このお話は、
1)ステーションのモヤモヤ感を何とかしたかった。 2)これからもイチャイチャ話を書くために、さっさと2人を元サヤへ。 3)章三を出したかった。(そりゃそうだ!) 4)思いっきりベタな話で。(王道万歳!) 5)株大暴落のギイは最後までヘタレな男で。この先カカア天下決定。 という感じです。 待ち合わせた喫茶店の場所がどうにも分からなくて、同じ場所を何度もぐるぐると歩いて、やっとその店を見つけることができた。 まさか地下にあるなんて思いもしなかった。 章三のやつ、これは絶対わざと選んだに違いない。 ぼくは腕時計を見て、約束の時間から10分も遅れていることに慌てて歩を早めた。 店に入ると、中はオレンジ色のランプの灯りで彩られ、すごく幻想的なその雰囲気に一瞬見惚れてしまった。けれどすぐに我に返り、店内を見渡して、奥のテーブルに座る章三へと近づく。 章三はぼくに気づくと読んでいた雑誌から顔を上げて、よぉと軽く手を上げた。 「ごめんね、遅くなって」 「まったくだ」 「だけど、赤池くんがこんな分かりにくい場所を指定するからいけないんだぞ」 「ちゃんと目印となるものを伝えただろうが、だいたい入口には看板も出てる」 はいはい。どうせぼくは方向音痴ですよ。 席につくとウェイトレスにコーヒーを注文して、やっと一息ついた。 「久しぶりだな、葉山」 「うん、元気にしてた?」 「まぁ受験も無事終わったし、大学が始まるまでの間の束の間の休息ってとこだな」 祠堂を卒業してから、章三と会うのはこれが初めてだった。 音大を受験するために、ぼくは三学期はほとんど学校へは戻らなかった。 必要な時に何度か学校へ戻っても、章三も忙しくしてたり学校にいなかったりで、結局ゆっくり話をすることができないまま、最後に言葉を交わしたのは卒業式だったのだ。 お互いに連絡先を交換し、春休み一度会おうと約束をした。 そして今日、やっと時間を作って会うことができた。 「そうだ、合格おめでとう、葉山」 「あ、ありがとう。って、赤池くんだっておめでとうだろ」 「そうだな、ありがとう」 2人して顔を見合わせて小さく笑う。 ぼくも章三も、志望していた大学に無事入学することができた。 大学はまったく違う場所にあるから、これから先はなかなかゆっくりと会う機会もないかもしれない。 だけど、章三はぼくにとってはすごく大切な友人の一人で、これから先もずっと友達として付き合っていきたいと思っている。 まめに連絡をしなくてはいけないなぁと、ぼくは一人こっそりと決意する。 「葉山は一人暮らしするのか?」 「まだ決めてないんだけど、考えてはいる。赤池くんは自宅から?」 「放っておけない子供がいるんでね」 「はは、お父さんも元気?」 「だから殺しても死なないって」 「またそんなこと言って。でも良かったね。奈美子ちゃんと一緒にいられるし」 章三の幼馴染の奈美子ちゃん。家が隣だし、これからはもっと会うことができるだろう。 ちゃんと告白したのかなぁなんて下世話なことが思い浮かび、だけどそんなこと聞けばまた怒られると分かってるので言わないことにする。 いつもなら奈美子ちゃんのことを言うと露骨に嫌な顔をするくせに、その時の章三はどこか気まずそうな顔をした。 「どうかした?」 ぼくが聞くと、章三は背もたれにもたれて、じっとぼくを見つめた。 「なに?」 「あれから、ギイから連絡あったか?」 突然のギイという単語に、ぼくは一瞬言葉を失った。 もう平気だと思っているのに・・・実際、ギイのことを考えても、おかしな動揺はしなくなってるのに、こんな風に不意打ちに聞かされるとやっぱり気持ちが揺れる。 「・・連絡は・・ないよ」 運ばれてきたコーヒーに口をつけて、その美味しさに微笑む。さすが章三が選ぶ店だけあって美味しいなぁとちょっと幸せな気分になる。 「なにやってんだ、まったく」 それはぼくにではなく、ここにはいない相棒へと吐かれた台詞だ。 突然消えてしまったギイは、もちろん章三にも連絡をしてくることはなく、結局ぼくたちは2人ともあれ以来ギイがどこで何をしているのかまったく分からない状態だった。 あれから5ヶ月。 ギイと過ごした日々は徐々に思い出へと変わり始めていた。 「葉山・・平気なのか?」 「なにが?」 「なにがって、ギイのことだよ」 章三は不機嫌なまま、ぼくを睨む。 「平気・・にならないとだめだろ?」 だって実際、ギイはここにはいない。 その事実を受け入れるほか、ぼくにはできることがない。 松本先生からギイの事情を教えてもらい、それまで知らなかった事実が明るみにでる度、ぼくは何も知ろうとしなかった自分を責めた。 もし、もっとギイのことを知りたいと思っていたら? それをギイにちゃんと言っていれば? そうすれば、こんな風に離れ離れになることはなかったのだろうかと何度も思った。 だけど、そんなことを考えたところでギイが戻ってくるはずもなく、だったら考えるだけ無駄だと気づいて、自分を責めるようなことはやめた。 まずは音大に合格することがその時すべき一番のことだったし、必死にバイオリンの練習をしていればギイのことを考えなくてもすんだ。 けれどそれはギイを忘れたわけではない。 むしろ逆だ。 「もっと落ち込んでるかと思った」 章三はどこか不思議そうにつぶやいた。 「うーん、落ち込んでる暇なかったよ。あんまりにも突然だったらさ」 「まぁな。けど、あんな風にいなくなったまま、何の連絡もないなんて、あいつらしくないから」 「うん、そうだね」 「だから・・・」 めずらしく章三が言いよどむ。 ぼくはそこで、ああと気がついた。 「赤池くん、ぼくがギイに振られたと思って、こうやって呼び出してくれたの?大丈夫かなーって?」 「・・・まぁな」 ぼくは思わず笑ってしまった。 ほんと、章三は昔から友達思いで、優しい人だ。 確かに今のこの状況を他人が見れば、100人が100人、ぼくはギイに振られたと思うだろう。 突然、姿を消して何の連絡もしてこない恋人なんて、そりゃ普通で考えればそうなるだろう。 「だけど、たぶん、何か理由があるんだよ」 「理由?どんな?」 「それは、分からないけど・・・」 「こんな風に自分勝手に姿を消す理由があるなら聞きたいね。何の連絡もしてこないなんて、おかしいだろ?葉山はもっと怒っていいはずだ、少なくとも、お前にはそうする権利がある」 章三が言うこともなるほどと思えた。 実際、祠堂からギイが消えたあと、ことあるごとに友人たちから『どうしてもっと怒らない』と詰め寄られた。 そこまでギイのことを好きじゃなかったのか、と高林には激怒された。 「だって赤池くん、ぼくが怒る前に、周りのみんなが怒ってたから、怒る暇がなかったんだよ。だいたい怒る相手がここにはいない」 「・・・・お前、それでいいのか?このままギイと終わっちまっても?」 「赤池くん、ぼくとギイのこと反対だったんじゃないの?」 思わず笑うと、章三はむっと唇を尖らせた。 しばらく2人とも無言でコーヒーを口にした。 「ねぇ赤池くん、3年になった時、ギイは急にぼくと距離を置こうとしただろ?覚えてる?」 「忘れるはずないだろ」 「うん。あの時もさ、すごく突然で、何の説明もなくて、ぼくは何がなんだか分からなくて戸惑って、あげくには嫌悪症が再発して。だけど、それはギイがぼくのためにそうしてくれたことだっただろう?」 ギイに取り入ろうとする1年のチェック組から、ぼくを守るためにギイが選択したこと。 それが正しかったのか間違っていたのかは分からないけれど。 「ギイ、何でも自分ひとりで決めちゃって、ぼくにはそういうの教えてくれないけど、でも、結局ギイがすることで全部ぼくのためだったんだな、ってあとから気づくんだよ」 「葉山・・・」 章三は何か言いたそうに身を乗りだす。ぼくは彼が言う前に話を続けた。 「だからね、今回のことも、同じなんじゃないかなって」 「何の連絡もしてこないことが?あいつがその気になれば連絡くらい・・・」 「うん。だから連絡してこないのは、ギイがそうしてるんだよ。誰かに無理強いされてるんじゃない。ギイが自分の意志でぼくに連絡をしてこないんだと思う」 「・・・っ」 「ギイから連絡が来ないのは、重要な何かがあるんだと思う。何か、は分からないけどね」 「で?その重要な何かのせいで、このまま別れても仕方がないって思ってるのか?」 ぼくは緩く首を横に振った。 そして、顔をあげて彼を真っ直ぐに見据えた。 「赤池くん、ぼくはニューヨークに行こうと思ってる」 「え?」 いつも冷静で物事に動じないはずの章三が、その時は本当にびっくりした顔をしたので笑ってしまった。 「あ、もちろん今すぐにじゃないよ?大学にね、交換留学生の制度があって留学先の一つにニューヨークがあるんだよ。それに応募したいと思ってる」 「葉山、お前・・・」 章三は大きく身を乗り出すと、拳でどんっとテーブルを叩いた。 「いいかっ、どんな理由があるにしろ、あのギイが・・・お前のことをあれほど大切に思っていたギイが、連絡してこないってことがどういうことか考えてみろ。ニューヨークに行っても、あいつに会える確証はない。会いたくないって思ってるかもしれない。どうしてもう終わったんだって思えない?」 終わったという言葉はじわりとぼくの胸を締め上げる。 ほんと、章三は容赦がない。 「赤池くん、ぼくたちのこと反対してるの?それとも応援してるの?どっちだよ」 「知るかっ」 珍しく口汚く吐き捨てて、章三は深く椅子に沈み込んだ。 たぶん、章三も混乱してるのだ。 相棒だと思っていたギイから何の連絡がないのはぼくと同じで、だからそりゃあ気持ちが傷つくのも理解できる。だけど。 「赤池くん、ぼくはね、ギイのことを信じようって決めたんだよ」 「・・・・?」 「ギイから告白されて、付き合い始めた頃、ぼくにはギイにどうしても言えないことがあって、ずっとそのことで悩んでたんだ。それを知られたら、ギイに嫌われるんじゃないかって思って、打ち明けることができなかった。だけどギイにそのことを話したら、ギイはそれまでと何も変わることなく、ぼくのことを好きだと言ってくれた。そのギイの言葉に嘘はなくて、どんなぼくでもあっても目を逸らすことなく、逃げることなく愛してくれた。それがギイの愛し方なんだと思った。ぼくはね、そんなギイのことを信じようって、その時決めたんだ。何があってもギイの「愛してる」という言葉とギイ自身を信じようって。ぼくにとって、誰かを愛するってことは、その人を最後まで信じるってことなんだ」 ぼくにはそれしかできなかった。 信じることがぼくにとってのギイへの愛の形だった。 「ギイは、ぼくにたくさんの言葉をくれた。未来の約束も数え切れないくらいしてきた。今思い返しても、そんなすべてが嘘だったなんてどうしても思えない。たとえ何があったとしても、ギイはこんな形で終わりにするような人じゃない。もし、本当にギイがぼくとのことを終わりにしたいと思っているなら、ぼくはそれをギイの口からちゃんと聞きたい。何を言われてもいい。嫌いになったんだって言われても、飽きたんだって言われてもいいんだ。百年の恋だって醒める瞬間はあるものね。それならそれでいいんだよ。だけどその言葉をギイの口から聞くまでは、ぼくはギイのことを信じるよ」 「葉山・・・・」 「少なくとも・・・祠堂にいたあの時間、一緒に過ごしたあの時間・・ギイはちゃんとぼくのことを愛してくれていた。今ぼくが、ギイのことを信じなければ、ギイがくれたすべての愛情がなくなってしまうことになる。そんなことにはしたくないんだ」 あの最後の日。 屋上で、青い空を背景にしたギイとキスをした。 (オレは、託生を、愛しています) あの言葉のいったいどこに嘘を見つければいいというのだ。 だからここでギイのことを諦めてしまうわけにはいかない。 ギイが連絡してこないのなら、ぼくが会いに行こう。 3年前、ギイがぼくに会うために海を渡ってくれたように、今度はぼくがギイのために海を渡る。 不安がないといえば嘘になる。 けれど、大丈夫。 ギイからの言葉があるから、ぼくはひとりでも大丈夫。 「葉山・・・すごくカッコいい台詞だとは思うけどな」 章三がやれやれというように肩を落として、ポケットからハンカチを取り出してぼくへと差し出す。 あれ? 何でハンカチ? 「そんな子供みたいに泣きながら言うな。・・・応援したくなるだろ」 「え・・・?」 思わず頬に手をやって、頬が濡れていることに気づいた。 瞬きをすると、ぱたぱたと涙が零れ落ちた。 瞼の裏が熱い。 ギイがいなくなって、うっかり三洲の前で泣いてしまったことはあったけど、それ以来泣いたことなんてなかったのに。章三はさっきよりずっと穏やかな口調でぼくに言った。 「もういいよ。たぶん、葉山はそう言うんじゃないかって、ほんとはちょっと思ってた」 章三から借りたハンカチで涙を拭い、ぼくはしゃくりあげそうになる息を必死で整える。 「馬鹿みたいにギイのこと信じてる葉山のこと、嫌いじゃないからさ。僕にとって、ギイは確かに大事な相棒だけどな、葉山のことだって大切な友人だと思ってるんだ。ギイが自分の意志で連絡してこないのかそれとも連絡したいのにできないのかは分からないけどな、どっちにしても、あいつは一度決めたことは滅多なことじゃ翻したりしない。葉山が何をしたところで、事態は変わらないかもしれないぞ。どうしようもないことに体当たりして葉山が傷つくのを、僕は見たくはない」 章三が心からぼくのことを心配していてくれることに、胸が熱くなる。 「ありがとう、赤池くん。確かにどうにもならない事態なのかもしれないね」 それは誰よりもよく分かっていた。ぼくだって伊達に2年もギイの恋人だったわけじゃないのだ。 ギイがどういう人なのかくらい、ちゃんと分かっている。 「だけど、だから何もしないっていうのは違うと思うんだ」 「・・・・」 「どうにもならないことだからこそ、動かなきゃだめなんだ。動かないでどうにかなることなら、ぼくだって黙って待ってるよ。その方が楽だってことくらい分かってる。今までそうやってギイがどうにかしてくれてた。ギイが運命の人なのだとしたら、もしかしたら何もしなくてもそのうち会えるのかもしれない。だけど、自分で運命を変える必要がある時に、黙って待ってるのは間違ってるよね。たとえ傷ついたとしても、やることやった結果なら、ぼくは泣いたりしないよ」 「ああ」 「もし本当にダメだったら、赤池くん呼び出して暴れるかもしれないけど」 「はは、その時はとことん付き合ってやるよ」 「赤池くん・・・」 ありがとう、と言うと、章三はどこかすっきりした表情を見せた。 ぼくの気持ちがちゃんと伝わったんだと思えて、ぼくもまた気持ちが楽になり、そしてきっともう迷うことはないだろうと思えた。 「ちゃんとギイに会えるといいな」 「うん」 「会ったら、思いっきり殴っていいからな」 「何それ」 「文句いっぱい言って、殴って、蹴飛ばして。それくらいしたって罰は当たらない」 もしかして、それは章三がギイにしたいことなんじゃないだろうか? それをぼくにさせるつもりなのか?ひどいなぁ。 「留学、できるといいな」 「頑張るよ」 ぼくは笑ってうなづいた。 大学が始まると、毎日が新鮮な驚きでいっぱいだった。 どっぷりと音楽のことを考えて、バイオリンの練習に打ち込むことができる環境はある意味天国のようにも思えた。 新しくできた友達と、尊敬する教授と音楽の話をする。 まだまだ未熟な技術を磨いていく。少しづつ、少しづつ、理想の音に近づけるように何度も繰り返す。 ギイがいなくても、こんな風に日常は過ぎていく。 まるで祠堂でギイと過ごした時間は夢だったんじゃないかと思うことがあって、そんな時、ぼくは唯一手元に残った携帯電話を手に取った。 ギイからのメールがこの中にある。 彼がいた、それは夢ではなかったという証拠。 けれどいろいろ調べてみても、電源が入ることはなくて、携帯を使ってギイと連絡を取ることなんてできないってことは十分わかっていたけれど、何となく習慣のように、ある時期がくると、ぼくは携帯を充電してみたりした。 そんなことで繋がるとは思ってないけれど、もし万が一ギイから連絡があったときに、電池切れだったなんてことになったら、ギイに何を言われるか分かったものじゃない。 まるでギイへの愛情を充電してるみたいじゃないか、なんて恥ずかしいことを思ったりして、自分で笑ってしまうこともあった。 大学生活1年目は、さすがに交換留学に応募するほどぼくも無謀ではなく、2年目に応募してみようと決めていた。応募人数は本当に僅かで、その枠に入るには相当な努力が必要だった。何しろ周りにいる人はみな優秀な人ばかりだ。 来る日も来る日も、ぼくはひたすらにバイオリンを弾いて過ごした。 時折、学部は違うものの祠堂から唯一一緒に入学をした政貴とランチをしたり、雅彦さんと会ったり。 そして本当は何とか逃れようと思っていた苦手な苦手な英語の勉強も始めた。 それはぼくには必要なことだったから。こんなことなら、ギイがいるうちにもうちょっと教えてもらっておけば良かったな、なんて今さらのような後悔もした。 同じバイオリン科に留学してきていたアメリカ人留学生とちょっとしたことで親しくなり、ぼくは彼から週に1度英会話を教えてもらえるようになった。 交換条件はぼくが彼に日本語を教えること。といっても、彼はけっこう流暢に日本語を話せたので、それでなくても日本語が不自由だとギイからさんざん笑われていたぼくが彼に教えられることなんて限られてはいたのだけれど。 ギイがいなくても、ぼくと佐智さんとの交流は続いていて、ぼくが留学を目指していると知ると、佐智さんは快くぼくの指導をかって出てくれたのだ。 プロの佐智さんにそんなことをお願いするのは申し訳ないと、以前のぼくならそう思って遠慮したと思う。でも、どうしてもこのチャンスを逃すわけにはいかなくて、ぼくは彼に頭を下げて教えてを請うた。 ギイがどうしているか、佐智さんも詳しいことは知らないと言う。 けれど、元気でいるということは間違いないからと聞き、ぼくはそれだけで安心できた。 少なくとも、この地球上のどこかに、ギイはいるのだ。 だとすれば、会えないことなんて絶対にない。 2年近く音信普通の恋人のために、血の滲むような努力をして、会えるかどうかも分からないのに海外へ留学をしようとしている自分はいったい何なんだろうと思うこともあった。 けれど、最初はギイに会うのが目的だった留学は、やがてぼく自身がさらに音楽を勉強するために必要なことなのだと思うようになり、どうしても合格したいと願うようになった。 1年はあっという間に過ぎ、2年目、ぼくは勇気を振り絞って交換留学に応募した。 自信はあった。 これでだめならまた来年と思っていたのだけれど、何とかぎりぎり、ぼくはニューヨーク行きの切符を手にすることができた。 ニューヨークへ来るのは二度目だというのに、まるで初めて来る地のような気がした。 ギイの住むペントハウスの場所はもちろん覚えていて、ぼくは彼を訪ねてみたのだけれど、そこにはもう住んでいないと言われた。 当然、新しい住所など教えてもらえるはずもなく、正直、ぼくはがっかりと意気消沈してしまった。 何となく、ここへ来れば簡単にギイに会えるような気がしていたのだ。 「甘かったよな」 けれど、世の中そんなに甘くはないってことも重々分かっている。 それに、ここへ来たのはギイのためだけではないのだから、ぼくは自分のやるべきことをちゃんとやらなくてはならない。 学校が始まるまで、1週間ほどの準備期間があった。 生活に必要なものを揃えたり、学校へ提出する資料を作ったり。 まだ完璧ではないものの、英語も多少は分かるようになっていたので、こればかりは早くから勉強していた自分を褒めてあげたいと思った。 「えーっと、あとのダンボールはすぐには使わないから、開けるのはまたあとでいいかな」 後片付けに疲れたぼくはベッドに横になると、目を閉じた。 昔のぼくなら、異国の地で一人きりですべてのことをしなくてはいけない状況に進んで飛び込もうなんて絶対に思わなかった。 (託生は、無鉄砲なところあるからなぁ) 笑って、そうぼくを評したギイ。 うん、そうかもしれない。 自分でも呆れるくらいに、未知の世界へ飛び込むことへの躊躇はなかった。怖いとは思う。 けれど、知らないことを知ってゆくという楽しみがあるということを、ぼくはもう知っている。 好奇心の塊のようだったギイの影響が、少しでもあるのだとしたら、それは喜ばしいことだ。 だって、そのおかげで、ギイを追いかけてくることができたのだから。 「あ、そうだ」 ぼくは起き上がって、カバンの中から件の携帯電話を取り出し、充電するためにコンセントを探した。 もうすっかり習慣になっている意味のないこと。 でもたったこれだけのことでも、ぼくは不思議と安心できるのだ。 何の気なしに、充電器をコンセントにさして、ぼくは携帯電話を机の上に置こうとした。 その時、視界の端にちらりと光が入った。 「え・・・」 いつも何の反応もしない携帯電話の充電マークが光っていた。 ぼくは信じられなくて、震える手で口元を押さえた。 しばらくじっとその光を見つめる。 心臓が高鳴って、どうしようもなく指先が冷たくなっていく。 恐る恐る、ぼくは携帯電話を手に取った。 そっと側面にある電源ボタンを押してみる。 すると、今までうんともすんとも言わなかった画面が、ぱぁっと眩しい光を放った。 「嘘・・・」 どうして電源が入ったのだろうか。 ぼくは大きく深呼吸すると、メールBOXを開けてみた。 すると、そこには大量の未読メールが入っていた。 差出人はギイ。 「・・・・・っ!」 泣き出しそうになるのを必死に堪えて、一番上のメールを開けてみる。 『明日、約束の場所で』 次のメールも。その次のメールも。どれも同じ言葉が入っていた。 日付はいろいろだった。二日と続くこともあれば、1ヶ月も空くこともある。 「ギイ・・・・っ」 何が何だか分からなくて。ただただ、そこにあるギイからのメッセージを見つめるしかできない。 一番新しいメールの日付は昨日だった。 昨日・・・ってことは、明日っていうのは今日のこと? ぼくは弾かれたように振り返った。 壁にかけた時計で時間を確認するともう夕方になろうという時刻だ。 慌てて上着と鍵を手にして、部屋を飛び出した。 ニューヨークで約束の場所といえば自然史博物館しかない。そこは、ぼくとギイにとっては特別な場所だから。記憶を無くしたぼくが再びギイとめぐり合えた場所。 (ギイ・・・っ) 間に合うだろうか。 本当にギイはそこにいるのだろうか。 心臓の音が耳のそばで聞こえるほどで、ぼくは何度か足がもつれて転びそうになりながらも必死で自然史博物館を目指した。 閉館まであとわずかという時間に、何とか滑り込むことができた。 まだ中にはたくさんの人がいて、皆楽しそうに展示物を見ている。 ぼくは真っ直ぐにクジラのフロアを目指した。 懐かしい場所。あの頃とちっとも変わらず、薄闇の中に巨大なクジラが現れる。 ぼくは、あの時ギイが座っていたベンチを探した。 そこには誰も座っていなかった。 近づいてあたりを見渡しても誰もいない。 「間に合わなかった?」 身体から力が抜ける。すとんとベンチに座って、ぼくは大きく息を吐いた。 またすれ違ってしまった。 それとも、あれは何の意味もないメッセージだったのだろうか。 そんなことはない。ギイは、意味のないことなどしない人だ。 ぼくは立ち上がって、フロアの中をギイの姿を探して歩いた。何しろアメリカ人は背が高くギイと同じような体格の人がたくさんいるから見逃したんじゃないかと思ったのだ。 けれど、よく考えると、ぼくがギイのことを見逃すなんてことありはしないのだ。 どこにいたって、ギイのことを見つけ出す自信がある。 ぼくにとってギイは特別な人なのだ。 「やっぱりいない、か」 はぁとため息をついて、頭上のクジラを見上げた。 (腕の中に恋人が欲しくなるよ) うん、分かるよ。ギイ。だってぼくは今、きみにとても会いたいと思っている。 何度も何度も、同じメッセージを送ってくれているということは、きっとまたいつかメッセージは届くだろう。 いや、返信すればいいんだ。ぼくはここにいるよって。 そうしたらすれ違うこともなく、ギイとは会えるじゃないか。 ぼくは慌ててポケットから携帯を取り出すと、ギイへ向けてメッセージを入力しようとした。 その時、ふわりと背後から抱きすくめられて息が止まった。 「・・・・っ」 温かい体温、大好きだった花の香り。 (どうしよう・・・・) 振り向くことができない。 そこにいるのが誰なのか確かめることが怖くて、動けない。声も出せない。 ぼくが動けないでいると、さらに強く抱きしめられた。 たまらなくなって、ぼくは胸の前に回された腕を力いっぱい引き剥がすと、その温もりから逃げ出した。 一歩踏み出して振り返る。 見上げると、そこにはギイがいた。 ぼくが知っているギイよりも、ずっと大人っぽくなって、彼の腕から逃げ出したぼくを呆然と見つめている。 鼓動が早くなり、息が苦しくなる。 ああ、この人は相変わらず綺麗だなとぼんやりと思った。 あんなに会いたかった人が目の前にいるというのに、どうしたらいいのか分からない。 ギイもそんなぼくに何を言うでもなく、ただ立ち尽くしていた。 先に動いたのはギイだった。 長い腕が伸ばされてぼくの身体はあっけなく彼の胸へと抱きこまれた。 「・・・・・っ!」 簡単に抱かれてしまうのが悔しくて逃げようとするぼくを、ギイは許さない。 もがくぼくを何度も何度抱きすくめる。やがてぼくは抵抗することをやめて力を抜いた。 (ギイだ・・・・) ぼくを抱きしめているのはギイだ。 会いたくて会いたくて、ぼくは彼に会うためにここへ来た。 「託生・・・」 耳元でぼくを呼ぶ声は震えていた。 ぼくはゆっくりと両手を彼の背中へと回し、ぎゅっと抱きしめた。 クジラを見上げるベンチに2人して腰掛けた。 指と指とを絡めた手の温もりがまだ信じられなくて、ぼくは黙ってクジラを見上げる人々を眺めていた。 言いたいことも聞きたいこともいっぱいあったはずなのに、ぼくは何も言えなくて黙っていた。 ギイもそんなぼくに何を言うでもなく黙っている。 そんな風にどれくらいそうしていたか。やがてギイがぽつりとつぶやいた。 「オレに言いたいこと、あるだろう?」 ぼくの手を握る力が強くなる。 ぼくは前を向いたまま、うん、とうなづいた。 どうして急に消えてしまったのか。 どうして連絡をくれなかったのか。 どうして、と言い出せばキリがない。 だけど何を言えばいいのだろう。こうしてギイがいるというだけで、もう胸がいっぱいで何も考えられなくなっているというのに。 「何から聞けばいいか分からない」 「そうだよな」 「・・・元気?」 「元気だよ。託生も元気そうだ」 2年ぶりの再会だというのに、何だろうこの馬鹿みたいな会話。そう思ったらちょっと笑えた。 そしたら気持ちに少し余裕ができた。 「ギイのこと、追いかけてきたよ。5年前、ギイがそうしてくれたみたいに、今度はぼくがギイのことを追いかけてきた」 「・・・・」 「迷惑なのかもしれないって思ったけど、だけど、どうしてもギイから・・・ギイの口からギイの気持ちを聞きたくて、ぼくはここへやってきた」 ぼくはギイへと身体を向けた。うつむいたままだったギイが、同じようにぼくへと向き直る。 まっすぐに彼の薄茶の瞳を見つめて、たった一つ、聞きたかったことを口にした。 「ギイ、聞いてもいい?」 「何でも」 「ぼくのこと、まだ好き?」 ギイは大きく目を見開いて、泣きそうな表情を見せた。 初めてぼくを見初めた時のように、5年前ぼくを追いかけて祠堂へ来てくれた時のように。 きみはまだぼくのことを愛してくれている? ギイはぼくの首筋に手を置いて引き寄せるとこつんと額をくっつけた。 「・・・・何でそんなことしか聞かないんだよ」 「・・・・」 「あの時も、何でも答えるって言ったのに、お前は・・・」 苦しげに言って、ギイは目を閉じる。 だってギイ。 過去がどうでも、未来がどうでも、ギイの気持ちが今ぼくになければ、ぼくはここにいる意味がない。 だとしたら、ぼくが聞くべきことはこれしかないだろう? 「教えて、ギイ」 「・・・・愛しているよ。初めて会った時からずっと好きだった。託生のことしか愛してない」 ギイの頬をつぅっと涙が一筋流れた。 馬鹿ギイ。 泣きたいのはこっちだって言うんだ。 あんな風に置いてけぼりにされて、連絡のひとつも寄こさないで、会ったら会ったで愛してるなんて当たり前のように口にして。 自分勝手で我侭で、何でも一人で完結しちゃって。 共犯者になってくれなんて言ったくせに、荷物の一つもぼくによこさないなんてどういう了見だろう。 こんな恋人のことを、ずっとずっと好きでいられるぼくもまた馬鹿だなぁと思ってしまう。 ぼくは顔を上げると、ギイの瞼に口づけた。 ごめん、とつぶやくギイはまるで小さな子供のようで、ぼくはもうどうしようもないほどの愛しさが込み上げてきて、彼のことを抱きしめるしかできなかった。 柔らかな髪に頬を寄せる。 ギイだ。 ぼくの腕の中にいるのは、ぼくが愛した唯一の人だ。 「最初から2年の期限つきだったんだ」 涙を流してしまったことが照れくさいのか、ギイはどこか怒ったような口調で言った。 ぼくは逆にそんな彼を見てしまったせいか、妙に落ち着いた気持ちになっていた。 「知ってる。松本先生が教えてくれたよ」 「そっか。いつか言わなくちゃいけないって思ってた。だけど、言えなかった。今思えば、目の前の幸せに夢中になりすぎて、もっと早くに片付けないといけないことがあったのに、何とかなるだろうって簡単に考えてた」 「片付けないといけないこと?」 「オレが託生のそばにいられるように、もっと上手く立ち回るべきだった」 誰を相手に? 何を相手に? 聞いてしまうとまたギイがいなくなりそうで、ぼくは尋ねることができなかった。 「ごめんな、まだ全部は教えてはやれないんだ。だけど、いつかちゃんと話す。約束する。だから、信じてくれないか」 「・・・・文句いっぱい言って、殴って、蹴飛ばして」 「え?」 「赤池くんが、ギイにあったらそうしろって。何の連絡もしてこないギイに、それくらいしても罰は当たらないって言われた」 ああ、とギイは困ったように上を仰ぐ。 「うん、そうだよな。この期に及んでまだ何も話せないなんていう恋人のこと、信じてくれなんて言えないよな」 「・・・・ぼくはすべてを聞きたいなんて思ってないよ?」 言うと、ギイは不思議そうにぼくを見た。 「あの時、ギイに何があったのかなんて、もういいんだ。たぶん、ぼくには分からない何かがあって、ギイはそうしたんだろう?本当はけっこう傷ついたし、苦しい思いもした。だけど、ギイのことを信じなかったことは一度もないよ?ぼくには、それしかできないから」 「託生・・」 「ギイと過ごした祠堂での時間があったから、ぼくは何とかやってこれた。音大へ入って、留学までできた。きっかけはギイだったけど、ぼくがここにいるのはぼく自身のためでもあるんだ。だからギイ、そんなに自分を責めなくていいんだよ。だってこうしてまた会えたんだから」 ギイはまた少し泣きそうな顔をして、そしてそっとぼくに口づけた。 フロアにはまだ人もいるけど、ぼくは拒むことなくそれを受け入れた。 それだけで、どうしようもなくギイへの思いがあふれ出す。 「だけどギイ、赤池くんもすごく心配してたんだよ。めちゃくちゃ怒って、もうギイとは絶交だなんて言って」 「絶交って、おい」 「赤池くんは、誰よりぼくたちのことを心配してくれた」 「・・・ああ」 「ギイの大事な相棒だろ?ちゃんと大切にしないと、本当に絶交されちゃうよ」 「それは・・・困るな」 ギイはほんの少し笑った。 人の少なくなったフロアの片隅で、ぼくたちは相変わらずベンチに座って、薄闇の中手を繋いでいた。 「あ、そうだ、ギイからもらった携帯なんだけど、日本にいた時は全然動かなかったのに、ニューヨークにきたら電源が入ったんだよ」 どうしてかな、と首を傾げると、ギイは軽く肩をすくめた。 「ああ、あれ、もう日本じや使えなくなってるんだよ。でもここじゃまだ使える。託生、捨てずに持っててくれたんだな」 「ギイこそ、使えない携帯にどうしてメールなんて」 「もし・・もしも託生がオレのことずっと好きでいてくれたら、いつか届くことがあるかもしれないなんて馬鹿なこと考えてさ」 ギイは自然史博物館に行けそうな時に、あのメールを入れては、足を運んでいたという。 メールをしても行けなくなることもあったというから、今日こうして会えたのは本当に奇跡のようなことだ。 ギイはこんな馬鹿げたことをぼくに会えるまでずっと続けるつもりだったのだろうか。 「託生」 「うん?」 「愛してる相手に何も言えないような男、嫌にならないか?」 「・・・」 「こんなオレのこと、嫌いになったか?託生に愛されるような価値、オレにはないよな」 それは昔、ぼくがギイに言った言葉だ。 兄とのことを打ち明けたあと、どうしても聞かずにはいられなかった。 今度はそれをギイがぼくに聞くんだね。 いつもの自信家のギイはどこにもいなくて、不安に満ちた表情でぼくの返事を待っている。 ぼくはそっとギイの頬を両手で包みこんだ。 「ぼく、愛してるって言わなかった?」 「・・・・っ」 「ギイって案外、人を見る目がないんだなぁ」 こんなことくらいでギイを嫌いになったりしないよ。 恋人同士だからって、全てを打ち明けないといけないなんて思わない。 だけど、ギイ、自分に嘘はつかないで欲しい。 だってぼくたちは共犯者なんだから。 一蓮托生、何があっても繋いだ手を離したりはしないよ。 ねぇギイ、ぼくはこれからもきみのそばにいられるのかな? これからもお互いを大切に思えるのかな? これからの長い長い人生を一緒に歩いていけるのかな? たぶんまだ、ギイが抱えている問題は解決していないのだろう。 きっと今日会えたのは本当に偶然であって、ぼくたちの間の問題も障害もすべてがなくなった結果だなんて思うほどぼくだって子供じゃない。 むしろ、こうして再会してしまったことで、また新たな問題が生まれてしまうのかもしれない。 それでも、もう離れてしまうのは嫌だ。 「話、聞いてくれるか?託生」 すべてを話すことはできないけれど、託生に聞いて欲しいことがあるんだ、とギイが言う。 ぼくにもギイに聞いて欲しいことがある。 会えなかった2年の出来事を、ぼくがどんな風に過ごしていたかを、どんな風にギイのことを思っていたかを、ちゃんときみに伝えたい。 「実はあの時オレさ・・・」 ギイの声が耳に心地いい。 もう一度、こうして手を繋ぐことができてよかった。 ここはぼくたちがはぐれてしまっても、もう一度やり直すことができる場所。 2人の時間がまた動き出す。 |