もう夏も終わりなんだなぁと昔懐かしい道を歩きながら、託生はすっかり柔らかくなった日差しに目を細めた。
この道のりを歩くのはいったい何年ぶりだろうか。 手にしていたバイオリンケースを、何度も引きずらないように抱えなおしたことを覚えている。 あの頃はもっと広い道だったようにも思う。 周囲の風景も微妙に記憶とは異なっている。 それはたぶん自分がもっと小さかったせいだろう。 (懐かしい) 毎週毎週、晴れの日も雨の日も、この道を歩いてバイオリンを習いに行った。 弾けなかった曲が弾けるようになるのが楽しくて、レッスンの日が待ち遠しくてならなかった。 当時師事していた須田が還暦を迎えることになり、お世話になった生徒たちが集まってお祝いをすることになったと連絡をもらったのは、半月ほど前のことだった。 「で、昔の生徒たちが集まって、パーティてわけか」 「パーティって言っても、結局須田先生の家に集まるわけだから、招かれちゃうみたいで申し訳ないんだけどね」 託生が言うと、ギイは寝そべっていたソファから起き上がった。 祠堂を卒業して、紆余曲折の末にギイと一緒に暮らすようなり、そろそろ1年がたとうとしていた。 学生時代とは違い、お互いに仕事もあって生活リズムも違うから、もっとすれ違うこともあるかと思っていたけれど、少しづつ譲り合いながらちょうどいい距離感を見つけ出して、今は一緒にいることが一番安心できて落ち着けるようになった。 「還暦祝いって、赤いちゃんちゃんことか贈るのか?」 ギイが言うと託生はまさかと笑った。 確かに還暦といえば赤いものとはいうものの、今時の還暦なんてまだまだ若い。 おじいちゃん扱いするのは失礼だろう。 「還暦祝いって言いながらも、同窓会に近いものじゃないのかな」 「ふうん。みんな音楽の道に進んでるのか?」 「どうかな。同じ音大で再会した友達もいたけど、小さい頃にバイオリンを習っていても、途中でやめちゃう人も多いし、ああ、でも須田先生の元で習っていた人たちはけっこう真剣に習っていたから、今でもやってる人も多いかも」 「楽しみだな」 「うん」 そのあと日時の調整が何度か入り、夏の終わりの日曜日、託生はこうしてバイオリンと手土産を片手に昔通った道を歩いているのだった。 今日は総勢で10名ほどが集まるという。 顔を合わせるのは10年ぶり以上になる人がほとんどだから、顔を見てすぐに誰だか分かるだろうかと少しばかり不安にもなる。 だけどまぁそれもお互い様だと思うことにした。 子供の頃からどちらかと言えば前へ出るような性格でもなかったから、託生のことを覚えている人がどれくらいいるかも分からない。今日会って、またもう一度付き合いが始まるのならそれもいいな、くらいの気楽な気持ちで参加することにしていた。 やがて見慣れた家が見えてくる。 託生は緊張をほぐすように一つ深呼吸をしてからチャイムを押した。 出迎えてくれたのは須田の妻だった。 託生のことは覚えていてくれていて、顔を見るなり嬉しそうに微笑んだ。 ご無沙汰していますと挨拶をして手土産を渡す。 玄関先には数人分の靴があって、時間より少し早めに到着したというのに一番乗りではなかったようだった。 「さぁどうぞ。懐かしい皆さんが集まってますよ」 案内されたのは奥のリビングだった。レッスンは玄関を入ってすぐの洋間で行っていたので、奥へと通されるのは初めてだった。 扉の向こうでは須田を取り囲むようにして数人が楽しそうな笑顔を見せていた。 「あ、葉山くん」 託生の顔を見て、振り返った女の子がぱっと顔を輝かせる。 その無邪気な笑顔に、託生の記憶が一気に子供の頃へと遡った。 「西原さん?」 「そう。うわー、久しぶりだねぇ。ぜんぜん変わらないね、葉山くん」 「お、葉山、久しぶり。元気だったか」 「えーと、林くんだよね」 「覚えてたかー」 不思議なことに、会っても分からないんじゃないかと思っていたにも関わらず、するすると名前が出てくる。 みな大人になっていてもどこか面影を残していて、少し言葉を交わしただけで当時のことが思い出された。 レッスンの順番を待っていた時に、あれこれとくだらない話をして遊んだこと。 上手く弾けない曲をお互いにああでもないこうでもないと教えあったこと。 発表会で失敗して涙をこぼす相手を必死で慰めたこと。 あの頃の記憶が鮮明に思い出され、どうして今まで忘れていたのか不思議になるほどだった。 「いらっしゃい、葉山くん」 「須田先生」 深々とお辞儀をすると、須田はよく来たねと何度かうなづいた。 「ご無沙汰しています。お招きいただきありがとうございます」 「いや、こんな大げさなことをするつもりはなったんだが、久しぶりに集まろうかということになってね」 「はい。ぼくも楽しみにしていました」 「あとでみんなに一曲弾いてもらうつもりだからよろしくね」 事前にバイオリンを持ってくるように、と言われていたのでもちろんそのつもりだ。 「先生、ダメ出ししないでくださいよー」 誰かが当時の鬼のような須田のダメ出しを揶揄するように声をかける。 「そうですよ。今でもバイオリンを続けているのは半数くらいなんですから」 「そうそう」 そうか、やっぱりもうやめてしまった人もいるんだな、と託生は少し寂しく思う。 子供の頃に習う習い事としてはバイオリンは少数派だろう。ピアノをやっている子は多くても、それでも大人になってからも続けている人は少ない。バイオリンとなればなおさらだ。 「葉山くん、音大卒業して、今も大学で仕事してるんでしょ?」 「ああ、うん。そうなんだ」 「すごいよね。葉山くん、昔から上手だったし」 「そんなことないよ。いつも先生に怒られてばかりだったし」 言うと、須田はちらりとこっちを見て、楽しそうに笑った。 演奏はもちろん、その曲に対する姿勢や理解についても、須田は子供だからといって妥協することなくきちんと教えてくれた。あまりに厳しすぎてやめていく子も少なくはなかった。 だけど本当の意味で音楽の楽しさを教えてくれたから、頑張る人もたくさんいた。 「さあ、みなさん食事にしましょうか」 須田の妻が声をかけ、皆で手伝って昼食の準備をした。 ダイニングテーブル組と座卓組に分かれて食事を始め、近況を報告しあった。すでに結婚している者もいるし、子供がいるものもいた。 そうか、もうそんな年齢になったんだな、と託生は我が身を振り返って呆然とした。 確かに子供がいてもおかしくない年齢なのだ。 たぶん仕事に関しても責任のある立場になり、一番精力的に働ける頃なのだ。 じゃあ自分はと振り返ると、何だかまだ祠堂にいた頃の延長で毎日を過ごしているような気がしてならない。 少しは成長したと思っているけれど、まだまだ考えが及ばないことも多くて落ち込むこともある。 だけど今の自分を卑下する気持ちもなくて、自分なりにそうなりたいと思っている自分に少しづつ近づけているとも思っている。 「葉山は今大学で仕事してるんだって?」 隣に座っていた男を見て、託生は記憶を辿った。眼鏡をかけているけれど、それを外した時の顔は・・ 「白石くん?だよね?」 「ああ、そう。覚えてくれてたんだ」 「懐かしいな。元気だった?」 白石は託生よりも2つ年上だったはずだ。須田の元でレッスンを受けている中では一番上手だった。 難しい曲でも簡単に弾いてみせるから、うっかり自分でも弾けるような気がして、でも弾けるようになるにはずいぶん時間がかかった。 たった2つの年の差がこんなに大きいものなのかと何度も思ったものだ。 あんな風に弾きたいなぁとずっと託生は思っていた。 白石が一人っ子だったせいか、まだ上手く弾けない託生にあれこれと教えてくれたことを覚えている。 確か父親の転勤で須田先生のレッスンをやめざるを得なかったのだ。 「白石くん、今でもバイオリンは続けているの?」 「いや、もうとっくの昔にやめたよ」 「え、そうなんだ。もったいないな」 思わず言うと、白石はどこか呆れたような視線を託生に向けた。 「少しくらいバイオリンが弾けたって、それで食べていけるわけじゃないし、続けるにしても金ばかりかかって見返りがない。趣味にしておくにしても、マンション暮らしじゃ隣近所に迷惑だから弾くこともできない。葉山は音大卒だよな?」 「うん、そう」 「だけど卒業したって、せいぜい音大で助手の真似事してる程度なんだろ?結局、音楽で食べていけるなんてほんの一握りの恵まれた人間だけなんだよ。そういうのに気づいたから、さっさと音楽はやめたんだ」 「・・・・」 「普通の一流大学に行って、一流企業に入って、同期の中じゃ一番出世してる。この年齢にしてはけっこうな給料をもらってる。バイオリンは好きだったけど、あのまま続けなくて正解だったよ。好きだからってだけで続けてても何もいいことはなかった」 「・・・・」 白石の言葉には分かる部分もあるけれど、託生の中では上手く消化しきれないものだった。 特別な才能を持つ一握りの人間だけが観客を感動させる演奏をして、それで食べていくことができる。 それは今さら言われなくても嫌というほど分かっていることだし、好きだからというだけで続けていてもしんどいことだってあるだろう。 分かっている。 だけど託生は彼のようにバイオリンを手放すことはできない。 一度はやめようと思ったけれど、だけど結局また手にしてしまった。 「白石くんって外資系の商事会社勤務なんだよね。海外勤務もしたんでしょ?すごいなぁ」 向かい側に座っていた西原が会話に加わった。 「まぁね。英会話ができるってことで選ばれたんだよ。2年間だったけどいい勉強になったよ」 今の自分の環境に不満を抱いていないことはいいことだ。 一流企業に勤めるだなんて、託生にはとてもできそうにもない。 だけど・・・ 「さぁみんな誰かが自慢の腕を披露してくれるのかな」 食事が一通り終わり、デザートを食べる頃になると須田がぐるりと皆を見渡して言った。 半数はもう音楽を続けていないので聞き手に回ることになる。 バイオリンではなくピアノを続けている者が、 「じゃあ一番最初に演奏させてもらおうかな。あとになる方が緊張しそうだし」 と言って立ち上がった。 音楽を続けているといっても本格的に勉強しているものは少なく、趣味の延長で続けている者ばかりだ。 なるべく早めに演奏してしまいたいと思うのもうなづける。 音大時代にそんなことは何度も経験してきている託生にしてみれば、誰のあとに演奏しようが特に問題はない。昔ならなるべく早く終わらせてしまいたいと思ったのだから、成長したなぁとしみじみと思う。 皆、趣味で続けているだけだ謙遜しつつも、もとは須田のレッスンを受けていた者ばかりなので、演奏は素晴らしいものばかりだ。 須田は曲が終わると一言講評をした。 まるで昔のレッスンみたいね、とこそりと耳打ちされ、託生も苦笑した。 それでも須田は、皆の演奏に概ね良かった部分を口にするだけだ。 レッスンではないのだからしょうがないな、とどこか物足りなさそうに言う須田に、みんなが笑った。 「じゃあ次は葉山くんね」 「うん」 バイオリンを手にして立ち上がる。 少人数の中で弾くことに緊張はしないが、昔を知る仲間ばかりという方が緊張を強いられる。 何しろ託生が音大を卒業して、今も音楽を続けていると知っている者ばかりだ。ましてや須田の元で同じように学んでいた仲間ばかりで、昔託生がどんな風に弾いていたかも知られている。 あの頃と比べて少しは成長したと思って貰える演奏がしたい。 託生はふっと肩の力を抜くと、ストラドを肩に当てた。 選んだ曲は、パガニーニの作品だ。 ギイが好きな曲だから、ずいぶん練習をした覚えがある。 バイオリンを弾く時、ただただその音だけを必死に追うけれど、心のどこかにいつもギイがいて、ギイが聞いてくれていると思いながら弾くと音が違って聞こえるのだ。 佐智のように大観衆の前で演奏することも素晴らしいが、託生にとってはギイの前で胸を張って演奏ができるということが何よりも嬉しいことなのだ。 ストラドがギイへの想いを美しい音にして響かせる。 気持ちよく弾き切ると、うっとりと聞いていたその場の皆が大きな拍手を送ってくれた。 「うわぁ、葉山くん、素敵だった。すごいすごい」 「やっぱり音大出とは音が違うよなぁ」 「子供の頃から葉山は努力家だったしなぁ」 「ねぇ、そのバイオリン、すごくいいものじゃないの?」 ストラドだとは言っていなくても、やはり一度は真剣に音楽を志した者だけあって、普通のバイオリンとは違うことをすぐに見抜いたようだった。 ちょっと見せてと言われても、さすがに手渡すことはできないので、託生は友人から借りているストラドなのだと白状した。 「えええっ、ほんとに??」 「すっげぇ、音が違うと思ったんだよな」 その音をコンサートなどで聞くことはあっても、実物を目の当たりにする機会はほとんどないので、みな託生が手にするストラドをため息混じりに眺めた。 演奏家なら一度は弾いてみたいと思うだろう。 「やっぱり楽器がいいと演奏も変わるよな」 白石が軽く肩をすくめて言い捨てる。 「葉山、高校は祠堂だったんだろ?金持ち学校でいい友達を見つけたもんだよな。それだけのいい楽器があればそりゃあ音大にだって入学できただろうさ」 「ちょっと、そういう言い方ないんじゃない?」 諫めるように言った相手に、白石はだってそうだろ、と続けた。 「子供の頃は葉山の腕前はそれほどじゃなかったじゃないか、俺の方がずっと上手だった。もしストラドがあれば、俺だってプロになれたさ。葉山は運が良かったよな。まぁそれでもプロの演奏家にはなれないんだから、ほんと、必死に練習しても無駄だよな」 白石の言葉に何かを返すことなく、託生はストラドをそっとケースに横たえた。 確かにストラドは自分には過ぎた名器だ。ギイから貸してもらえたことだって、とんでもない幸運だったとも思ってる。だけど、音楽を続けてこれたのはそれだけでは無理なのだ。 ストラドを持っていることでへのやっかみは今までだって何度も味わってきているから、そんなことで今さら傷つきはしないけれど、かつて同じようにバイオリンを愛していた人間から、そんな言葉を投げられるのは心が痛んだ。 須田は白石の言葉に対しては何を言うでもなく、託生の演奏に過分な評価をくれた。 全員が須田のために演奏を終えると、須田は全員を見渡して静かに言った。 「みんな素敵な演奏をありがとう。バイオリンを続けている人も離れてしまった人も、少なくとも音楽を愛する気持ちは忘れずにいて欲しい。離れてしまった人は、日々の生活の中で、機会があれば音楽に触れて欲しい。そして今も続けている人は、この場所で一心不乱に練習に励んでいた時の気持ちを忘れずに、これからも自分の音を探し続けて欲しい。音楽は生きていく上で必ずしも必要なものではないかもしれないが、間違いなく人生に彩りを添えてくれるものだからね。それを忘れないでいて欲しい」 須田の言葉にその場にいた全員がうなづいた。 お開きとなったのは夕方近くになってからで、託生は何だか言いようのない気持ちを抱えたまま、ギイの待つ家へと戻った。 「ただいま」 玄関先で声をかけると、奥から愛犬のあんこを抱いたギイが姿を見せた。 「おかえり。どうだった?」 「うん・・・須田先生、元気にされててほっとしたよ」 託生はギイからあんこを受け取ると、くんくんと甘えてくるあんこの頭をひと撫でした。 あんこは嬉しそうに鼻を鳴らす。 「飯は?まだだろ?」 「うん」 「どうした?元気ないじゃないか」 ギイがぎゅっと託生の肩を抱いて、そのままリビングへと向かった。 「あ、カレーの匂いがする」 「ああ。今夜はシーフードカレー。好きだろ?」 「うん。作ってくれたんだ。ありがと、ギイ」 たった今まで仕事でもしていたのか、リビングのテーブルの上には書類が広げられていた。 飲みかけのコーヒーカップ。 たぶんそばで遊んでいたであろうあんこのおもちゃ。 ギイがこだわって購入した古いステレオからは小さく洋楽が流れていて、たった今までここで過ごしていたギイの温もりが残っている。たったそれだけのことなのに託生はほっと安心することができた。 自分が戻ってくるべき場所に戻ってこれたんだなぁと思う。 「託生?何かあったのか?誰かに嫌なこと言われた?」 「え?うーん、ギイって何でそんなに鋭いのかなぁ」 「そりゃお前、大事な恋人のことだしな」 そう言ってギイは託生の頬にキスした。 「カレー温めるから、ちょっと待ってろ」 「うん」 託生はテーブルの上を簡単に片付けて、そのままいつもの席についた。 ギイは2人で暮らすようになってからマメに料理をするようになった。何をするのも器用な質なので、時々凝りすぎてわけのわからないものが出てきたりするけれど、託生にしてみれば何にでも真剣に取り組むギイはすごいなと感心するばかりだ。 「ビール飲むか?」 「ん、ちょっとだけ飲もうかな」 ギイが冷蔵庫から冷えたビールを取り出し、お気に入りのグラスに注いで手渡してくれる。 ほどなくカレーも出来上がり、向かい合っていただきますと手を合わせた。 ギイオリジナルのシーフードカレーはちょっと辛めですごく美味しい。 しばらく空腹も手伝って汗をかきつつ黙々とカレーを食べていたけれど、やっぱり今日の出来事をギイに聞いてもらいたくなって託生はつと視線を上げた。 ギイは無理やり話を聞きだしたりすることはしないから、託生が黙っていればきっとそれ以上追及はしてこないだろう。だけど、いろんなことを分け合いたいし、何よりギイの意見も聞きたかった。 「実はさ、今日集まった人たちと会うのは、本当に20年ぶりくらいだったんだよ」 「ああ」 「音楽を続けている人もそうじゃない人もいて、それはまぁ仕方ないよね。バイオリンを職業にするのってやっぱり難しいし、需要も少ないから」 「それはまぁそうだろうな」 「・・・・」 ギイは空になった皿を脇へと避けると、黙る託生に先を促すように首を傾げた。 「それはある程度予測してたんだけどね」 「何かあったのか?」 うん、と頷いて、託生は白石とのやり取りを話した。 その時感じたことを付け加えることはせず、ただその時のやり取りだけを話した。 ギイは託生の話を最後まで黙って聞いてくれた。 「彼みたいな人は今までもいたし、同じようなことを言われたことだってあるのに、何だかちょっとよく分からないんだけど、もやもやしちゃってさ」 「そりゃそんなこと言われたらもやもやもするだろ。怒ってもいいと思うけどな」 「ん・・・でもぼくよりも彼の方が上手だったのは確かだよ。子供の頃、彼の演奏を聞いて、あんな風に弾きたいなぁって思ったんだよ。だからまさかバイオリンをやめてるなんて思ってなかったから、ちょっと驚いたのもあるんだ」 「やめたくなくても止めざるをえないことだってあるからな。もしかしたら、まだバイオリンに未練があるのかもしれないな。だから今も続けている託生のことが妬ましかったのかもしれない」 「うん・・・」 「だとしても、言っていいことと悪いことはある」 ぴしりと言ってギイが空になった皿を手にキッチンへと戻った。 託生も立ち上がって片付ける手伝いをしようとギイのあとを追った。 軽くシャツの袖を捲って、ギイが皿を洗い、託生がそれを受け取って布巾で拭いた。 ギイは静かに託生へと言葉を続けた。 「そりゃあいろんな事情があって、バイオリンを続けたかったのに続けることができなかったのかもしれない。だけど、そんなことは誰にでも同じようにあることだよ。人生は取捨選択の連続だから。バイオリンを捨てることを選んだのも彼なんだから、たとえそれが不本意なことであっても自分の中で折り合いをつけるべきなんだ。それができないのなら、誰に何と言われてもバイオリンを続けるべきだった」 「うん」 「自分がそうありたかった姿を託生に重ねたのかもしれない。羨ましくて、妬ましいと思ったのかもしれない。だけど、それは口にしてはいけないことだよ。気持ちはわかるけど、自分の中だけで消化していかないといけないこともある」 ギイの言葉に託生はそうだね、とうなづいた。 だけど託生には白石の気持ちも痛いほどに分かるのだ。 自分は運が良かった。 一度はバイオリンを手放して、だけどギイと出会ったことでまた戻ってこれた。 普通の人なら絶対に手にできないようなストラドを弾くことができて、自分のペースで好きな音楽を続けることができる。 それもみんなギイがいるからだ。 「ぼくばっかりが、って思ったのかもしれない」 「うん?」 洗い物をすませ、託生はシンクに背を預けたままギイを見た。 「ぼくも彼も同じようにバイオリンが好きで、ずっと続けたいと思ってた。なのにぼくだけが幸運に恵まれて、今こうして音楽を続けている」 「だから託生は彼に申し訳ないって思ってる?」 「そういうのともちょっと違うんだ。だってぼくは確かに幸運だったけど、だけど音楽を続けていくことでの辛さもちゃんと引き受けてるつもりだよ。だからぼくだけが100%幸せだと思って、彼に申し訳ないって思うことはないんだ」 だけど。 (ぼくは大きくなったら、バイオリニストになるんだ) (すごいねぇ) (世界中で演奏するんだ。大きな舞台で。いっぱい拍手ももらう) (ぼくもなりたい) (葉山はもっと練習しなきゃダメだよ) (練習するよ。頑張る) (じゃあどっちが早くバイオリニストになるか競争だな) (うん・・でも・・・) 須田のレッスンの合間に、白石とそんな話をしたことを思い出した。 あのあと、託生は彼に何と言っただろうか。 ただただバイオリンが好きで、このままずっと練習を続けていればもっと上手くなってバイオリニストになれると、2人とも思っていた。 あの頃は間違いなく同じ場所に立っていたのに、今はこんなにも離れてしまっている。 夢というものは叶わないことの方が多いのだと分かっていたはずなのに、それをあからさまに見せつけられて少し戸惑ってしまったのだ。 「人生ままならないことも多いよな」 ギイが託生の隣で腕を組んでつぶやく。 「手に入らなかったものはどうしても輝いて見える。だけど本当は今自分が手にしているものの方が輝いていて、それが見えないだけなのかもしれない。今の彼のことを、誰かがうらやましく思っているのかもしれない。何が幸せなのかなんて結局その人にしか分からないことだよ。自分にないものを手に入れようと努力することも大切だけど、今あるものに感謝することも大切だよな」 「そうだね」 手に入れることができなかった未来の夢は、やっぱり輝いて見えるのだろうか。 立派な仕事や地位を手に入れても、それだけでは満足できないものなのだろうか。 小さな子供の頃の想いが消えてしまったことへの寂しさ、もどかしさ、いろんな感情がごちゃまぜになってまだ上手く気持ちの整理がつかない。 「まぁそんなことを言いながらも、オレは自分が持ってるものだけじゃ満足できなくて、託生に会いに行ったんだけどな」 ギイがいたずらっぽく笑う。 とっくの昔に大学を卒業していたくせに、祠堂へ留学してきたギイ。 離れてしまってからも、また会えるようにと必死に頑張っていてくれた。 そんな風に、どうしても欲しいものは諦めちゃいけないこともある。 難しいなと思う。 何が自分にとって一番大切なことなのかを見極めるのはやっぱり難しい。 だけど一つだけ分かっていることもある。 こうしてギイと一緒に暮らせることは、少なくとも託生にとっては諦めてはいけないものなのだ。 奇跡のように繋げた絆なのだから。 「あんこの散歩に行くか」 ギイが思いついたように言った。けれどそれが託生の気持ちを変えるためのものだということくらいわかる。 あんこを呼ぶと千切れんばかりに尻尾を振って託生に甘えてきた。 ギイと一緒に表に出ると辺りはすっかり暗くなっていて、住宅街は静けさに包まれていた。 託生の右手にはあんこのリード、左手はギイが握った。 「今日はいい天気だったから、星が綺麗だなぁ」 ギイの言葉に託生は夜空を見上げた。 きらきらと小さく光る粒に、ふいに過去の記憶がじわりと浮き上がった。 (じゃあどっちが早くバイオリニストになるか競争だな) (うん・・でも・・・バイオリニストになるのは難しいから、なれなかったらどうするの?) 託生の言葉に白石が少し考えて言った。 (なれなくてもずっとバイオリンは弾くからいいんだ。誰か一人だけでも聞いてくれるなら、ずっとバイオリンは続けられるだろ) 胸が締め付けられるような思い出の数々に息が苦しくなる。 ああ、そうだったのかと、何かがすとんとあるべき場所におさまったような気がした。 ギイが聞いてくれるなら、有名なバイオリニストになれなくても幸せだと思えるのは、彼のあの言葉が託生の中のどこかにあったからなのだ。 ずっとずっと昔に、自分にとってバイオリンがどういう存在なのかを確かめあった。 それが当たり前になりすぎて、すっかり忘れていた。 「・・・っ」 見上げていた星が涙でぼやけた。 すぐ隣のギイに気づかれないように、託生は何度か瞬きをした。 自分のためにも、彼のためにも泣いてはいけないような気がした。 ぎゅっとギイの手を握り締めると、同じ強さで握り返してくれる。 何も言わなくてもきっとギイは分かっているのだ。 それだけで何かが満たされて、これからも音楽を続けているような気がした。 |