幸福論


白を基調としたすっきりとした部屋だった。
余計なものがなくて、隅々まで綺麗に掃除が行き届いている。そのきちんとした雰囲気が祠堂の寮の部屋を思い出させて、ぼくは何だか懐かしくなった。
所々に小さくて可愛い小物が置かれているのはきっと奈美子ちゃんの趣味だろう。
カウンターには花が飾られていて、それほど広くはない部屋だけれど、すごく居心地がよくて、二人が幸せな時間を過ごしていることはすぐに分かった。
女の子がいるのといないのとではこんなに違うんだなぁとしみじみと思った。
何だかいい匂いがするし、柔らかい空気が漂っているような感じがする。
ぼくとギイが暮らす部屋は、ギイの趣味でほとんどモノはなくて、ましてや可愛いものなど少しもなくて、時折遊びにくる友達が、そのシンプルさに驚くほどだ。
でも少しも気にならないのは、やっぱり男だけの家だからなのだろうか。
テラスへと続く窓は開け放たれていて、心地よい風が抜けていく。
ふわりと膨らむカーテンを端へと寄せて、ぼくはテラスに用意された4人掛けのテーブルセットを眺めた。
そういえば昔、祠堂の仲間たちとバーベキューしたことがあったなと思った。
あの時、ギイは行方知れずの状態で、たぶんあまり元気のなかったぼくを気遣って、皆が遊びに連れ出してくれたのだ。免許を取ったばかりの矢倉がレンタカーを借りて、章三も一緒にキャンプ場へと繰り出した。
章三以外はみんな料理なんてしたことないから、すっごく適当なバーベキューで、結局見かねた章三が一人でずっと料理を作ってくれていた。
今日は奈美子ちゃんがいることだし・・・けどやっぱりあれこれと手を出したりするのだろうか?
「じゃあ託生、ちょっと行ってくるから」
ギイの声に振り返る。
「ああ、うん。行ってらっしゃい」
見送りに玄関へと向かうと、キッチンから奈美子ちゃんも顔を出した。
「章三くん、いつものお店にケーキ頼んであるの。忘れずに貰ってきてね」
「分かった」
「ほんとにぼくは行かなくていいの?」
しゃがんで靴紐を結ぶ章三の背に声をかけると、
「ギイがいるからいい。どうせいつもデスクワークなんだろ?たまには力仕事させた方がいい」
と、あっさりと言われてしまった。
「バイオリン弾きに重い荷物なんて持たせられないだろ?」
玄関の扉を開けて章三を待つギイが、いつものように優雅にウィンクなどしてみせる。
まぁ久々に再会した相棒たちの邪魔をするつもりはないけどね、とぼくはうなづいてみせた。
「じゃあな、葉山。奈美の話し相手よろしく」
「了解しました」
すぐ戻るよ、と言って、ギイと章三は連れ立って出て行った。

章三と奈美子ちゃんが結婚したのは、ぼくがギイと一緒に暮らすためにアメリカへ渡ってからしばらくしてのことだった。
いつでも新居に遊びにきてくれと言われていたのに、やはりアメリカからそうそう簡単には日本へ戻ることもできず、今日、ようやくギイの仕事での来日にあわせてぼくも一緒に日本へと戻ることができたのだ。
二人が結婚してからもう半年が過ぎていた。
ギイはここぞとばかりに休暇をもぎ取り、章三の休みに合わせてやっと新居訪問ができる運びとなった。
見送りを終えたぼくががリビングへ戻ると、カウンターキッチンの向こうから奈美子ちゃんが声をかけてきた。
「ごめんね、葉山さん。ビール買うのすっかり忘れてたの。食べるもののことばっかり考えてて」
「ううん、こっちこそ忙しくさせてごめん。ほんとにそんなに気を使わなくて良かったのに」
「ぜーんぜん。バーベキューなんて材料用意すればいいだけだから。ちょうど気候もいいし、外で食べるのも気持ちいいかなぁって。雨が降ったら章三くんが久々に腕を振るう予定だったんだけどね」
ぼくたちが章三宅に着くと同時に、章三がちょっと買出しに行くから付き合え、とギイを誘った。
聞けば先ほど奈美子ちゃんが言った通り、アルコール類を揃えておくのをすっかり忘れていたというのだ。
テラスで簡単なバーベキューでもしようというのに、アルコールがないのはさすがに物足りない。
近くの大型スーパーまで付き合えという章三に、ギイはしょうがないなぁとため息をついた。
そんなギイに章三はニヤリと笑った。
「アルコールなしでいいなら別にいいが」
「それはない。バーベキューするのにビールがないなんてあり得ないだろう」
そんなわけで、二人は連れ立って買出しに行ってしまったのだ。
奈美子ちゃんの話し相手でもしててくれ、なんて言われたけれど、何か手伝った方がいいのかなぁ、とぼくはキッチンの入口に立った。
「何か手伝えることある?」
「ううん、大丈夫、もうほとんど下ごしらえも出来てるし、座ってて」
「あー、うん」
まぁあれこれ頼まれてもできないことの方が多いから、ぼくは奈美子ちゃんの言葉に甘えることにした。
ソファに座って、見るともなく部屋の中を見渡した。
建物に入る前はずいぶんと古い建物だなぁなんて思ったのだが、中はとても綺麗だった。
リフォームしたのかな?なんて思ってると、その疑問を見透かしたように奈美子ちゃんが言った。
「ここ、築年数はけっこういってるんだけど、全面的にリノベーションできる物件だったの。章三くんが一目で気に入っちゃって。ほら、章三くんそういうの大好きでしょ?自分であれこれ設計できるし」
「ああ、そっか。最近そういうの流行ってるんだよね」
テレビで見たことがあるな、と思い出した。
「おかげでいろんなところ使いやすくなって助かったけど」
「建築士だもんね、赤池くん」
「そうそう。将来的には自分の家を自分で設計したいって」
「すごいね」
祠堂にいた頃から建築家になるのが夢だと言っていた章三は、着々とその夢を叶えつつある。
章三らしいといえば章三らしいんだけど、自分で目標を立てて、ちゃんとその夢に向かって勉強をして力をつけていく姿には、いつもすごいなぁと感心するばかりだ。
「葉山さんたちは、いつまで日本にいられるの?」
「えっと、ギイの仕事が来週いっぱいあるから、それまでは、かな」
「そっか。久しぶりの日本でしょ?実家のご両親も喜ばれてるんじゃない?」
うーん、それはどうだろうか。口には出せないので、ぼくは内心首を捻った。
さすがに帰国してるのに顔を出さないわけにもいかないので、来週実家に帰る予定はしているものの、果たして喜んでくれるかどうか。
何しろ、アメリカへ行くときに一悶着あって、正直友好な親子関係とは言い難いのだ。
奈美子ちゃんはこのあとのバーベキューの準備が終わったのか、シンク周りを綺麗片付けると、カップボードを開けた。
「葉山さんは紅茶とコーヒーとどっちがいい?」
「あ、じゃあ紅茶を。ありがとう」
立ち上がってダイニングテーブルの席につく。
テーブルの上にも白い花が飾られている。あの章三がこういういかにも新婚さんちっくな場所でいったいどういう顔をして過ごしてるんだろう、と思うと楽しくなってきた。
もちろんあの章三相手にからかうなんてことはできないんだけど、きっとギイあたりは面白がってあれこれとからかうに違いない。
「赤池くんって家事万能だし、いろいろ手伝ってもらえるんじゃない?」
「と思うでしょ?でも結婚した時に家のことは任せるからって宣言しちゃったのよ。もちろん何もしないってことじゃないのよ?お休みの時はいろいろ手伝ってくれるんだけど、でも基本的には私がすることに口出ししないっていうか。まぁ細かいことは言わないでいてくれるから助かるんだけど」
「赤池くんらしい」
いろんなことをきっちりとする章三だけど、それを他人に強要することはしない人だ。
「お料理とか章三くんも上手でしょ?ほんとはいろいろ駄目出ししたいんだろうなーって思うけど」
「そんなことないと思うよ。奈美子ちゃんもお料理上手だって聞いてるし」
ほんとに?と奈美子ちゃんはくすくすと笑う。
「でも駄目なところはちゃんと言ってくれた方が上達するでしょ?だからもっとがんがん言って欲しいなって思うんだけどね」
「え、赤池くんにがんがん言われたら、ぼくなら心が萎れそうだな」
祠堂にいた時から今に至るまで、相変わらず章三からは何かあるたびに容赦ない突っ込みが入る。
それはもちろんギイに対しても同じで、世界広しと言えど、ギイに駄目出しできる友達なんて章三くらいなものだろう。
とは言うものの、二人ともそういうやり取りを楽しんでいる節があって、昔は辛辣なやり取りにドキドキしたものだけど、今では「またか」というくらいの気持ちで見ていることができる。
もう10年近くの付き合いなのだから、当然といえば当然なのかもしれない。
「だけど、意外だったなぁ、赤池くんなら自ら進んで家事とかしそうなのに」
何しろ祠堂では一日2回は掃除をしていた男だ。人に任せるよりは、自分でやりたいタイプなのかと思っていたのだが。
「たぶん、嫌いじゃないとは思うけど・・・」
奈美子ちゃんはポットとカップをテーブルに並べると、自分も向かい側の席に座った。
そして少し考えたあとに言った。
「章三くんて、小さい時にお母さんを亡くしてるでしょ?」
「うん」
「それからずっと家のことやってて、ほらおじさんがあんな人でしょ?おじさんの代わりに自分がちゃんとやらなきゃって思ってたと思うのよね。まぁ元々得意だったこともあるから苦になるほどじゃなかったとは思うんだけど」
そう言えば、章三はもの心ついた頃から母親が入院していて、家のことはもちろん父親の面倒まで見ていたって聞いている。まだ自分が親に甘えたい盛りの頃に、そんな風に自立しなくてはならないというのはどういう感じなのだろうか。
ぼくもあまり親には構ってもらえなかったけれど、それでも食事や掃除洗濯を自分でしていたわけではない。自分が10歳の頃のことを考えると、一人でそんなことはきっとできなかっただろうなと思う。
一人暮らしをして、家事をするようになって初めて、その大変さを実感として知ることができた。
それを、章三は子供の頃から当たり前のようにしていたのだと思うと頭が下がる。
「章三くん、家事は苦手じゃないし苦労だなんて思ってなかったかもしれないけど、たぶん、家の中に女の人がいて、ちゃんと身の回りのことをしてくれるっていう日常に憧れてる部分があるんじゃないかな。そんなこと言わないけどね」
「そう感じる?」
「そうね。一緒に買い物に行ったり、私が家のことちょっと頼んだり、当たり前のように一緒にご飯を食べて、馬鹿馬鹿しいバラエティ番組を見て大笑いしたり。普通の家庭の普通の日常だけど、たぶん、章三くんにとってはずっと憧れてた場面なのかなって。ほんとは何でもできちゃうのよ、章三くんて。だけど私に家のことは任せるって。何も知らない人が聞いたら亭主関白で時代錯誤みたいに聞こえるかもしれないけど、そうじゃないの。ただ小さい頃の失ったものを、もう一度手に入れたいんじゃないかなって思うの。きっと無意識のうちだとは思うけど」
奈美子ちゃんの言葉に、ぼくは少なからず心を打たれていた。
昔から・・少なくともぼくが章三と親しくなってから知る彼は、いつも凛としていて、あまり物事に動じず、友達思いで、時々厳しいけれど、だけど彼のアドバイスはいつも正しくて。だから章三は、もしかしたらギイよりもずっと強い人なんじゃないかと思うこともあった。だけどそんな彼にも満たされない何かがあったのだ。
口にも態度にも出さないし、酔った勢いであってさえそんな話をしたことはなかった。
だから知らなかった。知ろうともしなかった。
だってぼくからすれば、章三は何でもできる強い人のように思えていたから。
けれど、ぼくが親の愛情を求めていたように、ギイが本当の自分を見てくれる人を求めていたように、章三にも求めているものがあったのだ。
それを、奈美子ちゃんが差し出した。
「奈美子ちゃんて、赤池くんのこと、すごく好きなんだね」
「え、やだ、葉山さんてば目が潤んでる」
指摘されて、確かに少しばかり涙腺が緩んでることに気づいて、慌てて目元を拭った。
「あー、いっつもギイにからかわれるんだよ。いくつになっても泣き虫だって。いい年してみっともないだろ?」
「ううん、そんなことない」
「奈美子ちゃんが赤池くんのことすごく好きで、ぼくたちじゃ気づかないようなことを全部分かってるんだなぁって思ったら、何だか感動しちゃったんだよ。ほら、ぼくなんていつも赤池くんに助けてもらってばかりで、赤池くんのために何もできてないなぁって思うから」
ぼくの言葉に、奈美子ちゃんはぱちぱちと瞬きをした。
「ぜんぜんそんなことないと思う。章三くん、葉山さんからはきっといろんなものを貰ってるんじゃないかな」
「いろんなもの?」
ぼくが章三にあげられるものなんてないと思う。何かにつけて、章三から貰ってばかりのような気がする。
祠堂にいた頃も、ギイが突然消えてしまって会えなかった時も、力になってくれたのはいつも章三だ。
ギイと再会して、やっぱりいろいろと困難なことはあったけど、どんな時でも章三だけはぼくたちの味方だった。
ぼくはいつでも章三から力づけられている。
そんな章三にぼくはいったい何をあげられたというのだろうか。
奈美子ちゃんは考え込むぼくに、ちょっとはにかんだような笑みを浮かべて言った。
「だって、章三くんが結婚しようって決めたのって、葉山さんの言葉がきっかけだったって聞いたような気がするもの」
「ぼくの?」
章三に結婚を勧めるような話、したことないんだけどなぁ、と頼りない記憶を辿ってみる。
「私も詳しく聞いたわけじゃないんだけど、私と章三くんも付き合って長かったでしょ?いつでも結婚できたけど、かえってそういう方がタイミング掴めなくて。でも章三くんの背中を押すようなことがあったんじゃないのかな、それが葉山さんの言葉だったみたい」
「へぇ」
「葉山さんがアメリカへ行く頃だったと思うんだけど」
奈美子ちゃんがカップに紅茶を注いでくれる。
アメリカへ行く頃、章三といったいどんな話をしていただろうか。ギイみたいな優秀な記憶力はないので、その頃どんな話をしていたのかさっぱり思い出せない。
「ねぇ、ちょっと聞いてもいい?」
奈美子ちゃんが少し躊躇いがちにぼくを見る。
「なに?」
「葉山さんは、アメリカに行く時に反対されなかったの?」
「え?」
「ご両親に」
「ああ・・・」
たぶん章三はそういうことを奈美子ちゃんには話さないだろうから、やっぱり気になるよね。
別に隠すことでもないので、正直に話すことにした。
「まぁ手離しで喜んだりはしなかったかな」
もしぼくとギイが普通の男女のように結婚をしてアメリカに住むということなら、きっと話はもっと簡単だっただろう。
だけど、あいにくとぼくもギイも同じ男で、過去の経緯からして、やっぱり話はそう簡単にはいかなかった。
アメリカに行くことよりも、それ以前にギイと付き合っていること自体、両親にしてみれば歓迎できる
ことではなかったのだ。当然と言えば当然だ。
「ぼくは、もともと両親とはあまり上手くいってなくてね」
「・・・」
「ギイと出会った頃、ぼくは誰にも心を開けずにすごく嫌な人間だったんだよ。自分でもそんな自分が嫌で、でもどうすることもできなくて。だけどギイのおかげで、ぼくはもう一度誰かを信じてみようって気持ちになれた。ぎくしゃくしてた両親との関係も改善できないかなって思えるようにもなった。今思えば、お互い相当無理をしてたんだとは思うけど、それなりに普通の親子っぽくもなれた。でも、ギイとのことが知れた時に、またちょっと揉めて。いや、ちょっとじゃないな、めちゃくちゃ揉めた」
「ごめんなさい、あの・・話したくないでしょ・・」
奈美子ちゃんは自分から振った話だったからか、申し訳なさそうに小さく言った。
「そんなことないよ」
笑うと、奈美子ちゃんはでも、と口ごもる。
過去のことはぼくの中ではもうある程度消化できていて、かといって楽しい話でもないので、話さないだけだ。ギイとの付き合いに関して、ぼくは疚しいことも恥ずかしいことも何もないし、奈美子ちゃん相手に昔話をするくらいはどうということはない。
「ギイがぼくとの仲を許して欲しいって何度も両親のもとへ足を運んでくれて、だけど平行線で。そういうのが続くと、ぼくもギイもやっぱりストレスが溜まって喧嘩もよくするようになって」
「崎さんと葉山さんが喧嘩するところなんて想像できないんだけど」
「そう?つまらないことではしょっちゅう喧嘩してるよ?でもさすがにあの時は、相手がぼくの両親ってこともあって、ギイも大っぴらには愚痴も言えないだろ?ぼくにしてみれば考えてることをちゃんと言ってくれた方が言い返したりもできるんだけど、ギイは何も言わないし。言わないけど、機嫌が悪いのは分かるだろ?そしたらぼくも気分悪いし。悪循環だよね。ギイはよかれと思ってのことだけど、ぼくにしてみればそれが癇に障ったりして。最後の方は別れる別れないの話になったし。うーん、今思い出すと地獄的な日々だったなぁ」
「地獄的?」
大仰な言葉に奈美子ちゃんはくすくすと笑った。
あの頃、ぼくもギイもけっこう追い詰められていた。余裕もなくて、お互いのことを傷つけたりもした。
本当にもう駄目かもしれないと何度も思った。
「その地獄的な日々を、どうやって脱出したの?」
「んー、すったもんだしてる中で、ある時ふと思ったんだよ。ぼくは両親にもギイのことを認めて欲しい、ギイとも別れたくない、どっちとも上手くいく方法を考えて、その方法が分からなくて悩んでたんだけど、だけど、どちらか一方しか手に入らないんだとしたら、どうしたってぼくはギイのことを選ぶよな、って」
「・・・っ」
「いろんなものと天秤にかけてみるんだ。だけど、何と比べたって、やっぱりギイが残るんだよね。だとしたら、何も悩むことなんてないんだなって思ったんだ。だって答えは出てるんだから。そしたら急にすとんと気持ちが落ち着いちゃって、両親に、もしどうしてもギイとのことが許せないのなら、親子の縁を切って欲しいって言っちゃったんだよ」
「えっ?」
びっくりした奈美子ちゃんに、ぼくは軽く肩をすくめてみせた。
「我ながらすごいこと言ったもんだって今は思うけど、その時は本気でそう思ったんだ。それで両親もぼくが本気だって分かったんだろうな。まぁそのあともいろいろあったし、今でも全面的に賛成してるわけじゃないとは思うけど、黙認って感じかな」
ぼくがアメリカへ・・・ギイのもとへ行くと言ったとき、両親はすごく複雑な表情を見せた。
寂しそうな落胆したような。いや、諦めたというのが一番近いだろうか。
申し訳ないなとは思ったけれど、だけど不思議とどこかでほっとしている自分もいた。
これでぼくは解放されるのかもしれない、と。
ぼくは小さい頃からずっと両親に愛されたくて、そのためなら少しくらい自分の気持ちを押し殺してでもいいと思っていた。
だけど、自分にとって何が一番大切なのか、何が一番欲しいものなのかを考えるようになって、自分自身も歳を重ねて、それを手に入れるためにどうすればいいかも分かるようになって、逆にどれだけ欲しくても手に入らないものがあることも知った。
選ぶべきものと捨てるべきものがあるのだとすれば、ぼくにとってはギイが一番で、それはどうしたって揺るぎようのない真実だったから、彼を選ばないわけにはいかなかった。
「両親には祝福してもらいたかったけど、そういうわけにもいかないよね。世間一般の常識からすればやっぱりちょっと難しいだろうなって思うし。でも理解してもらえなくてもしょうがないって、今は本当にそう思えるんだよ。強がりとかそういうんじゃなくて、何だろうね、やっぱりこれもギイのおかげなのかな。ギイがいてくれるからあとはもういいやって思えるのかも」
「・・・葉山さん・・・」
気づくと目の前の奈美子ちゃんはさっきのぼくと同じように目を潤ませている。びっくりして、もう少しでカップを倒してしまうところだった。
ついしゃべりすぎてしまって、奈美子ちゃんの変化に気づかなかった。
「わ、ちょっと奈美子ちゃん、泣かないでよ。こんなとこ赤池くんに見られたら、めちゃくちゃ怒られる」
「大丈夫、ちょっと感動しちゃっただけだから」
くすんと鼻を鳴らして、奈美子ちゃんはにっこりと笑った。
「いいなぁ葉山さん。崎さんのこと大好きなのね」
「え、うわー、何かめちゃくちゃ恥ずかしいこと言っちゃった・・・よね?」
一気に顔が熱くなって、自分が最終的に惚気話をしてしまったような気がして、いたたまれなくなってしまった。
「えっと・・・ごめん、今の話はギイには内緒にしておいてくれるかな」
「いい話だけど?」
そう・・・かもしれないけど、いやいややっぱりだめだ。
いい話だから、ということではなくて、
ギイは今でもぼくと両親がギクシャクしていることを気にしているのだ。埋まりかけていた両親との溝が、自分のせいでまた開いてしまったのではないかと、コトあるごとに悩むのだ。
何につけても自信家で、実際できないことなんてないように思えるギイが、唯一そのことだけは今でも解決できない問題として抱えて込んでいる節がある。
だけど、ぼくからすれば、ギイが悩むことなんて何もないのだ。
ぼくと両親のことだから関係ない、ということではなくて、それはぼくの中ではもう消化してしまった問題だからだ。ギイは信じてくれないけれど、本当にもう、たとえそれが良好とは言えない関係だったとしても、ぼくはそれでいいと思っているのだ。
ぼくはギイを選んだのだから。
「とにかくギイには内緒。心配させたくないから」
言うと、奈美子ちゃんはぱちりと目を見開き、そして何故か嬉しそうに笑った。
「そうね、崎さんを心配させちゃ悪いものね。あ、私もさっきの話は章三くんには内緒。何勝手なこと言ってんだーって不機嫌になるから」
「はは、赤池くん、奈美子ちゃんがそんなこと思ってるなんて考えたりしないんだろうな」
好きな人の前で弱いところを見せたくないと思うのは、きっと赤池くんだけじゃなくて、男ならみんなそんなものなのかもしれない。
ぼくだってギイには相当甘えているという自覚はあるけれど、それでも最後の一線みたいなものはあって、ギイが何を言ってもそれは預けることができないのだ。
たぶんギイだって同じだろう。
女の人はそうじゃないのかな?
「私、思ったんだけど」
奈美子ちゃんは空になったカップの縁を指でなぞりながら静かに言った。
「同性でってやっぱりまだ理解してもらえないことも多いと思うし、ご両親が心配されるのも当然だと思う。だけど、葉山さんが葉山さんでいるためには崎さんが必要で、たぶん崎さんも同じでしょ?だとしたら、一緒にいることが一番いいことなんだと思う。たとえ誰が何と言おうとね。章三くんは同性なんて不毛だっていっつもぶつぶつ言ってるけど、だけど葉山さんと崎さんのことは応援してるのよ。二人のこと、すごく大切な友達だって思ってるから、幸せになって欲しいって思ってるんだと思う。そんなこと口にはしないけど」
「うん、分かってるよ」
ぼくがうなづくと、奈美子ちゃんはほっとしたように笑った。
「赤池くんと奈美子ちゃんが幸せそうでよかった」
「葉山さんと崎さんもね」
お互いにちょっとした秘密を分かち合った仲間になったような気がして、急に距離が縮まったように思えた。
奈美子ちゃんも同じことを思ったのか、ちょっといたずらっぽい瞳でぼくを見返した。
「そろそろ戻ってくるんじゃないかな、あの二人。葉山さん、お腹空いてる?」
「空いてるよ。外で食べるのなんて久しぶりだから楽しみだなぁ」
「じゃあ用意始めちゃおっか。キッチンの材料、持ってきてもらっていい?」
「了解」
ぼくたちがテラスでバーベキューの準備を始めてすぐ、ただいまーと暢気な声がしてギイと章三が帰ってきた。
両手いっぱいのビールと、奈美子ちゃんに頼まれていたデザートのケーキ。
それ以外にも、どうやら目に付いた食材を好き勝手に買ってきたようで、
「男の人に買い物頼むとこれだから」
と奈美子ちゃんに文句を言われていた。


「奈美子ちゃんと何の話してたんだ?」
ギイが二人に気づかれないように、テラスにいたぼくの頬にただいまのキスをする。
「内緒」
「・・・・何だよ、それ」
昔っからのヤキモチ焼きな顔がちらりと覗く。
そんなギイにぼくはついつい頬が緩む。
ああ、この人も変わらないな、と嬉しくなる。
「おい、なに笑ってンだよ。いったい何の話してたんだ?」
「んー、赤池くんが奈美子ちゃんと結婚してよかったなぁっていう話かな」
「何だ、惚気話か?」
「そうだね、そんなとこ」
ふうん、とギイは納得したのかしてないのか、ぼくの隣の席に座る。
章三と奈美子ちゃんもやってきて、こんなに食べられるのだろうかと思うほどの量の材料に首を傾げつつも、ベーべキューが始まった。乾杯とグラスを合わせると、一気に時間が逆戻りする。
祠堂にいた頃、寮の部屋で3人でこっそりと宴会をしては馬鹿話をしたことを思い出す。
あの時と違うのは、章三の隣に奈美子ちゃんがいること。
どこか安心したように、優しい目をして奈美子ちゃんを見る章三を見ていると、やっぱりちょっとからかいたく
なったけど、ここはぐっと我慢をすることにした。
「何だよ、葉山。何ニヤニヤしてるんだ?」
「何でもないよ。今度は赤池くんたちがNYに遊びにきてよ。それまでに案内できるようにいろんなところを探索しておくから」
「葉山に案内されるのはどうも心配だなぁ」
「ひどいな赤池君、ちゃんと英語だって、ちょっとは話せるようになってるんだからな」
「ちょっとは、ねぇ」
「私行きたいなー。章三くんが行かないなら、私一人で行っちゃおうかなぁ」
「どうぞどうぞ、章三と喧嘩した時にはいつでも来るといいよ。うちに泊まればいいから」
「ギイ、余計なことを言うな」
ギイと章三のやり取りを、奈美子ちゃんがにこにこと見守る。
その様子に何だかとっても温かい気持ちになった。
もし日本にいたら、きっともっと頻繁にこんな楽しい時間が過ごせるのにと思うと、ほんのちょっと寂しくもなる。
だけど、たぶん離れていても大丈夫なんだということは分かっていた。
会えばまた昔と同じように笑いあえるのだ。
ぼくにとって、あの祠堂での時間は本当にかけがえのない時間だったのだと、今頃になって思い知らされる。
ギイに出会えたことはもちろん、章三という友人と出会えたことも、ぼくにとっては奇跡のようなことだった。
「何ぼーっとしてんだよ、託生」
ぼんやりと幸せを噛み締めていたぼくの頭を、ギイがつんと突いた。
「え、幸せだなぁって思ってさ」
「美味いビールと美味い肉があるから?」
真面目に答えたのに、ギイは茶化して笑う。だからぼくも笑って答える。
「そうだよ。これ以上の幸せはないよね」
「恋人と相棒とその奥さんに囲まれて、オレも幸せだな」
ギイは分かってるんだな、と思うと嬉しくて、ぼくはベンチシートの上に置かれたギイの手をそっと握った。
すぐにきゅっと握り返してくれる温もりもまた、ぼくにとっては小さな、けれどかけがえのない幸せの形だ。
すごく単純だけど、そういう小さな幸せの積み重ねが大切なのだ。
その幸せがそのまま未来にも繋がっていくのだから。






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あとがき

女子会ですか!奥様たちの内緒話っぽいな、これ。