中間テストが近づいてきていることもあって、放課後はみんな早々に寮に戻り、試験勉強に励むようになっていた。ぼくももちろん授業が終わると寄り道せずに寮へ戻り、真面目に教科書を広げて、苦手な古文と闘っていた。
それにしても、もう使うことはないであろう昔の言葉をどうして今勉強しなくてはいけないんだろう。 それでなくても日本語は難しいというのに、古文はそれに輪をかけて難しい。 はぁと小さくため息をついて、凝り固まった首筋をほぐすように肩を回す。 ちらりと背後を振り返ると、ギイの後ろ姿が見えた。 背中あわせでギイも机に向かっている。 いつも放課後はあちこちから声がかかって、忙しくしているギイだけれど、さすがに試験前はそんなお誘いも断ってちゃんと部屋に戻ってくる。 まぁギイは試験勉強なんてしなくても楽勝なんだろうな、とは思うので、たぶんこれはぼくのためなんだろうと思う。 ぼくが試験勉強をしていて分からないところがあると、ギイはとても分かりやすく丁寧に教えてくれる。 おかげで今度の英語のテストは得点アップ間違いなしだと思う。 ギイは集中して何やらせっせと何かを書いているけれど、いったい何の勉強をしているんだろう。 ぼくはぼんやりとギイを見つめた。 4月に2年に進級して、ギイと同じクラスになり、さらに寮の部屋も同じになった。 祠堂の誰もが憧れているギイ。 そのギイがぼくのことを好きだと言い、まだ時々不思議な感じはするのだけれど、ぼくたちはいわゆる恋人同士という関係になった。 本当に、何だかまだ信じられないのだけれど。 ぼくの視線に気づいたギイがくるりと振り返った。 「どうした、何か質問?」 「え、えーっと・・・」 特に用もないのにじっと見つめていただけだなんて、あまりにも不審すぎる。 どう言えばいいかと必死で考えていると、ぎゅるるる、っと言葉より先に空腹に耐えかねたお腹が鳴った。 ギイがぷっと笑った。 「腹減ったのか?託生」 「はは、そうみたい。真面目に勉強してたせいかな」 と言っても、まだ夕食までの少し時間がある。食堂は時間にならないと開かないのだ。 ギイはくるりと椅子を回すとぼくの方へと向きを変えた。 「古文は?進んだ?」 「うーん、まぁ何とか。ねぇギイ、古文なんてこれからの人生に役に立つとは思えないんだけど、どうして勉強しなくちゃいけないんだろう」 うっかり愚痴をこぼしてしまったぼくに、ギイは軽く肩をすくめた。 「まぁ今学校で習っている勉強って、社会に出てから直接役に立つものの方が少ないかもな」 「やっぱり」 「だけど間接的には役に立つこともある」 「例えば?」 「地理や歴史なんかは知っていて損はないだろ?数学のややこしい数式なんかは覚えてる必要はないかもしれないけれど、ああいうのはほら、考え方を学んでると思えばいいわけだし。論理的に物事を考えるための訓練みたいなもんだよ」 「ふうん」 まだ納得できないぼくにギイは椅子の背に腕を組んで顎を乗せた。 「託生がバイオリンを弾くのに、その作曲家の生い立ちや歴史的背景とかそういうことも勉強するだろ?バイオリンを弾くのに何の関係があるんだーって音楽をしない人は思うだろうけど、託生にしてみれば、それってすごく重要なことなんだよな?」 「ああ、そうだね」 なるほど。 音楽を深く理解するには時代背景や作曲家の想いを知るというのは大切なことだ。 ということは、今勉強しているいろいろなものも、いつかは何かの役に立つということなのだろうか。 だとすれば、やっぱりちゃんと勉強しておかないとダメなのかもしれない。 「託生、ちょっと早いけど食堂に行くか?」 「うん。ほんとにもうお腹ぺこぺこだよ」 あと10分ほどで食堂も開くので、ぼくたちは開くと同時にご飯を食べようと一足早く寮の部屋を出た。 「うわ、さむっ」 外はすっかり秋の気配を漂わせていて、山奥祠堂では暦の上では秋でも気温的にはもう初冬といった感じがする。 薄手での長袖シャツだけだったぼくは思わず身をすくめた。 「託生は寒がりだな」 ギイはそう言って笑うと、自分が着ていたカーディガンをぼくの肩にかけてくれた。 「いいよ、ギイが寒いだろ」 驚くことに、ギイはカーディガンの下は半袖Tシャツだ。 ぼくは早々に半袖は片付けてしまったというのに、ギイは一年中Tシャツといっていいほど、薄着なのだ。 「オレは平気。だいたいそこまでの寒さじゃないし」 「ええ、何だかもう冬っぽいよね」 祠堂は冬になると雪だって降る。比較的暖かい静岡で生まれ育ったぼくとしては本当にこの寒さはこたえるのだ。 「そっかギイはNY育ちだもんね。寒さに強いのってそのおかげ?」 「あー、どうかな。でも確かにあっちの寒さは半端ないからな」 そんな寒いところで暮らすのは無理そうだなとぼくは密かに思う。 どうせなら暖かい南の国で暮らしたいものだ。 寮から食堂へと向かう途中で、ギイはふいに足を止めた。 「なぁ、ちょっとだけ遠回りしてさらにお腹を減らそうか」 「え、遠回り?」 ギイが指さしたのは温室のある方向だ。ぐるりと一周して戻ってくるのに、それほど時間はかからないけれど、この寒さの中、何でわざわざ? ぼくの疑問が顔に出たのか、ギイは悪戯っぽい瞳をしてぼくへと身を屈めた。 「夕食前のデート。たまにはいいだろ?」 「・・・」 「この時間だとあのあたり誰もいないだろうし」 「いいけど、モノ好きだね、ギイ」 温室までの道すがら、別にこれといって見るべき何かがあるわけでもない。 どちらかというと何もない祠堂の果てだ。 だけどギイと二人だけでのんびり散歩というのは悪くない。 すでにお腹はぺこぺこだったけど、我慢できないほどじゃないし、ギイのカーディガンのおかげで寒さも感じない。 じゃあちょっとだけ、とギイの誘いに乗ることにした。 二人肩を並べてのんびりと歩く。 どこからともなく金木犀の甘い香りがして、すっかり秋なんだなぁと思う。 「祠堂は山奥で何もないところだけど、自然だけはたくさんあるからいいよな」 「そうだね。ギイはNYの大都会にいたから、余計にそう感じるのかも」 「星も綺麗に見えるし。NYは星よりネオンが綺麗だけどな」 「うん」 寮から完全に見えない場所まで来ると、ギイはぼくへと手を差し出した。 「なに?」 「手、繋ごう」 「え、でも・・」 「大丈夫。誰もいないし、見てないからさ」 ぼくはじっとギイの手を見つめ、おずおずと右手を差し出した。 つ、っと指先が触れると、ギイはそのままぎゅっと握り締めた。 「ギイ、手が温かい」 「託生専用のカイロになってるだろ?」 「うん」 何となく、ギイの手は冷たいものだと思っていた。 いや、実際ひんやりとして気持ち良かった覚えもある。だけど、今はすごく温かくて、こうして手を繋いでいるだけで秋の冷たい空気なんて何でもないと思えるくらいだ。 「今日の夕食のメニューは何だろうな」 どうやらギイもお腹が空いているようだ。 「今日のメニューはサバの味噌煮と豚汁」 「え、何で知ってるんだ、託生」 「だって、毎週、食堂の入口に一週間分のメニューが張り出されてるだろ」 「あー、そうだった。でもオレ見てないからなー」 「え、そうなの?ギイのことだからしっかり確認して、全部覚えてそうなのに」 何しろギイの記憶力は抜群で、一度見たら忘れないらしい。 おまけになかなかの食欲魔人だから、食堂のメニューなんて一番気にしてそうなのに。 「だってさ、知ってしまったら楽しみがなくなるだろ?今日の晩飯何かなーって思いながら食堂に行く方が楽しいだろ?」 「えー、そうかな。ぼくはちゃんと先に知っておきたいかも」 「へぇ、どうして?」 「もし何も知らないで嫌いなものオンパレードだったら、ちょっとショックが大きいだろ?先に知っておいて、覚悟をして食堂に行きたい」 「ははっ、なるほど。託生らしいっちゃ託生らしいかな」 「ギイもギイらしいよね。知らないでいることを楽しめるとこ。ぼくは知らないでいると不安に思う方が強いのかも」 それはただ単に臆病なだけなのかもしれない。 ちゃんと知って心構えをしておいた方が傷つくことが少ないと、どこかで思っているのかもしれない。 そんなぼくとは違って、ギイは知らないこと自体を楽しんでしまいそうなくらい、何ごとにも前向きで臆することがない。 羨ましいと思う反面、そこまでの強さは持てないだろうなとも思う。 「託生はさ、慎重なだけだと思うけどな。別に悪いことじゃないし、いろんなことをゆっくり考えて行動したいタイプなんだろうな。でも慎重なくせに変に度胸あるからなぁ、お前。そこは慎重に行くとこだろ、ってところで後先考えずに突き進むっていうか」 「そんなことないよ」 「あるだろ、ほら野崎の時のこととか」 どこか不機嫌そうに指摘されて、すっかり忘れていた春の出来事を思い出した。 どうやらギイにとって、あれは今でも許しがたいことのようだ。 そんな無鉄砲なことだったのかな、と思うのだけれど、まぁ多少無謀だったかなと思わないでもない。 「オレは託生とは違って、とりあえずやってみてそれから考えようってところあるからさ、それで失敗することも多い」 「ほんとに?ギイはちゃんとあれこれ考えてから行動しそうだし、だいたい、ギイが失敗するとこなんて見たことないけど」 「そりゃあ託生くんの前でカッコ悪いとこは見せないようにしてるだけだって」 ギイは笑ってぼくの頬にちゅっとキスをした。 「好きな相手の前じゃカッコつけたいもんだろ」 「ふうん」 「ふうん、って託生はそういうこと思わないのか?」 「今さらギイにカッコつけてもなぁ」 さんざんカッコ悪いところを見られていると思う。 誰にも心を開けずに、誰も寄せ付けず、気にかけてくれる人のことすらも拒絶して。 今思うと自分でもちょっと恥ずかしくなるくらいに、カッコ悪い姿を晒していた。 でも、だからこそギイの前では自然体でいられるし、安心もしていられる。 ギイはぼくのカッコ悪いところを知っていても好きでいてくれるんだと。 「そりゃ少しはいいとこ見せたいなって思うけど、でもギイはそういうの気にしてないだろ?」 「・・・」 「ぼくも、ギイのことカッコいいなぁって思うけど、だけど少しはカッコ悪いところ見せてくれないかなぁって思うことあるよ。みんなが知らないギイのこと、ぼくは知っていたいなって思うから」 「託生」 そろそろ校舎の灯りが見えてくるところまで戻ってきたので、ぼくはするりと繋いでいた手を解いた。 「ぼくはどんなギイでも好きだから」 「・・うん・・・そっか」 ギイはどこか嬉しそうに笑った。 「お腹空いたね。早く行こう」 「ああ。サバの味噌煮と豚汁な」 「そうそう」 食堂が目の前という場所で、ギイたぴたりと足を止めた。 ぼくが振り返ると、ギイが数歩戻っておもむろに言った。 「託生、今夜するから」 「へ?」 「だから、今夜はエッチするから」 ギイが満面の笑みで言うものだから、一瞬何だか分からなかったけれど、きっちりと言葉で言われると。いきなり生々しく理解できて、自分でも分かるくらいに顔が赤くなった。 「ちょ、何でそういうこと宣言するんだよっ、ばかっ」 「だって託生は事前に知っておいた方が安心するんだろ?」 にやにやと笑うギイの肩をどんと押し返す。 「そういう意味じゃないっ」 「じゃあ次からはいきなりすることにする」 いや、それもちょっと。って、いやいや、こういうことってこんな風に事前に宣言するもなのか? 突然・・が嫌なわけじゃないけど、だってこんな風に宣言されたらめちゃくちゃ意識してしまうじゃないか。 「ギイのばか」 「ばかでカッコ悪いオレでも託生は好きでいてくれるんだろ?」 ますますにやけた顔でギイが返す。 「ほんと、ばか」 だいたいそういうこと宣言しちゃうギイがカッコ悪いだなんて思ってないし。 ああ、ほんとどんなギイでも嫌いにはなれないんだなぁと火照った頬を抑えながら、サバの味噌煮と豚汁が待つ食堂へと向かうのだった。 |