それを見つけたのはほんの偶然だった。
演奏会が終わり、夕食までの自由な時間、ぼくは一人でぶらりと街へ出た。 初めて訪れる海外の街を一人で歩けるようになるまで、けっこうな時間を要した。 最初はもちろんギイが一緒だった。
何しろ言葉に自信がなかったので、ギイがいなければどうにも外へ出る気にはなれなかったのだ。
けれど、いつもいつもギイと一緒というわけにもいかないし、そのうち少しづつ言葉も分かるようになり、ちょっとくらいのトラブルがあっても度胸と気合で何とかなると分かってからは、訪れる街を散策するのが楽しくなってきた。 ギイに言わせれば、 「昔っから妙に肝が据わってるところがあるもんな、お前」 というところである。
いつまでたっても心配性なギイは、見知らぬ街を一人歩きすることにあまりいい顔はしないけれど、そんなことを言っていては何もできない。 なので、ギイには内緒にしていることも、実はたくさんあったりするのだ。
石畳の古い街は、どことなく懐かしい感じがして、知らずに知らずに口元が綻ぶ。
まだ冬には早い季節だったが、寒さには滅法弱いので、ぼくはコートをしっかりと着込んでいた。 ポケットに手を入れて、肩をすくめる。 「うー、手袋もしてくればよかった」 ギイが聞けば絶対に呆れるだろうが、風邪を引くよりはずっとましだ。 しんしんと足元から這い上がる寒さに、日が暮れるまでにはホテルに戻ろう、と決めた。 街の中心部にあるショッピングモールは、通勤帰りらしい人で賑わっていた。
もともと買い物をするために訪れたわけではないので、あれこれと品物を眺めるだけで手は出さない。 ただ見ているだけでもけっこう楽しめるのだ。 あまりの寒さに、途中のコーヒースタンドでコーヒーを買って指先を暖める。
そばを通り過ぎる恋人たちの仲睦まじい様子に、隣にギイがいればなぁなんて思って勝手に照れてしまった。 ギイは今頃NYだ。 会いたくてもすぐには会えない。 毎日電話で話していても、やっぱりちゃんと会って、触れて、温もりを感じたい。
忙しいギイにそんなことを望むのは我侭だと分かっているけれど、でも思ってしまうのは止められない。 「だめだ、急に寂しくなってきた」 いったいどれくらいギイと会ってないんだろう。
お互いの仕事の都合なのだから仕方ないのだけれど、一度会えなくなると本当に平気で1ヶ月くらい会えなくなってしまうのだ。 考えるとまた寂しくなりそうなので、ぶんぶんと頭を振って気持ちを立て直す。 足早に大通りを横切り、ふと目についた横道へと入ってみた。 もともとこの街は治安のいい方だったし、横道とはいっても人通りもある。
日本にいるとどこにいても危険なことなどないけれど、外国ではそうじゃない、とギイには口すっぱく言われている。けれど、ちらほらと観光客の姿が見えるここなら大丈夫だろう。 路地の両脇には小さな店がいくつか並んでいて、どれも女の子が喜びそうな雑貨店だった。 店先に並べられた色とりどりの小物たち。 「へぇ、可愛いな」 見てるだけで癒されるなぁ。 きょろきょろと店を見ながら路地の一番奥の店の前まできて、ぼくはふと足を止めた。 ウィンドウ越しに見えたものにどういうわけか心惹かれ、目が離せなくなった。 吸い込まれるようにして、店の扉を中に入る。 薄暗い店内にあるのはどれも古めかしい家具や食器。 アンティークだろうか。使い込まれた物たちの不思議な存在感に、ぼくは目を奪われた。 そんな中でも一際ぼくの心を引き寄せたのは、一つのソファだった。 深緑色の布貼りのソファ。二人がけで、大人二人がゆったりと座れる大きさ。 そっと手で触れると、その心地よい手触りにほっとする。
(ギイに似合いそう)
このソファに座って本を読むギイの姿や、横たわって昼寝する姿が、自然と脳裏に浮かんだ。
(いいな、これ)
もちろんギイの部屋には立派なソファがあって、座り心地もとってもいいものだけれどどういうわけか、このソファとギイの組み合わせのイメージがぼくを捕らえてならなかった。 「どうぞかけてみてください」 奥から現れた店の主人が、声をかけてきた。 「とても古いものなんですが、手入れがされていて、掘り出しものですよ」 「へぇ」
勧められるままに、腰を下ろしてみると、やっぱりとてもいい感じで、ぼくはすっかりこのソファに魅せられてしまっていた。
(欲しいな)
普段からあまり物を欲しいと思うことはないのだけれど、一目惚れってあるんだなぁと思うくらいに、その時のぼくはこのソファが欲しくてたまらなくなっていた。 でも・・・ 「あの、これいったいおいくらなんですか?」
アンティークというだけで高そうなイメージがある。おまけにこのソファは見た目も座った感じもとてもいいし、もしかしてとんでもない値段がついてたりするんじゃないだろうか。 恐る恐る聞いてみると、主人は手にしていたファイルを開いて値段を確認した。 店の主人が口にした値段は、やっぱりぼくの想像通り決して安いものではなかった。 けれど、手が届かない値段でもない。 「誰か一緒に座りたい人がいるんですか?」 「え?」 「恋人と座るにはいいソファですよ。いかがですか、少しお安くしますよ」 いたずらっぽく笑って、店の主人がウィンクをする。 ギイと一緒に。
うん、それもいいな。
ぼく自身もこのソファに座っていたいと思うのだけれど、それよりもギイが座っているところを見てみたくて、少し考えたあと、ぼくは購入することを決めた。 ぼくにしてみれば思い切った買い物だった。
偶然訪れた異国の地の、ふと立ち寄った店で、ほとんど衝動的に、それなりの値段のソファを買い求めてしまうなんて。
(こういうのも何かの縁っていうのかな)
まさか持って帰るわけにもいかないので、ぼくはソファを送ってもらう手続きをした。 カードで支払いを済ませ、店を出る頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。 「はぁ、買っちゃったよ」 何だかどきどきして落ち着かない。 あまり物を買わないので、たまには散財するのもいいのだけれど、自分でも驚くくらいに 思い切った買い物だった。 でも嬉しかった。
あのソファが手に入ったことが、何だかとても幸せで、早く自分の部屋でギイと一緒に座りたいと思った。 「ギイも気に入ってくれるといいんだけどな」 寒さに身をすくめて、ぼくはホテルへと急いだ。
扉を開けると、目の前にぐっすりと眠り込んだギイ。 深緑色のソファで、午後の光の中で熟睡する姿に、思わず微笑んだ。 ゆったりとしたサイズのソファの片方の肘掛に頭を乗せ、もう片方には足を乗せて。 ぼくは起こさないように気をつけてギイのそばへと歩み寄った。 あの時、異国の地で衝動買いしたソファは、数週間後にNYのぼくの部屋に届いた。
届いてから、意外とそれが大きくて、部屋の中でずいぶんな存在感を示すことになってしまうことに驚いてしまった。
ギイは、部屋の真ん中にいきなり現れたソファに、さすがにびっくりしたようで、しばらくじっとそれを見つめていた。 「託生、どうしたんだ、これ」 「買ったんだよ」 当たり前だろ、と笑うぼくに、ギイもそうだよな、と苦笑した。 ぼくはギイの手を引いて、ソファに座らせた。 「あ、いいな、これ」 座ったとたん、ギイが言ったひとことに、ぼくは嬉しくなった。 「いい色だし、けっこう古いものだろ、これ?どこで見つけたんだ?」 「この前の演奏会が終わったあと。生まれて初めて衝動買いしちゃったよ」 「託生はモノを見る目があるんだな。これ、めちゃくちゃ座り心地いい」 二人で座るのにちょうどいいしな、と言ってぼくを手招く。
ギイの隣に座って、そっとその肩に頭を乗せると、ギイはぼくの肩に腕を回して、ぎゅっと抱き寄せてくれた。 「良かった」 「うん?」
(ギイが気に入ってくれて)
それからというもの、ギイはぼくの部屋にくると必ずこのソファを陣取るようになった。 まるでここが自分の特等席だというように。
いつも朝から晩まで働きづめのギイがぼくの部屋に来るときは、たいてい数少ない休息の時で、しばらくそこで話をしていると、やがてギイは静かに眠り込む。
ベッドで寝るほうがずっと身体が休まるだろうに、と思うのだけれど、だけどギイがそのソファで気持ちよさそうに眠る姿を見るのがとても嬉しくて、ついつい起こさずその様子を眺めてしまうのだ。
ぼくが寝室から毛布を取ってきて、そっとギイの身体にかけようとした瞬間、人の気配に敏感なギイはうっすらと目を開けた。 ぼくを見ると、優しく微笑む。 「・・オレ、いつの間に寝ちまってたんだろ・・・」 「ごめんね、起こしちゃって」 「いや・・何か、来るたびに、ここで寝てばっかだな、オレ」
ごめんな、と言うギイに、ぼくは首を振る。ここで当然のように眠り込むのはそれだけ気を許しているから。 ぼくといると安心できるからだろ? それがどれほど嬉しいことか、きっとギイには分からないだろう。 ギイが寛いでくれたらいいなと思って、ぼくはこのソファを買ったのだ。 だから、ここで眠ってくれるのはぼくにとっては嬉しいことだった。
それからしばらくして、ぼくはギイと一緒に暮らすようになった。
もちろん、深緑色のソファは新居のリビングを陣取ることになり、相変わらずギイはそこで居眠りをして、ぼくはその度にくすぐったいような幸せな気持ちになるのだった。
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