高校二年の春休み。
オレは託生をNYの自宅に連れてくる、という長年の夢をやっと叶えることができて、正直少しばかり浮かれていたんだと思う。 託生が思いもかけない事故にあってしまい、記憶をなくしたのも、そのせいだったような気がして、しばらくは自己嫌悪で落ち込んだ。 けれど託生の記憶はすぐに戻り、オレがいたから戻ってこれたとまで言ってくれたおかげで、ようやくこの二人だけの短い休暇を楽しもうという気にもなれた。 当初の予定を大幅に変更せざるを得なくなったものの、オレとしては初めてのNYを楽しんでもらいたくて、あちこちと託生を連れて回った。 初めのうちは物珍しくしていた託生だったが、とうとう昨日の夜、 「ねぇギイ、明日はちょっとゆっくりしよう。さすがに疲れたよ」 と、申し訳なさそうに口にした。 考えてみれば、NYに到着してすぐに事故にあい、病院で休養したあとようやく記憶が戻り、それからずっと外出しっぱなしだったのだから、疲れないわけがない。 オレにとってはNYはホームグラウンドだけれど、託生にとっては異国の地であり、周りに知った人がいるわけでもなく。ペントハウスの中でさえ日本語ができる者がいないのだから、神経が張り詰めてしまっても仕方がない。 オレとしてはペントハウスで二人きりでゆっくり過ごす、というのもかなり魅力的なことだったので異論はなく、その日は自然と目が覚めるまで惰眠を貪ることにした。 朝の光が部屋に満ちてもぼんやりと夢の中を彷徨っていたオレは、傍らにあるはずの温もりがないに気づいて、一気に目が覚めた。 「託生・・・?」 やれやれまたか。 オレはベッドから抜け出すと、隣の部屋へと続く扉を開けた。思った通り、託生は天井まである大きな窓のそばに立って外の景色を眺めていた。 「おはよう、託生」 そっと近づいて背中から抱きしめると、託生は顔だけオレへと向けて、おはようと笑った。 「毎日早起きだな」 「今日は早くないよ。今起きたとこ」 確かに今日は寝坊したけれど、託生はNYへ来てからというもの毎日、いつもからは考えられないくらい早起きをしては、この窓からの朝一番の景色を眺めているのだ。 「綺麗だねぇ」 どこかうっとりと、腕の中の託生がつぶやく。 窓の外に広がるNYの景色。 夜になると眼下には宝石箱をひっくり返したかのような美しさが広がる。初めてそれを目にした託生は、言葉を無くしてオレが声をかけるまでずっと飽きもせず眺めていたのだ。 朝は朝で、オレをベッドに残して一人起き出しては、窓の外を眺めている。 毎日よく飽きないなぁと感心してしまうほどだ。 「ギイは、毎日この景色を見ながら生活してるんだね」 抱きしめた腕の中で、託生がしみじみとつぶやく。 「うん?ああ、そうだな」 「毎日こんなに高い場所から、こんなに綺麗な景色を朝一番に見るのってどんな気分?」 「え?」 思いもしなかった質問に、オレはうーんと考えた。 そりゃまぁ綺麗だとは思うけれど・・・ 「あんまり意識したことなかったなぁ」 と正直に答えると、託生はオレのみぞおちに軽く肘鉄を食らわせた。 「いてっ」 「贅沢者」 「はは、だけど今日はめちゃくちゃ綺麗に見える。きっと託生と一緒だからだな」 ぎゅっと抱きしめて、こめかみにキスをする。 それは嘘ではない。 見飽きているはずの景色も、託生が一緒だと綺麗に見える。託生がいるだけで、オレの世界はモノクロからカラーへと彩りを変え、息をするのが楽になる。 不思議だといつでも思ってる。 「託生、ここからの眺め、そんなに気に入った?」 「うん、すごく綺麗だね」 「よーし、じゃあ2人で暮らすことになったら、ここと同じくらい眺めのいい部屋を探すよ」 いずれオレたちが一緒に暮らすとしたら、託生が気に入った場所がいい。 「また夢の話?」 託生が呆れたようにくすくすと笑う。 それはきっと託生にとってはあまりに遠い未来の話で、まったく現実味はないのだろう。 けれど、オレにとっては叶えるべき夢が一つ増えただけのことだ。 「夢の話だけど、夢のままにはしないよ」 「ギイ・・・?」 くるりと託生の身体を回転させると、そのまま額に口づける。 「約束する」 「・・・・・」 託生はくすぐったそうに肩をすくめ、そしてどこか不思議そうな表情でオレを見つめた。 何か言いたそうにじっとオレを見つめる託生は、やがてふっと柔らかく笑った。 「何だ?」 「ううん、何でもない」 「本当に?」 「うん。あ、ギイ、午後から行きたいところがあるんだ」 滅多にない託生からのおねだりとなれば、そりゃ何でもきいてやるけれど。 今日はゆっくりするんじゃなかったっけ? まぁオレは託生と一緒なら何でもいいんだけどな。 早めの昼食を取りペントハウスを出ると、暖かい日差しのおかげで、冷えた空気は少しばかり緩んでいた。それでも、まだそこかしこに雪が残っている。 オレにしてみれば暖かいくらいなのだが、寒がりの託生は完全装備だ。オレがプレゼントしたコートを着て、首にはマフラーを、手には手袋をつけている。 コート、良く似合ってるなと自画自賛して、折れた襟元を直してやる。 「さて、どこへ行きたいんだ?」 何か土産物でも見たいのだろうか。それともミュージカルやオペラや、そういうもの? 自由の女神とか、ベタな観光名所へ行きたいというならどこへでも連れていくけれど、NYじゃないところを言い出されるとちょっと難しいかな。託生、あんまり地理が分かってなさそうだから平気でゴールデンゲートブリッジが見たいなんて言い出しそうだ。 けれど、託生が口にした言葉に、オレは別の意味で驚いた。 「あのさ、ギイが普段行ってるところが見てみたいんだ」 「うん?」 託生は寒さに肩をすくめてオレを見る。 「だから、ギイがNYにいる時に、よく行くお店とか、遊んでる場所とか」 「この近所ってことか?」 何だ、そりゃ。という思いが顔に出たんだろう、託生は楽しそうに笑うと続けて言った。 「祠堂の麓の街でもさ、ギイ、みんなが知らないような店を見つけるの得意だろ?たいてい美味しい店だったり、おしゃれなカフェだったりするし。だから、ギイがNYでどういうところがお気に入りなんだろうって思って」 「・・・・」 「NYにいるギイは、ぼくの知らないギイだけど・・・ちょっと知りたいなって思ったんだよ」 「託生・・・」 他人のことには基本的に無関心で、恋人であるオレのこともあまり深く知ろうとはしない託生。 もちろんそれは、オレがそう仕向けているからってこともある。そのおかげで助かってることもたくさんあるから、文句なんて言えないんだけれど、だけど・・・ 「オレのこと、ちょっと知りたくなった?」 「・・・そうだね、知りたいよ」 託生の言葉がオレの胸をじんわりと暖かくする。 好きな人のことなら何でも知りたい。少なくともオレはそうだし、そうしてきた。たぶん、今託生のことを一番知っているのはオレのはずだ。そう思いたい。 だから、託生が同じようにオレのことを知りたいと思ってくれているのだとしたら、それはとても嬉しいことだ。 「あ、えっと・・・ギイが嫌じゃなければ、だけど」 黙りこんだオレに、託生が慌てて言い募る。オレはそんな託生の頬をきゅっと摘んだ。 「嫌じゃないさ。だけど、ほんとに普通だから面白くないと思うぞ」 「どこでも楽しいよ。ギイと一緒だから」 何でもないことのように言って託生が笑う。 オレは託生の肩を抱いて歩き出した。 「よし、じゃ今日はご近所をぶらぶら、な」 「うん」 「オレ、ちょっと買いたいものあるんだけど、付き合ってくれる?」 「うん」 ご近所デート。 なるほど、こういうのも悪くない。 久しぶりのCDショップであれやこれやと新発売になっていたCDを物色する。託生はあまり洋楽は聴かないので、オレが買うものを決める間、クラシックコーナーで視聴してると言った。 オレが買おうと決めたCDを手に託生のもとへ足を向けると、そこにはやけに目立つ綺麗な女性が、託生に向かって話しかけているところだった。 驚いたのは託生がにこにことその女性の相手をしていることだった。 英語が苦手な託生はもちろん外国人も苦手なわけで、NYにいる間、できるだけ周りの人と目を合わせないようにしているのをからかっていたくらいなのに。 (何なんだ、いったい) オレは小さく舌打ちして、足早に託生のもとへと向かった。 「あ、ギイ」 オレに気づいた託生がぱっと見惚れるような笑顔を見せる。 そばにいた女性もオレに気づいてにっこりと笑った。 「何か欲しいものあったか?」 さりげなく託生の肩に手を回す。託生はオレのものだと、とりあえずの主張。 「うん・・あ、ギイ、探してたCD、この人が見つけてくれたんだ」 ほら、と託生が手にしたCDをオレに見せる。 『ありがとうございました。友達を助けてもらったようで』 オレが少しばかりの牽制のニュアンスを込めて託生の代わりに礼を言うと、 『いいえ、たいしたことはしてないから。彼、あまり一人にしない方がいいと思うけど。私が来る前にも、彼、声かけられてたから』 と、彼女が首を傾げた。彼女の口調は目を離したオレを責めているようにも聞こえた。 どうやら託生にコナをかけていたというよりは、子供が一人でいるのを心配していたようである。 東洋人は年齢よりも若く見られるが、託生はさらに幼く見えるので、もしかしたら中学生くらいに見られたのかもしれない。 『気をつけます』 『そうね』 彼女は託生に向くと、 「じゃあお友達がきたようだから、私はこれで。NY旅行、楽しんでね」 と、流暢な日本語で託生に笑いかけた。どう見てもアメリカ人の彼女の口から日本語が飛び出すとは思っていなかったのでびっくりした。なるほど、だから託生が緊張していなかったのか。 「日本語、話せる人だったんだな」 去っていく彼女の後ろ姿を見ながら言うと、うんと託生がうなづいた。 「日本に留学してたことがあるんだって。ぼくが探してるCD、一緒に探してくれたんだ」 「へぇ、いや、そんなことより、お前、彼女の前にもおかしなヤツに声かけられてたって?」 「え?何で知ってるの?」 「彼女がそう言ってた」 「おかしなヤツかどうかは分からないよ、英語だったからさ。助けてくれようとしてたのかもしれないんだけど、何言ってるか分からなくて。そしたら、さっきの彼女が声かけてくれたんだ」 「・・・・・」 何ともまぁお気楽なことだ。言葉が分からなくて助かったな。 CDショップなら大丈夫だろうと思っていたのが間違いだった。そうだよな、ここは日本じゃないんだし、気をつけないとな。しばらく安全すぎる国にいたせいで気が抜けてたな。オレとしたことが。 「ほら、貸せよ」 託生の手からCDを受け取り、まとめて支払いを済ませる。お金払うよという託生を、プレゼント、と言って遮る。 「ありがと、ギイ」 「どういたしまして。さ、行こうぜ」 ショップを出ると、さて次は?と託生を見る。託生は少し考えたあとオレを見た。 「あのさ、ギイ」 「うん?」 「ギイが通ってた学校はこの近くなの?」 「学校?小学校か?それとも中学?」 ていうか、学校に何の用があるっていうんだ? 「どっちでも、ギイが通ってた学校が見てみたいんだけどな」 「・・・ちょっと遠いぞ」 毎朝送り迎えつきだったからな。こっちじゃどこの家庭でもそれが普通なのだが、そんなことを言うと、また託生は住む世界が違うなぁなんて言い出すだろうから言わないでおく。 「ふーん、じゃあ幼稚園は?」 さらに託生が食い下がる。 「幼稚園?」 「ギイ、幼稚園通ってたんだろ?」 「そりゃな。おい、何でそんな笑いをこらえた顔してんだよ、託生」 くすくすと小さく笑う託生の首に腕を回してぐいっと引き寄せる。 「痛いよ、ギイ。だって、ギイが幼稚園通ってたなんて想像できないんだもん」 「あのな、オレだって小さい頃は普通に幼稚園にだって通ってたし、普通に小学校にも通ってたんだぞ。別に何も特別なことなんてないんだからな」 まぁじゃんじゃんスキップしたから、そんなに長い間通ってたわけじゃないけどな。とは託生の前では言えない。学校は鬼門だな。思いもしないところで秘密がばれないとも限らない。 「よし、託生。学校なんか見たって楽しくないから、違うところにしよう」 「違うところって?」 「あー、学校で使える文房具とか見に行かないか?お前、欲しいって言ってなかったっけ?」 「あ、いいね。赤池くんのお土産に何か買おうっと」 あっさりと学校のことは忘れてくれたみたいなのでよしとした。 ステーショナリーなんて日本でだって買えるけれど、いつもオレが使ってる小物をいいね、と言ってくれる託生のために、お気に入りのショップへと連れて行く。 ちょっと凝ったデザインのステーショナリーに、託生がいいなぁと目を輝かせる。 「これにしよっと。赤池くん、こういうの好きそうだし。あ、利久にも色違いで」 お手ごろなお値段ということもあって、託生は気前良くぽんぽんとかごに入れていく。特に欲しいものもなかったオレだったが、ふとあることを思いついた。 「託生、オレとお揃いで何か買おうぜ」 「え、何かって?」 訝しげに託生がオレを見る。 「長く使えるものがいいな。万年筆とか」 「使わないよ」 「書きやすいし、使ってみれば?」 普段から使っているオレとは違って、託生は万年筆は持っていない。 「んー、どうかなぁ」 使うかなぁ、と託生が首を傾げる。いや、何だっていいんだ。託生とお揃いで何か持っていたいっていうだけだから。 ああ、何だかオレ、託生の記憶が戻ってから浮かれてるよな。 何しろ一日中二人きりで、誰の視線を気にすることなく一緒にいられるなんて天国以外の何ものでもない。いっそペアリングとかでも買いたい気分なんだけどなぁ。そりゃ学校ではそんなの身につけるのは無理だけど、プライベートでならつけてられるし。ステディリングとかプレゼントしたいとこだけど、託生は絶対にいらないって言うだろうしな。 そうなると毎日使える筆記用具とかが無難なところだよな。 「使ってるうちに書きやすさも分かるからさ。な、いいだろ?」 「強引だなぁ、ギイ」 「ああ、強引だよ、オレは。でも強引な男は嫌いじゃないだろ?」 わざと耳元で囁くと、託生は赤い顔をして、知らないよとそっぽを向いた。 そんな託生の腕を引いて、店の奥へと進む。それまでのお手頃価格なフロアとは違い、ここは少しばかり値段の張るものが揃っている。 ケースの中に並べられた万年筆。託生はじーっと見つめていたが、やがて顔を上げてオレに眉をひそめてみせた。 「高いよ、ギイ」 そう言うだろうと思った。けどなぁ、使い心地とか、書きやすさっていうのは、やっぱり値段と正比例するんだよな。それにどうせならデザインとかもお洒落な方がいいし。 プレゼントするのは簡単だけれど、問題は託生がそう簡単には受け取らないってことで。 「オレからの誕生日プレゼントならいいだろ?」 苦しいながらも、何とか理由をつけてみる。すると託生はさらに憮然とした表情を見せた。 「ぼくの誕生日は先月終わったよ。それにいろいろプレゼントは貰ったし」 「別にいいだろ。ていうか、オレがお揃いのものを持っていたいっていう我がまま言ってるだけだから、託生は気にしなくていいんだって」 「・・・・ギイって誰かにプレゼントするの好きだよね」 「誰でもいいってわけじゃないぞ。託生にプレゼントするのが好きなんだ」 「甘やかしすぎだよ」 「恋人を甘やかして何が悪い?」 やれやれ、というように託生が肩をすくめる。そしてどうせ何を言っても無駄だと悟ったのか、 「分かったよ。だけど、そんなに高くないヤツでいいからね」 と、念を押した。 任せるよ、と言う託生に代わって、店員に声をかけて見た目に気に入ったものをいくつか揃えてもらう。 オレはあれこれ試してみて、いいなと思うものを託生に渡して、実際に文字を書かせてみる。 「どうだ?」 「んー、これが一番書きやすいかも」 二つ目に手渡した万年筆を指差す。なるほどな。確かに軽く書ける気はした。本体も深いブルーで目にも綺麗だし、よし、これにしよう。 オレは同じものを二つ購入して、その一つを託生へと手渡した。 「はい、プレゼント」 「・・・ありがとう」 託生は手の中の小さな箱をじっと見つめた。 「どうした?」 「ううん。何でもない」 託生は笑って首を振ると、大切そうに万年筆の入った小箱をカバンの中にしまった。 そのあとも細々したものをお土産と言って購入して、オレたちは店をあとにした。 いつも行く書店、パスタの美味しいレストラン、オーダーメイドしてくれるシャツの店。ビンテージものの揃った雑貨店や、掘り出しものがある古着の店。美味しいコーヒーが飲める小さなカフェ。 オレがNYにいる時にぶらりと立ち寄る店を順番に覗いていく。 どこにでもあるありきたりの日常を、託生と二人してなぞっていく。 普段何気なく通り過ぎていく風景なのに、託生が嬉しそうにするから、オレまでまるで初めて経験することのように楽しくなる。 お腹空いたな、と二人して入ったバーガーショップで薄いコーヒーを飲んで、オーダーしたバーガーの大きさに託生が目を見張り、半分こして食べる。 そこらにいる普通の恋人たちみたいに見つめあっては、何でもないことで笑いあう。 祠堂にいるとこんな風には過ごせない。一応そういう恋愛は禁止されているし、章三もうるさいし。けれど、ここでは、知っている人が誰もいないという開放感からか、託生もいつもよりずっとリラックスしているように見えた。 オレがその手に触れても、慌てて振り払うこともしない。 さすがにキスしようとした時には思いっきり避けられたが、別にこの街じゃあ誰が誰にキスしてようが誰も気にしたりしない。キスなんて特別なことでも何でもない。 そう言って納得させようとしたけれど、人前でキスするというのは抵抗があるらしい。 それでも日本にいる時とは考えられないくらい、甘えるオレを許してくれる。 (やっぱり卒業したらNYに攫っちまいたいな) もっともっと、とオレの中で託生のことを求める気持ちが大きくなる。 英語が苦手で、海外なんてとんでもないなんて思っている託生が、こうして春休みにオレと一緒にここへきてくれた。 それだけでも十分幸せなことなのに、オレはできればこの先もずっと一緒にいたいと思ってる。 (帰したくないな) テーブルの向かい側、街行く人混みをどこか楽しそうに眺めている託生を見つめる。 オレの視線に気づいたのか、ふいに託生が視線を戻した。 「ねぇ、ギイ」 「うん?」 「ニューヨークに来てからずっとぼくと一緒にいるんだけどさ」 「ああ」 「友達と会ったりしなくていいの?」 思いもしなかった質問に、オレは虚をつかれた。 託生は少し身を乗り出して、オレの顔を覗きこむ。 「せっかく久しぶりに帰ってきたのに、ぼくとばっかり遊んでていいの?一日くらい地元の友達と会いたいなぁとか思わない?ぼくなら少しくらいは一人でも平気だよ?」 「あのなぁ」 オレは深々とため息をついて託生の額をぴんと突いた。 「せっかく託生と一緒にいるのに、どうしてそういうこと言うかな。何だよ、お前もしかしてオレといるのヤなわけ?」 「そんなことあるわけないだろ。そうじゃなくて、ぼくにばっかりつき合わせて悪いかなって思ったんだよ・・・」 わかってないな、とオレは密かに肩を落とす。 託生がオレのためを思って言ってくれているのはよく分かるが、どこの世界に恋人を放ったらかしにして友達と遊ぶヤツがいるんだよ。それに・・・ 「別に、託生を一人にしてまで会いたいと思う友達なんていないしな」 「え?」 「行こうか」 立ち上がり、コートを手にして託生を促す。 もしオレがごくごく普通の高校生だったなら、久しぶりに帰ってきた故郷で、親しい友達と会って遊び回ったりするんだろうが、生憎とオレは少しばかり普通とは言いがたい学生生活を送ってきた。同世代の友達よりも年上の友人の方が多く、子供らしい付き合いなんてあまりしてこなかったような気がする。 「ギイ、待って、怒った?」 託生がオレのコートの肘のあたりを掴む。 オレが気を悪くしたとでも思ったのだろうか。心配そうにオレを見つめる託生。 「怒るわけないだろ」 「・・・」 「散歩しよっか」 オレは託生の手を掴んで歩き出した。 セントラルパークはペントハウスからすぐのところにあって、オレのジョギングコースにもなっている公園だ。昔からよく訪れている場所だから、どこに何があるかも熟知している。 託生が好きそうな場所を選んで歩くと、思ったとおり、託生は目を輝かせて周りの景色を楽しんでいた。オレの手を握ったまま、ゆっくりと遊歩道を歩く。 「気持ちいいね、ここ」 「広い公園だしな。けど、ここって自然の公園じゃなくて、人工的に作られた公園なんだぜ」 「そうなの?でも森の中にでもいるみたいだね」 「朝は気持ちいいぞ。こっちにいる時はいつもここを走ってるんだ」 「そうなんだ」 まだ少し雪の残る公園は、それでもオレたちと同じように散歩をする人たちが行き交っている。 きゅっと託生の手を強く握ると、託生は少し視線を上げて、けれどそれを振り払うでもなく、寄りかかるようにしてオレへと身体を寄せてきた。 「めずらしい、嫌がらないんだ?」 からかうと、託生はうんとうなづいた。 「たまにはね」 「別にいつでもそうしてくれていいんだけどな」 「・・・んー、今は誰もいないから」 「誰もって?」 「ぼくたちを知ってる人」 「・・・・・・」 別に誰に見られてもオレは平気なのに、託生は人目を気にして日本じゃこんな風にデートしてくれることはない。 男同士だと体裁が悪いからと託生は言うけれど、本当は少し違う思いもあるんだろうなと思う。 二人が付き合っていることを知られたら、オレが困るだろうと、きっと思ってる。 自分のことよりいつも相手のことを考える託生だから、きっとそう思ってる。 「あ、湖がある」 託生がほらほら、とオレの手を引く。 ああ、知ってるよ。 その淵に、オレは何度か立ったことがある。 「凍ってる?」 「だからって、スケートしてみようなんて思うなよ」 「思わないよ」 唇を尖らせる託生を笑って、オレは上着のポケットに手を入れた。そこに小銭があるのを確認して、辺りを見渡す。 「託生、コーヒーとホットココアとどっちがいい?」 「えーっと、ココア」 「了解。ここ動くなよ」 人通りも多いし、スタンドはすぐそこで、託生の姿もちゃんと見える。オレは足早に暖かい飲み物を手に入れるべくその場を離れた。紙コップを手に、ものの3分もしない内に公園に戻ってくると、託生は言われた通り、湖の辺に立っていた。 (おいおい、覗き込むなよ) 少しばかり上体を斜めにしているのは、中が気になっているから。決して飛び込むつもりじゃないことは明らかだけれど、両手をポケットに突っ込んだままでそんな態勢でいたら、そのまま滑って湖に落ちてしまわないかとヒヤヒヤする。普通なら考えられないことでも、託生の場合は万が一ということもある。 オレはベンチにカップを置くと、託生を驚かせないようにそっと近づき、両腕でその身体を抱き寄せた。 「わっ、ギイっ!」 「こらこら、危ないだろ」 「びっくりした。そっちの方がずっと危ないよ」 託生が振り返って唇を尖らせる。 「そんなとこに立ってたら、ワニの餌になっちまうぞ」 「ワニ???」 「もしくは、そのまま飛び込みたくなる」 「え?」 ほら来いよ、と不思議顔の託生の肩を抱きベンチへと戻る。 温かいココアを手渡して、二人してベンチに座った。 一口飲むと冷えた身体が内側から温まる。託生は「美味しい」と幸せそうな顔で両手でカップを包み込んだ。しばらく無言で甘いココアを口にしていたが 「ねぇ、ギイ・・・」 「何だ?」 「聞いてもいい?」 「うん?」 どこか遠慮がちに託生が言った。 「・・・・ギイは、あの湖の淵に立ったことがあるの?」 「・・・・」 「さっき言っただろ。飛び込みたくなるぞ、って。あれは、自分も立って、飛び込みたくなったことがあるから、そう言ったんだろ?」 「・・・・・・」 いつも鈍いくせに、時折託生はこういう鋭いことを口にする。 そして、それはたいていオレの弱いところを突くのだ。以前、山田聖矢に佐智を取られるのが怖いんじゃないかと言われて、オレは返す言葉を失ったことがある。そんな風に考えたことはなかったけれど、自分でも気づいていない気持ちを、託生は見抜いたのだ。もちろん佐智のことは幼馴染として大切に思っているだけで、託生が思うような感情はまったくないのだけれど、だけど取られるような気がしていたのは事実だったと、指摘されて初めて気づいた。 託生はぼんやりとして他人のことなど何も見ていないように見えて、その実、相手のことをよく見ていると思う。表面的なことではなくて、その内面を。 「ギイ・・・・?」 「あるよ」 そんなことはない、と誤魔化すことだってできたはずなのに、何故か口から出たのは託生の問いかけを肯定する言葉だった。どうしてそんな気になったのかは分からなかった。 託生の口調が真剣だったからかもしれない。オレのことを知りたいと言った託生。オレのバックグラウンドではなく、オレ自身のことを知りたいと思ってくれている託生の言葉を適当に流してしまうと、託生に嘘をつくような気がしたのだ。 目の前の湖を眺めながら、遠い昔のことを思い出す。 「あの淵に、何度も立ったことがある。何もかも嫌になって、飛び込んじまいって思ったこともある。もちろんそんなことできなかったけどな」 「・・・・どうして、って聞いてもいい?」 「さっきからそればかりだな、託生」 オレは立ち上がると飲み干した紙コップを近くにあったゴミ箱へと放り投げた。 「いろいろありすぎて覚えてないな・・・」 裕福な家庭に生まれ、人様より少しばかり優秀な頭脳を授かり、自分としてはまったく望んだわけでもないが、他人が口を揃えて羨ましがる容姿を持って、それなのに時々すべて放り投げたくなることがあった。 Fグループのあまりの大きさと重さに息苦しくなったわけでもなく、すでに敷かれたレールに乗るのが嫌になったわけでもない。 物心ついた頃からオレの中ではそれはもう当然のこととして認識されていたから、疑問の余地などなかったし、どうせ自分の力を試すなら箱は大きい方が面白いとも思っていた。 だから親父の跡を継ぐことはオレにとっては楽しみなことでもあったのだ。 けれど、小さな頃から目にしてきた大人たちの世界は綺麗なことばかりではなく、まだ何も分からない幼いオレにまで、おべんちゃらを使う連中にはうんざりしていた。 頭の良さが仇になるとはよく言ったもので、下心のある大人たちの考えていることなんて、オレには手に取るように分かったし、それを逆手に取ることだってできるだろうことも分かっていた。 そんな自分にうんざりしていた時期もあった。 それでも、それもいずれ必要になることだからと、どこか冷めた思いで甘んじてた。 学校という場所は、そんな駆け引きばかりの世界とは無関係で、同じ年の友人たちとはごくごく普通の付き合いをしているつもりだった。 実際、Fグループなど関係なく、崎義一という一人の人間がそこにいるだけで、何の利害関係もなかったはずだから。 少なくとも、オレはそう思っていた。 けれど、ある時偶然に耳にした言葉。 (ギイなぁ、悪いやつじゃないけど、やっぱり気に入らないよな) (それ、単に妬んでるだけなんじゃないのか?) (金持ちで、男前で、女にもてて?そりゃ普通なら妬むだろ) (嫌なら付き合わなきゃいいだろ?) (何言ってんだ。ギイと付き合っていて損はしないさ。何しろFグループの御曹司だ) 誰も自分のことなんて見てはいない。 本当の自分はいったいどこにいて、誰が見てくれるのだろうか。 「まぁ・・・きっと誰もが心の中で思っていることだったんだろうな。『崎義一』と親しくしてれば損はしない。オレが崎義一で、その後ろにFグループがある限り、それはもうしょうがないことなんだろうけど、その時はそこまで割り切ることもできなくて、子供だったから、それなりに傷ついたし・・・」 いや、傷つくことなどないのだろうと思っていたのに、そうではなかったことにひどく動揺したのだ。 託生に背を向けて、湖を見つめて白い息を吐く。 損得勘定で何かを考えることも、誰かを利用しようと思うことも、嘘をつくことも、本心とは違うことを平気な顔をして口にすることも、どれも受け入れたくないと思っているくせに、簡単に受け入れるヤツらを愚かしいと思っているくせに、いずれ自分もそんな世界で生きていくのだということが本当に嫌になることがあったのだ。 そして、嫌だと思いながらも、そんな世界で自分はきっと上手くやっていけるのだろうと思うと、いずれどんなことにも何も感じなくなるであろう自分のことを思うと、そんな時に誘われるようにあの淵に立ってしまうのだ。 何もかも嫌になって、あの淵に立つ。 「ギイ」 いつの間にか託生がオレの隣に立ち、どこか傷ついた表情でオレを見上げていた。オレは白い息を吐く託生の頬をそっと指先で撫でた。 「心配しなくてもいい。あの頃も今も、オレを取り巻く状況は何も変わっちゃいないだろうけど、でもな、もう二度とあそこに立つことはないよ」 「どうして?」 「託生がいるからさ」 「・・・・っ」 「あの淵に立つたび、託生のことを思ったよ。どうしても託生のことが諦められなくて、オレはあの湖に飛び込むことを思いとどまった」 オレのバックグラウンドなど何も知らない託生が、オレ自身のことを好きになってくれたらいいのに、とずっと思っていた。それが未練となって踏みとどまった。 「今は、こうして託生がオレのことを好きでいてくれるから何があっても踏みとどまれる。託生がオレのことを引き止めてくれるんだ、いつでも」 託生だけがいつでもオレがオレらしくいることを許してくれる。 Fグループの崎義一ではなく、ただの一人の人間として愛してくれる。 ありがとな、と言うと託生はゆるく首を振った。 託生は身につけていた手袋外すと、そっとオレの手を取った。手袋なんてしていなかったオレの冷たい手を、託生が暖かな両手で包み込む。 ぎゅっと握られて、オレは初めて自分の手がこんなに冷たくなっていたことに気づいた。 温かい。 その温かさに、気持ちまで温かくなってくるような気がした。 「ぼくがいるよ」 託生が真っ直ぐにオレを見つめる。 「ぼくがいる。ぼくがいることで、ギイが、もうあそこに立たなくてもいいって言うのなら、ぼくはずっと一緒にいる。ギイが感じる辛さの半分も、きっとぼくは正しく理解することはできないんだと思う。生まれも育ちも、立場もぜんぜん違うから、想像すらできないことがきっとたくさんあるだろうって思う。それに、ぼくにしてみれば、ギイは何でもできて、強くて、何にも負けない人だって思ってるから・・・だから、きっとろくな慰めも励ましもできないんだろうなって思うけど・・・でもそばにいるから」 「託生・・・」 「それしかできないけど、ずっと一緒にいるよ」 そう言って、託生がオレの胸に頬をくっつけた。両腕を背中へと回して、ぎゅっと抱きしめてくれる。 オレも同じように両腕を広げて託生を抱きしめ、その髪に鼻先を埋めた。 (ああ、温かいな) 託生はいつでも、こうしてオレのことを温めてくれる。 大丈夫なのに。もうそんなことでいちいち傷つくほど子供じゃないし、望まない世界で生きていかなくてはならないのは、何もオレだけに限ったことじゃない。 それに、決して得ることはできないだろうと思っていた本当の友人・・・何のしがらみもなく付き合える貴重な存在を、オレは祠堂で得ることができた。 同い年の友達ってものがどんなものか、オレは祠堂に入学して初めて知ることができた。 託生に会いたくて無理を言った留学だったけれど、得ることができたのは恋人だけじゃなかった。 ちゃんとオレのことを見てくれる相棒も、友人も。 託生のおかげで、オレはたくさんのものを手にすることができた。 託生は、オレにたくさんの幸せを与えてくれる。 「ねぇ、ギイ」 「うん?」 「あのさ、ぼくは何もないギイでもちゃんと好きだから」 「?」 託生はどう言えばいいか少し考えるように口を開く。 「えっと・・そばにいるよって言ったのは、決して辛いことをそのままに頑張って欲しいってことじゃないんだ。もし、ギイが何もかも嫌になって逃げ出すことがあっても・・・」 「しないよ、そんなこと」 「うん、だけど・・・」 オレの目を見つめ、託生は何かを確認するかのようにゆっくりと言った。 「ぼくはペントハウスからの綺麗な眺めも高価なプレゼントも、欲しいわけじゃないんだ。ギイがぼくのためにって何かしてくれるのは、そりゃあ嬉しいけど、でも欲しいものはそういうものじゃないんだ。こうして、ギイが誰にも言えないことを、ぼくに話してくれることの方がね、すごく嬉しいんだよ。ギイの強い所も弱い所も、全部ひっくるめてギイだから、だからね、ぼくはただギイが一緒にいてくれればそれでいいんだ。・・・ギイだけでいい」 「託生・・・」 オレだけでいいなんて、そんなこと言うのはきっと託生くらいなものだ。 口下手な託生が言いたいことは、そんなに頑張らなくてもいいってことなんだろう。 まぁオレにしてみれば無理してるつもりもないし、むしろ託生のためならどんなことだって乗り越えてやろうっていうくらいの気合はある。 実際のところ、託生が思っているほど、オレはもうそんなに簡単には傷ついたりしないし、いずれ身を置くであろう世界の中で生き残っていくための術だって知っている。それを楽しもうと思えるだけの余裕もできた。 そんなことくらいできなくて、託生と一緒になれるはずがないだろう? オレはこれからもっと強くなる。 託生と一緒にいるためには、それが必要なことだから。 だからもう、あの淵には立たない。 託生と気持ちが通じ合ったときに、そう決めた。 「オレだけでいいなんて、相変わらず欲がないな、託生・・・」 何となく照れくさくて、からかうように言うと、 「そうかな。むしろめちゃくちゃ欲張りなのかなって思うけど」 託生は首を傾げた。 「だって愛してるんだよ、ギイ」 何でもないことのように託生が笑う。 返ってきた真摯な言葉に胸が締め付けられた。 その時、空を覆っていた雲が流れ、眩しい光が地上へと降り注いだ。 湖面がきらきらと光を弾き、その眩しさに目を細める。いつもオレを違う世界へと誘う暗いブラックホールのように見えていた湖が、ただ美しく姿を変える。 まるで何かの暗示のように、見慣れた公園が柔らかな光で満ちる。 オレはぎゅっと託生抱きしめた。 (絶対に離さない) もしも明日、オレがすべてを失ったとしても、託生だけはオレのそばにいてくれるのだろう。 託生はこの世で唯一オレを幸せにしてくれる存在だ。 「オレも愛してるよ」 心からの言葉に、託生は嬉しそうに笑う。 冷えた頬を包みこんで、キスをした。 ここはもう暗い心で立つ場所ではなく、オレの心を温めてくれる場所へと姿を変えた。 託生と二人で、光の満ちる場所にした。 「帰るか。さすがに冷えてきただろ?」 「うん」 「帰ったら託生のこと抱きたいな」 「・・・え、うーんと・・・考えとく」 赤い顔をして託生が小さくオレを睨む。 相変わらず慣れないなぁと笑って、オレは託生の肩を抱いた。 ペントハウスまでものの数分。暖かい部屋で、オレは最愛の人を抱いて、そして今まで何度もしてきた覚悟をまたするのだ。 決して諦めない。決して離さない。そして必ず二人で幸せになる。 そのためなら、どんなことでもしてみせよう。 春休みが終わり新学期が始まると、オレはその覚悟を試されることになるのだけれど、この時はまだそんなことは想像さえしていなかった。 その覚悟のせいで、託生を傷つけることになることも。 「やっぱり帰したくないなぁ」 思わず口をついた言葉に、託生が瞠目する。 「またすぐに会えるじゃないか。祠堂で」 そうだな、すぐ会える。 だけど、二人だけの春休みがもっと続けばいいのに、と思ってしまう。 託生は一度だけ光の満ちた公園を振り返り、そしてオレを見て「寒いから早く帰ろう」といつもの柔らかな笑顔で言った。 オレは振り向かない。 あの淵には、もう立たない。 |