1. 夕食が終わると、寮生たちは各々自室へ戻る。 談話室でテレビを見たり、友達同士でゲームをしたり、読書に勤しんだり、明日の授業の予習をしたり。 何をするにせよ、消灯までの僅かな時間が寮生活でリラックスできる自分だけの時間だ。 託生は真面目に宿題を終わらせると、たいていは読みかけの本を開く。 話しかければ応えてはくれるが、託生から話しかけてくることは今のところ滅多にない。 305号室の不思議な静けさは昨年まではなかったもので、最初の頃こそ戸惑ったりもしたけれど、それにもすぐに慣れた。 気まずいわけではなく、むしろ余計な気遣いをさせない心地よい空気感。 それは、オレが託生を好きだからそう思うのではなくて、控えめで、自分から前へ出ることを好まない託生の性格からくるものなんだろう。 それをもどかしく思うこともあるけれど、こうして一緒にいても少しも気疲れしない相手というのはなかなかいない。 章三とはまた違う。託生の前だと自分を飾ることなく自分らしくいられる。 言葉にはできない優しい雰囲気。 そういうところに惹かれているんだろうなとも思う。 同じ部屋で一緒に生活するようになると、今まで知らなかったことが見えてくるようになってくる。 それまでオレが見ていた託生の違う一面を知るたび、嬉しくて頬を緩んでしまうのを止められない。 ニヤけるオレを不審そうに見る託生でさえ新鮮で、とにかく毎日が楽しくて仕方ない。 長年の片思いに終止符を打ってまだ数週間。 お互いの気持ちを確認し合って、オレは毎日がふわふわと夢の中にいるようだった。 何しろずっと片思いだった相手と思いが通じ合って、おまけにキスまでしてしまったのだから、これで有頂天にならずにいられる男がいるならお目にかかりたいものだ。 相思相愛というのがこれほどまでに幸せな気持ちになれるものだなんて知らなかった。 季節は春。 オレにもやっと運命の女神が微笑み、春がやってきたというところだ。 けれど、浮かれ気味のオレとは違い、託生はそれまでとまったく変わらない。 託生の人間接触嫌悪症がまだ完治していないことは分かっていたし、オレも気をつけて不用意に触れたりしないようにはしている。 本音を言えば、もっと近くにいたいし、触れたいし、それ以上のことだってしたい。 けれど、どうすればいいのか分からないでいる。下手に手を出せば、託生を傷つけてしまいそうで怖かった。 「なぁ託生」 「えっ、な、何?」 声をかけると、託生はびくっと身を震わせて振り返る。 そんな驚かなくてもいいじゃないか、とは思うがそれはあえてスルーする。 まだ慣れてないんだよな、オレという存在に。 「明日、街へ行かないか?すごく美味いインド料理の店を見つけたんだ」 「インド料理?」 「あー、カレー?ナンとか、タンドリーチキンとか」 「ああ、美味しそうだね」 ふわりと託生が笑う。 たったそれだけのことで、これ以上ないほどの幸せを感じてしまうのだから手に負えない。 崎義一ともあろうものが、一緒に麓の街にデートに行けるというだけで舞い上がってしまうんだから笑ってしまう。 これではまるで中学生みたいな恋愛じゃないか。 オレは寝転んでいたベッドから勢いをつけて起き上がると、託生のそばへと歩み寄った。 「託生は辛いものは平気?」 「大丈夫だよ。そんなに辛いの?」 「いや、ちゃんと辛さは選べる」 「へぇ、楽しみだな」 「じゃ明日、約束な」 「うん」 嬉しそうに託生がうなづく。 託生は感情を表すことが苦手なだけで、何も感じていないわけじゃないのだ。 最近はちゃんと自分の気持ちを言葉や表情でオレに伝えてくれる。 何てことはない約束に嬉しそうに笑う託生に、オレもまた嬉しくなる。 ゆっくりでいい。 託生がオレに慣れて、一緒にいるのが当たり前で、そばにいないと不安に思うくらいになるまで、どれだけ時間をかけたっていい。 時間をかけて、手をつないだり、キスしたり、それ以上のことだって、特別なことじゃないって思うくらいになればいい。 それまでは、今のこの微温湯のような関係でいるのもいいだろう。 もちろんこの現状にずっと甘んじているつもりは毛頭ない。 ただ、急がないって決めたのだ。 託生のことが好きだから。 誰よりも、託生のことを大切に思っているから。 どれほど託生が堅い殻をその身に纏っていようと、やがてオレの気持ちはちゃんと託生の心に届くだろう。 「好きだよ、託生」 思わず零れてしまった一言に、託生が瞬時に赤くなる。 ああ、ほんと、今すぐ抱きしめてキスしたい。 1.「ヌルい関係」 2. 朝、目が覚めると、たいていギイは先に起きていて、身支度がすんでいることが多い。 そして、いつまでもベッドでぐずぐずしているぼくに呆れたように、 「さっさと起きろよ」 と笑うのが常だ。 ぼくはそんなギイをまともに見ることができなくて、いつも少し視線をそらしてしまう。 朝の光の中に立つギイは、そりゃもうキラキラと輝いていて、毎朝起きるたびに、ぼくは感動して心臓が痛くなるのだ。 2年になって、寮で同じ部屋になって、ぼくはギイと一緒にいる時間が増えた。 増えたというより、ほとんどずっと一緒にいるといってもいいくらいだ。 最初は、それまでろくに会話などしたことのなかったギイと何を話せばいいのか分からなくて、黙ってしまうことが多かった。 今でも自分から声をかけるのには気後れしてしまう。 2人きりの寮の部屋で、何も話をしない同室者なんてつまらないだろうなと思うと申し訳なくて、いっそ利久の部屋にでも行ってしまおうか思ったことも何度もある。 でもギイはそんなぼくに嫌な顔をするわけでもなく、ごくごく普通に話しかけてくれた。 何でもないことでも、ギイが話すとすごく楽しいことのように聞こえた。 ギイと話していると、まるでこの世の中には楽しいことしかないようにさえ思えてくる。 ギイの目に映る毎日はきっと眩しく輝いているんだろう。 それが羨ましくもあり、やっぱりぼくとは住む世界が違う人だなと思ったり。 ギイに好きだと言われてからしばらくは、それが現実のものとは思えなくて、どこか夢の中にいるような、ふわふわと地に足がついていないような、そんな毎日を過ごしていた。 その一方で、何かの拍子に「あれは冗談だよ」と言われるのが怖くて、ぼくはいつもどこか身構えていた。 けれど、毎日のように「好きだよ」と言われて続け、さすがにそれが嘘だとは思えなくなった。 嬉しいような怖いような、だけどやっぱりどうすればいいか分からなくて、ぼくはついついギイに素っ気無くしてしまっている。 長い間ずっと気づかれないようにギイを見ていたぼくには、ギイからのストレートな感情を素直に笑顔で受け取ることなんて無理なのだ。 こんなことじゃいけないと思っていても、やっぱりギイに慣れるにはもう少し時間が必要だ。 だけど、少しづつでもいいから、変わっていきたい。 ギイからの思いに応えられるようになりたい。 誰かのために、そんな風に思えるようになるなんて、すごく不思議で、だけどそんな自分がちょっと嬉しかったりもした。 その朝、ぼくはギイよりも早く目が覚めてしまった。 ギイを起こさないようにそっとベッドを抜け出して、カーテンの隙間から外を見てみる。 綺麗な青空に思わず笑みがこぼれた。 昨夜、突然ギイから麓の街へ行こうと誘われた。美味しいインド料理店を見つけたから、と。 せっかく出かけるのだから晴れるといいなと思っていた。 晴天になりそうな空の色にほっとして、まだ眠るギイへと視線を移す。 こんな風に眠っているギイを目にするのは初めてかもしれないと思った。 いつもいつもぼくがギイに起こされるばかりで、ぼくがギイを起こすことはない。 そろそろ起きてもいい時刻だけれど、何となくギイを起こすのが恥ずかしい気がして、ぼくはベッドの端に腰を下ろした。 こんなに早く目が覚めてしまったのは、今日、ギイと一緒に街に出かけるせいだ。 まるで遠足前の子供みたいに、嬉しくて待ち遠しくて、いつもより早く目が覚めてしまった。 そんなこと、ギイに知られるのはめちゃくちゃ恥ずかしい。 もう一度ベッドに入ってしまおうか、とも思ったけれど、徐々に部屋の外からも下山組が起きだした気配がしてきた。 それなのに、いつも寝起きのいいギイがどういうわけかなかなか起きない。 ぼくは一つ息をつくと、立ち上がってそっとギイが眠るベッドへと近づいた。 頭まですっぽりと毛布を被って、だけどふわふわの茶色の髪だけが少しだけ見えている。 「ギイ・・・」 小さく呼びかけてみる。 肩に手を置いて、そっと揺らしてみる。 「起きてよ、ギイ」 初めてぼくに起こされたギイは、驚いたようにぼくを見て、そして眩しそうに目を細めた。 2.「起きてよ」 3. ギイと2人で麓の街へと出かけるのはまだ数えるほどだ。 1年の頃はたまに利久と買い物に出るくらいで、必要な店にだけ行って必要なものだけを買って、さっさと帰っていたから、祠堂で1年暮らしているというのに、麓の街のどこにどんな店があるかなんてほとんど知らない。 そんなぼくに比べてギイは本当によく街のことを知っていた。 どこに美味しいコーヒーの店があるとか、どこに安い生活雑貨の店があるとか。 黙って聞いていたら地元出身かと思うほどだ。 「託生が知らなさ過ぎるんだよ」 「そうかな。別に知らなくても困らないし」 「いや、安くて美味いものってのは大事だろ。高校生の使える小遣いなんて限られてるんだから」 「そりゃまぁそうだけど」 確かにギイの言う通りだけど、ぼくとは違ってギイって庶民じゃなかったはずだよね。 祠堂は生徒の半分は裕福な家庭の子が多いけど、確かギイはその中でも群を抜いていたはず。 それがどれくらいなのかは良く知らないんだけど。 ギイがお奨めと言って連れてきてくれた店は、駅前の賑やかなメインロードから少し離れた場所にある小さなお店だった。 どうやらまだできたばかりのようで、店内はそれほど混んではいなかった。 すぐに案内されて、ぼくたちは窓際の席へと座った。 「インドっぽい」 きょろきょろと店内を見渡すぼくに、ギイがメニューを広げる。 「託生、インド行ったことあるのか?」 「え、ないけど、それっぽくない?」 インテリアとか音楽とか。香辛料の匂いとかもどことなくインドっぽい。 「ギイはインドに行ったことあるのかい?」 「インドなぁ、なかなか刺激的な国だよな」 そっか。行ったことあるんだ。 ギイって海外旅行とかけっこう行ってそうだよなぁ。だいたいアメリカから日本へ留学っていうだけで、ぼくには想像のつかない世界だ。異国の地へ一人で行くなんて、ぼくにはとてもできそうにない。 2人用のコースにしないか?とギイが提案する。それぞれ好きなカレーを選べるし、デザートまでついてお得らしい。ぼくはそれでいいよ、とうなづいた。 メニューを閉じて壁際に立てかけようとして、そこにいろんなちらしやパンフレットが置かれていることに気づいた。何気なくそのうちの一枚を手に取って眺める。 「何のちらしだ?」 「え?んーと、占いの館だって。良く当たるって書いてる」 手相とかタロットとか。 どちらかと言うと女の子向けっぽい歌い文句だ。恋愛相談なんて書いてある。 「あー、そういうの多いよな」 「ギイは占いとか信じないんだ」 明らかに興味がなさそうな口調に、ぼくはちらしを元に戻す。 「信じてない。まぁある種の統計の一つとして一定の方向性がないかと言えば絶対ないとは言えないだろうけど、誕生日や血液型くらいで性格を決め付けられたり、手相を見て運命を決められるのはごめんだな」 「ふうん」 「ふうん、って託生は信じてるのか?」 ギイは何かを探るようにぼくを見る。 「信じてるわけじゃないけど、雑誌の運勢のコーナーとかは見ちゃうかな。いいこと書いてるとちょっと嬉しいし、悪いこと書いてたら気をつけようって思う程度だけど」 「よし、じゃあ託生、今度オレとお前の相性でも占ってもらうか」 「へ?相性って?」 「占いの定番だろ?オレと託生がどれくらい相性がいいか、占ってもらうぜ」 「や、やだよ」 ぼくは慌てて首を振る。とたんにギイが不機嫌そうに唇を尖らせる。 「どうしてだよ。お前、恋人同士の相性がどうなのか知りたくないのか?」 「知りたくないよ、そんなの」 ぼくは慌てて周囲を見渡す。恋人だなんて言葉、誰かに聞かれたらどうするつもりなのだろう。 ギイはちっとも気にした風でもなく、マイペースだ。 「託生、オレとの相性知りたくないのか?」 「だって・・・」 ああいう占いは遊びだって分かってるから気楽に読めるのであって、真剣に受け止めたらけっこう重いし。それに・・・。 「もし、相性悪いって言われたら、やだし・・・」 つい口から零れた言葉に、ギイの目が見開かれる。 しまった、と思ってももう遅い。ギイはしばらく無言でぼくの顔を見ていたけれど、やがてふわりと見惚れるような笑みを浮かべた。 「そうだよな、相性がいいのは分かりきってることだしな」 うんうんとギイが嬉しそうにうなづく。 「違うっ!今のは・・・そんな意味じゃ・・・」 「オレも占いごときに2人の相性が悪いなんて言われたくないしなぁ」 つぶやくギイはすごく嬉しそうで、ぼくは何だかいたたまれなくなってしまった。 頬が熱いのが自分でも分かる。 ギイはそんなぼくに目を細めていたけれど、やがてついっと手を伸ばして、テーブルの上に飾られていた一輪挿しの花をつんとつついた。白いマーガレットの花。 「じゃあさ、託生、うさんくさい占いよりももっと単純明快な花占いやってみろよ」 「花占い?」 「オレたちの相性がいい、悪いって、順番にこの花びらを数えてみな」 「だから、占いは・・・」 「大丈夫だって」 ギイが自信家なのは知ってるけれど、いったいその自信はどこからくるんだろう。 ほらほら、と促され、花びらを一枚づつちぎるなんてできないので、ぼくは一枚づつ「いい」「悪い」と言いながら指で弾いていった。 最期の一枚は「相性がいい」で終った。 「な?オレたちは相性ばっちり」 ぱちんと綺麗にギイがウィンクする。 どうってことのないお遊びだけど、相性がいいで終わると何となく嬉しくなる。 ギイは、こんな風にちょっとした幸せをいつでもぼくに差し出してくれるのだ。 あとになって聞いたんだけど、ギイはその花を一目見ただけでぼくたちの相性がいいで終わると分かったという。 花びらの枚数数えたらすぐに分かるだろ、と笑うけれど、一目見ただけで花びらの枚数が分かるなんて、やっぱりギイは只者じゃない。 3.「花占い」 4. 「あの人だれ?」 最近よく耳にする言葉だな、と僕は顔をあげて、その言葉の発信源を探した。 夕食のトレイを受け取るために並んだ食堂のカウンター。僕のすぐ後ろに並ぶ1年生がその発信源だった。 彼らは広い食堂の一角を眺めている。 そこには相棒のギイと、その同室者の葉山託生がいた。 「ああ、今年の崎先輩の同室者。何て言ったかな、名前・・・」 「葉山さんだろ。ほとんど毎日一緒にいるよな」 「そりゃ寮もクラスも同じなら当然だろうけどな」 「けど、どう見ても不釣合いっぽくないか?」 「見た目地味だし?」 くすくすと笑い、1年生たちはなおも続ける。 「いったいどこがいいのかイマイチ分からないよな」 「ほんとにな。けどあの人、1年の時、かなり問題児だったって噂だぜ?」 「え、何したんだよ。大人しそうな感じなのに」 「詳しくは知らないけど、けっこう嫌われ者だったって聞いたけどな」 夕食の乗ったトレイを受け取って振り返る。 1年連中はそこにいたのが僕だと分かると、ぴたりと口を閉ざした。 どうやら僕がギイの相棒だということは知っているようで、おまけに無責任な噂話をしているという自覚もあるらしい。 動揺を隠せない表情をする1年生たちを一瞥して、僕はさっさとその場をあとにした。 別段、彼らに言うべき言葉はなかった。 葉山が目立つ存在ではないことも、去年、問題児だったのは事実だ。 どう考えても人気者だったとも思えないし、どちらかというと煙たがられていた。 彼らが口にしたことも疑問に思うことも、どれも僕には理解できる。 (なのに、何でこんな不愉快な気分になる?) 自分のことを悪く言われたわけでもないというのに。 おまけにギイと不釣合い? 本当に? 「章三」 窓際の席に座るギイが僕を見つけて手を上げた。 葉山は僕を見るとちょっと困ったような表情をする。 そんな葉山に、ぼくは何とも言えない気持ちになった。 2年になり、ギイと同室になってから、葉山は少しづつ変わり始めている。 去年までの、まるで触ると痛いような刺々しさはなくなり、無感動、無関心の権化だったとは思えないほど、肩の力が抜けていい感じになってきている。 それでもまだふいに身体に触れることがあると、とたんに身を竦ませ、けれどすぐに我に返ったように「ごめん」と口にする。 葉山の口からそんな言葉が出るだけでも驚きで、最初に聞いた時は自分の耳を疑ったものだった。 ギイはそんな葉山のそばを離れようとはせず、見ていて呆れるくらいあれこれと世話を焼いている。 葉山の変化は間違いなくギイの影響だろう。 いったいどんな魔法を使ったのかは分からないが、毎日毎日、それこそ1秒単位で、葉山がそれまでとは違う人間になっていくのが僕にも分かった。 いや、別の人間ではなく、本来の自分に戻っていっているというのが正しいのかもしれない、と最近思い始めている。 なぜなら今の葉山があまりに自然体で、今思えば去年の葉山はずいぶんと無理をしていたように思えるからだ。 最近の葉山を見ていると、固く閉ざしていた蕾が春の暖かさに花びらを開いていくような、そんな印象を受ける。 「章三、あのインド料理の店、新しいメニューになってたぞ」 席に着くなりギイが言った。 朝からギイと葉山が下山していたのは知っていた。どうやら2人で以前ギイと見つけた店に行っていたらしい。あそこのナンは絶品だとギイが気に入っていたから、葉山にも食べさせたかったのだろう。 「葉山は辛いものは平気なのか?」 「あ、うん、大丈夫。美味しかったよ」 「好き嫌いは激しいみたいだけどな」 葉山の皿には見事ににんじんとピーマンが避けられている。 何だこのいかにも子供みたいな避け方は! ぼくがじろりと睨むと、葉山は明らかに怯えたように視線を彷徨わせる。 (こいつ、何だってこうおどおどしてるんだ?去年まであんなにふてぶてしかったくせに) やれやれと息をついて、僕はおせっかいだとは思いながらも葉山に釘を刺す。 「葉山、出されたものは全部食べろよ。大きくなれないぞ」 「赤池くんとそんなに身長変わらないと思うんだけど・・・」 思わずといった感じで葉山が僕に返した。 一瞬黙った僕に、葉山が慌てて「ごめん」と言う。僕はやれやれと肩をすくめた。 「そんなことくらいでいちいち謝ってたらキリがないぞ」 「え?」 「思ったことならちゃんと口にして言えばいい。でなけりゃ意思の疎通もできないし、コミュニケーションだって図れない。僕は思ったことは何でも言うからな」 「えっと・・・」 「去年は言えなかった分、これからは遠慮はしないから」 「あ・・えっと・・うん・・ありがとう」 何故か礼を言う葉山に、僕とギイは顔を見合わせて苦笑した。 (そうか、葉山ってこういうヤツか) 去年の葉山に何を言ったところで反応もなく、言うだけ無駄だと思ったこともあった。 実際、必要なこと以外、僕は葉山に話しかけたりしなかった。 けれど、今、同じテーブルで一緒に食事をする葉山になら、くだらないことでも言えるような気がした。 ようやく言葉が通じるようになった。 これからやっと、葉山がどういう人間か分かろうというものだ。 (あの人だれ?・・か) 僕だってまだ葉山がどういう人間なのか分からない。 どうしてギイがこれほどまでに葉山に夢中になっているのかも。 たぶんそれは、これから徐々に知っていくことになるのだろう。 それが楽しみだと思っていたのだが、まさかこれからの1年、この2人に振り回されることになろうとは、この時はまだ夢にも思っていなかった。 4.「あの人だれ?」 5. 食堂を出ると、その先には売店がある。 祠堂での生活に必要な日用雑貨はもちろん、育ち盛りの高校生たちの胃袋を満たす食料品なんかも豊富に揃っている。祠堂にはなくてはならない設備の一つだ。 今も夕食を終えたばかりだというのに、すでに夜食を買う連中で賑わっている。 「ちょっと寄ってもいいか?」 オレが立ち止まると、託生はぎょっとしたような視線を向けてきた。 まだ食べるの?とでも言いたそうな顔に笑ってしまう。 「飲み物買うだけだって」 食べようと思えばまだまだ食えるけど、とは口にしない。 ちょっと待っててくれと言って、売店に入る。自分用の飲み物はもちろん、託生が風呂上がりに口にできるような飲み物を無意識の内に探している自分に気づいて思わず頬が緩む。 そんなことができることが嬉しくてならない。 ペットボトルを2本買って、売店の外で待ってくれていた託生を促す。 「寮の部屋にも冷蔵庫があればいいのにね」 託生の言葉にそうだなぁとうなづく。 確かに冷蔵庫があればいつでも冷たい飲み物が飲める。だが、麓の街であれこれ買ったものを放り込んだまま忘れちまって、怖いことになったりするヤツも出てくるんだろうな。 「ま、売店が冷蔵庫代わりだよな」 「そうだね。24時間開いてればもっといいんだけど」 「いっそコンビニでも入れてくれればいいのにな」 祠堂は山奥のぽつんと建つ男子校で、周りに店などまったくない。 もし学校の前にコンビニでもできたら、すごく繁盛するだろうに。 305号室に戻ると、オレは袋の中からペットボトルを取り出して託生に差し出した。 「え?」 「託生の分な。好きだろ、それ」 「でも・・・」 「ありがとう」 「え?」 託生がきょとんとオレを見る。 「そういう時は、ありがとうでいいんだよ。遠慮するなって、オレと託生の仲じゃんか」 「・・・うん・・ありがと、ギイ」 はにかんだように託生が笑う。 普通の友達同士でもペットボトルの1本くらい普通にあげたりもらったり。 そんな当たり前のことを、きっと託生は当たり前のこととして経験していないから、咄嗟にどう反応していいか分からないんだろう。 さっきの食堂での章三とのやり取りを思い出して、きっとこれからヤツにいろいろと鍛えられるんだろうなと思うと何だか楽しくなる。 「あ、それ」 「うん?」 もう一本、袋の中から取り出して一口飲んだペットボトルに託生が反応する。 「それ、新発売のだよね。利久が言ってた」 手の中のペットボトルを眺めて、そう言われればそうだなと思った。 けっこうな人気で、売店でもこれを含めて残り3本だった。 「美味しい?それ」 「託生はまだ飲んでないんだ?」 「うん、まだ」 「じゃ、味見してみる?」 今飲んだばかりのペットボトルを託生に差し出す。 託生はじっとそのペットボトルを眺めるが、手を出そうとはしない。 そこでふいに思い出した。託生の嫌悪症はまだ完治しているわけじゃないことを。 以前に比べたら別人のように普通に近づけるようにはなったものの、それでもまだ必要以上の接触には躊躇する時がある。 誰かが口をつけたペットボトルにはまだ抵抗があるのだろう。 オレでもだめか、とやっぱり少し落胆してしまうのはしょうがないが、無理強いをするつもりはまったくない。 「待ってろ、コップ取ってくる」 「待って」 洗面所へと向かったオレを託生が引き止める。 振り返ったオレに、託生はほんの少し躊躇いながらも、 「一口だけ、貰ってもいい?」 と尋ねた。 「ああ、もちろん」 ペットボトルを差し出すと、オレの目の前で、託生は飲みかけのペットボトルに口をつける。 こくりと託生の喉が鳴り、オレは何故かあらぬ想像をしてしまって、いきなり襲ってきた衝動をやりすごすために大きく深呼吸をした。 「間接キス」 「え?」 わざとふざけた口調で言うと、託生はぱっと手の甲で口元を覆った。 「・・・くらいで嬉しくなっちまうくらい、ここんとこキスしてないなーとか」 「・・・っ」 「キスしよっか、託生」 両腕を伸ばして託生の肩を引き寄せる。 あの音楽堂の夜から、何度かキスをした。 だけどそれだけ。 それだけでも、オレには十分幸せなことには違いないのだけれど。 「好きだよ、託生」 うつむきそうになる託生の頬に手を当てて、触れるだけのキスをした。 やっぱり間接キスだけじゃ我慢できない。 ほんとは毎日だってこうして託生に触れていたい。 「ギイ・・・」 「うん?」 「・・・ぼくも・・好きだよ?」 どこか申し訳なさそうに言う託生の身体を、そっと抱き寄せる。 まだ腕の中でほんの少し身体を固くするのは嫌悪症のせい。 それでもちゃんとオレに好きだと言ってくれる。 ああ、オレ、いったいいつまで理性が持つんだろうか。 本気で心配になってきた。 5.「間接キス」 6. 「好きだよ」 と、何でもないことのように言って、ギイはぼくにキスをしてくれる。 ほんの少し唇が触れるだけの、どこまでも優しいキス。 たぶん、ぼくの嫌悪症を気遣ってくれているのだろう。 そんなギイの優しさが、ぼくには勿体ないような気がして、時々どうしていいか分からなくなる。 ぼくにはギイには言えないことがあって、ギイが優しくしてくれればしてくれるほど、そんな秘密を抱えたまま、彼のことを好きになっちゃいけないような気がしてしまう。 たぶん、嫌悪症だけじゃないんだ。 ぼくが一歩を踏み出せないでいるのは。 「あれ、まだ起きてたのか?」 浴室から姿を見せたギイが、ぼくがまだ起きていることに目を見開く。 「いつもこの時間だと熟睡してるのに」 笑って、ベッドに腰掛けるとタオルで髪を拭う。 「まだ眠くないんだ」 「ふうん。めずらしいこともあるもんだ」 確かにこの時間だと、いつもならベッドの中でぐっすり眠っているぼくだ。 だけど、今日一緒に街へ出かけて、食事をして、ギイの知る店をあちこち覗いて買い物して。 普通の友達がする普通の休日がすごく楽しかったから、まだちょっと興奮しているのかもしれない。 ギイとこんな風に一緒にいられるなんて想像したこともなかったから。 「今度、海見に行こうか」 ふいにギイが思い出したように言った。 「海?」 「日曜の朝一番に街へ出て、そこからバスで30分くらいだろ?まだちょっと寒いけど、気持ちいいぞ」 「うん、いいね」 「よし、じゃ次のデートは海だな」 「デートなんだ?」 「デートだろ?オレたち恋人同士なんだし」 当たり前のように恋人同士という言葉を使うギイ。 くすぐったくて、ぼくはただ笑うしかない。 ねぇギイ。 ぼくはきみに秘密にしていることがある。 それはたぶん、ぼくのことを好きだと言ってくれているきみのことを、ひどく傷つけてしまうようなことなんだ。ぼくはそのことで嫌われてしまうより、きみが傷つくことの方が怖い。 「釣りでもしてみるか」 「釣り?ギイって釣りもするの?」 「子供の頃やったかなぁ。まぁ何だっていいんだよ。託生と2人でのんびりしたいだけだから」 何の屈託もなく笑うギイ。 真っ直ぐにぼくに向けられる愛情が時々怖くなる。 ギイ、ぼくにはきみに話すことのできない秘密がある。 そんな秘密を抱えたまま、それでもきみはぼくを好きだと言ってくれるのかな。 秘密を知ってしまったあとも、きみはぼくを好きだと言ってくれるのだろうか。 6.「わだかまり」 7. 次のデートは海、と決めたものの、それからなかなか予定が合わなかった。 託生は意識してか無意識か、日曜日には何の予定も入れずにいてくれた。それをオレに言うことはなかったけれど、オレとのデートのためにそうしてくれているのかと思うと、本当に嬉しくて 「お前、顔が変だ」 と章三に指摘されるくらい、ニヤけて仕方なかった。 それなのに、オレはと言えば、あちこちからくだらない頼まれごとを持ち込まれ、学生生活を潤滑かつ平穏に過ごすためには無下に断ることもできず、結局託生との約束はずるずると後回しになってしまっていた。 「今度の日曜」 「え?」 「前から言ってたデートの約束、今度の日曜にしよう」 オレは託生に言い切った。このあとどんな問題が起こったって知るものか。 すると託生はちょっと困ったように視線を巡らせた。 「でもギイ、最近忙しそうだし、せっかくの休みなんだから無理しなくてもいいんだよ?」 「無理?お前、おかしなこと言うんだな」 恋人とのデートを無理してするはずなんてない。 オレの愛情、まだ託生には伝わってないのかなぁと思うと、少しばかり落ち込んでしまう。 「オレと出かけるのは嫌か?」 「嫌じゃないよ。でも・・・」 「でも、何だよ」 「ぼくばっかりギイのこと独り占めしちゃ悪いかなって」 「・・・・」 託生はふわりと笑うと移動教室へと向かって歩き出す。 オレは慌ててそのあとを追った。 「何で独り占めしちゃ悪いんだよ」 「え、だって・・・」 自分の考えていることをちゃんとまとめるのに時間がかかる託生のため、少しばかりの猶予をやる。 下手に問い詰めると、託生はさっさと逃げてしまうからだ。 すっかり話題は終わったのか、と思う頃になって、託生はようやく口を開いた。 「だってギイ、ギイはぼくだけのギイじゃないだろ?みんな困ったことや相談したいことがあるとギイのことを頼りにしてくるよね。そういうの、ぼくにしてみれば凄いことだなぁって思うんだよ。みんなギイのこと好きだから、っていうのもあるんだろうけど・・・。だからぼくだけがギイのこと独り占めしちゃ悪いかなぁって」 託生の言葉に、オレは思わず足を止めた。 (何でそんなこと言うんだ?) 客観的に見れば、それは褒め言葉なんだろう。 だけど、困ったことや相談ごとに、ちょっと有効なアドバイスができるからって、それがどれほど偉いっていうんだ? そんなの、オレが皆より少しばかり早く社会に出ていて、似たようなトラブルを経験したことがあるからだけじゃないか。 みんながオレを好きだからって、いったいそれが何なんだ? オレが欲しいのは託生だけなのに。 独り占めしたいって、どうして思ってくれない? そうする権利は託生にはあるのに。 どうにも我慢できなくて、オレは託生の手を引くと、人気のない教室へと引っ張り込んだ。 後ろ手に扉を閉めて、そこに託生の背を押し付ける。 「ギイっ?」 無性に寂しかった。 急がないって決めたのに。 どれだけ思っても、オレの気持ちは託生に届かないような気がして苦しくなる。 気がつけば託生を抱きしめていた。 瞬時に硬くなる託生の身体を感じて、可哀想だと頭では分かっているけどやめることができない。 首筋に顔を埋めて、大きく深呼吸をして託生の匂いを吸い込む。 「ギイ・・・離して・・・」 「・・・好きなんだぞ、託生?」 「・・・・」 「オレ、言ったよな?託生のことが好きなんだって」 「・・・う、ん」 ぴたりと密着した身体。耳元で震える託生の吐息。 (キスしたいな) そんなオレの邪まな考えは、頭上で響き渡るチャイムにかき消された。 弾かれたように託生がオレの身体を突き放す。 「ギイっ!!教室移動!!もうっ、遅刻しちゃうよっ」 がらりと扉を開けて託生があたふたと走り出す。 「え、おーい、ここで終わりかよっ」 「馬鹿なこと言ってないで、ほら早く!」 ダッシュで走り出す託生の後ろ姿に目を細める。 (いつまでも逃げられると思うなよ) 言っておくがオレの足は速いんだ。 どれだけ託生が逃げたって、絶対に追いついてみせるからな。 焦る託生を眺めながら、今はのんびりとそのあとを歩いた。 7.「密着」 8. 夕食時のトレイを受け取って、きょろきょろと食堂の中を見渡す。 一番の混雑時なので、簡単に空いた席を見つけることができない。 ただ一つ、食堂の隅に空いた席を見つけ、けれどその前の席に座っている人物を目にして、そこが空いている理由も何となく分かった。 「葉山託生か。ま、いっか」 僕はトレイを手に彼に近づいた。 「ここ、いい?」 声をかけると、ぱっと葉山が顔をあげ、そこにいるのが僕だと知ると、あからさまに驚いた表情をした。 混雑する夕食時の食堂で、空いてる席を見つけるのは困難だ。相席を申し込まれたら断らないのが祠堂でのルールとなっている。なので、葉山も、 「どうぞ」 と僕を促した。どうも、と言って、僕は席につく。 最近、葉山はたいていギイや赤池たちと一緒に食事をしている。 それはそれで近寄りがたい空気はあるんだけど、こうして葉山が一人で食事をしているところへも近寄りがたいんだろうなと思う。 何しろ去年まで、葉山はそりゃもう変人で有名で、自分から近寄りたいと思うヤツなんて誰もいなかった。 それが2年になって、ギイと同室になって、音楽堂での一件以来、何があったのかは知らないけれど、葉山は次第にそれまでの険が取れ、周囲とのコミュニケーションも取れるようになってきている。 それでも、去年までのことがあるので、まだ少し様子見という連中も多いのだ。 「えっと、高林くんが一人なんて珍しいね」 驚いたことに、葉山から話しかけてきた。 僕は箸を止めて、まじまじと葉山を見つめてしまった。 その視線に気づいた葉山が、ごめんとうつむく。別に食事中は黙って食べろなんてつもりはないので、僕は世間話の延長として返事をした。 「食事する時くらい一人がいいよ。いつもうるさい連中に囲まれてうんざりなんだ」 「ああ、親衛隊とか・・・?」 思わずといったように葉山がつぶやく。 親衛隊なんてもうどうだっていい。あんなの最初からうるさいだけだ。 「葉山こそ、ギイはどうしたんだよ」 この僕を振って、ギイは葉山を選んだ。 最初は信じられなかったけれど、最近の葉山を見てると、まぁいいかという気になってくるから不思議だ。 「ギイは、今日は何か・・用事があるとかで・・・」 「ふうん。で、どうなのさ」 「え、どうなのさ、って何が?」 「付き合ってるんだろ?」 「・・・・っ!」 葉山は笑ってしまうくらいあからさまに動揺して、口にしていたブロッコリーを喉に詰まらせかけた。 「ドジ」 「・・・っ、・・って」 げほげほと咳き込む葉山に、お茶を差し出す。 「あ、ありがと」 「そんなに驚くようなことかな。だいたいその事実を僕が知らないはずないだろ」 「あ、ああ、うん・・・そうだね・・・」 ギイが葉山のことを好きなのだと知って、僕はそれが許せなくてあんなことをしたのだから。 もっとも、今はギイよりもずっと大切な人ができたから、ギイが誰と付き合おうと何とも思っちゃいない。 「で、どうなのさ、ギイとは」 「え、っと・・・仲良くしてる・・・けど」 何だって葉山はこんなとんちんかんな答えをするんだろう。それともわざとなのかな。 この高林泉を誤魔化そうなんていい度胸だ。 「あのさ」 「え、な、何?」 いちいちビクつくなよ・・・と思ったけれど、まぁ音楽堂のことがあるから、それも仕方ないかと思い直した。 あれは確かに僕が悪かったんだし。 「だからさ、葉山、もうギイとはしたの?」 「したって、何を?」 「キスとか」 「・・・・っ!!!」 「その先とか?」 こっちは真剣に聞いているというのに、葉山は見ていて笑えるほど赤くなってうろうろと視線を彷徨わせた。 すぐにでもこの場を逃げていきそうな空気に、やれやれと溜息をつく。 「僕、おかしなこと聞いた?」 「いや、おかしなことっていうか・・・」 「どうなのさ」 「あの・・・そういうの・・人に話すことじゃないと思うんだけど・・」 意外にも葉山ははっきりと自己主張してきた。 いや、嫌なことへの自己主張は得意なんだっけな、こいつは。 「じゃ葉山とギイのことはいいや。どうせ、あのギイが何もしてないってことないんだろうし」 「・・・」 「葉山ってさ、男同士でそういうことするのってどう思ってんの?」 吉沢のことを好きになって、いずれそういうこともあるんだろうなって想像はしてるけど、だけどまだちょっと踏ん切りがつかないところがある。 嫌とかそういうんじゃなくて・・ 「怖いとか思ったことないの?」 葉山は僕の言葉に一瞬目を見開いた。 馬鹿なこと言ったかな、と僕は素直に気持ちを吐露したことをちょっと後悔した。 こんなこと葉山に言ってどうするつもりだったんだろう。だけど、同じような立場の人間って葉山しか思いつかなかったしな、と自分に言い訳をしてみる。 葉山はぱちんと箸を置くと、小首を傾げて僕を見た。 「ギイのこと、怖いなんて思ったことないよ」 「・・・まぁそうだろうね」 いや、聞きたいのはギイ自身のことじゃなくて、ギイとする行為っていうか・・・。 ずばりセックスのことだったのだが、葉山相手じゃ遠まわしには伝わらなかったか。 葉山は少し僕へと身を乗り出すと、周りに聞こえないくらいの小さな声で静かに言った。 「あの・・・高林君、確かに、そういうことって男同士だと普通じゃないかもしれないけど、好きな人とすることなら・・・あの・・・普通、だよね?相手のこと欲しくなるのって」 この爆弾発言には正直驚いた。 葉山の口から「欲しくなる」なんて言葉が出てくるなんて。 もしかして、葉山って僕よりもずっと腹が据わってるのかもしれない。 怖いもの知らずなのは、まぁ前からだもんな。 「ふうん、そっか。そうだよねぇ、葉山にも性欲あったんだ」 「えっ!」 「別に普通だろ?」 「ああ、うん・・・そ、だね・・」 あまりにも居たたまれない様子で葉山が顔を赤くして俯くものだから、さすがにこれは可哀想だと思って、僕は食べ終わったトレイを手にして立ち上がった。 「ギイはいいよね、葉山がちゃんとそう思っててくれてさ」 「高林君・・?」 「じゃまた」 このこと吉沢には内緒と口止めしないとだめかなと足をとめ、しなくてもいいかと思い直す。 あの様子じゃ僕にそんなこと聞かれたなんて、絶対に言えなさそうだしな。 葉山の助言で、ほんのちょっと気持ちが楽になったような気がして、これからも何かあったら聞いてみるかな、と僕はいい遊び相手を見つけた気分で食堂をあとにした。 8.「爆弾発言」 9. 約束の日曜日がやってきた。 ギイは満面の笑みでぼくを叩き起こして、早々に朝食を済ませると、朝一番の街へと出発するバスにぼくを乗せた。 「まだ眠い」 「眠ってていいぜ、ほら肩貸してやるからさ」 ギイのありがたい申し出は、礼を言って断った。 まだ少ないけれど、同じ祠堂の生徒もバスには乗っていて、それでなくてもぼくとギイが一緒に座っているというだけでも興味津々でちらちらと見られてしまうのだ。 ギイの肩を借りて眠ったりしたら、ぼくは明日から学校を無事には歩けない。 「いい天気になって良かったなぁ」 窓の外を眺めて、ギイが嬉しそうにつぶやく。 海へ行くというのに雨だとさすがに厳しいしな、と笑うギイに、ぼくはそうだねとうなづいた。 そういえば海へ行くのなんて何年ぶりだろうか。 兄さんの身体が丈夫じゃなかったから、小さい時でも海へ泳ぎに行くなんてことはなかった。 せいぜいプールくらいだった。 ギイも海で泳いだりしたのかな? 色が白いから焼けたりしたら大変そうだよなぁ、と勝手に小さいギイを想像していると、 「何笑ってんだよ?」 と、隣のギイがぼくの顔を覗きこんだ。 「ううん、何でもない」 「嘘つけ。白状しろよ」 「だから何でもないって。海、楽しみだなって思ってたんだよ」 これは嘘じゃない。 どういうわけか、ギイはぼくの言うことが本当かそうでないのかはすぐに分かるらしい。 嘘じゃなくても、遠慮して言ったこととか、そういうのにギイはすごく敏感で、ぼくが本心を偽りなく言葉にするまでいろいろと聞かれてしまうことがある。 「オレにおかしな気遣いする必要ないからな」 と、付き合い始めてすぐに言われた。 そんなつもりはなかったけれど、1年の頃、ずっとギイのことを遠くから見ているだけだった癖が抜け切れていないのかもしれない。 ギイはぼくにとっては手の届かない人だった。 それなのに今はこうして一緒にいる。ぼくのことを好きだと言って、笑ってくれる。 不思議だなと思う。もうこの先、楽しいことなんて起こらないだろうって思っていたのに、人生は何が起こるか分からない。 それなのにぼくはまだ、いつかギイがぼくのそばからいなくなるんじゃないかと、どこかで思っている。 それは、今まで感情を殺して生きてきたぼくの悪いくせだ。 そんなのギイに悪いって分かってるのに・・・。 やがて隣のギイが腕を組んだままうつらうつらとし始めた。バスの揺れというのは、妙に眠気を誘うのだ。 朝早かったし、眠くもなるよな、とぼくも目を閉じて、街に着くまでの時間、夢の中で過ごした。 駅前のバスステーションでバスを乗り換える。 この時期、特に観光地でもない海辺へと行く人はほとんどいなくて、バスの中ががらがらだった。 もちろん祠堂の生徒など一人もいない。 「赤池くんとも海に行ったことあるの?」 素朴な疑問をぶつけてみると、ギイは何で?と疑問いっぱいの表情になった。 「だって、仲いいし・・・」 「いくら仲が良くたって、託生、ヤロー2人で海へ行っても楽しくない」 「あのさ、ぼくも男なんですけど」 「託生は恋人だろ?」 「・・・恋人だと楽しいの?」 思わず聞き返すと、ギイは呆れたようにぼくを見て溜息をついた。 「あのなー、海に限らず、託生と行くならどこでも楽しいんだよ。当たり前だろ?」 「そっか」 「そっか・・って、あーあ、託生と話してると、オレの常識が覆されるな」 くすくすと笑ってギイがぼくの頬を摘む。 「失礼だな、ギイ」 「ま、そういうところが好きなんだけどさ」 「・・・・」 さらりと恥ずかしいことを言って、ギイはそっとぼくの手を握った。 以前のように触れられただけで肌が泡立つような嫌悪感は沸かなくなっていた。ただその瞬間、少しだけどきりとするだけだ。 「誰もいないからさ」 「・・・うん」 バスの後部座席。運転手からだってぼくたちが手を繋いでいることなんて見えないだろう。 しばらく走ると、やがて短いトンネルを抜けた先に海が見えてきた。 身を乗り出すようにして窓の外を眺める。 キラキラと春の光を浴びて眩しく煌く海に、ぼくは目を凝らした。 ほんのりと潮の香りがしてくる。 バスを降りると目の前には大海原が広がっていて、ぼくは思い切り大きく深呼吸をした。 「うわー、気持ちいい」 まだ空気は少し冷たいけれど、それさえも心地いい。 ギイも同じように大きく伸びをして髪を乱す風に目を細めた。 砂浜へと続く階段を降ると、足元がさくっと柔らかな砂に埋もれる。 犬の散歩をする人がちらほらといるだけで、まだ泳ぐには早すぎる海へ遊びにくる物好きはいないらしい。 ぼくは歩き出したギイの後ろをついて歩いた。 こんなに綺麗な海がすぐ近くにあるなんて知らなかった。 ギイは何も言わず、ポケットに手を入れて先を歩いていたけれど、ふと何かに気づいたかのように振り返った。 「託生、寒くないか?」 「え?」 ギイは着ていた薄手のウィンドブレーカーを脱ぐと、ぼくへと着せかえた。 「ギイだって寒いだろ?」 「オレは平気。座ろっか」 並んで砂の上に腰を下ろして、波の音に耳を傾ける。 綺麗だなぁとぼんやりと思った。 そっと横に座るギイを見ると、ギイもぼくと同じように海の彼方を見つめている。 「そっか」 「うん?」 「あの海の向こうにはギイの故郷があるんだよね」 アメリカからきたギイ。 この海はギイの国まで続いている。 「帰りたいって思ったことはない?」 「ん?アメリカに?」 「そう」 「そうだなぁ、別に母親が恋しいって歳でもないし、休みにはほぼ強制的に帰国させられてるからなぁ」 強制的?その意味がよく分からないでいるぼくの頭を、ギイがくしゃりと撫でた。 「オレは、託生がいるなら、どこへも帰りたいとは思わないよ」 「・・・・」 ギイの指がするりとぼくの頬を滑り落ち、耳をくすぐり、首筋に回される。 引き寄せられそうになって、ぼくは慌ててギイの肩に腕を張った。 「ダメだよっ」 「ちぇっ」 「もう、こんな所で何考えてるんだよ」 ぼくが文句を言っても、ギイはちっとも反省した顔は見せずに楽しそうに笑うばかりで、そんなギイを見ていたら、怒っているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。 ギイは、はーっと息をつくと、 「こんな風にさ、ずっと一緒にいたいって思ってる」 と、真っ直ぐに前を見たままつぶやいた。 「託生のことが好きだから、こんな風にいつも隣にいたいって思ってる。託生は?」 「ギイ・・・」 「ホントの気持ち、教えてくれよ」 何度も何度も、ぼくに好きだと言ってくれるギイ。 なのに、逃げてばかりいるぼく。 手のひらで救い上げた砂は指の隙間から零れていく。 こんな風に幸せを手の中に掴んでも、いつかなくなるんじゃないかと、ぼくは心のどこかで思っている。 だけど、もしかしたらギイの思いはこの砂浜にある砂のように、零れても零れても、無くなることなんてないのかもしれない。 「ギイ、ぼくは・・・」 「・・・・」 「ぼくは・・・ギイのことが好きだよ・・・」 ギイは振り返ることなく、真っ直ぐに海を見つめている。 小さな声は、波の音にかき消されてしまったのかもしれない。 どうしよう、ちゃんとギイに伝えないといけないのに。 ぼくは一呼吸のあと、迷うことなく大切なことをもう一度告げる。 「ぼくはギイが好きだよ」 ねぇギイ、ちゃんと聞こえた? 9.「ホントの気持ち」 10. 「いいのかなぁ」 「何が?」 2人で手を繋いでゆっくりと砂浜を歩く。 初めて2人でこの砂浜を歩いたのは1年も前のことだ。 あの時はまだ付き合い始めたばかりで、ぼくはギイからの思いにどう応えたらいいか分からなくて、ギイに誘われてあちこち出かけるたびに、ドキドキしていた。 今、ぼくたちは無事3年に進級して、ギイは階段長に就任した。 春休みが終わって、ギイがそれまでは別人のようになってしまったことで、ぼくは嫌悪症が再発してしまった。 もちろんすぐに誤解だと分かって、今日はその仲直りのデートに誘われたのだ。 ギイがデートに選んだのは、1年ぶりのこの海辺だった。 春の海は、1年前に訪れた時よりもまだ肌寒く、あの時よりも人気がない。 ギイは誰もいないのをいいことに、ぼくの手を繋いでゆっくりと波打際を歩いた。 「誰かに見られないかな」 「誰もいないよ。寒いか?」 「大丈夫だよ、ギイ、前も同じこと聞いてくれたよね」 上着まで貸してくれたギイを思い出してつい笑ってしまった。 ぼくの手を引いて前を歩くギイは、1年前よりずっと背が高くなって、この春からは髪も短くなって、別の意味で別人になってしまっている。 だけど、こうして繋ぐ手の温かさは変わらない。 「あの頃さ・・」 「え?」 ギイがつと足を止めて、ぼくを振り返る。 「初めてここに来た時のこと、覚えてるか?託生」 「うん、覚えてるよ。天気が良くて、気持ちのいい日曜日だった」 今日もあの日に負けないくらいの晴天だ。 海の色も、波の音も何もかもがあの時のままだ。 だけど、ぼくたちの関係はあの時と同じようで、少し変わった。 名ばかりの恋人から、本当の恋人へ。 ああ、でもぼくのギイに対する気持ちは同じかな。口に出さなかっただけで、今と同じように、あの時もギイのことでいっぱいだった。 「あの頃、託生の気持ちがオレにあるって自信が持てなくて、いっつも不安だった」 「ギイが?」 「そうだよ。お前もいつも不安そうにしてた」 「そうかな・・・ああ、うん、そうかもしれない。あの時はまだ、ほら・・兄のことをギイに言えなくて・・・言えないでいることも辛かったし、もし打ち明けたらギイに嫌われるんじゃないかって思ってて、だけどギイのことどんどん好きになっていくし、どうしたらいいか分からなくて、ぐるぐるしてたな」 正直に言うと、ギイはそっか、とうなづいた。 「友達以上恋人未満みたいな感じだったよな、あの頃のオレたち」 ギイがぼくの肩に腕を回して引き寄せる。 「そうかもね」 「今はちゃんと身も心も恋人同士だもんな」 耳元で囁かれ、ぼくはギイの脇腹を肘鉄して押し返す。 「いてっ」 「もう、真顔でそういうこと言うなよ」 「だって本当のことだろ?・・・座ろう、託生」 砂の上に座り、ギイは長い足を投げ出した。ぼくもその隣に座って、ギイに倣った。 2人してしばらく黙って海を眺めていた。 1年前と同じ。あの時と同じように、ぼくの隣にはギイがいる。 今ぼくは、あの頃からは考えられないくらい、ギイのことを大切に思っている。 もう二度とこんなに好きになる人とは巡り合えないんじゃないかと思うくらいに。 だから共犯者になってもいいって、そう思った。 「託生」 「え?」 振り向くぼくに、ギイは掠め取るようなキスをした。 「ちょっと、ギイ!」 「いいじゃん。誰もいないし、あの時できなかったし」 悪びれることなく、ギイが笑う。 「恋人未満でもさ、楽しかったな」 何かを思い出すように、遠い目をしたギイがぽつりと言った。 「毎日毎日、どうやって託生に近づこうかなぁとか、どうしたら抱きしめることができるかなぁとか、どうしたらキスできるかなぁとか」 「ギイ・・・」 「何を言えばお前は笑うんだろう、何を言えば喜んでくれるんだろう、何をすればオレのこともっと好きになってくれるんだろうって・・・毎日そんなことばかり考えてた」 「・・・・」 「片思いの延長みたいな関係だったけど、あの頃は辛いなんてちっとも思わなかった。オレたち2人の未来は明るいって信じてたからな」 ギイがそんな風に思っていたなんて知らなかった。 いつも飄々として、自信満々で、馬鹿なことを言ってはぼくを笑わせて。 だからぼくは何も考えずに、ただギイのことを好きでいられた。 だけどもう、それだけじゃダメなことも分かってる。 「ギイが好きだよ」 「うん?」 「1年前よりもずっと、ぼくはギイが好きだ」 「何だよ、突然」 「だって、あの時、ちゃんとギイに伝わってなかったみたいだから」 波の音にかき消された告白。 あの時のぼくの精一杯の告白。 ギイはぼくの言葉に、くすっと笑った。 「ちゃんと聞こえてたよ。託生の告白は」 「え?」 「あの時も、オレのこと好きだって、言ってくれたよな」 「だって・・・ギイ・・・」 聞こえてたようには見えなかった。ぜんぜんぼくの方も見なかったし、返事もなかったし。 だからぼくは恥ずかしさに何とか耐えることができたのに、聞こえてたなんて!!! 「ずるい、ギイ」 今になってぼくは恥ずかしくなってきた。 「だって託生、お前、すっげ赤くなってて、いたたまれないような感じだったしさ、オレ、めちゃくちゃ嬉しかったけど、ここで何か言ったら、お前が逃げ出しそうだったから、聞こえないふりするしかなかったんだって」 「・・・・じゃあずっと聞こえなかったことにしておいてよ」 ほんとにもう、意地が悪いんだからな、ギイは。 くすくすと笑い続けるギイの肩を強く押すと、ギイはその場にごろんと寝転がった。 「砂だらけになっちゃうよ、ギイ」 「払えば落ちる。・・・なぁ託生」 「なに?」 「未来のオレたちは、今よりもっと幸せになってるよな?」 「・・・・」 「今よりもっともっと、もうお腹一杯っていうくらい、幸せになろうな」 そう言って、ギイがぼくを見つめる。 大好きな薄いブラウンの瞳に見つめられて、ぼくは小さくうなづいた。 (幸せになろう、絶対に) それはぼくたち2人の無言の約束。 この先何があったとしても、ぼくたちは一緒に幸せになる。 約束の印、と言って、ぼくはギイへと身を屈めてその白い額にキスをした。 「・・・おい、普通唇じゃないのか?」 不満気なギイの鼻をむぎゅっと摘む。 「誰か見てたら困るだろ」 「でこちゅーだって同じだろうが」 あれ、そうなのかな?・・・うん、そっか、これはちょっと恥ずかしいの、かも? 一人で反省しているぼくの服の袖を、ギイがなぁなぁと引っ張ってくる。 「ついでにちゃんとキスして、託生?」 「ダメ」 「ふうん、じゃ奪うことにする」 「えっ」 強く肩を引き寄せられて、ギイの上へ覆いかぶさるように倒れこんだぼくに、ギイはキスをした。 逃げようともがくぼくの背中に両手を回して、ギイはぎゅっとぼくを抱きしめる。 「ごめんな、託生」 「何が?」 「いろいろ。寂しい思いさせることになって」 「・・・平気だよ」 寮へ帰ればただの友達のふりをしなくてはいけない。 たぶんぼくが思っている以上に、それは寂しいことなのかもしれない。 だけど、きっとぼくは大丈夫。 今よりもっと幸せになろうとギイが言ってくれるから。 それは嘘じゃないって知ってるから。 「だってギイ、ぼくたちはもう恋人未満じゃないんだろう?だったら何も不安になんて思うことはないよ」 「ああ、そうだな」 ギイの胸に頬をつけて目を閉じる。 聞こえてくるのは春の海の波音。 ぼくたちは2人して、ずっと黙って心地いいその音を聞いていた。 10.「ふたりの未来」 |