洲様、お待ちしていました」
出迎えたライアンがタオルを手渡す。三洲は礼を言ってそれを受け取ると、玄関先で滴を払った。
「崎は・・・?」
「お部屋にいらっしゃいますが・・・」
いつも毅然とした様子のライアンも突然の出来事に憔悴しているようだった。まさかこんなことが起きるなんて夢にも思っていなかっただろうから、それも当然だと思えた。
タクミはこのペントハウスの誰からも愛されていたのだと思うと、なおのこと胸が締め付けられる。
ギイとタクミが襲われたと知り、その犯人が三洲もよく知る男だと教えられ、三洲自身も信じられない思いで呆然とした。
まさかあの男がそこまでするとは思ってもみなかったからだ。
男はすぐに捕えられた。
2人を襲うことは計画的なものだったが、その計画自体は杜撰なもので、とても逃げ切れるようなものではなかった。
もとより、男の目当てはドールそのものではなかった。
「タクミはまだ中に?」
「義一様がそばから離れようとはされなくて・・・」
ライアンに案内されて、三洲はギイの部屋のドアをノックした。
中から返事が返ることはなかったが、ライアンがうなづくのを見て、三洲は扉を開けた。
薄暗い部屋の中、ベッドのそばの椅子に腰掛けたギイが見えた。
白いシーツをかけられベッドに横たわっているのがタクミなのだろう。
三洲はベッドに近づくと、そっとシーツを捲った。
「・・・・タクミ・・・」
穏やかなその顔に、三洲はほっとした。苦しくなかったはずはないだろう。けれど、最後までこんなに綺麗なままでいられたことにほっとした。それはタクミがギイに愛されていたことを物語っている。
「ドールも普通に死ぬんだな」
ギイのつぶやきに、三洲が振り返る。その表情はそれまで三洲が知るギイのものではなかった。
三洲はベッドの端に腰掛けると、膝の上で拳を握り締めた。
「崎、すまなかった。俺がもっとあの男を警戒していれば、こんなことには・・・」
「三洲のせいじゃない」
ギイは静かにそう告げる。
そのまま何を言うこともできず、2人とも無言のまま、ただ雨の音を聞いていた。
やがて三洲が横たわるタクミを見て言った。
「タクミは、俺が引き取ってもいいか?」
「・・・・・」
「このままだと何日もしないうちに、今の形のままではいられなくなる」
「・・・そうか・・・それは、可哀想だな」
小さくギイがうなづく。
ドールは人間ではないため、男がしたことは殺人でも何でもなく、親告をしたとしても器物破壊罪にしか問われないという。
タクミの亡骸をどうすればいいか分からず、ライアンは三洲に連絡をしたのだ。
「三洲・・・・」
「何だ?」
「なぁ、まだ信じられないんだ・・・本当にタクミは死んでしまったのかな?ドールは・・・こんなことじゃ死なないって言ってくれないか?こんな風に死んだりはしないって・・・ほら、オレが知らないだけでさ、実は生き返ったりしないのかな」
「崎・・・」
ギイは溢れる涙を隠そうともせずに三洲を見据えた。
「どうしてかな、オレが大切だと思うものは、みんなオレを置いて行く。託生も・・・タクミも・・・」
「・・・・」
「どんな約束をしても、全部叶うことがない・・・託生とは・・卒業したら一緒に暮らそうって・・・兄貴から離れて幸せになろうって・・・だけどだめだった。最後の最後に、助けてやることができなかった。タクミとは、休みになったら旅行に行こうって言っていた。タクミが行きたいところへ、どこへでも連れてってやるって言ってたのに・・・それもできなかった」
愛していたのに。
誰よりも愛していたのに。
どうして大切なものはすべて手の中から滑り落ちていくのだろうか。
ギイは握り締めていた手を開くと、最後にタクミが残した琥珀色の宝石を三洲へと差し出した。
タクミが流した涙が形を変えた宝石。
三洲は差し出された宝石を手にすると、静かに微笑んだ。
「これは『天国の涙』っていうんだ。最高に愛されたドールが流す涙だよ。涙が結晶化して、宝石になるんだ」
「天国の・・涙・・」
男の目的はドールではなく、この天国の涙だった。
滅多にできることのないこの涙は、ドール本体よりも高値で取引されるもので、男はギイがタクミを大切にしていることを知り、ギイを傷つけるフリをすれば、タクミが涙を流すのではないかと思ったようだった。
もとよりギイもドールも傷つけるつもりはなかったのだが、結果としてタクミの命を奪うことになった。
こんなもののために、タクミは永遠に自分の前から姿を消すことになったのかと思うと、ギイはやりきれなくなる。
三洲は天国の涙をギイへと返した。
「色はさまざまだけれど、ドールが最後に見た光景を映すことが多いんだ。この天国の涙は綺麗な琥珀色だ」
「・・・・」
「これは、崎の瞳の色だな」
「・・・・っ」
「タクミが最後に見たのは、崎、お前だったんだな」

(ギイ、愛してる)

最後にそう言って、タクミはギイを見つめて微笑んだ。

手の中に残った琥珀色の天国の涙。

それはタクミがギイに残した愛の形だった。










タクミの亡骸は三洲が引き取り、そのあとどうなったのかをギイは聞こうとはしなかった。
タクミのいなくなったペントハウスは深い悲しみに沈みこんだ。
ライアンもメイドのセシルも、タクミのことを可愛がっていたし、何よりタクミがいることで、主人であるギイが幸せそうだったことを知っているだけに、笑顔の消えたギイに胸を痛めた。
タクミがいなくなっても、日々の生活は何ら変わることはなかった。
相変わらず仕事は待ってはくれず、ギイは朝早くから夜遅くまで働いた。そうすることで辛いことを考えずにすむとでも言うように。
ペントハウスでは、ギイはタクミのことを口にしなかった。まるで最初からここにはいなかったかのようにタクミのことには触れない。
それが、ギイが抱えている痛みが深いことを物語っているようで、ライアンは年若い主人のことが心配でならなかった。
タクミが弾いていたバイオリンは、再びガラスケースの中へと仕舞われた。
「可愛そうなヤツだよな、お前も」
二度も奏でてくれる主を失って、恐らくもう二度とその美しい音色を響かせることはないだろう。
ギイは厳重に鍵をかけ、視界の中にそれが入らないようにとケースに布を被せた。
タクミが好きだった写真集は、ギイが普段見ることのない本棚の奥深くへと並べられた。
冬が過ぎ、暖かな春を迎える頃、ギイもとを久しぶりに章三が訪れた。
タクミが亡くなった時に章三はすぐに駆けつけ、黙ってギイのことを抱きしめた。
かける言葉が見つからず、ただそうするしかできなかった。
ギイが、託生が亡くなった時のような憔悴した素振りを見せなかったことで、ほんの少し安心もしていた。
もっとも、大丈夫だ、と言うギイの言葉など信じてはいなかった。
大切な存在を理不尽な形で奪われる喪失感は、きっとあとからギイのことを打ちのめすだろう。
託生の時と同じように、自分のせいで命を落としてしまったのではないかと後悔をするのではないか。
章三はライアンとは密に連絡を取り、ギイが少しでもおかしな様子を見せればすぐに駆けつける心積もりをしていた。
幸いなことに、ギイは特に変わった様子も見せず、淡々と日々を過ごしていると聞き、章三は思い切ってペントハウス近くの公園へとギイを誘ってみた。
タクミが命を落とした場所へギイを連れ出すことは章三にとっても一種の賭けのようなものだった。
あからさまに拒絶されるかと思ったが、ギイはいいよと言って章三と共に公園を訪れた。
「ああ、気持ちいいな。もうすっかり春だな」
ギイが大きく伸びをする。
麗らかな春の午後だった。公園では散歩を楽しむ人や、家族連れで休日を楽しむ人、ベンチに座って語り合う恋人たちなどさまざまな人で溢れていた。
ギイはポケットに手を入れて、章三の前をゆっくりと歩いた。
「いつの間にかもう春になっていたんだな」
「季節が変わったことすら分からないほど忙しかったのか、ギイ」
「ああ、新規事業の立ち上げがあったからな、まぁこの不況の中でありがたいことだと思うことにしてるよ」
「殊勝な心がけだな」
笑う章三に、ギイもまた笑う。
しばらく何てことのない近況報告をしあいながら公園を歩いた。
広い湖の周囲を辿り、目についたベンチに2人して腰掛けた。
「章三、またオレのことを心配して、来てくれたんだろう?」
「まぁな、そりゃあ心配するさ。過労死するほど働いてるって聞けばな」
「そりゃそうか」
ギイは足を伸ばして、柔らかい春の風にほっと息をついた。
「けど、それだじゃないよな、章三が来た理由は」
「・・・そうだな、タクミがいなくなって、どうしてるかと思ってさ」
ああ、とギイは眩しい光に目を細め、目の前の湖を眺めた。
「何だかずっと悪い夢の中にいるようでさ、仕事でもしてないと、どうにかなっちまいそうなんだよな」
「ああ」
目の前で、自分の腕の中で、大切なものが命を失う様を見ているのだ。
それがどれほど辛いことかは、章三にも想像はできる。
「託生を失ってさ、オレ、一人で生きる意味があるのかなってずっと思ってた。章三には理解できないかもしれないけれど、オレにとって託生は生きるすべてだったんだ。あいつだけが、ちゃんとオレのことを見てくれた。何も持たないオレ自身を心から愛してくれた。本当に本当に失ってはいけない人だったんだ」
「うん・・・・」
「何も考えないようにしてた。考えると、その先には死しかなくてさ、そんなことじゃだめだって分かってるんだけど、どうにもならなくて。夜になって、一人になるだろ?もうさ、眠れないんだよ。どれだけ眠ろうとしてもだめでさ。平気なふりして、忘れたふりして、でも夜になると思い出すんだ。託生のこと」
「・・・・・」
「辛かったよ。・・・今でも辛い」
ギイは苦しげにつぶやき、視線を遠くに彷徨わせた。
「もう限界だなって思ってた時に、タクミがそばにいるようになって・・・。託生の代わりにするつもりはなかったけど、やっぱりそう思ってたのかな・・・。タクミがいれば辛かった気持ちが楽になった。タクミがいれば眠れない夜も眠れた。託生のことを思って辛くなっても、タクミがいれば何とかやっていけそうだと思えた。そんな風にさ、生きていくのもいいかなって思い始めたときに、あんなことになっちまって・・・だけど・・」
「だけど?」
章三の問いかけに、ギイは小さく笑った。
「大丈夫だよ、章三」
「・・・」
「オレは、生きなくちゃだめなんだ・・・。そうしろって、あいつが言ったから」
笑って、けれどギイの頬を一筋涙が伝う。
章三は何も言えずにそんなギイから視線を外した。
「何か飲み物買ってくるよ」
「ああ、悪いな」
ギイの肩を軽く叩いて章三がその場を去ると、ギイは頬を伝う涙を拭い、目の前の湖を眺めた。

(ぼくがいなくなっても・・・・)

最後のタクミの言葉は今でも鮮明に思い出される。

(ギイは生きなくちゃいけない)

自分の代わりに生きろとタクミは言った。
何のために?
どれだけ考えてもその答えは見つからない。
託生はいないのに。タクミはいないのに。
それなのに生きろと言うのか。

悲しいことは忘れていいとタクミは言った。
それができれば、生きやすいことはギイにも分かっていた。
けれど、託生のことは決して忘れない。
それがどれほどの痛みを伴うものであっても、抱えていくべきものなのだ。

タクミとの約束を叶えてやれなかったことが悔やまれた。
期待させるだけさせて、結局何一つ、タクミにしてやれなかった。
それなのに。

(ギイ、愛してる)

そう言ってタクミは笑った。
ドールに愛情という感情はない、と三洲は言ったが、タクミは・・・。

(ああ、そうか・・・)

ふいに、ギイの中で何かがゆっくりと溶けていくのを感じた。

自分はちゃんと彼に愛されていたのだと、今さらながらに思い知らされた。
そして、あれが彼の最後の願いだということも。
胸の奥がじわりと熱くなるのを感じて、ギイはその衝動をやり過ごすのに苦労した。

(いいだろう、生きろというなら、そうしよう)

それが彼の望みならば、そうするより他にはない。

ギイは溢れそうになる涙を堪えるために、空を見上げた。
雲ひとつない青い空が目に眩しかった。

その青い空を、ふわりと、雪のような白い破片が舞った。
風に乗って届いたそれは、桜の花びらだった。
視線を巡らせると、春になったら見に行こうと約束をしていた桜並木が、すぐそばにあった。

託生が好きだったあの花は、季節が巡るごとに美しい花を咲かせる。
綺麗なものが好きだと言ったタクミはそれを見ることなくこの世を去った。

あの花を見ることができるのは、もう自分しかいない。

「ギイ、コーヒーでよかったか?」
戻ってきた章三がカップのコーヒーを差し出す。受け取ったギイはすっきりした表情をしていた。
その瞳にしっかりとした光が宿っていることに章三はおや、と思った。
「ありがとう、章三」
「うん?コーヒーくらいでやけに神妙だな」
「・・・違うよ。コーヒーのことじゃない」
「・・・ああ・・・相棒だろ?これくらいのこと礼を言われることじゃない」
「そうか」
「そうだよ」
受け取ったコーヒーを口にして、ギイは強くなった風に舞う桜の花びらを見て、心を決めた。







それからギイは以前にも増して仕事に打ち込むようになったが、それと同時に誘われればデートにも出かけ、友人たちとパーティを楽しみ、時には一人で旅行にも出かけた。
楽しいことがあれば笑い、趣味を持ち、自分の時間をできる限り充実させた。
託生が生きていればきっと一緒に出かけたであろう場所へ行き、託生の代わりにコンサートに出かけ、美しい音楽を聴いた。
2人で交わした約束を、ギイは一人で一つずつ叶えていった。
そして、普通に生きる人たちがそうするように、過去にばかり目を向けるのではなく、新しく手に入るものを大切に生きるように努力した。その努力は概ね成功し、それまでに増してギイの周りは華やいでいった。
何の不自由も不満もない毎日。
それでも時折耐え切れないほどの寂しさや切なさが襲いかかることがあったが、そんな時は、ただ静かに目を閉じて痛みが通りすぎるをじっと待った。
どんな思い出も、ギイにとっては大切なものであり、辛いことではないのだと自分に言い聞かせた。
そんな風に何年かが過ぎた頃、一人の女性と親しくなった。
友人の誕生会で話をしたのがきっかけで、そのあとも偶然に何度か顔を合わせる機会があり、やがて時折食事をする仲になった。
ギイとの結婚を望む女性が多い中、彼女はまるでそんな素振りを見せず、ギイから誘うことがない限り連絡をしてくることもなかった。
彼女といると、不思議とギイは肩の力を抜くことができた。
話題も豊富で、お互い興味を持つことも似ていた。何より惹かれたのは、彼女の持つ雰囲気だった。
柔らかな空気感は託生を思い出させた。
彼女は派手なことはせず、どちらかと言えば物静かで一人でいることを好んだ。
聡明で優しく、家柄も悪くない。その気になればどんな男とも結婚できるだろうに、特定の恋人が欲しいとは思っていないようだった。
長く付き合ううちに、ギイともお似合いだと誰もが口を揃えて言ったし、周囲の誰もが、いずれ2人は結婚するものだろうと噂した。
双方の親同士も親しい仲だったこともあって、いつ決めるのだと問いただされることもあった。
もし彼女もそれを望んでいるのだとしたら、自分にはそのつもりがないことをきちんと話すべきだろうとギイは思った。
彼女のことは好きだったが、かつて託生に注いだほどの愛情や情熱を感じることはできなかった。
彼女が悪いのではなく、それはあくまでギイの心の問題だった。
託生をなくしてからもう何年もたっていたが、ギイにとっては託生以上に愛せる人を見つけることはできなかった。
ギイは正直に彼女にそのことを話した。
彼女のことが好きだったから、下手に誤魔化して逃げたりしたくなかったのだ。例えそれで彼女との仲が終わることになったとしても構わないと思った。
自分にはかつて恋人がいたこと。彼が死んだあとはもう誰のことも愛せないでいること。彼女のことは好きだけれど、彼と同じようには愛せないことも。
事実だけを淡々と、ギイは彼女に話した。
すべてを聞き終えたあと、彼女は言った。
「一人で泣くのは辛いでしょう?」
彼女はギイが眠れぬ夜を過ごしていることも、消えない痛みを未だ抱えていることも、そしてそれでもいいと思っていることもすべて知っていた。
そこで初めて、ギイは、彼女もまた自分と同じ痛みを抱えているのだということに気づいた。
過去に何があったのか、彼女は自分のことは話そうとはしなかった。けれど、彼女に対して感じていた、どこか安らぎにも似た感覚は同じ痛みを持つ者だからこそのものだったのだと、ようやく気づいた。
結婚しようか、とギイは彼女に言った。
一握りの人間が集う上流階級と呼ばれる社会の中で、いつまでも一人でいるのはいろいろと面倒も多い。
2人の結婚には誰一人として異を唱えることもなく、むしろ当然のこととして受け入れられるだろう。
都合がいいといえば、あまりにも打算的かもしれなかったが、誰のことも愛せないまま、いずれ流されるように誰かと一緒になるくらいならば、彼女と一緒にいるのは心が休まったし、ギイなら彼女のことを理解できると思ったのだ。
彼女はそれを受け入れた。
ギイは彼女に愛情を求めることはなく、彼女もまたギイに愛情を求めるようなことはしなかった。
ただ2人の間には、2人にしか分からない感情が確かにあった。
新しく始まった生活は優しいものだった。
決して愛し合って一緒になったわけではなかったけれど、託生への愛情とはまた別の次元で、ギイは誠実に彼女のことを大切にした。
互いの誕生日にはプレゼントを贈り食事をした。バカンスには旅行へ行き、一時の休息を楽しんだ。
傍から見ればこれ以上ないほど幸せな夫婦に見えたと思う。
穏やかに過ぎていく毎日の中で、それでもギイは時折眠れぬ夜を迎えることがあった。
まるで積もり積もった見えない寂しさが溢れ出るように、ふいに自分ではどうすることもできないほどの痛みに襲われた。
そんな時は彼女が黙ってギイのことを抱きしめてくれた。
かつてタクミがそうしてくれたように、黙ってギイのことを抱きしめてくれる。
彼女の前で、ギイは声を殺して泣くこともあった。
「・・・こんなに時間が経っているのに、って呆れるだろう?」
ギイが尋ねると、彼女は小さく首を振った。
「ねぇ、誰かを本気で愛したら、時間なんて関係ないと思う。その人を想って泣くことは、恥ずかしいことでも何でもない」
そういう彼女は、ギイには何も話そうとはしなかった。
話すことで楽になれることもあるよ、とギイは彼女に言ったこともあったが、彼女は大丈夫と言って笑うだけだった。
耐え切れない痛みが襲ってきた時は、彼女は眠ることなく窓際に置いた椅子に座り、一晩中暗い窓の外を眺めていた。
椅子の上で膝を抱え、ギイが呼んでも決してそばにこようとはしなかった。
それが彼女が選んだ寂しさをやり過ごす方法なのだと気づき、それからギイは何も言うことはしなかった。
一人にしておくのが、彼女には必要なのだと感じたからだ。
結局、同じような痛みを抱いていたとしても、それは決して同じものではなく、他人の寂しさを救ってやることなどできないのだとギイは彼女を見ていてそう思った。
結婚してから数年して、2人の間には子供ができた。
ギイによく似た男の子だった。
自分が親になるという感覚に戸惑うことも多かったけれど、小さな命が日々育っていくことに不思議な感動を覚えた。
無心に自分に甘える子供は素直に愛おしく感じたし、彼女もこれ以上ないほどに子供を可愛がった。
子供が歩くようになり、言葉を話すようになり、かつてギイがそうだったように、日々新しいことを覚え成長していく。
確実に時間が過ぎていくのだと、ギイはその事実に何とも言えない気持ちになった。
順風満帆な人生だと、誰もが思っただろう。
仕事も順調で、美しい妻がいて、可愛い子供がいる。
ある意味完璧な形の生活の中で、ギイ自身はまるで「崎義一」という役柄を演じているような気がしてならなかった。
それが生きるということならば、自分はずいぶんと上手に生きていると思う。
けれど、そのことに対して虚しさを感じることはなかった。感じないようにしていると言った方が正しいのかもしれない。
タクミが死んだときに、ギイは自分が一人ではないのだと知った。
自分が愛した人から確かに愛されていて、そばにいないだけで、彼は間違いなく自分の中で生きているのだと思えたから、気が遠くなるほどの長い時間を、何とか生きてみようと決心できた。
彼が望む通り、普通の幸せというものに身を委ねてみようと思えた。
幾度も季節は巡り、子供は成人し、やがてギイの仕事を手伝うようになった。
外見だけではなく、考え方や仕草もギイに良く似た息子に、好きなことをすればいいのにとも思ったが、仕事を継ぎたいというのならば、自分が持っている知識も経験も、すべてちゃんと受け渡してやろうとも思った。
ある日、ギイは自分の身体が病に冒されていることを知る。
まだ若いだけに進行も早かったが、最高の治療を受けることができる立場であり、まだ希望を捨てることはないと医師に告げられた。
けれどギイは、自分の身体のことは自分が一番よくわかっていて、無駄な延命措置は受けたくないと拒絶した。
早く死にたいと思っていたわけではなかったが、逆に長生きをしたいと思っているわけでもなかった。
それが自身の寿命ならばそれで良かったのだ。
仕事からは身を引き、しばらくは自宅で静かに過ごした。
半年ほどが過ぎた頃、ターミナルケアを受けるための施設へと身を移した。
痛みを最大限緩和してくれる治療のおかげで、ギイは毎日を心穏やかに過ごすことができた。
身の回りのことはすべて綺麗に整理してあったし、特に何かを心配することもなかった。
「崎さん、気分はいかがですか?」
訪れた看護士が気持ちのいい笑顔を見せる。
「ありがとう、今日はずいぶんと楽だよ」
「良かった。今日はいいお天気で暖かいですよ」
言われて窓の外を見ると、綺麗に晴れた青い空が見えた。
そして窓辺に立つ桜の花も。
「・・・窓、開けてもらっていいかな」
「いいですよ。少しの間なら」
吹き込む風は春のもので、ふわりとギイの髪を揺らした。
看護士が部屋を出て行くと、ギイははらはらと舞う桜に目を細めた。
桜の花が一番綺麗に見える部屋がいいと、ギイはそれだけを希望し、それは当然叶えられた。
ほとんど白く見える花びらが風に舞う。
どれほど時が過ぎても、桜は美しい花を咲かせる。
タクミを失った時にも同じことを思った。
春の温い空気が自分を包み込む気配に、ギイは目を閉じた。

(託生・・・・)

日々強くなっていく痛み止めのせいで、自分が夢の中にいるのか、現実にいるのか分からなくなることがある。
今自分はいったいどちら側にいるのだろう?

(そこにいるんだろう?)

胸の中で呼びかけてみる。
身体を包む空気が柔らかくなったことで、ギイはそこに愛しい人がいることを感じた。

(ギイ)

ああ、やっと。
やっと来てくれた。
ずっと待っていたのだ。
長い長い時間を、たった一人で。

(ギイ、苦しくない?)
(大丈夫)

懐かしい声が聞こえた気がして、ギイは微笑んだ。
ギイの頬を撫でる春の風は優しく、じわりと目元が熱くなった。
遠い遠い昔のことを思い出し、ギイはずっと確かめたかったことを託生に問いかけてみる。

(なぁ、あの時のあれは・・・お前だったんだろう?)
(なに?)
(タクミが初めてバイオリンを弾いたときの、あれ、お前だよな?)
(すごいな、ギイ。どうして分かったの?)
(分かるさ。タクミの右手の動きがさ、そっくりお前のものだった)

祠堂の温室で、飽きることなくバイオリンを弾く託生を眺めていた。
どんな小さな仕草であっても、今でも鮮明に思い出すことができる。

(だってさ、ギイ。懐かしくて。いけないって思ったんだけど、誘惑に勝てなかった)
(そこにいたのにオレに何も言わないで、ずるいな、お前)
(ごめんね)

ちっとも悪いだなんて思ってない口調に、苦笑が漏れる。

(あと、あの時も・・・)
(うん?)
(タクミが死ぬ間際・・・あれもお前だったんだろう?託生)
(・・・そうだよ、ギイ)

やっぱりそうだったんだな、とギイはずっと抱えていたパズルが綺麗に解けたようなすっきりとした気持ちになった。

(どうして分かったの?)
(あの時はわからなかった)

けれど、時間がたつにつれ、タクミがギイに「愛してる」と言うはずがないのだと気づいた。
三洲が言っていた。ドールには愛情という感情はないのだと。
タクミがどれほどギイのことを慕っていたとしても、それは愛情ではありえないのだ。

(オレに愛してると言って、生きろなんて言うのは託生しかいないって思ったんだよ)

失ったものばかり追いかけたりせず、これから手に入るものに目を向けろと。
悲しいことは思い出にして、楽しいことがあったら笑えと。
託生を愛したように、誰かを幸せにしろと。

それはギイにとってはあまりにも残酷な願いだった。
それでも、託生の最後の願いに逆らうことなどできなかった。
託生のあの言葉に囚われて、ギイはここまで生きてきた。

(ギイには生きて欲しかったんだよ。ぼくがいなくても、タクミがいなくても。だって、タクミも言ってただろ?この世界には美しいものがまだまだあるって、そういうものに、ギイにはちゃんと目を向けて欲しかったんだ)
(うん)
(だけど、タクミには可哀想なことしちゃったな。本当は、タクミもギイに言いたかったんだよ。愛してるって)
(それは・・)
(言葉にはできなくてもね、タクミはちゃんとギイのことを愛してたよ。大切で大切で、自分が死んでもいいって思うほどにね)

蕩けるような笑顔を見せていたタクミを思い出す。
もう二度と会えない。
ミルクと砂糖菓子の甘い香りをさせていたギイのドール。
託生を失って冷え切っていたギイの心を、タクミは確かに温めてくれた。

ギイはゆっくりと瞼を開けると、窓から差し込む午後の光をぼんやりと眺めた。
暖かい。
痛みも何も感じなかった。
託生を失って、あれほど辛かった時間でさえも懐かしく感じるほどに、心は穏やかで満たされていた。
もし、あの時、託生に生きろと言われていなければ、こんな風に最期を迎えることはできなかっただろう。

(託生、そこにいる?)
(いるよ、ギイ)
(もう、どこにも行かないでくれ)

それは心からの願いだった。

(もう、いいだろう?オレは生きた。お前がいなくても、精一杯生きた。だからもういいだろう?)
(うん。ありがとう、ギイ。ぼくの代わりに・・・ぼくの分まで生きてくれて)

どういたしまして、とギイは言葉にせずに託生に告げる。
涙で霞んだ視界の中に、託生の姿が見えたような気がして微笑んだ。

ずっと待っていた。
もう一度こんな風に会えることを。

そしてもう一度瞼を閉じる。

その瞼はもう二度と開くことはなかった。






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あとがき

やっぱりご臨終ネタは書いててきつかった。