1.
ギイとは祠堂で思いもしない別れ方をしたけれど、だけど二度と会えないなんて不思議と思わなかった。 何の約束もなく、行方さえも知れないギイのことを、それでもやっぱり信じていて、そう遠くはない将来、必ずまた会えると思っていた。 だからぼくはそれほど落ち込んだりしなかったのかもしれない。 ほんのちょっと会えないだけ。 それくらいの気持ちだったし、何しろ目の前に大学受験が迫っていて、まずはそれを乗り越えないとギイには会えないと思っていた。 受験が終わればギイに会いにいこう。 そう決めていたから、アメリカへ短期留学してギイと再会した時には「ほらやっぱり会えたじゃないか」と思ったのだ。 あの時、ギイにはギイの事情があって、突然消えたことがギイの本意でなかったことはぼくにもよく分かっていたから、章三からはもっと怒った方がいいとさんざん呆れられたけれど、終わってしまったことよりもまたこれから一緒にいられるということの方が嬉しくて、ぼくは友達全員から「お人よし」の烙印を押されつつも、またギイとの付き合いが始めることにしたのだ。 けれど当面はギイはアメリカ、ぼくは日本で音大へ通うことになり、いわゆる遠距離恋愛となってしまった。 「遠距離恋愛って想像がつかないって思ってけど、こういうことなんだね」 約束をしたわけではないけれど、ギイは土曜日には必ず国際電話をしてくれる。 ぼくもなるべく土曜日は予定を入れずに、家にいるようにしている。 その夜も10時になるとギイから電話がかかってきた。 毎週連絡はくれるけれど、最後に会ったのは1か月前。 遠距離っていうのはそういうことなんだ、と最近ぼくはしみじみと理解し始めていたのだ。 『なに、会えなくて寂しいってことか?』 「まぁ、そういうことなのかな」 何か楽しいことがあるたびに、ここにギイがいればいいのなって思うことがあって、電話しようかなと思っても時差を考えるとすぐできなくて。 そういうのがもどかしいと思う瞬間がよくあるのだ。 そしてその度に、これが遠距離というものかーとがっかりする。 ギイはラインの向こうで少し笑った。 『託生が寂しいなら毎晩電話するし、毎日何回もメールするし、週に一度は日本に戻ってきても・・・』 「や、やめてよ、ギイ。そんなことされたらどうしたらいいか分からないよ」 『分からないよ、ってお前・・・そこは嬉しがれよ』 嬉しがれよと言われても。 毎晩国際電話だなんて全然嬉しくはない。 毎日何度もメールされたってぼくの方がそれに返信できそうにない。 ギイが相変わらず忙しくしているのは知っているし、ぼくだってギイほどじゃないけれど、練習でそこそこ忙しい毎日を送っているのだ。 『お前って相変わらず淡泊というか素っ気ないというか・・・』 「すみませんね、淡泊で」 自分ではそんなつもりはないのだけれど、それは周囲からもよく言われることなので、やっぱりそうなのかもしれない。 だけど寂しいからってギイの負担になるようなことはしたくないし、そういうのって自分がされても困るだろうなって思うのだ。 「毎日会いたいって気持ちもあるけど、会えなくても平気だなって思う時もあるんだよ。でもそれはギイのことが好きじゃないとかそういうことじゃなくて、会えなくてもギイがちゃんとぼくのことを思っていてくれているのも知ってるし、ぼくもちゃんとギイのことを思ってるし。遠距離恋愛って想像がつかなかったけど、でも実際にしてみると案外と大丈夫だなって」 『おーい、このまま遠距離でいいなんて言い出すなよ、託生』 「え、それはないよ。会いたいときに会えないってやっぱりちょっと寂しいし」 『ちょっと・・って、あー、わかりました。来週会いに行くから、これ以上離れてても大丈夫とか言わないでくれ』 ギイは勘弁してくれと言わんばかりに、ラインの向こうで低く唸った。 そんなこと言ったつもりじゃなかったんだけど、こういうのは棚から牡丹餅というのだろうか。 来週ギイと会えると思うと、今さらのようにドキドキとしてしまうのがちょっと恥ずかしかった。 1.「会いたいときに会えない」 2. ギイは有言実行の人なので、電話で約束した通り、翌週日本へとやってきた。 空港まで迎えに行ったぼくは、ギイがいつもの身軽な恰好でゲートを出てきた姿を見たとたん、胸がぎゅーっと痛くなった。もちろん嬉しくて、である。 もう何度もこういう場面を経験しているというのに困ったものである。 「ギイ」 「お、わざわざ迎えにきてくれなくてもよかったのに」 言いながらも、ギイは嬉しそうに目元を綻ばせて、人目も気にせずぼくをぎゅっと抱きしめた。 通り過ぎる人がちらちらとこっちを見ているけれど、何しろギイはとんでもない美男子で、フランス人とのクォーターということもあって一見すると外国人にも見えるのだ。 外国人だったらスキンシップも激しいし、まぁ男同士でもハグくらいするのかな、くらいの感じでみんなそれ以上は気にせず去っていく。 「おかえり、ギイ」 「ただいま」 そのままキスされそうになって、さすがにそれはお断りした。 「何だよ、ケチ」 「ケチじゃないよ、良識っていうんだよ」 はいはい、と肩をすくめて、ギイはぼくを促して歩き出した。 祠堂にいた頃ももちろんカッコよかったけれど、こうして学校という世界から抜け出したギイは、何だかすごく大人びて見えて、数年ぶりに再会した時はまるで違う人に会ったような気がして、しばらく慣れることができなかった。 今はさすがにそんなことはないけれど、それでも時々ドキリとするときがあって、もう付き合うようになってずいぶん経つというのに、ギイと一緒にいる限りこれは治らないんじゃないかと心配になってしまう。 「託生、飯食った?何か食べようか」 「うん。あ、そうだ、赤池くんと野沢くんが会いたいって言ってたから、夜会おうかって話してたんだけど、大丈夫?」 「章三と政貴?そりゃもちろんいいけどさ・・・」 どこか歯切れの悪い口ぶりに、ぼくは首を傾げた。 「なに?」 「一か月ぶりに会うっていうのに、託生はオレと二人きりでデートしたいとか思わないんだよな」 「え?だってギイ、三日間は日本にいられるんだろ?」 さすがに忙しいギイでも今日来て今日帰るということはないわけで、ぼくもこの三日間は何も予定は入れていないので、ずっとギイと付き合うつもりなのだ。 ほとんど二人きりといってもいいくらいなのだから、章三と政貴と合流してもいいだろうと勝手に思っていたんだけど、もしかしてこれって無神経なことだったのだろうか。 いつもギイから淡泊だと揶揄されるので、一応弁解などしてみることにする。 「でも、みんなギイに会いたいんだよ。だってギイずっとアメリカだからなかなか会えないだろ?ぼくはほとんど毎日ギイとメールしてるけどさ」 「そりゃ託生は恋人なんだから、毎日メールするのは当然だろ?」 拗ねたような口ぶりでギイがそっぽを向く。 これはもしかしてまた子供っぽい我儘が出てきているのだろうか。 遠距離恋愛を始めてからというもの、ギイは無意識なのか意識してなのか、たまにぼくに子供っぽい我儘を言うことがある。 今までギイがぼくに対して我儘を言うことなんてなかったから、ぼくにしてみれば何だか対等っぽく思えて嬉しいことだ。 なんて言えばまたギイに拗ねられるんだろうけど。 「何だよ、託生、なに笑ってんだよ」 「はは、何でもないよ。今日の夜は赤池くんたちと四人でご飯を食べよう。そのあと、ギイの泊まってるホテルにぼくも泊まってもいいかな?」 それとなく言ってみると、ギイはちょっと驚いたように目を見開いた。 ぼくがこんな風に誘うなんてこと祠堂にいた頃は絶対になかったし、正直なところ、今でも恥ずかしいには違いないのだけれど、何しろ滅多に会えないのだから、照れてる場合じゃないと思うのだ。 会える時間が僅かしかないから、余計にその時間を大切にしなくては、と思う。 たまにしか会えないから、一緒にいる時はいろいろ話をしたいと思うし、優しくしたいと思うし、触れたいとも思う。 遠距離恋愛は寂しいばかりでいいことないって思っていたけれど、思わぬ特典もあるようだ。 「今日だけじゃなくて、オレが日本にいる間、ずっと泊まってくれてもいいんだけど」 少し身を屈めてギイがぼくの耳元で甘く囁く。 もともとそのつもりだったけれど、少しばかり考えるふりをしてからうなづくと、ギイはすっかりご機嫌を直したみたいで、その単純さに笑ってしまう。 ぼくは周囲の人に気づかれないようにギイの手をぎゅっと握り返して返事の代わりにした。 2. 「久し振りのデート」 3. その夜、ギイが宿泊するホテル近くのイタリアンレストランで、章三と政貴と合流をして久しぶりに4人で食事をすることになった。 料理が得意な章三は美味しい店もよく知っていて、こうしてみんなで集まる時はたいてい幹事として店をセレクトしてくれる。 これがまた外れがないので本当にありがたいことこの上ない。 「うわ、これ美味しいな」 前菜として出てきたサラダを一口食べて、政貴が感動したように言った。 その言葉にウェイトレスがにっこりと微笑んだ。 同じ音大に通う政貴とはよく一緒にご飯を食べに行くことがある。だけどもっぱらファミレスとか居酒屋が多くて、こんな小洒落たレストランへ来ることはない。 「ああ、そっか」 思わずつぶやくと、隣の章三が訝し気に顔を上げた。 「何だ、葉山」 「あ、ううん。赤池くんがこういうお洒落な店をよく知ってるのは、奈美子ちゃんとのデートで行くからなのか、と思って」 「は?」 ぎょっとしたように章三が身を引く。 政貴はなるほどねーっと楽しそうに笑った。 章三が幼馴染みでお隣さんの奈美子ちゃんと恋人同士になったのは、大学に入ってからのことだ。 まぁ今までだって似たようなものだったろうけど、章三的にはちゃんとケジメをつけて付き合いたかったんだろう。どこまでも章三らしいな、とギイは呆れていたけれど。 「女の子は美味しい店をよく知ってるからなぁ」 「ギイだってよく知ってるだろ」 「そりゃあどうせ食べるなら美味しいものの方がいいだろ?」 「ごもっとも」 「けど、託生は何食べても美味しいって言うからなぁ」 ギイがわざとらしくため息なんてついてみせる。 「ちょっと、人を味音痴みたいに言わないでくれないかな。ギイが連れていってくれる店はどこも美味しいんだよ。それだけのことじゃないか」 運ばれてきたピザを一切れ自分の皿に移して、ぼくはギイを軽く睨んだ。 「そうかぁ?」 まだ何か言いたそうにしているギイを、政貴がまぁまぁと遮った。 「葉山くんは滅多なことでマイナスなことは口にしないだろ?そういうのってすごいなって思うよ。一緒にご飯を食べてて気持ちがいい」 政貴の絶妙なフォローにぼくはうんうんと大きくうなづいてみせた。 「いや、美味しくない時はちゃんと言わないとダメだろ」 「だよな」 ギイと章三がこういう時に結託するのは昔のままだ。変なところで相棒らしさを出してほしくないよ、まったく。 「まぁいいじゃないか。ギイが葉山くんのために美味しい店を必死に探してると思うと、ちょっと微笑ましいし」 政貴の言葉に、ギイはバツが悪そうに口を閉ざした。 確かに政貴の言う通り、ギイはいつもぼくに美味しいものを食べさせてくれる。 リアクションが薄いぼくに怒ったりすることなく、毎回毎回新しいものを見つけてはぼくを誘ってくれる。 当たり前のように美味しいものを食べていたけれど、それはギイの努力のおかげなのだ。 そう思うと何だか申し訳ないような気がしてきて、たまにはぼくもギイをあっと言わせられるような店を探してみようかなと思った。 「ギイは相変わらず忙しいみたいだね。これからもずっとアメリカなのかい?」 「そうだなぁ、しばらくはアメリカかな」 「じゃあ葉山くんとも遠距離のまま?」 政貴に指摘されたギイは、ちらりとぼくへと視線を向けた。 「いや、遠距離はできるだけ早く解消したいと思ってる」 静かに、けれどきっぱりとギイが言い切った。 それは初耳で、ぼくはまだこれからもこの状態が続くと思っていたので意外な気がした。 だいたい解消したいと言ったところで、ギイはアメリカで仕事をしているし、ぼくは日本の音大だし。 どうすれば解消できるのか想像もつかない。 「思うのはいいけどな、また無茶して親父さんの怒りを買ったら目も当てられないんじゃないか?」 章三がちくりと釘を刺す。 祠堂から強制送還させられた過去を持つギイとしては、章三の言葉に苦笑して、大丈夫だよと肩をすくめた。 「オレだって馬鹿じゃないから同じ失敗はしない。二十歳も超えたら親もいちいちオレのすることに口出しはできないしさ。ちゃんと託生と一緒にいられる方法を考える」 「だってさ、よかったね、葉山くん」 政貴ににっこりと微笑まれて、だけどぼくは素直に嬉しいとは思えなかった。 ギイの立場からして、そんなに簡単に物事が運ぶとは思えないし、ぼくのために無茶はしてほしくない。 音信不通だったあの頃を思えば、今はちゃんと連絡も取れるし、どこにいるかも分かっている。 お互いの気持ちが変わっていないことも確かめられて、こうして時々は一緒に過ごせる。 これ以上を求めるのは贅沢のことのように思えるのだ。 「葉山くん?」 「え、あ・・・うん、そうだね・・・でもギイ、ぼくは・・・」 このままでもいいと言えば、ギイのことをひどく傷つけてしまいそうな気がした。 もちろんずっとそばにいたいと思っている。 だけど・・・ 「託生?」 「ごめん、えっと・・・無理しなくてもいいかなって。ギイもやっと自由になれたとこだし、ほら、今はメールもあるし、お互いの近況報告もすぐできるし」 「いやそうじゃなくてさ、離れてるのはダメだろって話」 「・・・」 ぴしりと言われて、ぼくは黙った。 ギイの言うことは当然のことで、間違ってもないし、ぼくだっていつまでも遠距離のままでいいとは思っていないけれど・・・ 不穏な空気が漂い始めた頃、政貴がいつもよりのんびりとした口調で言った。 「まぁ、葉山くんが不安になるのは当たり前だよ。遠距離とはいえ、今は落ち着いた状況なわけだし、連絡は密に取っていて、関係は順調なわけだし。どんな形であれ、ギイが自分を取り巻く状況を変えようとしたら、やっぱり多かれ少なかれ障害もあるだろうから、そういうこと考えるとあれこれ悩んじゃうよね」 一年間、恋人と遠距離恋愛をしてきた政貴には、ぼくの考えていることは分かるようだった。 事なかれ主義だと思われても仕方ないけれど、まだ少し今のまま平凡な幸せに浸っていたいと思ってしまうのだ。 「だけど大丈夫だよ、葉山くん」 「え?」 政貴はピザの最後の一切れを食べてしまうと、ギイとぼくを見て、そしてうん、と一つうなづいた。 「一緒にいたいっていうギイの気持ちも、このままでもいいかなっていう葉山くんの気持ちも分かる。でもどちらも相手のことを好きだっていう思いに違いはないわけだし、二人にとって一番いいことは何なのかはこれからゆっくりと決めていけばいいんじゃないのかな。大丈夫だよ、何しろ葉山くんは、突然消えちゃったギイのことをずっと好きでいられた人だからね、そうそう簡単に周囲からの横やりに負けたりはしないと思うよ。ね、ギイ?」 「あー、まぁそうだな」 「何にしても、どうせまだ大学生なわけだし、焦らなくてもいいんじゃないか?次に考えなきゃいけないタイミングとしては卒業の時だろうし」 章三の一言は、実はぼくとギイにとってはあまり喜ばしいものではなかったけれど、とにかくそれをきっかけに話題が変わり、その夜は概ね楽しく食事を終えることができた。 駅前で章三と政貴を見送ると、ぼくたちは何となく無言のままホテルへと歩き出した。 3.不安になるのは当たり前 4. ギイが泊まるホテルの部屋は最上階のツインルームだった。 章三たちと別れてから、何となくギイの機嫌は悪いようで、かといってそれをあからさまに態度に出すようなギイではないので、たぶんぼくでなければ分からないくらいの微妙な気持ちの揺れに、少しばかり気まずさを感じてしまった。 「ギイ、先にシャワー使ってもいい?」 「ああ、かまわないよ」 上着を脱いで、ギイはテレビをつけるとそのままベッドに横になった。 まだ起きてるからという意思表示なのか、それとも今夜はもうこのまま寝てしまおうという意味なのか。 (ほんと、ギイってだんだんと子供っぽくなってないか?) 浴室で熱いシャワーを浴びながら、ぼくはどうしたものかと考えていた。 さっきみんなで食事をしていた時に、しばらくは今の遠距離でもいい、というようなことを言ってしまったせいで、ギイはすっかり拗ねてしまっているのだ。 (だってしょうがないじゃないか。どうしたって遠距離を解消なんてできないんだし) できない、よね。 ギイはできるだけ早く解消したいって言ってたけど、だけどぼくはまだ音大へ通うつもりだし、ギイだってアメリカで仕事してるんだし。 それともギイはまた何か考えているのだろうか。日本で暮らせるようなことを? だけど、そんな簡単に日本に戻れるわけがない。 それくらいぼくにだって分かる。 ぼくは浴室を出ると、備え付けのタオルで髪を拭った。 「気づかないふりでいるのも嫌だけど、喧嘩するのもちょっとなぁ。って考えててもしかたないし・・・よしっ」 長々と考えていたところでどうしようもないので、ぼくはちゃんと話をしようと心を決めて、部屋へと戻った。ベッドに横になっていたギイは、ぼくを見るとよっと身体を起こした。 「もうちょっとで寝ちまうとこだった。託生、眠かったら先に寝ていいからな」 「起きてるよ」 きっぱりと言うと、ギイは驚いたように目を見張った。 「起きてるから、早く戻ってきて。それから少し・・話をしよう、ギイ」 「・・・託生」 ギイは決まり悪げに視線を彷徨わせ、そのままぼくのそばへと戻ってきた。 ベッドに並んで腰かけると、ギイはぼくの肩に額を押し当ててきた。 ふわりとギイのコロンが香って思わず口元が緩んだ。昔から大好きなギイの匂いだ。 「ごめん、態度悪かったよな、オレ」 「そうだね。喧嘩にならないだけマシかもしれないけど、そんな風に拗ねられたらどうしていいか分からないよ」 素直にそう言うと、ごめんとギイはもう一度謝った。 ぼくはそっとギイの手を握りしめた。 「ギイ、ぼくはずっと遠距離のままでいいって思ってるわけじゃないんだよ?」 「ああ、わかってる。わかってるけど、今のままでもいいって思ってるんだろ、お前」 「そうじゃなくて・・・またギイと離れるようなことになるくらいなら、遠距離でもいいかなって思っただけだよ」 ぼくの言葉に、ギイはぱっと身体を離した。 じっと探るように見つめられて、こんな不安そうなギイの顔を見るのは久しぶりだなと思った。 言えばギイのことを責めるような気がして言えなかったけれど、ギイと離れていたあの数年はやっぱり辛くて、いつか必ず会えると信じていたけれど、もしこのまま会えなかったと考えたことだってあった。 お互いの気持ちが変わったわけでも何でもないのに、思いもしない力で引き離された。 自分たちの意思で別れたわけではなかったから、絶対に大丈夫と思う反面、だからこそダメになることもあるかもしれないと落ち込むこともあった。 もし今、ギイが強引に遠距離を解消しようとすれば、またあの時のように離れ離れになってしまうような気がして怖かった。 ただ一緒にいたいだけなのに、その意に反して離されてしまっては本末転倒だ。 「ギイがまた無茶をして、会えなくなるのは嫌だ」 「託生」 「もうあんな風に離れたくない」 たぶんその言葉でギイはぼくが言いたいことをすべて理解したのだろう。 あー、と宙を仰いでそしてがっくりと肩を落とした。 「・・・・ごめん、オレのせいだよな。託生を不安にさせたんだし、そりゃあ当然だよな」 「ギイのせいじゃないよ。あれは、ギイのせいじゃなかった。そんなことを言ってるんじゃないんだ。ぼくはただ、もうあんな風に理不尽に、ギイと離れたくはないってだけ」 気持ちが離れていなければ、距離が離れていても平気だなんて嘘だ。 遠距離なんてやっぱり寂しい。 だけど、無理にそばにいようとして会えなくなるのはもっと嫌だ。 こんな我儘、ギイには言いたくないのに。 「託生」 ギイはそっとぼくを抱きしめてくれた。 ぺたりと胸元に頬をくっつけると、その温かさにわけもなく泣きたくなった。 「離れないよ。オレだって託生と離れて、それがどれだけきついことかよく分かったし、もう二度とあんな風に託生を悲しませたりはしないって約束する」 「うん」 「でもな、怖がって動けないでいるのも何か違うって思うんだ」 ギイの言葉に、ぼくははっとして顔を上げた。 ギイは優しく微笑むと、ぼくの頬に手を置いて言った。 「一緒にいたいって思うから、オレはそうなれるように努力する。誰にどんな邪魔をされたって、託生とこれからの人生を歩いていきたいと思うし、この遠距離恋愛は長い人生のうちのほんの一瞬だって思ってるから我慢できるんだ。だからさ、託生もこのままでいいなんて思わないで、オレともっと一緒にいたいって思ってくれないか?月に1回会えるか会えないかの状態でいいなんて思わないで、このもどかしい距離を何とかしようって思って欲しい」 「・・・・ギイ」 やっぱりギイは昔から何も変わっていない。 諦めたらそこで終わりだ、とぼくに教えてくれた頃と何も変わっていない。 聞き分けのいいふりをして逃げていたのはぼくの方だった。 傷つかないでいられるのなら少しくらい寂しくてもと、心のどこかで思っていた。 だけど本当は・・・ 「一緒にいたいよ、ギイ」 4.「もどかしい距離」 5. もちろん今すぐ遠距離を解消する手立てなんてあるはずもなく、だけど少なくともぼくが音大を卒業する時が一つの分岐点になるだろうことは分かっていた。 今はまだどんな道を選ぶかはっきりとは見えてはいないけれど、だけどどんな道を選ぶにしても、どうすればギイと一緒にいられるかを一番に考えるだろう。 三日間、ぼくたちは久しぶりに二人きりで密度の濃い時間を過ごすことができた。 今のこの遠距離の状態についても、ちゃんと話し合うことができたし、今すぐは無理でも必ずまた一緒にいられるようにしようと約束することができた。 祠堂にいた時は将来のことなんて何も考えてなかったけれど、今はその将来がほんの少し身近なものに感じることができる。 ギイとの将来を考えるなら、それは避けては通れないことなのだ。 「やっぱり帰りたくない」 見送りにきた空港のカフェで、ぼくたちは別れを惜しんでいた。 今度会えるまでまた少なくも一か月。 毎日メールや電話をすればいいと分かっているけれど、それでも毎回別れの時は胸が締め付けられる。 「アメリカに帰る時はいつも同じこと言ってるよ、ギイ」 「しょうがないだろ。託生は?オレに帰って欲しくない?」 「そりゃそうだよ。もう、ギイってばそれも毎回聞いてるよ」 帰りたくない。 帰ってほしくない。 いつも空港の同じカフェで同じ会話を交わしている。 章三あたりに聞かれたら絶対に説教されるに違いないバカっぷるぶりだと思う。 「会えない時間が愛を育てるって聞いたことあるけど」 「佐智も同じようなこと言ってたけどな、オレは会ってる時間にも愛を育てるからいいんだよ」 「はいはい。ああ言えばこう言うんだから」 ギイの減らず口に思わず笑ってしまった。 「なぁ託生」 「なに?」 「オレ、考えたんだけどさ」 「うん」 ギイはカップに残っていたコーヒーを飲み干すと、まるでいたずらっ子ように目を輝かせてぼくを見た。 「たぶん託生がアメリカで暮らすっていうのは難しいだろうなって思うんだよ。だってお前、ぜんぜん英語の勉強してないだろ?ということはだな、オレが日本へ来ることを考える方が建設的だよな。しばらくはまだアメリカで仕事するのに精一杯だけど、日本で仕事をするっていうのも手だと思うんだよ」 「あー、うん・・?」 確かにぼくがアメリカで暮らすっていうのはなかなか考えにくい気もする。 いざとなれば何とかなるような気もするんだけど、英語、そんなに簡単に話せるようになるとは思えないし。 「あと5年はがっつり働けばそれなりに貯金もできるだろうから、そうしたら仕事辞めて日本で暮らしてもいいなって思ってさ」 「はい?」 何だか不穏なセリフを聞いたような気がして、ぼくはギイを凝視した。 仕事を辞める? 「だって、今の仕事じゃアメリカから脱出できそうもないだろ?仕事を辞めればいくらでも日本で暮らせるわけだし。その気になればいくらでも仕事はあるわけだから、さっさと日本で暮らす算段をした方がいいかもしれないなって思ってさ。そうすれば託生と一緒に暮らせるわけだし」 「ちょっとギイ、今の仕事辞める気なの?」 お父さんの仕事を手伝ってるんじゃなかったっけ? 世界的に有名なFグループだよね?ギイは長男で跡取りだよね? いったいどこから突っ込めばいいか分からず、呆然とするぼくに、ギイは不思議そうな顔をした。 「どうした託生」 「どうした、って。そんな簡単に仕事を辞めるなんて何考えてるんだよ」 「アメリカじゃキャリアアップのために転職するのは普通のことだぜ」 「ギイが辞める理由はそれじゃないだろ!」 日本でぼくと一緒に暮らすために仕事辞めるだなんて、いったい何を考えているだ、ギイは! 冗談じゃなく本気で言ってるあたりがギイの怖いところだ。 「だからさ、それくらいオレはいろいろ考えてるってこと。託生と一緒にいるためにさ」 ギイはテーブルの上でぼくの手をそっと握った。 何だか上手く丸め込まれそうな気がして、ぼくはじーっとギイを見つめた。 鈍い鈍いと周りから言われるぼくだけど、ギイのことに関しては不思議と勘が働くのだ。 昔はギイのことは読めなかったけど、遠距離になってからどういうわけかギイの考えていることがよくわかるようになった。 「・・・半分本気で半分冗談?」 「託生、すごいなぁ、オレのこと何でも分かるようになってきたんだなぁ」 感心しきりといったギイだが、ぼくはバカバカしさに脱力してしまった。 真面目に話を聞いていて損をした。 「ふざけてばっかりだな、ギイ」 「いや本気八割、冗談二割くらいかな」 「あのね、ギイ、ぼくだってギイと一緒にいたいけど、だからって仕事を辞めるなんてどうかしてるよ。ぼくのために仕事を辞めたなんて言われてもぜんぜん嬉しくないからね」 「そうか?」 不満気な言葉だけどギイはどこか嬉しそうで、ぎゅっとぼくの手をさらに強く握った。 こんな人目のあるところで手を握り合ったりしてたら何ごとかと思われるんだろうけど、また1ヵ月は会えなくなってしまうことに免じて見逃して欲しい。 「浮気禁止」 「しませんから」 「メールはちゃんと読むこと」 「読んでるよ」 「土曜日の夜は電話する」 「うん、待ってる」 「たまには託生からも電話してくれよな」 「うーん、ギイ忙しいだろ?」 「忙しくても託生からの電話なら出るよ」 見惚れるような笑みを浮かべるギイに、ぼくは大丈夫だよ、と笑った。 「そんなに頑張らなくてもね、ギイ、ぼくの気持ちが変わることはないし、放ったらかしにされたって拗ねたりしないから。たまにしか会えないのは寂しいけど、こうしてちゃんと会えるんだし、遠距離だっていつかは解消されるはずだって思ってる」 真っすぐにギイを見てそう言うと、ギイはちょっと泣きそうに小さく笑った。 「何だかお前、昔よりもさらに強くなってるよなぁ」 「え、そうかな。何も変わってないよ」 「離れてても平気だなんてさ」 「平気っていうか・・・だって、ギイのことを信じてるからね」 ぼくにはそれしかできなかった。祠堂にいる時も、離れていた時も、そして今も。 難しいことだと時々思うけれど、だけど信じる相手がギイだから、ぼくにはそれはとても簡単なことなのだ。 ギイはそうじゃないのかな。 そんなに心配するってことはぼくのことを信じてないということだろうか。 「・・・オレも信じてるよ」 ギイは小さくうなづいた。 「託生のことを信じてる。ただ好きすぎてちょっと心配性になっちまうんだよなぁ。託生が会うたびにカッコよくなってるからさ」 「はい?」 よもやギイからそんな言葉を言われる日が来ようとは。 カッコいいなんて今まで誰からも言われたことはないぞ。 「託生、顔が赤い」 「ギイがおかしなこと言うからだろ」 小さな子供をからかうように、ギイがぼくの両頬を掌でぎゅーっと包み込んだ。 「おまけに可愛い」 「ちょっと!二十歳を超えたのに可愛いだなんて言われたくないよっ」 カッコいいと言われるのも恥ずかしいけど、可愛いの方がもっと嫌だ。 そんなどうでもいいことでカフェでうるさくしている間にフライトの時間がやってきて、ギイはいつものように「じゃあまたな」と言ってゲートの向こうへと姿を消した。 寂しい寂しいと言いながらも、最後はあっさりと去っていく。 きっとぼくがセンチメンタルな気持ちにならないように、そして離れることはたいしたことじゃないんだと言ってくれているようで、ほっとする。 遠距離恋愛を続けていくコツは必要以上に深刻にならないことなのかもしれない。 たとえいくら心の中では寂しいと思っていても。 そして何より相手を信じること。 だとしたら、きっとぼくたちは大丈夫。 誰より何よりも、ぼくたちはお互いのことを信じているのだから。 5.「信じあう心」 お題は「きみのとなりで」様よりお借りしました。 |