長く続いた梅雨が終わる頃、それまでずっと情緒不安定だった葉山はすっきりとした表情を見せるようになり、言動も普通に戻った。
まぁ去年までは年中冴えない顔をして、ギイ曰くの人間接触嫌悪症だったわけだが、二年になり、ギイと同室になってからはだんだんと人間らしくなっていたのだ。 それが梅雨が始まると同時に、何かを考え込んでいるような辛そうな顔をするようになった。 ギイは大丈夫だと言っていたが、僕としては半信半疑だった。 せっかく少しは人並な学生生活が送れるようになっていたというのに、また去年までの葉山に戻ってしまうんじゃないかと。 4月以降、ギイがらみで一緒にいることも多くなり、葉山を知る時間が長くなるにつれ、僕はそれなりに葉山のことが気に入っていたのだ。 そう、笑顔を見せるようになった葉山のことを、だ。 だからまたあんな頑なな葉山に戻っては欲しくないと思っていた。 そんなある日の朝、ギイが言った。 「託生は今日は学校休むから。章三、何かいい理由考えてくれ」 突然言われて、一応文句を言って抗議はしたが、 「今日の休みはどうしても必要なんだ。頼むよ」 と頼まれ、それがどこか真剣な面持ちだったからそれ以上は何も言えなかった。 もちろん完璧な理由を考え、誰もそれに疑いを持つことはなかった。 まさか葉山が学校を抜け出していたとは思わなかったが、それでも夜遅くに祠堂に戻ってきた葉山の顔を見たら、確かに必要だったんだなと納得した。 そしてその日を境にして、葉山は去年までとも、6月までともまた違う顔で笑うようになった。 無理のないリラックスした様子の葉山と、以前にも増して葉山への気持ちがダダ洩れのギイを見ていると、まぁ問題は無事解決したんだろうと思えた。 「葉山、食堂行くか?」 寮の廊下でばったり出くわした葉山に声をかけると、葉山はうんと頷いた。 ギイは?と聞くとさぁと首を傾げた。 春からこっち、まるで過保護な母親みたいに葉山にべったりだったギイだが、最近はまた去年のように神出鬼没に戻っていた。 たぶん、葉山がもう大丈夫だと思えたからだろう。 僕としては、二人のお互いの気持ちがかちっと噛み合って、一歩先へ進んだような気がして、それがいいことなのか悪いことなのか、どう考えればいいのかまだ決めかねている。 だけど、二人とも何となくいい顔で笑っているし、一緒にいるのことに違和感を感じなくなってきてるのだから、あえて反対する必要もないんだろうなと思っていた。 「今日のメニューはカツ丼だって」 「へぇ」 「ギイってアメリカ人なのに丼もの好きだよね」 「人種関係あるのか?僕は日本人だがステーキ好きだぞ」 そんな他愛もない話をしながら、寮を出て食堂へと向かう。 祠堂で不便なのは寮の中に食堂がないことだ。 雨の日でも、どんなに寒い日でも暑い日でも外へ出なくてはならない。 「赤池くん、もうすぐ七夕だね」 「そうだな」 「大笹の搬入手伝うの?」 「手伝うっていうよりは、手伝わされる。言っておくが、葉山だって招集かかるだろうからな」 「え、そうなの?」 そりゃそうだろう。あのギイがこういう楽しいイベントに葉山を巻き込まないわけがない。 「そっか。でも去年は完全にスルーしてたから、今年は楽しみだな」 葉山がぽつりと言った。 確かに去年の葉山はイベントなんてまったく無視していたし、そういう意味では今年はありとあらゆるイベントが初体験になるのだろう。 ギイが張り切る様子が目に浮かぶ。 「七夕イベントが終わればすぐに夏休みだからなぁ」 本当にあっという間に季節が過ぎていく気がする。 葉山は夏休みという言葉に反応して僕を見た。 「その前にさ」 「うん?」 「えっと、ギイの誕生日が7月だって聞いたんだけど」 「あー、そういやそうだったな。葉山はいつなんだ?」 「ぼくは2月。でさ、去年、赤池くんはギイの誕生日に何したの?」 おずおずと葉山が僕の様子を伺うように聞いてくる。 他人の誕生日を気にするなんて、やっぱり葉山は変わったな。 いや、他人じゃなくてギイだからか? 「何って・・・別に何も?」 「そうなの?だって相棒なのに」 「何で相棒だからって誕生日に何かしなくちゃならないんだ?ああ、そういや街に下りた時にたっかいコーヒー奢らされたな」 某チェーン店の高いコーヒー。 いつもは100円のカップのコーヒーだから、まぁ贅沢なコーヒーだったよな。うん。 「ギイ、喜んでた?」 「ケーキもつけろってふざけたこと言ってたな」 「ケーキセット・・・くらいじゃ駄目なんだろうな」 葉山はうーんと首を傾げている。 ギイは葉山にずいぶん以前から思いを寄せていて、2年になってからはあれよあれよという内には距離を縮め、あっという間には、世間で言うところの恋人同士になった。 去年はいわゆる片思い状態だったのだから、誕生日なんて何もなかっただろうし、今年の誕生日は二人にとって初めてのイベントっぽいものになるってところだろう。 まぁ男同志で誕生日っていうのも何だかなぁという気もするが、ギイはイベントを大切にする男なので、きっと今から楽しみにしていることだろう。 そんなギイに、葉山も何かしなくては、という気持ちになっているのかもしれない。 恋人同士になったと言っても、どちらかというとギイの強い思いに、葉山が引きずられているようにも見える。 もちろん葉山だってギイのことは好きなんだろうけれど、押せ押せムードのギイにまだついていけていないような気もするのだ。 とはいうものの、ギイの誕生日に、葉山が何かしたいと思っているのなら、何とも微笑ましいことだ。 一応相棒としては応援して・・・やってもいいものか迷うところだが、応援してやろう。 「別に売店の100円のコーヒーでも、葉山がプレゼントするならギイは喜ぶと思うけどな」 「喜ぶとは思うけど、さすがにそれはどうなんだろう・・・」 何でも持ってるギイが何を貰えば喜ぶかを考えるのは至難の業だが、心のこもったプレゼントを、それが例え100円のコーヒーであっても、あのギイが無下にするはずもないので、結局何だっていいのだ。 と、葉山が納得するにはまだギイとの付き合いが短すぎるのかもしれない。 食堂はそこそこ混んでいて、僕たち同様、どんどんと生徒たちが入ってくる。 ぐるりと見渡して、ぽつぽつと空いた席を目で確認した。 「葉山、席取っておいてくれ。僕が葉山の分も持って行くから」 「一人で持てる?」 「丼だろ?二人分くらいトレイに乗る。席の確保よろしく」 「うん」 葉山が行ったあと、トレイを持って列に並ぶ。食べ盛りの高校生向きの丼はなかなかの大きさだが、それでも足りないとギイは言う。あいつはスレンダーなのにいったいどんな胃袋をしているんだと周囲の連中も苦笑している。 横じゃなくて縦に育っているからいいんだ、なんて言っているがそれもそのうち限界がくるだろうから、その時になって後悔しなけりゃいいが。 二人分の丼をトレイに乗せ、葉山の姿を探す。こっちに背中を向けて座る葉山を見つけて近づきかけて、向かい側の席に座る連中が高林泉の取り巻き連中だと気づいた。 あの4月の事件以来、高林はギイに付きまとうことはなくなったし、山下を筆頭とする親衛隊は解散したらしいから、元取り巻きというべきか? 高林はずっとギイにご執心だったから、葉山を目の敵にしていた。 高林の親衛隊たちもそれに倣って葉山への風当たりがきつかったのだ。 まぁ葉山自身はまったく気にしていなかったが。 だけど、高林自身がそういう連中からちやほやされることに興味を失ったようで、ここ最近は目立った動きはなかったというのに、どうやらまた葉山に難癖つけているようで、何でそんな席に座ったんだ、と思わず舌打ちしそうになる。 わざとじゃないだろうが、そういうところに無頓着なのはどうなんだ? ギイが心配しすぎてそのうちハゲも知らないからな。 「どうしてギイは高林より葉山を選んだんだろうな。祠堂の七不思議のひとつじゃないか?」 「まったくだよ。誰が見ても高林の方がいいだろ?」 「いったいどうやってあのギイを誑し込んだんだよ、葉山」 毎回毎回、よくもまぁくだらないことで因縁をつけるものだと呆れてしまう。 葉山は何かを言い返すこともなく、じっと連中の言うことを聞いている。 去年までの葉山はまったく可愛げがなく、誰に何を言われようと無視をするか、もしくは放っておけばいいのに自ら喧嘩を買ってしまうものだから、それが癇に障って、さらに攻撃されていた。 だけど四月からの葉山はまるで別人のようにぴりぴりした雰囲気が消えて、それはそれでみんな興味津々なのだ。 いったいギイとの間で何があったのか。 ギイとどういう関係なのか。 そもそもみんなギイのファンだから、そのギイがご執心な葉山のことも気になるんだろう。 羨ましい反面、憎らしい気持ちもあったりするから厄介だ。 今も高林がらみと言うよりは、単にあこがれのギイに急接近して、ギイからも大切にされている葉山のことがどうにも気に入らないというところだろう。 「なぁ葉山、どう考えてもギイと葉山じゃ釣り合わないだろ?何しろギイはFグループの御曹司だし、卒業したらアメリカに帰るわけだし」 「そうそう、葉山と親しくしてるのは祠堂にいる間だけのこと、いや、同室の間だけかもしれないよな」 「さっさと別れた方が葉山のためだと思うけどな」 「別れるっていうか、そもそも付き合ってる?あのギイと?今でも信じられないんだけどなぁ」 ギイと葉山がいい仲だという噂はスポーツテストの後あたりからあちこちで囁かれるようになり、またギイが人目も憚らず葉山に構うものだから、とりあえずはギイが葉山のことをいたくお気に入りだということだけは事実として認識されている。 だけど、実際のところ本当に二人が付き合っているのかどうかなんて、誰にも分からないことだ。 適当にあしらっていれば冗談でも済む。 だから今こいつらが言っていることも根拠があるわけではなく、ただの嫌がらせでしかない。 葉山が何も言わないのをいいことに好き放題言ってるが、そろそろやめさせないと・・・と一歩踏み出した時、それまで黙っていた葉山がおもむろに口を開いた。 「じゃあそれ、直接ギイに言ったらどうかな」 その一言に、今まで言いたい放題だった連中が目を見開く。 「確かに、ぼくとギイとじゃ釣り合わないって思う気持ちも分かるし、確かにそうかもしれない。だから、本当にそう思ってるなら、ぼくじゃなくてギイに言えばいい。ギイがそうだなって思って、ぼくと一緒にいるのはやめるっていうなら、それでいいよ。引き留めたりしない。だけど、ぼくからは言わない」 「・・・っ、葉山がギイと一緒にいたって、ギイには何もいいことないだろっ」 「そうかもしれない。だけど、それを決めるのはギイだから」 「・・・っ」 4月までそれまでの刺々しい口調でもなく、喧嘩腰の態度でもなく、当たり前のことのように葉山が言ったから、その場の誰も何も言えなくなった。 最近ずいぶん性格が丸くなったと思っていたが、やっぱり葉山は葉山だなと少し呆れて、すぐに楽しくなった。 「おまたせ、葉山」 声をかけると、それまで絡んでいた連中はぎょっとしたように固まった。 このまま黙って見過ごすほどお人好しじゃないので言うべきことはきっちり言ってやるつもりでいたが、どうやら僕の言葉より葉山の言葉の方がインパクトはあったようなので、これ以上問い詰めることはやめることにした。 まずいヤツが来た、とでも言いたげに視線を彷徨わせる連中に、助け舟を出してやることにする。 「混んできたから、食べ終わったのなら席は空けた方がいいんじゃないか?」 「あ、そ、そうだな。何だ、赤池も一緒だったのか」 あたふたと食べ終わったトレイを手に席を立った。 元取り巻き連中がいなくなると、僕は葉山の隣に腰を下ろした。 「ありがとう赤池くん、丼重くなかった?」 「大丈夫だ。それよりお前、どうしてあんな連中のいるところに席を取った」 「だって、他に空いてなかったんだよ。すぐに食べ終わりそうだったし」 いただきます、と葉山は手を合わせる。 あんな理不尽な言いがかりをつけられて、よくもまぁ怒りもせずに丼が食べられるものだ。 いや、何で僕がこんなにむかついているんだ? 「葉山、変わったな」 「え?何、突然」 「去年の葉山なら、あんなこと言われたら即喧嘩だっただろ」 「そんなことないよ」 「嘘つけ」 「・・・まぁ、確かにそうだったかもね」 渋々認めた葉山は、昔のことを思い出すかのように少し首を傾げて考えていた。 「だけど赤池くん、そんなに好戦的だったかな、ぼく」 「めちゃくちゃな」 そうかなぁとまだぶつぶつ言いながら丼を食べる葉山を横目にしていたが、さっきの連中が葉山の一言であたふたしていた様子を思い出して、思わず笑いが込み上げた。 「なに?赤池くん」 「いや、あいつらの顔思い出して。葉山がああいうことさらっと言うとも思わなかったし」 「ああいうことって?」 「何ていうか・・・あんな風にギイのこと信用するようになったのかって感慨深いというか。ギイが一方的に葉山のこと好きな感じが強かったからさ」 四月に寮の部屋が同室になってからというもの・・いや、実際は祠堂に入学してからずっと、ギイは葉山のことを大事に思っていた。 いろんな意味で問題児だった葉山のことを、級長としての責任感から気にかけているのだとばかり思っていたけれど、そうではなかった。 まさか葉山に惚れてるとは思わなったし、知った時も何で葉山?にと驚き、どうやらギイが本気だということにもさらに驚いたのだ。 だけど、そんなギイの熱量に比べると、葉山はどこか躊躇いがちというか、ギイのことを好きなんだろうが、ギイほどじゃないのかと思ったりもしたのだ。 だけど、梅雨が明けた頃から、葉山がギイを見る目が少し変わったように見えた。 何がどう、とははっきり言えないけれど、二人が一緒にいる時の空気感みたいなものが柔らかくなったと思う。 「ギイがさ」 「うん?」 「ギイが、ずっと、去年からもずっとぼくのことを気にしてくれてたのは知ってたし、あの頃は正直なところ、余計なことしないで欲しいって思ってたんだ。一人でいる方が楽だったし。ギイのことも、そんな人じゃないって思ってたけど、心のどこかで信じきれない自分もいたんだ。本当のぼくのことを知らないのにって」 「・・・」 「さっき、彼らが言った通り、ぼくがギイと釣り合うのかって言われたら、たぶん釣り合わないだろうなって思うよ。どう考えてもギイはやっぱり特別だし、ぼくは自分で言うのも何だけど、問題児だよなって思うし。だけどギイは、そんなぼくのことを・・何もかも知っても、それでも大切にしてくれたから。だから、もう疑ったりしないで、ぼくはギイのこと好きでいようって決めたんだ。ギイがぼくのことを大切にしてくれるように、ぼくもギイのことを大切にしようって。やっとね、そんな風に思えるようになったんだよ、赤池くん」 しっかり視線を合わせてはっきりと言う葉山はどこか晴れやかで、少し前の不安でいっぱいだった様子は綺麗になくなっていた。 何だ、心配して損したな。 あんな連中が何を言おうと、葉山はもうそれに怒ったり揺れたりすることはないのだ。 ギイに言えばいいと、言ったところでギイの気持ちが変わることはないのだからと、葉山は分かっているのだ。 「葉山の杞憂は、たぶん最初から不要だったんじゃないのかな」 「え?」 「あいつ、葉山がこの前貧血で倒れた時に言ってたんだ。オレは託生が本当に託生らしい頃の託生を知ってるって。それがどんな葉山なのか僕には分からないけど、どんな葉山でも好きだって」 ずっと、どうして葉山なんだろうと思っていたけれど、今はその理由が何となく分かる。 ギイは、たぶん知っていたのだ。 葉山はこんな風に潔く誰かのことを好きになれる人間だと。 それが本当の葉山で、ギイはそれを知っていた。 そしてそんな風に人を好きになる葉山の相手が、自分であればいいと願っていたのだろう。 「まぁせいぜい仲良くすることだな。ギイは一度好きになったらよほどのことがない限りは、しつこく好きでいるだろうから、苦労するとは思うけど」 「そういうの苦労って言うのかな」 どこかくすぐったそうに笑った葉山のことを、初めてちょっと可愛いと思い、可愛いって何だ、と自分で自分のことを突っ込んでしまった。 それからもずっと、ギイと葉山は時々喧嘩をしたりもしたけれど、気持ちが離れることはなく、これは卒業してからもずっと二人は付き合っていくんだろうな、と思っていた。 ギイが突然姿を消すまでは。 さすがにこれはどうなんだ、と思ったりもしたけれど、やっぱり葉山に限ってはそんな不安は不要だった。 ギイのことを信じると決めた葉山は相棒の僕なんかよりもずっと強くて、卒業したらアメリカへ行ってギイとの再会を果たしてきた。 この時ばかりは、運命の相手っているんだなぁと、らしくないことを思ったりもした。 僕はギイの相棒のつもりでいるけれど、とっくの昔に、2人に何かあった時は葉山の味方をしようと決めていた。 ギイよりも葉山の方がずっと強いのだということが分かっていたからだ。 あの食堂での出来事を、僕はギイには話していない。 いつか話してやってもいいとは思うけれど、葉山が理不尽な扱いを受けたことに怒るでもなく、「オレの彼氏はカッコいいな」とかふざけたことを言ってニヤけるだろうことは目に見えているので、躊躇している。 まぁそのうちいつか。 「そう言えば、祠堂でさ・・」 と酒の肴で話してやってもいい。 |