その日は顧問の先生が会議があるとかで、部活がいつもよりも早く終わった。
「真行寺、寮に帰らないのか?」 同じクラスの友達に声をかけられ、ちょっと寄り道するから、と答えた。 ただいま、夕方の4時半。 寮に戻り、シャワーを浴び、一息ついて食堂へ行って夕食を取る。 一番いい流れじゃないか、と思うのだが、それよりももっと魅力的なことを思いついたのだ。 今から温室へ行けば、葉山さんに会える。 真行寺はうきうきと気持ちが弾むのを止められず、足早に祠堂のサハリンと呼ばれる温室へと向かっていた。 (葉山さん、まだバイオリンの練習してるんだろうなぁ)
放課後はいつも温室でバイオリンの練習をしている葉山託生。
時折、聞きに行っては疲れたキモチを癒してもらっている。 いつも優しくて、三洲とのノロケや愚痴を嫌な顔ひとつせずに聞いてくれるひとつ年上の先輩のことが、真行寺は大好きだった。 もちろんそれは恋愛感情などではなく、強いて言うならば、お兄さんのような感じだろうか。 頼れるお兄さんというのではなく、守ってあげたくなるお兄さん? とにかく一緒にいるとほんわかとキモチが暖かくなって、自分が優しくなれるような気がするのだ。 (あのアラタさんのお気に入りだもんなぁ)
真行寺の想い人である三洲新。誰にでも人当たりがいいくせに、その実、好き嫌いが激しいあの三洲が、葉山さんにはほんとに優しいのだ。
たぶん、気がついていないだけで、三洲も葉山さんといると気持ちが優しくなっているのだろうなと思う。 (練習が終わってたら、一緒に夕食しましょう、って誘おうかなー)
最近、ギイ先輩と少し距離を置いている葉山さん。
それまでと変わらないように見えて、時々とても寂しそうに見える時がある。 いろいろと事情があるんだろうなぁとは思うけれど、見ていて切なくなるのだ。 「ほんとはまだ好きなんだろうなぁ」 そういうところを見せないようにと必死に頑張っている姿に心が痛む。 そして年下ながらも支えてあげたい、と思ってしまうのだ。
温室が見えてくると、真行寺は深呼吸をして息を整えた。 もしまだバイオリンの練習中なら、邪魔しないようにそっと入ろうと思ったからだ。 ガラス戸に手をかけて、音をさせずに中に入る。 だが、聞こえてくるはずのバイオリンの音は聞こえなかった。 (あれ、いないのかな?)
いつも練習をしている場所へと足を進め、そこに見慣れた制服を見つけて声をかけようとしたその時、目に入ってきた光景にぎくりと足を止めた。
そこには祠堂一の美男子だと名高いギイこと崎義一と、真行寺お目当ての葉山託生が並んでベンチに座っていたのだ。 (うわ、どうしよう)
声をかけようかと思って、でも何故かできなかった。
久しぶりに見るツーショット。 ギイはぴったりと託生に寄り添って、膝の上に広げた雑誌を指差して、何やら話をしている。 その見惚れるような眩しい笑顔。 3年になってから、氷の女王と陰で言われるほどにクールな表情しか見せていないギイが、今は去年までと同じ優しい笑顔で託生に話しかけていた。 (ああ、いつものギイ先輩だ)
何となくほっとして、真行寺は二人の様子に見入ってしまった。
こんな時間にこんな場所にやってくる人なんていないだろう、と二人とも思っているのだろう。 でなければ、あんな風にくっついているはずがない。 覗き見なんていけないことだとは思いつつも、久しぶりに見るギイの眩しい笑顔に心を奪われてしまったことや、託生のリラックスした様子や、何よりあの二人は二人きりの時にいったいどんな感じなのかというのが、とてもとても気になってしまって動けなくなってしまった。 何しろ真行寺の周りに、相思相愛の恋人同士というのがいないのだ。 おまけに自分と三洲はとても甘い恋人関係とは言い難い。 だから、普通の恋人たちが、二人きりの時にはどんな感じなのかを見てみたいという、まったくもって下世話な考えが浮かんでどうしようもなくなってしまったのだ。 そっとその場に座り込み、生い茂る葉の陰から二人を眺める。 耳を澄ますと、小さな話し声が聞こえてきた。 「・・・だろ?」 「うん、でもこっちも美味しそうだなぁ」 託生がじーっと手元の雑誌を眺めている。雑誌はガイドブックか何かだろうか。 GWも近いし、二人で旅行にでも行くのだろうか。 いいなぁ、と思わず真行寺は唸った。できることなら、自分も三洲と二人で旅行に行ってみたいものである。 「そうだ、託生、いいものあるぞ」 そう言って、ギイがポケットの中から小箱を取り出す。 「なに?」 託生が聞くと、ギイが目の前で小箱を左右に振った。ころころと何やら音がする。 真行寺が目を凝らしてそのパッケージを見ると、それは最近発売されたキャンディの箱だった。 世間で話題となっているその菓子は、もちろん売店にも入荷されたが、あっという間に完売してしまった。 真行寺もタッチの差で手にすることができず悔しい思いをしたのだ。 「どうしたの、それ?買いそびれたって言ってなかったっけ?」 「ふふ、矢倉と賭けをした戦利品」 「ギイってば、何か卑怯な手を使ったんじゃないだろうね」 「お前な、それが愛しい恋人に言う台詞か?」 憮然としてギイが託生を軽く睨む。くすくすと笑う託生が冗談だよと謝る。 二人の間に流れる何ともいえない空気感に、真行寺は気恥ずかしくなってきた。 例えていうならピンクのオーラが漂っているというところか。 ああ、これがまさしくらぶらぶな恋人同士というものなのか。 ギイのこれ以上ないくらいに甘い甘い、託生にしか見せない微笑。 いったいどこが氷の女王なんだろう。 こんなところを一年のチェック組が見たら、どうするつもりなのだろうか、といらぬ心配をしてしまう。 「託生、口開けろよ」 ギイが箱からキャンディを一つ取り出す。 「ほら」 素直に開けた託生の口の中へと、ギイがキャンディを放り込む。 しばらく無言でキャンディを舐めていた託生の表情が次第に歪んでいく。 「どうだ?」 「ギイ、何これ?変な味がする」 「ピーマンの味するか?」 「ピーマンっ!?」 ギイがキャンディの箱をずいっと託生の前へ差し出す。 「このキャンディ、野菜の味がするっていうんで、話題になってるんだぜ。お前が今食べてるのはピーマン味。にんじんの方が良かったか?」 「どっちも嫌だよ」 そういえば葉山さんはにんじん嫌いだったなぁ、と真行寺がくすりと笑う。 そういう子供みたいなとこも可愛いと、後輩ながら思ってしまうのだ。 「もう、ギイ、変なもの食べさせるなよ!あー、このあとの夕飯のときまで味が残ってそうで嫌だなぁ」 「んじゃ、食べてやるからよこせよ」 (何ですと!?)
さらりと言ったギイの台詞に、固まったのは託生ではなく真行寺の方だった。
ギイは託生の顎に指をかけると、そのまま唇を寄せた。 (うわーーー)
どうしよう、どうしよう、と真行寺は叫びだしたくなるのを必死で堪えた。
まさか目の前で他人のキスシーンを見ることになろうとは。 見てはいけないと思いながらも目が離せない。 次第に深くなる口づけから、託生が逃げようと身をよじる。 やがて、濡れた音をさせて唇が離れた。 先ほどまで託生の口の中にあったキャンディは、ギイの口の中へと移ったようで 「うわ、なかなかすごい味だな、これ」 と、ギイが眉をひそめた。 「だから言っただろ?」 「あー、でもまぁこれはこれで味わい深い」 「よく言うよ」 託生が呆れたように笑う。 (食べかけのキャンディを口移しで渡しちゃうんだ)
呆然と真行寺が瞬きを繰り返す。
まるでそれは普通のことのように、二人とも別段それには触れず。 がりがりとキャンディを噛み砕くギイと、どうにも後味が悪いらしくて、複雑な表情を見せる託生。 そのあとも何事もなかったかのように、雑誌へと視線を移して再び相談を続ける二人。 (あれって日常?普通?口移しってそうなのか?)
半ばパニックになりそうな真行寺は、二人に見つからないように、そろりそろりと温室の出口へと向かった。
外に出てからは、それはもう一目散に寮へと走りかえった真行寺である。 託生がギイとは恋人同士だと頭では分かっていたものの、何となく、キスとかその先とかそういうこととは結びつかない存在だったのだ。 しかし、それは目の前で見てしまったキスシーンでひっくり返った。 ギイとのキスのあとの託生は、何とも幸せそうで、そして妙に色っぽく見えてしまった。 「葉山さんて、けっこう危険な人なのかも」 あんな表情、他の連中が見たら邪まな考えを持ってもおかしくない。 これはギイがヤキモキするはずである。 「はー、俺、今日寝れるかな」 真行寺にとって、知恵熱が出そうなくらいの衝撃シーンだったのだ。 ぼーっとした頭のまま、遅めの時間に食堂へと行くと、あろうことかそこにはギイと託生、赤池章三の3人が食事をしていた。
「あ、真行寺くん、今から食事?一緒に食べようよ」 いつものように、気軽に託生が声をかけてくる。 う、っと固まった真行寺ではあるが、断るのも不自然極まりない。 いつもなら自分の方から「一緒に食べていいっすかー」と声をかけるのだから。 ぎこちなくうなづいて、託生の前の席に座る。斜め前のギイの顔はまともに見れず、あれこれと話しかけてくる託生と章三に相槌を打ちながら黙々と食事をした。 「じゃ、オレは先に行くな」 しばらくすると、ギイがトレイを持って立ち上がった。 思わず顔を上げると、ばっちりと視線が合ってしまった。 「あ、そうだ、真行寺」 ギイが胸ポケットから例のキャンディの箱を取り出す。 ぎくりとした真行寺に、ギイは極上の笑みを浮かべた。 「これやるよ。食べてみたいだろ?」 「え。いや、えっと・・・」 「三洲と一緒に味わってみれば?」 ニヤリと笑って、ギイが小箱を真行寺のトレイへと置いた。 (ばれてる!!!!!)
片手を上げて去っていくギイを見送りながら、嫌な汗が背中を流れるのを感じた。
こっそりと覗き見してたこと、ばっちりばれてるじゃんか!! 「どうしたの、真行寺くん、顔色悪いよ?」 心配そうに顔を覗き込む託生に、何でもありません、とぶんぶん首を振る。 (やっぱりギイ先輩は侮れない。ていうか・・・)
真行寺がいることに気づいてる素振りなんてこれっぽちも見せずに、あんなことをしたのだ。
たぶん。 3年になって、おおっぴらにいちゃいちゃできないストレスが溜まってきてるのだろう。 だからわざと見せ付けたに違いない。 そして、このキャンディは口止め料だ。 見たことは話すなよ。
そしてもう一つ。
あんまり託生に懐くなよ、とでも言いたかったのだろうか。
託生にはオレがいるのが分かっただろ、と?
「葉山さん、ギイ先輩って実は怖いっすよね」
「え?どうして?何かあったの?」 おろおろとする託生に、真行寺ははぁあとため息をつく。 (葉山さんてこういう人だもんな、ギイ先輩、苦労するはずだよな)
「あ、真行寺くん、そのキャンディ、ピーマン味があるんだよ。すごく変な味だから気をつけてね」
「知ってます」 思わず言うと、そうなんだ、と託生が笑う。 口移しで相手に渡したくなるほどのおかしな味のキャンディ。
とりあえずは、アラタさんに勧めてみようかな、と思う。 もしかしたら、上手くいけば、キスができるかもしれない。 淡い期待を抱きつつ、真行寺はキャンディの箱を手にするのだった。 |