恋人の特権


ばさ、っと大きく広げた白いシーツが風に膨らむ。
ギイがその両端を持って、くるりとぼくの首筋に巻きつけた。
「ねぇ、ギイ・・・ほんとに大丈夫なのかい?」
どこかウキウキとした表情のギイを見上げて、ぼくは指先で少しばかり首元を緩める。
そんなぼくの視線に気づいて、ギイは苦笑する。
「大丈夫だって、心配するな」
「・・・ほんと、その自信はどこからくるんだろ」
何をするにしても、ギイが自信満々なのはいつものことだけど。
ぼくは知らず知らずに、はーっとため息が漏らしてしまった。




「髪伸びちゃったなぁ。今日下山すればよかった」

よく晴れた日曜日。
305号室で、うっかりぼくがつぶやいた一言に、何故かギイが反応した。

さっきから宿題のテキストに視線を向けるたびに、はらりと落ちる前髪が気になって仕方がなかった。
前髪が落ちると目元が鬱陶しいので、何度も片手で払っていたのだけれど、どうにも面倒でならない。
こうなったら自分でちょっと切ってしまおうかなぁ。
来週下山したときにちゃんと切ってもらうとして・・・
なんて考えてる時に、無意識にさっきの言葉が口から出たのだ。
それを聞いて、ベッドに横になって雑誌をめくっていたギイが勢いよく起き上がった。

「託生、オレがしてやるよ」
「は?」
ぼくはギイが何を言ってるのか分からなくてきょとんとしてしまった。
ぽいっと雑誌を放り投げたギイが、ぼくのそばへと歩み寄って髪をくしゃりと撫でた。
「オレとしてはこれくらいの長さの方が可愛いと思うけどなぁ」
つんつんとぼくの髪を引っ張って、ギイが首を傾げる。
「あのさ、ギイ、可愛いって褒め言葉じゃないと思うんですけど」
「そっか?」
「じゃあギイ、『ギイって可愛いね』って言われて嬉しいかい?」
「オレ、可愛いって面してないだろ?」
嘘言われても嬉しくないぞ、と論点のずれた返事が返ってくる。
「ぼくのこと可愛いなんて言うの、ギイくらいなものだよ」
「当たり前だろ。他のヤツが言ったらただじゃおかない。託生が可愛いことを知ってるのはオレだけでいいからな」
ギイはぼくの顎先に指をかけて上向かせると、ちゅっと音をさせてキスをした。
「屋上がいいかな」
「何が?」

あれ、何の話してたっけ?

ギイはにっこり笑うと、くしゃくしゃとぼくの髪をかき乱した。
「だから、託生の髪、オレが切ってやるよ」
「えええー!」
ぼくは思わず大声を上げてしまった。



簡易の椅子と髪を切るのに必要な道具を手にして、ギイは渋るぼくの手を引っ張って、屋上へと上がった。
手早く椅子をセットするとぼくを座らせて、ギイはカットクロスの代わりにとシーツを広げた。
心地よい風が耳元を通り抜ける。

(気持ちいいなぁ、空も青いし・・・)

ぼくはぼんやりとそんなことを考えた。
そんなことでも考えてないと、不安で仕方なかったからだ。
だって、いくらギイが器用で何でもできると言っても、髪を切るのってどうなんだろう。
何かひどいことされたらやだなぁなんて思いながら、ぼくは半分諦めて椅子に座っていた。
だって、どうせギイは言い出したら止まらないんだ。

「託生、そんな悲壮な顔しなくたって大丈夫だって」
楽しそうにギイが笑い、霧吹きでぼくの前髪を軽く濡らす。
「ねぇギイ、他人の髪、切ったことあるの?」
「あるよ」

あるんだ。
何だ、じゃ安心かな。
・・・いや待てよ。

「ギイ、それっていつの話?最近・・だよね?」
お願い、最近って言ってくれ。
ギイはうーんと少し考えると
「小学校2年くらいの時だったかなぁ、妹の髪を切ってやるよってことになってさ、子供だったし、やっぱり上手くできなくて、絵利子のヤツ、わんわん泣いて大変だったんだ」
「・・・・」
「どうした?」
「やっぱりやめる。来週まで我慢するっ」
ぼくが腰を浮かせると、ギイが笑ってぼくの肩を押し戻す。
「こらこら、動くなって。あのなぁ、託生、オレが自信もないのにお前の髪切るなんて言うはずないだろうが」
「え・・」
「さすがに絵利子の髪をおかしくしちまったことに反省して、オレそのあとちょっと練習したんだって」
「・・・そうなんだ」

(練習・・って、いったい誰で?)

ぼくの頭の中は「?」でいっぱいになる。
人形とかだよねぇ、まさか使用人で、なんて言わないよね。

「だから安心して任せておけって」

ギイがちゃきちゃきと鋏を鳴らす。

(任せておけって言われてもなぁ・・・)

ぼくはよっぽどギイを振り切って逃げようかと思ったけど、どこか嬉しそうにしてるギイを見てたら、だんだんとまぁいいかという気になってきた。
だって、多少おかしな髪型にされたって、すぐに伸びるわけだし。
そんなにむきになって嫌がるほどのことでもないか、と思えてきたのだ。

「じゃ始めるか、託生、目閉じて」
言われるがままに目を閉じる。
ギイがはさみを手にすると、しゃきっと音をさせてぼくの前髪を切る。
ぱらりと落ちた髪が風に飛ばされていく。

「託生の髪、さらさらで気持ちいいな」
「ギイは柔らかくて、少しくせっ毛だもんね」

しゃき・・・

「そうそう。雨の日とか湿度高いとまとまらなくてなー」
「でもぼく、ギイの髪の手触り、好きだけどな」
「ほんとかー?言うわりにはお前、オレの髪触ったりしないだろ?」

しゃきん・・・

「え、だって理由もなく触ったりしないだろ、普通」
「理由なんていらないだろ。お前、オレの恋人なんだから」

しゃき・・・

「何だかよく分からないな、その理由」
ぼくが笑うと、ギイがくいっとぼくの顔を上向かせる。
目を閉じてると、どうしてもうつむきがちになってしまう。
「恋人なんだからさ、触りたいときに触ってくれていいってこと」
「ふうん。そんなものかな」
「何だよ、オレが好きなときに託生に触るの、実は嫌なのか?」
「嫌じゃないよ」
ぼくはくすくすと笑う。
言われてみれば、確かにギイは気づくとぼくに触れていることが多い。
隣にいる時には肩が触れていたり、誰もいなければ指が触れていたり。
一緒に眠るときは抱き枕よろしくしっかりと抱きしめてくるし。

(ギイってそういうところ、子供みたいだよな)

お前はオレの恋人なんだから。

たったそれだけの理由で、ギイはぼくにすべてを許してくれるのだ。

(章三が甘やかしすぎだって言うわけだよ)


「こんなもんかな。長さどうだ?」

ギイの指先が頬についた髪を払ってくれる。
ゆっくりと目を開けると、目の前にギイの顔があって、どきりとした。
付き合いだしてもうずいぶんたつのに、ぼくはギイを間近で見るたびに心臓が痛くなるほどにときめいてしまうのだ。
どうかしてると思うけど、きっとこれは一生慣れたりしないと思う。

ぼくは指先で前髪に触れてみた。
鏡を見ないとよく分からないけれど、触った感じではちょうどいいんじゃないかな。
ほんと、ギイって何でもできるんだなぁ。

「ありがとう、ギイ」
「どういたしまして。託生、襟足もちょっとだけ切ってやるよ、そしたら来週まで鬱陶しくないだろ」
「え、いやいやいや、前髪はいいけど、後ろはちょっと・・」
ぼくは思わず身を引いた。
「そんな不安そうな顔するなって。ちょっとだけだから大丈夫」
ギイは片手でぼくの首筋をきゅっと掴む。
そのまま長さを確かめるように髪を梳く。
「ほら、諦めろ」
「はぁ・・もう・・・いいよ、好きにして」
ぼくがため息とともに肩を落とすと、ギイは喉の奥で笑った。
ちょっと俯いて、と言われてぼくは素直に俯いた。

耳の後ろでしゃきんと鋏の音がする。

ギイがくしゃくしゃと髪を梳く。そして鋏の音。
ギイの指が髪に触れるたび、首筋を撫でるたび、耳元を掠めるたび、くすぐったいような・・だけどそれだけではないよく知った感覚が背筋を走り、何だかおかしな気持ちになってきて、ぼくは顔が熱くなるのを感じていた。

(ちょっと・・何だって髪を切ってもらってるだけなのに・・・)

お互い無言のままだった。
ギイは髪を切ることに集中していて、ぼくはと言えばいきなり襲ってきたおかしな衝動をやりすごすのに必死だった。

「はい、おしまい」

ギイがつんとぼくの頭を突いて、首に巻いていたシーツを外してくれた。
首筋に手をやると、中途半端に長かった髪が短くなってさっぱりとしていた。

「託生」
「え、なに?」
「首、赤いぞ」
「えっ!」
ぼくは慌てて両手で首筋を隠した。鏡を見なくたって分かる。両手に感じる体温がずいぶんと高い。
たぶん首だけじゃなくて顔だって赤くなってるはずだ。
ギイはそんなぼくに小さく笑うと、背中から覆いかぶさるようにしてぼくを抱き寄せた。
「ちょっと、ギイっ」
「んー、何か髪切ってる途中からどんどん託生の首筋が赤くなってくから、びっくりしてさ」
「・・・っ」
何とかギイの腕から逃れようともがくけれど、馬鹿力のギイはそれを許してくれない。
「そんな託生見てたら、何かおかしな気分になってきちまった」
「・・・・」
「部屋に戻って、髪だけじゃなくて、託生のこともっと触りたいな」
耳元で囁かれて、ぼくはさらに体温が上がってしまう。
何の前触れもなく湧き上がった情動を、ギイは簡単に見抜いてしまったのだ。
黙り込むぼくの身体をぎゅっと抱きしめたまま、ギイがこめかみにキスをする。
「だめ?託生」
ぼくは一つ息を吐くと、くるりと身体を回転させてギイと向き合った。
手を伸ばして、柔らかな髪に触れてみる。
「ぼくも、そう思ってた」
「・・・・」
「ギイに・・もっと触って欲しいなって・・・」
「・・・・」
「ギイのこと・・触りたいな、って・・・」
言ってる途中から声が小さくなってしまう。
自分でもずいぶんと恥ずかしいことを口にしている自覚はあるのだ。
だけど・・言わないでいるのもちょっと辛い感じがして・・

「いいよ」

ギイがぼくの手を取る。ぼくはおずおずとギイを見上げた。
「言ったろ、お前オレの恋人なんだから、好きな時に好きなだけ、オレのこと触っていいんだって」
「・・・うん」

それは大好きな恋人から許された特権。
そして大好きな恋人にだけ許す特権。

ふわりとギイの髪が風に揺れる。
降り注ぐ太陽の光を弾く淡いブラウンの髪が目に眩しくて、ぼくは恥ずかしさをごまかす為に、両手を伸ばしてギイの髪をぐしゃぐしゃとかき乱した。
「おい、何するんだよっ」
「今度はぼくがギイの髪を切ってあげるよ」
「げっ、不器用なタクミくんに?それは遠慮しておくよ」
「何でだよ、ぼくばっかりじゃ不公平だよ」
「不公平じゃない。オレは上手く切れるけど、託生はできないだろ?」
「じゃ練習させてよ」
「絶対にだめ」
ギイは手早く椅子やシーツをまとめると、ぼくの肩を抱いて歩き出す。
早く部屋に戻ろう、と歩みが速くなるのはお互いさまだったけど・・・
「託生、まさか美容室で髪切ってもらってるときに、おかしか気分になったりしてないだろうな」
というギイのいつも意味不明なヤキモチ(?)には吹き出してしまった。
「笑うなって。あー、オレもっと練習して、託生の専属の美容師になろうかな。そしたら、髪切るたびに、託生から誘ってもらえるかもしれないし」
「じゃぼくも練習してギイの専属の美容師になろっと。ギイが美容室で誰かにおかしな気持ちになられたら困るし」
「・・・・・あるわけないだろ、それ」

そのあと、305号室に戻ったぼくたちは、思う存分恋人の特権を行使した。


それからも、ギイは何を期待してか、何かにつけ「オレが髪切ってやるよ」なんて言ってきたけれど、ぼくはそれを丁重にお断りした。
それは決して、髪を触られるとおかしな気持ちになるからではなくて、ぼくがギイの髪を切るのを絶対に許してくれないから、のお返しである。






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あとがき

髪の毛触られるのってちょっと色っぽい気持ちになりませんか。