このお話は、
1)ステーション後に再会を果たしたお話「5年目」「恋する瞬間」の続きです。 2)一応、件のツイをひそりとベースに。 3)何だかもう普通のラブ話になってます。 という感じです。 とんとん、と小さなノックが聞こえた気がして、ぼくはヘッドフォンを外した。 ここは音大生ばかりが住むハイツなので、普通のハイツよりは防音がしっかりしているのだけれど、さすがに夜になると皆周りに気を使って楽器は鳴らさない。ぼくも音楽を聴くのにはヘッドフォンを使っている。 今もかなり集中して大学の課題曲を聴いていたから、普通なら外の音なんて聞こえないはずなのに・・・ 「気のせい?」 うんともすんとも言わない玄関の扉を見つめていたけれど、やっぱり気になって立ち上がった。 鍵は開けずに外の様子をそっと伺う。 NYほどではないけれど、日本だって最近は物騒なので、そうそう簡単に扉を開けたりはしない。 いくらぼくが男であっても、そんな無用心なことはしないのだ。 覗き窓から確認しようと顔を寄せてみる。 小さな窓のその先にいたのはギイだった。 「ギイ!?」 ぼくは一瞬顔を離して、もう一度覗き窓から見てしまった。 やっぱりそこにはギイがいる。 ぼくは慌てて鍵を外して扉を開けた。 「ギイっ?」 「よ、託生」 夢でも何でもなく、目の前には本当にギイがいた。 アメリカにいるはずのギイ。 もしアメリカから来たのだとしたら、とてもそうは見えないような身軽な格好だ。 荷物は小さなバッグが一つ。それ以外何もない。 唖然と立ちすくむぼくに、ギイはおーいと目の前で手を振った。 「託生、大丈夫か?もしかして寝ぼけてるのか?」 本当に寝ぼけてるのかと思ってしまうくらい、ぼくはまじまじとギイを見つめてしまった。 立ち尽くすぼくに「お邪魔します」とさらりと言って、勝手知ったる何とやらで、ぼくの横をすり抜けて部屋へと入っていく。 まだ呆然としていたぼくは我に返って、ギイのあとを追った。 「ちょっと、ギイ。待って」 ぼくはまだ何が何だか分からなくて、混乱していた。 ギイは珍しそうに部屋の中を見渡している。 ここは典型的な学生向けハイツだ。入ってすぐにキッチンがある小さなワンルーム。 トイレとお風呂は別だけれど、玄関から一歩入ればそれだけでもう部屋全体が丸見えだ。 中にあるのはベッドとテレビ、食卓代わりのテーブル。大きな家具といえばそれくらいで、物が少ないおかげで広く見えるけど、本当に小さな小さな部屋なのだ。 ギイがそんなにじっくりと見るほどのものではないはずなのに・・・ 「ここが託生の部屋かぁ」 「あの・・・ギイ?」 「結局、お前、実家の部屋は見せてくれなかったもんな」 「だから、あの・・・ギイ」 「まさかいろんなヤツがもうここに遊びにきてるんじゃないだろうな」 ぼくは話を聞こうとしないギイの頭を叩いた。 「いてっ」 「もう、ぼくの話を聞けよっ」 とは言うももの、ぼくだって何から聞けばいいのか整理ができていなかった。 高校三年生の文化祭を最後に、ギイはぼくたちの前から姿を消した。 一言の説明もなく、一言の約束もなく消えてしまったギイを追って、ぼくはその2年後に交換留学という形でNYへ渡った。 奇跡的にギイと再会して、お互いの気持ちが変わっていないことを確かめあって、ぼくたちはまた最初から恋を始めた。 ギイは突然いなくなった理由や、今何をしているのかをすべて話すことはできないと言いながらも、2年が経過して少しは自由になったんだと言って、ぼくにメールや電話をくれるようになった。 会えるのは本当にたまにだったけれど、ぼくはぼくで大学が忙しかったから、不満に思うことはなかった。 ギイが元気でいるのか生きているのかさえも分からなかった2年間に比べれば、ちゃんとメールもあって、声も聞けて、気持ちが通じ合っていると分かっているだけで十分だった。 ギイの都合で、次に会える日は約束できない状況ではあったけれど、突然連絡があって会えることもあった。そんなサプライズはぼくには嬉しいことで、単純だなぁと思うけれど、好きな人に会えるというのはやっぱり素直に喜べた。 お互いに自分の生活があって、やるべきことがあって、それでも時間を作って会えるのが・・・会いたいと思えることが嬉しかった。 どういう理由かは分からないけれど、ペントハウスにもまだ戻れないんだ、というギイはNYにいる時はホテルを使っていて、ぼくは学生寮に入っていたので、たまにギイとデートする時はギイとそのホテルに泊まることが多かった。 どうしてペントハウスに戻れないかは教えてくれなかったけれど、だからといってけっこういい値段のするホテルに泊まるなんて贅沢だなぁと渋い顔をするぼくに、ギイは、 「毎日きりきり働いているオレにこれくらいのご褒美くれたっていいだろ?」 と拗ねてみせた。 結局、ギイがぼくの知らないところで何をしているのかさっぱり分からないまま、ぼくは1年の留学期間を終えることになった。 最初から1年という期限つきだった。音楽を学ぶには決して十分とは言えない時間だったけれど、朝から晩まで、みっちりと好きな音楽だけを勉強をすることができた。 もっともっとここで学ぶべきことはあったけれど、タイムリミットだった。 日本へ帰らなくてはならないぼくに、ギイは言った。 「あとちょっとだけ、オレのこと、待っててくれるか?」 ぼくはその言葉に小さく笑った。 「ギイのあとちょっとってどれくらいなのかな」 「あー、そうだな・・・いや、本当にあとちょっと。今やってること、本当は2年で終わるはずだったんだ。それがちょっと延びててさ、もうオレは手を引いてもいいんだけど、やるからには最後までやりたいし」 「ふうん・・・だけどぼくには何も言えないんだね」 ちょっと意地悪く言ってみると、ギイは本当に申し訳なさそうにぼくを見た。 「ごめんな。オレだけのことじゃないからさ」 まぁすべてを話してくれないと恋人じゃない、なんて言うつもりはないし、ギイが嘘をついているわけでも誤魔化しているわけでもないので、ぼくはしょうがないなとうなづいた。 「待っててあげるよ」 「託生・・・」 「ギイのこと、ずっと待ってる」 ぼくが言うと、ギイはほっとしたように微笑んだ。 今度はいつ、という約束はしなかった。 そんな約束をしなくても、何も心配することはないのだということは、もうぼくには分かっていた。 ぼくは「またね」と言って、ギイは「またな」と言って、NYで再会して1年後に、ぼくは日本へと帰国した。 日本に帰国して音大に復帰すると、またバイオリン漬けの生活が始まった。 NYでの経験はとても貴重で、音が変わったと佐智さんに言われた時は本当に嬉しかった。 1年間の留学で学んだことをちゃんと自分のものにできるよう、ぼくは以前にも増して音楽に没頭していった。 ギイからの連絡は時折思い出したようにあったりで、だけど、いつ会えるとかそういうことは何もなく、たぶんそれは、ギイの予定がちゃんと定まらないから、下手にぼくに期待させまいとする心遣いなのだろうと思った。辛い思いをしているのはぼくだけじゃない。 ギイも同じように寂しい思いをしているのだろうことは分かっていた。 だからぼくもあえて会いたいという言葉は口にはしなかった。 だけど、そんなぼくの考えはきっとギイはバレていたと思う。 もともと勘のいい人だし、ぼくに関してはそれにさらに磨きがかかるから。 お互いの気持ちは痛いほど感じていたけれど、愚痴になるような弱音は言いたくなかった。 すごく不思議だけれど、離れていても、ぼくはギイの愛情を感じることができた。 いや、離れている方がギイの愛情を強く感じることができた。 普通は離れていると、どれほど好きな人のことでも忘れていくものだけどな、とすべての事情を知っている章三は首を傾げた。 たぶん普通はそうなんだろうな、と思う。 どれほど愛していても、そばにいなければ、その思いは日々の日常の中に埋もれて薄れていくものだ。 嫌いになったわけじゃなくても、やらなくてはいけないことや、やりたいことが次から次へと押し寄せてくる忙しい毎日を過ごしていれば、その人のことを考える時間はだんだんと少なくなっていき、やがて忘れていくものだ。 どれほど好きでも、きっとそうだ。 だけど、ぼくにとってギイはどうしたって忘れることなどできなかった。 祠堂に入学して、生きていくことが辛かった毎日をまるで魔法のように変えてしまったギイ。 彼はあまりにも眩しくて、その強烈な眩しさはちょっとやそっとでは薄れようもない。 だからこそ、いきなりいなくなって2年が過ぎても、ぼくは彼のことを追いかけることができたし、こんな風にまた離れてしまうことになっても大丈夫なのだと思えた。 ギイから日本にいるぼくに最後のメールがきたのがちょうど2週間前だった。 元気にしてるから心配するな、といつもと同じ短いメール。 ぼくもまた、こっちも元気だから心配しないでいいよ、と返した。 まだしばらく会えないみたいだなぁと思っていたというのに、何の連絡もなく、ギイがやってきたのだから驚かない方がおかしい。 「ギイ、本当にいつも神出鬼没だね」 やや呆れ気味にぼくが言うと、ギイは 「そっか?」 と、おどけるように肩をすくめた。 そして、そのままぼくへと近づくと、長い腕で包み込むようにしてぼくを抱きしめた。 「会いたかった」 耳元で囁かれ、ぼくはうん、とうなづいた。 そっとギイの背中に手を回して、昔と変わらない甘い花の香りにうっとりと目を閉じる。 半年ぶりの恋人の温もり。 離れるのがもったいなくて、ぼくたちはしばらくそうして抱きしめあっていた。 「で、突然どうしたんだい?」 ようやく気持ちも落ち着いて、ぼくはコーヒーをいれてギイに手渡した。 「やっと片がついたからさ」 「え?」 「いろんなこと、終わったから」 ギイはフローリングの床の上にあぐらをかいて、ぼくの入れたコーヒーを美味しそうに一口飲んだ。 「・・・ギイ、終わったって・・・」 「オレ、ようやく自由の身」 晴れ晴れとギイが笑う。 そしてこれまで話せなかったことを話せる範囲で、と前置きをして話してくれた。 ギイはもともと2年の約束で祠堂に入学していた。 祠堂に来る前にすでに大学を卒業していたギイは、父親の仕事を本格的に手伝う前に、とある研究室でとある研究を手伝う約束になっていたのだ。その研究自体はギイも興味があったもので、手伝うこと自体は何の問題もなかった。 けれど、どうしても日本へ留学をしてぼくに会いたかったというギイは、3年待ってくれと教授に頼んだらしい。このチャンスを逃すと、ぼくと同じ時を過ごすことはできなくなる。けれど、そんなに待てないと言われ、2年で戻ることで何とか許してもらった。 口約束とは言え、ある意味契約に近い帰国時期を、何だかんだと理由をつけては延ばし続けるギイに痺れを切らした教授が、とうとう強行手段に出た。契約社会のアメリカで、ギイのしていることは一種の契約違反だと言い出したのだ。 もちろん半分はギイを連れ戻すための口実だったのだが、それが父親の知るところとなり、強制送還となったらしい。教授と父親が旧知の仲だというのもまずかった。 自分で言い出したことを守らないとはどういう了見だと言われたのだ。 「オレが中途半端にずるずると祠堂にいたから、親父が切れたんだよ。自分で交わした約束なら、最後の最後まで自己責任で完遂しろって言われたら反論の余地はないし、やりたいことをしたいなら、先ずやるべきことを先にやれ、って久々に真顔で怒られた」 「そうなんだ」 「もともとオレのやることにうるさく口出しするような親父じゃないんだけど、義務と責任を果たさないことには厳しいんだ。ま、当然なんだけどな」 もとはと言えば自分が招いたことだから、こんな形で祠堂を去ることになったのも諦めはついた。 けれど、ぼくに一言の約束もできずに姿を消すことになったことだけが心残りだったという。 お互いの気持ちを疑うことはなかったけれど、それでも離れてしまうことは不安だった。 「親父に一度やると決めたことなら最後まで遣り通せって言われてさ。ちゃんと教授との約束を果たして、成果を出すまでは外部との連絡は禁じられてたんだ。とは言っても、オレ自身NYから離れてたし、託生に連絡しようと思えばできたんだけど・・・それじゃだめだったんだ」 父親に試されていることをギイは知っていた。 ぼくとギイの仲を知っている父親は、こんな形でギイと引き離されたぼくが、それでも変わることなくギイのことを愛し続けることができるのかどうかを知りたかったのだという。 10代の幼い恋などどうせ簡単に終わってしまうだろうと思う一方で、ギイが選んだ恋人ならばもしかしたら、とも思ったらしい。 同性というまだ一般的にはデメリットの方が多い関係を、いったいどれほどの覚悟を持って続けるつもりなのか。 ギイがではなく、ぼくにどれほどの覚悟があるのかを、ギイの父親は知りたかったのだ。 それを知っていたから、ギイは自分からぼくに連絡することはしなかった。 やるべきことを終えるまでは自分からは誰にも連絡をしないという父親との約束をこっそり破れば、ギイ自身もそれまでの男だと思われるし、ぼく自身も、結局ギイが動かなければ続かない恋愛をしているのだと思われるのがオチだった。 2年間、ギイは約束を守り、自分からはぼくへ連絡はせず、研究の成果も出した。 それまで軟禁状態に近かったギイにもようやく自由な時間ができるようになったので、休暇になるとNYへ戻り、使われていないぼくの携帯へとメールを入れ、自然史博物館へ足を運んでいたという。 いつか、ぼくがNYへ来るのではないかという願いを込めて。 「もうダメかなって、何度も思った。オレから会いに行くのは簡単だけど、それじゃどうしてもだめで、だからあの日、お前がクジラの下にいて、その姿を見つけた時、オレがどんなに嬉しかったか分かるか?」 ギイはぼくの手を取って、そっと口づける。 「夢みたいだった」 ぼくだって夢を見ているみたいだったよ、ギイ。 「お前、NYに来てすぐに、ペントハウスに行っただろ?」 「うん」 ギイはここにはいないと言われてがっかりしたのだ。 「あの時さ、あそこに親父がいたんだよ」 「えっ」 「お前が一人でオレに会いにきたって知って、それでもう諦めたというか、腹を括ったというか。オレが約束通り自分からは連絡しなかったことと、真面目に働いて成果を上げてたことと、何よりお前が2年も音信不通の不義理なオレに会いにきたことで、オレたちのこと許してくれる気になったらしい」 許すというよりは、諦めたっていう方が正しいかもしれないな、とギイは笑う。 ぼくたち2人の思いがどれほど強いものなのか、不本意ながらも知ってしまったのだ。 「まぁもともと反対されてたわけじゃなかったんだけどさ、オレが一度言い出したら聞かない性格だってことは親父が一番よく知ってるし、だから最後のダメ押しになったってところかな」 ということは、もしぼくが、いつかギイが会いに来てくれるんじゃないか、とずっと日本で待っていたら、ギイのお父さんからは許してもらえなかったということになる。 今さらながらに、背筋が寒くなる話だ。 「託生がNYにいる間も、まだやらないといけないことが残ってたから、しょっちゅう会うこともできなかったし、研究内容も極秘事項が多かったから、全部話すこともできなかった。まぁ今もそのあたりのことって話せないんだけどさ」 「うん」 ギイの話を聞いていて、ぼくはふと祠堂での出来事を思い出した。 「もしかしてギイ」 「うん?」 「あのカリフラワーって、何か関係あるの?」 何かの研究の副産物みたいなこと言ってなかったっけ? もしかしてそれって、ギイがしていた研究と何か関係あるのかな。 ぼくの問いかけに、ギイはおや、というように片眉を上げた。 「鋭いなぁ、託生くん。でもそのあたりはオフレコで。あれは、ほんとに直接は関係ないものだから」 「そっか」 ギイはNYに帰るたびに、そういうことしてたんだ。 ぜんぜん知らなかった。 お父さんの仕事も手伝って、研究も手伝って、ほんとギイって勤労学生だったんだなぁ。 「だけど、それも無事終了。晴れて無罪放免自由の身」 ということは、ギイはやるべきことをちゃんとやり終えたということになるんだろう。 これからはまた以前のように会えるということ? ぼくはまだ実感が湧かなくて、何て言えばいいのか分からなかった。 「何だよ、託生、もっと喜べよ」 「うーん、だけどギイ、これからもギイはNYだろ?ぼくは日本だし」 「そうだな」 「遠距離恋愛には変わらないし、今までと何か変わるのかな?」 消息の分からなかったあの頃ならまだしも、今はちゃんとギイがどこにいるかも分かってるし、時折連絡もあるし、何より、お互いのことちゃんと思ってるって分かってるし。 素朴な疑問に、ギイは不満そうにぼくの額をぴしっと指で弾いた。 「いてっ」 「変わるだろ。オレ、自由の身だって言っただろ?これからは週末ごとに会いに来れる」 「えっ!!」 今とんでもないことを耳にした気がする。 週末ごと?? 「ギイ、冗談だよね」 「いや、あながち冗談でもないんだけど・・・」 言いながらも、ギイの目は笑っている。ぼくはからかわれたんだと知って、ギイの背中を叩いた。 「もうっ、本気にするだろっ!」 「はは、まぁ毎週は無理でもさ、もっと頻繁には会いにこれる」 「うん・・・それは嬉しいよ」 ギイに会えるのは嬉しい。 離れていても大丈夫。ギイのことはいつだって思っているし、ギイからの愛情だって疑うことはない。 けれど、会えないのは寂しい。ほんとはいつだって一緒にいたいと思ってる。 「ありがとな、託生」 「え?」 「託生のおかげで、いろんなことが前に進んでるような気がする。オレがそうありたいって思っていた未来に、少しづつだけど近づいている。全部、託生のおかげだなって」 「そんなことないよ」 もし、ぼくが頑張ったおかげだってギイが言うのなら、それはギイのおかげだって、ぼくは思う。 祠堂での出会って、あそこで過ごした時間があったから、ぼくはギイを信じ続けることができたんだ。 「ところで、託生」 ギイはぼくに向き直ると、咳払いして真面目な表情をしてみせた。 あ、何だか嫌な予感。 こういう表情のギイって、絶対何かぼくに説教しようとしているんだ。 怒られるようなこと、してないと思うんだけどな。 「これなんだけどな」 ギイは手にしていたバッグをぼくの前へと差し出した。 開けてみろと言われ中を見ると、そこには懐かしいバイオリンケースが入っていた。 昔、ギイがぼくに貸してくれたストラディバリウス。 「・・・・これ・・」 「お前、どうして何も言わなかったんだよ」 びしっと言われて、ぼくは思わず首をすくめた。 ギイが強制送還された時に、ギイの私物も当然NYのペントハウスへと引き上げられた。 荷物はギイがまとめたわけではなく、おまけに帰国するとその足でNYを離れてしまったので、バイオリンがNYへ戻ってしまったなんて思ってなかったらしい。ギイも島岡さんがそのあたりはちゃんとしてくれてるだろうと思っていたけれど、荷物をまとめたのは島岡さんではなく、おまけにギイは島岡さんと連絡することもできなかったので、ずっとその事実を知らなかったのだ。 「お前、いったいどういうつもりなんだ?どうしてオレにバイオリンのこと言わなかったんだ?」 NYで再会して、1年も一緒にいたのだ。確かにバイオリンのことは話すこともできたのだけれど、自分から貸して欲しいっていうのはあまりにも図々しいかと思ったのだ。 それに、バイオリンがギイの手元に戻ってることは、ギイだって知っていると思っていたし。 それなのにギイの口からバイオリンの話が出ないということは、もしかしたら何か事情があってぼくに貸すことができないんじゃないかと思ったから、ギイから話が出るまでは聞かないでおこうと決めていたのだ。 そんなぼくの説明に、ギイは大仰にため息をついてみせた。 「あのなぁ、これはお前のものだって言っただろ?オレ、ペントハウスに戻ってこれ見つけた時、心臓止まるかと思うほど驚いたんだぜ」 「ああ、うん。ごめんね」 「ったく、お前は・・・」 ギイはほとほと呆れたようにぼくを眺めて、やがてしょうがないなというように笑った。 「ま、そういうヤツだよな、託生は」 「・・・そういうヤツって?」 「自分のことより相手のこと考えて、何も言わないで頑張っちまうだろ?簡単に弱音吐いたりしないとこ、いいなって思うけどさ、オレにはそういう頑張りしなくていいんだからな」 「うん」 「思ったことは何でも聞いてくれ。答えられないことはちゃんとそう言うから。前にも言っただろ、オレ、お前のことは何でも知っていたいんだ。他の誰かからお前が考えてることを聞かされたくはない」 「うん、ごめん」 「でも、結果としてはいい方向に動いたのかな。これがなくても、ちゃんと音大に入学して、留学までできたのは楽器の力じゃなくて託生の実力だって証明できたようなもんだもんな」 「そうかな、うん、でもそうかも」 もしギイにストラディバリウスを借りたままなら、ぼくはどこかで楽器の力に頼っていただろう。 努力を怠るつもりはないけれど、技術力不足をこの名器がカバーしてしまうとしたら、ぼくはそれに甘えてしまっていたかもしれない。 ギイはそっとバイオリンをケースから取り出すと、ぼくへと差し出した。 「これ、もう一度貰ってくれるか?」 「ギイ、これは借りていただけだろ?貰ったわけじゃない」 億の値がつくような楽器、そんな簡単に貰えるわけないじゃないか。 「じゃ、またオレが返して欲しいと思う時まで、これ、使ってくれるか?」 ギイがあの時と同じようにぼくに尋ねる。 目の前のストラディバリウス。今使っているものもそれほど悪いものじゃないのだけれど、やっぱり名器を目にすると、その美しさにため息が零れた。 初めてギイからこれを手渡された時も、ぼくはその見目の美しさと音色の素晴らしさに、我を忘れて音を鳴らしたものだった。 やっぱり他のバイオリンとは違う。 長い年月を経たものだけが持つ不思議な魅力に心が奪われてしまう。 「・・・ありがとう、ギイ」 ぼくはギイの手からバイオリンを受け取った。 まだまだぼくにはもったいない楽器だけれど、これに似合う腕前になるにはもっともっと努力が必要だけれど、だけどやっぱりいらないと言うことはできない。 ああ、ぼくって実は欲張りだったんだなと、今さらながらに思ってしまう。 「大切に使わせてもらうよ」 ぎゅっと胸の中にバイオリンを抱きしめる。 またよろしくね、とつぶやくと、ギイはようやくほっとしたように笑みを浮かべた。 「それからな、託生」 「え、まだ何かあるの?」 再び居住まいを正し、あらたまった声色になったギイに、ぼくも身構えてしまう。 もう今度こそ怒られるようなことはしていない・・はずだ。たぶん。 ギイはポケットを探ると、ぼくの目の前にとん、と小さな箱を置いた。 「遅くなったけど」 「・・・・なに?」 何だかまた嫌な予感がした。 最近、ギイのことに関しては、ぼくもだんだんと勘が冴えてきたような気がする。 ギイに開けるようにと無言のまま目で促され、ぼくは恐々その箱を開けてみた。 予感的中。 中には綺麗な指輪が一つ入っていた。 「昔言っただろ、二十歳になったら、オレ、託生のこと攫いに行こうかなって」 あれは、二年生の夏休みだ。ギイの別荘に遊びに行ったときに、そんなことを言っていた。 もちろん冗談めかして、ギイはすぐに何でもないって言っていたけれど。 ギイは小さく息をつくと、今度は冗談ではない口調で静かに言った。 「二十歳のつもりが少し過ぎてしまったけど、それ、受け取ってくれるか?」 「・・・・」 「託生」 呼ばれて、ぼくは顔を上げた。 真剣な眼差しで真っ直ぐに見つめられて、視線を外すことすらできない。 「託生、これからもずっと、オレの・・・運命の人でいてくれないか?」 恋人でも共犯者でもなく、運命の人でいて欲しいとギイが言う。 まだ幼い頃にぼくを好きになって、祠堂までぼくに会いにきてくれたギイ。 もう誰のことも愛せないと思っていたぼくに、そんなことはないと教えてくれたギイ。 一生のうちで、これ以上誰かを好きになることなんてないだろうとお互いに思って、今までその気持ちを大切にしてきた。 ぼくだってギイのことを運命の人だって思っている。 ギイもきっとそう思っている。 だけど、この先もずっと運命の人であり続けるには、そんな言葉にただ甘えているだけじゃだめなのだ。 離れてしまった2年という時間も、運命の人ならいつかは会えると思っているだけじゃ、きっと二度と会えなかった。 ギイの運命の人でいられるかどうかは、ぼく自身がそういられるように努力できるかどうかだ。 時間や距離に負けない強さを持てるかどうか。 ギイは、ぼくにその覚悟をしてくれないかと聞いているのだ。 だとしたら、ぼくの答えは決まっている。 「・・・・覚悟なんてとっくの昔にしているよ」 「託生・・・」 「何を今さら言ってるんだよ。ギイのこと、ただ一人の人だって思ってるから、NYにまで会いに行ったんじゃないか。運命の人だって思ってるよ。そんなの、ずっとずっと昔から思ってる。何で今さら・・・」 ギイは片手でぼくの頭を引き寄せると、涙で視界がぼやけ始めたぼくの目を覗き込んだ。 「オレを選ぶことで、大切な誰かを傷つけることになるかもしれなくても?」 「・・・ギイ以上に大切な人なんていないよ」 「誰かに嘘をつくことになるかもしれない、託生自身も傷つくこともあるかもしれない。離れていた2年の間に感じた寂しさよりも、もっと辛いこともあるかもしれない。それでも?それでも託生、オレの運命の人でいてくれる?」 「・・・・」 「それでも託生・・・オレの運命の人でいてください」 「・・・・っ」 我慢できなくて、ぼくは何度もうなづいて、ギイの首筋に両腕を回した。 息ができないほどに強く抱きしめられて、ぼくはギイの肩に涙で濡れた頬を押し当てた。 ほんとに、何を今さら言うんだろう。 ギイは、自分がやるべきことを中途半端に放り出していたツケをきっちり払い終えて、これからまた新しい人生を始めることになるんだろう。 きみのその人生の中で、ぼくはいつだって一緒にいたいと思っている。 それなのに、自分勝手好き勝手に、ギイはこんな風にぼくに聞いてくるんだ。 強引で我侭で、そのくせ不安な目をして。 知ってるくせに言わせたがる。 愛してるよ、ギイ。 初めて告白されたあの音楽堂の夜からずっと、ぼくはきみに恋をしている。 自分でも馬鹿みたいだって思うけど、きっと死ぬまで、ぼくはきみに恋をし続ける。 抱きしめる力が緩まり、ギイはぼくの頬にキスをした。 「いくつになっても泣き虫だなぁ、お前」 「・・・ギイが泣かせるせいだろ」 「そうでした。まぁあれだな、泣いてる託生も可愛いからさ」 「この歳になって可愛いなんて言われたくないよ」 「いくつになっても託生は可愛い」 ギイは笑ってぼくにキスをした。 「じゃあ、これ、受け取ってくれよな」 ひとしきりの口づけのあと、ギイは小さな箱に入った指輪を摘み上げると、ぼくの左手を持ち上げた。 「高そうな指輪だなぁ」 「いえいえ、ほんの給料の3ヶ月分ですから」 楽しそうに笑ってギイがぼくの薬指に指輪をはめる。 シンプルで綺麗な指輪なのだけれど、女の子じゃないから、めちゃくちゃ嬉しいかと言うと何とも微妙だ。 もちろんこういうものをギイがちゃんと用意してくれるっていうのは、ありがたいなぁと思うのだけれど。 ぼくはちょっと躊躇いながらもギイを見た。 「あのさ、ギイ、ぼく指輪なんてしないんだけどな。ほら、バイオリン弾くのにちょっと気になっちゃうから」 「いいよ。持っててくれればいい。こういうイベントって、ちょっとやってみたいだろ、男としては」 「そんなものかな、あ、じゃあぼくもギイに指輪あげた方がいいのかな」 「心配ご無用。オレの分もちゃんと購入済み」 「何だ。うわ、でもこれってペアリングなんだ。恥ずかしいな」 「何が恥ずかしいんだよ。おかしなヤツだな」 いや、恥ずかしいだろ、普通は。 ギイはポケットから自分用の指輪を取り出すと、おもむろにぼくへと手渡した。 はいはい、イベントね。 ぼくはギイの左手を取って、さっきぼくにしてくれたみたいに、ギイの薬指に指輪をはめた。 小さな指輪は、けれどその思いの深さを表しているようで、ぼくはしばらくじっと自分の指を見つめてしまった。 ぼくが無言でいるものだから、ギイがくしゃりとぼくの髪を撫でた。 「結婚とかさ、そういう形にこだわるつもりはないんだ。男同士で何言ってんだって章三あたりには怒られそうだし、オレもそう思うし。こんなものなくたって、本当は全然よかったんだけど、何ていうか、区切りっていうか・・・いや、まぁオレが勝手に安心したいだけなのかな。託生よりオレの方がずっと不安なんだよな、結局」 おかしなギイ。 いつだって自信満々なくせに、時々そんな可愛いことを言って、ぼくの気持ちを温かくするのだ。 「ぼくだって指輪なんて欲しいと思ったことはないけれど、こうしてギイがぼくのためにプレゼントしてくれたものなら、大切にするよ。いつもつけてられないけど、大切にする」 「ああ、ありがとう」 ギイは軽くぼくにキスをすると、はーっと肩を力を抜いた。 「あー、よかった。これでやっと寛げる」 ギイは心底ほっとしたようにそう言うと、その場にぱたりと倒れこんだ。 「もしかして緊張してたの?ギイ?」 「するだろ。何しろプロポーズなんだから」 「プロポーズ?」 ぼくがえっと声を上げると、ギイはもまたえっと声を上げた。 2人してまじまじと見つめあう。 「・・・そっか、プロポーズだったんだ」 「て、お前何だと思ってたんだよ。ったく、勘弁してくれよ」 「ごめんごめん」 うなだれるギイの身体の脇に手をついて、ぼくは身を屈めてお詫びの印のキスをした。 そのまま引き寄せられてギイの胸の上に頭を乗せて横になる。 また戻ってこれた。 ギイの腕の中に。 誰より大切な運命の人のもとへ、長い時間をかけて、でもちゃんと戻ってこれた。 ぼくたちは何も言わずに互いの体温を感じあっていたけれど、やがてギイがよっこらしょとぼくの腕を引いて起き上がった。 「さぁ、あとはあれだな。一番の問題を片付けないとな」 「なに?」 「章三に会わないと」 ぼくがNYへ留学して、ギイと再会して、いろいろ分からないことも多いけれど、また一緒にいることになったと報告すると、章三は心底呆れ、けれど「よかったな」と言ってくれた。 ギイに再会するまでの2年間、挫けそうになるぼくを、文句言いながらも支えてくれたのはいつも章三だった。 大学はまったく違う別だったから、なかなか会うこともできなかったけれど、3日に一度は連絡をくれて、ぼくがおかしなことを考えていないか確認していた。 「ぼくは葉山の母親じゃないんだぞ。もし今度ギイに会うことがあったら、この貸しはきっちり返してもらうからな」 と、いつも悪態をついていた。 ぼくがNYから帰国して、久しぶりに会った時も、 「あれほど一発殴ってやれっていったのに、葉山は甘すぎる」 と一刀両断されてしまった。 なんて話はもちろん全部ギイにしてあるので、いずれ訪れるギイと章三の再会がいったいどうなるのか、ぼくとしても戦々恐々だったのだ。 まさかいきなり殴りあいになんてならないとは思うけど、今回ばかりはギイの方が分が悪すぎる。 「赤池くんに連絡したの?」 「した」 日本へ来てすぐ、空港から章三に連絡をしたという。 会えないかと言ったギイに、章三は特に何か言うでもなく、明日会おうと言ったらしい。 何も言わないあたりが、本気の怒りを感じて怖いのだとギイは言う。 「対決かー」 「託生、何か楽しそうじゃないか?」 「ギイが負けるとこなんて滅多に見られるもんじゃないからね」 笑うと、ギイはちぇっと舌打ちした。 だけどきっと心配することはないんだろうなって思う。 何しろ2人はぼくが羨ましく思うほど息のあった相棒で、お互いを誰よりも信頼していて頼りにもしている。 心底嫌いになったりすることなんて絶対にないし、本当は早く以前のようにふざけあいたいって思っているに違いない。 「ギイ、腹筋鍛えておいた方がいいよ、赤池くん、一発殴らないと気がすまないって言ってたから」 「腹筋ねぇ」 「あれだけ不義理してるんだから、一発ですんだらいい方だと思うけど」 「お前、どっちの味方なんだよ」 「うーん、今回ばかりは赤池くんかな」 だってどう考えても、章三が怒るのは正しいわけで。ギイもそれが分かっているから、それ以上は反論はしなかった。一発殴られる覚悟もしているようだ。 「まぁ、何とかなるだろ。それより託生」 「うん?」 「今日泊めてくれるだろ?」 「え、いいけど。来客用の布団なんてないよ?」 「何で半年ぶりに会えた恋人を別の布団へ追いやるんだよ、お前は」 うんざりしたようにギイは立ち上がると、ぼくの腕を引き上げて、そのまま狭いベッドへと押し倒した。 え、まさかこのシングルベッドに男2人で寝るつもりなのか? いや、その前に、もしかしてここでいろいろするつもりなのか? 「む、無理だよ、ギイ」 「祠堂のベッドだってけっこう狭かったけど、一緒に寝てただろ?」 「そう、だけど・・」 じたばたと抗うぼくの手首をつかんで、ギイは唇を這わせた。 「もう半年我慢したんだ。今日は抱かせて、託生」 甘く囁いてごそごそとコトを始めようとするギイの身体を何とか押しのける。 「ギイってば、あのね、祠堂の寮はプロレスやったって下や隣に聞こえないくらい壁が厚かったけど、この部屋は無理だよ」 「防音だろ?」 「だ、って・・・」 半年ぶりって言ったのはギイのくせに、いろいろ我慢してたのはこっちだって同じなんだぞ。 隣近所を気にしながら、あれやこれやなんてするのは絶対無理だ。 ぼくが言いたいことがどうやら分かったらしいギイは、うーんと低くうなるとぱたんとベッドに沈み込んだ。 「ギイ?」 「・・・・考えてるとこ。託生に声出させないようにしてするのと、明日まで我慢してどこかのホテルでイイ声聞きながらするのとどっちがいいかなぁって」 「・・・・・ばっ・・・かじゃないの!?」 ぼくは手にした枕でギイの頭をばふんと叩いて、さっさとベッドから降りた。 まだ未練がましくぼくを呼ぶギイに背を向けて、ぼくは温くなったコーヒーを一口飲んで、うっかり火がつきそうになった気持ちを何とか静めた。 半年ぶりに再会した恋人同士っぽい感動的なやり取りは指輪のあたりまでで、そのあとはまるきり時間が元に戻ったみたいな馬鹿な言い合いだ。 だけど、いくつになってもぼくたちはこんな風にふざけあえるんだろうなと思う。 それが嬉しいなって思う。 まるで普通の・・・どこにでもいる普通の恋人同士だと思えるから。 これから先も、きっと悩んだり喧嘩したり泣いたり傷ついたりすることもあるだろう。 今回みたいに思いもかけないような事態も起こるかもしれない。 だけど、何があっても、それはその時考えればいい。 何も知らなかった、ギイに甘やかされっぱなしだったあの頃のぼくとは違う。 ぼくは、ぼくの意思でギイのそばにいたいと思っている。 誰より大切な運命の人だから、彼のためにぼくは何があっても顔を上げて前へ進まないといけない。 薬指に光る指輪を指先でなぞってみる。 自分自身の区切りのために、とギイは言った。 けれどぼくにとってもこの指輪は、ぼくの気持ちをいつでも勇気づけてくれる愛の証だ。 「ありがとう、ギイ」 小さくつぶやくと、まだベッドでぐずぐずと文句を言っていたギイが、「どういたしまして」と笑った。 これからもよろしく。 ぼくの運命の人。 |