きみが運ぶ幸せに


「ダメだ。めちゃくちゃ緊張してきた」
駅から自宅まではほんの数分。
さっきからギイは何度も同じセリフを繰り返していた。
ギイは珍しくスーツ姿で、趣味のいいネクタイをきちんと締めていた。
たぶんスーツも靴もネクタイも、身につけているものはすべて新しく新調したものだ。
そこまで気合をいれなくてもいいんじゃないかとも思うのだが、ギイはこういうことは形から入るのも大事なのだと言って譲らなかった。
いつもギイは隙がないというか、完璧なのに、ここまでパーフェクトにしちゃうと返って両親の方が緊張してしまうんじゃないかと思ってしまう。
「託生、オレ、どこかおかしいとこない?」
「ないよ。むしろピカピカすぎて眩しいです」
「え、それって何かまずいかな」
「大丈夫だよ」
「託生はよくても、託生のご両親がどう思うかだろ?」
「大丈夫だよ・・・・たぶん」
「たぶんって・・・だから緊張するんだろうが」
ギイが恨めしそうにぼくを睨む。
まぁね。
傍若無人でこの世に怖いものなんてないんじゃないかと思えるギイでさえ、ぼくの両親に会うのは緊張をするようだ。
ぼくは大学入学前に、両親にギイとのことを打ち明けた。
それでまた両親との仲がぎこちないものになったとしても、ギイとのことを隠しておくのは嫌だったのだ。
母さんは100%ウェルカムで認めてくれたわけではなかったけれど、だけど反対もしなかった。ただ、ちょうどギイと離れていた時だったので、思いつめたりしないで他のことにも目を向けるようにと言った。
たぶん、そうすることでギイへの恋心が消えることもあるのではないかと思ったのだろう。
それはきっと母親としては当然の感情だと思う。
ぼくの覚悟が伝わらなかったのかなと思ったけど、逆に伝わったからこその心情だったのかもしれない。
心を閉ざしていたぼくのことを救ってくれたのがギイで、ギイ以上に好きになれる人はいなくて、これからもずっと一緒にいたいのだと、ぼくの気持ちはすべて伝えた。
こういうことは無理やり理解してもらえるものでもないので、ぼくはそれ以上両親に何かを求めることはせず、普段通りに過ごすことにした。
両親はぼくの気持ちが一過性のものではないかと思っていたかもしれないけれど、あれから数年がたって、ようやくと言うべきかぼくとギイは一緒に住もうということになった。
同居するならさすがに自分たちの関係をきちんと話さないといけないよな、とギイが言い、それもう話してるよ、とぼくが言うと、ギイは唖然とした表情を見せた。
そんな顔をするギイを見るのは初めてで思わず吹きだしてしまったくらいだ。
「あれ、ギイに言ってなかったっけ?」
「聞いてない。っていうか、お前、そういう大事なことはすぐに言えよ」
「だって、あの頃ギイがどこにいるか分からなかったし、再会してからもなかなか会えなかったし」
「そりゃそうだけど、いや、でも電話とかメールとかあるだろうが」
がっくりと肩を落としたギイにさんざん文句を言われたけれど、でも両親に話したのはある意味ぼくが覚悟を新たにするためというのもあったので、ギイに報告するのもどうなんだろうと思ったのだ。だって、それってギイのプレッシャーになるかもしれないし。
もっともギイはそれくらいのことじゃあプレッシャーを感じたりしないのかもしれないけど。
しばし脱力していたギイだったが、すぐに立ち直り、
「ご両親に挨拶する」
と言い出した。
自分たちのことを知られているのに、何の挨拶もしてこない男だと思われるのは不本意らしい。
別にいいのに、とも思ったけれど、ギイがぼくとのことをきちんとしたいと思ってくれるのは素直に嬉しかったので、同居を目前にして、こうして一緒に自宅へと向かっているというわけだった。
「ギイ、うちの両親が嫌なこと言ったりしたらごめんね」
「いや、それくらいどうってことはないし、覚悟もしてるからいいんだけどさ、託生と別れろとか言われると困るなぁって」
「大丈夫だよ。ギイとのことは一応黙認というか・・・」
今さら別れろだなんて言わないだろう。
何しろあの告白からもう10年近くになろうというのだ。
ギイと付き合っていることは知っていて、だけど何も言わないのだからある意味黙認だろう、と都合のいいことを考えてる自分の身勝手さにちょっと嫌気がさす。
ぼくに対して負い目があるから強いことは言えないのだろうか。
もうぼくには何の期待もしていないから、だから受け入れてくれたのだろうか。
ギイとのことを何も言わないでくれる両親をありがたく思う反面、そんなことを思っては少しばかり寂しくもなる。
たぶん、できれば同性の恋人と同居ではなくて、ちゃんと法的に結婚できる相手と同居して欲しいと思っていることだろう。
口にはしないけど、たぶんそう思ってる。
それはごくごく普通のことだから仕方がない。
ぼくは何を言われても平気だけれど、ギイが何か言われるのは嫌だなぁと思う。
「大丈夫だよ、託生」
ぼくの考えていたことが分かったのか、ギイはするりとぼくの手を繋いだ。
「託生のご両親も、託生が幸せならって思って受け入れてくれたんだろうけど、でもやっぱり心配はしてると思う。託生がオレと一緒なら幸せなんだって、そう思ってもらえるように、ちゃんと話すから。だから安心していい」
「うん」
「これが無事終わったら、今度はオレの両親に会ってもらうかな」
「えっ」
「えっ、てお前・・・そりゃそうだろ」
「そりゃそうだけど、そんなこと言われたら、緊張しちゃうじゃないか!」
「いや、まだ緊張しなくていいし」
ギイは笑って、繋いだ手に力を込めた。
とりあえず今日は予行演習・・のつもりで・・・と思ったらさらに緊張してきてしまった。
ああ、こんなことでは本番はどうなることやら、である。
ギイがぼくの家に来るのは、大昔、お正月に一緒に日の出を見るためだけにわざわざアメリカからぼくに会いにきてくれた時以来だなぁと思った。
あの時は両親に紹介することはできなくて、結局そのままになっていた。
両親もギイに会わせろとぼくをせっつくことはなかったし、ぼくも何となく気恥ずかしい気もしてそういう場を作ろうとはしていなかった。
だけど、本当はもっと早くに会っていた方が良かったのかなとも思う。
「何だかギイの緊張がぼくにも移ってきちゃったよ」
うん、どきどきしてるぞ。
自宅に到着すると、ギイは大きく一つ深呼吸をした。
「よし」
行くか、とぼくを促して門を開けた。
「ただいま」
ぼくが先に玄関を入ると、すぐに母さんが顔を見せた。
「おかえりなさい」
ぼくの後ろからギイが姿を見せると、母さんはギイのキラキラとしたその容姿に一瞬目を見開き、まぁまぁと笑顔を見せた。
面食いじゃないなんて昔言ってたけど、ギイくらいの美男子を見るとさすがの母さんも意見を翻してしまうのかもしれない。
「はじめまして。崎義一です。今日はお休みのところお邪魔します。これ、皆さんでよろしければ召し上がってください」
「まぁ、お気遣いいただいて・・」
父さんが好きそうな日本酒と、母さんが好きそうな洋菓子と。ギイはずいぶん前から手土産はいったい何がいいんだろうと悩んでいた。
どうやらギイの中では今回の自宅訪問について、いくつかのハードルというか自分で決めた手順みたいなものがあるらしくて、喜んでもらえる手土産というのもその中の一つだったようなのだ。
「あら、ここのお菓子、すごく美味しいってこの前テレビで紹介されてたわ。食べてみたかったから嬉しい」
「良かったです」
ほっとしたギイを見て、ぼくは少し笑ってしまった。
たぶんギイの中で、クリア1とか思っているんだろう。
「さ、お上がりください。狭いところですけど、どうぞ」
ギイの家みたいに大きくはないので、入ってすぐの和室へとギイを案内する。
客間なんて大層なものではないけれど、唯一お客様と通せるような部屋だった。
中に入ると、ギイの視線が一点で止まった。
「主人もすぐに参りますからどうぞお座りになってお待ちくださいね」
「あの」
部屋を出て行こうとする母さんにギイが声をかけた。
「はい?」
部屋の隅にある仏壇を一瞥して、ギイは母さんに向かって穏やかな口調で言った。
「お線香を上げさせていただいてもよろしいですか?」
ギイからの申し出に、ぼくも母さんも一瞬言葉に詰まった。
思いもしなかったことだったけれど、母さんはすぐに嬉しそうに何度もうなづいた。
「ええ、ぜひ・・・」
ギイは静かに仏壇の前へと進むと膝をついた。
慣れた手つきで線香に火をつけ、ギイは遺影の中の兄さんをじっと見つめ、それから静かに手を合わせて目を閉じた。
今まで何度も一緒にお墓参りに行っているけれど、こんな風に仏壇に手を合わせるのは初めてだ。
兄さんの年齢を、ぼくたちはもうとっくに越してしまっている。
生きていたら最高のライバルになっていただろうな、と昔ギイが言ったことがある。
弟以上にぼくのことを愛していた兄さんのことを、ギイはどう思って手を合わせているのだろうか。
「ギイ、ありがとう」
顔を上げて、ギイが優しく微笑む。
ぼくは少しばかり沈んでしまった気持ちを立て直すように、母さんの方へ顔を向けた。
母さんは少し涙ぐんでいたのかもしれない。何度も瞬きをしていた。
「少しお待ちくださいね」
母さんが部屋を出ていくと、ギイははーっと息を吐いた。
「失敗してないよな、オレ」
「大丈夫だって。それよりギイ、お線香あげてくれてありがとう」
「・・・お墓参りには行ってたけど、ちゃんとこうして仏前でお線香もあげたかったからさ」
「うん」
「託生の兄さん、男前だな」
仏壇に飾られた小さな写真。ぼくの記憶の中にある兄さんはあの写真の中のままで、確かにギイのいう通り整った顔立ちをしていて、十代の少年だ。
時間がたつということは残酷なのか優しいのか。
辛かった思い出が薄れていくと同時に、たった一人の兄の記憶も薄れていく。
ぼくの中にある兄さんの面影は時間と共にぼやけてきて、時折こうして写真を見ては、その輪郭がまたくっきりとなって甦るのだ。
「・・・ギイの方がカッコいいよ」
「お、珍しく褒められた」
どこかくすぐったそうにギイが笑う。ほんの少し緊張も解れたかと思えた時に、両親がそろって姿を見せた。
ギイを見て、父さんは何とも言えない微妙な顔をして軽く会釈をした。
ぼくを含めた全員がひどく緊張していて、その場は何ともぎこちない空気が流れていた。
ギイが緊張しているのは、ぼくにしか分からなかったと思う。
いざとなると度胸があるギイはさっきまで緊張してるなんて言っていたけど、まったくのポーカーフェイスでそつなく両親と話を始めた。
堂々としたその態度に、やましいことをしているという意識は微塵も感じられず、そのおかげでぼくも次第に緊張が解れた。
ぎこちなくはあったけれど、そこはいい大人ばかりなので、あたりさわりのない世間話というか、誰もが核心に触れるのを避けているというか、まるでぼくの昔からの友達が遊びにきたような感じで、穏やかに会話が進んだ。
ぼくからすればちょっと不思議な光景だったけれど、父さんがいきなりギイのことを怒鳴ったりせずにいてくれて良かったとほっとしていた。
けれど、世間話なんてすぐに尽きて、妙な沈黙が訪れた。
ギイは居住まいを正すと、真っすぐに両親を見て言った。
「来月から託生さんと一緒に暮らそうと思っています」
ぼくは慌ててギイの隣で背筋を伸ばした。
「高校時代からずっと真面目にお付き合いしてきました。もっと早くご挨拶に伺わなくてはいけなかったのに申し訳ありませんでした。アメリカと日本でなかなか会えない時期が続きましたが、ようやく日本で仕事ができるようになったので、これを機に一緒に暮らしたいと託生さんに話をしました。同性で、と反対されるのも心配されるのも当然のことだと思いますが、ご報告と、託生さんとのことを認めていただきたいと思って、今日はこちらにお邪魔しました」
ギイは「許してほしい」とは言わなかった。
自分たちの仲は、誰かに許してもらわなくてはいけないものではないから、
ぼくの両親がいろいろと思うところがあったとしても、許しを請うのは違うとずっと前から言っていた。
ただ認めて欲しいだけだから、と。
理解はできなくてもいい、ただぼくたちのことを受け入れて認めてもらえれば十分なのだ。
もちろんそれだって難しいだろうことは想像に難くなかった。
父さんも母さんも、ギイの言葉にしばらく無言だった。
たぶん何を言っても仕方がないと分かっているけれど、かといって簡単には認めることもできないのだろう。
やがて父さんがどこまでも穏やかにギイに問いかけた。
「託生からあなたのことはいろいろと聞いています。Fグループのご長男だということも。失礼ですが、そちらのご両親は託生とのことをどうおっしゃってるんでしょうか?」
ギイのバックグラウンドはあまり両親には話したくなかったけれど(それはあまりにも世界が違いすぎるので、という意味で)、かといって黙っているわけにもいかないので、聞かれれば答える程度にぼくはギイのことを話していた。
Fグループの名前は有名なので、ギイがその社長の長男で跡取りだということを知ると、二人とも心底驚いたようで、本当に大丈夫なのか騙されてるんじゃないかと言い出した。
ギイはぼくたちが住む世界とはまったく違う世界に住む人だけど、ぼくにとってギイはごくごく普通の人だ。母さんは自分と生活レベルの違う人と一緒になるといつかしんどい思いをするから、とあまりいい顔はしなかったけれど、だからといってそれを理由に別れようという気にはならなかったし、そもそもFグループの家に生まれたのはギイのせいではないのだからしょうがない。
10年近く一緒にいて、今更だよなぁと思うのだ。
だけどギイの出自が心配の種になるというのも分からないでもない。
ギイは父さんからの問いかけに嫌な顔もせずに微笑んだ。
「両親にはもちろん話はしています。さすがに最初はいろいろ言われましたが、気持ちが変わらないと分かってからはもう何か言われることもなくなりました。二十歳も超えて、自分のことは自分で責任を取れるのであれば好きにすればいいと」
「確かに二人ともいい大人だし、親があれこれ言うのは筋違いだとは分かっていても、言いたくなるものだからね」
「そうですね、それもよく分かっています」
父さんはうんと小さくうなづいた。
「託生から、これから先もきみと一緒にいたいということは聞いているし、どんな人生を選ぶかは託生自身が決めることだから、あまり説教じみたことは言いたくないんだが・・・」
そう言って、父さんは正面からギイを見据えた。そしてゆっくりと頭を下げた。
「託生のことを大切にしてやってください。決して完璧な子じゃないし、口下手で気持ちを表現するのが苦手な子だから、いろいろと行き違うこともあるかもしれない。迷惑をかけることもあると思うけれど、それでも私たちにとってはかけがえのない息子です。幸せになって欲しいと心から思ってるので、大切にしてやってください」
まさか父さんがそんなことを言うなんて思ってなかったぼくは、信じられない思いで胸の奥が熱くなるのを感じていた。
ギイは父さんよりも深々と頭を下げると、
「大切にします。約束します。だから安心してください」
と言った。
シンプルで、だけど力強い言葉だった。
嘘なんてこれっぽっちも感じられないギイの言葉に、父さんはありがとうと言った。
すんなりと、ぼくたちの仲が認められたことが信じられない。
ぼくがあまりにも唖然としているのを見て、母さんが小さく笑った。
「託生ったら、どうしてそんな顔してるの?」
「だって、もっといろいろ言われるかなって思ってたし・・・反対、されると思ってたから」
「そりゃあね、初めて聞いたときは何を馬鹿なことを言ってるのかって思ったし、3年間外の世界から隔離された場所にいて、きっと目の前の人のことしか見えなくなってるから、卒業していろんな人と知り合えば気持ちも変わるんじゃないかって思ってたのよ。だけど、日本とアメリカで離れていても託生の気持ちはずっと変わらなかったでしょ。10年近く付き合っているのに、今さら反対したってね。託生は頑固だからきっとこれからもアさんのことを好きでい続けるんだろうし。託生が幸せになれるっていうんなら反対なんてできないって、父さんとは話してたのよ」
「うん・・・」
そうだ、ぼくはこれからだってずっとギイのことを好きでいる自信がある。
両親に反対されたって、別れるつもりはない。
だけど、だからといって反対されて平気なわけじゃない。
無理な願いだとは分かっていても、できれば認めて欲しいと思っていた。
こんな風にあっさりと受け入れてもらえるとは思ってなかったから、何だかまだ信じられないでいる。
「さぁ、じゃあ食事にしましょうか。ごくごく普通の家庭料理で、崎さんのお口に合うといいんですけど」
母さんは特に気負った風もなく、昼食の準備をするために部屋を出ていった。
ぼくたちもそろってダイニングと続いているリビングへと場所を移すことにした。
昔、リビングにはコタツがあって、突然やってきたギイと一緒に足を突っ込んだ思い出のある部屋だ。
その場所で両親と一緒にいるだなんてやっぱり不思議でならない。
「託生、ちょっと手伝ってちょうだい」
「あ、うん」
母さんに呼ばれたので、ぼくはギイを父さんと二人、リビングに残すことになった。
大丈夫かな、と思ったけど、まぁギイのことだからきっとソツなく父さんと会話をすることだろう。
「ギイ、ちょっと外すね」
「ああ」
どちらかというと父さんの方が困ったような顔をしていて、ぼくは思わず笑ってしまった。
母さんはギイのためにいろいろと料理の準備をしてくれていたみたいで、昼食だというのに、ずいぶんと豪勢な食事となりそうだった。
母さんなりにギイのことを歓迎してくれていたのだろうか。
「託生、崎さんはお酒は飲むの?」
「飲むけど、昼間からお酒はちょっとどうなんだろう」
「あら、お父さんはすっかり飲むつもりでいたわよ。玄関脇に買ってきたビールがあるから、持ってきて冷やしておいてちょうだい」
今から冷やしても大丈夫なほど飲むつもりなのだろうか。
父さんもギイもけっこう強いから、ほんと際限がないような気がするぞ。
何としても阻止しなくては。
ぼくがビールを冷蔵庫に入れると、ダイニングにはすっかり食事の用意ができていた。
「託生、二人を呼んできてちょうだい」
「うん。母さん・・・」
「なぁに?」
「ありがとう」
こんな風にギイのことを受け入れてくれて。言葉であれこれと言われても、こんな風にちゃんと美味しい食事を用意してくれるだけで十分だ。
その裏にある気持ちを、きっとギイも気づいてくれる。
「なぁに、改まって」
「ううん」
何だか気恥ずかしくなってしまって、
ぼくは足早にキッチンをあとにすると、父さんとギイを呼びに行った。
リビングに戻ると、並んで庭を眺める二人の会話が聞こえてきた。
「・・ていて、春にはもう少し彩りがあるんだけどね、今はまだ寂しい庭だよ」
猫の額よりは少し広い程度の庭だけれど、母さんよりも父さんの方が熱心に手入れをしている。
今は確かに花も咲いていなくて寂しい感じだけれど、春になるといつも綺麗に花が咲く。
「新しい家の庭に少し似ています」
ギイが言い、父さんは興味が引かれたように顔を上げた。
「二人で住む家を、けっこうあちこち見に行って探したんです。利便性のいい家やバイオリンを弾くのに支障のない防音設備の整った家や。だけど託生が選んだのは住宅街の奥まったところにある一軒家でした。趣があるといえば聞こえはいいですが、けっこうな年代もので、あちこち手を入れることになって。だけど、暖かさのあるいい家です。今、こちらの庭を見せていただいて、託生があの家を選んだのは実家の庭と似ていたから、だから無意識のうちに惹かれて、決め手となったのかもしれないと思いました」
確かにギイの言う通り、初めてあの家の下見をした時に、実家の家の庭に似てるなと思った。
それが理由で選んだわけじゃないけれど、心のどこかで見慣れた風景にほっとしたのかもしれない。
ギイの言葉をじっと聞いていた父さんは、しばらく無言で庭を眺めていた。
「・・・託生は、もうこの家には戻りたくないのだろうと思っていたんだよ」
ぽつりと言う父さんに、ギイが父さんの方へと顔を向ける。
「託生から過去の出来事のことは聞いているだろうけど、あの時、託生にはひどく辛い思いをさせてしまったから、もう二度と普通の家族のような生活はできないだろうと思っていたんだ。託生が心を閉ざしてしまったのも、すべて私たちのせいで、だけどどうすればいいかも分からなくて。そんな託生がいつからか明るく笑うようになって、ぎこちなくても私たちと話をしてくれるようになって。今思えば、祠堂できみと出会って、何かが変わったんだな。託生自身もきみがいなければ今の自分はないと言っていて、そんなきみとの仲を私たちが反対なんてできるはずもないのは重々承知してるのに、やっぱり親としてはもっと楽な生き方が選んでくれればいいのにと思ってしまうんだよ。きみに対しては感謝の気持ちしかないし、きみと一緒なら託生はきっと幸せになれるんだろうなとも思っているんだよ。だからさっき、きみが託生のことを大切にすると言ってくれて、本当に嬉しかった」
「はい・・・」
ギイがうなづくと、父さんは少し困ったような笑みを浮かべた。
「昔、あの出来事があった時に、尚人の言葉にはもしかしたら嘘があるんじゃないかと思ったこともあったんだよ。だけど、必死に訴える尚人と、何も言わない託生と。尚人の言葉を是とするところから始まって、それを託生が否定しなかったことで、それが真実だと思い込んでしまった。本当は何も言わない託生の無言の訴えをちゃんと受け取ってやるべきだったのに、あの時は混乱していて、そんな当たり前のことができなかった。親としてはあってはならないことだった。託生には可哀想そうなことをしてしまったし、それは今でも後悔している。もちろん、あんな風に嘘をつくしかなかった尚人にも可哀そうなことをしてしまったと思っている。不出来な親だが、もうあんな過ちは犯したくないから、託生の気持ちにちゃんと耳を傾けて、託生が幸せになれることなら常識とか世間体とか、そんなもので判断するまいと決めていたんだ。本当に今更だけどね。尚人にはもう何もしてやれないが、託生には幸せになれることなら何でもしてやりたい。託生は生きて、幸せにならないといけない。尚人の分もね。それさえも親の勝手な言い分なのかもしれないが」
ぼくは父さんがそんなことを思っていたなんてことを初めて知った。
あの頃、両親にとって大切なのは兄さんだけで、ぼくのことなんてどうでもいいんだと思い込んでいた。
だけど、ぼく自身も年齢を重ねて、そんな簡単なことじゃなかったことが理解できるようになった。
悪いのは兄さんだけでも、両親だけでもなく、ぼくにも責任の一端はあったのだ。
黙っていることでは何も伝わらないし、何も変わらない。
そのくせ分かって欲しいなんて、あまりにも図々しいことなのだ。
ギイのことも、黙っていては何も伝わらなかった。
祠堂を卒業するあの時、勇気を出して打ち明けて良かった。
少なくとも、どんな結果になったとしても、ぼくは後悔だけはしなかっただろう。
黙って父さんの話を聞いていたギイは、話が終わると遠慮がちに口を開いた。
「オレは託生のことが好きすぎて、きっと託生の味方しかできないんです。過去の出来事も、誰かが一方的に悪いわけじゃないと頭では分かっていても、やっぱり託生の負った傷を思うと胸が痛くなります」
「・・・・」
「どんなに後悔しても過去をやり直すことはできませんが、未来はこれからいくらでも作っていけると思っています。託生はもちろん、ご両親が悲しむようなことは絶対にしないと約束しますので、これからもどうぞよろしくお願いします」
こちらこそ、と父さんが微笑む。
ぼくは不覚にも泣きそうになってしまって大きく深呼吸をした。
「ご飯だよ」
平静を装って二人に声をかけた。
初めての4人での食事は思いの外和やかで会話も弾んだ。もともとギイは社交性ばっちりな人だし、両親もギイの魅力にすっかり心を許してしまったようだった。
さすがギイ、というところである。
仲違いされるよりずっといい。こんなことならもっと早くに会ってもらえばよかったな、とぼくは今さらなことを思った。
ギイがどういう人間なのかを知りたいのか、両親はあれこれと他愛のないことを尋ね、ギイはその一つ一つに真面目に答えていた。
2時間ほどで帰るつもりだったのに、気づいたら夕方で、結局そのまま夕食も食べて帰ることになり、近くの焼肉屋へと場所を移し、日本酒好きな父さんとアルコールはザルどころかワクだと言われているギイがどんどんグラスを空けた。
この二人はきっとこれからも会う度に飲み比べするんだろうなぁ。
お開きとなったのは父さんが先に潰れたからだ。
店の前で拾ったタクシーに父さんを押し込めながら、
「ごめんなさいね、またいつでも遊びにきてね」
と母さんがギイに謝り、ばたばたと慌ただしく帰っていった。
ギイと二人になると、何だかどっと疲れが出てしまった。
「はー、オレ、大丈夫だったか?おかしな言動してなかった?」
どうやらギイもそれなりに酔っているのか、何度もぼくに同じことを尋ねた。
大丈夫だよ、と何度も言っていると、何だかおかしくなってきて、ぼくはギイの腕に手を回してぺたりと頬をくっつけた。
「どうした?何笑ってんだよ」
「だって・・・」
「うん?」
「ギイってすごいな」
小さい頃に偶然出会って、それからずっとぼくのことを好きでいてくれた。
アメリカでとっくに高校は卒業していたくせに、ぼくに会いに祠堂にきてくれた。
心を閉ざしていたぼくに、明るい未来を差し出してくれた。
遠くに離れていても気持ちが変わることなく、いろんな問題を一人で全部片付けて、ぼくとの恋を続けようとしてくれた。
両親に会うなんて、きっと気が重いイベントだったに違いないのに、こうしてあっさりとクリアして、ぼくに大丈夫だよと示してくれる。
この先ぼくたちは、きっと幸せになれるんだよ、と教えてくれる。
「好きだよ、ギイ」
ギイに会えて良かった。
ギイのことを好きになって良かった。
ギイがぼくのことを好きになってくれて良かった。
「お前、酔っぱらってるだろ。そういうこと、どうせなら素面で言ってくれよなー」
ぎゅうぎゅうと抱き着かれても、酔っ払いが二人ふざけあっているようにしか見られない。
ぼくたちはそのシチュエーションに乗じて大仰に手を繋いだまま歩いた。
「オレ、人生で一番緊張した気がする」
「えー、何だかいつもと変わらなかったけどな」
「挙動不審にならないように、持ってる理性総動員した。だけど、ご両親と少し話しだけで、ああ、大丈夫だなって思った」
「そうなの?」
「託生のこと、大事に思ってるんだなって分かったからさ」
「・・・」
ギイはぼくを見て小さく笑った。
「ご両親が、オレとのことを認めてくれたのは、託生への愛情があるからこそだよ。昔、託生は自分の気持ちはご両親にはすり抜けていくんだ、って言ってたけど、たぶん、託生もご両親も口下手で自己表現が下手なだけで、でもだからって愛情がないってことにはならないって思うんだ。過去にいろんなことがあって、辛い思いもして、上手くいかないこともあって。だけど、どんな形であれ、託生はちゃんと愛されてたんだと思う。でなけりゃ、こじれてしまった関係をまた一から築き上げて、こんな風に笑いあえる家族にはなれない。お互いの努力の賜物かもしれないけど、それでもさ、愛情があったからこそだと思う。託生に幸せになって欲しいって思ってるから、託生のこと愛してるオレと一緒にいることを認めてくれたんだよ」
「・・・うん」
ギイの言葉はするするとぼくの中へ入ってきて、じわじわと身体中を幸せな気持ちでいっぱいにしていく。
両親のことを、そんな風に考えたことなどなかった。
ぼくに負い目があるから、だからギイのことを黙認してくれてるのかな、と心のどこかで思っていた。
両親に愛されてると信じたくて、でも上手くできなくて。
だけど、そうじゃないとギイが言ってくれるだけで、バカみたいにその言葉を信じて幸せになれる。
どうしてギイの言うことなら、どうして簡単に信じることができるのだろう。
「オレたちもそんな風に築いていこうな」
ギイはぼくに向き直ると、ぼくの両手を取って真面目な表情になった。
「一緒に暮らしたらきっといろんなことがあって、喧嘩もするだろうし、窮屈だって思ったり、一人になりたいって思ったり。上手くいかないこともあるかもしれないけど、それでもさ、放り投げださずに一緒に超えていきたいんだ。託生と一緒に、嬉しいことも悲しいことも全部受け止めて、二人で幸せになりたいって思ってる」
ぼくは何度も何度もうなづいた。
知らぬ間に涙が溢れて止めようもなく零れ落ちた。
「泣くなよ」
「ギイが泣かせたんだろ」
「そんなに感動した?」
「ばか」
素直に感動しただなんて言うのは恥ずかしくて、そんな言葉で誤魔化した。
近い将来、今度はぼくがギイのご両親に挨拶をすることになるだろう。
ギイの言うことが正しければ、ギイのことを愛しているご両親もぼくのことを認めてくれるのだろうか。
ご両親に会うのはちょっと怖いと思っていたけれど、ギイがそうしてくれたみたいに、ぼくも胸を張って堂々と言おう。

大切にします。
約束します。
だから安心してください。

ギイのことはぼくが幸せにすると決めたのだから、誰にだってそう言える。

「引っ越しが片付いたら遊びにきてもらおうな」
「うん」

少しづつ少しづつ、小さな幸せが積もっていく。
それがくすぐったくて、幸せで、時々怖くなる。
だけどギイが大丈夫だよと手を繋いでくれるから、何も考えずにギイが運んでくれた幸せに身を任せることができる。
「ありがとうギイ。これからもよろしく」
「こちらこそよろしく」
すっかり静まり帰った夜更けの道を、ぼくたちはゆっくりと歩いた。


Text Top

あとがき

ハートフル目指したらこんな形に。幸せすぎてめまいが。