「お前、っんとにばかだよななぁ」 どうせぼくは優秀な頭脳を持つギイに比べたら馬鹿ですよ。 昨日、ギイに言われた時に、そう言い返せばよかった。もっとも、それくらいのことじゃあ、ギイには何のダメージも与えられないんだろうけど。 滅多に喧嘩なんてしないけど、一緒に暮らしていたらそりゃあ喧嘩だってする。 そして時々、ギイの何気ない一言は、ぼくにはけっこうなダメージをもたらすことがある。 祠堂にいた時にも一度あった。 あの時もギイはどうしてぼくがそこまで傷ついたのか分からないようで、もしかしたらギイとは一生分かり合えないんじゃないかと思った記憶がある。 もちろんギイはギイなりにぼくのことを理解しようとしてくれていて、ぼくもギイのことを理解しようと思った。 何といっても、ギイとぼくとじゃ育った環境も何もかも違いすぎる。 理解できなくても仕方ないのかもしれない。 だけど好きだから少しでも近づきたいと思ったのだ。 それなのに。 「ギイの馬鹿」 分かってる。ギイは本当に何気なく言っただけで、深い意味なんてないのだ。 だけど、あの呆れたような物言いに、ぼくはちょっと傷ついて少し腹が立った。 あまりに腹が立ったので、しばらく家を出ようと決意した。 したのはいいけど。 「どこに行こうかな」 家出なんてしたところで、ぼくの行きそうなところなんて、ギイにはきっとお見通しだろう。ギイの想像できないようなところ、どこかないだろうか。 ぼくは公園のベンチに腰かけて、やれやれと溜息をついた。 さて、どうしようかなと思案している間にすっかり辺りが暗くなってきた。 困った。でもまだ帰りたくない。 道行く人たちは皆家族のもとへ帰るのだ。 あの人混みに紛れて、ぼくもギイのもとへ帰ることができる。 今なら、ギイに知られないまま、何気ない顔をして、ただいまと言えばいい。 ぼくがこんな風に怒ってることなんて、きっとギイは知らないままで終わる。 だけど、そんなことをすれば、きっとぼくの中でのもやもやは消えないだろう。 そういう思いを綺麗に消さないとギイには会えそうにもない。 「とりあえず誰か泊めてくれそうな人いるかな」 こういう時、てっとり早いのは章三のところへ行くことだけど、章三のところだとすぐにギイに見つかってしまうだろう。 どうしようかな、とぼくは思わず溜息をついてしまった。 ポケットから携帯電話を取り出して、アドレス帳をスクロールする。 誰もがきっと、一晩くらいなら泊めてくれるだろうなとも思う。 だけどいきなりじゃあ迷惑だろうし。 ぼくはしばらく画面を見つめて、そのまままたポケットに戻した。 「一晩くらいならホテルでもいいかな」 そう思ってぼくは立ち上がって駅前の方へと歩き出した。 何度もその前を通ったことのあるビジネスホテルの部屋を取って、ベッドにごろりと横になった。 ギイはやっぱり心配してたりするのだろうか。してるだろうな。 一言でも残してくれば、ギイは安心したかもしれない。 そんなことを考えながらうとうとしていると、突然がちゃがちゃと扉の開く音がした。 何だろうと思って身体を起こすと、そこには切羽詰った顔をしたギイがいた。 「ギイ?」 夢でも見ているんじゃないかと思わずまじまじと彼を見上げた。 「託生・・・」 聞き慣れた耳に心地よい声。 夢じゃないと分かったとたん、ばちっと目が覚めた。 「なに・・・・どうしてここにいるの?」 「それはこっちの台詞だ」 はーっと大きく息を吐いて、ギイはどさりとベッドの端に腰掛けた。 ぼくは寝起きということもあって、何が何だか分からないままに、疲れた様子のギイを眺めた。 「帰ってこないから、どこかで事故にでも合ってるんじゃないかと思った」 ベッドサイドの時計を見ると、時刻は夜中の3時だ。 うとうとしていたつもりがけっこう眠っていたらしい。 「ギイ、どうしてここが分かったの?」 「・・・GPS」 ああ、携帯についてるあれか。どこにいるかすぐに分かるって、いつかギイが言ってた。 お互いいざというとき(って何だろう?)には、これですぐに居場所が分かるから、浮気なんてできないぞなんて笑ってた。 別にやましいことなんてないから、お好きにどうぞって感じだったけど。 なるほどこういう時に役立つわけか。 それにしてもどうやって部屋に入ったのだろうか。 まぁギイのことだから舌先三寸でフロントの人を丸め込んだんだろうな。 「ごめん、心配した?」 「当たり前だろうが!」 強い口調で言われ、ぼくはびくっと肩をすくめた。 「・・ごめん・・・すぐに戻るつもりだったよ?ちょっとだけ家出と思っただけで」 「家出!?」 ギイが冗談じゃないぞ、とでも言いたげにさらに声を荒げる。 「だから、ちょっとだけ、って」 「お前なぁ・・・。なぁ、昨日の喧嘩のことで怒ってるのか?」 喧嘩のことなんて別にどうでもよかった。 別に尾を引くような内容でもなかったし。 だけど、ギイが何気なく言った一言がどうしても引っかかってしまう。だけどそれをギイに分かってもらえるように説明するのはすごく難しい。 だからちょっと時間を置いて、頭の中を整理してからと思ってたのに。 「言いたいことがあるなら言えよ」 「・・・」 「オレ、また何か地雷踏んだ?」 ほらね。 ギイは分からないんだ。そう思うと何だかすごく悲しくなった。 たぶんちゃんと話しても、ギイには正しくは伝わらない。だって、これはぼくの中にあるぼくにしか分からない感情だからだ。 「託生」 黙るぼくに、ギイは困ったように頭をかいた。 「託生?」 「言っても、きっとギイには分からないよ」 こんな言い方ずるいと分かっていたけれど、つい口から滑り出た。 ギイは気を悪くした風もなく、うんと一つうなづいた。 「そうかもな。だって今だってオレはどうして託生が家出しようって思ったのか分からないし。 だけど託生の中では家出したいって思うくらいに嫌なことだったんだろ?」 「・・・」 「だとしたら、ちゃんと言ってくれなきゃオレは反省することも謝ることもできない」 ギイが悪いわけじゃない。あんなの他の人なら別段拘るような一言でもないんだと思う。 だけど、言わないままでは許してもらえそうにない気配に、ぼくは観念して昨日からのもやもやを何とか分かってもらおうと言葉を選んだ。 「昨日、喧嘩したとき。『お前、っとに馬鹿だな』って、ギイが言ったの覚えてる?」 「あー、言ったな」 「確かにぼくはギイに比べたら馬鹿だけど、そんな風に思われたんだと思ったらちょっと・・傷ついたのかも・・」 「かも?って・・ああ・・そっか・・ごめん、オレ、前と同じ失敗したんだな」 ギイも祠堂でのあの喧嘩は覚えているようで、心底すまなさそうな顔をした。 「こんなこと言っても言い訳にしか聞こえないだろうけど、別に本心でそんなこと思ってるわけじゃないよ。あれは何ていうか・・深い意味もない言葉っていうか・・・」 「それは、分かってる。だけど、そう思ってるからつい出た言葉なんだろ?」 「いや、そうじゃなくて。困ったな、これ言ったらまたお前は怒るかもしれないけど」 「なに?」 「馬鹿だなっていうのはさ、あー、馬鹿なところも可愛いなっていうか・・・悪い意味じゃないんだよ、うん」 「・・なに、それ」 馬鹿なところが可愛い???? ぼくが唖然としていると、ギイはぼくへと身を寄せて、肩の上にとんと頭を乗せた。 「ごめん。オレの不用意な一言で託生のこと傷つけた」 「ううん、ぼくもごめん。ちゃんと言えばよかった」 「オレ、どうもまだ託生の地雷が分かってないみたいだよな。なぁ、もし踏んだらちゃんと教えてくれよな。黙って家出はやめてくれ」 「書置きしてたら良かった?」 「駄目に決まってるだろ」 家出厳禁とギイが言って、ぼくを抱き寄せた。 すごくすごく大好きで、誰よりも近くにいて、それでもやっぱり分からないことはあるのだ。 何も言わなくても分かってくれなんて都合のいい言い訳で、いくらギイでもぼくの心の中までは見ることはできないのだから、ぼくはちゃんと気持ちを伝えなければいけなかった。 これからもきっとこんな風に思いもしないことですれ違ってしまうこともあるのだろう。 けれど、どうせ分からないなんて思っちゃいけないのだ。 「ごめんなさい。やっぱり馬鹿だって言われても仕方ないよね」 「大丈夫。全部ひっくるめて愛してるから」 ギイはちっとも怒った風もない。 同じように大人になったつもりでも、ぼくは全然成長できていない。 ギイに甘やかされていい時期はもうとっくに過ぎている。 今日で最後にするからと心に決めて、ぼくは抱きしめてくれるギイの胸に顔を埋めた。 |