第29話
これは夢なのではないか、と託生は目の前にいるギイを見つめた。 少し痩せただろうか。いつもの覇気が薄れているような、どこか疲れた印象さえ感じて、託生は胸が痛んだ。この一ヶ月間、ギイは託生のことを探す一方で、まるでロボットのように働いていたと島岡が言っていたのを思い出した。 何も考えたくなくて仕事に没頭する姿は想像に難くない。 託生を探すために仕事を放り出すようなギイではないことはよく分かっている。 たとえ不本意であっても、その時自分のやるべきことをやるのがギイだ。 だからといって愛情が薄いなどと思うことはない。 ギイの愛情を疑ったことなど一度もない。自分がどれほど深く愛されているかなど、今さら教えられなくたって分かっている。 目の前にいるのはギイだった。 会いたくて会いたくて、だけど会いたくなかった人だ。 自分がどれほどギイのことを愛しているか、また思い出してしまうから会いたくなかった。 それなのに。 「ギイ・・・どうして?」 「どうして?それはオレが聞きたい」 思わず零れた託生の言葉に薄く笑って、ギイはずかずかと部屋を横切ると、託生の腕を掴んだ。 「ギイっ」 「どうしてオレから逃げた?」 「・・・・っ」 「どうして一人で逃げ出した?オレの愛人でいることに嫌気がさしたか?託生のことを愛してるって言いながらも結婚なんてしたオレのことを嫌いになったか?」 「・・・・ギイ・・」 結婚は、託生がそうしろと言ったからだ。 ギイのせいじゃない。 「何も言わずに消えることができる程度の思いだったのか?」 そうではなくて、消えることしかできなかった。 それが辛くなかったとでも思っているのだろうか。 ギイは自嘲するような笑いを浮かべて託生に顔を近づけた。 「答えろよ、託生」 きつい口調で問い詰められて、託生はギイから逃げようと掴まれた腕を振り払おうと試みた。 そんな託生を許すはずもなく、ギイはさらに強い力で託生を引き寄せた。 どんなに抗ったところで、ギイに敵うはずもない。 暴れる託生に、ギイは無言だった。 無言のまま、易々と抵抗を抑え込む。 今まで知っているギイではないような気がして、託生は無意識のうちにギイから視線を反らした。 それがさらにギイの怒りに火をつけることになるとは気づかずに。 「ごめん・・・・」 「ごめん?何だよ、それ。自分が悪いことしたって思ってるってことか?」 「そ・・じゃなくて・・・だって・・・」 悪いことだとは思っていない。 ギイのためにはそうするしかなかった。 だけど、本当はギイのためだけじゃなかった。 誰にも言えない恋愛を続けることに、本当は少し疲れていたのかもしれない。 非常識なことをしているという罪悪感。 そしてギイを自分だけのものにしたいという独占欲。 どうにもならないいろんな思いがあって、気づかないうちに心が疲弊していたのだ。 ギイを困らせたくなくて姿を消そうと思った。それは真実なのだけれど、あんな形でギイの元から去ることになって申し訳ないという気持ちと同時に、これでもう終わるのだと、どこかでほっとしてしまったのも事実だ。 そんな自分が嫌でたまらなかった。 だから逃げた。 ギイから。 ギイの愛情から。 両腕をつかまれたまま、託生は俯き、その場に膝をついた。 「本気でオレから逃げられると思ったのか?」 「・・・・」 「本気で、オレと別れたいと思ったのか?」 託生は顔を上げて、真っ直ぐにギイを見た。 「・・・そうだよ・・・本気で別れようと思った。だから、何も言わずに出ていったんだよっ。もうぼくのことは放っておいてくれよ。追いかけたりしないで、もう・・・お願いだから・・許して・・・」 「許す?」 ギイはふっと笑うと、託生の腕を掴んだまま隣の部屋へと続く襖を乱暴に開けた。引きずるようにして託生を立たせると、すでに敷かれていた布団の上へとその身体を突き飛ばした。 倒れこむ託生が慌てて起き上がろうとする。その身体の上に乗りかかるようにしてギイが覆いかぶさった。 シャツを肌蹴け、ベルトを緩めるギイの手を託生が必死で押しとどめる。 ギイが何をしようとしているのかを察知して身を起こそうとしたけれど、再び強い力で押し倒された。 「やっ・・・だ・・・、ギイっ」 ギイを押しのけようとする手を簡単に振り払われて、託生は初めてギイの怒りがどれほどのものかを思い知った。 無言のままギイは託生を組み敷く。 怖くて、託生は震えながら叫んだ。 「嫌だっ・・・こんなのギイらしくないっ・・」 その言葉に、ギイの手が止まった。 「オレらしくない?そうかな、オレだって傷つくし怒りだって感じる。すぐに見つかると思ったのに、お前上手く隠れてたよな、おかげでずいぶん時間がかかっちまった。・・・一ヶ月、託生がいない一ヶ月、オレがどんな気持ちでいたか、お前に分かるか?」 「・・・・」 「怒ってるよ」 「・・・・」 「お前が、オレに何も言わずに出て行ったことに怒ってる。ちゃんと、オレに気持ちを伝えてくれなかったことに怒ってる」 ギイの言うことはもっともなことで、託生には何も言い返すことはできない。 それでもそうするしかなかったのだ。 思わずギイに背を向けた託生を抱きしめて、ギイはその細いうなじに唇を寄せた。 「退いて、ギイ」 「・・・嫌だ」 ギイは託生のシャツを肩から落とすと、顕になった肩から背中へと指を滑らせた。 「託生はオレのものだ。だったらいつだって、好きな時に抱く」 思いもしなかった言葉に身体を反転させて、託生はきつい瞳でギイを睨んだ。 少しも表情を変えないギイに耐えられなくなって思わず頬を叩いた。 とたんに、その手首を取られて布団の上に押し付けられる。 ギイはゆっくりと託生の耳元に口元を寄せると、低くつぶやいた。 「愛人って、そういうもんだよな、託生」 体中から力が抜けて、もう抵抗する気にはなれなかった。 口づけてくるギイが無性に悲しくて、託生はきつく目を閉じた。 後から後から溢れてくる涙はただ頬を流れて耳元を辿る。 どうしてこんな風にしか触れ合うことができないのだろう。 こんな風に性急に、乱暴に抱かれるのは初めだった。 深く深くつながり合っても、何も感じることはできなかった。 第30話へ |