手離した恋をもう一度


※ 矢倉*八津でございます。




古めかしい校舎は懐かしい匂いがした。
どこか外国風の意匠が建物のところどころに施されていて、まるで異世界へきたかのように思えた。
実際、麓の街からバスで1時間もかかる山の中腹に建つ全寮制の男子校で、受験生のために臨時バスが出ているものの、通常は1日数本しかバスはないのだから、異世界といってもおかしくはない。
受験番号順に指定された教室に入ると、中も何とも言えない趣のある雰囲気がした。
けれど古臭い感じはしない。使い込まれた床や机、決して最新の設備でもないし、綺麗なわけでもないが、そこにあるものすべてが優しい感じがする

(いいな、ここ)

両親にはずいぶんと反対されたけど、やっぱり何としても合格したいと、今さらながらに思った。
席に着き、指示された通り、受験票を机に置く。必要な筆記用具を並べた時に、ぎくりとした。
血の気が引くとはまさにこのことだ。
昨夜ちゃんと確認したはずなのに、筆箱の中に消しゴムが入っていない。
何度見てもどこにもない。かばんの中に落ちてるなじゃないかと思って隅から隅まで探してもやっぱりない。

(冗談だろ)

今年はどういう理由からか倍率が跳ね上がり、ただでさえ合格は難関だと言われていた。
いくら合格圏内にいるからと言っても、これからのテストを、消しゴムなしで受けるなんて不可能だ。

(だめだ)

どうしようと、らしくもなく口元を押さえたその時、隣に座っていた生徒がどうかした?と声をかけてきた。
顔を向けると、やけに綺麗な顔立ちをした小柄な生徒が俺を見て首をかしげた。
「どうかしたのかい?」
「あ、消しゴムがなくて・・・」
受験生としてはありえない失態を口にすると、彼は笑うでも馬鹿にするでもなく「ああ、そっか」と、何でもないことのようにうなづいた。そして自分の消しゴムを手にして、何の躊躇もなく半分に割った。
「じゃ、これ使うといいよ」
「え、でも」
「一問も間違えない自信があるならいいけど」
「いや、ごめん。助かる。あの、ありがとう」
「どういたしまして」
屈託ない笑顔がまぶしくて、俺は慌てて前を向いた。手の中の消しゴムを見つめて、妙に心臓が高鳴っている自分がいることに気づく。
自分以外はみんなライバルで、もしかしたらこれで一人ライバルが減ったかもしれないのに、彼はそれが当たり前のことのように半分差し出してくれた。困ってる人がいたら手を貸すのは、それは当然のことだけど。それを実行できるかどうかは別の話だ。
やがて試験監督の先生が入ってきて、チャイムと共に試験が始まった。
一問も間違えずになんてことはできるはずがないので、俺は彼からもらった消しゴムを何度か使った。
午前の試験が終わると、受験生たちから一斉にため息が漏れた。
テスト自体はそれほど難しいものではなかった。易しすぎて引っ掛け問題か?と思うような簡単なものもあった。たぶんそこそこの点数が取れるだろう。だが安心はできない。
噂ではテストの点数自体よりも午後からの面接がかなり重要視されるらしいので、午後からが勝負だなと思った。
試験監から昼食用のチケットが配られる。各自、食堂で食事をし、定刻までに戻るようにと言われた。
構内はやたらと広いので迷子にならないように、とも。
みんな席を立ち、教えられた食堂へ向かい始めた。
俺はどうしてもさっきのお礼をもう一度言いたくて、教室を出ようとしていた彼を捕まえた。
「あの・・」
「ああ・・」
俺を見て、彼はふわりと笑った。
「消しゴム、ありがとな。おかげで合格できそうだよ」
「はは、すごい自信だな。もう合格したって手ごたえがあるんだ」
そのままの流れで一緒に食堂へと向かって歩きだす。
「午後からの面接が重要みたいだけどね」
「ああ、みたいだな。あ、俺、矢倉。矢倉柾木。お前は?」
「八津宏海」
柔らかな笑みを浮かべて、八津はよろしくと言った。俺たちはごった返す食堂で並んで座った。
自己紹介の続きのような当たり障りのない会話を皮切りに、さっきの試験の話、どこに住んでいて、スポーツは何かやってるのか。
次から次へと湧き出てくる話題に、俺はここが受験会場だということをすっかり忘れてしまうほどだった。
八津は俺がそれまで知っている友達とはまったく雰囲気が違った。口数が多い方ではないけれど、きちんと自分の意見は口にする。外見はどこまでも優しげだったが一本筋の通った強さみたいなものが垣間見えた。
祠堂はいいとこのお坊ちゃんが集まる学校というのがもっぱらの評判だったが、今では金さえあれば一般庶民の人間でも入学はできる。けれど、馬鹿高い入学金を払えるだけのレベルじゃないと入学はできないのだから、ある意味いいとこのお坊ちゃんじゃないと入学できない、というのは嘘じゃない。
矢倉自身は良家のご子息でも何でもなかったが、八津からは育ちの良さみたいなものを感じることができた。
「八津はどうして祠堂に?」
「うーん、まぁいい学校だって話を聞いていたし、早く家を出たかったのもあるし」
「ふうん」
「矢倉は?」
「俺もさっさと家を出たいっていうのもあるかなぁ。あれこれうるさいからさ、おふくろとか」
「母親っていつまでたっても子供のことを小さな子供のままだと思ってるよね」
「そうなんだよな。さっさと家出て、子離れしてもらおうかと思ってさ」
「ああ、何となく分かるよ」
俺の言葉に八津は小さく笑った。
「うちも母親が俺にべったりだから、ちょっと息苦しくなってるところもあって。少し距離を置けばそういうのもおさまるかなって思ったんだよね」
「ふうん」
どこの家も母親ってのは煩いものなんだな、と、その時の俺はそれくらいしか思わなかった。
けれど、八津の母親が彼にひどく執着していて、その母親からの愛情を裏切ることができず、やがてそのことでひどく傷つくことになるなんて、その時の俺は考えもしなかった。
だってそうだろう。
まさか自分が八津に恋することになるなんて、いったい誰が想像できるというのだ。
「さて、午後の面接、頑張らないとな」
食堂を出て、元の教室へと歩き出す。古びた趣のある校舎。まだ雪の残る中庭はまるで童話の中に出てくる風景のような気がして、絵本の中にでもいるような不思議な気持ちになった、
「それにしても祠堂ってやたら広いよな。寮と校舎と食堂と、毎日往復してるだけですっげぇ体力つきそうだ」
「確かにね。でも自然がいっぱいで健康にはいいよね」
「夜とか星が綺麗だろうなぁ」
まだきんと冷えた空気に首をすくめて空を見上げる。
「でも周りに何もない。買い物とかどうするんだろ?」
「それはほら、売店とかがあるんじゃねぇの?ちょっと買い物って言っても、麓まで1時間だしなぁ」
すると、ふいに八津が吹き出した。
「なに?」
「だって、俺たちすっかり合格するつもりになってる」
「あー、ほんとだ。だけど、合格するような気がするし、俺、八津も合格するような気がする」
「え?」
「俺、八津と一緒にここで寮生活してみたい」
俺の言葉に、八津は一瞬大きく目を見開き、そしてまたあの柔らかな笑みを見せた。
「うん。俺もそう思った」
つい数時間前に出会ったばかりで、ランチをする間少し話をしただけで、だけど、どうしようもなく八津と一緒にいるとドキドキしていた。
別に特別なことなんて何もしてないのに、やけに楽しくて。
もっと一緒にいたいと、そう思った。
教室に戻ると、指定された席の周りにいた連中の輪に入った。
話をしてみると、地方からきている連中が多くて、中には麓の街で前泊したというヤツもいた。
みんな受験生でライバルだというのに、まるでそんな刺々しい雰囲気はなく、にこにこと笑って話をしている様子を眺めていると、祠堂に集まるのは苦労をしたことのないお坊ちゃん連中ばかりなんだなぁとしみじと思った。けれど嫌な感じはしなかった。
ここにいる連中が全員合格できたらいいのにな、と本気でそう思った。
「それにしても今年は去年に比べて倍率が上がってるんだよな、どうしてかな」
「こんな山奥の男子校、よっぽどの物好きじゃなけりゃ受験しないはずなのにな」
「じゃここにいる僕たちは物好きだっていうことなのか?」
確かに物好きかもなーと笑いが起こる。祠堂はお坊ちゃん学校ではあるが、それなりに偏差値は高いし、伝統のある学校なので世間からの評判も悪くない。親や、そのまた親も祠堂出身なので息子も祠堂に、という話もよく聞く。山奥に隔離された学校ではあるが、毎年倍率はそれなりのものだった。
「あ、なぁなぁ、記念写真撮ろうぜ」
男子校なのに何故女子が?と思わせるほどの、まだあどけない顔をした美少年が、おもむろに鞄の中からカメラを取り出した。
ちょっと待て。
受験会場で写真はまずいだろ。けど、その場にいた全員がのほほんと、いいねぇなどと言ってぱちりぱちりと写真を撮り始める。
いくらモノを知らないお坊ちゃんたちとは言え、さすがにちょっと唖然としてしまった。
「ほら、あんたも入れよ」
やや強引に促されて八津と一緒に数人と一緒に写真を撮ることになった。
八津もいいのかなぁなんて顔をしているが、まぁ撮ってしまったものはしょうがない。
彼を挟んで左右に俺と八津。できれば隣に並んで撮りたかったなぁなどと撮り終わったあとに思ってる自分に、あれ?と思った。
やがて予鈴のチャイムが鳴りそれぞれが席に戻ろうと動き出す。
俺はカメラを持っていた彼に衝動的に声をかけた。
「なぁ、その写真、できたら送ってくれないかな」
「え?面倒だなぁ、合格したら学校で渡すよ」
「いや、でも・・」
その美少年はじろりと俺を見ると、すぐににっこりと笑った。
「ああ、そっか。絶対に合格するとは限らないもんね。いいよ、じゃあ焼き増しして送ってあげるよ」
「・・・サンキュ」
こいつ、すっかり俺が落ちるかもしれないなんて思ってるようだが、お前がどうなるか分からないから送って
欲しいんだ、とはさすがに口が裂けても言えない。
俺は胸ポケットから生徒手帳を取りだして、後ろのメモ欄に住所と名前を書くと、引きちぎって彼に渡した。
「矢倉柾木?ふうん、あんたもずいぶん遠くからの受験なんだな」
「まぁな。お前、名前は?」
「高林泉。ま、お互い合格したらよろしく」
綺麗な顔立ちをしているが、その態度や物言いはどこか生意気で、甘やかされてるお坊ちゃんの典型だなと思った。きっとその綺麗な容姿のせいでちやほやされて育ってきたんだろう。
だが、どこか憎めない感じもする。
比べれば間違いなく高林の方が綺麗なんだろうが、俺には八津の方が好みだった。

(ちょっと待て、好みって何だ?)

席に着いて、俺はいきなり混乱してしまった。
どこからどう見ても八津は男だ。話も合うし、一緒にいて楽しいし、いい友達になれそうだなと思っただけだ。
それ以上何があるっていうんだ?
試験監督の先生が壇上で面接についての注意事項を説明し始めた。
面接会場はまた別のところにあって、呼ばれた者から順番に教室を出て面接を受ける。
そして終わった者から帰っていいというこのことだった。
最後の者はけっこうな時間を待たなくてはいけないので、この教室内では自由にしていていいと言われた。
最初の一人が呼ばれてしばらくは、みな緊張しているように静かにしていたが、やがてそこかしこで、おしゃべりが始まる。もちろん大騒ぎすることはなく、ひそひそと世間話をする、といった感じだ。
俺はもちろん隣の席の八津と小さな声でまた他愛無い話をした。
だんだんと人が少なくなっていく教室にいると、試験が終わってほっとすると同時に、もうすぐ八津とお別れなんだなという寂しさが込み上げてきた。
「なぁ」
「うん?」
「電話、してもいいかな」
「え?」
八津は突然の俺からの申し出に、驚いたように目を丸くした。
「えっと、できればまた会ってどっか遊びに行ったりとかしたいんだけど、さすがに受験生だし、住んでるとこもちょっと遠いから、それは無理だろ?電話くらいなら、してもいいかな?」
これじゃあまるでナンパじゃないか、と俺は自分で言ってておかしくなってしまった。
だけど、このまま八津と縁が切れてしまうのは嫌だと思ったのだ。
合格すれば嫌でも3年間は同じ屋根の下で生活できる。けれど、受験なんて水ものだから、絶対なんてことはない。一緒に合格するとは思っていても、どちらかが不合格になればもう会うこともなくなってしまう。
それは絶対に嫌だと思った。黙る八津に、俺は必死に言い募った。
「えっと、受験の時にこんなこと言うのは不謹慎かもしれないけど、俺、八津と話せて楽しかったし」
「・・・・」
「また話したいなって思って」
八津はしばらくまじまじと俺の顔を見ていたが、やがて鞄の中から小さなノートを取り出して、そこに住所と電話番号を書き、丁寧に千切って俺へと差し出した。
「・・・矢倉はくれないの?」
「え?」
「電話番号」
「あ、ああ、そうだな、ちょっと待って」
慌ててさっき高林にしたように、生徒手帳のメモ欄にもう一度住所と電話番号を書いて渡す。
「ありがとう」
「電話、してもいいか?」
「うん」
小さくうなづき、八津はにっこりと笑った。
よし、と俺は内心ガッツポーズをした。
やがて名前が呼ばれ、俺は先に面接を受けた。現金なもので、八津から電話番号を貰えてテンションの上がっていた俺は、緊張することなくリラックスした気分で面接を受けることができた。
手ごたえありで、これは間違いなく合格だなと確信した。

家に帰ったらもうすっかり夜になっていた。
帰るとすぐに親からあれこれと試験のことを聞かれたが適当に返しておいた。
さっさと夕食を済ませて自室のベッドに寝転がって、八津からもらった電話番号の書かれたメモ用紙を何度も眺めた。
面接はどうだったんだろうか。試験は大丈夫そうだったから、面接さえ上手くいってれば、八津も合格するだろう。
早く祠堂に入学して、もう一度八津に会いたかった。今の中学には仲のいい友達もたくさんいて、卒業するのは寂しいなぁなんて思っていたのが嘘のように、早く卒業して早く祠堂に入学したかった。
「電話・・・さすがに今日するっていうのもカッコ悪いよなぁ」
だけど、ちょっとだけ話したいな。
部屋にある電話の子機を眺めてみる。
どうしようか。電話するならそろそろ時間的にもリミットだ。あまり遅くに初めての電話をするのは良くないし。
さんざん悩んだ末に、意を決して受話器を取った。
メモに書かれた電話番号をプッシュする間、心臓が口から飛び出るんじゃないかと思うくらいにどきどきした。3回コールしたあとに、繋がった。
『もしもし、八津ですが』
聞こえてきた柔らかな声に、今まで感じたことのないような胸の痛みを覚えた。
その痛みが恋によるものだと知るのに、それほど時間はかからなかった。




入学式の日、それはそれは見事な桜が咲いていた。
あの試験の日の夜、初めて八津に電話してからというもの、ほとんど毎日のように電話をして、八津と話をした。
俺が電話することもあれば、八津から電話してくれることもあった。
お互いまだ別の試験が残っていることもあって、電話は1時間だけと決めていた。
けれど、一度話を始めると次から次へと話が続いて、1時間なんてあっという間に過ぎた。
お互いが祠堂に合格したことを知ると、早く入学したくてたまらなくなった。
それからは祠堂での生活を、二人して楽しみに待つようになった。寮の部屋が同じだったらいいのになぁなんて言って神頼みしたこともあった。
そして桜が綺麗に咲き誇る入学式の日に再会した時は、まるで昔からの親友だったかのように俺たちはお互いのことを何でも知っているくらいにまで親しくなっていた。
電話しか話していなかったというのに、まったく不思議だと思う。
そして、それだけじゃなくて、気がついたら俺は八津のことを好きになっていた。
たった一度しか会ってないというのに、だ。
同じ男なのにどうなってるんだろう、とそりゃあ少しは悩んだりもしたけれど、あれこれ悩んでも仕方がない。
友達としてじゃない。もっと別の意味で好きなんだと、ある時はっきりと自覚した。
どう考えても好きな気持ちは本物で、それを誤魔化すことも、なかったことにすることもできやしないのだ。
八津のことを独り占めしたい。
ただの友達じゃなくて、八津にも俺のことを特別な存在だと思って欲しい。
そんな気持ちは日々強くなっていて、入学式で再会した時にはもうその気持ちは抑えられなくなっていた。
だから、俺はさっさとそれを八津に伝えることにした。
再会して、その気持ちが勝手な妄想や思い込みじゃないと確信できたし、それならちゃんと気持ちを伝えようと思ったのだ。
その日の行事がすべて終わり、寮の部屋でもう何度もした想像を、目を閉じて繰り返した。
「よし」
寝転んでたベッドから起き上がって、部屋を出た。
寮内はまだ何となく落ち着かないというか、浮かれているというか、どの部屋からも賑やかな声が聞こえていた。
八津の部屋を訪ねると、同室のヤツはいなくて八津が一人で迎えてくれた。
「矢倉・・どうしたのさ?俺、まだ部屋の片付け終わってないんだけどな」
「俺も。でもちょっとだけ付き合ってくれよ」
「あ、分かった。昼に言ってた自販機探索の旅?」
くすくすと笑いながら八津が俺の誘いに応じてくれた。
めちゃくちゃ広い祠堂にはあちこちに自販機があって、それぞれ入ってる銘柄が違うと聞いていたので、どこに何があるか調べてみようなんて話をしていたのだ。
消灯まではまだたっぷり時間があったので、俺たちは寮の外へと出てみた。
「うわ、やっぱり山奥だけあって肌寒いな」
八津が夜空を見上げてつぶやいた。
気持ちを伝えようと決めていた俺は、そんな八津のつぶやきに生返事しか返せない。
好きな人に好きと伝えることがこんなに緊張するものだとは思わなかった。
今まで告白されたことはあっても、告白したことはなかったのだ。
どんな風に伝えれば想いが正しく伝わるのだろうか。
そんなことを考えながら二人してぶらぶらと自販機巡りをした。別にそんなことが目的ではなかったけれど、きっかけを掴めるまで俺はぐるぐると告白するタイミングを図っていた。
「こんなところにも自販機発見。すごいな。いったいいくつあるんだろ?」
寮からずいぶん離れた場所にある自販機の前で俺たちは足を止めた。
「何か飲むか?」
「矢倉のおごり?」
「しょうがないなー、ま、付き合ってもらったしな」
「やった」
ポケットから小銭を取り出して、八津の手に渡す。指先がほんの少し触れただけで、何だか泣きたくなるほどに切なくなった。
こんなに好きになっているのに、八津に触れたこともなかったのだと知って、たまらなくなる。
静かな闇に自販機の音だけがやけに響いた。
そのそばにあるベンチに座って、またいつものように他愛ない話を続けた。
それまでずっと電話ばかりで、ちゃんと目の前にして話をするのはどんな感じだろうと思っていた。
案外と会えば、勝手に膨らませていた恋心も萎むんじゃないかと思ったこともある。
だけどそんなことはなかった。
ぜんぜんそんなことはなかった。
「八津」
「なに?」
「俺、八津のことが好きなんだ」
胸の中でいっぱいになっていた想いが、するりと言葉になって溢れ出た。
言ったとたん、心臓の音が耳元で聞こえるくらいドキドキした。
だけどきっと顔には出てなかったんだろう。
八津は俺の告白に深い意味などないと思ったのか、嬉しそうに笑った。
「なに、突然。俺も矢倉のことが好きだよ。じゃなきゃ春休み中ずっと電話なんてしないし」
「いや、そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
俺が言いたいことが分からないようで、八津は困ったように俺を見る。
「だから、好きなんだよ。友達としてじゃなくて・・・」
「・・・・」
「好きなんだ」
ようやく俺の言っている意味が分かったのか、八津はびっくりしたように目を見張って立ち上がった。
次第に首から頬にかけて赤くなっていくのが夜目にもはっきりと分かった。
「八津?」
「えっと・・・」
俺は立ち上がると、逃げられないようにと八津の手を取った。
「悪い・・・いきなりで、そりゃびっくりするよな。だけど、ちゃんと伝えなきゃって」
「矢倉・・・」
「好きなんだ、八津のこと」
「だって・・・俺のこと、何も知らないだろ?」
「知ってるよ。毎日電話してたじゃないか」
「それだけだろ?」
「じゃあこれから知っていく」
「・・・っ」
「今、俺が知ってる八津は、八津の全部じゃないのかもしれない。でも好きになった。じゃあ俺の知らない八津のことも教えてくれよ。それも全部好きになるから。絶対に好きになるから」
八津はますます赤くなってうつむいた。
それがあまりにも可愛くて、抱きしめたい衝動を無理矢理に押さえ込んだ。
「だめかな・・・?」
「だって・・・俺、男だよ?」
「ああ、知ってる」
その言葉に、八津はぷっと吹き出した。
ひとしきり笑ったあとに、八津は真っ直ぐに俺を見つめて言った。
「ちょっと考えさせてもらってもいいかな」
「ああ、もちろん」
「えっと・・・まずは普通に友達として・・・一緒にいてくれる?」
「もちろん」
うん、と八津は手のひらで頬を押さえた。
頬に触れた春の風を冷たいと感じるほどに、俺も自分の頬が火照っていたことに気づいた。



二度目に会った時に告白なんて大それたことをしてしまった。
八津は少し考えさせて欲しいと言ったけれど、俺はどういうわけか断れるなんてことはぜんぜん考えていなかった。
好きだと言った俺のことを、八津は確かに驚いてはいたけれど、あからさまに拒絶はしなかった。
自信過剰だと笑われても仕方がないけれど、相手が自分に対して好意を持っているかどうかくらいは何となくでも分かるものだ。
八津は俺のことを嫌いじゃない。
俺と同じ気持ちを持ってくれている。
何の根拠もないくせに、不思議なくらいに確信していた。
だから、次の日からも八津と顔を合わせてもぜんぜん気まずくなんてなかった。
八津は俺からの告白なんてまるでなかったかのように、それまでと変わった様子は見せなかった。
男から告白されても避けることもないのだから、
意外と肝が据わってるのかもしれないな、と新たな一面を見たような気がして楽しくなった。
だから俺たちは傍から見れば仲のいい友達同士に見えただろう。
「なぁ知ってたか?」
「なに?」
「食堂ってリクエスト出すことできるらしいぜ」
「そうなの?」
朝はたいがい一緒に食堂へ行って朝食を食べた。
八津とはクラスも寮の部屋も別だったけれど、昼休みや放課後は一緒にいることが多かった。
入学してすぐは知らない人間ばかりで、やはりどこか不安になることもあったけれど、少なくとも八津がいることで初めての寮生活は快適に滑り出していた。
「八津、次の日曜日、街へ行かないか?」
俺が言うと、八津はそうだなぁと考えた。
「ここの売店って、たいていのものは揃ってるけど、やっぱり種類が少ないよな。せめてコンビにでも近くにあればいいのにな。それだけで寮生活は10倍は楽になる」
「そうだね。だけど、思っていたより祠堂って自由だよね。生徒の自主性を尊重してるっていうか、寮に寮監がいないだろ?階段長の先輩たちに任せてるなんて、すごい信頼だよね。だから余計にみんなちゃんとするんだろうな。まぁ先輩たちの中には口うるさい人もいるけど」
「特に体育会系だろ?年功序列がきっちりしてるからな」
「矢倉は部活やらないのかい?」
「あー、どうすっかなー」
新入生への入部勧誘は活発で、背の高い部類に入る俺もあちこちから声をかけてもらっていた。
身体を動かすのは嫌いじゃないけれど、特別にやりたいと思うスポーツはなかった。
遊びでするにはいいけれど、そこまで真剣に打ち込むほどではないのだ。
「矢倉、背も高いから、バスケとか向いてるんじゃないの?」
「単純だなー。そういう八津こそ、何かやらないのか?」
「俺はスポーツはそれほど得意じゃないんだ」
二人であれこれと部活話をしていると、賑やかな集団が現れた。賑やか、というかここ最近ちょっとした名物になっている光景だ。
今年の新入生の中で、一番の話題となっている崎義一。通称ギイ。
アメリカからの留学生でフランス人とのクォーター。それだけでも物珍しいのに、飛びぬけた容姿に誰もが目を奪われ興味を持った。流暢な日本語を話し、けれどちょっとした仕草や表情はやはり日本人のものとはどこか違う。
どうしてあんなヤツがこんな山奥の男子校に入学してきたのか、あれこれと憶測が飛び交っていて、とにかく今、祠堂で一番注目されている人物だった。
そのギイに入学した当初から高林泉が猛烈アタックをしているのだ。
そりゃもうそのアタックぶりはいっそ見ていて清々しいほどで、一応ここは男子校なんだけどなぁなんて誰も口をはさめないほどだった。誰がみても美少女だと間違うような美貌の高林だったが、ギイはそんな高林のことなどまったく相手にしていなくて、俺からすればあれだけ冷たくされているのにまったく諦める気配のない高林にはある意味感心してしまう。
とにかく高林がギイにまとわりつく図はすっかり祠堂では名物になっていた。
「ああ、また高林か。あいつも懲りないな」
今見ていても、ギイが迷惑してるのはよく分かる。
だいたい高林のやつ、あれだけ写真を送ってくれって頼んでいたのに、すっかり忘れていたようで、祠堂で再会して開口一番そのことを言うと、
『あーそっか、忘れてたよ、今度帰省したときに持ってくるよ。覚えてたら』
などと、しゃあしゃあと言いやがったのだ。
顔は綺麗だが、性格はどうしようもないヤツ、というのが俺の中での高林の評価だった。
「ギイが高林を相手にするとは思えないんだけどな。見込みがないってどうして分からないんだろうな」
「だけど、好きって気持ちはどうしようもないよね」
八津はギイたちが通り過ぎるのを見送りながら、ぽつりと言った。
そしてはっとしたように俺を見て、一般論だけど、と慌てて付け足した。
歩き出した八津を追いかける。
「なぁ、八津はここに来る前に、好きな子いたのか?」
「え?何だよ突然」
びっくりしたように八津が頬を赤らめる。
なぁなぁ、と俺はなおも八津に尋ねる。
「彼女とかいた?」
「いないよ」
「本当に?彼女はいなくても好きな相手とかはいたんじゃないのか?」
「何だよ、矢倉。やけにしつこいな」
指摘されて口ごもる。
今八津にそういう相手がいないことはちゃんと分かってる。だからそんなこと聞いても仕方ないと分かってるけど、やっぱり気になるのだ。八津はどういう人を好きになるのだろうか、と。
「そりゃあ知りたいだろ。好きな人のことはさ」
正直に言うと、八津は目を丸くして、そして困ったように少し考えたあと言った。
「好きっていうか・・・頼りにしていた人はいたんだけど・・・でも、それだけだよ。向こうは俺のことなんて何とも思ってなかった。もう俺とは何も関係ない」
「ふうん」
「そういう矢倉は?彼女とかいたの?」
反撃されて、俺は隠すのも嫌だったので正直に答えた。
「彼女っていうか、仲良くしてた子はいたよ。中学生らしい可愛いお付き合いだったけどな」
「矢倉、もてそうだもんな」
「そうか?なぁ、俺って八津のタイプ?」
「どうかな。だけど、自信満々でそういうこと聞いたりするところは嫌いじゃないよ」
八津はくすくすと笑う。
そんな八津に俺は何ともじれったい気持ちになる。
好きなんだろ、俺のこと。
そう言って抱きしめたら、八津はいったいどんな反応するんだろう。
怒るだろうか、それとも笑うだろうか。
「俺は好きだよ」
何の迷いもなく口にすると、八津はとたんに真っ赤になって軽く俺を睨んだ。
いったいどうしてこんなに好きになってしまったのか、自分でも説明ができない。
だけど、恋に落ちるっていうのはそういうものだ。
説明なんてできないし、やめようと思ってやめられるものでもない。
八津のそばにいるだけで嬉しくて、馬鹿みたいに楽しくて、どうせなら八津も一緒にその幸せを共有したかった。
返事は少し待ってくれと言われたけれど、もちろんちゃんと待つつもりだけど、だけどその時間がもったいなくて仕方ない。
だって俺たちお互いに好きだって思ってるのに。
「矢倉って・・・」
「うん?」
「思ってた以上に強引だな」
「そんなことないぜ、めちゃくちゃ我慢強いと自分では思ってる」
「はは、よく言うよ」
早く返事が聞きたかった。
俺のことを好きだって言う八津が見たかった。


寮には当然のことながらきちんと寮則があって、起床から就寝まで時間が決められていて、点呼まである。部屋にはテレビはないため、食事が終わると、見たいテレビがある連中は談話室に集まる。そうでない連中は、自室で宿題予習をしたり、あとは友達の部屋に集まってゲームをしたりして、就寝までの時間を過ごす。
ベッドに寝転んで雑誌をめくっていると、呼び出しがかかり八津の名前が呼ばれた。
ここは携帯は禁止されているので、外部と連絡を取るには共同の電話を使うしかない。
外部からかかってきた電話は呼び出しがかかる。誰からの電話かまでは放送されないが、この時期は、親からの電話も多いのだ。あまりにもそんな電話が多いと、それはそれで何となくカッコ悪い気がして、親に電話をするなと頼むようになる。そして入学して半年が過ぎる頃には親からの電話なんて滅多にかかってこなくなる。
八津は電話が多いな、と俺は思った。
一人っ子だから母親が心配ばかりしてるんだよ、と以前言っていたが、ほとんど毎日のようにかかってきてるような気がする。
何となく気になって部屋を出た。
階段を降りて玄関脇にある電話の方を見ると、ちょうど八津が受話器を置くところだった。
「八津」
声をかけると、八津は俺を見て、どこかほっとしたような表情を見せた。
「また家から?」
「そう。ほんと心配ばかりするんだから嫌になるよ。寮での生活はどうだ、とか。授業はどうだ、とか。矢倉のことも聞いてたよ」
「俺のこと?」
肩を並べて歩き出す。まだ時間があることを確認して、二人して寮の外に出た。
「だって祠堂でのはじめての友達だし、入学式の時に母と挨拶もしただろ?俺も矢倉のことを電話で話すし。さっきも矢倉の話してたら、他に友達いないのかって呆れてた」
そんな心配しなくても、八津の友達は俺だけじゃない。
学校が始まってまだほんの僅かな時間だけど、八津の周りには人が集まる。
だからその気になれば友達なんてあっという間にできるだろうが、八津はあまりそういうことに興味がないようで、来るもの拒まずといった感じで当たり障りなく付き合っている感がある。
逆にそれが人の気を引くのだとはきっと気づいていない。
「ちょっと散歩しようか」
今日は雲ひとつない晴天で、夜になっても月の明かりが眩しくあたりを照らしていた。
しばらく無言で歩いていた八津は噴水の前までくると、その縁に腰を下ろした。
「なぁ、うちって、電話が多いなぁって思う?」
唐突に八津が言った。
俺は八津の隣に座ると、どうかなと首を傾げた。
「うーん、まぁ少なくはないよな。けど、この時期はみんな実家からの電話が多いだろ?八津だけ特別目立ってるとは思わないけど、どうして?」
「・・・・なぁ、矢倉」
「うん?」
「俺のこと好き、って言ってくれただろ」
「言ったよ」
「いろいろ考えたんだけどさ」
「え、今返事くれるのか?」
ずいぶん唐突だな、と思わず声が上擦ってしまった。
すると八津は慌てたように手を振った。
「あ、えっと、その前にちょっと話したいことがあって。あんまり気持ちのいい話じゃないかもしれないんだけど・・・」
八津は少し逡巡するように俺を見た。
「なに?もしかして実は恋人がいました、なんていうんじゃないだろうな」
「ええ?はは、そんな色っぽい話じゃないよ」
緊張が解けたのか、八津はふっと肩の力を抜いた。
「母からの電話のことなんだけど」
「うん」
「俺が一人っ子で、初めて家を出るってことで、たぶん心配してるってことが一番なんだけど、もともと子離れできてないっていうか・・・まぁそれには理由があって・・・」
八津は視線を落として小さく続けた。
「父はそこそこ手広く事業をしていて、そのおかげでうちはありがたいことに裕福な家庭なわけなんだけど、でも、父には何人も愛人がいてさ、母はそれでずっと苦労してて・・・まぁよくある話なんだけど、夫婦仲は当然いいわけなくて、母は俺だけが心の拠り所っていうか・・・」
「ちょっと待て」
それはよくある話なのか?と俺はまるでドラマのような話に眉をひそめる。
八津は軽く肩をすくめて話を続ける。
「かわいそうだなって思うんだよ。だから子供にべったりでも、ある程度は仕方ないかなって思ってるところもあって、ずっとそんな風に過ごしてきたんだけど、でもだんだんとそういうのが面倒になってきたところもあって・・息苦しいっていうか・・」
「ああ」
「だから、高校3年間くらいは母からも父からも離れて過ごしたいなって思ったんだ。両親のことで悩んだりしないで、せめて高校時代くらいは自分の好きなことして、自分だけの時間を持ちたいなって思って、祠堂を受験したんだよ」
「・・・」
「ずるいって思う?母のこと、一人にして自分だけ逃げるなんて、ひどいヤツだと思うかい?」
八津は俺を見て、どこか不安そうに瞳を揺らした。俺はこのまま八津を抱きしめてしまいたい衝動に駆られて必死でそれを押しとどめた。
「・・・母のこと、俺までもが裏切ることはできないって思ってる。悲しませたくもないし、大事にしようって、そう思ってるんだよ。だけど、ちょっとだけ、解放されたかったのかな」
最後の言葉は小さなつぶやきで、それは自分自身に問いかけているようにも聞こえた。
俺は幸いなことに両親ともに仲はいいし、家庭のことで悩んだことなんてないから、どんな言葉を八津に言ったところで、それはうわべだけのものになるのかもしれない。けれど、寂しそうな八津を見ているとどうにもたまらなくなってしまった。
腕を伸ばして、八津の身体を引き寄せる。
見た目よりもずっと華奢な身体を抱きしめると、それだけで心臓が高鳴って、息ができなくなりそうな気がした。
「八津の人生は八津のものだろ。母親のことを大切にしたいって思うのも当然だし、だけど自分だけの時間を楽しみたいって思うのも当然だと思う。そんなことで八津が罪悪感を感じる必要はない」
「・・・うん」
「俺、これでまた八津のことちょっと知った」
「嫌にならなかった?」
「ならないよ」
こんなことくらいで嫌いになんてなるはずがない。
弱いとかずるいとか、そんなことも思わないし、もし本当にそうだとしても、全部含めてやっぱり八津が好きだと思う。八津は顔をあげると、ちょっと困ったように視線を巡らせた。
「あのさ、矢倉」
「うん?」
「だから、本当は俺、祠堂では静かに過ごしたかったんだよ、もともと人付き合いってそんなに得意な方じゃないし・・誰かと付き合うなんて、ぜんぜん考えたこともなかったし・・・」
おい、ちょっと待て。それはお断りの前振りか?
何だか嫌な予感がして、俺は思わず表情が固くなるのがわかった。
「だけど・・春休み、ずっと矢倉と電話で話しててすごく楽しくて、たぶん、矢倉と一緒だと、いろんなことが賑やかで面白いんだろうなって。祠堂に早く行きたいって思うようになった。静かに過ごしたいって思ってたのに、そんなこと忘れちゃうくらいに・・・」
「・・・」
「だから、えっと・・・」
赤い顔をして口を閉ざした八津に、思わず笑ってしまった。こういうことに慣れてないんだなと思うとそれだけでちょっと嬉しくなる自分もどうかと思うが、しょうがない。
「俺と付き合ってくれる?八津」
もう一度、ちゃんと告白すると、八津はこっくりとうなづいた。
「・・・うん」
「俺のこと好き?」
「・・・好きだよ」
「俺も好きだよ」
心を込めてそういうと、八津はうんとうなづいた。うっすらと赤く染まった首筋に、いろいろと我慢してるのが
馬鹿馬鹿しくなった。
八津の気持ちをちゃんと聞けてなかったから、ずっと我慢してたけど、相思相愛だと分かったのだからもういいはずだ。
俺がうつむく八津の頬に手をやると、はっとしたように八津は目を見張った。そんな彼にゆっくりと顔を近づけた。
微かに唇が触れると、八津はぴくりと身を震わせた。
だけど逃げないことに嬉しくなって、俺は今度はもっとちゃんと口づけた。
「・・・何て手の早い」
唇が離れると、八津は少し怒ったような顔をしてみせた。
だけどそれが照れてるからだということはすぐに分かった。
「あー、俺、今めちゃくちゃ嬉しくて叫んじまいそう」
「矢倉、そんなことしたら・・・」
「なに、嫌いになる?」
「・・・・」
子供っぽく唇を尖らせて、だけど八津は頷いたりはしなかった。ただそっぽを向いて、俺のちょっかいを無視することでほんのちょっと怒りを顕わにしてみせた。
「あ・・・」
からめた指を解こうと格闘していた八津がふと空を見つめて動きを止めた。
その視線の先を見てみると、もうほとんど散ってしまった桜の木から、最後の花びらが風に吹かれて辺り一面に吹雪のように舞っていた。
「すごい・・」
八津が手を伸ばして花びらを追う。
ふわふわと白い雪のようにも見える花びら。
青白い月の光と相まったどこか幻想的な景色に思わず見惚れた。
「八津」
「うん?」
見つめあって、何だか気恥ずかしくて、だけど嬉しくて。
出会えたことに素直に感謝できた。
好きだと伝えることができて、その思いが届いて、キスをして、その先はいつできるのかって今から待ち遠しくて、明日が楽しみになる。
まだ始まったばかりで、これからまだまだ知らない八津のことを知っていって、きっともっと好きになる。
「好きだよ」
俺の言葉に、八津ははにかんだように笑った。
ああ、本当にどうしてこんなにあっけなく恋に落ちてしまったのだろう。
そんな風に笑ってくれるなら、何でもしよう。
その時俺は、そんな風に思ったのだ。


八津の母親から電話があったのはその翌日のことだった。







手にした写真を月明かりの下で眺めてみる。
たった2年前なのに、そこにいる自分はまだ幼くてまるで自分じゃないように思えた。
高林をはさんで横に立つ八津もどこか子供っぽくて、だけどそれは俺が好きになった時の八津で、どうしても笑みが零れてしまう。
「矢倉?」
声をかけられて振り返ると、ベッドの上で八津がこっちを見ていた。
開け放した窓からの冷たい空気に目が覚めてしまったのか、寒そうに身をすくめると、脱ぎ散らかしたシャツを手繰り寄せて無造作に羽織った。
「何してるのさ」
「んー?これ」
指で挟んだ写真を振ってみせると、八津はああ、というように小さく笑った。
裸足のまま、窓辺に置いた椅子に座る俺のそばに立ち、写真を手にする。
ようやく恋人となって戻ってきてくれた八津の身体に腕を回して抱き寄せると、八津はくすぐったそうに身じろいだ。
たった今愛し合ったばかりの身体が愛しくて、シャツの上から胸元にキスをする。
「矢倉っ」
「暴れるなって」
そのまま強引に膝の上に座らせようとすると、八津はしょうがないなというように軽く俺を睨み、それでも素直に膝に座ってくれた。
「こんな写真見て、何考えてたんだい?」
問われて、さっきまで辿っていた記憶がもう一度甦った。
「初めて八津に出会った時のこととか、八津に告白した時のこととか、八津が俺のこと好きだって言ってくれた時のこととか」
まるで走馬灯のように2年前のことが浮かんでは消えていった。ずっとずっと、心の奥深くにしまいこんでいた辛い記憶は思い出すたびに胸が痛んでいたのに、今は不思議と痛みは和らいで、どこか懐かしい思いでのようにさえ思えた。
八津の母親から宏海に近づくなと言われ、その日から3日悩み抜いて、八津に別れを告げた。
別れを告げたその日から、俺の中では時間が止まったまま身動きできなくなった。
そして八津への思いだけは薄れることなく胸の中で燻り続けた。
嫌いになったわけじゃなかった。
むしろ好きで好きで、その姿を見るたびに胸が痛んで吐きそうになるほどだった。
それでも時間と共に違う目で八津を見ることができるようになった。
友達と笑っている八津を見ればほっとした。
好き勝手に八津を振り回してしまった俺にできることは、静かに高校生活を送りたいと言っていた八津のことを見守ることくらいだった。
けれど諦めるつもりもなかった。
3年間。
八津が心穏やかに過ごしたいと言っていた3年が過ぎれば、もう一度最初からやり直すつもりだった。
早く祠堂を卒業して、一人前になって、八津の母親に認めてもらえるような男になって、もう一度八津に告白しようと決めていた。
そんな俺の背中を、ギイが少し早く押してくれた。
波風の立っていなかった頃ならまだしも、山形の登場や葉山とのあれこれで、ますますこじれてしまいそうな俺たちを見かねてのことだった。
今ちゃんと八津に気持ちを伝えなければ、きっと一生後悔するから、と。
「今と同じ季節だった。たった2年前のことなのに、もうずいぶんと昔のことのようで、だけど、あっという間だったような気もする」
「ごめん、矢倉」
「うん?」
「ずっと、矢倉のこと悪者にしてた・・・」
「いいって。俺だって何も言わずに、八津のこと傷つけた」
「そんなこと・・・」
写真の中の自分の姿を目を細める。
「子供だったよな。あの時はああするのが一番だって思った。だけどそうじゃなかったんだよな。もっと他に方法があったのかもしれない。でもどうすればいいか分からなかった」
「うん・・・」
「実を言うと、今でも分からない」
自嘲気味に笑って、八津の肩先に顔を埋めた。
2年前と状況は何一つ変わっちゃいない。
八津の母親はどうしたって俺と八津のことを許すはずもないだろう。
一度は八津とはもう懇意にしないと約束したのに、それを反故した俺をますます恨むことになってもおかしくはない。
「なぁ、もしあの時、八津にすべてを話していたら、どうなってたかな?」
「・・・・どうかな・・・あの時、矢倉のことすごく好きだったから、別れるなんて考えなかったかもしれないよ?」
だけど、すごく悩んで辛い思いをすることになっただろう。
もしかするとそれに耐えられなくて、別れることになったかもしれない。
ただ好きだって気持ちだけで、突っ走っても、きっと何もいいことなどなかったに違いない。
だからあの時選んだ別れは間違いじゃなかった。
「もう二度と離さない」
薄い背に腕を回してそっと抱きしめた。
「ごめん、八津のことそっとしておきたかったのに、やっぱり駄目だった。あんな形で別れて、八津に嫌われて、時間がたてば好きだって気持ちはなくなるのかなって思ったこともあった。だけど駄目だった」
「・・・・」
「初めて会った時からずっと好きだった」
2年前と同じように告げると、八津はどこか不思議そうな顔をして俺を見返した。
「どうして?」
「うん?」
「あの時もそうだった。たった1回しか会ってなくて、電話でしか話したことのない俺のことを好きだと言った。あんな形で別れて、2年の間、ほとんど話をすることもなかった。俺のこと、何も知らないに等しいのに、どうしてそんな風に好きだなんて言えるんだよ」
言われて、俺は少し考えた。
「誰かを好きになるって、最初は思いこみみたいなところあるよな。こいつは俺の理想の人に違いない、運命の人に違いないって。そこから付き合い始めて、いろんな面を見ていくうちに、やっぱり違うとか、幻滅していくこともあるんだろうとは思う。けど、そんなの誰でも同じだろ?100%完璧な相手なんているわけない。俺はさ、好きだなって思えるとところが一つでもあれば、たぶんそいつのことをずっと好きでいられると思うんだ。一つあれば、あとは全部ひっくるめてOkなんだよ」
「・・・・じゃあさ、矢倉にとって、俺のその一つって何なの?」
「何だろうな・・・もちろんあるよ。けど、言葉では上手く説明できないな」
受験の日、自分の消しゴムをわけてくれた優しさだとか。
黙っていても気まずくならない雰囲気だとか。
笑うと幼く見える表情も、涙もろいところも、そのくせ頑固で気の強いところも。
ああ、一つってわけじゃないじゃないか、と思うと笑えてきた。
そりゃあずっと好きでいられるわけだ、と。
「なぁ、八津、俺と付き合ってくれる?」
「こんなことしておいて、今さら?」
呆れたような八津の言葉に苦笑した。
二度目のキスだけで済むはずもなく。2年前、初めてキスをした時に感じた愛しさのままに、八津とベッドにもつれ込んだ。何度も夢見た濃密な夜の余韻は、まだ身体のそこかしこに残っている。
「矢倉ってやっぱり強引だよね」
「何で?だって相思相愛って分かったのに、何を我慢することあるんだ?2年もずっと我慢してたんだ、俺はもう我慢しないよ」
「・・・・うん」
「俺と付き合うのは、八津にとっては、いろいろと負担になることかもしれないけど・・・」
何しろ母親と接するのは八津なのだ。俺とのことを隠して付き合うのなら、嘘をつく辛さは八津の方が大きいはずだ。
「大丈夫だよ、矢倉」
八津はくしゃりと俺の髪をかき上げた。
「確かにあの頃と状況は何も変わってないかもしれない。だけど、確実に変わったことが一つある」
「なに?」
「矢倉と別れたらどれだけ辛いかが分かったってこと」
「・・・っ」
「もう二度と、あんな思いをするのは嫌だ」
「ああ」
俯く八津の頬を両手で包む。
「矢倉が誰かと付き合ってるとか、そういう噂に振り回されるのも嫌だ」
「ただの噂だろ、真実じゃない」
「矢倉が・・・俺じゃない誰かを好きになるんじゃないか、って・・・いつも不安になるのも・・・」
「そんな心配する必要ないって」
俺が好きなのは2年前からずっと八津だけなんだから。
口づけをねだると、八津はちゃんと応えてくれた。
ひとしきりの口づけのあと、俺たちは顔を見合わせて笑った。
俺は八津の手から写真を受け取って眺めた。
「写真、今頃になって、って思ったけど、やっぱり嬉しいな。八津は?これ、欲しくないか?高林に頼んでもう一枚焼き増ししてもらうか?」
俺たちが初めて会った時の記念すべき日の写真だ。できれば八津にも持っていてほしい。
八津はぱちぱちと何度か瞬きをすると、何か言いたげに俺を見た。
「何だよ?」
「えっとさ、それ実は俺も持ってるんだよね」
「えっ?何で?」
2年かけてようやく手に入れた写真を、どうして八津が持ってるんだ?
「受験の日、矢倉は高林に写真を送ってくれって頼んだだろ?で、高林はすっかり忘れてた」
「ああ」
「俺は、ちゃんと高林に直談判して、直接もらったんだよ」
「はぁ?」
「入学してすぐに高林を捕まえて頼んだんだ。貰ったのはGW明けだったけどね」
「けど、それって・・・」
その時には、もう俺たちはとっくに別れていた。
「あのさ、俺だってずっと矢倉のことが好きだったんだよ?嫌いで別れたわけじゃなかったんだから」
恥ずかしさからから頬を赤くして八津はそっぽを向いた。
まさか八津があの写真を持っていたとは夢にも思わなかった。
思いもしなかったことに、言葉も出ない。
無理矢理になかったことにした恋心は、お互いの心の中でずっとずっと大切に守られていたのだ。
いつの日か、もう一度相手に手渡せるその日を待ちながら。
そしてやっと、あの時手離した恋が二人に戻ってきた。
「そっか、八津もずっと俺のこと好きでいてくれたんだな。嬉しいな。嬉しすぎて、大声で叫んじまいそう」
「矢倉・・・夜中だよ」
こんな会話ずいぶん昔にもしたような気がするな、と思った。
「八津、明日、一緒に下山しよっか。俺たち一度もデートすらしてないんだよな」
「いいよ・・・最初からやり直しだね」
2年前にできなかったことを一つずつ。
とりあえず今はそれで十分だ。
先のことは今は考えずにいよう。何とかなるなんて簡単に言えるほど楽天家ではないけれど、今度は二人で考えることができるのだから、これから先も、ずっと一緒にいられる方法を考えよう。
もう一度思いを伝えることができて良かった。
素直にそう思えることが嬉しかった。





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あとがき

このカップル、この先どうなるんだか。