言えないひとこと


「じゃあ葉山、あと頼んだな」
「オレも」
「俺もな」
口々に言って、みんなカバンを手に我先にと図書室を出て行く。いいとも悪いとも返事をする間もなかった。結局図書室に残ったのはぼく一人。
目の前には返却されたまま手付かずとなっている本が山積みとなっている。

(やれやれ)

小さくため息をついて、ぼくは目の前の本を手にした。



祠堂学院高等学校は人里離れた山の中腹に建つ全寮制の男子校である。
学内の図書室は一般的な本以外にも、雑誌やDVDなども揃っていて、娯楽らしい娯楽のない学生生活には欠かせない場所になっている。いつも学生たちで賑わっている場所だけれど、この時期は閑散とするのだと、司書の中山先生が言っていた。
1週間後に控えた文化祭がその理由だ。
みんな部活やクラスの出し物の準備に追われていて、のんびりと図書室で読書をしようなんて思わないらしい。
それならいっそ閉館すればいいのに、と思うのだが、そうもいかないようで、図書当番に当たった者にとってはいい迷惑となっている。
もちろんぼくにはまったく関係のない話だ。
もともと文化祭に積極的に参加するつもりはなかったし、学校中がどこか浮き足立った雰囲気で盛り上がる中、居場所のない息苦しささえ覚えていたからだ。
今日の図書当番がぼくだと分かると、他のクラスの当番はラッキーとばかりに「実は文化祭の準備が忙しくて」と言い出した。
誰もいない図書室の番をしているよりも、クラスのみんなと楽しく準備をしたいのだ。
どうせ葉山は参加しないんだろう、という無言の圧力。
だからというわけではなく、ぼくは「かまわないよ」と返事をした。
一人になれるのならその方が楽だったから。
ぼくの返事を聞いて、みんなはさっさと図書室を出て行ってしまった。
もともと図書当番なんてやりたくない人がほとんどなので、サボる人間も多い。それでも、今日の当番はとりあえずやってきただけでも良心的だと言えるだろう。
しんと静まり返った図書室にほっとした。いつもここは人が多くて、誰かに触れないかと常に気を張っていないといけなくて、ひどく気疲れするのだ。
一人で仕事をするのは大変だけど、誰かと一緒よりはずっといい。
返却された本は書棚へ戻すものと、書庫へ戻すものに仕分けなくてはならない。背表紙に張られた小さなシールを頼りに、しばらくの間黙々と仕分けを続けた。

(すごい量だなぁ)

学生たちがみんな読書家というわけではなくて、先日延滞者への督促状が発行されたため、一気に本が返却されてきたのだ。本の貸し出しは1週間。けれど、期日通り返しに来ない者も多い。うっかりなのか、期日内に読み終えられなかったのか。どっちにしてもちゃんと返却してくれないと、こんな風に大量の仕事が押し寄せてくるというわけだ。
「さて、書庫へ戻すか」
本を台車へ乗せて、カウンター奥の扉から書庫へと入る。
日の当たらない書庫は独特の匂いが漂っていた。
古い紙の匂いと、少しばかり黴臭い匂い。
嫌がる人の多いけれど、ぼくは案外とこの空間が嫌いではなかった。
「ふうん、この本も面白そうだな」
パラパラと中を見て、次に借りてみようかな、などと思案する。
薄暗い書庫の中でしばらく作業をしていると、戸口の方で音がした。
たぶん、督促状を見て誰かが本を返しにきたのだろう。作業の手を止めてカウンターへ戻ろうと扉を出て、ぼくは固まってしまった。
そこには同じクラスの級長であるギイがいた。

(どうして・・・?)

固まったままでいるぼくに、ギイはいつもの眩しい笑顔を見せた。
「葉山一人なのか?他の当番はどうした?」
「・・・・・・」
黙っていると、ギイは手にしていた分厚い本をカウンターに置いた。
「もしかして、みんな文化祭の準備に行っちまったのか?」
「・・・うん」
「ったく、しょうがないヤツらだな」
今日は中山女史も不在だしな、とギイは舌打ちする。ぼくはぎゅっとブレザーの胸元を掴んだ。
崎義一。
アメリカからやってきた彼は、とんでもない美男子で、誰からも好かれる明るい性格と気安い雰囲気で、学校中のアイドルといっても過言ではなかった。成績もトップクラスで、運動神経も抜群で、とにかく何をやらせても目立つことこの上ない。抜群のカリスマ性とオーラは生まれつきのものなのだろうか。
彼のことを悪く言う人を、ぼくは今まで見たことがない。
ぼくとは住む世界がまったく違う人だ。
クラスでも学校内でも異端児のぼくにさえ、ギイはみんなと同じように声をかけ笑顔を見せる。
正直に言って、ぼくは彼が苦手だった。
彼を見るたびに、ぼくは自分との違いを見せ付けられているような気になる。おまけに彼がぼくに声をかけるたび、周りの人間が何ともいえない哀れみのような視線を向けるのだ。
ギイにお情けを貰ってよかったな、とでもいうような。
だからできるだけ自分からは彼に近づかないようにしていたし、声をかけられてもそっけなく返すことが多かった。そのうち近づいてこなくなるだろうと思っていたのに、どういうわけかギイはまったく気にしていないようで、相変わらずぼく声をかけてくるのだ。
ぼくが迷惑がっているのを気づいていないはずはないのに。
級長としての責任感からなのか。
それともただの興味本位?
人間接触嫌悪症というのは彼が命名したぼくの病気の名前だけれど、まさしく人と触れることができないぼくのことなど放っておいて欲しいのに。
「それ・・・返しておくから」
ギイが置いた本に視線を落とす。
英語の本?そうか、彼は英語ぺらぺらなんだっけ。
ギイはいたずらっ子のような表情でぼくを見ると、ぱんと顔の前で手を合わせた。
「あー。実はさ、それほんとは禁帯出なんだ。女史に特別に貸してもらっててさ」
「・・・・・」
「ほんとは昨日まで、って言われてたんだけど、ここのところ忙しくて返しにこれなくて。良かったよ、葉山しかいなくて。他の連中だと何言われるか分かったもんじゃないからな」
「・・・・・」
そんな心配しなくても、ギイのすることなら、誰も文句など言わないだろう。
むしろそんな人間臭いところを見れば、もっと親近感を感じるに違いない。
「わかった、ちゃんと戻しておくから」
「助かるよ。・・・なぁ、それ全部片付けるのか?」
指差されたのは返却された本の山。書庫に戻すものばかり、まだ山積みだ。
「うん」
「一人で?」
「・・・・そうだよ」
ギイはやれやれ、というように肩をすくめると、そのままカウンターの中に入ってきた。近づかれて、ぼくは思わずあとずさる。ギイはそんなぼくには気づかないふりをして、積まれた本を数冊手に取った。
「手伝ってやるよ。一人じゃ日が暮れちまうぞ」
「・・・っ!い、いいよ、一人でできるからっ」
「遠慮するなって、二人でやった方が早いだろ?」
そう言ってギイはさらに数冊本を抱えると、さっさと書庫へと入っていってしまった。

(どうしよう・・・・)

あの狭い空間に二人きりだなんて、とても耐えられそうにない。
でもこのままギイにだけ任せてしまうなんてできない。
「・・・・・」
仕方なく、ぼくはカウンターの上の本を抱えて書庫へと入った。
ギイはぼくなんかよりももっと手馴れた様子で本を書架へと戻していく。その早いこと早いこと。
ほんと何をやっても優秀なんだな、と感心してしまう。
ぼくがなるべくギイから離れた場所で仕事を続けていると、
「葉山はどんな本を読むんだ?」
と突然声をかけられて、びくりと手が止まった。
「悪い、急に声をかけて」
「・・・・・」
必要以上に過剰な反応してしまうぼくに眉をひそめるでもなく、ギイはごくごく普通の友人に話しかけるようにぼくにも声をかけてくる。ぼくがどれほどつっけんどんな態度をとっても気にする風もない。
自分が嫌われることなんて絶対にないという自信なのだろうか?
それとも・・・。
「休み時間に本読んでること多いからさ、いつもどんな本読んでるのかと思ってさ」
それは単に他人と話をしたくないだけで、特別読書家というわけでもないんだけれど。
「推理、小説とか」
小さく答える。
「クリスティとか?古典っぽいの?それとも最近の?」
「いろいろ・・・」
「ふうん、推理小説は面白いよな。派手なトリックがあると、オレやってみたくなるんだよなぁ」
いつも誰かしらと一緒にいて、何かをしているギイだから、一人で本を読んでるところなんて見たことはなかったので、少し驚いた。
そりゃギイだって本くらい読むだろうけど。
「まだあったよな、取って来る」
ギイは手にしていた本をすべて片付けてしまうと、ぼくの後ろを、ぼくに触れないように気をつけながら通り抜けて書庫を出て行った。
「はぁ・・・・・」
ぼくはギイがいなくなると、思わず深々とため息をついてしまった。
ギイは人間接触嫌悪症のぼくを面白がってわざと触ったりしない。ぼくが嫌がることをしたりしないとわかっているのに、どういうわけか一緒にいると緊張してしまう。
どうしてだろう。
一緒にいると息苦しくて、一刻も早く逃げたくなる。
ギイに構われたくなかった。彼が親切心で声をかけてくれるのも迷惑だった。
だってぼくは・・・・
「あ、一番上の棚か・・・」
ぼくは脚立に上がると、最上段の棚へと本を戻していった。
「お、葉山大丈夫か?」
本を抱えて戻ってきたギイは、ぼくが脚立に上がっているのを見ると、心配そうな声で言った。
どうやらぼくは相当鈍いと思われてるようだ。
まぁギイに比べれば誰でも鈍いことになるんだろうけど。
「悪い、これも一番上だ」
ギイがぼくへと本を差し出す。
無言で受け取って棚へ戻す。それを何度か繰り返した。
「これで最後な」
ギイから本を受け取る。
最上段の一番右が所定の位置。本を持ったまま思い切り手を伸ばそうとして、無意識のうちに足が動いた。
あ、と思ったときには遅かった。
脚立の上にいたのをすっかり忘れていたのだ。
踏み出した足元には何も無くて、ぼくの身体がぐらりと傾いだ。
「・・・・・っ!」
そのままバランスを崩す。咄嗟に本棚を掴もうとしたけれど、それもままならない。
床に落ちるまでの時間なんてあっという間のはずなのに、ずいぶんと長い時間のように思えた。
「葉山っ」
ギイの叫び声もちゃんと聞こえた。
肩、打ったらどうしよう、なんて考えなくてもいいことまで脳裏に浮かんだ。

(落ちるっ)

脚立が倒れる派手な音がして、せっかく戻した本が頭上からばらばらと降り注いだ。
身体に受けた衝撃は確かにあったけれど、それは思っていたよりもぜんぜんたいしたことなくて。
ぎゅっときつく目を閉じていたぼくは、それがギイのおかげなのだと気づいた。
あの一瞬の間に、ギイは手を伸ばして落ちていくぼくの身体を抱きしめるようにして一緒に床に倒れてくれたのだ。
右手でぼくの頭を抱え込んで、落ちてくる本からもかばってくれた。
そして今も、ギイはまるで大切なものを守るかのように、ぼくを抱き抱えていた。
その力が一瞬強くなる。

花の香り・・・?

ギイの身体からふわりと香った甘い香り。
その香りを感じたと同時に、ぼくは彼の体温も感じて、一瞬にして全身が粟立った。
「・・・・・や・・っ」
こみ上げる吐き気と悪寒。
ぼくはギイから逃げようと必死になった。
突き飛ばすようにして、彼の腕から逃れる。
狭い通路の端にうずくまり、ぼくは触れられた感触を必死に振り払った。
脚立から落ちたショックより、ギイに抱きしめられたことのショックの方が大きかった。
「葉山・・・・大丈夫か?」
ギイが心配そうに声をかけてくる。
ぼくは荒い息をおさめるのに必死で、返事さえできなかった。

助けてくれたのに。
自分だって怪我をするかもしれないというのに、ギイはぼくのことを助けてくれたのに。

ありがとう、とすぐには言えないほどに身体がすくんでしまう。

人の体温に。
手の感触に。

自分の意思ではどうしようもない病気が情けなくて、泣きたくなる。

「悪い、さすがのオレも触らずには助けられないからさ」
「・・・・・っ」
「怪我、してないな?」
ギイが小さく確認する。ぼくはうつむいたまま何度もうなづいた。
「良かった」
心底ほっとしたように言って、ギイは脚立を起こし、辺りに散らばった本をかき集めて再び本棚へと戻してくれた。その間もぼくは動けないままその場に座り込んでいた。

ようやく心臓の高鳴りが落ち着いてきたぼくは、ぼんやりとギイの姿を見上げた。
ギイもまたぼくのことを見つめていた。
無言のまま、どれくらいそうしていただろうか。
「ごめん・・・・ぼく・・・・」
搾り出すように声を出すと、ギイは小さく笑った。
「気にしなくていいからな。ほんと、気にしなくていい」
「・・・・・」
「とにかく、今度から脚立に乗るときは気をつけろよ」
からかうように言って、ギイは書庫を出て行こうとぼくに背を向けた。
ゆっくりと遠ざかるその後姿に、ぼくは無性に泣きたくなった。

ありがとうの一言さえ言えないぼくを、今度こそギイは呆れたに違いない。

こんな風に触れられたくなかった。
こんな風に優しくなんてされたくなかった。

ギイはぼくに見てはいけない夢を見させる。
もしかしたら、とぼくに淡い期待を抱かせる。

けれど、そんなこと絶対にあり得ないことなのだ。
それならば、最初から近づかないでいてほしい。
優しくなんてしないで欲しい。
ぼくはもう二度と、誰かを信じて傷つきたくはないのだ。

書庫を出る間際、ギイが立ち止まりぼくを振り返る。
何か言いたそうに視線をめぐらせ、けれど結局何も言わずに出て行った。
遠ざかる足音。
身体から力が抜けた。

ありがとう、と。
たったひとことが言えないことがこれほど辛いなんて。

身体を包み込む甘い花の香りが苦しかった。
まるでまだギイに触れられているような気がして、ぼくはきつく目を閉じた。







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あとがき

1年のときの話はどうしたって甘くはならない。でも片思いシチュは大好物(笑)