放課後、ずっと温室でバイオリンの練習をしていて、気づいた時にはあたりは真っ暗になっていた。
時計を見て、ぼくは慌ててバイオリンを片付けた。 あと少しで食堂が閉まってしまう時間だったのだ。 夕食を食べ損ねるのはさすがに痛い。いったん寮に戻ると時間をロスするので、ぼくはそのまま食堂へと駆け込んだ。 当然中は閑散としていて、食堂のおばちゃんも人数が半分くらいしかいない。とりあえずぎりぎりセーフで間に合ったようでほっとした。 トレイを手に席に着こうとしたぼくは、窓際の席にギイがいることに気づいた。 手元に何やら書類らしきものがあって、俯き加減でそれを眺めている。 去年までなら、迷うことなく声をかけていたと思うのだけれど、何となく近寄るなオーラが出ているような気がしたので、ぼくはギイの姿が見える少し離れた席に座ろうとした。 すると、ふいにギイが顔を上げてぼくを見た。 お、というような表情をして、すぐに何やらむっと唇を尖らせて、こっちへ来いというように手招きをした。 ぼくはもう一度トレイを手にして、ギイの向かい側の席に座った。 「何で避けるんだよ」 ギイが面白くなさそうに言う。 「だって、近寄るなオーラが出てたんだもん」 「出してねぇよ」 「出てた」 「それは、託生以外は近寄るな、っていうオーラだろ?ちゃんと見抜けよな」 そんな無茶な! ぼくが抗議すると、ギイはくすくすと笑って、かけていた眼鏡を外して胸ポケットへと入れた。 そして2人だけの時に見せる、ひどく優しい笑みを浮かべた。 「ずいぶん遅い夕食だな」 「うん。温室で練習してたらこんな時間になってたんだよ」 ぼくはいただきます、と手を合わせて食事を始めた。 「頑張ってるな」 「うーん、まぁ頑張ってるの半分、そうでないの半分なんだけど」 「どういう意味だ?」 「今日は真行寺くんが遊びにきてたからさ」 別にそれはいいんだけど、やっぱり誰か来るとしばらくは手が止まるし、真行寺くんは賑やかで楽しい人なので、ぼくもついつい話し込んでしまう。 いけないと思いつつ、かと言って来るなとも言えないし。 ぼくがそんな話をしていると、ギイが腕を組んで、どこか憮然とした表情でぼくを見ていることに気づいた。 「なに?」 「あんにゃろ、最近ずいぶん託生に懐いてるよな」 「真行寺くん?そうかな?」 「あいつ、まさか託生に乗り換えるつもりじゃないだろうな」 「何それ」 思わず吹き出した。 三洲くん一筋の真行寺くんがぼくに乗り換えるなんてことあるはずないじゃないか。 今日だって、三洲くんとのことをあれこれを相談されて、それで話し込んでいるうちにこんな時間になってしまったのだ。 まったくギイは何を言い出すのやら、だ。 「ギイこそ、今日はずいぶんと遅い夕食だね」 これ以上続けているとまたおかしなヤキモチを焼かれそうなので、ぼくは話を変えた。 ギイもそれに気づいたのか、あっさりとそれに乗ってくれた。 「オレは担任に呼ばれてさ。あれこれ面倒なことを押し付けるんだ。まったく人使いが荒いったらねぇよな」 生徒でありながら、松本先生はギイのこと頼りにしてるんだよね。 もっとも、それにちゃんと応えられるからこそ、なんだとは思うけど。 ギイも悪態をつきながらも、本気で怒っているわけじゃないことはぼくにも分かるし。 「ギイ、いいの?何かやらないといけないことあるんじゃ?」 広げられた資料。こんな風にぼくと話してていいのだろうか。 ぼくの疑問に、ギイはいいよと肩をすくめる。 「これは人避け。たいしたことしてないんだけど、小難しい顔してれば、1年の連中は寄ってこないだろ。オレだってたまには一人でぼーっとしたい」 「やっぱり近づくなオーラ出してたんじゃないか」 「だから、託生以外は」 ほんとかなぁ。 ギイは食事をするぼくをじっと見つめていた。 まじまじと見られるとどうにも食べにくくて仕方がないので、ぼくは手をとめてギイを見た。 「ギイ、見ないでよ」 「久しぶりなんだから見てたいんだけど」 「・・・食べにくい」 「気にするな」 またそんな無茶を言う。 それにしても、こんな風に2人きりで話ができるのはどれくらいぶりだろう。 1週間?うん、それくらいかな。章三たちと一緒にご飯食べたり、廊下ですれ違う時に、少し言葉を交わしたり、そういうのはあるけれど、2人っきりで話をするチャンスってなかなかない。 寂しいなと思う時期はもう過ぎていて、逆にそういう関係に慣れ始めてしまったことに、少しばかり寂しさを感じるようになっていた。 それもやがて平気になるのかな。 会いたいって思うのはそうなのだけど・・・ 「ねぇギイ」 「うん?」 「元気?」 ぼくの質問に、ギイはちょっと目を見開いてその意味を図ろうとするようにぼくを見た。 「それは何かの謎かけか?」 「違います」 「じゃあ、言葉通り?」 「そう、言葉通り」 ぼくが言うと、ギイは腕を組んだまま、きしりと音をさせて椅子の背にもたれかかった。 んー、と少し考えるように宙を見つめる。 最近のギイは何だかちょっと余裕がないというか、あんまりそういう弱音とか愚痴を言う人じゃないから、何があるのかをぼくに言うことはないのだけれど、でもまぁいくら鈍いぼくにでもそういうことは分かるのだ。 「・・・・元気といえばまぁそうだな・・けど・・・」 「なに?」 「最近ちょっと不足気味だな。この前ちゃんとキスしたのは1週間前だし」 「・・・・」 「・・・・」 ギイは身を乗り出すと、ぼくの顔を覗きこむように顔を近づけてきた。 「託生、顔が赤い」 「赤くない」 「首まで赤い。食堂じゃなかったら押し倒してるくらいに・・・」 「くらいに・・なに・・・?」 顔が熱いという自覚はあるけれど、認めるのは悔しいので、わざとむっとした表情でギイを睨む。 ギイはさらに顔を近づけると、 「お前、めちゃくちゃ色っぽい」 と、耳元で囁いた。 ぼくは唖然とギイを見返した。 そして慌てて周りを確認して、誰もいないことにほっとする。 「はは、託生さらに赤くなった」 「ちょっと、ぼくで遊ばないでくれないかなっ」 人が心配しているというのに、まったく何て男だ! 「遊ぶならもっと違う遊び方したいけどなぁ」 「何だよ、それ」 「・・・分からないフリして、オレのこと弄んでるだろ、お前」 ぼくは顔をあげてギイを見た。 思いもかけず真面目な表情をしているギイにどきりとする。 こうして2人きりで話をするのは1週間ぶりで、だけどそれ以上のことをしたのは、たぶんもっと前だ。そう思ったとたん、ぼくはますます顔が熱くなるのを感じた。 「このあと、ゼロ番においで」 ギイは手元の資料をまとめると唐突に立ち上がった。 ぼくが黙っていると、ギイは困ったように視線を巡らせた。 「あー、じゃなくって、ゼロ番に来てください」 「・・・」 「そんな顔されちゃ、・・・我慢できないだろ、オレが」 じゃああとでな、と立ち去るギイの頬がちょっと赤くなっていたような気がして、ぼくは何だかおかしくなってしまった。 付き合い始めてもう1年以上たつというのに。 ゼロ番においでだなんて、たったそれだけのことで、何を2人して赤くなってるんだろう。 「えーっと、うん、まずはご飯食べちゃおう」 誰へとでもなくつぶやいて、ぼくは食べかけの夕食を黙々と食べた。 頬が熱くて、どうしようもなかった。 |