このお話は
もともと心臓の弱かった兄の尚人が亡くなった時、託生はまだ人の死というものがどういうものかを理解できるだけの年齢には達していなかった。※一度はやりたい観用少女のオマージュ第二弾です。(ギイドール編!) ※Beautiful World とは違ってハートフル(?)なハピエンですのでご安心を! 母が憔悴しきった様子で涙を流し、父も何かに耐えるようにきつく唇を結んでいる理由がはっきりとはせず、ただ二人のそばで黙っているしかできなかった。 それでも、大好きだった兄が白い箱の中に横たえられたまま目を覚まさないことで、何か恐ろしいことが起こっているのではないかということだけは、幼いながらも感じることができた。 「兄さん?」 そっと伸ばしてその頬に触れてみると、その頬は驚くほど冷たく硬く、それまで知る兄のものとは全く違っていて、託生は急に怖くなった。 「兄さん・・・起きて?」 どうして小さな箱の中で目を閉じているのか。 どうしてその目を閉じたままなのか。 白い唇はぴくりとも動かない。 胸の上で組み合わされた指に触れると、それは氷のように冷たくて、思わず託生は手を引いた。 どれだけ呼んでも起きない尚人に、それでも託生は何度も声をかけた。 その様子が集まった人々の涙を誘う。 「兄さん・・・兄さん・・・」 「託生、さぁ、こっちに来なさい」 父親に手を引かれ、抱き上げられる。 お別れの言葉を言いなさいと言われても、どうしてそんなことをしなくてはならないのか託生には分からなかった。 「さようなら、って言うんだよ」 父親の言葉に、託生はふるふると頭を横に振った。 大好きな兄に、どうしてさようならを言わなくてはいけないのか、幼い託生にはどうしても分からなかった。 その店は大通りから路地を入ったその奥にひっそりと佇んでいた。 古い建物は緑で囲まれ、そこだけがまるで別世界のように思えるほどに、異質な空気を漂わせていた。 店には看板が出ているわけでもなく、一見しただけでは何の店なのかは分からない。 店だということすら知らない人の方が多く、訪れるのは誰かから紹介を受けて足を運ぶ人ばかりだったが、それでも時折何も知らずに迷い込んでくる客もいて、案外そういう人間こそが運命を変える出会いをすることもあった。 「さて、今日も誰も来なかったか」 つぶやいた内容は商売人としては残念なものだが、店主はそれほど気にはしていなかった。 何しろどれほど努力したところで、儲かるという商売ではなかったからだ。 なぜなら、この店で扱っているのはプランツドールだったからである。 ドールは今では数少なくなった「名人」の称号を持つ職人たちが作り上げる「生きる人形」である。 ドールたちは眠ったまま、持ち主に巡り会えることを待っている。 その美しさはもとより、ドールを手に入れるためには驚くほどの大金が必要となる。 しかも、ただ大金を積めば手に入るというものではなく、ドールにとって本当の持ち主が現れれば目が覚めることはない。 どれほど望んでも、ドールが目覚めなければ手に入れることはできない。 それだけに希少価値は上がり、今ではドールの存在は夢物語のように語られることもあった。 店主がこの街で唯一ドールを扱うようになってもう数年がたつ。 たくさんの眠るドールに囲まれて、持ち主が現れるのを待つのは店主も同じだ。 可愛いドールたちが唯一の持ち主に出会えるのを、店主も楽しみに待っているのだ。半ば道楽のような商売と言ってもいいかもしれない。 「そろそろ店じまいにするか」 そう思ってカーテンを引こうとしたときに、小さな鈴の音がして店の扉が開いた。 振り向くと、そこにはスーツ姿の男性と、彼に手を引かれた小さな男の子が立っていた。 店主はめずらしい組み合わせだな、と思った表情には出さなかった。 「いらっしゃいませ」 「もう店じまいでしょうか?」 「いいえ、構いませんよ、どうぞ」 にこやかに笑って店主は彼らを迎え入れた。 二人はどうやら親子らしく、小さな子供は物珍しそうに店の中をきょろきょろと見渡している。 「ドールの店だと聞いたもので」 父親の言葉に、店主は店の奥へと二人を促した。 奥の部屋には眠ったままのドールが行儀よく座っている。 どれも思わず見惚れてしまうほどの美しい顔をしていて、店主の趣味なのか、少し懐古的な服を着ていた。それが逆にエキゾチックな雰囲気を醸し出していて、視線が外せなくなる。 店主はドールたちに釘付けの二人にソファに座るように勧め、紅茶を父親に、そしてオレンジジュースを子供へと差し出した。 「ドールをお求めに?」 「ええ、できれば息子にドールを、と思ったのですが。よく考えてみれば、思ったところですぐに手に入るものではないんですよね」 「そうですね」 「ドールを見せていただいても?」 「もちろん」 父親は隣に座る息子の肩を軽く叩いた。 「見てきていいよ。勝手に触らないようにね」 こっくりとうなづいて、子供は立ち上がると、小走りにドールたちの部屋へと向かった。 それを見送って、店主が父親へと向き直った。 「どうしてドールを?」 「実は、半年ほど前に、上の子を亡くしまして」 「それは、お気の毒に」 父親はドールの前に立つ息子へと視線を向けた。 「あの子は兄と・・亡くなった上の子ととても仲が良くて、兄が亡くなってからというものまったく笑わなくなってしまったんですよ。今ではほとんど話すこともなくなってしまって」 「・・・・」 「託生は・・ああ、あの子は託生というのですが、すっかり心を閉ざしてしまって・・・外にも出ず、食事もろくにしなくなってしまったので、しばらく病院に通っていたんです。そこの医師に、ペットでも飼ってみてはどうかと勧められたんです。生き物を育てることで、自分もまた生きる気力を取り戻すこともあると。ですが、犬や猫も、どうしても私たちより早く死んでしまいます。またあの子に、悲しい思いをさせてしまうのは忍びなくて。どうしたものかと思っているところに、友人からドールの話を聞きました。ドールは育つことなくそのままの姿でいると聞いたものですから、手に入れることはできないかと思いまして」 「まぁ確かに大切にすれば人間よりは長生きするとは思いますけどね」 店主の言葉に、父親はうなづいた。 「もう私たちにはあの子しか残されていないんです。以前のような明るく笑ってくれる子に戻って欲しいんです。ドールはちょうど年齢的にも亡くなった兄と同じくらいでしょうし、兄弟のように仲良くできれば、きっと託生の気持ちも紛れるのではないかと思ったんです」 「なるほど。波長のあうドールがいるといいですね。なかなか子供と波長があうことはありませんので、お父様が探される方がいいかもしれませんが」 私は・・と父親が躊躇する。 仕事に忙しく、とてもドールの世話をしているような時間はないと言う。 店主は曖昧にうなづいて、ドールを眺めている少年の背を見つめた。 託生はドールというものを見るのは生まれて初めてで、これが人間なのか人形なのかもよく分かっていなかった。 けれど、どれもとても綺麗な顔をしていて、見ているだけで幸せになれるほどだった。 あまりに綺麗なので、触ってはいけないと父親には言われたけれど、ついこっそりとその手に触れてしまった。 ひんやりと冷たい白い手に驚いて手を引っ込めた。 あの時、兄の尚人がその目を開けなくなった時に触れた手と同じ冷たさをしていた。 急に怖くなって、託生は一歩後ろへと退いた。 目の前にいるドールはどれも同じように目を閉じていて、ぴくりとも動かない。 それが尚人の姿を思い出させて、胸が痛くなった。 あの時、どれだけ声をかけても目を開けることはなかった尚人。 二度と優しく託生の名を呼ぶことはなくなってしまった大好きな兄。 目の前のドールはそんな尚人のことを嫌でも思い出させた。 息苦しくなって、こんなところにはいたくないと思った。 早く帰ろう、と父親に言いたくなって、託生はその場を離れようとした。 その時、ちょうど店の端に座っていた一体のドールに気づいた。 そしてそのあまりの美しさに言葉を無くした。他のどのドールとも違う。 他は少女の姿をしているのに、そのドールは少年のものだった。 託生は恐る恐る近づいて、俯くその顔を覗きこんだ。 少年のドールは、どこか尚人に面差しが似ているような気がした。 薄茶の髪はふわふわで、白い肌はまるで陶器のように滑らかで、長い睫はその頬に薄く影を落とすほどに長い。赤い唇は柔らかそうで今にも言葉を紡ぎそうに見える。 (何て綺麗なんだろう) そのドールは周りに居並ぶどのドールよりも美しかった。 目を開けてくれればいいのに、と思った。 笑ってくれれば、きっともっと綺麗なのだろう、と託生は飽くことなくドールを見つめた。 膝の上に置かれたドールの手を見て、躊躇する。 触れてみたいと思ったけれど、あの冷たい感触は怖い。 それでも、このドールに触れてみたくて、託生はおずおずとドールに手を伸ばした。 触れてみた指はやはり冷たく、託生は急に泣きたいような気持ちになった。 (怖い・・・) そう思って手を引こうとした瞬間、触れていたドールの指先がぴくりと動き、託生の指を掴んだ。 「・・・っ」 心臓が止まるかと思うほどに驚いて、託生は掴まれた手を思わず払った。 ドールはゆっくりと目を開けると、伏せていた顔を上げた。 その美しい琥珀色の瞳。 胸が痛くなるほどの感動を覚えて、託生はドールから目を離せなくなかった。 ドールは二度、三度と瞬きをすると、自分を目覚めさせた持ち主である託生を見上げた。 (ああ、やっぱりすごく綺麗だ) お互いにじっと見つめあう。 不思議そうに託生を見ていたドールは、ふいににっこりと笑った。 その、まるで夢のように美しい笑顔に釘付けになる。 もし傍から見ている人がいれば、一目惚れをしたと思われてもおかしくないくらいに、託生は呆けたようにドールに見入っていた。 立ち上がったドールは託生よりもずっと背が高かった。兄の尚人と同じくらいだろうか。 ドールは託生へと近づくと、ゆっくりと身を屈め、託生の頬に手を添えた。 何かを言いたげに唇が動く。だけど声はでない。 「なに?」 何が言いたいの?と聞こうとした託生の唇を、ドールのそれが塞いだ。 (え・・・っ???) いったい何が起こっているのかわからず、託生は硬直した。 キスされていることは分かったけれど、どうしてこんなことになるのか分からない。 何しろ誰かとキスするのは初めてのことなのだ。 しかも男の人となんて、想像すらしたことがない。 触れているドールの唇は温かかった。 頬に添えられた指も、さっきまではあんなに冷たかったのに、まるで別の指のように温かく感じた。 (生きているんだ・・・) そのことが、託生をほっとさせた。 唇が離れると、ドールは極上の笑みを見せた。いきなりキスされて大混乱の託生だったが、その笑みに我に返り、瞬時に真っ赤になった。 「な、何で・・・っ」 どうしてキスなんてするんだろう。 どうしてキスされて何の抵抗もできなかったんだろう。 ぐるぐると頭の中でそんな疑問ばかりが浮かんでは消えていく。 「託生?」 そこへ父親と店主が現れ、託生のそばに立つドールに目を見張った。 ドールが目覚めたことももちろんだったが、そのあまりの美しさに父親は息を呑んだ。 託生は慌てて父親の元へと駆け寄ると、ドールから逃げるようにその体の後ろに隠れた。 店主は目覚めたばかりのドールを見て、驚いた、とつぶやいた。 「ああ、これは・・・まさかこのドールが目覚めるとは」 「あの・・何か曰くつきのドールなのでしょうか?」 父親が心配そうに店主に尋ねた。いいえ、と笑い、店主はドールの髪を撫でた。それを嫌がるようにドールは首を振った。そんなドールに店主は苦笑した。 「このドールはかつて名匠と呼ばれた職人が最後に作ったドールなんです。見ていただいて分かるように、ドールの中でもそれはもう最高傑作と言われるほどの美しさで、ドールを求めて店に訪れた人は皆このドールを欲しがるんですよ。けれど、結局今まで一度も目覚めたことはなかった。もう20年近く眠ったままだったんですよ」 「20年も・・・」 父親は傍らに立つドールを眺めた。なるほど店主の言う通り、それはあまりに美しすぎるからドールなのだと分かるほどの、人間では持ち得ない端整な顔立ちをしていた。 「この子が目覚めるなんて、よほど波長があったんですね。まさかこんな小さな子と波長が合うとは思いませんでしたが」 店主は、このドールはもう一生目覚めることはないのではないかと思っていたのだ。 いったいどんな持ち主なら目を覚ますのだろうと、長い間不思議に思っていたのだが、こんな小さな男の子に反応するとは想像もしていなかった。 自分の後ろに隠れる託生を、父親はドールの前へと押し出しだ。 「託生、お前のドールだよ。どうした?」 託生は困ったように父親を見上げた。自分のドールというのはどういう意味なのだろう。 そもそもドールがどういうものかさえも分からない。 店主と父親は顔を見合わせて笑った。小さな子供が恥ずかしがっているのだろうと思ったのだ。 「では、お支払いをお願いできますか」 「ええ」 もともとドールを求めて店にやってきたのだから話は早かった。 父親と店主が手続きをしている間、託生はドールと二人きりで、言葉を交わすこともなくソファに座っていた。 託生はさっきドールにいきなりキスされたドキドキが残っていて、まともにドールの顔を見ることができないでいた。片やドールほ方はまったく気にした様子もなく、ただソファに座り、何かを考えるかのように黙り込んでいた。 隣に座るドールからはいい匂いがした。 甘くて、どこか幸せになれるような匂いで、託生は知らず知らずのうちにドールに触れ合うほど近く身を寄せていた。 それに気づいたドールがふわりと微笑む。 「ところで、あのドールに名前はついているのですか?」 父親が思い出したように店主に尋ねた。 「ああ、ギイです。あの子の名前はギイ。ドールの育て方はご存知ですよね。一日三回のミルクと時折砂糖菓子を。それ以外は与えないでください。あとは愛情が彼らの生きる糧となります。愛情が不足すると彼は枯れてしまいます。言葉は話しませんが、教えてやると話すこともあります。トイレや風呂などは一人でできますので、それほど手間がかかることはありません。ギイは、私も目覚めた姿を見るのは初めてなのですが、かなり頭のいい子だと聞いています。すべてに置いて優れた、名人が最後にすべての力を注いで作り上げた逸品です。どうか枯らしたりなさらないでください」 「分かりました。託生と仲良くなってくれれば、枯れるということはないと思いますので、ご安心ください」 名匠の最後の作品だというギイは、他のドールよりもずいぶんと値段は高かったが、幸いなことに父親には十分な財力があったので、さして驚くことなくその場で小切手を切った。 このドールが託生のことを元気づけてくれるのならば、少々の金を使うことなど何の問題もなかった。 ギイのために一通りの品物を揃えると、さぁ帰ろうと託生に声をかけた。 託生が立ち上がると、隣に座っていたギイも立ち上がった。 父親はギイを見ると、ちょうど尚人と同じくらいの背丈だな、とふと思った。 するとどうしようもなく胸が痛んだ。 父親は兄の尚人のことも、もちろん愛していたのだ。 悲しみを紛らわすために以前よりも一層仕事に没頭するようになっていたが、大切な息子を亡くした悲しみは、まだ癒えることはない。 けれどそんなことは表情には表すことなく、ギイへと微笑みかけた。 「ギイ、今日からきみは私たちの家族だよ」 ギイは父親の言葉にほんの少しうなづいたように見えた。 そしてそのまま託生へと視線を移した。 その真っ直ぐな視線に、託生はわけもなくどきりとした。 そんな託生に、ギイは手を差し出した。 「・・・・?」 託生はどうしていいか分からずに父親を見上げた。 「託生、手を繋いであげなさい。ギイは目覚めたばかりで右も左も分からないんだ。託生がちゃんと面倒を見てあげるんだよ」 託生はうなづいて、差し出されたギイの手をそっと握った。 ギイは嬉しそうに笑う。 その笑顔につられるようにして、託生もまた笑った。 託生の笑顔を見るのは尚人が亡くなってから初めてのことだった。 それが託生とギイの最初の出会いだった。 葉山の家は郊外の高級住宅地にあった。広い庭のある大きな屋敷は周囲から一際目を引くものだった。 父親は有能な実業家で、若くして結婚した妻との間に二人の男の子をもうけた。 それが半年前に亡くなった兄の尚人と、弟の託生だった。 尚人は生まれつき心臓が悪く、激しい運動こそできなかったが、日常生活は何の問題もなく過ごしていた。勉強もよくできたし、整った顔立ちをしていた。誰にでも愛想がよく、友達も多かった。母親はそんな兄のことを溺愛していた。 託生はどちらかといえば引っ込み思案で、いつも尚人の後ろをついて回るような子だった。 何をするにも少しテンポが遅れがちで、自分の思いを言葉にするのが苦手なところがあって、尚人がいつもそんな託生をフォローしていた。託生も尚人にはよく懐いていた。 本当に仲のいい兄弟だったのだ。 父親はまったく性格の異なるそんな二人の息子を、どちらも分け隔てなく愛しく思っていた。 尚人が亡くなり、その事実にもちろん打ちのめされたが、もともと成人するまで生きることは難しいかもしれないと言われていた子だった。 だからというわけではないけれど、いつかそういう時が来ることも覚悟をしていた。 けれど母親の方はそう簡単に気持ちの切り替えをすることはできなかった。 尚人に生まれながらのハンデを背負わせてしまったのは自分のせいではないかと思っていたし、丈夫な子に産んでやれなかった自分のせいで、早くにその人生を終えることになってしまった尚人に対して、今でも後悔に苛まれ、自分を責めていた。 尚人が亡くなってから、もう半年がたとうとしていたが、母親の気持ちはまだ沈んだままで、正直、父親もそんな妻にどう接すればいいか分からずにいた。 何よりただ一人残された託生が不憫でならなかった。 まだ母親に甘えたい年頃なのに、身体の弱い尚人中心の生活だったために、いつも後回しにされていた子だった。 母親の愛情は常に尚人に向けられていて、託生へ向けられることはほとんどなかった。 我慢強い子だったから、寂しいなど口にすることはなかったけれど、父親にはそんな託生の健気な姿を見るたびに、何とかしてやらなくてはと考えた。 周囲の人間は見るからに憔悴する母親にばかり目を向けていたが、実際には託生の方が心を痛めているのだ。本当ならば、そんな託生を母親こそが慰めてやるべきだったが、とてもそんなことが出来る状態ではなく、父親も、託生の寂しさが癒えるまでそばにいてやりたかったが、多忙な日々でそういうわけにもいかない。 使用人たちは託生のことを気にはかけてくれたが、それはどこまでも仕事の延長上であって、肉親がかける愛情とは程遠いものだった。 託生のことを一番大切に思っていた尚人がいない今、この屋敷の中で、託生が甘えることができる存在が必要だと思った。 だからこそ、何としてもドールを手に入れたかった。 自分がいない間、託生のそばにいて、話し相手になって、そして味方になってくれる友達。 まさか本当にドールが目覚めてくれるとは思っていなかったが、これで託生が少しでも以前のように無邪気に笑ってくれるといいのだが、と父親は微かな望みをギイにかけてみることにした。 ギイを屋敷に連れて帰ると、迎えに現れた母親はやはり驚いたようだった。 託生のドールだ、と父親が言うと、彼女はほんの少し首を傾げた。 「一人で世話ができるの?」 母親の言葉に、託生は困ったように父親を見た。 世話をするのがどういうことかも分からない。父親は託生の視線まで身を屈めると、くしゃりと髪を撫でた。 「大丈夫だよ。友達ができたんだ。託生だけの友達だ」 「と、もだち?」 小さく問い返す託生に、父親はそうだよと微笑んだ。 「ギイはただのドールじゃない。託生の友達だ。大切にしなくちゃだめだよ」 「うん」 母親は二人のやり取りにはあまり興味がないようで、ただ作り物のように美しいドールをぼんやりと眺めていた。 そして結局ドールの名前を聞くこともなく、どんな風に接すればいいかも聞かないままに、その場をあとにした。 託生のことを気にかける風もなかった。 そんな母親の背を見送り、父親は細くため息をついた。 そして俯き加減に立ち尽くす託生の髪をくしゃりと撫でた。 「母さんはまだ少し疲れているんだよ。さ、もうお休み。しばらくはギイと一緒に眠るといいよ。ぐっすり眠れるからね」 「・・・うん」 「おやすみ、託生」 「おやすみなさい」 いつもなら一人で部屋へと戻る託生は、その夜はギイと共に寝室へと戻った。 心細い夜は、いつも尚人が一緒に眠ってくれた。 尚人が亡くなってから、誰かと一緒に眠るのは初めてだった。優しかった兄がいなくなってから、託生は一人でその寂しさとどう向き合えばいいか分からず、ずっと苦しんでいた。 大声で泣きたくなっても、母親に抱きしめてもえらることなどないのだと知っていたから、それもできなかった。 父親は優しかったが、夜遅くまで家に戻ることはなかったし、この広い屋敷の中で、託生はいつも一人きりだったのだ。 託生の部屋に入ると、ギイは広い室内をぐるりと見渡すと、窓際に置かれたベッドに勝手に横になった。 「あの、ギイ?」 「・・・・」 そうか、しゃべれないんだった。と託生は思いなおして、ベッドの端に腰を下ろした。 目を閉じたギイの長い睫に、無意識のうちに笑みがこぼれる。 少し長めの髪が額にかかる様子も、結ばれた薄い唇も、どこか大好きだった兄を思い出させた。 父親はギイは託生の友達だと言った。 人見知りで、上手く気持ちを伝えることのできない託生には友達はほとんどいなかった。 そんな託生をいつも笑って受け止めてくれたのは尚人だけだった。 本当にギイは自分の友達になってくれるのだろうか。 託生はおずおずと手を伸ばすと、ギイの髪をそっと撫でた。 ふんわりとした柔らかい髪は何ともいえない心地よい手触りがした。 ギイはだるそうに目を開けた。 「綺麗な髪だね」 「・・・・」 「これからよろしくね、ギイ」 託生の言葉にギイはほんの少し笑った。 その笑顔にほっとした託生は、安堵からか急に眠気を感じてギイの隣に横になった。 ギイは手を伸ばして足元にあった上掛けを託生にかけてくれた。 シャワー浴びないといけないかな、と思ったが、それよりも早く眠ってしまいたかった。 突然父に連れて行かれたドールの店。ギイとの出会い。 どこまでも自分には心を向けない母親とのやり取り。 いろんなことを一気に託生の身に起こり、少し疲れてしまったのだ。 目を閉じた託生はやがて眠りに引き込まれていく。 眠りに落ちる直前、誰かが託生のことを抱きしめてくれたような気がした。 尚人が亡くなってから、もう誰も託生のことを抱きしめてはくれなかった。久しぶりに誰かの温もりを感じながら、託生は深い眠りについた。 「託生・・・起きろよ、託生」 ゆさゆさと揺さぶられて、託生はその声から逃れるように身を捩った。 「腹減った、託生」 「・・・・っ」 耳元で囁かれ、託生は飛び起きた。 目の前に・・額が触れるほどの距離にギイがいて、託生はひっと息を飲んで思わず後ずさった。 こんな間近に見惚れるほどの美しい顔があったことや、昨日までしゃべらなかったギイがしゃべっているのにも驚いた。ギイはそんな託生に小さく笑った。 「託生、腹減った」 「・・・・ギイ?」 「うん?ああ、朝は『おはよう』だっけ?」 少し考えるような素振りを見せて、ギイはそうかそうかというように頷いた。 そしてにっこりと笑うと、託生の頬に手を添えて、ちゅっとその唇にキスをした。 「・・・・っ!!!」 「おはよう、託生」 「な、な、何で、キスするの?」 真っ赤になってシーツで口元を覆う託生に、ギイはあれ?というように首を傾げた。 「挨拶する時はキスするんじゃなかったっけ?」 記憶を辿るようにギイは腕を組んで目を閉じる。 そして何かを思い出したのか、一人納得したようなすっきりした表情を見せて笑った。 「そっか、あれは恋人同士の挨拶だったな」 「・・・」 「ごめんごめん。まだ目覚めたばかりで思考回路が上手く働いてないんだ。でも、託生」 「なに?」 「託生はオレの持ち主だから、いいよな、別に」 「な、何が?」 キスしても、とギイが再び託生の頬に唇を寄せる。託生は慌ててギイを押しのけて壁際へと逃げた。 「よ、良くないよっ」 「どうして?」 「だって・・・」 何故ダメなんだと聞かれて、託生は言葉に詰まる。こんな風におはようのキスをしてくれるのは、兄の尚人だけだった。もちろん頬にだ。父親も母親も、こんな風に託生には触れてくれない。 だからといって、ギイにキスされるのはやっぱりちょっと違うような気がした。 だって、家族じゃないし。それ以前にギイは人間じゃないはずだし。 友達はあんな風にキスなんてしないはずだ。 ぐるぐると考える託生を他所に、ギイはずいっと託生へ身を寄せる。 「託生もおはようのキスして?」 「え、っと・・・あ、そうだ、どうして急にしゃべれるようになったの?昨日まではしゃべれなかったのに」 今さらだけど、と疑問に思ったことを聞いてみる。するとギイは軽く肩をすくめた。 「昨日、みんなの話を聞いていて覚えたから」 「覚えた?」 「あー、ちょっと違うな。言葉は分かるんだ。それを口にできるように、自分の中でスイッチを切り替えたっていうか・・・上手く説明するのは難しいんだけどな」 託生にはちんぷんかんぷんな説明で、うーんと首をひねる。けれどすぐにぱっと笑みを浮かべた。 「でもギイがしゃべれるようになって嬉しいよ」 「そうか?」 「うん。だって、友達だろ?話ができるのは嬉しいよ」 「ふうん」 どこかつまらなさそうに鼻を鳴らして、ギイはベッドから降りた。 すらりとした体躯や朝の光に眩しい金茶の髪や、その仕草の一つ一つがとても綺麗で、託生は思わずぼーっと見入ってしまった。 振り返ったギイが、そんな託生にふっと笑う。 その笑顔に、託生はどういうわけかどきりとしてしまった。 ギイは頭のいいドールだと店主が話していた通り、目覚めた翌日一日だけで、家の中のことはだいたい把握してしまった。 大勢いる使用人たちの顔と名前もすぐに覚え、どこに何の部屋があるかも一度教えれば忘れることはなかった。 言葉もきちんと話したし、ちゃんと相手を見て敬語も使った。 まるで昔から一緒に暮らしていたかのような錯覚を覚えるほどだった。 昼食時、父親に教えられた通り、託生がギイにミルクを与えると、ギイはごくごくとそれを飲み干した。 そして空になったカップをずいっと託生へと差し出す。 「足りない」 「え、でもカップに1杯でいいって言われたんだけど」 「こんな量で足りるわけないだろ。ケチケチするなよ」 「えーっと」 別にケチで言っているわけではなく、食事はカップ1杯のミルクと時々砂糖菓子だけ、と教えられた通りのことをしているのだが、まだお腹を空かせている様子のギイを見ているとちょっと可哀想かなぁとも思えてきた。 「あとで父さんに聞いておくね」 「託生は小食だな」 テーブルの上に並んでいる食事を見て、ギイが眉をひそめる。 「・・・ちゃんと食べてるよ」 「もっと食べないと大きくならないぞ」 「・・・うん」 「好き嫌いもするんじゃない」 ギイは皿の端に寄せられたにんじんを見て笑う。 「ギイ、兄さんみたいだね」 「兄さん?」 「うん、尚人兄さん。もういないんだけど」 「・・・・・いないって?」 「えっと・・・病気で・・・遠いところへ行っちゃったんだ」 「死んだのか」 ずばりと口にして言われ、託生は言いようのない寂しさが込み上げてきた。 尚人がいなくなって半年の間、それまでずっと託生のことを守ってくれていた存在が急にいなくなり、どうすればいいか分からず不安だった。今でも不安で、時々押しつぶされそうになる。 その不安の一番大きなものは母親に対するものだった。 もともと自分があまり愛されていないことは感じていた。 それでも尚人がいてくれたら、母親は託生の話をちゃんと聞いて笑いかけてくれた。 けれど尚人が亡くなってから、母親はまるで託生のことなどそこにいないかのように、ずっと部屋に閉じこもったまま出てこない。 朝の食事も、尚人が亡くなってからはずっと一人で食べていている。 自分は母親にとっては必要のない存在なのだという思いが込み上げて、託生はぎゅっと胸が締め付けられた。 「託生?」 「・・・・え?」 「泣いてる」 「・・・・」 ギイが手を伸ばして、託生の頬を濡らす涙を拭った。 託生はふいに大声で叫びだしたい衝動にかられて、慌てて席を立つと食堂を飛び出して二階の自分の部屋へと駆け込んだ。 ベッドに突っ伏して、声が洩れないように枕に顔を押し付けて溢れてくる寂しさを吐き出した。 「託生」 きしっと音をさせて、託生のあとを追いかけてきたギイがベッドの端に腰を下ろした。 顔を上げない託生に、ギイはどうしたものかと考えた。 何しろ、どうしていきなり託生が泣き出したのかも分からない。 小さく肩を震わせて泣き続ける託生の髪をそっと撫でてみる。 「託生、どうして泣いてるんだ?」 「・・・っ・・」 「なぁ、教えてくれよ」 本当に分からないという声色のギイに、託生はのろのろと顔を上げた。 「兄さんが・・・いなくなって、寂しいからだよ」 「寂しい?」 「兄さんは・・兄さんだけは、ぼくのことをちゃんと分かってくれた。母さんは・・・ぼくのことはどうでもいいって、きっとそう思ってる。ぼくよりも兄さんのことが大切だったから。だから、兄さんよりもぼくがいなくなった方が良かったんだよ。ぼくはいらない子なんだ」 言って、その自分の言葉にまた託生は涙を溢れさせた。 尚人が亡くなっても、母親は一向に託生を見ようとはしない。 どれほど託生が求めても、決して優しい言葉をかけてくれることはない。 それがどれほど寂しいものか。 今まで誰にも言えなかった。父親にさえこんなこと言えなかったのに、どうして何も分からないだろうギイにはすらすらと気持ちを打ち明けられるのだろう。 託生の言葉に、ギイは少し困ったような表情を見せた。 けれど、泣きじゃくる託生の肩をそっと抱き寄せて、その背をぽんぽんと叩いた。 「泣くなよ、託生。泣くんじゃない」 「・・・っく」 「託生は、いらない子なんかじゃない」 「・・・・」 ギイは託生の黒髪を何度も撫でた。 「オレは託生じゃなきゃだめだった」 その言葉に、託生は涙を溜めた目でギイを見上げた。 「数え切れないくらい多くの人、オレの目の前に立った。けど駄目だった。もうこのまま目覚めることなんてできないかもしれないって思ってた。だけど託生がオレのことを目覚めさせてくれた。託生の兄さんじゃない。オレにとっては、誰よりも託生が大切だよ。託生がいなくなったら困る」 「・・・ギイ」 「オレには託生が必要だよ。それじゃだめか?」 真っ直ぐに見つめられて、託生はひとつ瞬きをした。 大粒の涙が頬を零れる。 ほろほろと流れる涙をギイが指先で拭う。 「オレがいる」 「・・・・」 「託生のそばには、オレがいる」 託生はふわふわと夢を見ているような思いでギイを見つめた。 そんな風に託生に言ってくれる人はいなかった。 託生は生まれて初めて、誰かから必要だと言われたのだ。 たとえそれが愛してやまない母親からではなくてもやはり嬉しくて、自分を抱きしめてくれるギイの背にそっと両腕を回した。 「ギイ、ギイ、どこにいるの?」 広すぎる屋敷の中、毎日こうしてギイのことを探しているような気がして、託生は何となく納得できない気持ちになった。 自分はどこにいてもすぐにギイに見つかってしまうというのに、その逆は滅多にない。 誰にも秘密にしていた屋根裏部屋で古い本を読んでいた時も、あっさりとギイに見つかり、食事も忘れてまで本を読むなと叱られた。 今も一通り屋敷のを探してどうしても見つからなかった。ギイはいつも思いもしないようなところにいて託生を驚かせるのだ。 「ギイ?」 テラスから庭へと足を運び、託生はきょろきょろとあたりを見渡した。 広い庭は母親の趣味でそれは見事なガーデニングが施されていて、いたるところに花が咲いていた。 尚人が生きていた頃は、母親が自ら手入れをしていたが、今はすべて使用人任せになっている。 それでも塞ぎこみがちな母親のために、託生も時折手入れを手伝うこともあった。 今は薔薇が綺麗に咲いている。むせ返るほどの甘い香りに少し眉をひそめて、託生はさらに庭の奥へとギイを探して歩いた。 「いた・・」 東屋で寝転んで本を読んでいるギイを見つけて、託生はほっとした。 駆け寄ると、ギイはその足音に気づいて起き上がった。 託生を見ると嬉しそうに微笑んで、本を閉じる。 「おかえり、託生」 「もー、ギイってばどうして部屋にいないんだよ、探しちゃっただろ」 「家の中よりもここの方が気持ちいいだろ?」 ギイは苦笑して、自分の隣にぴたりと身を寄せて座る託生を愛しげに見つめた。 広い庭の片隅にある東屋は小さい頃からいつも2人で遊んでいた場所だ。 ギイが来る前は兄の尚人と遊んだ場所でもある。 託生が学校へ行っている間、ギイは父親の書斎から面白そうな本を借りてここで読書をするのが日常だった。 ギイが葉山の家にやってきてもう5年がたとうとしていた。 初めてギイがこの家に来た時、誰もがドールを目にするのは初めてで、どんな風に接すればいいかすらも分からなかった。けれど、今ではすっかり溶け込んで、この家の家族の一人となっていた。 ドールハウスの店主が言った通り、ギイは非常に聡く、すぐに言葉を覚えたし、人間としての生活がどのようなものかを誰が教えたわけでもないのに理解をして、何の違和感もなく受け入れた。 会話ができるようになると意思の疎通は容易くなった。 見た目は12、3歳くらいのギイだったが、口にする言葉はごくごく普通の大人のそれと変わらず、かといって決して生意気な印象は与えず、あっという間に屋敷にいる使用人たちからも愛されるようになった。 今ではギイがドールだということを忘れてしまうこともあるほどだった。 誰に対しても愛想のいいギイだったが、当然のことながら、持ち主である託生に対しては傍から見ていて驚くほどの執着ぶりを見せた。 今でこそ食事はギイ一人でも取るようになったが、最初は託生が手渡ししなければ何も口にしなかった。 食事は一日三回のミルクだけ。温めたミルクの入ったマグを託生がギイに渡すと、ギイはそれを受け取って口にする。けれど、託生の代わりに使用人がマグを渡しても決して口にしようとはしなかった。 託生が学校へ行く歳になると、毎回毎回ギイに食事を与えることもできなくなる。 困った父親は、ギイが一人でも食事がするように話をしなさい、と託生伝えた。 朝と夜、託生がいる時だけミルクが飲めればそれでいい、とギイは言ったが、それではお腹が空くだろ?と託生は一人でも食事をするようにギイに頼んだ。けれど、 『腹が減っても、託生からミルクが欲しい』 と、あっさりと言われ、託生は困り果てた。 いつもミルク1杯じゃ足りないなんて言うくせに、どうしてこんな時ばかりはそんなことを言うのだろうか。 父親からは何とかするようにと言われ、ギイには断られ、いったいどうしたらいいのか分からずにいたら、知らずに涙が零れてしまった。 ぽろぽろと涙を流す託生には勝てず、結局ギイの方が早々に白旗を掲げた。 『すぐに泣くのは卑怯だぞ』 ギイはようやく泣き止んだ託生に頬を摘んだ。 『泣きたくて泣いてるわけじゃないもん』 『ないもん、ってなー、そんなに泣き虫でちゃんと学校でやってけるのか?』 くすくすと笑うギイに、託生はちょっと唇を尖らせた。 『大丈夫だよ。でも、ギイも一緒に行こうよ』 『はぁ?』 託生がずいっとギイへと身を寄せる。 『ねぇ、一緒に学校に行こう?そしたらずっと一緒にいられるし』 『ばーか、オレはドールなんだぞ。一緒に学校に行けるはずないだろ。』 『でも・・・』 一人で学校へ行き、ちゃんと友達ができるかどうかやっぱり不安だった。 ギイがそばにいてくれれば、きっと大丈夫だと思えた。 だけどギイは人間ではなくドールだから学校へは行けない。そんなことは分かっていたけれど。 不安そうに自分を見る託生に、ギイは笑って言った。 『大丈夫だよ。学校へ行けば、託生にはちゃんと友達ができる。心配しなくてもいい』 『そう、かな?』 『オレの託生に友達ができないはずがない。自信持て』 こういうことで自信を持つのってちょっと違うような気がするんだけどなぁと思いながらも、ギイの根拠のない断言に託生はやっぱりほっとした。 父親が言った通り、ギイは託生のかけがえのない友達になっていた。 どんな時でもギイは託生の味方で、不安になった時には勇気づけてくれる。 初めて出会った夜に、うっかりギイの前で泣いてしまい、もう今さら彼の前で格好つけることも必要がなく、託生はギイには嘘偽りのない本当の自分を見せることができた。 託生にとってギイは特別な存在で、誰より何よりも大切な友達だった。 そしてギイの宣言通り、託生は学校へ通うようになると、そこで片倉利久という親友ができた。 ひょろりと背が高く、見るからにお人よしそうな利久を初めて紹介されたとき、ギイは託生がいい友人を見つけたことに安堵した。託生ももちろん利久にギイを紹介した。 利久は初めて見るドールに最初こそびくびくとしていたが、話してみると、普通の人間と何も変わらないギイとすぐに打ち解けた。 それ以来、学年が変わりクラスが変わっても、利久は変わらず託生の友達で、家にもよく遊びにきていた。 「で?そんなに慌てて帰ってくるなんて一体どうしたんだ?」 「あのさ、ギイ、今度の発表会で、ぼく一番最後に演奏することになったんだよ」 「へぇ、そりゃすごい」 幼い頃から託生はバイオリンを習っていて、尚人が亡くなってからはしばらく練習はできなくなっていたらしいが、ギイが来てからまた練習を再開した。 もともとバイオリンを弾くのが好きだという託生は、生まれ持った才能もあり、同じ年齢の子供たちと比べても、その腕前はかなりのものだった。 託生が練習をしている時はギイはいつもそばでその音に耳を傾けていた。 頭が良くて、何でもできるギイではあったが、何故か音楽のスキルは全くないようで、ピアノでも弾けたら一緒に演奏できるのにという託生の言葉に一念発起して練習したものの、結局少しも上手にならないままに飽きてやめてしまった。 「ギイ、聞きにきてくれる?」 「ああ、もちろん」 「・・・お母さんも、来てくれるかな」 「・・・・・」 ギイは広い庭の向こうに建つ屋敷へと視線を向けた。 託生の母親は尚人が亡くなってからはずっと部屋に引きこもり、滅多に表に出てくることはない。 夕食の時でさえ、託生と同じテーブルにつくことはなく、父親も帰りが遅いので、たいていはギイと2人で食事をしている。 時折、託生が学校に行っている時に部屋から出てくる母親の姿を見るたびに、ギイは何とも言えない気分になる。 虚ろな目や、生気の無い表情、いつもどこか夢の中にいるような、そんな様子の母親を見ていると、彼女にとって尚人という存在はいったい何だったのだろうと思う。 自分には親も兄弟もいないから、肉親というものに対する感情が特別なものだと頭では理解できても、実感として感じることはできない。 同じ子供でありながら、どうして託生のことはここまで放置しておけるのか。 素直で優しい性格の託生が、どれほど母親のことを心配しているか考えたことはないのだろうか。 ギイにとっては何よりも託生が大切だから、どうしても母親に対しては見る目が厳しくなる。 託生が発表会に出るからといって、あの母親が笑顔で聴きにきてくれるとはどうしても思えないのだが・・・ 「ギイ?」 「ん?」 「ほら、たまには綺麗な音楽を聴けば気分転換にもなると思うし、元気になるかなって思って。お父さんと一緒にお母さんにも聴きにきてほしいって言おうと思うんだ。たまには外に出ないと体にも良くないだろ?」 「ああ、そうだな」 「どうかした?ギイ」 どことなく浮かない表情のギイに、託生が首を傾げる。 「ん?いや何でもないよ。発表会、何弾くんだ?」 立ち上がり、屋敷へ戻ろうと歩き出す。 「まだ決めてないんだけど、先生が今何がいいかって考えてくれてるんだ。久しぶりの発表会だし、すごく楽しみだよ」 「ああ。頑張れ、応援してる」 ギイが託生の手を握る。きゅっと強く握られて、託生はうんとうなづいた。 「腹減ったなぁ」 「ギイってば、ちゃんとお昼食べた?」 「毎回毎回ミルクばっかでさー、生きていくには十分かもしれないけど、たまには違うものも食べてみたい」 「ダメだよ。ミルクと砂糖菓子以外は食べちゃダメって言われてるだろ?」 「死ぬわけじゃないんだし、一回くらいいいだろ?」 ギイがなぁなぁと託生にねだる。 出会った頃はギイの方が高かった背丈も、最近はようやく同じくらいになった。 目線を合わせて話ができるようになると、何となく対等になった気になるのか最近ギイは託生にあれこれと無茶を言うになっていた。 「あのさ、ギイ」 「何だよ」 「もしミルク以外のものを食べて、ギイが死んじゃうようなことがあったら、ぼくはきっとすごく泣くよ?」 「・・・・」 「ギイがいなくなったらなんて考えたくないし、ぼくはギイのことが大好きだから、ギイには長生きして欲しいんだよ」 大切な人がある日突然いなくなる辛さを知っているだけに、もしギイがいなくなったらなんて託生には考えることができない。 「だから食事はミルクと砂糖菓子だけ。他のものを食べて、体調が悪くなったら困るから、ね?」 「・・・・わかったよ」 託生の言うことはギイにも分かる。自分が託生に大切にされていることだってよく分かっている。 ギイにとっては死は想像もできないような遠いところにあるものだけれど、託生にはそうではないのだ。 託生が悲しむようなことはしたくない。 「ギイ、あとで宿題見てくれる?」 「はいはい。まずは自分でやってからだぞ」 「うん、分かってるよ。でもさ、ギイは学校にも行ってないのに、ぼくより勉強ができるなんてずるいよね」 「仕方ないだろ、オレ、お利口さんだからさ」 「メモリードール、うんと記憶力のいいドールだろ?」 「そうそう。一度聴いたり見たりしたものは絶対に覚えてるからさ、託生が学校に行ってる間に書斎であれこれ本読んだり、託生の教科書も一通り見たしさ。勉強ができるっていうよりは単に覚えてるっていうだけなんだって」 教科書を読んだと言わずに見たというところが憎たらしい。 ドールハウスの店主が言った通り、ギイはそれはもう出来のいいドールで、特に記憶力は信じられないくらいのもので、一度読んだ本は一言一句覚えているのだ。 もちろん託生と一緒にしたことも話したことも全部覚えているので、どちらかといえばすぐに物事を忘れてしまう託生からすれば、ギイに都合の悪いことまであれこれと指摘され、その度に喧嘩になる。 「そんなにいろんなこと覚える頭の中ってどうなってるんだろう?」 「そんなにいろんなこと覚えてられない頭の中ってどうなってるんだろう?」 ニヤニヤと笑うギイの背中をばしんと叩く。 「もうギイの意地悪っ!!」 「はは、ごめんごめん、つい本音が」 なお悪い!と託生が逃げるギイを追いかける。 2人して庭に面した扉から屋敷の中へと入ると、ちょうど階段を降りてきた母親と出くわした。 「お母さん!」 久しぶりに顔を合わせる母親に、託生が駆け寄る。 「どうしたの?あ、お茶の時間だから?今日は美味しいケーキがあるんだって、一緒に・・・」 「尚人」 「え?」 母親が託生のそばをすり抜けて、背後に立っていたギイへと近づく。 真っ直ぐにギイを見つめ、そしてふわりと微笑む。 「尚人、外に出たりしちゃだめでしょう。夕方になれば風が冷たくなるっていうのに、ほら、ちゃんと中に入って」 「お母さん?」 ギイの手を取り、そのまま二階へと連れて行こうとする母親に、託生はいったい何がどうなっているのか分からずにその場に立ち尽くした。 母親に引っ張られるギイも託生を振り返る。そんなギイの手を、母親は離そうとしない。 「さぁ、尚人、行くわよ」 「オレは・・・」 尚人なんかじゃないといいかけたギイを、託生が待ってと止める。 「お母さん、・・・兄さんは・・・もういないよ?彼は・・・兄さんじゃない。ギイだよ?ちゃんと見て」 「何を言ってるの。尚人はちゃんとここにいるじゃない。ギイって誰のことを言ってるの? ほんとに、おかしなことばっかり言ってしょうがない子ね。さ、行くわよ、尚人」 にっこりと笑う母親の目にはギイは尚人としてしか映っていない。 昔と同じように、大切なものを守るように母親がギイの肩を抱く。 ギイは下手に刺激をしない方がいいと思ったのか、大人しく母親に連れられて行った。 残った託生はそんな2人の背中をただ見送るしかできなかった。 尚人が亡くなってからずっと危うい淵を彷徨っていた母親の心は、もう二度と託生へと向けられることはなくなった。 しとしとと雨が降り続いていた。 母親の状態を知った父親が慌てて会社から戻り、ずっと世話になっている主治医をすぐに呼び寄せた。 受け答えはごくごく普通でしっかりしていて、一見すると何も変わっていないように見える母親は、けれど尚人が死んでしまったことだけは、記憶から綺麗になくなっていた。 ギイのことを尚人だと思いこみ、片時も傍らから離そうとしない。 かと思うとふいに我に戻り、ギイをギイだと認識して、どうしてここにいるのかと不思議そうな顔をする。 「託生?」 ベッドの上で膝を抱える託生に、ギイが声をかける。 答えない託生に、小さくため息をついて、ギイはその隣に座った。 「大丈夫か?」 「・・・・」 心の病を完全に治すことは難しい。これ以上ひどくならないように、穏やかな生活を続けるのがいいと主治医は言った。もしくは逆効果になることも覚悟の上で、荒療治に出るか。 日常生活を送ることが難しくなれば最後は入院ということになるだろう。 すぐに決断することはできないと言った父親も、さすがに今回のことはショックだったようで、しばらくは会社を休むと言った。 「どうしてかな?」 ぽつりと託生がつぶやく。 「どうして、ぼくじゃだめなのかな」 「託生・・・」 「ぼくだって、お母さんのことは大好きなのに、どうしてお母さんはぼくを見てくれないのかな?どうして兄さんじゃないとだめなのかな」 ギイは何も答えてやることはできない。 親ならば子供は平等に愛しているはずだなんて、ギイは思っていない。 同じ子供であっても、やはり相性はあるし、好き嫌いはあるのだ。どれだけどちらも同じように愛してると言ったところで、それは綺麗ごとだろうと思っている。 けれどそれを託生に言うわけにはいかない。 「ギイ、ぼくは・・・兄さんが亡くなった時、こんなこと思っちゃいけないんだけど・・・兄さんがいなくなって、もしかしたらお母さんはぼくのことをちゃんと見てくれるじゃないかって思ったんだ」 「・・・・」 「兄さんを愛したように、お母さんはぼくのことも愛してくれるんじゃないかって思ったんだよ」 「託生・・・」 「ぼくは・・・兄さんばかりがお母さんに愛されて、心のどこかできっと思ってたんだよ。兄さんがいなければ、って。そんなこと思ったから罰が当たったのかな・・・」 兄が亡くなったことも、それでも母親から愛されないことも、すべてそんなことを考えてしまったせいなのではないか、と託生はずっと心のどこかで自分を責めていた。 抱えた膝に顔を埋めて、小さく託生の肩が震える。 「馬鹿なことを言うな」 ギイが長い腕で託生のことを抱きしめる。 「託生は何も悪くない。そんな風に自分を責めたりするんじゃない。オレがいるだろ?託生にはオレがいる。だからいいじゃないか」 「ギイには分からないよっ」 腕の中の託生がギイのことを押し返す。 目にいっぱい涙を溜めた託生がギイのことを睨み返す。 「ギイにはお母さんがいないからそんなことが言えるんだ。ぼくがどんなに寂しい思いをしていたかなんてギイには分からないだろ?ずっとずっともしかしたらって思ってたけど、もうそんな日が来ることはないんだって・・・そんなの・・・そんなぼくの気持ちがギイにわかるはずがないっ」 「・・・そうだな、オレには分からないよ」 あっさりとギイはそれを認めた。 実際託生がどうしてそこまで母親の愛情を求めるのか、ドールであるギイには理解できなかったし、もういない兄のことを追い求めて精神を病んだ母親よりも、目の前にいる託生のことの方がギイにとってはずっと大切なのだ。 「オレはドールだから、愛情なんていう感情は理解できない。肉親に対するものであれ、恋人に対するものであれ、そういう感情は持てないんだ。託生のことは大事だし大切に思っているよ。だけど、託生が欲しいと思っている母親からの愛情に近いものは与えてやることはできない」 「・・・」 「オレは誰よりも託生のことが好きだよ」 まるで慈しむようにギイが腕を伸ばして託生の髪を撫でる。 「託生が好きだ」 「・・・・」 「大好きだ」 「・・・っ」 ギイの言葉に、託生は溢れた涙を拭うとギイに抱きついた。肩に頬をくっつけて、ぎゅうっと目を閉じる。 ギイはドールで、もちろん好きだという言葉は本物だけど、人間が感じる好きという感情とはまた違うものだと知っている。 ギイには「愛情」という感情はないのだと、以前父親から聞いたから。 ギイが託生に対して好きだというのは、それが持ち主だからなのだ。 だけど、こうして抱きしめていると、ギイは人間である自分と何も変わらない。 同じように温かくて、優しくて、託生のことを本当に大切にしてくれていることが伝わってくる。 「・・・ごめんね、ギイ」 「うん?」 「ひどいこと言った」 「そうか?本当のことだし、オレは気にしない」 「だけど、ごめん」 「じゃお詫びしてくれる?」 抱きついて離れない託生の身体をそっと引き剥がして、ギイが真っ赤な目をした託生に笑いかける。 「キスして、託生」 「・・・・どうしてそれがお詫びになるんだよ」 ぐずっと鼻を鳴らして、呆れたように託生が笑う。 「託生、オレのことが好き?」 「好きだよ」 「好きな人にはキスするもんだろ?」 「そう、だけど・・・」 それは男女の恋人同士のことではなかっただろうか。もしくは肉親とか? 「ひどいこと言ったお詫びに、ちゃんとオレのこと好きだって証明してくれよ」 しょうがないなぁと託生は溜息をつく。 どれだけギイが人間に見えても、ドールだと分かっているから、キスして欲しいと強請られてもそこには深い意味など何もない。 おやすみのキスやおはようのキスを毎日のようにしているし、ギイとのキスは挨拶代わりみたいなものだと思っている。 託生はギイの肩に手を置くと、身を屈めてその頬にちゅっとキスをした。 「ほっぺたじゃなくて、ちゃんと口にしろよ」 「我侭だな、ギイ」 「託生がしないなら、オレがする」 言うと、ギイは託生の顎に指をかけ、そのままゆっくりと口づけた。 啄ばむように何度も何度も、優しい口づけを繰り返す。 その柔らかな感触にうっとりとしていた託生の唇をギイの指がなぞる。 「・・・もっと強くなれ、託生」 「・・・・」 不思議そうに見返してくる託生の目を、ギイは真っ直ぐに見つめて言った。 「世の中にはどれほど望んだって手に入らないものはたくさんある。母親からの愛情がなかったことは、託生にとって辛いことだろうってことはオレにだって分かる。ドールでもな。だけど、だからってそれはイコール不幸なことではないんだ。母親から愛されていることは幸せなことの一つかもしれないけれど、それが幸せのすべてじゃない。手に入らないものだから、それは素晴らしいものに見えて手に入れたいって思うんだろう。もちろん当然のことだとも思う。でもな、ないものばかり求めるんじゃなくて、今託生が持っているものに目を向けなくちゃダメだ。でなきゃ、せっかく託生が持っている素晴らしいものまでダメになってしまう。強くなれ、託生。託生のことを愛してくれる人が必ず現れる。その人と出会うまで、託生は強くならなくちゃいけない」 ギイの言葉は、それまで託生が考えたこともないようなものだった。 自分が母親から愛されていないことには薄々気づいていた。 どうすれば愛してもらえるのかそればかり考えていた。 兄のことを羨むことも、愛されない自分自身を卑下することも、どちらもしたくないと思っていても、どうしても心は揺れた。 いったい兄と何が違うのか。母親の理想通りの子供でなくても、やはり愛して欲しかった。 けれどどれほど望んだところで、人の心を変えることなどできはしないのだ。 たとえそれが血を分けた母親であっても。 子供を愛することは当たり前のことではないか、といくら叫んだところで、届かないこともあるのだ。 だとしたら、ギイの言う通り、前を向いて生きていくために諦めることも覚えなくてはならないのかもしれない。 今回のことで、そうしなくてはならない時が来たのだと思うべきなのかもしれない。 それはひどく辛くて寂しいことだった。考えるだけで涙が溢れるほどに。 託生はギイの肩にそっと頬をくっつけた。 「ありがとう、ギイ」 そんなことができるかはまだ分からない。 けれど、ギイがいてくれれば、何かが変わるような気がした。 ギイがいてくれて良かった。あの日、父親に連れられて訪れたドールハウスで、ギイが目覚めてくれたのは奇跡のような出来事で、だけどそのおかげで、託生は自分が一人ではないのだと思える。 何があっても、ギイがそばにいる。 もしギイがいなければ、こんな風に過ごすことはできなかった。 兄を亡くした寂しい気持ちばかりで生きていたに違いない。 顔を上げて、ギイの白い頬を両手で包み込む。 ゆっくりと顔を傾けて口づけた。 「ギイ、大好き」 誰よりも何よりも。 もしギイがドールでなければ、託生の抱く思いが恋心なのだと気づいたかもしれない。 まだ初恋すらもしていなかったから、一緒にいるだけで幸せになれる存在ではあったけれど、それが恋なのだとは思いもしなかったのだ。 ギイは託生の言葉に見惚れるような笑顔を見せた。 それからの数年、母親の精神状態は一進一退といった感じではあったけれど、ギイのことを尚人だと思うようになってからは、以前のように部屋に引きこもることはなく、食事も家族で一緒に取るようになった。 ギイがミルクしか飲まないという不自然な状況であっても、「さっき食べたからお腹は空いてない」という一言で、あっさりと納得をした。 そんな母親を何とか元に戻せないかと父親はあちこちの名医を訪ねてみたが、心の病に特効薬はなく、何かの拍子で現実へ戻る可能性もあるので気持ちをしっかり持って、長い目で見なくてはいけないと言われた。 託生は中学生になり、とうとうギイの身長を追い越した。 ドールであるギイは最初に造られた時のまま成長はしない。12、3歳のままの姿で時を止め、外見上老いていくことはないのだ。 「託生に身長を追い越されるなんて納得できない」 憮然とするギイに、託生は楽しそうに笑った。 「でもぼくはまだ背が伸びるよ?」 「うるさいな」 「そうなったら、今度はぼくはギイのお兄さんみたいになるのかな」 出会った頃はちょうど亡くなった兄と同じくらいの年恰好だったため、ギイは託生の兄のようにも見えたのだ。 けれど、今では託生の方が背格好も顔立ちも大人びてきた。間違ってもギイが託生の兄には見えない。 それがギイには面白くないのだ。 「託生がオレの兄貴だなんて、どう考えてもおかしい」 「そんなこと言われてもなぁ。でも、ぼくがどんどん歳を取っていっても、ギイはずっとこのままなんだよね。何だか不思議だなぁ」 しみじみとうなづく託生だが、ギイの方こそ勘弁してほしいと思うのだ。 あんなに泣き虫で怖がりだった託生も、さすがに最近はしっかりしてきたし、簡単に泣いたりはしない。 友達も増えて、学校へ行くのも楽しそうだ。 それでも、やはり母親のことが心配なこともあるのか、部活はせずに学校が終わると家に真っ直ぐに帰ってきていた。 幼い頃から習っているバイオリンは今でも続けていて、週に2回、その道では権威だと言われている須田先生に師事してもらっていた。 その腕前は中学生のレベルを遥かに超えていて、父親は託生のためにもっといい楽器がないものかといろんな人に声をかけているらしかった。 久しぶりに父親が早く帰宅した夜、託生とギイとの3人で夕食の席についた。 母親は体調が悪く、その日はもう部屋で休んでいた。 「託生は高校はどうするか、もう決めているのかい?」 父親が託生に尋ねると、託生はうーんと唸った。 そろそろ進路のことを真剣に考えなくてはいけない時期にきていた。 どこかのんびりとした性格の託生もさすがに真面目に考えなくてはいけないとは思っているようだったが、かといってギイに相談することもなかった。 だからギイも、託生がどんな風に進路のことを考えているは知らなかった。 「バイオリンを続けたいのなら、その方面に強い学校に進んでもいいんだぞ?音楽の道は簡単なものではないだろうが、好きならやってみるといい」 「うん・・・」 父親が本当は亡くなった兄に会社を継いで欲しかったのだということは知っている。 尚人は頭がよくて、リーダータイプだった。それに比べて託生は人の上に立つのは得意じゃないし、とても経営者に向いているとは思えない。 父もそれを分かっているから、音楽を続けてもいいと言ってくれているのだろう。 もし尚人が生きていたら、きっと父の期待に応えていたに違いない。 もう自分と兄を比べるようなことはなかったが、託生は父の期待に応えられない自分が歯がゆく思えて仕方がなかった。もちろんそれさえもどうしようもないことなのだけれど。 託生は少し考えたあと、顔を上げて父親を見た。 「父さん、ぼく、祠堂学院に行こうかと思ってるんだ」 「祠堂に?」 「うん。父さんの母校だよね。すごくいい所だって言ってたよね」 「ああ、だがあそこは・・・」 「全寮制だよね」 その言葉にギイが顔を上げた。託生はもう気持ちを決めているのか、すべて分かっていてそこに進学したいと言っているように見えた。 ギイは信じられない思いで託生を見つめた。 全寮制の高校? それは、この家から出るということか? 3年間も。自分と離れて3年も? それがどういうことなのか理解できず、ギイは混乱した。そしてどうしようもない胸の痛みに、いてもたってもいられなくなった。今までこんな風に自分をコントロールできなくなったことなどなく、どこかおかしくなってしまったんじゃないかと焦るほどだった。 「確かにあそこはいい学校だよ。託生がそうしたいなら応援するよ」 「ありがとう。勉強頑張るよ」 祠堂は偏差値もそこそこ高いと聞いている。託生は今まで以上に勉強に励もうと気持ちを新たにした。 隣に座るギイが、どこか憮然とした表情をしていることには気づかずに。 「託生・・・全寮制の高校だなんて、嘘だろ?」 食事が終わり、自室へ戻ると、ギイが託生に詰め寄った。 「ずっと考えてたんだよ」 「どうして!」 「・・・・・」 託生はベッドに腰掛けると、見るからに怒っているギイを困ったなぁという表情で見た。 「やっぱり辛いんだよ。あんな母さん見てるのは」 「・・・・」 「ギイのことを兄さんだと思ってる。あんな母さんを見てるのは、やっぱり辛い。だから・・」 「だから、逃げるのか?」 託生はぱっと顔を上げると、ギイを睨んだ。 「逃げるわけじゃないよ。そうじゃない。そばにいても、ぼくは何もしてあげられない。母さんに必要なのは兄さんなんだよ」 「・・・」 「ギイが昔言ってくれたように、ぼくは強くなろうと思ってるよ。そんなものがあるかどうかは分からないけど、ギイは言ってくれたよね、ぼくにも何か素晴らしいものがあるって。だとしたら、それが無くならないように、ぼくは母さんから離れるべきなのかもしれないって・・・」 そばにいれば、どうしても兄のことを思い出す。そして愛されない自分を思い知らされる。 それは決して喜ばしいことではないし、どうしたって気持ちは沈む。そんな繰り返しで、自分がつまらない人間に思えてしまって仕方が無い。 それじゃあいけないのだと託生は思うのだ。 そこにいるのは泣いてばかりいた小さな託生ではなかった。 ギイは無性に寂しいような、腹立たしいような、言葉にできない感情が込み上げて、託生の隣に座ると、握り締めた拳で口元をおさえた。 「母さんのそばにいると、どうしても気持ちが持ってかれちゃうからさ」 「祠堂で音楽の勉強ができるのか?」 「うーん、どうかな。ちょっと難しいかもしれないけど・・・」 「じゃあどうして?お前、バイオリンの勉強したいんだろ?そんなところへ行ったらダメになるじゃないか」 託生にはギイの怒りの理由がよく分からないらしく、まぁそうだけど・・・と口ごもる。 ギイは片手をベッドにつくと、託生へと身を乗り出すようにして顔を向けた。 「託生、オレを捨てるのか?」 「え?」 「オレが、託生がいなけりゃ生きていけないって知ってて、それでここを出て行くっていうのか?」 「ちょっと待ってよ。そんなことあるわけないだろ。ギイのこと捨てるなんて」 ギイの言葉に、託生は慌てて首を振る。 そんなことを考えているわけではなかった。ギイは今では託生からミルクを貰わなくてちゃんと一人で食事もできる。自分のことはすべて自分でできるし、少しくらい離れても大丈夫なはずだ。 休みには帰ってくるし、第一、愛情がなくなるわけではないのだから。 「絶対嫌だ」 「ギイ」 「託生と離れるのは嫌だ」 「ねぇ、たった3年間だよ?」 「じゃあ一緒に行く」 「それは無理だろ?だって、ギイはドールなんだから」 ぽつりと言うと、ギイは怒りを顕わにして立ち上がった。 「ドールだから何なんだよっ」 「・・・・っ」 「託生までオレがドールだからなんて言うのかっ?どうせドールだから?オレが何も感じないってそう思ってるのか?」 「違うよ・・そんなこと思ってな・・」 「オレのこと好きだって言ったくせにっ」 「ギイっ」 「託生の馬鹿野郎っ」 ギイは言い捨てると、託生が引き止めるのも聞かず、そのまま部屋を出て行った。 こんなにイライラとした気分になるのは初めてだった。託生がギイのことを目覚めさせた。ギイのことを好きだと言って必要としてくれた。それなのに、どうして今になって離れるなんて言うのか全く理解ができない。 いつもいつも、ギイの中心には託生がいる。 託生が自分の持ち主だから、それは当然のことで、これ以上ないほどの幸せに思うことと同時に、どうしようもなく切なくなることがある。 託生がギイのことをただのドール以上に大切にしてくれているのは知っている。 とても嬉しいことだし、誇らしいことでもあった。 けれど、それだけでは嫌だと思う自分がいる。 どうしてそんな風に思うのかも分からない。託生にどんな風に思って欲しいのかを説明しろと言われてもできないのに、だけど何かが違うと何かが訴える。 「くそっ」 馬鹿野郎だなんて、そんなこと言うつもりじゃなかったのに。 あんな風に託生を傷つけるつもりなどなかった。 謝らないといけないとは思うのに、だけど謝って託生が出ていってしまうのは我慢できなかった。 ギイは自分のために与えられた部屋で泣きたくなるような胸の痛みを抱えたまま、一人夜を過ごした。 翌日目覚めると、託生はもう学校へ行ってしまっていた。 誰もいない食卓に座り、ギイはため息をつく。 「ギイ、今日はメンテナンスの日でしょ?託生さんがお店で待ち合わせしましょうって。学校の帰りに店に寄るからっておっしゃってましたよ」 「ああ・・うん・・」 ギイのためのミルクを差し出して、メイドは下がっていった。 同じミルクなのに、託生の手からもらうとそれはとても美味しく感じられる。だから本当はいつでもそうして欲しかった。そんなことは無理だと分かっている。所詮ドールはドールで、人間である託生には優先すべき日常がある。自分のことを一番にして欲しいなどと、本当は考えることではないはずなのに。 「オレ、どっかおかしいのかな」 イライラしたり不安に思ったり。 持ち主である託生のことを傷つけるだなんて、よくよく考えれば普通じゃない。 ちょうどいい。今日は半年に一度のメンテナンスの日だし、ドールハウスの店主に確認してみよう。 どこか調整が必要なのであれば、これ以上悪くならないうちに直してもらわないと、託生にも迷惑がかかる。 ギイはいつもそうするように論理立てて考えをまとめると、約束の時間までいつものように読みかけの本を読んで過ごした。 久しぶりに訪れるドールハウスは相変わらず閑散としていた。出迎えた店主はギイを見ると嬉しそうに目を細めた。 「元気そうだな、ギイ」 「おかげさまで。それにしても、相変わらず客がいない店だなぁ」 「たまたまだろう」 「嘘つけよ。オレがここに来るときに、客がいた例がないじゃないか」 ギイは笑って、そこに居並ぶドールたちを見渡した。 昔、自分もここにいた。 託生が現れるのをずっとずっと、長い時間待っていた。 出会えてよかったと思う。何の変化もなく、ただじっと眠るように待っている日々よりも、あれこれと考えることが多くても、今の方がずっといい。 何よりそばに託生がいる。 「託生くんはまだみたいだね。どうする、先に済ませてしまうかい?」 「そうだな」 メンテナンスは人間でいうところの健康診断みたいなもので、いつもギイは問題なしでパスしている。 そして毎回、健康優良児とのお墨付きをもらい、託生を安心させているのだ。 「どうだい、毎日楽しく過ごせているかい?」 「そうだな。ああ、オレ、ちょっと聞きたいことがあったんだ」 「うん?」 店主はめずらしいこともあるものだ、と首を傾げる。今までギイからそんなことを言われたことなどなかったのだ。毎回何の問題もないので、もう来なくてもいいかなと言われたことはあるのだが。 「どこか調子でも悪いのかい?」 「分からない。託生が、全寮制の高校に進学するかもしれなくて、それを聞いた時・・・何ていうか胸の奥がぎゅって痛くなって、言葉には上手くできないんだけど・・・そりゃまぁ持ち主だから当然だとは思うけど、寂しいっていうか・・・とにかく嫌なんだよ、託生が離れるのは」 「・・・・」 「自分で自分の感情が上手くコントロールできないんだ。オレ、自分でも出来がいいのは分かってるし、たいていのことは理性的に処理できる。だけど、どうも最近上手くそれができなくて、託生にひどいこと言っちまったり、すぐに悪いことしたって思って自己嫌悪に陥ったり」 「ギイ・・」 「オレ、やっぱりどっか悪いのかな。直るんだったら直してくれないか?オレ、託生に迷惑かけたりしたくないんだよ。あいつ、いろいろ辛いことあっても笑ってるようなヤツだし、できるだけ優しくしてやりたいんだ」 店主はどう言えばいいか分からず唸ってしまった。 ギイの話だけ聞いていれば、それはそのまま恋わずらいじゃないかと思うのだ。 好きな人が離れていくのが辛くて、思ってもいないことを言って傷つけてしまったり、かと思えばすぐに 自己嫌悪に陥って。 けれどギイはドールなのだ。 ドールには愛情などという感情はないはずだった。 持ち主のことを大切に思うのは、それが持ち主だからであって、それ以上の意味はない。 それが傍から見ていて呆れるほどのものであったとしても、恋愛感情にはなりえない。 ましてや、託生は男だ。 なのに、どう考えてもギイが抱えている感情は愛情としかいいようがない。 いったい何が起こっているのだろう、と店主は首を傾げた。 「なぁ、ちゃんと診てくれよ?」 「ああ、分かっているよ。だが・・・」 肉体的なメンテナンスはできたとしても、心のメンテナンスなどできようもない。 ドールが人間に恋をするなんて聞いたこともないのだ。 ギイを作った人間ならば分かるのかもしれないが、とっくの昔にこの世を去っている。 店主は困ったことになったな、と思いながら、決められたマニュアル通りにギイのメンテナンスを始めた。 ちょうどメンテナンスが終わった頃、学校帰りの託生がドールハウスへとやってきた。 今回も問題なしだと知ると、ほっとしたように微笑んだ。 ギイにしてみれば、このもやもやとした感情はどうしてなのかをきちんと説明して欲しかったのだが、店主は今すぐに何か問題があるわけではないし、過去に例がないことだから今度来るときまでには調べておくと曖昧なことを言ってお茶を濁した。 ギイは不満たっぷりだったが、店主にしてみても、恋心を抱くドールだなんて初めてのことで、正直、どうすればいいか分からなかったのだ。 ギイ自身もまさかそれが恋心だなんて夢にも思っていないようなので、店主はあえてギイにそれを告げることはしなかった。 「良かった、今回も健康優良児で」 ドールハウスとあとにして、二人で屋敷までの道を歩いた。 昔、まだ託生の方が背が低くて、並んでいると兄弟のように見えていた頃は、二人で街へ出ると手を繋いで歩いた。 けれど、今は人前で手を繋ぐこともなくなった。 背丈だけを見れば、託生が兄でギイが弟のようにも見えないこともない。 けれど手を繋ぐ年齢には見えないから、と託生はそう言ってもう手を繋ごうとはしなかった。 「託生」 「うん?」 「・・・昨日はごめん」 足を止めて、少し先を歩いていた託生が振り返る。 しばらくじっとギイを見つめて、そしてふわりと笑った。 「いいよ。突然だったからギイも驚いたんだろ?ごめん、何の相談もなく決めちゃって」 「・・・・・」 「だけど、いつもいつもギイに頼りっぱなしだったから、進路のことくらいは自分で決めなきゃって思ったんだよ。ギイのこと信用してないとか、そういうことじゃないんだ」 「もう決めたのか?」 ずきずきと痛む心を必死に隠しながら、ギイは小さく尋ねた。 託生は困ったようにギイを見つめる。 「ギイのこと、見捨てるとかそういうことじゃないんだよ?」 「・・・・」 「ギイのことは大好きだし、これからもずっと一緒にいたいって思ってる。だけど・・・」 「オレよりも大切なことがあるんだな」 ギイの言葉にはっとしたように託生が首を振る。 「・・・どっちが大切かとか・・・そういうことじゃないんだよ」 どう言えばいいのか、託生自身も分からないようで言葉に詰まる。 ギイは大きく一つため息をつくと、次の瞬間にはもういつもの明るい表情を見せた。 「いいよ。託生が家を離れて頑張ってみるっていうなら、オレは応援するからさ」 「ギイ・・・」 「だけど、オレのこと、忘れたりしないでくれよな」 「当たり前だろ。休みの日には帰ってくるよ」 「電話もしろよ」 「わかってる」 ギイは小さく笑うと、託生の隣に並んで先を促した。 ギイがもう怒っていないと知った託生はほっとして、いつもの調子で、その日あった出来事を楽しそうにギイに聞かせた。 けれど、うなづきながらも、ギイの心は別のところにあった。 (どうしてオレ、人間じゃなかったんだろう) ドールでなければ、託生のそばにいられたのに。 どうしてドールは人間にはなれないのだろう。 どれほどそれを願っても、決して人間にはなれない。永遠にこの小さな身体のまま、どんどん託生との距離は開いていくのだ。 悔しいような、寂しいような、自分ではどうしようもできない現実に、ギイは唇を噛む。 ドールであることを嫌だなんて思ったことはなかった。 少なくとも今まで、そんなことは一度だって思ったことはなかった。 でも今は、成長もしなければ老いていくこともない身体が疎ましかった。 託生は祠堂学院を受験することを決め、毎日受験勉強に励むようになった。 ギイは託生のために家庭教師のように、分からないところがあれば丁寧に教えてやった。 それはギイの本意ではなかったけれど、託生が合格できるように少しでも手助けをしてやりたいと思ったからだ。 そんなある日、屋敷に託生は学校の先輩だという男を連れてきた。 「ギイ、こちらは野崎さん。同じ中学の先輩で、今、祠堂にいるんだ。入試のこと、教えてくれるって言うんで、寄ってもらったんだ」 「やぁ、こんにちわ。きみが噂のドールだね。託生くんからいつも話は聞いてるよ」 「どうも」 やたらと愛想のいい野崎に、ギイは一瞬で警戒心を強めた。 見てくれはいいが、どうも嫌な感じがしてならない。野崎はじろじろとあけすけな視線をギイに向けた。 上から見下ろされるように眺められ、それだけでギイは屈辱的な気分になった。 「へぇ・・・どこから見ても人間と同じなんだな。それにすごい美人だ」 「オレ、男ですけど」 「人形に性別なんてあるのかい?」 野崎の言葉に、ギイは表情を険しくする。 どうやら野崎はドールに偏見を持っているようで、見下した視線や口調が、先ほどからの嫌な感じの原因なのかと気づいた。 ドールはお金と手間のかかるペットだと思っている人間も多い。そして人間よりもずっと格下だと思っている連中も多い。実際、そのせいで不愉快な思いをしたことも何度もある。 どうやら野崎はその類の人間のようだった。 ドールは確かに生きる人形であって人間ではない。 けれど人間と同じように感情があるのだ。 喜びも悲しみも痛みも熱さも、同じように感じることができる。 けれど人間ではない。 じゃあいったい自分は何なのだ、とギイはもどかしく思う。 もし普通のドールならそんなことは考えもしないだろう。なまじ知能が高く造られてしまったせいで、最近自分は余計なことばかり考えている、とギイは思う。 「野崎さん、学校のこと教えてもらってもいいですか?」 「ああ、もちろんだよ。託生くんが入学してくるのが楽しみだよ」 二人は客間で話をするから、と託生は言った。つまり邪魔はするなということだ。 仕方が無いので、ギイは大人しくその場を去った。 進路のことについては、自分がいても何の役にも立たないのだ。 いくら必要なこととは言え、託生があんな男を頼りにするのはどうにも腹が立って仕方なかった。 もっと他にましな先輩はいないのか、とギイは託生にまで腹を立ててしまう。 やがて玄関先で話し声が聞こえてきた。 時計を見るとあれから1時間ほどがたっていて、そろそろ野崎が帰る頃なのだろう。 ギイは部屋を出て階段の上で足を止めた。見送りに立つ託生がありがとうございました、と礼を言っている。野崎はたいしたことはないよと、笑顔を見せる。 そして何やら世間話をしていたが、帰り間際、野崎は託生の肩に触れ、ちょっと身を屈めて何かを託生に言った。 すると託生はちょっと困ったような表情を見せた。 「じゃあまたね、託生くん。何か困ったことがあればいつでも連絡するといい」 「あ、はい・・ありがとうございました」 扉を出るとき、野崎が振り返り、ギイと視線があった。 それで気づいた。ギイが見ているのを知っていて、わざと託生に触れたのだ。 ギイに対する嫌がらせなのだと分かり、ますます野崎への嫌悪感が増す。 「ギイ」 野崎が帰ってしまうと、託生はギイを誘ってお茶にしようと食堂へ入った。 「野崎なんかと話をするな」 「どうしたの?」 きょとんと託生が不機嫌な様子のギイに首を傾げる。 おやつにと出された自家製のケーキに目を輝かせ、託生はギイへと温められたミルクを差し出した。ごくごくと一気に飲み干して、だんとテーブルにカップを置く。 「あいつ、すごく嫌な感じだった」 我慢できずに口にすると、託生はやれやれというように小さく笑った。 「ギイ、よく知らない人のこと、そんな風に言うのよくないよ」 「託生こそ、何であんなやつと親しくするんだよ」 「だって祠堂のこといろいろ教えてくれるし・・・あの人、バスケ部のキャプテンもやってたんだよ。後輩からも慕われてたけどな・・」 どこまでものほほんとした託生に、ギイはますます不安になる。 あんなヤツのいる全寮制の高校に託生を一人でやるなんて、どう考えてもまずいだろう。 不埒な真似を平気でしてきそうな気がしてならない。 「託生、野崎とは仲良くするな」 「ギイってば」 「少しくらい、オレの頼みをきいてくれてもいいだろ」 本当は祠堂に入学することだって我慢できないくらいなのに、託生のためを思って応援することにしたというのに。いや、野崎がいるなんて知っていたら絶対に反対していた。 「変なギイ」 託生はおっとりと笑う。 「最近どうしちゃったの?」 「・・・別にどうもしない」 「んー、ぼくが家を出るから寂しくなっちゃってる?」 「そんなことない」 ふいっと顔をそらすギイに、託生は楽しそうに笑う。 「ギイって時々子供みたいになるよね。だけど、ずっと一緒だったんだから、いざ離れるってなるとぼくも寂しいよ。ギイが情緒不安定になってもおかしくないよね」 「・・・・」 まるで人として、それが当たり前のことだというような託生の口調に、ギイは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。 託生は、ギイのことをただのドールとしてではなく、ちゃんと感情を持った一人の人として見てくれている。 怒ったり泣いたり、笑ったり、そういうことは当然のこととして受け止めてくれる。 ドールが人間よりも下だなんて思っちゃいない。けれど、人間に作られたドールはどうしてもただの人形としてしか見てもらえないことが多い。 だけど、託生は違う。 託生はちゃんと自分を見ていてくれる。 大切な大切な存在なのだ。野崎なんかに触れて欲しくはない。絶対に嫌だ、とギイは無性にそう思った。 「託生」 「うん?」 「託生ってもうせいつうあったのか?」 「・・・・・・はい?」 「せいつう」 託生はケーキを突いていた手をぴたりと止めた。 ギイの言う言葉が咄嗟に漢字変換できない。変換するのが恐ろしいような気がして、ぴたりと思考が止まってしまった。 ギイは使用人が持ってきたお代わりのミルクを一口飲むと、どうなんだ、というように託生を見る。 ようやく脳の中で漢字変換できた託生は、思わず頬を引き攣らせた。 「あの・・・ギイ・・・」 「何だよ、もしかして意味が分からないのか?精通っていうのは、身体的に子供から大人に成長したときに男性器が・・・」 「うわーーーーーーっ、いいから黙って、ギイっ!!」 思わず耳を塞いで叫ぶと、託生はがばっとテーブルに突っ伏した。 「あーうるさい。何でいきなり叫ぶんだよ、託生」 「それはこっちの台詞だよっ。何なんだよ、その質問はっ」 「いや、託生ってもう大人になったのかなーって思っただけだけど?聞いちゃまずいのか?」 普通は聞かないし、疑問にも思わない。ギイは昔っから何ごとにつけても超ストレートなのだ。 普通なら恥ずかしくて口にしないようなことでも、何でもないように事務的に聞いてきたりするのだ。 このあたりやはり人間とドールの違いなのだろうか。もうちょっと恥じらいを持って欲しいと思うのは過ぎた願いなのだろうか。 「ギイ、そういうことは人に聞いたりしちゃだめだよ」 「どうして?」 「どうして、って・・・だって・・・」 真っ赤な顔をした託生を見て、ギイは変なヤツと笑う。 託生がもしまだ性行為のことについて何の知識もないようであれば、きちんと身を守る術を教えてなくてはいけないと思ったのだ。その第一段階として肉体的に大人になってるのかどうかが知りたかっただけだ。 ギイにしてみれば別に単なる事実確認のためだけの質問であって、どうしてそこまで託生が恥ずかしがるのか分からない。 恨めしそうな目をしてギイを見る託生に、ギイはあのな、と前置きをして言った。 「託生がもし大人の身体になってるんだとしたら、あの野崎の野郎におかしなことされる可能性だってあるわけだろ?いやまぁ子供が好きな性癖のヤツもいるから安心はできないけど、とにかく全寮制の高校だなんて男ばっかで、何があるか分からないだろ?今までそんな心配してなかったけど、野崎のヤツ、託生のことおかしな目で見てたし」 「何だよ、おかしな目って」 「オレの目の届かないところで、託生があのヤローに不埒な真似でもされたら・・・」 「だから不埒な真似って何なんだよっ」 「あのな託生、男同士でもセック・・・」 「分かった分かったから言わないでっ」 涙目になりながら、託生は待ったをかける。 ギイが言いたいことはよく分かったけれど、そんなおかしな心配は不要だと思うのだ。 女の子じゃあるまいし、だいたい自分で言うのも何だけど、それほどモテるわけではないのだ。 託生はやれやれとため息をついた。 「ギイ、心配してくれるのは嬉しいけど、ぼくは野崎さんのことは何とも思ってないよ・・って男なんだから当たり前だろ?だいたい全寮制だからって、そうそう簡単に・・その・・・おかしなことになんてならないよ」 「・・・まぁな」 「それに、そういうことって、本当に好きな人とじゃないとしないよ」 「好きな人?」 「そう、そういうことは、簡単に誰とでもするものじゃないってぼくは思ってるよ?本当に好きな人ができたら、えっと・・・何ていうか・・自然にそういう気持ちになるんじゃないかな・・・」 託生の言うことはごもっともなことではあったが、世の中そんな綺麗ごとばかりじゃないだろう、というのがギイの言い分である。だいたいあの野崎は何をするか分かったものじゃない。 「野崎には気を許すなよ」 「わかったよ」 「本当に分かってるのか?」 「分かってるよ。もう、ギイってば心配性だな」 お前が暢気だからこっちは余計に心配性になるんだろうが、とギイは内心舌打ちする。 誰かを好きになったり、肉体的に繋がりたいと思うような衝動はドールにはないので、ギイにしてみれば、託生の言うことは知識としては理解はできるが、実感としては理解できない。 ああいうことは別に好きな相手とじゃなくても、性的興奮が高まれば行為としては行えるはずなのだ。 だから野崎のことを好きでも何でもないとしても、気をつけろ言いたいのだ。 なんて話を託生にしたところで、たぶん理解はしてもらえないのだろう。 「ギイ、砂糖菓子食べる?美味しいやつがあるんだよ」 「託生が食べてるケーキがいい」 「え、駄目だよ」 ミルク以外を口にすればドールは育つと言われ、与えることは禁止されている。 けれど、ドールのままでなくていいとギイは思い始めていた。 育って、託生と同じように成長できるのなら、その方がずっといい。 野崎は託生よりも背が高かった。あんなヤツにたとえ身長だけとはいえ負けているのは我慢できない。 「ケーキは駄目。はい、どうぞ」 託生が綺麗なガラス瓶から、薄いピンクの砂糖菓子をギイへと差し出す。 「食べさせて、託生」 「もー。我侭だなー、ギイは」 それでも託生は砂糖菓子を手にすると、ギイの口元へと運んでくれる。 どんなものでも、託生の手から口にすると極上の味に変わる。 託生じゃないと駄目なのだ。 それは単に持ち主だからということではなく、ギイにとって、託生は何よりも大切な人だから。 「美味しい?」 「美味い」 「良かった」 ぺろりと託生の指を舐めても、嫌がる素振りを見せない。小さい頃からの癖みたいなもので、託生はギイになら何をされても嫌な顔はしない。 「大好きだよ、託生」 「ぼくもギイが好きだよ」 それもまたいつもの習慣のようなもので。 だけどギイは、何故だかぎゅっと胸が痛くなるのを感じた。 野崎がギイの前に現われてから、ドールのままでは嫌だという思いは日に日に強くなっていった。 何度もミルク以外のものを口にしてみようかと思い、けれどそれでどうなるかも分からないリスクは高すぎる。 まさか死ぬようなことはないにしても、悪い方向へ転べば託生が悲しむ。 それはどうしても避けたかった。 けれどあれ以来、野崎から何度か電話があり、託生が笑って話をするのを目にするたびに、どうにもならない焦燥感に苛まれた。ギイにしてみれば野崎は絶対に相容れない相手ではあるけれど、もし託生が野崎のことを好きになったとしたら、その時自分はどうするだろうか。 最初は野崎だから嫌だと思っているのだと思っていた、けれどそうじゃないとある時気づいた。 もしも、託生に好きな人ができたらどうするだろうか。 本当に好きな人ができたら、その時託生は自分よりもその人を選ぶのだろうか。 その人とキスをして、抱き合って、生涯を共にすることを誓うのだろうか。 そのどれもを、ギイは想像することはできなかったし、想像することすら脳が拒否反応を示した。 相手は野崎だからではなく、誰でも同じなのだ。 託生に好きな人ができるのは考えたくなかった。 祠堂の受験が近づくにつれ、どこか元気のなくなるギイのことを託生はずいぶんと心配した。 ギイは何でもないから、と言ってそれまでと同じように託生の勉強を見てやった。 そんなある日のことだった。 「今度の日曜日、家でパーティを開くから、託生も出席しなさい」 「パーティ?」 珍しいこともあるものだ、と託生は首を傾げた。幼い頃はよく父親の仕事の関係からか、家でちょっとしたパーティを開くことも多かった。けれど母親があんな風になってからは、あまり人を家に招くことはなかったというのに。 父親は食事の手を止めて、託生を見やった。 「結婚記念日だからね。母さんも最近は調子がいいようだし、たまには楽しいことをして気分を変えてみてもいいかなと思ったんだよ」 「あ、そっか。結婚記念日・・・」 親の誕生日は覚えていてもなかなか結婚記念日までは覚えていないものだ。 「託生、パーティで、何か演奏してくれるかい?」 「バイオリン?うん、もちろん」 「母さんの好きな曲でも弾いてあげるといい」 「わかった」 「ギイ」 父親は託生の傍らに座るギイに声をかけた。 ゆっくりとギイが顔をあげる。 「パーティに一緒に出てやってくれるかい?ギイがいると、母さんも気持ちが落ち着くようだから」 「・・・・オレは尚人じゃない」 素っ気無く返すギイに父親が苦笑する。 「ああ、分かっているよ。ギイがずいぶんと我慢して付き合ってくれているのは。本当に感謝しているよ。ギイを尚人にしようだなんて思っているわけじゃないんだ。ただ・・・」 母親が少しでも笑ってくれるなら、と思うのは父親だけではなく託生もまた同じだった。 ギイに無理を押し付けていることはよく分かっていた。もとより、ギイはこんな風に母親を騙すようなことをすることにはいい顔をしていなかったからだ。 「いつまでもこんなことを続けられるなんて思えない」 「うん、そうだね」 ギイの言葉に、父親は静かにうなづく。もちろんギイの言うことは父親も十分わかっていることだった。 ギイを尚人だと思い込んでいる間は、決して状況は良くはならないのだから。 「ギイ、お願いだよ。兄さんのふりをして欲しいってことじゃないんだ。ただ、母さんにこれ以上悲しい思いをさせたくないんだよ。それだけなんだ」 「託生・・・」 ギイはやれやれというようにため息をついた。 託生に頼まれると、どうしても嫌だとは言えない。たとえそれがギイにしてみれば納得のいかない理不尽なことであっても、最後の最後には受け入れてしまうのだ。 「ギイ?」 「あー、わかったよ。余計なことは言わない。それでいいだろ?」 「うん、ありがとう、ギイ」 パーティなんてギイにしれみてば面倒で退屈なだけで、別段参加したいものでもなかった。 みな、ドールが物珍しいのか、一様に不躾な視線を向けるのも鬱陶しかったし、造りもののように美しいギイの容姿に見惚れる女性たちのあからさまな視線も疎ましかった。 結局、誰もギイの外側しか見てはくれないのだ。 「ねぇ、ギイはどんな曲が聴きたい?」 「オレじゃなくて母さんのために弾くんだろ?」 「うん、でも、ギイのためにも弾くよ。ギイの好きな曲、リクエストしてよ」 すべてにおいて優秀なギイではあったが、音楽に関しては笑ってしまうほどに才能がない。 それでも託生の奏でるバイオリンの音は耳に心地よかったし、どれだけ聴いていても飽きることはない。 「そうだなぁ、託生が弾く曲なら何でも好きだぜ」 「何か適当だなぁ」 「違うよ、本当に何でもいいんだ。託生が弾いてくれるなら」 演奏楽しみにしてるよ、と言うと託生は嬉しそうに笑った。 何年ぶりかに開かれるパーティだということで、屋敷で働く使用人たちも何故か楽しそうに慌しく働いていた。母親のこともあり、どこか沈んだ雰囲気になりがちな毎日だったが、たまにはこうして華やかなことをするのも気分転換になっていいのかもしれない。 両親の友人はもちろん、仕事の関係者も招待された。名目は結婚記念日を祝いパーティではあったが、実際には社交の場として提供されるようなものだった。 当日は綺麗に着飾った人たちが大勢屋敷にやってきた。 「すげー人」 窓の外を眺めて、次々とやってくる高級車にギイは見入っていた。 ギイがこの屋敷にやってきてから、こんなに大勢の人間が訪れることなどなかったのだ。 「そっか、兄さんが死んでから、パーティなんてずっとしてなかったからね」 まだ尚人が生きていた頃は、二人の誕生日やクリスマスなど、イベントごとにこうしてパーティが開かれていた。まだ小さかった託生には、何か煌びやかで楽しいことというイメージしかなかったのだけれど、それでも尚人と二人して人々の間を行き来しては遊んでいた。 「託生、ネクタイ曲がってる」 「え?ほんと?」 「ほら、貸してみな」 ギイが長い指で託生の首にかかったネクタイを一度緩める。 カジュアルスーツを身につけた託生は、普段よりもずっと大人っぽく見えた。 時々忘れてしまうのだけれど、託生はずいぶんとセレブな家庭で育った、言わばお坊ちゃんなのだ。 ぽやぽやした言動から、とてもそんな風には思えないのだけれど、周囲からすればぜひとお近づきになりたいと望まれる存在なのだ。 こうしてきちっと着飾ると、そういえばそうだったな、とギイは今さらながらに思った。 「ほらできた。苦しくないか?」 「大丈夫。ギイこそ、ちゃんとシャツのボタン留めなきゃだめだよ」 「面倒臭い」 「駄目だって。ほら、上向いて?」 今度は託生がギイのシャツのボタンを留めてやる。いつもジーンズにシャツという格好のギイだけれど、正装すると本当に貴公子のように見える。何しろ数多あるドールの中でも秀逸だと店主が言い切るほどの美貌を持っているギイだ。黙って立っていれば、誰もが見惚れる。女の子はもちろん男だって目を奪われる。 外見は12、3歳の少年で、それが余計に危うい美しさを滲ませているのかもしれない。 「はい、いいよ。うん、すっごく綺麗」 「綺麗なんて言われてもなー」 「綺麗なことは悪いことじゃないよ?」 「託生は、オレの顔が好き?」 「うん」 あっさりとうなづかれ、毒気を抜かれる。託生が好きだというのなら、まぁいいかとギイは軽く肩をすくめた。 まったく自分でも呆れるくらいに、託生の言うことなら何でも素直に受け入れることができる。 「さ、行こうか。ギイ、美味しそうなものがいっぱい並んでるけど、食べちゃだめだからね」 「分かってるよ」 「約束だよ?」 「はいはい」 二人は身支度を整えると、階下の広間へと向かった。 秋晴れの気持ちのいい日で、庭へと続く窓は取り払われて、ガーデンパーティも催されていた。 託生は見知った人に会うときちんと挨拶をして、隣にいるギイのことも紹介した。みな美しいドールに興味津々で、あれこれと聞きたがった。誰でもが所有できるものではないだけに、羨ましがる者の方が多かった。 「オレは客寄せパンダじゃねーぞ」 ぶつぶつと文句を言いながらも、ギイは託生のそばから離れることなくあちこちに顔を出した。 主催者である父親の隣にはまだ体調は万全とはいえないものの、いつもより明るい表情をした母親が立っている。 久しぶりの華やかな場に、やはり気分も高揚するのだろう。 託生もそんな母親を見て、ほっとしたようだった。 「ギイ、ぼくそろそろバイオリンを弾く時間だから行くよ」 「ああ、頑張れよ」 「うん。ちゃんと聞いててね」 「もちろん、ここで聞いてる」 託生はうん、とうなづくとバイオリンを手て中庭へと向かった。ギイは何かを食べることも飲むこともできないので少しばかり手持ち無沙汰な気持ちで、近くにあった椅子に座った。 みなちらちらとギイを見るものの、声をかけてくることはない。鬱陶しい視線には慣れっこなのだが、ふとそれとは違う種類の視線を感じて顔を上げた。 「野崎・・・」 そこには忘れたくても忘れようもない野崎の姿があった。 ギイと目があうと、野崎は馴れ馴れしく手を上げて近づいてきた。 「やぁ、久しぶりだね」 「・・・何であんたがここにいる」 「おやおや、ずいぶん口が悪いな。俺の父親と託生くんの父親は仕事での付き合いがあるんだよ。今日も父親が招待いただいて、俺も一緒に来たってわけ。きみは知らないかもしれないが、俺は託生くんとは小さい時にも何度か会ってるんだよ」 それがどうした、と言いそうになって口を噤む。下手に口を開くと本当に喧嘩になってしまいそうな気がしたのだ。野崎はギイを上から下まで眺め回して、ふっと笑った。 「それにしても、さすが名匠の渾身の作だけあって、こうして着飾っていると本当に綺麗だね。まるで人間みたいに見える」 「・・・・」 「だがまぁ、どれほど人間のように見えても所詮ドールはドールだ。あまり人間のすることに口出しするもんじゃないぜ」 「何のことだ」 「俺と託生くんとのことに、首を突っ込むなってことだよ」 ギイは思わず立ち上がった。 自分よりも背の高い野崎をきつい目で睨みつける。野崎はそんなギイなど何とも思っていないようで、それがさらにギイの怒りに火をつける。 「断っておくが、俺は昔っから託生くんに目をつけてたんだよ。素直で可愛い子だからね。お兄ちゃん子で、なかなか他人と仲良くなるような子じゃなかったけれど、いつか自分だけのものにしようって思ってた」 「おいっ」 「祠堂を受験しようと考えてるっていうから、あれこれ教えてあげているうちにずいぶんと親しくなれたよ。このままいけば、いずれ俺と付き合うようになるかもしれない。その時になって、きみが邪魔するようなことをされちゃかなわないからね。先に断っておこうと思って」 「託生は・・・あんたなんかに渡さない」 「だから言ってるだろう?託生くんはお前のものじゃないんだよ。だいたいドールが人間のすることにあれこれ口を挟むこと自体馬鹿馬鹿しいことだろ。それに、託生くんが俺のことを好きになったのだとしたら、お前が何を言ったところで関係ないことだしね」 「・・・・託生は・・・」 野崎の言葉に、ギイは全身がかっと熱くなった。 託生が野崎のことを好きになるなんて絶対にありえない。 そう思っているのに、もしも、という思いに身体が震える。 野崎はずいっとギイへを顔を寄せ、とんとギイの胸を指先で突いた。 「いいか、ドールの分際で、人間のすることに口出しするんじゃない。自分の立場をわきまえろ」 「・・・・っ」 「まぁ託生くんが祠堂に入学したら、きみに邪魔されることもないし、ゆっくり時間をかけて俺のものにするよ。誰かを疑うことなんてしない子だし、信じさせればものにするのは簡単だ」 「お前・・・っ」 野崎が託生に何をしようとしているのかを知り、一瞬で目の前が真っ赤になるほどの怒りが込みあがった。 ギイが堪えきれずに野崎に掴みかかろうとした時、中庭から一斉に拍手が沸きあがった。 つられたようにギイも野崎もそちらへ視線を向ける。 眩しい光の下で、託生がバイオリンを構える姿が見えた。 ギイはすい寄せられるように窓辺に立ち、美しい音楽を奏でる託生を見つめた。 以前よりいっそう磨きのかかった音があたりを満たしていく。その場にいる全員がその美しい音色にうっとりと酔いしれていた。 曲はギイが好きだと言った曲だった。 母親のために弾くと言いながらも、託生が選んだ曲はどれもギイが好きだと言った曲だった。 爆発しそうだった怒りがゆっくりと静まっていく ギイは一つ深呼吸をすると、背後にいる野崎を振り返った。 「託生はオレが守る」 何があっても、託生が傷つくようなことは絶対にさせない。 野崎はふんと鼻で笑った。 「そんな小さな身体でいったい何ができるって言うんだ?だいたい来年の春には、もう祠堂に入学だ。手の届かないところで、どうやって守るっていうんだ。笑わせるな」 永遠に変わることのない身体。力じゃ野崎にはかなわないかもしれない。 それでも、そばにいればいざという時に助けることもできるだろう。けれどドールだから同じ学校へ行くこともできない。一緒にいることすら叶わない自分が腹立たしかった。 どんな手を使ってでも、託生のことは守る。 ギイはそれ以上野崎には何も言わず、中庭へと向かった。託生が1曲目を弾き終え、2曲目を弾き始めたところだった。 ギイは少し離れた場所から、見守るように託生を見つめた。 (好きなんだ) 何よりも誰よりも。 今まで感じたことのない不思議な感情がギイの中で生まれていた。 言葉じゃとても表現することができない。それはギイが知っている感情のどれとも違った。 託生がギイの持ち主だからではない。そうじゃなくて、ただ託生だから大切なのだ。 まるで目の前の世界が彩りを変えていくような錯覚を覚えた。 ドキドキとして、指先が震えた。 幸せで、なのに泣きたくなるような、自分でもまったくコントロールできないぐらぐらと揺れるような気持ちにギイは呆然としてしまった。 目の前に見える託生がぼんやりと涙で滲む。 (好きなんだ) それは今までの好きとはまったく違う「好き」の形だった。 演奏が終わると再び大きな拍手が沸きあがり、託生はぺこりとお辞儀をした。 父親が誇らしそうに託生の肩を叩く。そばに母親も久々に優しい笑顔を託生に向けた。 託生はギイの姿を探してきょろきょろと辺りを見渡した。見事な演奏をした託生の周りには招かれた客たちが次々に挨拶にきて、なかなか身動きが取れなかった。それでも何とか一通りの挨拶を済ませると、バイオリン片手に屋敷の中へと戻った。 ちゃんと聞いていてくれると言ったのに、いったいギイはどこへ行ってしまったのか。 「もう・・ギイってば」 むっと唇を尖らせた託生の肩を、誰かがぽんと叩いた。 「あ、野崎さん」 「やぁ、素晴らしい演奏だったね」 「ありがとうございます」 「小さい時から上手だったけれど、ますます腕を上げてるね。将来は音楽家になるのかい?」 「いえ・・まだそんなことは・・・」 きゅっとバイオリンを胸に抱きしめる。バイオリンを弾くことは大好きだけれど、簡単に演奏家になれるとは思っていない。 「バイオリンを部屋に持って行くのかい?」 「あ、はい」 「じゃあ付き合うよ、そのあと一緒に食事にしよう」 どこか有無を言わせぬ野崎に、上手い断りの言葉も思い浮かばず、託生は野崎と連れだって自室へと向かった。 「勉強は順調に進んでる?」 「えっと、そうですね。やっぱり英語が苦手で」 「家庭教師もつけないで頑張ってるんだろ?まぁ祠堂の入試は面接が重要だから、託生くんなら大丈夫だよ」 部屋の扉を開け、すぐそばの机にバイオリンを置く。そのまま引き返そうとした託生は、野崎が部屋の中にいることにちょっとどきりとした。 「へぇ、託生くんの部屋、綺麗に片付いているんだな」 「あの、野崎さん」 「うん?」 どうしようか、と少し口ごもったあと、託生は顔をあげて野崎を見た。 「ぼく、祠堂を受験するのはやめようかと思ってるんです」 「え?どうして?」 思いもしなかったことを告げられて、野崎は慌てたように託生へ近づく。 父親の母校でもあり、いろいろと野崎からも話を聞いていたし、祠堂がとてもいい学校だということはよく分かっていた。 けれど、1週間ほど前、父親が託生に改めて聞いたのだ。どうして祠堂へ行きたいのか、と。 隠す必要もなかったので、託生は正直に胸の内を話した。 昔から感じている母親への思いも。決して恨んでいるわけでもないし、諦めているわけでもない。 けれど、自分を見ない母親のそばにいるのはやはり辛いのだ。 逃げるわけではないけれど、自分が自分らしくいられるように、新しい場所で何かを見つけたいと思っていると素直に父親に打ち明けた。 黙って託生の話を聞いていた父親は深々とため息をついた。 そしてくしゃりと託生の髪を撫でて言った。 「お前がいらない苦労をする必要はないんだよ」 初めて託生の気持ちを聞いた父親は、もしかしたらと思っていたことがやはりそうだったと分かり、すまなかったと託生に謝った。 「母さんを入院させようと思っている」 突然の父親の言葉に、託生は驚いた。 それはもうずいぶん前から考えていたことだと父親は言った。 自宅での治療には限界があるし、何よりギイのことを尚人だと思いこんでいる母親を見ているのは、誰もが辛いことでもあった。 それでもなかなか踏ん切りがつかなかったのだけれど、託生の気持ちを聞いて、ようやく決心がついた。 託生が小さい頃からずっと寂しい思いをしてきたことは、父親にはよく分かっていた。 この先明るい未来が待っているはずの託生に、我慢ばかりさせるのは忍びなかった。 「母さんは入院をさせるよ。ゆっくり時間をかけて治療をしてもらおう。母さんのこと原因で祠堂に行こうと思っていたのなら、託生は家を出る必要はない。本当はバイオリンの勉強がしたいんだろう?」 「それは・・・」 「自分のことを考えなさい。今までずっと我慢してきたのだから、もういいんだよ。本当にしたいことをしなさい」 「でもそれじゃ・・」 まるで母さんのことを避けているようで、実際一緒にいるのが辛いと思っていたのは事実だけれど、入院するなら家に残るなんて・・・・ 「託生」 父親は逡巡する託生の顔を覗きこんだ。 「尚人のせいで、託生がずっと寂しい思いをしていることは知っていたよ。お前は優しい子だから、辛いだなんて一度も口にはしなかったけれど、母親という存在が必要な時期に、私も仕事が忙しくて、お前を一人にさせてしまったのは本当に申し訳なかったと思っているんだ」 「父さん・・・」 「母さんはこのまま治らないかもしれない。どれほど手を尽くしても、心の病は複雑だから、元通りというわけにはいかない。母さんのことももちろん大切だけれど、託生はこれからまだまだ長い人生を生きていかなくてはいけないんだ。大人になれば、嫌でも何かに縛られて我慢しなくてはいけないことも出てくる。けれど、今はそんなことは何も考えずに、もっと我侭にしたいことをすればいい。それが子供の特権だろう?もっと甘えてくれていいんだよ?」 父親の言葉に、託生は泣きたいような気持ちになった。父親の言葉は託生にとっては嬉しくもあり、切ないものでもあった。 それが1週間ほど前のことだった。 それから本当に自分がしたいことがいったい何なのかをずっと考えていたのだ。 いろんなことを一つ一つ切り捨てていくと、託生の中で残ったものは本当に数えるほどしかなかった。 「野崎さん、せっかくいろいろ教えていただいたのに本当にごめんなさい。いろいろ考えて、やっぱりここに残ろうって思ったんです」 「・・・それはあいつがいるから?」 「え?」 「きみの大切なドールだよ」 じりっと間を詰められて、託生は一歩後ろへ下がった。 「あのドールのために、祠堂を諦めるのかい?」 「ち、がいます・・・ギイのためだけじゃなくて・・・」 「まったく、あいつはどこまで邪魔すれば気が済むんだろうな。本当に腹が立つよ」 「野崎さん?」 野崎はいきなり託生の手首を掴むと、強い力で引き寄せた。 「祠堂に入学したら、時間をかけてゆっくりと自分のものにしようと思っていたが、受験しないのなら仕方がないな」 「え、何が・・・ですか?」 まだ自分が置かれている状況が理解できていない様子の託生に、野崎は楽しそうに笑った。 「いいね。純真無垢な顔して、本当に何も知らないのかい?何も知らないのなら、俺が一から教えてあげるよ」 ぐらっと足元から身体が傾いだ。 どんとベッドに押し倒されて、託生は自分の上に圧し掛かる野崎を凝視した。 ここへきてようやく自分が何をされようとしているのかに気づいた。 「野崎さんっ・・・冗談は・・・」 「冗談じゃないよ。そんなつもりじゃなかったけど、きみが祠堂に来ないっていうならもうチャンスはないからね。どうせ下は人で溢れ返ってる。少々の物音には誰も気づかない」 野崎は託生のネクタイを慣れた手つきで解くと、シャツのボタンに手をかけた。 「やだっ・・・やめてください・・っ」 「大人しくしておけば怪我はしない。大丈夫、ちゃんと気持ちよくしてあげるから」 「・・・・っ」 首筋に顔を埋められて、耳元に息がかかる。 ぞっとして、託生はめちゃくちゃに暴れた。けれど簡単に手首を捕まれてシーツの上に押し付けられる。 「やだっ・・・ギイ・・・ギイっ!」 「呼んだって無駄だよ。俺たちがここにいるなんて誰も知らない」 「ギイっ!!!!」 助けて、と託生はありったけの声で叫んだ。 さっきからずっと託生を探しているの姿が見当たらなかった。 バイオリンの演奏を弾き終わった託生へ近づこうとして、何人かの人に声をかけられ、父親の手前あまり無下にすることもできず、相手をする羽目になった。 誰もが今まで見たことのないほどの美しいドールと会話がしたいと思っていたのだ。 ドールを見るのが初めての人間が聞いてくることはだいたい同じことで、どんな風に答えれば彼らが満足するかもギイは十分承知していた。だから、わざと喜ぶような台詞を口にして、ほんの数分彼らを楽しませて、その場をあとにする。そんなことが何回か続いた。 ようやく解放されたときには、託生の姿は見えなくなっていた。 あちこち探しても見つからない。 いったいどこへ行ったんだ、と舌打ちしたとき、野崎の姿も見えないことにぎくりとした。 さぁっと血の気が引くとはこのことで、ギイは賑わう人々の間を回って必死に託生を探した。 「託生・・・どこ行った」 野崎が託生に対して邪まな感情を持っているを知っているギイとしては、絶対に二人きりになどしたくなかった。 何しろ託生はそういうことにはまったく警戒心がないから、簡単に捕まってしまいそうな気がする。 その時、ふいに名前を呼ばれたような気がして顔を上げた。 意識を耳に集中させた。周囲の音をすべて遮断して、託生の声だけを拾うおうと目を閉じる。 確かに呼ばれた。 もう一度。託生が自分を呼ぶ声を確かに聞いて、ギイは踵を返して屋敷の中へと戻った。 そのまま迷うことなく階段を上がり、まっすぐに託生の部屋へと駆けた。 蹴り飛ばす勢いで扉を開けると、託生の上に圧し掛かる野崎の背中が見えた。 「ギイっ!!!」 「この・・・っ」 ギイは怒りのままに、野崎の肩を掴み思いきり引き剥がそうとしたが、気づいた野崎がギイの体を簡単に振り払った。 「また邪魔しにきたのか。まったく懲りないヤツだな」 「託生に触るなっ」 掴みかかるギイは、けれど野崎からすれば子供を相手にしているようなもので、本気を出すほどのことでもなくその攻撃をかわした。 託生は身を起こすと、大人と子供が取っ組み合いでもしているような光景に、思わず手にした枕を投げつけた。 「ギイから離れろっ」 「まったく、面倒な連中だな」 運動部でしっかりと鍛えている野崎は手加減しつつも、ギイを部屋の片隅に突き飛ばした。 だんっと大きな音を立てて、ギイが床の上に倒れこむ。 「ギイっ」 「最初からドールなんて相手になんかならないんだよ」 体格差を考えろ、と野崎は鼻で笑うと、再び託生へと手を伸ばした。 その場に蹲るギイは低く唸って、肩で息をしている。 「ギイっ」 「静かにしろ。どうせあいつは何もできやしない」 動かないギイに、託生は怪我をしたのではないかとひやりと身体が震えた。 自分のせいでギイが怪我をしたり、万が一にでも死んでしまうようなことがあったら、どうしたらいいか分からない。何よりも大切な存在なのだ。 「大人しくしてれば、あいつには手は出さない」 絶対に嫌だと思う反面、ギイには手を出して欲しくないという思いが交差する。一瞬の迷いを野崎は見逃すことなく、野崎は託生の首筋に唇を寄せた。 (やだ・・・っ) ぎゅっときつく目を閉じた託生の上から、今までぴくりともしなかった重みがなくなった。 がしゃんと大きな音がして、目を開けると、ベッドから転げ落ちるような形で、野崎が棚に体をぶつけていた。 どうやら野崎を殴り飛ばしたようで、頬を押さえた野崎は痛みに低く唸り声を上げていた。 託生の目の前にはギイがいた。 大きな背中。 託生を庇うように手を広げているギイは・・・・。 その見慣れた後姿は確かにギイなのに、そこにいるのは託生の知るギイではなかった。 「二度と託生に近寄るな。今度姿を見せたら、ただじゃおかない」 低くギイが野崎に告げる。怒りのオーラはぞっとするほどのもので、託生は信じられない思いでその声を聞いていた。 起き上がった野崎も目の前のギイの姿に唖然として言葉を発することができないでいた。 すっかり戦意消失した様子の野崎は、さすがにもう無理だと思ったのか無様な格好で這うように扉まで辿りつくと、そのまま姿を消した。 「ギイ・・・?」 「大丈夫か、託生?」 「・・・・どうして?」 託生は何がどうなったのかまったく分からず、心配そうに自分を見つめるギイから目が離せずにいた。 どう見ても、そこにいるのはそれまでのギイではなかった。 動けないでいる託生の腕を引く手は力強く、抱きこまれた胸は広かった。 そこにいるのは託生よりも小さなギイではなかった。 自分よりも一回り以上も背が高くなり、その表情は大人びたもので、それまでの愛らしい少年のものではなかった。 「ギイ・・なの?」 恐る恐る手を伸ばしてギイの頬に触れてみる。 滑らかな肌も、薄い唇も、けぶるような長い睫も、薄茶の瞳も、どれもこれもすべて託生の知っているギイのものなのに、だけど、まるで違う人のように見えた。 育ってる。 それが分かったとたん、託生はばちんとギイの両頬を叩いた。 「いてっ!」 「ギイの馬鹿っ!!!あれほどミルク以外のものは食べちゃ駄目だって言ったのに!いったい何食べたのさっ!」 「何も食べてないっ」 「嘘っ!じゃあどうして育ってるんだよっ!ギイ、ぼくよりも大きくなってるじゃないか・・・」 言われて初めて、ギイは自分の身体がそれまでのものではないことに気づいた。 「ああ、そっか・・・それで野崎のこと殴れたのか」 「馬鹿っ、ギイの馬鹿っ」 「馬鹿はどっちだっ。あれほど野崎には気をつけろって言ってたのに、どうして二人きりになんてなった!」 「なりたくてなったわけじゃないよっ!」 「だからって・・・・」 怒鳴りかけたギイは、ふっと息を詰まらせると、そのまま胸を押さえて前かがみに倒れこんだ。 「ギイっ・・・!?」 「くっ・・・・あ・・」 託生がギイの身体を抱きしめる。 今までならすっぽりと腕の中に入っていたギイは、もう両手を広げても包みこむのが精一杯だ。 「ギイっ?ねぇ、しっかりしてよ、やだよっ、死んじゃやだっ!!」 「ば・・か言うな・・・って」 ぼろぼろと涙を流す託生にギイは薄く笑って、けれどギイはそのままその場に崩れ落ちるとぴくりとも動かなくなった。 「まぁ言ってみればオーバーヒートみたいなものだと思うんだがね」 歯切れ悪くドールハウスの店主は言った。 そろそろ店を閉めようかとしていたところへ、電話が鳴り、出てみると泣くじゃくる託生からすぐにきてくれと懇願された。 ドールに何かがあったのだということはすぐに分かった。 けれど人間とは違い、ドールは多少の怪我でも死んだりすることはない。 ドールが枯れるのは唯一持ち主の愛情がなくなった時だけだ。 そう言って、パニックになっている託生を宥めたが、それでもあまりにも悲痛な託生の叫びに、店主は大急ぎで屋敷へとやってきた。 どうやらパーティが開かれていたようだが、すでに大方の人は姿を消しており、使用人たちは後片付けに忙しそうだった。 泣きはらした目をした託生が店主を自分の部屋へと急がせた。 中に入り、横たわるギイの姿を見た店主は自分の目を疑った。 そこにいるのは自分が良く知るギイではなかった。 どう見ても20歳前後の青年の姿になったギイが眠るように横たわっている。 育っているのだということは一目で分かった。 「お願い・・・ギイを助けてください・・・」 「いったい何を食べた?」 「食べてない、って・・・ギイは何も食べてないって言ってた・・」 店主は託生に部屋を出るように言うと、ギイの身体を隅から隅までチェックした。 なるほど託生が言うように、ミルク以外のものを食べたようには思えなかった。時折ミルク以外のものを口にして育ってしまったドールが店にやってくることがあるが、そういうドールはみな一様に同じような匂いがするのだ。ミルクと砂糖菓子で生きているドールからはいつも甘い匂いがするのだが、他のものを口にしたドールからはその匂いが消え、もっと不快な匂いがするようになる。 けれどギイからはそんな匂いはしなかった。 一通りチェックをしても、ギイはただただ深い眠りについているだけとしか思えない。 「それにしてもいったい何があった・・?」 精悍な顔立ちは確かにギイのものだけれど、おかしなものを口にせずに育つドールなど今まで見たことがない。 店主は首を捻りながら、部屋の外で待つ託生に事情を聞いてみた。 託生はつい先ほどの出来事を店主に話した。本当に突然、ギイはその姿を変えたのだ。 いったい何が何だか分からないと託生はまた涙を零す。 「ああ、泣かなくてもいい。大丈夫、ギイは枯れたりしないから。たぶん、急激に身体が成長したから、いろんな機能がついていけなくて、オーバーヒートしたんだろう。大丈夫」 「本当ですか?」 たぶん、としか店主も答えようがない。 こんなこと、今まで経験をしたことがないのだから。 託生は部屋に入ると、ベッドに横たわるギイのそばに座り込んだ。 「ギイ・・・」 祈りを捧げるように、ギイの手を自分の手の中に包み込み、指先に口づける。 「ギイ・・」 何度も呼びかけると、やがてギイはうっすらと目を開けた。 そこに託生がいることにほっとしたように微笑み、けれどすぐに呆れたようにため息をつく。 「また泣いてんのか・・・泣き虫・・」 「だって・・・」 ギイは託生の後ろにドールハウスの店主がいることに不思議そうに目を細めた。すぐに託生が呼んだのだろうということに気づき、ずいぶんと心配をかけたんだなぁと思った。 店主が託生の横に立ち、ギイを覗き込んだ。 「どうだい、気分は?」 「悪くない。大丈夫」 「ギイ、どうして姿が変わった?ミルク以外のものは本当に口にしていないんだろうな?」 しつこく店主に聞かれて、ギイはうんざりとした。 いったい皆はオレがどれだけ食い意地が張ってると思ってるんだ、とむっとしてしまう。 ギイは、何も食べてないと短く答えると、だるい身体を起こして、何かを思い出そうとするように目を閉じた。 「オレ・・・助けなきゃって思ったんだよ。託生があいつに襲われてるの見て、全身が熱くなって、何が何だか分からなくなって・・このままじゃ絶対に勝てないって思った。だから勝てる身体が欲しいって思った。託生を守れるようになりたいって、願ったんだ・・・」 ギイはゆっくりと目を開けると、すべてを思い出してすっきりとした表情で目の前の託生を見つめた。 「オレがこうなりたいって思ったんだよ。いつまでも子供の姿じゃなくて、託生の隣にいられる身体になりたいって、オレが願った」 「ギイ・・・」 「成長したのはオレの意志だよ」 「・・・・」 「愛してるんだ、託生」 ドールの口から出るはずもない言葉に、託生は何も返すことができない。 「誰よりも愛してる」 まるで宝物を渡すかのように心を込めて、ギイは託生に告げた。 実際それは、ギイにとってはかけがえのないものだった。 唯一、誰かの手で作られた感情ではなく、自分の中から湧き上がった感情だったのだから。 疲れたと言ってまた眠りについたギイを残して、託生と店主は人気のなくなった客間へと場所を変えた。 父親は久しぶりに会う店主に驚いていたが、託生から簡単に事情を聞き、わざわざ訪れてくれたことに対して、店主に礼を言った。 「あの・・・ギイは本当に大丈夫なんですよね・・」 使用人が店主と託生にコーヒーを運んでくれた。二人きりになると、店主はまだ何か信じられないという顔でしばらく考えこんでいた。 「あの・・・」 「託生くんは、人間とドールの違いは何だと思う?」 「え?」 突然尋ねられて、託生は戸惑った。 もう長い間ギイと一緒にいるけれど、普段の生活の中で、ギイがドールだということを忘れていることもよくある。 託生の中でギイはかけがえのない存在で、ドールだから何かが違うなどと考えたことはなかったのだ。 「私はドールの店を亡くなった父から継いだから、幼い頃からたくさんのドールを見てきたよ。託生くんも知っている通り、ドールたちは見た目はもちろん、考えることも話すことも、何もかも人間と同じで、じゃあいったい何が違うんだろうと私もずいぶん考えたよ」 「はい」 「人間にあってドールにないものは、唯一愛情という感情だけなんだ。単に好きだということとは全然違うあの感情だけは、どんなに優秀なドールでも持つことはなかった。どんな名人でもその感情を最初からドールに与えることはできなかったんだと思う。何かを・・誰かを自分よりも愛しく思って、命をかけて助けたいと思う感情は、誰かが与えられるものではないんだ。ギイを作った名人は、それは腕のいい職人で、生涯に一度でいいから他のドールとは違うドールを造りたいと言っていたんだよ。ギイは、名人が最後に望みを託したドールだ。どこまでも人間に近く、すべてにおいて完璧に作った。どんな仕掛けを組み込んだかは分からないが、ギイは愛情という感情を持つことができるドールとして作られたんだと思う。名人はギイを作り上げたとき、言ったそうだよ、このドールは奇跡を起こすかもしれない、ってね」 「・・・・」 「ギイが成長して姿を変えたのは、愛情という感情を覚えて、託生くんを助けたいと思ったからだよ」 店主は大きくため息をつくと、手にしたコーヒーを一口飲んだ。 託生は俯いたまま、自分のために姿を変えたギイのことを思った。 「ギイは・・・それで幸せなんでしょうか?」 「うん?」 「よく分からないんですけど・・・愛情って・・素晴らしいものかもしれないけれど、時々・・すごく残酷なものにも思えるんです」 兄ばかりを愛した母親。 与えられる者とそうでない者の差はいったい何なのだろうと、ずっとずっと考えていた。 愛情なんて最初からなければ、欲しいと思うこともなかったのに。 「ぼくは、愛情って感情を持たないドールのこと、時々羨ましいって思いました。愛情なんてない方が辛い思いをすることもなくて、幸せなんじゃないかって・・・」 「・・・・」 「ギイは、何も知らない方が幸せだったんじゃないのかな」 小さくつぶやく託生に、店主はしばらくの沈黙のあと静かに言った。 「確かに託生くんの言うように、素晴らしいことばかりじゃないかもしれない。傷つくことも、泣くこともあるかもしれない。だけどギイは、それでも託生くんのことを愛したいって思ったから、自分を変えた。何も知らないままでも十分幸せに生きることはできただろうに、そんな約束された幸せよりも、きみのことを選んだ」 「・・・・」 「もしかしたら、ドールたちは気づいていないだけで、本当はちゃんと愛情を持っているのかもしれないね。だからこそ持ち主からの愛情がなくなると枯れてしまうのかもしれない」 「ぼくは・・・」 「ギイはきみがずっと欲しかったものをくれるかもしれないね」 店主は優しく笑うと、ぽんと託生の肩を叩いた。 ギイは二日間、それこそ死んだように眠り続け、次の日はいつものように元気な姿を見せた。 託生の身長など軽く追い越し、すっかり青年の姿になってしまったギイに、屋敷中の人間が目を見張り、信じられない思いを抱いた。 けれど変わったのは外見だけで、中身は今までのギイと何も変わっていないことが分かると、その姿にもすぐに慣れ、今までと何も変わらない日常に戻った。 むしろいつも一緒にいた託生の方が、変わってしまったギイになかなか慣れることができずにいた。 いつもと同じように、託生の部屋で勉強を見てもらっていても、何だか別人と一緒にいるような気がして集中できない。 「託生、また計算ミス」 「あ」 「あ、じゃないだろ。何ぼんやりしてるんだ」 ちょっと休憩するか?とギイが託生の手からペンをとり上げた。 「どうして祠堂に行くことやめたんだ?」 託生から別の高校を受験すると聞かされギイは驚いた。 もっともあんなことがあったのだから当然といえば当然なのかもしれないが、託生が祠堂に行きたいと言っていた理由が理由だけに、どうして今になって、と思ったのだ。 「お母さん、入院するって」 まだ正式な日は決まっていないので、屋敷の中の誰も知らないことではあったが、託生は父親と話したことをギイにも告げた。 「父さんが、自分のしたいようにしなさいって。ぼくがそうできるように、たぶん母さんと入院させることにしたんだと思う」 「そっか」 「母さんのことがあって祠堂に行こうって決めたとき、ぼくには2つ考えることがあったんだ。ひとつはバイオリンのこと。できればちゃんと勉強したいなって思ってたけど、演奏家になるんじゃなければ、3年間、独学で勉強を続ければいいかなって思った。あとはギイのことだった」 「オレ?」 「ギイはぼくのことを思って、祠堂へ行くことを応援してくれてたけど、ずっと元気がなかったし、もしぼくがいない間に死んじゃったらどうしようって・・」 「そんな簡単に死なないよ」 「離れてたって、愛情がなくなるわけじゃないけど、でもそれはギイがどう感じるかだよね。ぼくは、ギイは強いから大丈夫って、勝手に決めてた。だけど、だんだんと本当に祠堂に行っていいのかなって思い始めてたんだ」 そんなときに母親の入院が決まったのだ。絶対に祠堂へ行かなければならない理由がなくなった。 「オレのためか?」 「半分くらいは」 正直に言って、託生はベッドに腰かけた。 「なぁ、オレ、託生の荷物になってるか?」 「そんなことないよ」 ギイの言葉に、託生はまさか、と首を振る。 「ギイがいなくなったら嫌だって思うのはぼくなんだ。だから、これはぼくの問題」 ギイは託生の隣に腰を下ろすと、じっと託生を見つめた。 気恥ずかしくなって、託生はふいっと視線を外す。 「何だよ」 「だって、ギイ、別人みたいなんだもん」 「うん、でっかくなっちゃったからな」 くすくすと笑ってギイが託生の手を握る。 「ギイ、大きくなって何か変わった?」 ドールハウスの店主は、ギイの中に愛情という感情が生まれたのだと言った。 普通のドールではありえないことなのに、ギイは自分でその感情を芽生えさせた。 「身体が大きくなっても何も変わらないよ。まぁ託生のこと守れるようになって良かったなぁって思うけど」 「あのさ、ぼくだってまだ成長するんだからな」 「そしたらオレはもっと成長する」 「何だよ、それ」 むっと唇を尖らせる託生に、ギイは楽しそうに笑う。 「身体のことより、何だろう・・今まで知らなかった感情が心の中にあるっていうのが、自分でも不思議で仕方がない。託生にとっては愛情なんて当然の感情だから分からないかもしれないけれど、オレはそれを知って世界が180度変わった。それまで託生に感じていた言葉にできない感情にちゃんと名前がついた。すごく嬉しくて、地に足がついてないような感じだった。今でもそうだよ」 ギイの言葉で、愛情なんて感情はない方がいいなんて思っていた託生は、その考えが間違っていたのだと気づいた。 結果がどうであれ、まずは誰かを好きになるところから始まるのだ。 ギイが言うような、世界が180度変わるような気持ちを、託生はまだ知らない。 それはいったいどんなものなのだろうか。 ギイは握り締めた託生の手を口元へと引き寄せた。 そっと唇を押し当てられて、託生はどきりとした。今まで何度もこんな風に触れられて、だけど何とも思わなかったというのに、この時は自分でも驚くくらいに心臓が高鳴った。 「託生が好きだ」 「・・・」 「持ち主としてとか、そういうんじゃなくて」 「・・うん」 「託生のこと愛してる」 ギイの声は耳に心地よかった。 今まで何度も好きだよ言われたけれど、愛してるという言葉はまったく違うものとして託生の中へと入ってきた。 ずっとずっと本当は欲しいと思っていた愛情をいう名を幸せを、ギイが与えてくれるのだろうか。 もしそうだとすれば、自分はどうすればその思いに応えられるのだろうか。 ギイの指先が託生の頬に触れ、ゆっくりと口づけられた。 初めてでもないのに、泣きたくなるほどに心が震えた。 甘く舌先を吸い上げられて、背筋をくすぐったい何かが駆け上がった。そのまま体重をかけられてベッドに押し倒されると、つい先日野崎にされたことが思い出されて、一瞬身体が強張った。 けれど、あの時とは何かがまったく違った。 抱きしめられて、首筋に熱い息を感じても、野崎にされたときはただただ気持ち悪くて、逃げ出したかったのに、ギイだとふわふわとまるで夢の中にでもいるかのように幸せに感じられた。 ちゅっと音をさせて耳元にキスをして、ギイが顔を上げる。 「託生は?」 「え?」 「オレのこと好き?」 それはもう何度も何度も繰り返される挨拶みたいな問いかけ。 今まで簡単に好きだよと返していたのに、それは簡単に口にしてはいけない大切なことのように思えてならなかった。 不安そうに返事を待つギイの頬に手を添えた。 「・・・好きだよ」 真っ直ぐにギイを見つめる。 「ギイが好き。愛してるよ」 言えば、ギイが眩しい笑顔を見せた。 愛されることも愛することも、きっとギイが教えてくれる。 お互いを大切に思うということがどれほど尊いことか、それがどれほど幸せな気持ちにしてくれるのかも。 きゅっと抱きしめられて、託生は目を閉じた。 たぶん、これからギイと過ごす日々はそれまでのものとは違ったものになる。 愛情に満ちた毎日は、きっと素晴らしく楽しいものに違いない。 そんな予感がして、託生はそっとギイのことを抱きしめた。 |