第30話
優しく髪を撫でられる感触に、意識が戻った。 薄ぼんやりとした部屋の中、背中だけがほんのりと温かかった。 振り向かなくても分かる。 ギイだ。 この一ヶ月の間、ギイのことを思わない日はなかった。 もう二度と味わうことのないであろう温もりが恋しくて、何度も夢に見た。 そのギイがいつもと同じように背中から抱きしめて、優しく労わるように髪を撫でてくれている。 もしかしたらこれも夢ではないか、と託生は怖くなった。 「ギイ・・・?」 自分の声が掠れていることに少し驚いて、託生は小さく咳払いをした。 「そこに・・いる?ギイ」 「ああ・・・いるよ」 さっきまで身に纏っていた荒々しい空気は嘘のように消えていて、いつもの静かで優しいギイがそこにいた。 ギイと再会してからの数時間、嵐のような時間だった。無理矢理抱かれるなんて初めてで、どうしても拒否反応を起こしてしまう託生の強張りを、ギイは時間をかけて解いていった。 そして、いつしかいつもと同じように優しく口づけられ、愛された。 (馬鹿だ、ギイ・・・) どうして探したりしたのか。どうしてまた抱いたりしたのか。 ギイだって苦しむことになるのに。 託生は身体に回されたギイの手を解こうとそっと触れた。するとすぐに指を絡められて強く握り返される。 そのまましばらく口を閉ざしていた託生は、ふと思いだした。 「ギイ、島岡さんにぼくの居場所を聞いたの?」 「島岡?いや、聞いてない。あいつ、託生のこと見つけ出してたのか?もしかして、何か連絡があったのか?」 ギイの台詞で、託生はせっかく島岡が黙っていてくれたのに、自分からバラしてしまうことになったのだと気づいた。そして島岡が託生の頼みを聞いてくれていたのだと分かり、申し訳ないような気持ちになる。 「島岡に託生を探すように頼んでた。けどなかなか埒があかないから、途中からオレも別ルートでお前のこと探してた。あいつは正攻法でしか探してなかったみたいだけど、オレは裏からも手を回してたし。だから思ったより早く見つけることができた。そっかあいつもちゃんと見つけてくれてたんだな・・・じゃあどうして報告しなかったんだ」 「島岡さんに、ギイには知らせないでくれって頼んだのはぼくだよ。島岡さんは悪くない。だから責めたりしないでくれよ」 ギイはどこか納得いかない様子だったけれど、わかったよ、とうなづいて、託生の首筋に顔を埋めた。 しばらくそうしてお互いの温もりを確かめ合ったあと、ギイがぽつりと言った。 「ごめんな」 「え?」 「別れてやることできなくて、ごめんな」 「・・・っ」 「オレ、やっぱりダメなんだ。託生じゃなきゃダメで・・・。託生がもう終わりにしたいって、オレとのこと終わりにして、一人になりたいって思う気持ちも理解できるのに・・だけど手離してやることなんてどうしてもできなかった。託生のこと傷つけるだけだって分かってるのに、またこうして追いかけてきてしまった」 「・・・・」 「好きなんだ」 「・・・うん」 知ってるよ。そんなこと。 初めて会ったあの日から、お互いのことを大切に思ってきた。 他の誰にと何と思われようと、この気持ちは二人だけのものだ。 二人だけでしか分かち合うことのできない宝物だ。 「勝手に・・・出ていってごめん。でも、ぼくのせいで、ギイが嫌な思いをして欲しくなかったんだ」 「嫌な思い?」 「同性の恋人がいるってことで後ろ指さされたり、仕事の邪魔になったり・・・ぼくがいなければしなくて済んだ苦労が、きっとあるよね」 「・・・・」 「ぼくは、ただギイと一緒にいたいってだけで、愛人でいいなんて簡単に言ってしまった。だけどそれは間違いだった。いくら愛してても、そんなことしちゃいけなかったんだ。今頃になって、それに気づいて・・・・」 「オレのためか?」 「うん・・・でもそれだけじゃなかった・・・」 「それだけじゃないって?」 「・・・たぶん、ぼくは楽になりたかったんだ」 ギイにずっと隠していた思いをようやく口にして、託生は大きく息を吐き出した。 「辛かったから・・・ギイと一緒にいたいって思うのは本当なのに、だけどそれと同じくらいにギイといるのは辛かった」 ギイは起き上がると、託生、と呼びかけて肩に手をかけて自分の方へと向けさせた。 「託生・・・ちゃんと自分の考えてることを教えてくれ」 「・・・・」 のろのろと託生も起き上がって、ギイと向かい合うようにして座った。 「オレといるのは辛かった?」 「うん・・・」 「どうして?」 どうして?大好きな人と一緒にいられるのに辛いと思っていたのは・・・ 言い淀む託生の頬を、ギイが両手で包み込む。 「託生、大切なことだから、ちゃんと言葉にして言ってくれ。オレの立場とか世間体とか、そんなの考えなくていいから、何も考えなくていい、だから、託生の本音をちゃんとオレに教えてくれ」 「ぼくは・・・」 初めてギイに会った時からずっとギイのことが好きだった。 好きで好きで、一緒にいられるなら愛人でもいいって思うくらいに。 だけど・・・ 「だってギイ・・・言えないよ・・・」 「ダメだ、ちゃんと言わなくちゃダメだ。今言わなくちゃ、オレたちは本当にダメになる」 「・・・」 「オレたち、すごく大切なこと、見過ごしてなかったか?」 「大切な、こと?」 「ああ、オレと託生の本当の気持ちだよ」 本当の気持ち? じわりと熱くなる胸の内に戸惑いながら、託生はぼんやりとギイを見返した。 「オレは、託生といたい。託生のことだけを見ていたい。結婚なんてしたくなかった。逃げられないって、分かっていたけど、それでも託生のことを愛人になんてしたくなかった。それがオレの本当の気持ちだよ」 ギイにきっぱりと言われて、託生はああ、と両手を布団の上についた。 胸の中で燻り続けていた思いが、渦を巻くようにして喉元へとせりあがって来るような気がした。 苦しくて、もう押さえておくことができなくて、託生はぱたぱたと涙を零した。 大きく息を吸い込んで、託生はとうとう胸の内を吐き出した。 「ぼくだって、本当はギイに結婚なんてして欲しくなかった。ギイがぼく以外の誰かと一緒にいるのなんて想像したくなかった。ギイがぼく以外の誰かを抱くことなんて考えたくなかった。だけど、ぼくは・・・ぼくには何もないから、ギイのこと好きだって、それしかなくて。一緒に逃げようって言われて、本当はすごく嬉しかったのに、心ではそう思ってたのに、そんなことできないとも思った。わけ分からないよね、ぼくだって、ずっと混乱してた。だけど、ギイの迷惑にはなりたくなかったから、自分の気持ち押し殺してた。ごめん・・・、好きなんだギイ・・・手離せないのはぼくの方だよ・・・この恋を、ぼくはどうしても諦められない・・・だから、愛人でいいなんて言ってしまった。馬鹿なことしてるってちゃんと分かってた。いつか、ギイと別れなきゃいけない時が来るだろうってことも分かってた。一緒にいることでギイのことを困らせて、ギイから別れようって言われるのが怖くて・・・だから、ぼくは逃げるしかなかった・・・。ギイ、どうしてぼくのこと探したりしたんだよ。会えば・・・離れられないってことくらい・・ギイだって分かっていただろ?どうして放っておいてくれなかったんだよ・・っ」 すべてを吐き出して、託生はしゃくりあげるような呼吸を繰り返した。 そんな託生の肩に手を置いて、ギイは俯く託生を覗き込むようにして言った。 「もう遅いよ託生、だってオレたち、とっくの昔に出会ってしまってた。祠堂で、初めて会った時から、もう離れられないってことくらい知ってただろ?」 「・・・・っ」 遠い昔、祠堂で初めて会った時から、ずっとずっとギイに恋をしていた。 もう遅い。そうだった。 今さら離れようだなんて、最初からできっこない話だったのだ。 「ごめんなさい・・・ギイ・・・好きになって、ごめん・・・」 きみが好きなんだ。 だから結婚なんてして欲しくない。 それが本音で、たった一つの真実で。 だけど、簡単に言えるような言葉ではなかった。 ギイのことが好きだからこそ言えないこともあるのだ。 託生は嗚咽を漏らした。 けれど、ずっと言えずにいた思いをようやく口にすることができて、すっと胸が楽になった気がした。 蹲る託生を、ギイはすくい上げるようにして抱きしめた。 強く抱きしめられて託生は子供のように声を上げて泣いた。 「託生、本気でオレが欲しい?」 「・・・っ」 肩を震わせて、託生がうなづく。 他には何もいらない。ギイがいてくれるなら、それでいい。 何度も何度もうなづくと、ギイがぽんぽんと託生の背を叩いた。 「いいよ、託生が本気で欲しいって思うなら、何とかする」 「・・・・そんなの・・・」 いったい何をどうするというのか。 ギイの背後にあるFグループ。育ててもらった親への恩。形ばかりとはいえ法律上の妻。 今からでは逃げることすらできない状況にあることは明らかなのに。 けれど、ギイは困った様子を見せず、むしろどこか楽しそうに笑った。 「大丈夫、オレ、今の託生の言葉があれば、もう怖いものなんてないんだよ」 「・・・ギイ?」 親への恩や、義務や、どうせ無理だろうなんて勝手な思い込みでがんじがらめになって、自分たちの本当の気持ちがいつの間にか見えなくなっていた。 心の中では何かが違うと思いながら、最後まで抗うこともせず、楽な方へと流されていた。 自分たちが我慢すればと、どこかでそんな風に思っていた。 だけど、本当に大切にしなくてはいけないのは、二人の気持ちだった。 そんな簡単なことが、どうして今まで見えなかったのだろうか。 誰に何を言われても、例え世界中の人から非難されるようなことがあったとしても、本当に大切にしなければいけないものは何なのか。 ギイは涙で濡れた託生の頬を指先で拭うと、そっと小さく口づけた。 「託生はもう考えなくていいから。さんざん悩んで苦しんで、いっぱい泣いただろ?だからもういい。あとはオレが考える。ごめんな、最初からそうすれば良かったんだよな。逃げようなんて、オレが言ったから、そりゃ託生はダメだって言うしかないよな。オレが悪かった」 託生は小さく首を振った。 「オレの中に、どうしても両親が望むことを拒みきれない弱さがあったんだ。育ててもらったっていう負い目があって、期待されていた分、裏切ることもできなかった。結婚する時も、向こうだってオレのことを愛してるわけじゃないんだから、これは単に企業を結びつけるだけのものだって自分に言い訳して、託生に甘えて、本当の気持ちを誤魔化して。だけど、託生の言う通り、こんなこと間違ってた」 「・・・・」 「オレたちがしなけりゃいけなかったのは逃げることじゃなくて戦うことだった」 「・・・・っ」 戦うという言葉に思わず息を呑む。 二人を取り巻くすべてのことと、戦わなくてはならないと言うのだろうか。 それがどれほど大変なことか、分からないギイではないだろう。 けれど、これから先、山ほどの問題を片付けていかなくてはならないというのに、ギイは少しも不安そうな表情はしていなかった。 ギイは、初めて出会った頃と同じ目をしていた。 明るい未来を信じさせてくれる力強い目。 ギイは、決めたのだ。 それがたった一人でも、二人の未来のためにきちんと前を向いて戦おうと。 託生は不思議とそれまでの不安だった気持ちが消えていくのを感じていた。 「託生がいなくなって、オレ、いったい何やってるんだろうって思ったよ。オレがやらなくちゃならないことは他にあるってやっと気づいたんだ。なぁ託生、約束してくれ、もう二度と自分だけで悩んだりしないって。どんなに辛いことがあっても別れるなんてことは考えないって。オレはもう逃げない。託生のことだって手離したりしない。託生のことを愛してるから、だから諦めたりしない」 その力強い言葉に、託生はうなづいた。 昔、心弱くなりそうな時に、ギイが言ってくれた言葉を思い出した。 託生のことを何度も勇気づけてくれた言葉。 「うん・・・分かったよ、ギイ。ぼくも一緒に戦う」 「託生・・・?」 「だって、諦めたらそれでお終い、あとがない・・・なんだろ?ギイ、そう言ってくれたよね」 「ああ」 「・・・ぼくはギイと一緒にいたいんだ」 「・・・ああ」 「もう逃げない」 勝てる勝負じゃないかもしれない。 それでも、逃げるのも、流されるのももうやめよう。 これからもっと辛いことになったとしても、もう二度と繋いだ手は離さない。 だって誰よりもきみを愛しているから。 愛の嵐 第一章終了 これからのお話 お互いの気持ちを確かめ合い、もう逃げるのはやめようと決めた二人。 そんな二人の前に立ちはだかるFグループの壁。 離婚を切り出すギイと拒む妻。 託生へと近づく謎の男。 二人は幸せを掴むことができるのか。 そんな感じで。乞うご期待。(って、続くのか!これ?!) |