ギイに背中を押されて、平日で学校もあるというのに兄さんのお墓参りに行くことになった。
兄さんが亡くなってから今まで、一度もお墓参りに行ったことはなかった。 このままじゃいけないと思う気持ちと、今さら行ったところで何も変わりはしないという気持ちと、ぼくの中では二つの思いがごちゃまぜになっていて、ずっとどうしようもなくて、6月になると眠れなくなった。 雨になるとあの日のことを思い出して、いろんな思いが駆け巡って辛かった。 けれどギイにすべてを告白して、こんなぼくのことをギイは好きだと言ってくれて、 兄さんに会ってこいと送り出してくれた。 授業欠席の理由は章三に任せておけ、というギイの言葉に甘えて、ぼくは大胆にも学校を抜け出した。 バスに揺られながら、流れていく景色をぼんやりと眺める。 兄さんのお墓の前に立った時、いったいどんな気持ちになるのだろうかと想像しても、以前のように怖いと思うことはなかった。 大丈夫だと言ってくれたギイの言葉は魔法のようにぼくに勇気をくれたからだ。 そして初めて訪れた兄さんのお墓で、ぼくは思いもかけず兄さんの亡くなる直前の話を聞くことができた。 今まで知らなった事実はぼくにとってはまさに青天の霹靂のようなもので、もしそれが真実なのだとしたら傷ついていたのはぼくだけではなかったことになる。 そんなことは思いもしなかったから、驚くと同時に、胸の奥底で長い間冷たく固まっていた何かがゆっくりと溶けていくような、そんな気持ちになった。 もちろん何もなかったことにはできない。 だけど、ぼくは兄さんのことを許せるんじゃないかと思えた。 今すぐには無理でも、もう少し時間がたてば、もっと違う感情で兄さんのことを思えるようになるんじゃないかとも。 それはすごく不思議な感覚で、それまで鬱々としていた目の前がぱっと晴れていくようだった。 心が軽くなるというのはきっとこういうことを言うのだ。 こんな気持ちになれたことを早くギイに知らせたくて、ぼくはお墓参りを済ませると早々に祠堂への帰路についた。 何しろ祠堂は山奥にあるので、朝早くに出発したにも関わらず、帰りつくのは夕方近くになりそうだ。 電車の中でも、バスの中でも、ぼくはずっとギイのことを思っていた。 早く会って今のこの気持ちを伝えたい。 兄さんのことを話したら、ギイは何て言うだろう。 良かったなって言うだろうか、それとも、オレの言った通りだろとおどけて見せるだろうか。 4月にギイと同室になってから、ギイに好きだと言われてから、自分が少しづつ変わっていくのを感じていた。 だけど、ギイに隠していた兄さんとのことが心の奥に冷たく居座っていて、それがある限り、ぼくはいつでもどこか後ろめたくて、ギイの恋人としてそばにいることはできないんじゃないかと思っていた。 だけどギイは、すべてを知ってもぼくに背を向けることはなく、変わらず好きだと言ってくれた。 そしてちゃんと兄さんと向き合ってこいと送り出してくれた。 最初は行きたくないとも思ったけれど、だけど今行かなくてはぼくはまた同じ場所でぐるぐると一人で思い悩んで、先へは進めないと思ったから、だから思い切って兄さんに会いにいった。 行って良かったと思う。 そんな風に思うことができて良かった。 すっかり日が落ちてから、ぼくは祠堂へと戻ってきた。 普段はしっかりと閉ざされた正門までたどり着くと、そこにはギイと章三の姿があった。 「よぉ、おかえり」 「ギイ・・・赤池くんまで・・どうして・・」 戻る時間なんて伝えなかったから、だいたいの時間を予想してずっとここで待っていてくれたのだろうか。 「門を開けなきゃ入れないだろうが。ほら、こっちだ」 章三が手招き、正門の脇にある通用門へと足を向けた。 鍵を開けてもらい、ぼくはそそくさと中へと入った。もう夕食は終わっている時刻で、誰かに見られる心配はなさそうだった。 「ありがとう、赤池くん。迷惑かけちゃったよね」 「たいしたことはしてない。まさか街に下りるとは思ってなかったが」 「うん、あ、これお詫びの品」 帰りの電車まで少し時間があったので、地元では有名な和菓子屋で美味しそうな、そして日持ちしそうな菓子を買ってきた。いつも章三には世話になっているし、今回の墓参りも章三のおかげで誰にも怪しまれずに済んだので、お礼はしておかなくてはと思ったのだ。 「お、葉山にしては気が利いてる」 「何だよ、ぼくにしては、って」 何て失礼な、と軽く睨むと章三は笑って軽く肩をすくめた。 「はは、ありがとな。でもそんな気を使わなくても良かったのに」 「うん、でも日頃のお礼も込めて」 章三には本当にいろいろと世話になっている。 貧血で倒れた時も、章三が助けてくれた。章三は紙袋の中を覗き込んで、お、と声を上げた。 「美味そうだな、これ」 「人気ナンバー1だって書いてたから、たぶん美味しいはず」 何も言わずぼくと章三のやり取り聞いていたギイは、ぼくと目が合うと、 「良かった」 と小さくつぶやいた。 ぼくがすっきりした表情をしていたから、安心したのだろうか。 本当に大丈夫だったのだと、このあとちゃんと伝えなくてはいけない。 3人でちょっとそのあたりを散歩してたくらいの雰囲気で寮に戻ると、同じクラスの友達が「葉山、体調はもういいのか?」 と声をかけてくれた。 去年までなら絶対になかったことだし、声なんてかけて欲しくないと思っていたと思う。でも今は仮病を使ってしまったという後ろめたさと共に、少しばかり嬉しさの入り混じった面映ゆい気持ちで友人たちからの気遣いに応えることができた。 「じゃあな、明日はちゃんと授業に出るんだろうな」 「うん、もちろん。ありがとう、赤池くん」 こっちこそ、と手にした菓子の入った紙袋を掲げて、章三は自分の部屋へと戻っていった。 寮のざわざわとした人の気配で、戻ってきたんだなという実感が湧いてきた。 お墓参りからの帰り道は、ずっと足元がふわふわとした感じがしていたけれど、ようやく現実世界に戻ってこれた気がした。 「託生、疲れただろ?」 「大丈夫だよ」 「先に風呂入るか?」 「ううん、ギイ、少し話がしたい。あ、これはギイへのお土産」 さっき章三に渡したものと同じ菓子をギイに手渡す。 「お、サンキュー。託生、夕飯は?どこかで食べたのか?」 「あ、忘れてた」 「おいおい、どうする?もう食堂も閉まってるだろうしなぁ」 「ん、いいや。何だか胸がいっぱいでお腹空かないんだ」 墓参りを終えてからずっと、いろんな思いが溢れそうで本当に空腹を感じることがない。 たぶん、明日の朝になったら腹ペコになっているとは思うけど。 「じゃあ、このお菓子一緒に食べようか。オレ、コーヒー入れてくるからさ」 「うん。ありがとう」 ちょっと待ってろよ、とギイは持ち前のフットワークの軽さで給湯室へお湯を汲みに行った。 ベッドの端に腰かけると、ようやく自分がいるべき場所に戻ってきたんだなぁとほっとした。 不思議なもので、去年は祠堂のこの寮の部屋が自分の居場所だなんて思えなかった。 かといって実家に戻りたいわけでもなく、どこにも居場所がないような中途半端な気持ちでいたのだ。 だけど、ギイと同室になって、少しづつ周囲との距離が近くなり、話をすることが苦痛ではなくなった。 今ではそれが当たり前のことだと思えるようになっている。 たった数か月で、ぼくの世界は大きく変わった。 そして今日、また世界が変わろうとしている。 「何だか嘘みたいだ」 お墓参りでの出来事を、ギイにちゃんと聞いて欲しかった。 だけどちゃんと伝えることができるだろうか。 「ただいまー。給湯室で吉沢に会ってさ、お裾分けってお菓子くれたぞ。託生のお土産もあるし、今日はデザート三昧だな」 「一度にそんなに食べたら太るよ、ギイ。お土産の方は日持ちするから明日でも大丈夫だよ」 「そっか。じゃあ楽しみにおいておくか」 ギイはコーヒーの準備をすると、ぼくの隣に腰を下ろした。 「ありがとう、ギイ」 カップを受け取り、どこから話そうかと考えた。 ギイはぼくが話始めるのを黙って待ってくれた。伝えなくてはいけないことが多すぎて、何から話せばいいのか分からない。だけど、全部聞いて欲しかったし、ぼくが今どんな気持ちでいるのかも知って欲しかった。 「ギイ、お墓参りに行って良かったよ」 「そうか」 その日あったことを、看護師の青木さんから聞いた話を、できるだけそのままギイに伝えた。 必死に気持ちを伝えようとしていると、何だか兄さんに一生懸命その日の出来事を話していた子供の頃を思い出した。拙いぼくの話を急かすことなく聞いてくれていた兄さんのことを思うと、何だかまた泣きたくなる。 「今までの世界が変わっていくような気がした」 話し終えると、ギイはぼくの手をぎゅっと握り締めた。 同じ強さで握り返すと、ギイは小さく微笑んだ。 「兄さんが・・あの時のことを後悔していたって思うのは、ぼくの勝手な、都合のいい思い込みかな?」 「そんなことはないよ。託生の言う通り、託生の兄貴は後悔していた。ずっと託生に謝りたくて、会いたいって思っていたんだと思う」 「でもぼくは行けなかった」 「うん、でもそれは仕方がないよ。託生には託生の思いがあって、兄貴には兄貴の思いがあった。すれ違うこともあるし、タイミングもある。どっちがいいとか悪いとか、そういうことでもないと思う。どんな理由があったにせよ、兄貴のしたことは間違っていたし、そのことを託生が許せなかったのも当然だよ。だけど、兄貴が後悔していたのも本当だと思う。託生のことを大事に思っていたことも」 うん、とぼくはうなづいた。 何度も何度もうなづいて、それが本当のことなのだと信じようとした。 もういない兄の気持ちを知ることはできない。 これはただの願望で、ぼくの考えが間違ってないというのはギイの思いやりで、本当は兄さんがそんな風に思っていたわけじゃないかもしれない。 だけど、それでもぼくは兄の最後の時の話を聞いて、それが真実なのだと思いたい。 ぼくが知らなかった真実。 兄さんも辛かった。兄さんも苦しんでいた。ずっと後悔をしていた。 雨の中、兄さんがぼくを探していたと聞いて、胸の奥に重く伸し掛かっていたものがふっと軽くなるのを感じたのだ。 そして、もしかしたら、ぼくは兄さんを許せるんじゃないかと思えた。 「今まで、そんなこと考えたこともなかったんだ。両親のことも、兄さんのことも、ぼくの中ではもう いない人になってたし、兄さんが何を考えていたかなんて、想像したこともなかった。想像したくないって思ってた」 「うん」 「だけど、兄さんのこと少しは考えてもいいのかもしれないって思えたんだ。いい兄さんだったんだよ、ギイ」 ぼくのことをとても大事に思ってくれていた。 小さい時からずっと、兄さんはぼくのことをとても愛してくれていた。 それは何があっても嘘じゃない真実だと、ぼくは心のどこかで知っていた。だけど、ずっと目を背けていた。 嫌なことや辛いことが、一緒に思い出されるのが怖かったから。 だけど不思議とそれでも大丈夫なのだという気がしている。 ギイが、ぼくのことを好きだと言ってくれて、すべてを知っても何も変わらずに笑ってくれたから。 「ありがとう、ギイ」 「うん?」 「ぼくのことを好きになってくれて」 ギイは一瞬表情を無くし、ちょっと泣きそうな笑顔を見せるとぼくをぎゅっと抱きしめた。 「よかった」 「ギイ?」 「思い立ったが吉日だなんて言って、お前のことを送り出したけど、このまま帰ってこなかったらどうしようって、実はちょっと心配してた」 「ええ?何それ。戻ってくるに決まってるだろ?」 祠堂以外に、いったいどこに帰るというのだ。 思わず笑って体を離したけれど、ギイが思いのほか真剣な目をしていたので何も言えなくなった。 「お前の兄貴がさ、お前のこと帰さないんじゃないかとか、そんな馬鹿なこと考えてた」 「ギイ・・・」 生きていたら一番のライバルになったかもしれないって言葉は冗談だと思っていたのに、もしかして本気で思っていたのだろうか。 いつも自信に溢れていて、迷うことなんてないように見えるギイでも、そんな見当違いな心配をするのかと思ったら、何だか妙に可愛く思えてきた。 「ぼくが戻ってくる場所はここしかないよ。だってギイがいるもの。兄さんのことは、ずっと考えないようにしてきたけど、今日、お墓参りに行って、ようやくちょっと向き合えるかもって思えたんだよ。ぼくの中に、兄さんの居場所はなかった。ぼくが追い出そうとしてたから。だけど、もういいのかなって。すべてを許すことはできなくても、ぼくの中のどこかに、兄さんがいる場所を作ってもいいのかなって、今日お墓参りから帰ってくる間、ずっと考えてたんだ。どんな形になるかは、まだ分からないんだけど」 まだ上手くまとまらない想いを口にすると、少しづつ形が見えてくる。 何もなかったことにはできないけれど、だけどぼくの中で溶かしていく努力をしたいと思う。 そうすれば何かが変わるような気がしたから。 ギイは両手を広げてぼくを包みこむようにしてそっと引き寄せると、こつんと額をくっつけた。 「すごいな、託生は」 「何が?」 「何もかも」 ギイにそんな風に言われるなんて、何だかちょっと気恥ずかしい。 自分一人じゃこんな風には思えなかった。ギイが背中を押してくれたからだ。だとしたら、すごいのはギイの方じゃないかと思うんだけど。 そんなことを考えて恐縮しているぼくに、ギイが言った。 「許しても過去は変わらない、けれど、許せば未来は広がるって言葉があるんだ。今の託生にぴったりだと思わないか?」 「未来は広がる?」 兄さんのことを許しても過去はなかったことにはできない。 何もかもを許せないでいたぼくには、明るい未来なんて絶対にやってこないと思っていた。 だけど、今はそんな風には思っていない。 こうしてそばにギイがいて、これから先もきっと楽しい時間を過ごしていける。 今よりずっと明るい未来はやってくる。 何の根拠もないけれど、ぼくは信じることができる。 そう思うと、目元が熱くなった。 「そうだね、うん、そうだといいな」 「託生の中に、オレの場所も作ってくれる?」 そんなの当たり前なのに、どこか心配そうにギイが尋ねる。 今まで知ってるギイとはちょっと違うギイがここにいて、だけどそんなギイも間違いなく本当のギイなのだ。 今まで見えてなかったものが見えてくるのは、やっぱりぼく自身が変わったからなのかもしれない。 「ギイの中にも、ぼくの場所を作ってくれる?」 「当たり前だろ」 「よかった」 ずっと6月は嫌いだった。6月の雨が嫌いだった。 だけど、もうそんな風に思うことはないだろう。 |