ホタル


どうぞ、と差し出された茶色い封筒。
思っていたよりもずっと分厚いな、と託生はふぅと吐息をついた。
きちんと読まなくてはならないと思っているのに、手を伸ばすには少しばかり勇気が必要で、しばらくじっと封筒を眺めるしかできなかった。
けれど、いつまでも手に取らないわけにはいかなかった。
どんなことが書かれているのか、薄々分かっている。
だからこそ目にするのが躊躇われる。
託生は封筒の中身を取り出すと、そこに書かれている内容に目を走らせた。


***


祠堂を卒業して、紆余曲折の末、ぼくとギイは一緒に暮らすようになった。
ギイは相変わらず仕事が忙しくて、海外と日本と行ったりきたりしている。バイタリティの塊みたいな人だから、そういう生活はぜんぜん苦じゃないみたいで、少しその元気を分けて欲しいと思うくらいだ。
ぼくはバイオリンで何とかやっと細々と食べていけるようになっていた。
大きな喧嘩をすることもなかったし、これといって事件が起こるわけでもない。
平和で平凡。だけど幸せだった。
このままこんな風に一緒にいられると思うと、それだけで安心できた。
そばにいることが当たり前だったから、それがどれだけ奇跡的なことなのかなんて考えたことがなかったのだ。
その夜、リビングでニュース番組を見ていると、玄関の方でがちゃがちゃと物音がした。
「え。なに?」
ギイは出張で今はヨーロッパのどこかの国だ。
こんな時間にここを訪ねてくる人なんて誰もいないはずなのに。
まさか泥棒だろうか?いやでもこのマンションはセキュリティもしっかりしているし、滅多なことでは住人以外の人間が建物の中に入ってくることはない。
ぼくは恐々とリビングを出ると、様子を伺いながら玄関へと向かった。
するとそこには小ぶりなスーツケースを手にしたギイがいた。
「ギイっ!?」
「ただいま・・・って、何そんなに驚いてるんだよ」
ぼくのあまりの驚きっぷりに、ギイの方が驚いたようだった。
「だって、帰ってくるの明日だろ?仕事早く終わったのかい?」
「おいおい、何言ってるんだ。今日は6日だろ?予定通りじゃないか」
「え?」
頭の中でカレンダーを思い浮かべる。昨日は5日?そうか、じゃあ今日は6日で、ギイが帰ってくる日だ。
どうして明日だなんて思いこんでいたんだろう。
ちゃんと覚えていれば、ギイのために好きなものでも作って待っていたのに。
「ごめん、ギイ。日にちを勘違いしてたみたいだ」
落ち込むぼくにギイはいいよ、と笑って髪をくしゃりと撫でた。
「忙しくしてたんだろ?ここのとこ、演奏依頼もたくさん来てるみたいだし」
「うん、まぁね。だけどギイが帰ってくるっていうのに」
「まったく冷たい恋人だ。罪滅ぼしとして、今夜はオレの好きにさせてもらうからな」
掠め取るようにキスされて、ごめんね、ともう一度謝った。
「何か食べる?お腹空いてる?」
「お茶漬け程度でいいや。軽く食べてきたから」
「うん、用意する。先にお風呂に入ってきたら?」
何だこの新婚さんみたいな会話、と自分で言ってておかしくなった。
だけどこういうやり取りは特別なことじゃなくて、ごくごく普通に日常的な会話になっている。
もし立場が逆でも・・つまり・ギイが家にいてぼくがあとから帰ってきたとしても、ギイも同じようにぼくのためにお茶漬けを作ってくれるだろう。
「それにしてもギイの帰ってくる日を勘違いするなんて」
「そんなに落ち込むほどのことでもないだろ」
ギイは苦笑し、ぼくの頭をぽんと叩くと、風呂に入ると言って浴室へと向かった。
「・・・落ち込む・・ていうかさ・・・」
ギイはぼくの失態を別段気にもしていないようだった。
たぶん、うっかりと忘れてしまう程度のことで、そこまでこだわるような出来事ではないと、ギイは思ったのだろう。
そんなことは誰にでもあることだ。普通の人なら確かにそうだろう。
けれど、ぼくにとって、ギイが帰ってくる日を間違えるだなんて、あり得ないことだったのだ。
一緒に暮らし始めてもう10年以上。
いい加減お互いのいい面も悪い面も見尽くして、出会った頃のようなめちゃくちゃな勢いや、周りが見えなくなるほどの思い込みや、他には何もいらないと本気で口にしてしまうような子供っぽい感情は薄れていたけれど、それはギイに関心がなくなったとか、そういうことではなかった。
今でもぼくにとってギイは唯一無二の人で、しばらく会えない日が続くと寂しくなるし、久しぶりに会えると思うと楽しみでならなかった。
明日ギイが帰ってくると思っていたから、早く明日にならないか、なんて思っていたのだ。
それなのに日にちを間違えるなんて。
キッチンの棚に置いてある小さなカレンダーに視線を向けると、そこにはギイが帰ってくる日にちゃんと丸印がつけてあった。
「間違うなんてあり得ないんだよ」
あれはちゃんと自分でつけた印だ。
はーっと溜息をついて、ぼくはギイのためにお茶漬けの用意を始めた。
しばらくするとシャワーを浴びたギイが戻ってきて、ダイニングテーブルの前に座った。
「託生、オレ、明日午後からなんだ。朝はゆっくりできるから」
「うん、じゃあ目覚ましはかけないでおく」
「そうじゃなくて、今夜久しぶりに一緒に寝ようってこと」
ああ、そういうことね。
ていうか、いつも一緒に寝てるじゃないか、と言い返そうかと思ったけれど、そういう意味じゃないことくらいさすがのぼくにも分かったので言わないでおいた。
「1週間ぶりだな、託生」
「そうだね」
「会いたかったよ」
「ぼくもだよ」
毎回毎回、帰ってきた時にお互いに告げるお決まりの台詞ではあったけれど、だけど上辺だけではない、気持ちのこもった言葉だった。
昔はそんな何てことのない言葉を口にするのが気恥ずかしくて躊躇していたけれど、今はちゃんと伝えないといけないなと思うようになっていた。
ギイは出張中の出来事をあれこれと話してくれた。
お互いに忙しくて一緒に旅行なんてあまりできないけれど、ギイが仕事であちこちへ行き、その話をしてくれるので、何だかぼくまでその地へ行った気になれる。
仕事が一段落したら、一緒に旅行でもしたいなぁというのがギイの口癖だ。
「夏休みにさ、前に託生が行きたいって言ってたオーストラリアにでも行くか?」
「うん、いいね」
「よし、じゃあいいホテル探して、予約するな」
「うん」
うきうきと楽しげなギイを見ていると、胸の奥がちくりと痛んだ。
夏休みまでまだ半年近くある。本当に一緒に行けるといいなと思う。だけど・・・
「ねぇギイ」
「うん?」
「前にしてくれたよね、オーストラリアの蛍の話」
ああ、とギイは笑みを浮かべた。
「土蛍な。洞窟の中にいるんだけど、その光がまるで真っ暗な夜空に浮かぶ満天の星みたいに見えるんだ。青い光がそりゃあ綺麗で、初めて見た時は本当に感動したな」
「それ、ぼくも見たいな」
「もちろん。ちゃんと見れるように計画する。今から楽しみだな」
ギイはご馳走様と手を合わせて、食べ終わった茶碗をキッチンへと戻した。
さすがに疲れていたのか、ギイは先に寝室へ戻り、ぼくがシャワーを済ませた頃にはすぅすぅと寝息を立てていた。
一緒に寝ようなんて言っておきながら、と思わず笑ってしまう。
もちろん起こすつもりはないので、ギイを起こさないようにそっと彼の隣に滑り込んだ。
ギイ愛用のリネンのパジャマに頬を寄せて深呼吸をすると、少し甘いコロンの香りがして、久しぶりの温もりにほっとした。
ギイがいなくてもちゃんと毎日を過ごしていたつもりだったけれど、やっぱりこうしてそばにいると、一人じゃだめなんだなと思う。
高校時代からいったい何年になるのだろうか。
そろそろ飽きてもいい頃なのに一向に飽きる気配がない。
こんなに一人の人をずっとずっと好きでいられるなんてすごいなぁと自分でも思う。
これといって誇れることなんてないぼくにとって、それは唯一誰に対しても誇れることだ。
だから、このままずっとギイのことを好きでいたいと思う。




病院は苦手だ。
もっとも、得意な人なんていないだろう。
どこか不安そうな表情をしている人を見ると、どうしたって気分は落ち込む。
だから、指定されたのが病院ではなく、近くの喫茶店だったのにはほっとした。
店の奥の空いた席に座り、ホットコーヒーを頼んだ。
待ち合わせの時間までまだ少しあったので、持っていた文庫本の続きを読むことにした。
昔は推理小説ばかり読んでいたけれど、最近は歴史ものも面白いなぁなんて思うようになって、手当たり次第読んでいた。
授業で習っていた歴史よりもずっと面白く感じられる。
表面的なことではなく、その裏にあった出来事を知ることができるからなのかもしれない。
授業もこんな内容だったらもっと真剣に聞くことができたのかもしれないなぁなんて今さらの思ってみたりして。
10分ほど真剣に本を読んでいると、ふっと視界に人影が入った。
顔を上げると、そこに相変わらずクールな表情の旧友がいた。
「待ったか、葉山」
「ううん、大丈夫だよ、三洲くん。忙しいのにごめんね」
いや、と笑って三洲はぼくの前に座った。
祠堂にいた頃同室だった三洲は、卒業後はやっぱり医学部へ進み、今は大学病院に勤めている。
ゆくゆくは開業するつもりみたいだけど、それはもうちょっと先になりそうだと言っていた。
「今日の仕事は終わったの?」
「ああ、もう今日は終わりだ」
「そっか。せっかく早く帰れるのに悪かったね。真行寺くんに恨まれないかな」
「今日葉山に会うって言ったら、あいつも会いたいって言ってたぞ」
「久しく会ってないもんなぁ。元気にしてる?」
「あいつは暑苦しいくらいに元気だ」
面倒臭そうに言いながらも、三洲の表情は穏やかだ。
最初は身体だけの関係だったらしい三洲と真行寺は、高校3年の時に無事恋人同士になり、その後もずっとその仲は続いている。
今年になってようやく真行寺の念願が叶って一緒に暮らし始めたというのだから、ずいぶんと時間がかかったなぁと思う。
もういい加減、三洲も諦めたというところだろうか。
いや、三洲のことだから、本当は恋人だと認めた瞬間から、離れるつもりはなかったんだろうと思う。
言葉や態度には出さなくても、三洲がどれくらい真行寺のことを大切に思っているかは分かる。
水を持ってきたウェイトレスにホットコーヒーを頼むと、三洲はネクタイを緩めた。
「崎はどうしてる?相変わらずあちこち飛び回ってるのか?」
「うん。相変わらずだよ。忙しくしてるけど、仕事は楽しいんじゃないかな」
「家にいないことも多い?」
「出張が多いからね。そういえば、この前、ギイが出張から帰ってくる日をすっかり忘れてしまって焦ったよ」
「・・・」
「ちゃんとカレンダーに印までつけてたのにさ」
ぼくの言葉に、三洲は口を閉ざした。
そのどこか堅い表情に笑ってしまった。
昔はポーカーフェイスで、何を考えているかを見抜くことなんてできなかったけれど、最近は三洲が何を考えているのか分かるようになってきた。
それはたぶん真行寺の影響なんだろう。
あの天真爛漫で裏表のない性格をしてる真行寺と一緒にいることで、三洲は自分の気持ちを素直に表に出せるようになってきたんじゃないかと思う。
三洲は嫌がるだろうけど、ぼくは今の三洲の方がずっと人間らしくて好きだ。
昔の優しいくせにそんな素振りを見せようとしない三洲も好きだけれど、今みたいにちゃんと優しい部分が見えている三洲も悪くない。
「葉山」
「うん」
「頼まれていたものを持ってきた」
そう言って三洲が差し出した茶色い封筒。
思っていたよりもずっと分厚い。きちんと読まなくてはいけないと思っているのに、すぐにその封筒を手に取ることはできなかった。
小さく息をついて心を落ち着けてから、封筒の中に入っている書類を取り出した。
そこに書かれている内容は、ある程度予測していたものだったので、それほどショックを受けることはなく読むことができた。
ぼくが動揺することなく読み続けていると、三洲の方が我慢できないといったように身を乗り出した。
「葉山、悪いことは言わない。すぐに治療を受けろ」
「・・・・」
「崎にもちゃんと話をした方がいい」
ぼくは三洲から受け取った書類をテーブルの上に置き、今読んだばかりの説明を口にした。
「若年性アルツハイマー、初期症状としては記憶力が低下して、同じことを何度も聞いたりする。たぶんぼくはまだ初期だよね。進行するとついさっきしたことも忘れてしまうようになる。日常的なことも分からなくなって、混乱が生じる」
「葉山・・・」
「後期になると、新しい記憶だけじゃなくて、遠い過去の記憶にも障害が出てくる。時間や場所だけじゃなくて、家族の顔も・・・自分のことさえ忘れてしまうようになる」
自分でも調べていたことだったけれど、三洲に頼んでいた資料には若年性アルツハイマーについて専門的に説明がされていた。
もともとあまり記憶力はよくない方だったけど、最近あまりにもひどいと自分でも思うようになって、思い切って三洲に相談をしたのが1ヶ月前。
症状を聞いて、三洲は同じ大学病院の専門の先生を紹介してくれた。
診察を受けて、最初は疑いがあると言われたけれど、症状はゆっくりと進行していることは自分でも分かった。
どういう病気なのか自分でもちゃんと知っておきたくて、三洲に資料を頼んだ。
資料に書かれた内容を読んで確信が持てた。
覚悟はしていた。
していたけれど、確信を持つとやっぱり怖くなる。
三洲は黙り込むぼくを真っ直ぐ見つめた。
「葉山、何もしなければ症状が進むだけだ。だけど、きちんと治療を受ければ・・・」
「少しは進行が遅くなる?若年性の場合は進行が早い。発症して5年ほどで寝たきりになることもある」
「・・・・」
「発症してからの寿命は・・・5年から、10年・・・・」
それはたった今読んだ資料にも記載されていた。
三洲はきゅっと拳を握り締めると、額に押し当てて大きく息を吐き出した。
辛いことを調べてさせてしまって申し訳なかったなと思う。だけど三洲にしか頼めなかった。
医師であるということ以上に、三洲なら嘘をついたり気休めを言ったりはしないだろうとも思ったからだ。
「葉山・・・すぐに崎に話をして、きちんと治療を受けろ。ヤツなら最高の医療を受けさせてくれる。完治できなくても、少しでも長く・・・」
「三洲くん」
こんなに必死な三洲を見るのは初めてだった。
ぼくのことを心配してくれているのだと思うと、こんなことを頼んで悪かったなと胸が痛んだ。
「三洲くん、ぼくは・・・」
「・・・・」
「ぼくは・・・ギイには言いたくないんだよ」
三洲は言っている意味が分からないといように眉を顰めた。
自分が病気じゃないかと思うようになってから、ずっと考えていたことを、ぼくは三洲に告げた。
「治る病気なら、ちゃんとギイに話をするよ。だけど、これはもう完治はしない。治療したって症状の進行が少し遅くなるだけで、そのうち、ぼくはギイのことだって忘れてしまう」
「お前が崎のことを忘れるなんて想像つかないよ」
からかうように三洲が言い、ぼくは少し笑った。
「病気のことを知ったら、ギイはきっとぼくのためにいろいろ手を尽くしてくれる。最高の医療だって惜しみなく受けさせてくれるだろう。だけど、ぼくはもう治らないんだよ?何をしたって治らない。そのことできっとギイはすごく苦しむ。ぼくは、ギイのこと悲しませたくないんだよ」
「治らないからって、何もしないつもりか?」
「そんなつもりはないよ。だけど、ギイには知られたくない」
「・・・一緒にいれば、いずれ知られる」
「一緒にいればね」
三洲の言う通り、このまま一緒にいれば、すぐにでもギイに気づかれてしまうだろう。
今だって、ギイが不在がちだから何とか誤魔化せているけれど、遅かれ早かれ聡いギイのことだからぼくの異変に気づくだろう。
そうなってからでは遅い。
「三洲くん、お願いがあるんだ」
「聞きたくないな」
即答で断られて苦笑してしまう。
ぼくが何を言い出すのか、頭のいい三洲にはお見通しなのだろう。
けれど、ぼくだってここで引くわけにはいかない。
「ちゃんと治療は受けるよ。ぼくだってまだ死にたくない。だけど、ギイとは別れる」
「は?別れる?」
「ギイのこと悲しませたくない」
どうしたって、ギイがぼくの病気のことを知れば、悲しまないはずがない。
知られないようにするには別れるしかない。
三洲は緩く首を横に振った。
「無理だ。崎が葉山と別れるはずがない」
「だよね。だから、ギイの前から消えることにする。別れ話もしないで、ギイの前から消える。そしてどこかギイの知らない場所で治療を受ける」
「ますます無理だ。あの崎が、いきなり消えた葉山のことを放っておくはずがないだろう。あいつはどんなことをしてでもお前のことを探し出すぞ」
「うん。だから三洲くん、ギイが探しだせないような病院を紹介して欲しいんだ」
三洲は呆れたようにぼくを見て、そしてはっと短く息を吐いた。
「無茶を言う」
「だけど三洲くんじゃないと頼めない」
「・・・赤池は?あいつは知ってるのか?」
「知らないよ。ぼくの病気のことは誰にも言うつもりはない。だいたい、赤池くんとギイは今でも相棒だよ?赤池くんに知られたらすぐにギイにも知られてしまう。それにこんな難しいことをやってくれそうなのは三洲くんしかいない。三洲くんなら、きっと一番いい方法を考えて、ぼくのことをギイから隠してくれると思ったから」
三洲はギイのことを嫌っている。少なくとも表面上は。
本当は案外と似たもの同志で、ぼくや章三とはまた違った意味で、分かり合える部分もあるんじゃないかと思うのだけれど、三洲は自分とギイとは分かる部分が多すぎてあまり近寄りたくないと言うのだ。
ギイを上手に騙してくれるのは三洲しかいないだろう。
「ごめんね、三洲くんにこんなこと頼んで。だけど、三洲くんにしか頼めないから」
「・・・やめてくれ」
「ほんとにごめん」
「・・・・っ」
俯いた三洲がきつく目を閉じる。
テーブルの上にぽとりと涙が落ちたのが見えて、ぼくはもう一度、「ごめん」と三洲に謝った。


ぼくの願いを叶えるために、三洲はできる限りの手を尽くしてくれた。
ギイに見つからないという保証はできない、とどこまでも気弱な発言をしていたけれど、たぶん三洲のことだから考えられる中で最良の策を考えてくれたのだろう。
ぼくはその通りにすればいいだけだった。
ギイは何も知らない。気づいていない。
だけど早くしなければ聡いギイは気づいてしまう。
下手に時間を延ばしても意味がないので、ぼくは次にギイが海外出張に出る時に、家を出ることにした。
「じゃあな託生、帰りは1週間後な。今度は忘れるなよ」
「大丈夫だよ」
「一人でもちゃんと飯食えよ」
「ギイこそ、一人だからって飲みすぎないでね」
「仕事で行くんだぞ」
「どうせ夜はあちこちから接待に誘われるんだろ?」
確かにな、とギイが苦笑する。
「気をつけてね、いってらっしゃい」
玄関先で、心をこめて最後の見送りをすると、じわりと目の奥が熱くなった。
こうしてギイの姿を見るのはこれが最後だと思うと、溢れそうになる涙を堪えるのに必死だった。
ギイはふと振り返ると、じっとぼくを見つめた。
絶対に不審に思われちゃいけない。
聡いギイのことだから少しでもおかしな言動をすればすぐに気づくはずだ。
「忘れ物?」
声が震えないようにいつものように聞いてみる。
ギイはいや、と笑った。
「託生、やけに寂しそうな顔してるから。よっぽどオレが出張に行くのが嫌なのかと思って」
やっぱりギイには隠し事はできないんだなぁと今さらのように思った。
こんなにもぼくのことを分かってくれる人にはもう二度とめぐり合えないだろう。
そんなにも掛け替えのない人の手をぼくは自分から離そうとしている。
ぼくは無理矢理笑顔を作ってみせた。
「・・・たった1週間だよ、ギイ」
「だけど寂しいだろ?」
「・・・そうだね。すごく寂しい」
「お、珍しく素直」
ギイは笑って、ちゅっとぼくの唇にキスをした。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
ぼくが手を上げると、ギイも同じように手を上げた。
いつものように笑顔を見せて、出て行くギイを見送った。
扉が閉まったとたん、ぼくはその場にしゃがみこんで、声を出さないようにして泣いた。






三洲が準備してくれた病院はそれほど大きな病院ではなかったけれど、院長がその病気の権威だということで、いろいろと相談にも乗ってもらったし、できる限りの治療もしてくれた。
それでも完治はしない病気なので、緩やかに病状は進行していった。
昔のことよりも最近のことが分からなくなることが多くて、だからぼくの中にはまだずっとギイがいた。
祠堂にいた頃の記憶はまだ鮮明で、覚えていることにほっとできた。
時折三洲が見舞いにきてくれて、あれこれと他愛ない話をして塞ぎこみそうになる気持ちを和らげてくれた。
いつギイがここを見つけだすだろうかと心配していたけれど、そんな気配はまったくなくて、自分で望んだことなのに、少しばかり寂しく思ったりもした。
突然いなくなったぼくのことを、きっとギイは探しているだろう。
それとも怒って、ぼくのことなんて忘れてしまっただろうか。
ギイがその気になって、Fグループの力を使えば、いずれ見つけだされる可能性もある。だけどその時にはもう、ギイのことをすら記憶の中から消えてしまっているのかもしれない。
怖くて怖くて、毎晩眠ることができないこともあった。
朝目覚めて、ギイのことを忘れていたらどうしようかと思った。
ギイに会えないことよりも、ギイを忘れてしまうことの方が怖かった。
それまでの幸せだった毎日が、すべてなくなってしまうなんて絶対に嫌だった。
何を忘れてもいい。
楽しかった祠堂でのことも、バイオリンで多くの拍手を貰ったことも、何もかも忘れてもいい。
だけどギイのことだけは覚えていたかった。
毎日起きたら必ずギイのことを考えた。一日一度は必ず、彼のことを思い出すようにした。
もちろんそんな悪あがきは何の役にも立たなくて、病状が進行するにつれて、ぼくの中から幸せな記憶も辛い記憶もゆっくりと消えていった。
1年ほどがたった頃、1ヶ月ぶりくらいに三洲が顔を見せた。
「葉山、調子はどうだ?」
思い出すのに少し時間がかかる。
だけど三洲は何度も顔を出してくれているので比較的思い出すのが容易い。
「・・・・うん、元気にしてるよ」
そうか、とうなづいて、三洲はぼくのベッドの脇に立った。
そして少し気まずそうに口を開いた。
「すまない。やっぱり無理だった」
「何が?」
三洲がすっと顔を背後へと向けた。
病室の入口に立っていたのは、ぼくの記憶の中にうっすらと残っている愛しい人だった。
「・・・託生・・・」
そうだ、ぼくはずっとずっと前から、そんな風に呼ばれていた。
あの耳に心地いい声で、ぼくのことを呼んでくれた。
彼の声は覚えている。大好きだったのだ、彼にそう呼ばれるのが。
それなのにすぐには名前が思い出せなくて、けれど、じわじわと眠っていた記憶が呼び起こされていった。
「ギイ・・・?」
その響きを口にしたとたん、胸の奥から何か暖かいものが溢れ出た。
ギイはきゅっと唇を結ぶと、三洲の横を通り抜けてぼくのそばに立った。
「オレのこと、まだ覚えてるか?」
「うん・・・」
どんな顔をすればいいか分からなかった。
彼を騙して、一人置き去りにしてきた。忘れていた記憶が、ギイの顔を見たとたん甦ってくる。
ああ、ぼくはまだちゃんと思いだせるじゃないか、とほっとする。
「やっと見つけた」
そう言って、ギイはその場に崩れるようにした膝をついた。白いシーツに顔を埋めるようにして身を屈める。
そんなギイの様子を目の当たりにして、三洲が小さく溜息をついた。
「葉山、俺は少し外してるから」
「うん」
「言っておくが、俺がバラしたんじゃないからな。・・・だけど、半分は俺の責任でもあるから、謝っておくよ。悪かったな」
「ぼくの方こそごめん。三洲くんにはとても感謝してるよ」
「・・・・」
「三洲くん?」
「本音を言うと、こうなって良かったと思ってる。あの時、葉山に願いを断れなくて手助けをしたけれど、それが正しいことだと最後まで確信は持てなかった。正しいと思えないことをしても、結局最後にはあるべき姿に物事っていうのは戻っていくんだな。やっぱり離れたままなんて無理なことだったんだよ、葉山」
優しく笑って、三洲は病室を出て行った。
ギイは顔を上げると、そっとぼくの手を握った。
「体調は?元気にしてたのか?」
「うん、大丈夫だよ。波があって、ダメな時は本当にダメなんだけど、今日は大丈夫」
そうか、とうなづいて、ギイは手近にあった椅子に腰を下ろした。
たぶん、ギイは三洲からすべてを聞いているんだろう。
ギイの前から姿を消そうと思った理由を、ぼくは難なく思い出すことができる。
傷つけたくなくて、苦しめたくなくて、悲しませたくなくて、間違ったことかもしれないと思いながらもギイから離れた。
「ごめんね、ギイ」
「・・・・っ」
それ以外何も言えなかった。
「三洲から全部聞いた。どうして託生が突然消えたのかも、どんな・・・病気なのかも」
「うん、そっか。それにしても、どうやってここが分かったの?三洲くんはバラしたわけじゃないって言ってよね。ギイは・・ああ、そっか・・ギイなら・・・そういうの簡単にできるんだっけ・・」
ギイがどんな人だったか、今となってぼんやりと感じるだけだ。
何となくすごい人だということは分かる。だけど具体的には思い出せない。いや、正しく思い出すのに時間がかかるのだ。そして考えるのが嫌になる。
「めちゃくちゃ探した。託生がいなくなった理由も分からなかったし、とにかく心当たりのあるところは全部探した。どこかで事故にでもあったんじゃないかと思って、病院も手当たり次第調べた。だけど、最近はどこも個人情報に厳しいから、そう簡単に患者のことは外部には洩らしたりしない。三洲はほとんど完璧に託生の痕跡は消してくれてたしな」
「そっか、じゃあどうして?」
「三洲が託生の味方だったように、オレにも味方はいるんだよ」
「味方?」
ギイは力なく笑った。
「真行寺だよ。覚えてるか?三洲の恋人だ」
聞いたことのある名前のはずだ。三洲の恋人なら。だけど・・・
思い出すのに時間がかかる。何かきっかけがあればすぐに思い出すこともある。
だけど自力だとなかなか上手くいかない。
ギイはぼくが思い出すのを待っていてくれたけど、やがて説明をしてくれた。
「祠堂で、お前にずいぶん懐いていた真行寺だよ。今は三洲と一緒にいる。三洲の様子がおかしいことに気づいてて、ずっと気にしていたらしい。オレが真行寺に託生のことを相談したら、すぐに協力するって言ってくれた。三洲もポーカーフェイスが得意な男だが、どうやら真行寺の前だと少しばかり気が緩むらしい。正攻法で攻めたって口を割るような三洲じゃないことは、真行寺が一番良く分かっている。だからずっとそのチャンスを窺ってて、ある時自棄酒みたいに酔っ払った三洲から託生のことを聞き出したんだ。さすがに病院の名前までは聞き出せなかったから、あとは興信所に依頼して三洲の動きをずっと監視してた。ある時、この病院に入る三洲が報告された」
「ああ・・・」
だから三洲が半分は自分の責任だと言ったのか。
ぼくの事情に巻き込んでしまって、最後の最後まで三洲には悪いことをしてしまった。
「託生」
「・・・」
「もういいだろう?もう全部分かった。だからオレのためだなんて考えなくていい。これからはオレがそばにいる。ダメな理由はないだろう?託生の計画はもう終わった。もう・・・一人で苦しまなくてもいいんだ。オレがいる。これからはずっとそばにいる」
ギイの言っていることは正論だ。
ぼくはギイに病気のことを知られたくなくて、彼のことを苦しめたくなくて、一人で勝手に別れを決めた。
すべてを知られた今、離れている理由なんてなくなった。
だけど、それでいいのか、今のぼくは上手く考えることができない。
「託生・・・病状が進んでいくものだってことは知っている。お前が・・そのうちオレのことも忘れてしまうだろうことも分かってる。それでもいい。オレは、最後までお前のそばにいたい。限られた時間なら、約束したままできていないことも一緒にしたい。食べたいって言ってた新しいピザも、見たいって言ってた映画も、祠堂の仲間とやりたいって言ってたバーべキューも、託生がしたいって言ってたことは全部オレが叶えるから」
そんなこと言ってたのだろうか、以前のぼくは。
ぼくの中にそんな記憶はない。
「旅行に・・・行こうって言ってだろう?」
「旅行?」
ぼくの中で何かが揺れた。
ギイがうんと頷いて続ける。
「オーストラリアの土蛍、見たいって言ってたよな。オレが休みを取るから行こうって約束してた。
楽しみにしてたよな?覚えてるか?」
「ああ・・そっか・・・・」
ぼくは枕元に置いてあった手帳を手に取った。
最近は本当にいろんなことを忘れてしまうので、忘れてはいけないと思うことは手帳に書きとめるようにしていた。
一番最初のページを開けて、そこに書かれてあった言葉に目を細めた。
そこには「土蛍」とだけ書かれてあった。
それを見たギイが一瞬泣きそうな表情になる。
「覚えておきたいことは手帳に書くようにしてるんだ。書いてあることを見ても思い出せないことも多いんだけど。これは入院してすぐに書いた言葉。きっと忘れたくなかったからだろうな。だけど最近何だったっけって思い出せなくなってたんだ。そっか、これギイとの約束だったんだね。見に行こうって、ぼくたち約束してたんだね」
「・・・ああ。そうだよ」
ギイがぎゅっと瞼を閉じる。
そしてぼくはまた思いだした。
ぼくは、ギイが泣くところを見たくなかったのだ。
こんな風に彼が泣くのが分かっていたから。それをどうしてあげることもできないから。
だからやっぱり一緒にいるのはダメだ。
ぼくの病気のことを知っていたとしても、ギイが辛い思いをするのは同じことで、そんなギイを見ると、ぼくもまた辛くなる。
結局、ギイのためだと言いながら、ぼくは自分が楽になりたかったのだ。
そんなぼくの我がままで、やっぱりギイを傷つけてしまった。
「ギイ」
「・・・・」
「会いにきてくれてありがとう」
のろのろと顔を上げて、ギイがぼくを見る。
大好きだった彼の瞳の色。
ほんの少しでも、彼の好きなところを覚えていることが嬉しくてならない。
もっともっと、ぼくにはギイの好きなところがあったはずなのに、自分ではもう思い出せない。
「ぼくの我がままで突然いなくなったりしてごめん。本当はずっと会いたかったよ。もしかしたらまた会えるのかな、とか、自分から逃げ出してそんなこと考えちゃいけないとか。ずっとギイのこと考えてた。だけど、時間がたつにつれ、そういう気持ちも薄れていくんだ。そうなって初めて、ぼくは大切なことをギイに言うのを忘れていたことに気づいたんだ」
「大切なこと?」
「うん」
ぼくは涙で濡れたギイの頬を手のひらで拭った。
「全部忘れちゃったらもう言えなくなっちゃうから、今言っておく」
「・・・・」
「さようなら、ギイ」
最後に会えてよかった。
大好きだよとか、離れたくないとか。
そんなことを言えば言うほどお互いに辛くなる。
さようならギイ。
最後にちゃんとお別れを言えてよかった。



*****



読み進めていた物語はそこで終わっていた。
え、ここで終わり?と託生が顔をあげて、向かい側に座るちぃを見た。
「えっと、これで終わり?」
素直に尋ねると、ちぃはまさかーと言って笑った。
「この先をどうするかちょっと悩んでるから、託生さんに意見をもらおうと思って」
やれやれ、と託生は手にしていた原稿をテーブルの上に置いた。
ちぃはギイの姪っ子だ。
つまり妹である絵利子の子供である。
小さい時に「おチビちゃん」と呼んでいたのがやがて「ちぃちゃん」となり、そのまま「ちぃ」となった。
文学少女だった絵利子ちゃんの子供はやっぱり文学少女で、小さい頃からよく本を読んでいた。
やがて読むだけでは飽き足らず、子供ながらも童話なんかを書いて見せてくれたりもした。
それは夢見がちな子供が書く可愛らしいお話で、託生はいつも
「すごいねぇ、ちぃちゃん」
と褒めまくった。
それに気を良くしたのか、ちぃは成長していくにつれ、もっとちゃんとしたお話を書くようになった。
最初は少女小説を書いていたらしいのだが、やがて最近流行りだというボーイズラブという分野に足を踏み入れるようになった。
託生からすればそんなジャンルがあるというだけでも驚きである。
「すごい人気なんだから。一度読んでみてよ」
とちぃに強く勧められ、何度か読んだことがあるが、まぁ男女の少女小説が同性になっただけという印象を受けた。ただ、なかなか赤面するような性的表現もあったりで、そういうところはすべてすっ飛ばして読んだ。
自分だって同じようなことをしているじゃないか、と言われればそうかもしれないが、別にそういうものを文章で読みたいとは思わなかったのである。
若い女の子がこういう話を読むのはいかがなものかと思ったが、別に悪いことをしているわけでもないので自分が楽しいと思えるものがあるならそれでいいか、と思っている託生である。
そんな太っ腹な託生に、新刊が出るたびに、ちぃは「お勧め」といって持ってくるのだが、二、三度読んでお腹いっぱいになったので、それ以降は丁重にお断りするようになった。
しかし、ちぃはめげることなく、新しい話を書くと、意見が聞きたいと言ってしょっちゅう託生のところへやってくるのだ。
曰く、
「実際に同性の恋人がいる人の意見が聞ける環境にいるのは貴重」
だそうである。
それを知ったギイは呆れ帰って、妹の絵利子ちゃんに文句を言ったらしいのだが、絵利子ちゃん自身も昔はBL本を読んでいたらしく、まったく相手にしてもらえなかったらしい。
「絵利子のやつ、オレが祠堂にいる時に、ホモになってないかって帰省のたびにチェックしていたのはそうなったら嫌だというよりは、そうなってたらちょっと楽しいと思ってたに違いない」
と言って肩を落としていた。
今日も、ちぃは意見が欲しいといって「ホタル」というタイトルのお話を持ってきた。
まだ肉づけはこれからで、とりあえず大筋だからさらっと読んでみて、と。
けっこうな分厚さのある封筒を渡されたときは、少しばかり躊躇してしまったのだが、まぁ読んで感想を言うくらいは別に構わないかと思った。
しかし、まったく無関係のギイと自分の名前を登場人物につけないで欲しいと思う。
読んでて居心地が悪いったらなかった。ちぃにそう訴えると、
「だって、まだ仮だもん。登場人物の名前を考えるのってけっこう大変なのよ?」
「じゃあさ、AとかBとか、そういう記号ちっくなものにしたら?」
「ええー?そんなの感情移入できないでしょ? 『AはBの手を握り締めて涙した』なんて書いてあって可哀想だって思える?」
それはまぁそうかもしれない、と託生はあっさりと言い包められてしまった。
「ところでちぃ、これって最後はハッピーエンドで終わるの?」
「どう考えても無理よね」
あっけらかんと言うちぃに、託生は苦笑した、
「ハッピーエンドじゃないお話ってどうなのかなぁ」
もし自分が読むのなら、やっぱり最後はハッピーエンドがいいなぁと託生は思うのだ。
それはどんなジャンルでもそうじゃないのだろうか。
「うーん、やっぱりだめかなぁ」
勝手知ったる何とやらで、ちぃはキッチンでコーヒーをいれてきた。もちろん託生の分も一緒に持ってきてくれた。
それから、物語の最後は一見アンハッピーエンドでも実はそうでもないこともあるとのだ、ということについて、2人であれこれと議論を続けた。
カップのコーヒーが空になった頃、リビングの扉が開いてギイが姿を見せた。
ちぃを見て目を丸くする。
「何だ、また来てるのか」
「おかえりー、ギイ。お仕事ご苦労さま」
「ちぃ、お前またおかしな小説を託生に見せてたのか!」
テーブルの上に広げられた原稿に、ギイは露骨に眉をしかめる。
「おかしなって失礼ね!ギイってば偏見持ちすぎ」
「偏見なんて持ってない。ある種の人たちに需要があることも分かってるし、需要がある以上供給が必要だってことも理解してる。だからちぃが何を書こうが自由だけどな、オレと託生を巻き込むな」
言いながらギイは託生の隣に座り、たった今託生が読んだばかりの原稿用紙を手にとった。
「それね、今考えてるお話なんだけど、まだ試作段階なので、託生さんの意見を聞こうと思って」
「だから託生を巻き込むなって何回も言ってるだろ」
「いいじゃない。ギイと違って、託生さんは必ず一つは良かったところを言ってくれるから、やる気になれるんだもん」
「ちぃは褒められて伸びるタイプだもんね」
わが子の成長を喜ぶかのように託生が言うと、ちぃはそうそうとうなづいた。
やれやれというようにギイはぱらぱらと、ちぃが書いた話を読み始めた。
あっという間に読み終えると、何とも微妙な表情で低く唸った。
「いろいろと突っ込みどころがある」
「なによ」
ご意見伺います、というちぃに、ギイは身を乗り出した。
「だいたいオレなら託生がおかしな状態になったらすぐ分かる。それからいなくなったとしても探し出すまでに1年もかからない。三日もあれば見つけ出す」
「こわっ」
「それに託生が三洲に頼るというのも気にいらない」
「それ、突っ込みどころっていうか単なるヤキモチじゃない」
呆れたようにちぃが笑い、気の毒そうに託生を見た。託生はいつものことなので、さらりと流す。
「だいたい、病気になったからってオレから離れようとするなんてことありえないだろ。現実的じゃない」
「あのね、ギイ、これは別にギイと託生さんのお話じゃないの。ただちょっと名前を借りただけだから一緒にしないで欲しいんだけど」
借りたのは名前だけじゃないはずだ、と思ったが口にはしない。
険悪になりそうな雰囲気に、まぁまぁ、と託生がのんびりと2人の間に入る。
「だけどちぃ、確かにギイの言う通り、病気になったからって別れようって思うかどうかは微妙だよね」
「託生さんならどうする?案外と託生さんなら、ギイのことを思って離れていきそうな気もするんだけど」
どうだろうか、と託生は首を傾げた。
今のところ元気だし、病気といった病気をしたこともない。
一緒に暮らすようになってもうずいぶんとたつし、離れようと思ったこともない。
「どうかなぁ、考えたことなしなぁ」
「託生はオレから離れるなんてことはないんだよ」
「はいはい。相変わらず仲のよろしいことで。じゃあ私はそろそろ帰ります。託生さん、ありがとね」
「もう遅いから泊まっていけば?」
帰り支度をはじめたちぃに、託生が声をかける。
絵利子の家はここから車で30分少しくらいのところにあるのだけれど、何をしてもにこにこと受け入れてくれる託生のことが大好きなちぃは、小さい頃からしょっちゅう泊まっていたのだ。今日だって泊まっても何の問題もないのだが、ちぃは残念そうに肩をすくめた。
「ありがと。でも明日朝から友達と遊びに行くから、今日は帰る」
「じゃあ車で送るよ。ちょっと待ってて」
オレが、と言いかけたギイを制して託生がばたばたと準備を始める。
帰ってきたばかりのギイは、それに甘えることにした。
「ちぃ、絵利子にまた飯でも食おうって言っておいてくれ」
「うん。ママも会いたいって言ってたし」
「また連絡する」
「はいはい、ギイのまた連絡する、はどこまで信用していいか分からないけど」
忙しいギイを揶揄して、ちぃがくすくすと笑う。
反論できないでいるギイの頬に、ちぃがちゅっとキスをした。
何だかんだ言ってもギイも姪っ子のことは可愛いのである。
こんな風にキスをされては、いろいろと説教したいことはあっても誤魔化されてしまう。
甘いな、とギイ自身も思っているのだが、それすらもしょうがないと思ってしまう。
車のキィを持ってきた託生にも同じようにキスをして、ちぃは帰っていった。
やれやれ、とギイは溜息をつき、託生が戻ってくる前にシャワーをすませてしまおうとネクタイを緩めた。




一時間ほどして、ちぃを送り届けたて託生が帰ってきた。
「おかえり」
「ただいま。思ってたより道が空いてたよ」
「そっか、お疲れさん。ありがとな」
すっかりくつろぎモードに入っているギイを見て、託生はにっこりと微笑んだ。
自家製の梅酒がグラスに入っているのをみて、ぼくも飲もうとキッチンに入った。
料理は基本的にはしないギイではあるが、どういうわけか最近梅酒作りにハマっていて、これは2年前に仕込んだ梅酒である。
「なぁ託生」
「うん?」
「ちぃにはああ言ったものの、あのあとちょっと考えたんだけどな」
「何を?」
グラスを片手に戻ってきた託生がギイの隣に座る。
梅酒を一口飲んで、そのまろやかな甘い味に託生は幸せだなーと溜息をつく。
「で、何を考えたって?」
「だからさ、ちぃのあの馬鹿げた話のことなんだけどさ」
「馬鹿げただなんて。ちぃの書くお話ってけっこう人気らしいよ?」
「それも馬鹿げてる」
「はいはい、で、何?」
「もし託生があんな風に病気になったとしたら、お前、オレのためだとか言って離れていったりしないな?」
真面目な顔のギイに、託生ははい?と聞き返してしまった。
お話はどこまでもお話であって、読んだあとは綺麗さっぱり忘れてしまう託生と違って、どんなものからでもギイは何かを得ようとする癖があって、時々突拍子もないことを言い出して託生を困らせるのだ。
「あのさ、ギイ。確かにぼくはいろんなこと忘れっぽいかもしれないけど、病気じゃないからね」
「そんなことは分かってる。病気の内容は何だっていいんだ。要は、オレが辛い思いをするんじゃないかって、離れていったりすることを考えるかってことだよ」
「ああ」
ちぃにも聞かれたが、そんなことは考えたことがないのだが、さてどうだろうと考えた。
確かに大好きなギイのことを悲しませるようなことはしたくないと思っているのが確かだけれど。
頭の中でシミュレーションしてみて、託生はうーんと首を傾げた。
「もしぼくがあんな風にギイのことを忘れてしまうような病気になったとして、確かにそれはギイのことを悲しませるだろうなって思うんだけど、だけど別れようとは思わないだろうな」
「だよな」
よしよし、とギイがうなづく。
「でもそれはギイのためというよりは、きっとぼくのためなんだよ」
どこか申し訳なさそうに託生がギイへと身体を向ける。
どういうことだ、とギイが首を傾げる。
「だって、それまでのことを全部忘れちゃうなんて想像つかないし、すごく怖いじゃないか。そんな時にギイがそばにいてくれないなんて絶対無理だよ」
「・・・」
「ギイが辛い思いをするって分かっていても、そばにいて欲しいって思うよ。最後の最後まで、ギイにそばにいてほしい。それがギイのことすごく悲しませることになったとしても、きっとそう思ってしまうと思うんだ。めちゃくちゃ自分勝手で申し訳ないとは思うけど」
ギイは手を伸ばして託生の髪をくしゃりと撫でた。
「ぜんぜん自分勝手でもないし、申し訳なく思うこともない。託生がそういう風に思うのは正解だし。よかったよ、オレにいて欲しいって思ってくれてさ」
「ギイは?もしギイならどうするの?」
「そうだなぁ、確かに迷うとこではあるけど、やっぱり託生にそばにいて欲しいって思うだろうな。どんなことがあっても、一緒にいようって決めただろ?それってさ、幸せな時だけのことじゃなくて、辛いときとか、上手くいかないときとか、そういう時にこそのことだよな。じゃなきゃ意味がない。だからオレも自分勝手でごめんな」
お互いに同じ選択をすると分かり、託生はほっとした。
ちぃが書いた話のように、離れていくのも愛情の形だとは思う。
だけど、自分たちにはそれは無理なのだ。
「あ、そうだ、ギイ。土蛍って本当に綺麗なの?」
「え?ああ、ちぃの小説の中に出てきたやつか?そうか、託生見たことなかったんだなぁ。じゃあ次の休みには見に行こうか。実際に見てみないとあの美しさは伝えきれない」
どうやらギイはホンモノを見たことがあるようで、しきりに託生に見せてやりたいなぁと言い、まだ休暇は先だというのに早速旅行の計画を立てようと言い出した。
思い立ったら吉日で行動力の塊なのは祠堂時代から変わらない。
子供のようにうきうきと旅行の話をするギイに、託生までうきうきしてくる。
そんなギイのことがやっぱり好きだなぁと思うのだ。
「よし、完璧な計画を立てるからな」
「うん、楽しみだな」
あの話の中の2人は、きっと一緒に蛍を見に行くことはできないのだろう。
もしちぃの構想が変わって、ハッピーエンドで終わらせる何かを考え出したとしたら、それも叶うのかもしれない。できれば叶ってほしいとは思うのだけれど、やっぱり難しいだろうなと思う。
「やっぱり健康って大事だよね」
「は?」
こんな感想をちぃに言えばきっと怒られるだろうが、何事からも教訓を得るギイに倣うとすれば、やっぱりそれが一番の教訓なのかもしれない。
たぶんちぃの話に反映されることはないだろうけど。






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あとがき

少女小説かBL小説へと好みが変わることはよくあることで(そうか!?)