夜明けの道


このお話は、
1)ステーション後に再会を果たしたお話「5年目」「恋する瞬間」「運命の人」の続きです。
 まずはそちらからお読みいただければ!
2)腹筋鍛えていても、ギイはやっぱりへたれっぽいです。
3)もやもや払拭話はこれで最後になろうかと(たぶん)
という感じです。





晴れて自由の身になったと言って、ギイはニューヨークからストラディバリウスと指輪を持って、託生の元へとやってきた。
それまで話せなかったことを可能な範囲で話し、お互いを運命の人だと確認しあって、改めてこれからも一緒にいて欲しいと、ギイは託生に告げた。
今さらそんなことをと呆れながらも、託生は差し出された指輪を受け取った。
半ばプロポーズめいたやり取りでその場の雰囲気が甘くなるのは当然で、久しぶりに会えたのだから、とギイは託生のことを求めたが、託生はそんなギイを何とか必死で押しとどめた。
いくら音大生向きのハイツで、壁は一般的な物件よりも分厚いと言えど、完璧な防音ではない。
大声で話している隣の声が聞こえることだってあるのだから、静かな夜に、あれやこれやをしている声など簡単に聞こえてしまうだろう。
絶対にだめ、と強く言い渡した託生を恨めしそうにしていたギイだったけれど、結局無理強いなどできるはずもなく、
「生殺しだ」
とぶつぶつ文句を言いながらも、狭いハイツの狭いベッドで二人で一緒に眠った。
ギイはずいぶんと疲れていたようで、朝になって託生が起きてベッドを抜け出しても目を覚ますことはなかった。
無防備な様子でぐっすり眠る恋人の姿に、託生は思わず微笑んだ。
窓を開けて、綺麗に晴れた青空に目を細め、またこんな風に一緒にいられる日が来るなんて、まるで夢を見ているようだと思った。
突然ギイが消えたあの日も晴天だったなぁとぼんやりと思い出す。
あれからも3年がたったなんて信じられない。
「託生・・・?」
呼ばれて振り返ると、ギイが起き上がって眩しそうにしていた。
「おはよう、ギイ」
「ああ、おはよう。早いな・・・」
「決戦の朝だからね」
託生が笑うと、ギイはあーっと唸って、もう一度ばったりとベッドに倒れこんだ。



今回ギイが日本にやってきたのは、もちろん託生にバイオリンと指輪を渡すということが一番の理由だったが、もう一つ、どうしてもしなくてはいけないことがあったからだった。
それは相棒との再会である。
祠堂で何の説明もできないままに別れてしまった相棒の章三とは、結局あれ以来会うことはできないでいた。
NYで託生と再会して、また一緒にいることになったことは、もちろん章三も知っている。
どういう事情で祠堂を離れ、長い間連絡ができずにいたかも、ギイの代わりに託生がちゃんと説明をした。
諸事情により直接連絡をすることはできないのだということも、章三は納得はしていないが理解はした、と言ったらしい。
託生がNYへ留学していた頃は、ギイも2年間の研究所での生活を終え、それなりに自由も利いたから、本当なら章三に連絡をすることもできたのだ。
だけど、中途半端な状態で頼れる相棒に連絡をしてしまうと、そのままずるずると甘えてしまいそうな気がしたし、何より冷ややかに怒っているであろう章三ことを想像すると、二の足を踏んでしまいたくなるという本音もあった。
それが悪循環になることは分かっていたのだが、章三が本気で怒るとどれくらい怖いかを知っているだけにタイミングを計るのに時間がかかってしまったのだ。
会いたくないわけではなく、むしろ以前のように何でも話せる相棒としてもう一度ちゃんと付き合いたいと思っていたから、ギイは晴れて自由の身となるとすぐに章三に連絡を入れた。
日本に行くから、会ってくれないか、と。
章三はしばらくの沈黙のあと、分かったと言った。
そうして、ようやく約3年ぶりに再会することが約束されたのだが・・・
朝からずっとどこかそわそわと落ち着きのないギイに、託生はやや呆れ気味だった。
「往生際が悪いんだよね、ギイは」
託生の言葉に、ギイは深々と吐息を落とす。
「お前は章三の怖さが分かってない」
「確かに赤池くんって怒ると怖いよね。滅多に本気で怒ることなんてないけど」
とは言うものの、怒られるだけのことをしたのだからしょうがないよね、と託生はギイに止めを刺す。
あっさりと言った託生に、ギイは項垂れるしかない。
「オレ、一発殴られるくらいですむんだろうか」
「ギイ、ちゃんと腹筋鍛えてきたの?」
くすくすと笑う託生に、ギイは拗ねたように唇を尖らせた。子供っぽい仕草にまた笑いが込み上げる。
まさか本気で章三がギイのことを殴るようなことはないにしろ、相当辛辣に文句を言われるであろうことは想像に難くない。当の章三本人が、何度も託生に「殴る蹴るをしたって罰は当たらない」とけしかけたくらいなのだから。
「大丈夫だよ、心配しなくても」
先を歩く託生が静かに言い、ギイは顔を上げた。
「赤池くん、本当はずっとギイからの連絡を待っていたんだと思うよ」
「託生・・・」
「赤池くんだってギイのこと、すごく大切な存在だと思ってるよ。そんなこと口には出さないけどね」
だから大丈夫だよ、と振り返った託生がふわりと笑った。
「・・・でもオレ、そんな章三をずっと放置してたからなぁ」
「ギイってば、今日はずいぶんと悲観的だなぁ」
「まぁなぁ・・・」
ギイにとって章三は託生とはまた違った意味で特別な存在だった。
祠堂に入学したのは託生のことを追いかけてのことだったが、ギイはそこで初めて同世代の友人というものがどういうものかを知ったのだ。
それまで自分よりもずっと年上の人間ばかりの中で過ごしてきた。自然とその付き合いも大人びたものになったし、それが日常だったから、ギイ自身はそんなつもりはなくても、無意識のうちに同世代の友人との付き合いでは物足りなさを感じていたのかもしれない。
Fグループの御曹司というバッググラウンドのせいで特別視されることも多かったし、そんなギイを煙たがるのもまた歳の近い人間の方が多かった。逆に親しげに近づいてくる者はほとんどが下心があるからで、そんな中で本当の意味で心を許せる友人などできるはずもなく、いつの間にかギイ自身も他人との付き合いに多くを求めることをやめ、物事をスムーズに進めるために本心を隠すことを覚えた。
やがてビジネスの世界で、それは否が応でも必要となる自分自身を守る術なのだと、ギイ自身もほんの少しの寂しさと共にどこかで割り切って考えていた。
そんな時、章三と出会った。
章三は最初からギイのことをどこか疑いの目で見ていた。
周囲の人間がギイに羨望の眼差しを向け、仲良くなりたいと躍起になる中、章三はギイにまったく心を動かされることなく、どこか胡散臭げに一歩離れた場所からギイのことを眺めていた。
けれど、決して嫌われているわけでもないのは感じていた。
たとえ1年限りの同室者であっても、寮生活を快適に過ごすためには良好な友人関係を築いておいた方がいいに決まっている。
章三の心中を探りながら、さてどうしたものかと算段していた時、何かの拍子に章三に言われた。
「それはお前の本心なのか?」
どういうシチュエーションだったのかは忘れてしまった。
けれどその一言で、章三のギイへの評価がやけに厳しいのは、彼がギイの上辺だけを見ているせいじゃないかと思っていたが、そうじゃないということに気づいた。
章三はギイの中にある「他人との間に無意識に引いてしまう一線」に気づいていたのだ。
周りの人間がギイと一線を引くように、ギイ自身もどこかで周囲に対して一線を引いているのではないか。
自分を作っているつもりなどなかったが、かといって今の自分が本当の自分かと問われれば首をかしげてしまう。
本当の意味で心を許せる友達などできない、と決め付けているのはギイの方で、誰もそれに気づかない中、章三は本能的にそれを感じ取ったのだ。
そう思ってから、ギイは章三に興味を引かれて、彼のことを新しい目で見ることになった。
もともと年齢の割りには落ち着いた男だと思っていた。
誰に対しても媚びることもなく、かといって卑屈になることもなく、自分というものをきっちりと持っていて、正しいことを正しいと堂々と口にすることができる。
いっそ潔いくらいに、彼は淡々と彼だけの高みを目指しているように見えた。かといって、真面目一辺倒な男ではなく、みんなと一緒に馬鹿騒ぎもすれば、お祭り好きな一面もある。
他人にも自分にも厳しいくせに、呆れるほど世話好きで、困ってる人を放ってはおけない章三は、ギイとは違い、100%自然体で自分の本心を隠したりはしていなかった。
彼と友達になりたいと思った。
章三に自分という存在を認めてもらいたかった。上辺ではないギイ自身のことを見て欲しかった。
自分は周囲が思っているほど立派な人間ではない。弱いところも、ずるいところも、冷たいところも持っているただの高校生だと知って欲しかった。
章三とならば、本音で話ができるような気がした。
だからギイは章三の前では自分を偽ることはしなかった。
肩の力を抜いて、馬鹿なところも、カッコ悪いところもすべて見せるようにした。
祠堂での友人たちは、ギイがどこかの御曹司だということは知っていたけれど、それがどれほどのものなのかを、ほとんどの人間は正確には知らなかった。
もちろんその際立った容姿とアメリカからの留学というだけで注目を浴びたし、どれほど目立たないようにしようとしたところで、特別視されてしまうのは免れなかったけれど、それでも祠堂の友人たちはギイのことを同じスタートラインに立つ一人の人間として見てくれた。
やがてギイは、他人との間に無意識のうちに一線を引くことがどれほど愚かしいことなのかに気づいた。
どうせ理解してもらえないなどと、どこかで思いあがっていた自分がいたことを反省した。そんな風に自分が変わったことで、やがて章三はギイのことも正しく理解してくれるようになった。
お互いを相棒だと称するようになるのに時間はかからなかった。
何の打算もなく付き合える友達というものがどれほど心を温かくしてくれるか、ギイは祠堂で初めて知ることができた。
ギイにとって、章三は本当に掛け替えのない親友だった。
初めて自分から友達になりたいと思った男だった。
それなのに、あんな形で放り出してしまうことになった。
薄情な相棒とはもう縁を切ると言われたとしても仕方のないことをしてしまったのだ。
事情があったとはいえ、今度ばかりはどうなるか分からない。
託生の手は奇跡的にもう一度握ることができた。
同じように、もう一度章三を向き合うことができるのだろうか。

「決戦か・・・」
ギイは今さらながらに自分がしてしまったことの重大性を思い知らされていた。
「ギイ、ほらもう考えるのは一休みして、お昼にしよう?」
託生が笑ってギイを促す。
約束の夕刻までは時間があったため、2人は託生が通う音大を訪れていた。
ギイが託生が音楽を学んでいる場所を見たいと言ったので、じゃあ散歩がてら行ってみようかということになったのだ。託生が一人暮らしをするハイツから大学までは歩いてほんの10分ほどだったので、ついでにお昼は学食で食べることにした。
広い構内はその日が休日ということもあって、閑散としていたけれど、食堂は自主練習を行う学生のためにいつでもオープンしているという。
今日は講義のない日だったから大丈夫だろうと思っていたのに、自主練習にきていた級友と何度も出くわし、隣に立つギイに見惚れるというシチュエーションが何度も繰り返された。
きっと明日になればみんなが託生にギイのことを聞きにくることだろう。
相変わらずだなぁと、祠堂にいた頃を思い出して、託生はひっそりと微笑んだ。
あの頃も、麓の街を歩くたび、女子高生たちがみんなギイを振り返っていた。
食堂で向かい合ってランチを取っていると、それもまた祠堂にいた頃を思い出させて、託生は不思議な気持ちになった。目の前にいるギイはあの頃よりもずっと大人っぽくなっているというのに、まるで時間が戻ったような気にさえなる。
「祠堂の食堂も美味かったが、ここのもなかなかだな」
定食のから揚げ定食をもりもりと食べながら、ギイはようやく笑顔を見せた。
ギイが今日、章三と会うことでいつもからは考えられないくらいナーバスになっていることは、託生にもひしひしと伝わっていたけれど、だからといってどうにかしてやることもできなかった。
今回のことに関しては、どちらかと言えば託生と章三は同士みたいなもので、たとえギイが恋人だからといって無条件でギイの味方をすることはできなかった。
ギイがいなくなった2年の間、章三の支えがあったからこそ託生は気持ちを強く持っていられたのだ。
章三がギイと再会して、どうするつもりなのかは分からなかった。
もし本当に決戦になったら、いったいどちらの味方をすればいいのだろうか、と託生はその難問に内心悩んでいた。
「人間、腹が減ってるとマイナス思考になるよな」
しっかりデザートのアイスクリームまで食べてから、音大を後にした。
「本当はさ、託生と会いたいって思うのと同じくらいに、章三にも会いたいって思ってた。祠堂にいる頃は当たり前のように一緒にいただろ?そのありがたみが分かってなかったなって、離れて思い知らされた。章三ほどバランス感覚の優れたヤツはいないし、オレのこと理解してくれてたヤツもいない」
「うん」
「別に毎日会って話したいとか、そういうんじゃなくて、ただ何かあった時にふいに思い出すんだ。ああ、章三ならどう言ったかな、とか。あいつならどうしたかな、とか」
「相棒だもんね。いざという時に頼りになる存在だってのはすごくよく分かるよ。ぼくも赤池くんには何度も助けられたし」
「もちろん託生が頼りにならないとか思ってるわけじゃないんだぜ?」
「分かってるよ、そんなこと思ってない」
託生が笑うと、ギイも笑う。
恋人と相棒はまったく別の次元で、ギイにとってはどちらも失いたくない大切なものなのだ。
「あいつ、オレのこと許してくれるかな?」
「・・・・大丈夫だよ」
ぽつりとつぶやいたギイの手を、託生はきゅっと握り締めた。
その手の力強さに、ギイはほっとしたように微笑んだ。


章三との待ち合わせは都心から少し離れた駅前だった。
場所を指定してきたのは章三で、託生とギイは約束の時間にその場所に立った。
一見いつもと変わらないように見えるギイが無口なので、託生はあえて何も言うことなく隣に立って章三が来るのを待った。
「あ、来た」
改札を抜けてくる大勢の人に紛れて、章三の姿が目に入る。
その姿にギイが目を細めた。
しょっちゅう章三と会っていた託生の目には、あまり変わっていないように見えるが、3年ぶりに会うギイにしてみればやはりどこか別人のようにも思えた。
章三は俯き加減に歩いていたけれど、ふいに顔をあげて2人を視界に捉えた。
真っ直ぐにギイを見て、そして表情を変えずに近づいてくる。
ほんの数歩の距離を残して、章三は立ち止まる。
ギイも章三の無言のままお互い見詰め合っていた。簡単に声をかけられない雰囲気に、託生は固唾を呑んで成り行きを見守っていた。
やがて、ギイがゆっくりと頭を下げた。
深々と章三へと頭を下げ続ける。
思いもしなかったことに、託生は言葉を無くした。
もしかしたら「悪かったな、章三」なんて明るくギイが言い、嫌そうな顔をしながら章三も「いい加減にしろ」なんて軽く受け流して、何もなかったかのように元に戻れるんじゃないかと思っていた託生にしてみれば、ギイがこんな風に頭を下げるなんて想像もしなかったことだった。
人が羨むものをすべて持っているかのようなギイが、彼の人生の中でこんな風に誰かに頭を下げることがあるだろうか。
頭を下げたまま、ギイは動かない。
そばを通り過ぎる人がじろじろとギイを見ても、ギイは頭を下げ続ける。
章三はそんなギイを無言で見つめていた。
どれくらいそうしていたか。
ふっと小さく息を吐くと、章三がギイへと歩み寄り、ぱしっとその頭を叩いた。
弾かれたようにギイが顔を上げる。
いきなり叩かれて、わけが分からないという様子のギイに、章三は腕を組んだまま静かに言った。
「・・・・今日の食事は全部ギイの奢りだ」
「・・・・」
「そして店はぼくが選ぶ。文句はないな?」
「・・・・ああ」
よし、とうなづいて章三はさぁ行こうと歩き出す。
有無を言わせない章三のあとを、託生とギイはただついていくしかできなかった。
待ち合わせ場所から5分ほど歩いたところにある店は、見るからに高級料亭といった風情が漂っていて、庶民の託生は一瞬うっと足を止めた。
2人を振り返ることなくさっさと店に入った章三のあとを、ギイもまた当然のように入っていく。
物怖じしないというか、慣れた様子のギイに、託生は今さらながらに住む世界が違うなぁと思ったが、とにかくここは一緒に入るしか他にない。
どうやら章三は前もって予約をしていたようで、3人は仲居に案内されて奥の座敷へと通された。
部屋から見える庭は素晴らしいもので、川のせせらぎまで聞こえてくる。
街中の店とは思えない静けさに、託生はすごいなーと無邪気に感心した。
「赤池くん、この店すごいね」
「父さんが大学の教授連中との付き合いで来ることがある店の中で、一番高い店を教えてもらったんだ」
「ああ、なるほど」
大学の教授たちが集うと言われれば何となくそんな雰囲気がする。
託生は初めての高級料亭にどうも落ち着かなくてきょろきょろと部屋の中を見渡した。
3人で食事をするには広すぎるほどの和室だった。
床の間があって、高そうな掛け軸までかけられている。
「落ち着かない」
日本人ならば一番落ち着くはずであろう和室だというのに、託生はどうにも腰が落ち着かなくて仕方なかった。
一方のギイと章三はさして緊張している様子もなく、かといって和気藹々と会話をするでもなく、少し手持ち無沙汰にしている。
やがてビールが運ばれてきて、それぞれがグラスを手にした。
「え、っと・・・乾杯だよね?」
託生が隣に座るギイと向かい側に座る章三を見やった。
「そうだな」
章三がグラスを持ち上げ、ギイを見る。
そしてその日初めての笑顔を見せた。
「おかえり、ギイ」
「・・・・ただいま、章三」
「言っておくが、すべて許したわけじゃないぞ」
どこかほっとした表情を浮かべるギイを章三がじろりと睨んだ。
「ギイ、だいたいお前は肝心なところでツメが甘いんだ。僕たちがどれくらい心配したか分かってるのか」
「それはもちろん・・」
「何も言わずに消えちまうなんて、いったいお前は・・っ」
「あ、赤池くん、まずは乾杯しようよ!せっかく3年ぶりに会えたんだし、ほら、積もる話もあるだろうし」
喧嘩が始まらないように託生が必死で言い募ると、章三はまだ何か言いたげにしていたが、ぐっと堪えてとりあえずと言った感じでグラスを合わせた。
一息でグラスを空けると静かにギイが言った。
「本当に悪かったよ、章三」
「当たり前だ」
「そうかっかするなよ」
「どの口がそれを言うんだっ」
「しょうがないだろ、あの時はああするしかできなかったんだし」
「開き直るな!」
「ほらほら、2人とも料理が来たから食べようよ」
あっという間に祠堂にいた頃のようなやり取りを始める2人に託生は呆れて、どうなることかと心配して損したな、と嬉しい誤算に頬が緩む。いったいどこまで本気で言い争っているのか分からなかったが、ヒートアップしそうになると、託生が間に割って入りクールダウンさせるというやり取りが何度か続いた。
運ばれてきた料理は絶品だったので、言い合いをしながらも、3人は箸を動かすことは忘れなかった。
「で、ぼくに会いにきたということは、もういろんなことに片がついたということなんだろうな」
章三がぽつりと尋ねる。
ギイは顔を上げて、ああ、と嬉しそうにうなづく。
「ちゃんと終わった。心配かけてすまなかったな、章三」
茶化すでもなく、心からのギイの謝罪の言葉に、章三はどこか諦めたように苦笑した。
あの時、ギイがあまりにもいきなり姿を消したから、章三自身もいったい何があったのか分からなくて、しばらくはどう自分の気持ちを落ちつかせればいいか分からずに悩んだ。
その後も何の連絡もないことに、自分は信頼されていなかったのかとショックも受けた。
相棒だと思っていたのは自分だけだったのか呆然としたりもした。
けれど、ギイが託生にさえ何も残さずに消えてしまったことで、本当にどうしようもない何かがあって、あんな形で消えてしまったのだということだけは分かっていた。
もしも託生がかぐや姫なら、自分も一緒に月についていくと言い切ったギイが、心変わりをするなんて思えなかったし、そういう男じゃないことは章三が一番よく分かっていた。
分かってはいたけれど、何の言葉も約束もない状態では、気持ちは揺らいだ。
ギイのことを信じたい気持ちと疑う気持ち。
ギイとは永遠に会えないだろうと見切りをつけ、忘れてしまえば楽になれるという甘い誘惑に時折負けそうになった。
そんな章三の気持ちを引き戻すのはいつも託生だった。
残された人たちの中で、一番辛い思いをしているはずの託生だけが、不思議と一番落ち着いていて、周囲が呆れるほどに、ギイへの思いを貫いていた。
「ギイのことを信じているから」
と、何でもないことのように言いきる託生の強さに、章三は今さらながらに驚かされた。
相棒と恋人と、相手を思う気持ちにいったいどれほどの違いがあるのか。
章三にとってギイはやはりかけがえのない相棒で、頼ってもらえなかったなどと腐るくらいならば、いっそとことんまで信じてみてもいいだろうと、ある時吹っ切れた。
ギイが自分のことをどう思っているかではなく、自分がギイのことをどう思っているかが重要なのだ。
そして自分はやっぱりギイのことを最後まで信じてみたかったのだ。
たとえ裏切られることになったとしても。
やがて託生がNYへ留学し、ギイと再会する。
託生からギイは何も変わってはいないと告げられ、信じていたことは間違いではなかったと分かり、章三はそれだけで救われたような気持ちになった。
今はまだ会えないというギイといつか再会することができたなら、その時は思い切り文句を言ってやろうと虎視眈々と思っていた。
けれど、こうしてギイを目の前にすると、相変わらずの物言いや飄々とした態度、祠堂にいた頃とまったく変わらない笑顔に、結局毒気を抜かれてうっかり許してしまいそうになる自分がいる。
あんなに腹も立てたし、悲しい思いをしたというのに、だ。
今回の一連の出来事について、ギイは簡潔に章三に説明した。託生に話したのと大筋では変わらない。
章三もだいたいのことは託生から聞いていたので、分からなかったことを2つ、3つ質問しただけで、あとは黙ってギイの話を最後まで聞いた。
「つまり、だ」
話が終わると、章三は腕を組み、低くつぶやいた。
「ギイは自分でした約束を、葉山との恋愛に現を抜かしていたせいですっかり忘れて、そのせいで強制送還された、ということだよな」
「いや、章三、忘れていたわけじゃないぞ。ちょっと・・・まぁ誰にでもミスはあるというか」
「ミス?」
「オレだってミスはする」
「・・・なるほど。ギイも普通の人間ってことが分かって良かったよ」
嫌味混じりで言ってみても、ギイはまったくこたえていないようで、章三は深くため息をついた。
久しぶりに相棒に会えて嬉しいのか、ギイは早いペースで次々とグラスを空けていく。
「ギイ、飲みすぎだよ」
「大丈夫だよ。楽しい酒は酔わない」
「嘘ばっかり」
絶対に酔っ払って自分が連れて帰ることになるだろうと思い、託生はそこからはセーブして飲むようにした。
「それにしてもみんなはどうしてるんだろうな。矢倉とか政貴とか、たまには会ったりするのか?」
ギイが尋ねると、章三はニヤリと笑った。
「みんな大学が別だから、そうそうしょっちゅう会うわけじゃないが、休みには集まったりするぞ。なぁ、葉山」
「え、ああ、うん。そうだね」
「そっか、みんな元気にしてるのか?」
「会いたいか?」
「そりゃあもちろん」
だが、自分から会いたいと言える立場じゃないことくらいギイにも分かっている。
それでも会いたいと思うのは止めようがない。
祠堂での最後の時間が、一番楽しかったのだから。
「そうだよな、ギイならそう言うだろうと思ったよ」
「え?」
章三の言葉に目を見開くギイの耳に聞こえてきたのは、騒がしい笑い声と人の足音。
嫌な予感に眉をひそめつつ背後を振り返るのと同時に、勢いよく扉が開け放たれた。
「ギイっ!!!」
「久しぶり、ギイ」
「おー、相変わらずの男前っぷりだなー」
一気に流れ込んできたのは、たった今会いたいと言ったばかりの友人たちだった。
政貴と矢倉と八津。
勝手知ったるといった感じで、さっさとギイたちの周りを取り囲むようにして座る。
唖然としているギイの肩に、矢倉ががっちりと腕を回した。
「ギイ、悪いなぁ、こんな高級な店で好きなだけ食べて飲んでいいなんて、嬉しいぜ」
「うわー、美味しそうだな。ここの店ってこの前雑誌で紹介されてたんだよ」
八津がテーブルの上の料理を見て、目を輝かせる。
「お酒の種類もたくさんあるね。日本酒にしようかな」
政貴もメニューを広げてさっそく飲みたい酒を吟味し始める。
そこにいるギイのことなど気にしているのかいないのか。
まるで祠堂にいた頃とまったく変わらない皆の様子に、ギイは思わず吹き出した。
「ったく、何なんだよ、これ」
呆れているのに、それなのにどういうわけか胸が熱くなっていくのを止められない。
「ギイ、まさか赤池にだけご馳走すればすむと思ってるわけじゃないよな?」
矢倉は注文を聞きにきた仲居に託生たちと同じコースと、メニューの中で一番高い酒を注文した。
「俺たちに会いたいだろうと思って、わざわざ都合をつけて来てやったんだぞ?どうだ、嬉しいだろう?」
にっこりと笑って、矢倉がギイを覗き込む。そのどこか悪戯っぽい瞳は昔のままだ。
「矢倉・・・、お前、変わらないな・・・」
「おおよ、たった3年じゃ何も変わらない。俺たちは祠堂にいた頃と何も変わっちゃいないんだぜ」
あの頃、確かにあった友情は、何も変わらずにここにある。
ギイはやれやれとため息を吐くと、
「ああ、ああ、分かったよ。好きなだけ飲め。オレの研究室での給料すべて使えばいい。今夜は、オレの奢りだ。何でも好きなものを食べやがれ」
「やったー」
他の部屋から苦情が来そうなほど叫び声が上がり、一気にその場が盛り上がる。
そうか、だからこんなに広い部屋を予約したのか、と託生はようやく納得できた。
矢倉たちもだいたいの事情は知っているから、あえてギイに説明を求めようとはしない。
突然、何の説明もなく消えてしまったギイに対してどれほど文句を言ったとしても、ギイは何も言わないだろう。そうせざるを得なかった理由はちゃんとあったにしても。
みんな、今度会ったら殴る蹴るだ、なんて言っていたくせに、豪華な食事を奢らせるだけで水に流そうとしているのだろうか。まぁここでの支払いをすべて持つのだとしたら、相当な金額になるはずだ。
殴り合いになるよりは、ずっといいリベンジ方法なのかもしれない。
次々に運ばれてくる酒で、何度も何度も乾杯が繰り返される。
あの頃、ゼロ番でこっそりと行われた宴会を思い出して、託生は楽しげに笑うギイにほっとした。
まるで祠堂にいた頃に時間が逆戻りしたかのように、会えなかった時間を取り戻すために語り合った。
卒業してからのそれぞれの進路について。友人たちの近況や、学校のこと、もちろんギイが今まで何をしていたのか、今はどうしているのかもみんな興味津々で聞いていた。
料理が終わり、デザートが運ばれてくる頃には、全員がずいぶんと気持ちよく酔っ払っていた。
このまま和やかに再会の場が終わるかと思っていた時、おもむろに矢倉が静粛に、と手を上げた。
「さて、皆の衆、やっとギイと再会できたわけだし、ここらで俺たちがここへ来た本来の目的を果たそうじゃないか!」
「本来の目的?」
ギイが眉をひそめてぐるりと皆を見渡す。
これだけ好き勝手に飲み食いして、まだ足りないとでも言うのだろうか。
「そうだよ、ギイ、まさかこれで俺たちの鬱憤が晴れたとは思っていないよね?」
政貴がにっこりと笑顔を見せてギイへと身を乗り出す。
「・・・いや、思わせて欲しい」
「冗談じゃねぇぞ。お前がいない2年間、俺たちはずっとどうやってリベンジするか考えていたんだからな」
どん、と矢倉がテーブルを叩く。
え、そうなんだ、と思わず託生がつぶやいた。
休みになると、よくこのメンバーで集まってはご飯に行ったり、旅行に行ったりした。
託生を気遣ってか、あまりギイの話題が出ることはなかったから、まさか矢倉たちがそんなことを考えているとは夢にも思わなかったのだ。
向かいに座る章三もうんうんとうなづいている。
八津も特に驚いた風ではないので、ここにいる全員がグルということだ。
ギイもそれに気づいたようで、腹をくくったように矢倉を真っ直ぐに見据えた。
「わかったよ。全面的にオレには弁解の余地はないからな。どんなリベンジだって受けて立つさ」
「え、大丈夫なの?ギイ?」
こそりと隣のギイのシャツの裾を引っ張る。
もし本当に一発殴らせろなんて言われたらどうするつもりなんだろう。
けれど、そんな殴り合いにはならなかった。
矢倉はよしと頷くと、鞄の中から分厚い封筒を取り出して、おもむろにギイへと差し出したのだ。
「何だ、これ」
「見てみろ」
「・・・・」
「泣くなよ」
ふふんと不敵に笑う矢倉に、ギイは恐る恐る封筒を開いた。
中から出てきたのは、大量の写真だった。
横からギイの手元を覗き込んだ託生は、見覚えある写真にああ、と微笑んだ。
それはギイがいなかった2年間の託生の写真だった。
託生だけではなく、そこにはこの場にいる章三も矢倉も政貴も八津も映っている。
ギイは一枚一枚と写真を見ていく。
最初は誰かの家で宴会をしている写真だった。
みんなすっかり出来上がっていて、楽しそうに笑っている。託生もまた心からの笑顔を見せていた。
そのまま酔っ払ったのか、ぐっすりと眠る託生の寝顔。
「ああ、この時はけっこう飲んだんだよねぇ」
懐かしそうに託生がギイの手から写真を受け取る。
次の写真は夏にみんなで海へ行った時のものだった。
砂浜でスイカ割りをしたり、砂布団されたり、日に焼けて託生の肌は真っ赤になっている。
夜には花火をして大騒ぎしている様子が写されている。
「この時、近所から苦情がきたんだよね」
八津が写真を見て笑う。
「矢倉が騒ぎすぎなんだよ」
「お前だって騒いでただろうが、赤池」
「そう言えばこの時、女子大生にナンパされたんだよね、葉山くん」
政貴がにこにこと笑いながら、爆弾を落とす。
とたんにギイが胡乱な目で託生を眺めた。
「ち、違う違う、ちょっと野沢くん、おかしなこと言わないでくれないかな」
託生が慌てて、ギイに違うからと言い募る。
「いや、あれは間違いなく葉山狙いだったよな」
「そういう矢倉はアドレス交換してなかったっけ?」
またまた落とされた政貴の爆弾に、今度は八津が反応する。
「そうなんだ、その話、あとでゆっくり聞かせてもらおうかな」
「待て待て、誤解だ八津!あれは無理矢理押しつけられたんだって!!」
ふうんとそっぽを向く八津に矢倉は必死で弁解を続ける。
そんなバカップルは放っておいて、ギイは再び手元の写真をめくった。
次は、みんなでどこかのライブにでも行ったのか、すごい人混みをバックにした写真だった。
「これは、野外フェスに行ったんだよ、葉山くん、クラシック以外のコンサートに行ったことないっていうから。たまには弾けようってね」
政貴が写真を受け取り、けっこう有名アーティストも参加してて楽しかったなぁと微笑む。
「そういえば、この時、葉山くん泣いたんだよね」
「えっ」
毎回落とされる政貴の爆弾に、今度は託生は勘弁してくれーと内心叫んだ。
「託生が泣いたって、どうして?」
泣いたという穏やかならぬ台詞に、即座にギイが反応して顔を上げ、どこか怒りを含んだ声色で政貴に尋ねる。
政貴はそんなギイの怒りなどまったく意に介さず、いつもの飄々とした表情で説明した。
「この野外フェス、いろんな歌手が出場してたんだけどね、何だったかなぁ、最後の方に出てきた歌手が歌った歌が、葉山くんにしてみればちょっと辛かったんだよね」
「ああ、そうそう。振り返ったら泣いてるからびっくりしたんだよな」
矢倉も苦笑する。
「何だよ、それ。何で泣いたんだよ」
「その歌がさ、愛し合ってるのに別れを選ばざるを得なかった恋人たちの歌でさー」
「・・・・」
「もう誰かさんのことを彷彿とさせる歌詞だったんだよな、これが」
酔っ払いの矢倉がうひゃひゃとギイの背をばんばんと叩く。
ギイはあーっと低く唸ってそのままテーブルに突っ伏した。
撃沈したギイの様子に、託生以外の全員が楽しそうに笑う。
「もう、いいだろ!あれは歌詞がどうとかじゃなくて、すごく上手かったからじんときたんだよっ!」
赤くなった託生が矢倉の手から写真を奪い取る。
「あの、ギイ・・・ほんと、ギイのせいじゃないんだよ?」
託生は困ったなぁと肩を落とす。みんなすっかりギイをいじめることに夢中ではないか。
確かにあの歌はギイのことを思い出させるような歌詞だったから、涙腺が緩んでしまったけれど、自分が勝手にそう思っただけでギイのせいではないのだ。
ギイはのろのろと顔を上げると、また写真をめくっていく。
2年間に訪れたイベントの数々、そのすべてが大量の写真に納まっていた。
どれもその時の楽しい空気が伝わってくるものばかりだ。
託生は写真の中で笑っていた。
作り笑いではない、本当に楽しそうな笑顔。
ギイの知らないところで、託生はみんなと一緒に楽しい時間を過ごしていたのだ。
最後の一枚まで見終わって、ギイは上を向いて大きく息を吐き出した。
「このリベンジはけっこう効いた」
ギイの知らない託生の2年間。
ここにいる全員は知っているのだ。託生がどんな風に笑うのか、どんな時に涙するのか。
祠堂を卒業して、託生がどんどんと強くなっていく過程を、ギイは見つめることはできなかった。
矢倉と章三はギイの敗北宣言によし、とガッツポーズと取った。
「ギイに葉山の写真見せて悔しがらせようっていうのは赤池の提案でさ、ヤキモチ焼きのギイのことだから、葉山がギイ以外のみんなで仲良くしてるところを見せたら絶対にいいリベンジになるって言ってさ」
「実際、なっただろ?」
章三が得意気にギイを見る。
「ああ、なった」
けれど、とギイはまた写真に視線を落とす。
一枚、一枚と写真の中の託生を見つめるギイの目はどこまでも優しい。
「・・・ありがとな」
ぽつりとギイがつぶやき、それまで騒がしかったその場が、一瞬しんと静まり返った。
「ありがとう・・・みんな・・・」
ギイの言葉が震えていることに、みんなが微笑む。2年の間、みんなで温めていたギイへの思いがちゃんと届いたのだと、全員が顔を見合わせてうなづきあう。
リベンジだなんて言ってるくせに、本当はそうではない。
ギイは正しくみんなの思いを受け止めた。
堪えていた涙が一筋、ギイの頬を流れた。



高級料亭をあとにして、このまま二次会だ!と矢倉が言い、今度は駅前の安い居酒屋で飲みなおした。
ギイと再会できたことをみんなが喜んでいて、その勢いで浴びるほど酒を飲んだ。
結局三次会のカラオケBOXを出て、お開きになったのはもう日付が変わり、明け方近くになろうという頃だった。
当然電車などなかったが、また朝から大学の講義があるからと言う連中はタクシーで帰ることになった。まだ大丈夫だ、などとわけの分からないことを口走る矢倉を何とか後部座席へと押し込む。
「章三、あとは任せた」
「ああ」
比較的まだ理性の残る章三にギイは酔っ払いたちの世話をバトンタッチする。
じゃあな、と言ってタクシーに乗り込もうとする章三を、ギイが呼び止めた。
「章三」
「うん?」
「・・・・オレ、まだ章三の相棒でいていいのかな」
真っ直ぐに章三を見つめるギイはらしくなく神妙な面持ちで返事を待っている。
章三はタクシーの扉に手をかけたまま、何かを考えているようにしばらく無言だったが、やがて昔よく見せた、どこか人を食ったような笑みを浮かべた。
「僕の相棒は昔っから一人しかいないと思っているんだがな」
お前は違うのか、と暗に章三が匂わす。
ギイはそうだよな、と笑う。
そんな当たり前のことを今さら聞くなというように章三が肩をすくめ、
「じゃあまたな、ギイ」
と、まるで昔、夏休みに祠堂で別れる時にかけあったのと同じ声色で言い、そのままタクシーに乗り込んだ。去っていく車を見送って、その場にはギイと託生だけが残った。
2人きりになると、ギイは頬に手をやった。
頬が熱いのは酔いが残っているせいか、それとも別の理由なのか。
「ギイ?」
「ああ・・・どうせ始発を待つなら、隣の駅まで歩くか。あそこなら快速止まるだろ?それともタクシーですぐ帰りたい?」
「そうだね。ちょっと歩きたいな。何だか目が冴えちゃってるし、酔いも冷ましたい」
隣駅まで歩いても30分ほどだろう。
到着する頃には始発が出る。
くたくたに疲れているはずなのに、不思議と疲れは感じなかった。
ついさっきまでの騒がしさが身体の隅々まで行き渡っていて、心地よい浮遊感を感じていた。
「ギイ、今日一日でずいぶん散財しちゃったんじゃない?」
託生が心配そうにギイに尋ねる。
結局一次会から三次会まで、すべてギイが支払ったのだ。
いったい全部で総額いくらになったのか、怖くて計算できない託生である。
ギイは大きく伸びをすると託生の手を取って、ゆっくりと歩き出した。
「けっこうな額かもしれないけどな、2年間の給料を全部使い果たしたって良かったんだよ。それくらいじゃ
とても足りないくらいのものを、あいつらはオレにしてくれたんだから」
「・・・・?」
きょとんとギイを見る託生に、ギイは静かに微笑む。
「これくらい散財したって、全然いいんだよ。あいつはオレに奢らせることで、オレの気持ちが楽になるって分かってるんだからさ」
「そっか・・・」
しんと静まり返った商店街を抜け、そのまま線路沿いをゆっくりと歩く。
こんな時間に外を歩く人などいなくて、託生はギイが繋いできた手を振りほどくことはしなかった。
「あのさ、ギイ」
「うん?」
「あの写真・・・だけど・・・」
「ああ、いい写真だったな」
大量の写真は今日のお土産だと言って、ギイへのプレゼントとなった。
それもある意味リベンジか?と聞くと、みんなは「当たり前だ」と言って楽しそうに笑った。
「あの写真見て、嫌な思いさせたならごめんね」
託生の言葉にギイが足を止める。
俯き加減の託生を下から覗き込むようにしてギイが身を屈める。
「嫌な思いって?」
「だって、ギイがいないのに、ぼく、笑ってただろ?」
「・・・・」
「みんなと一緒にいろんな所へ行って、いろんな経験をした。どれもすごく楽しくて、ギイのことを忘れる瞬間もあった。そんな自分に時々自己嫌悪になったこともあったんだよ?」
「託生・・・」
「薄情なヤツだ、って思ったよね」
ギイが片手で託生の肩を引き寄せる。
ぺたりとその胸に頬をくっつけて、託生はごめん、ともう一度言った。
まさかみんなと一緒に撮った写真がこんな形で使われるとは思ってもいなかったのだ。
あれではギイへのリベンジというよりは、託生の薄情さを暴露されているようで、何だかギイに申し訳ないような気になったのだ。
「馬鹿だな。謝る必要なんてない。薄情だなんて思うわけないだろ」
「だけど・・・」
「あれは、あいつらからのオレへのプレゼントだよ。リベンジなんて言ってるけど、そうじゃない」
「え・・・?」
最初こそ、ギイへのリベンジだと言って、みんな託生の写真を撮りまくっていたのだろう。
いつ会えるとも分からないギイの悔しがる姿を見るために、べたべたと託生にくっついている写真まで用意して。
実際、自分の知らない託生を見せ付けられて、みんなの思惑通り悔しいと思ったギイだったが、すぐにこの写真がリベンジのためだけに用意されたものじゃないことに気づいた。
ギイがいなくなり、自惚れでも何でもなく、託生が寂しい思いをしていたのは疑いようもないことだ。
何の約束もできなかったのだから、どれだけ不安に思っていたかも想像できる。
泣いてばかりいるんじゃないかと、ギイはそんなことを何度も思った。
たぶん、それはみんなも同じだったのだろう。
だから章三を始めとする全員が、託生が寂しくないようにと、こうしてコトあるごとに集まっては、楽しいことをしていたのだ。
託生が笑顔でいられるように。寂しくないように。不安にならないように。
写真の中の託生は祠堂にいた時と同じ笑顔を見せていた。
自分がいなくても笑っていたのだということに、ギイはほっとした。
強がりでも何でもなく、託生が笑っていてくれて良かったと心から思う。
もちろんあの笑顔が2年間のすべてではないことくらい分かっている。もしかしたら笑っていられたのはみんなといる時だけだったのかもしれない。
それでも、ほんの一瞬だけでも、ギイのことを忘れて心から笑えたのならよかったと思う。
ギイのことを思って、泣いてばかりいるよりはずっといい。
託生はギイが思っている以上に強い人間だと改めて思い知らされた。
そして、その写真を見ることで、ギイ自身も安心するであろうことも、きっとみんなは計算していたに違いない。
あの写真を見て、託生のことを薄情だと思ったり、リベンジだと笑っていたみんなを恨めしく思うことなどあるはずがない。
あるのはただ感謝の気持ちだけだ。
「オレは、オレがいなくても託生が笑っていられたってことにほっとしたよ」
「ギイ・・・」
「オレのせいで、託生は傷ついて、寂しい思いをして、泣いてしまった。託生は大丈夫だってオレには言うけど、そうじゃないことは分かってる。謝るのはオレの方だよ。ごめんな、託生」
ふるふると首を横に振って、託生は溢れそうになる涙を見られないように、ギイの胸に顔を埋めた。
自分は何も気づいていなかったのだ、と託生は思った。
みんなで遊びに行くたびに、これでもかというくらい写真を撮られた。
やがて、これをギイに見せて悔しがらせてやろうぜ、と笑いながら言われて、単純に、
「お祭り好きのギイが皆と一緒に騒げないのは確かに悔しいだろうな」
と思ったのだ。
けれど本当の理由はそうじゃなかった。
今さらのように、自分が皆に大切にされていたのだという事実に胸が震えた。

「友達っていいな」

ギイがぽんぽんと託生の背を叩く。
どこか噛み締めるようにして言ったギイの言葉に、託生が顔をあげた。
託生が泣いてないことを確認してから、ギイは託生の手を引いてまた歩き出した。
「なぁ託生」
「うん?」
「世の中にはどれほど金を持っていても、地位が高くても、手に入れられないものがあるよな」
「・・・・」
「オレは、たぶん周りから見れば満たされているように見えるんだと思う。望んだわけじゃないけれど、裕福な家庭に生まれて、いろんなものが当たり前のように手の中にあって、きっと周りの人から見れば恵まれてるって見えるんだと思う。そんなことないなんて言うつもりはないし、そのありがたみだってよく分かっている。けど、だからって欲しいものがすべて手に入るかって言えばそんなことはないだろ。そんなこと言えば、何でも持ってるだろって矢倉あたりには突っ込まれそうだけどさ」
「うん」
託生はその様子が簡単に想像できて笑ってしまった。
「金があったって、地位があったって、手に入らないものはある」
「友達とか?」
ギイはそれを肯定するように、託生の手をさらに強く握った。
「世の中が平等だなんてあり得ないと思ってる。だからオレは他の人より恵まれてる分、本当に欲しいと思ってるものは手に入らないんじゃないかって思ってた頃がある」
「ギイ・・・」
切ない告白に、託生は歩みを止めた。
先へ行こうとするギイの手を引き、その歩みも止めさせる。
どこか困ったようにギイが託生を振り返った。
「別に諦めてるわけじゃない。大事な人のことはちゃんと大切にしてきた。だけど、欲しいものが手に入らなくても仕方ないって思ってた・・・それなのに・・・」
それなのに、自分のことを大切に思ってくれる友達がいた。
あんな風に一方的に放り出してしまった関係を、それでも大切にしてくれている友達がいた。
嬉しくて、どれだけ飲んでも酔えないくらいに嬉しくて。
「章三はともかく、矢倉たちはオレのこと許してくれないかもしれないなって思ってた。あんな形で別れちまって、そりゃ誰でも怒るよな。ずっと音沙汰なしで、今さらのこのこと現れて。ふざけんなって縁切られても文句は言えない立場だけど許してくれた」
託生はしょうがないなというようにギイの頬に手をやった。
「ギイ、許すとか許さないとか大げさだよ。確かに最初はギイがいなくなった理由が分からなくて、みんなちょっと戸惑ったし、怒ったりもしたけど、何しろギイだからさ、家のこととか仕事のこととか、きっと何か事情があったんだろうって、みんなそう思ってたと思うよ」
「・・・・」
「みんな、またギイに会いたいって思ってたんだよ。ぼくだけじゃない、赤池くんだけじゃない。きっと祠堂にいた全員が、またギイに会いたいって思ってた」
「託生・・・」
「だってね、みんなギイのことが大好きなんだよ?」
「オレは・・・」
「ギイは時々、自分のことを冷たい人間だなんて言うけれど、そんなことはない。祠堂にいた頃、ギイがどれだけ友達のことを大切にしていたか、みんな知ってるから。困ってる人がいたら、口ではいろいろ言ってても結局手を貸したり、その人が本当に幸せになれるように、ちゃんと考えてくれていた。それが本当のギイだよ?今日集まってくれた人はみんなそれを知っている。だからギイのことを待ってたんだ。ギイが、こうして帰ってくるのを、みんな待ってたんだよ」
託生の真摯な言葉は、ギイにしてみればずいぶんとくすぐったいものだったが、誰の言葉よりもそれはギイを幸せにする言葉だった。
目元が熱くなるのを感じて、今日はずいぶんと涙腺が緩くなってるなと自嘲する。
「託生」
ギイは頬に添えられた託生の手を取って、身を屈めるとそっと口づけた。
「・・・ありがとう」
「・・・・」
「オレのこと、ずっと好きでいてくれてありがとう」
たぶん、託生がギイのことをずっと思い続けてくれたから、章三を始めとする皆がギイのことを待っていてくれたのだ。
もし託生がギイのことを諦めていたら、こんな幸せを味わうことはできなかった。
託生を選んでよかったと、それまでも何度も思ったことを、また思う。
こんな不甲斐ない自分のことを、それでも変わらず好きでいてくれてありがとう、と心の底からそう思う。
「ぼくの方こそ、ずっと好きでいてくれてありがとう、ギイ」
「託生、頼むからあんまりオレを甘やかさないでくれ」
「そうなの?まぁたまにはいいかなって思ったんだけど」
くすくすと託生が笑う。
どちらからともなくもう一度口づけて、再び歩き出す。
「それにしてもギイ、よかったね、赤池くんに殴られなくて」
そういえば、と託生が思い出したように言った。
「せっかく腹筋鍛えてたのに残念」
「よく言うよ」
まだアルコールが残っているせいか、どんなつまらないことでも楽しくて、何を言っても笑いが込み上げた。

やがて白々と夜が明け始め、眩しい朝の光が2人を照らした。
「ああ、朝だな」
「朝だね」

長かった夜がようやく明けた。






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あとがき

ギイの腹筋がどれだけ鍛えられていたか試して欲しかった。