共犯者


共犯者になってくれないか?
いいよ、共犯者になってあげる。




日曜日、三洲は相変わらずの忙しさで午後から出かけていて、託生は270号室に一人でいた。
たまの休日には麓の街へ出かける者も多く、この時間帯は寮はいつもよりも静かだ。
それでも、部屋には一人きりでも、扉の外には常に誰かの気配がある。
いつでも人の目があって、個人の時間などあってないような生活も、実のところ他人のことなどさほど誰も注意してないのだと気づくと楽になれる。
祠堂の学生寮で暮らし始めて3年目。
初めて寮生活を始めた頃は、その人の気配に慣れなくて、いつも神経が過敏になっていたというのに、今では人の気配がないと、何となく居心地が悪く感じるようになっているのだから不思議なものだ。
去年はギイがそばにいたおかげで、注目を浴びることも多かったけれど、3年になって部屋が分かれ、おまけに「ただの友達」のふりをしていることもあって、託生が注目を浴びることも少なくなった。
もともと特別容姿が際立っているわけでもなく、飛び抜けて勉強ができるわけでもない。
ギイと疎遠になれば、自然と注意も逸れる。
きっとギイもそう思っていたに違いない。
けれど最近、そう簡単に物事は運ばないのだということを、託生は感じるようになっていた。
遅めの昼食を取り、宿題の古文と戦い、ようやく終わった頃には夕方近くになっていた。
「ああ、もうこんな時間か」
そろそろ食堂が開く時間だな、と託生は窓の外を眺めた。
初夏になり、日が高くなってきたおかげで、夕方になってもまだ外は明るい。
何となく得した気分にもなるのだけれど、だからといって今からどこへ行けるわけでもない。
部活をしている連中もそろそろ戻ってくる頃で、早めに食堂へ行った方がいいかもしれないなと、託生はテキストを閉じた。
半袖のTシャツの上に薄手のパーカーを羽織って、部屋の鍵を手にして扉を開ける。
階段を降りようとした時、寮内に呼び出しのアナウンスがかかった。
「270号室、葉山託生さん、1番にお電話です」
一瞬足を止め、託生は細くため息を落とした。
放っておこうかとも思ったが、けれどもしかして実家からの急用だったら、とも思いなおし、足早に電話口へと向かった。
外された1番の受話器を手にする。
「もしもし、葉山です」
「・・・・・」
「・・・もしもし?」
「・・・・・」
相手は何も答えず、ただ静かな息遣いだけが聞こえていた。
託生は受話器を耳に当てたまま、ぐるりと辺りを見渡した。通り過ぎる寮生たちは、誰も託生のことに注意を払っている様子はない。
けれど、どこかからの視線を感じて、託生は気持ちが苛立った。
そのまま静かに受話器を戻す。
こんな無言電話が、もう何度も続いていた。
最初は間違い電話なのかと思った。けれど、そのあとも何度か同じようなことがあり、それが明確な意思をもった無言電話なのだと気づいた。
ギイからは、何かあったら必ず言うようにと言われてたけれど、ただ無言電話がかかってくるだけのことで、ギイを心配させたくなかったし、毎日かかってくるわけでもないのでと思い放置していた。そのうちなくなるだろうとも思っていたのだ。
けれど、確かに回数は減ったものの、無言電話がかかってくるのが決まってギイが寮にいない時ばかりだということに気づいてからは、託生はその陰湿なやり方に嫌な気持ちになった。
最初は、ギイの去年の同室者で、ギイが親しくしている友人がどんな人間なのか知りたくていたずら半分に電話をしていたのだろうけれど、もしかしたらどれだけ友達のふりをしていても、何かの拍子に付き合っていることが知れたのかもしれない。
ギイに傾倒しているのか、それとも恋心を抱いているのか。
何にしても託生のことを快く思っていない人間のやっていることには違いない。
「気にしない」
直接に被害があるわけじゃない。
確かにあまりいい気分ではないけれど、ギイにいちいち相談するほどのことでもない。
それに、何となく犯人かもしれないなと思っている相手がいるのだ。
少し前、給湯室にお湯をもらいに行った時、見かけない顔の生徒が中にいた。
2階は主に2年と3年が住んでいて、同じ階の生徒というのはやはり顔見知りになるものだ。
それがまったく見たこともない生徒ということは、違う階の1年生だろうと想像できた。
1年生は4階と3階が主な住居なので、2階で見かけるということは滅多にない。
その1年生が給湯室にいるということは、ちょうど自分の階のお湯がなくなって仕方なくもらいにきたというところかな、と託生は思った。そういうことはよくあるからだ。
もっとも先輩だらけの階へ行くにはけっこうな勇気がいるとは思うのだが。
託生が順番待ちで、1年生が先にポットにお湯を注いでいる様子を見るともなく見ていると、ふいに彼が言った。
「葉山先輩て、崎先輩と付き合ってるんですか?」
あまりにも突然のことで、一瞬言葉につまった。
給湯室には2人だけだとは言え、まさかいきなりこの質問はないだろう。
困惑して託生が黙っていると、彼は手をとめて顔を上げた。
「去年同室で、同じクラスで、級長と副級長で。すごく仲良くしていたのに、今年になってからはろくに言葉も交わさないなんて、本当に別れたかそれを装っているかどっちかしかないですよね」
「・・・・・・」
「だけど、きっとこっそり付き合ってるんだろうなって思ってます」
真っ直ぐに託生を見て、にっこりと笑う。
困ったなと思う反面、やけに落ち着いている自分がいることに、託生は驚いていた。
不思議なもので、面と向かって挑まれると逆に度胸が据わるのだろうか。
こういうところが怖いもの知らずだと言われる所以だが、託生自身、意識してそうしているわけではないのだ。託生が何も言わないでいると、彼は軽く肩をすくめた。
「大変ですよね、崎先輩みたいな人と付き合うの。こんな風に誰にも知られないようにしなくちゃいけないなんて、嫌になりませんか?」
「・・・・」
「別れた方が楽になると思うんですけどね」
それじゃお先にと言って、彼は託生の横を通り抜け、給湯室を出て行った。
一人になると、託生はふぅと息を吐いて肩の力を抜いた。
今になって、自分が緊張していたんだなと気づいた。付き合ってるわけじゃないと、一瞬言いそうになったけれど言わなかった。今はそういう風に装っているけれど、だけど言いたくなかった。
それに、下手に口を開けば、きっと嘘をついているとすぐにバレそうな気がしたからだ。
賢そうな子だったし、実際ギイと託生の嘘にも疑いを持っている。
けれど、何も言わない限りは、否定もしてないが肯定もしていないことになるのだ。
彼が何を言ったところで、勝手な思い込みだと言うこともできるだろう。
沈黙は金とはよく言ったものだ、と託生はポットの蓋を開けた。
ギイに報告した方がいいのかなとも思ったが、名前も知らない1年生だった。
それに、何か危害を加えられたわけでもないのだ。
だから放っておけばいいし、気にしなければいいと思った。
ただ、彼の言った、
『誰にも知られないようにしなくちゃいけないのは、嫌になりませんか?』
という言葉だけが、託生の心に暗く影を落とした。

それが2週間ほどくらい前の出来事だ。
あれ以来、何となく彼の姿が視界に入るようになった。
気をつけて見てみると、1年のチェック組の一人で、ギイに積極的にアプローチしているグループの一人だった。
そして気づいた。
彼はギイに恋していると。
今までだって、ギイに想いを寄せる人はたくさんいた。
けれど、さすがにあからさまにそれを表に出すような人は少ない。何しろギイが少しでもそんな素振りを見せた人間に対しては、こっちが怖くなるくらい冷たく突き放すからだ。
結果としてはその方がいい、とギイは言うけれど、託生にしてみれば、それは見ていて胸が痛くなるようなことでもあった。もちろん、ギイのすることに口出しするつもりはなかったから、意見することはなかった。
文化祭の時のラブレター事件以来、託生はその手のことにはノータッチでいるように決めたのだ。
その1年生もごくごく普通の後輩の顔をしてギイと話しているけれど、ギイに対するそういう視線や感情には見慣れているせいか、託生の目には違うものとして映った。
たぶんギイも気づいているだろう。だからなおさら態度は冷たくなる。不思議なもので、冷たくされれば逆に恋心には拍車がかかる。
無言電話の主が彼だと思うようになったのは、そんな彼の気持ちに気づいてからだ。
何も言わない受話器の向こうに彼がいるような気がするのは勝手な思い込みだろうか。
それでも、たぶんその想像は当たっているんじゃないかと、託生には思えた。
何のためにこんなことをするのか、正直なところよくわからない。
たとえそれがギイへの恋心故だったとしても、こんなことをするのはお門違いだと思う反面、これくらいのことで済むならマシかと思ったり。
ギイと一緒にいるだけで、やっかまれることは今までも何度もあったのだ。
それと同じだと思えばどうということもない。

(大丈夫、気にしちゃだめだ)

託生は深呼吸をして小さく頷くと、当初の目的である学生食堂へと歩き始めた。

休みの日はみな早めに夕食を取ることが多く、食堂はほどよく混んでいた。
託生はトレイを手にして、定食の列に並んだ。
「葉山、一人か?」
声をかけられて振り返ると、1階の階段長の矢倉が立っていた。
「矢倉くん」
「今日のメニューは何だ?お、から揚げじゃんか。いいね」
何となくそのまま二人して空いている席に座った。
3年になってから、ちょっとしたことがきっかけで、それまであまり交流のなかった矢倉ともよく話をするようになった。ギイは1年の頃から親しかったみたいで、章三とはまた違う仲の良さを感じることがある。
「今日は一日寮にいたのか?」
「うん。矢倉くんは?」
「俺は久しぶりに街に出てた」
「八津くんと?」
「一緒には出てないけどな」
密かに人気のある矢倉の恋人八津には、ちょっと面倒なお取りまきがいて、遊び人だと思われている矢倉と八津が親しくすることを阻止しようとしているらしいのだ。
別に堂々としてればいいのにと思うのだが、矢倉は表立って八津を誘うようなことはしないらしい。
「何だか納得できないよね」
託生がぽつりと言うと、何のことだ、と矢倉が顔をあげる。
「だって、誰と誰が仲良くしようと、そんなの当人の問題なのに、どうして周りの人間が横槍入れるようなことするんだろう。言いたいことがあるなら、ちゃんと言えばいいのに」
「・・・あー、何だよ、それ。俺と八津のこと?それとも葉山とギイのこと?」
矢倉が苦笑すると、託生ははっとして、一般論だよ、と口ごもった。
章三がギイの相棒だとすれば、矢倉は参謀のようなイメージがあって、妙に鋭いところがある男なのでちょっとしたことでもすぐに何があったか気づいてしまう。
気をつけなきゃな、と託生は内心反省した。別に矢倉を信用してないということではなくて、ギイが余計な心配するようなことを、彼から話して欲しくないのだ、
それからは当たり障りのない世間話をしつつ、夕食を終えた。
箸を置き、熱いお茶を飲んでいると、矢倉が急に真面目な表情をして託生を見た。
「なぁ、葉山」
「なに?」
「最近、電話の呼び出し多くないか?」
「・・・・そうかな」
一瞬ぎくりとして、けれど何気ない風を装って託生はぎこちなく笑った。
「今日もかかってきてただろ?」
「うん」
「誰から?」
「何でそんなこと矢倉くんに言わなきゃだめなのさ」
いくらプライベートなんてほとんどないような寮生活でも、さすがにそれは踏み込みすぎだろう。
だが矢倉はそんな抗議は気にもしていないようで、なおも身を乗り出してくる。
「家族とか友達とか、そういうんならいいんだけどさ、面倒な電話だったりしてるんじゃないのか?」
「・・・どうして?」
「そんな顔してたからさ」
ああ、と託生は苦笑した。どうやらさっき電話をしながら感じた視線は矢倉のものだったようだ。
やっぱり少し神経質になりすぎてるな、と託生は反省した。
「面倒なことにはなってないよ。ありがとう」
「ほんとか?」
「矢倉くん、どうしてそんなにぼくのことを気にするのさ?」
「んー?八津がさ、ちょっと嫌な話を聞いたっていうからさ」
「嫌な話?」
矢倉は場所変えようか、と言うとトレイを手にして立ち上がった。託生も慌ててお茶を流し込むとそのあとを追った。
食堂を出て寮へと戻り、人気のないロビーの片隅のソファに並んで座った。
「矢倉くん、嫌な話って?」
「ああ、1年のチェック組な、どうもギイと葉山のこと疑ってるみたいなんだよな」
「ギイとぼくは・・・別に・・・」
3年になってからはほとんど一緒にはいないのだ。疑われるようなことは何もしていない。
ゼロ番にも行っていないし、最近では視線さえあわしてないのだ。
周囲が二人が普通の友達になったのだと認識するまでの間、お互いに不本意ではあるけれど、そうしようと決めた。だから寂しくないといえば嘘になるけれど、ギイの気持ちを疑うことはないし、信じることもできる。
友達のふり、できてなかったのかな、と託生は少し心配になる。
「ま、去年のことを知ってる俺らからすれば、もうバレバレで何やってんだかなーって感じだけどな。ギイは連中の前だと怖いくらいのポーカーフェイスだし?そうそう簡単にバレるような言動はしてないんだけど、でも視線がな」
「視線?」
「例えばチェック組に囲まれてる時とかに、偶然葉山が通りかかったりするだろ?もちろんお互いに視線を合わすこともないし、声をかけることもないわけだけど、でもギイの視線が動くんだよ、一瞬な」
「・・・・」
「あれはほとんど無意識なんだろうな。何してても、葉山がいるとどうしても視線が動く。だからこそのあのメガネなんだろうけど、チェック組も馬鹿じゃないから、気づくヤツは気づくんだろうさ」
矢倉はやれやれというように肩をすくめた。
何と言っていいか分からず、託生は黙っていた。
「で、どうもギイと葉山の仲が怪しいんじゃないかって、今はどうか知らないが、少なくとも去年は何か関係があったんじゃないかって疑ってる連中がいるようでさ、ギイとお近づきになるため、葉山を利用しようと企んでるような話を八津が聞いちまったようで、心配してるんだよ」
「利用って?」
「だから、ギイとお近づきになるために、まずは葉山に近づこうとかさ。まぁそれくらいなら可愛いもんだが、何しろギイがあの通りのそっけない態度ばかりでチェック組のことは必要以上に寄せ付けないだろ?ギイの気持ちも分かるけど、逆効果なところもあるんだよな。つまり・・・」
「つまり?」
矢倉はふっと一つ息を吐くと、ソファの背に腕を乗せて、託生の顔を覗きこんだ。
「可愛さ余って何とやら、ってやつだよ」
「・・・・」
「ギイに振り向いてもらえなくてギイのこと嫌いになる程度ならいいけど、あの氷の女王に一泡噴かせたいって馬鹿なこと考えるヤツもいるってこと。で、直接ギイに何かできないとなると、ギイが大切にしてる人間にちょっかいかけるんじゃないかってね」
ああ、と託生はようやく矢倉の言いたいことが理解できた。
つまり矢倉は一年のチェック組が、託生に何かよからぬことをしてくるんじゃないかと心配してくれているということだ。
あの無言電話も、もしかしたらそういうことなのだろうか?
けれど、いくら何でも直接的に手を出してくるようなことはないだろう。
もっとも、こういう嫌がらせの方が精神的にはしんどいなとは思うのだけれど。
「誰かにおかしなことされたら相談しろよ、葉山」
「・・・・大丈夫だよ」
「お前なー。ギイがあれだけ警戒してる連中だぞ?本気で何してくるか分からないんだぞ?」
「はは、大げさだな、矢倉くん」
「葉山に何かあったら、俺たちもギイに怒られる」
ぽつりと漏らした言葉に、託生が眉をひそめる。
「それ、どういうこと?」
「ギイがさ、新学期始まってすぐにそれまでの態度を一新しちまっただろ?葉山にも言ったよな、みんなでスクラム組んで、ギイの荷物を引き受けてやるって」
「ぼくはギイの荷物だってこと?」
「そうじゃなくてさ」
託生が少しむっとした表情をしたせいか、矢倉は逆に少し表情を緩めた。
「ギイは何でもかんでもしょいこんでしまってるだろ。チェック組のことにしたってさ、一人でどうにかしようなんて思う必要はないんだよ。でもまぁ、まだ様子見のところもあるし、とりあえずギイが一番心配している葉山のことくらいは俺たちで守ってやるから、って言ってあるんだよ」
「・・・」
「ギイはめちゃくちゃ嫌がってたけどな。そりゃそうだよな。できることなら全部放り出してでも、葉山を守るのは自分でありたいって思ってるだろうし」
それはたぶん、そうなのだろうと託生にだって分かっていた。
ギイに愛されていることは十分わかっている。ギイがチェック組のことをことさら気にしているのも、すべては託生のためなのだ。
だけど、ギイがそんな風に守ろうとしれくれればいてくれるほど、説明のできない感情が湧き上がって来る。
どうしてもっと頼ってくれないのだろう、と。
「ま、今すぐ何かあるってことでもないし、そこまで神経質になる必要もないだろうけど、けどな葉山、何でも自分一人で抱え込もうとしたりするなよ、そういうの、ギイだけで十分だから」
わざと茶化して、矢倉が託生の肩を叩いた。
「ありがとう、矢倉くん。だけど、ぼくだって一人でちゃんとやれるよ?みんなに守ってもらわなくちゃならないくらい頼りなく見えるのかな?」
「葉山が案外と図太くて少々のことじゃへこたれないヤツだってことはよっく知ってるけどな、でも相手が悪い」
「・・・」
「葉山みたいに気持ちの優しいヤツじゃ通じない連中もいるってこと」
「うん・・・」
「ま、ギイにはいろいろと借りがあるからな、気にするな」
長年の片思いだった八津と気持ちが通じ合うようになったのは、ギイが彼の背中を押したからだと聞いている。
矢倉にしてみれば、自分もギイのために何かしてやりたいと思っているのだろう。
本当にギイは友達に恵まれている。
矢倉の気持ちはありがたく受け取っておくことにした。
余計なお世話だなんて思うはずもない。みんな心からギイのことも、託生のことも心配してくれているからだ。
矢倉と別れて270号室へ戻ろうと階段をあがりかけた時、階上からギイが降りてくるのとかち合った。
周りには誰もいなくて、ギイは託生に気づくとふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
胸が熱くなって、このまま抱きつきたいような衝動にかられる。
ギイがメガネを外して胸ポケットに入れた。
それだけで時間が去年にさかのぼったような気がした。
「託生、もう飯食ってきたのか?」
「うん。ギイはこれから?」
「ああ、さっき帰ってきたとこなんだ。腹ペコだよ」
「ふふ、今日のメニューはから揚げだよ」
「お、いいな」
何でもない会話が今はかけ替えのないものに思えた。
なかなか会えなくて寂しいな、とか。
もっとちゃんと話をしたいな、とか。
本当はそんなこといつでも思っているけれど、それを口にすることはできなかった。
言えば、ギイに心配をかけてしまうことは分かっていたからだ。
一人で何でもしょいこんでしまうギイに、これ以上余計な心配はかけたくない。
「託生、今夜・・・」
ギイが言いかけた時、寮の入口から賑やかな声が聞こえてきた。
2人でいるところを見られるのはよくないだろうと思い、託生は部屋へ戻るために階段を上がった。
「託生」
「・・・またね、ギイ」
お互いに小さく言葉を交わす。すれ違いざま触れた指先の感触に胸が熱くなった。

大丈夫。
共犯者になるってうなづいたあの時に決めたのだ。

振り返ることなく、託生は270号室へと歩みを早めた。




その日の放課後、全校生徒が講堂に集められた。
近頃、麓の街で高校生同士の喧嘩が増えているということで、滅多に姿を見せない学院長がやってきてあれこれと注意喚起が行われたのだ。もちろん祠堂の生徒が喧嘩をしたということではなく、何もしていなくても巻き込まれることはあるのだから十分に注意をするように、というものだった。
「葉山、気をつけろよー。お前、絡まれそうだし」
隣に座る章三が肘で突いてくる。
「失礼だな、今まで誰かに絡まれて喧嘩したことなんてないよ」
「そうか?確かに葉山が自分からは喧嘩を吹っかけるなんてことはしないだろうが、売られた喧嘩はきっちり買いそうだからな」
「え、そんな風に見える?」
「見えるっていうか実際そうだっただろ、1年の頃。買わなくてもいい喧嘩を自分から買っては問題を起こしてた」
「そんなこと、ないよ」
語尾が小さくなってしまうのが、少しは自覚があるからだ。
確かにあの頃は無視してしまえば済んだような、からかいや嫌がらせに対しても、真正面から向かっていたような気がする。
今思えばけっこう無謀なことしてたなとは思うんだけど。
「お前のせいで、僕とギイがどれだけ苦労したと・・・」
「もー、分かったよ。ごめんなさい。もうあんな無茶はしないから」
「分かってりゃいい」
章三はニヤニヤと笑って矛先を収めた。
「そういう赤池くんは滅多に喧嘩なんてしないよね」
「そうでもないけどな、僕は本気で頭にきたらけっこう手が出るかもしれない」
「ええ、本当に?そんな風には見えないけどなぁ」
手が出るというよりは、どちからと言うと言葉で相手をやっつけちゃいそうだけど。
「一応風紀委員長だからな、取り締まる立場の者がそうそう簡単に問題起こしてちゃまずいだろうが」
確かにそうだが、託生からすれば、章三ほど自分をきっちりと律している男はいないんじゃないかと思うのだ。風紀委員長だからというだけじゃなく、それは章三の性格なんじゃないかと思う。
そういえば章三が本気で怒ったところなんて見たことないなぁと託生は思った。
しょっちゅうあれこれと怒られてはいるけれど、どれもからかい半分で怖いなどと思ったことはない。けれど、そういう人が本気で怒ったときほど怖いものはないんじゃないかとも思う。
「赤池くんって、どういう時に本気で怒るんだろう?」
託生が首を傾げると、章三はちらりと視線を向けた。
「何だ、本気で怒って欲しいのか?」
「え、いやいや、そんな恐ろしいこと遠慮しておきます」
「何だ、つまらないな」
章三は軽く肩をすくめてそれきり口を閉ざした。周りはみんなうとうとと居眠りしている。
託生も眠くてたまらなかったが、一応話を聞くふりだけはしようかなと思った時、ふと視線を感じて顔を向けると、少し離れた斜め前の席にギイがいた。
目が合うと、微かに・・・託生に分かるくらい微かに笑った。
そして、章三とおしゃべりしてるんじゃないぞ、とでも言うように人差し指を唇の前に立てた。

(ギイってば)

去年の夏、学院長の話の最中で章三とずっとしゃべってたのはどこの誰だよ、と思わず託生が睨むと軽く肩をすくめて前を向いた。
長い長いの話がようやく終わり、みんなやれやれといった感じで立ち上がり、出口へと向かう。
全校生徒が一同に会していたのだからそれなりの人数だ。
講堂を出ていくだけでも時間がかかる。
部活のある者たちは我先にと出口へ向かうが、特に予定のない託生と章三はのんびりと人混みのあとを歩いていた。
「それにしても、滅多に出てこない学院長がやってくるなんて、よっぽど問題になってるんだね」
「まぁこういうことって下手すると警察沙汰にもなるし、警戒してるんだろうさ。実際にはそこまで深刻にはなってないだろうけどな」
「そっか」
転ばぬ先の杖ってやつなのかな。祠堂にいる間だけではなく夏休みになって地元へ帰ってからも、他校の生徒とトラブルを起こさないように、と学院長は言っていた。
夏休みか、と託生はぼんやりと思った。
去年の夏は井上佐智のサロンコンサートに招かれたり、ギイの別荘に避暑に行ったり、イベントが目白押しだった。
今年は夏休みどうするかの話はまだしていなかった。
高校最後の夏休みだし、できれば一緒にいたいなぁとは思うけれど、もしかしたらギイはアメリカへ帰るのかもしれない。進路のこととか両親とも話し合わなきゃならないだろうし。

(卒業したら、ギイはアメリカへ帰ってしまうのだろうか)

そう思ったらきゅっと胸が痛くなった。
まだ進路なんて決めてなくて、だけどいつまでも悩んでいる場合でもない。
ギイはもう卒業後のこと決めたのかな、とぼんやりそんなことを考えながら講堂の扉を出た。
午後の眩しい日差しに目を細める。
ほんの数段の階段で、まさか足をとられるなんて思ってもいなかった。
大勢の生徒がいて、急いでいる連中が後ろからぶつかってきたのだ。
ぐらっと傾いだ身体は、けれど体勢を元に戻すには十分な程度だったはずなのに、誰かがもう一度託生の背を押した。
「葉山っ」
章三が叫び、それと同時に数段下の地面に倒れこみ、左肩に激痛が走った。
託生だけではなく、そばにいた別の生徒も巻き添えになった形で膝をついていた。
周りから大丈夫か、と声が上がる。
咄嗟に顔を上げる。
自分を見つめる視線を主を探して、そこにいた彼と目が合った。

(どうして・・・)

いや、理由は分かっている。

「おい、葉山、大丈夫か?」
章三が珍しく慌てた様子で託生を抱き起こす。
「大丈夫だよ・・ごめん、腕が・・・」
掴まれた左腕がずきずきと痛んでいた。いつも何かある時は、無意識のうちに左手を庇う。
バイオリンをしていたから、それは本当に本能的なものだった。一度手離してしまった音楽ともう一度きちんと向き合ってみようと決めてからは、意識してそうしていた。
けれど、今はそんな余裕もなかった。
「葉山、保健室へ行こう」
「うん」
立ち上がって汚れた制服を払った。一緒に倒れこんだ生徒はちょっとした擦り傷だけだったのでこのまま寮へ戻るよ、と言った。
「どうした、足が縺れたか?」
「うん・・まぁそんなとこ・・・」
そっと左腕に触れてみる。よりにもよって左腕を痛めるなんて。
「葉山?」
「あ、ううん、何でもない」
「・・・・」
「赤池くん、保健室なら一人で行けるよ?」
「いや、一緒に行く」
どこか固い表情の章三に付き添われて保健室へ行くと、中山先生が怪我の具合を見てくれた。
「骨は折れてないし、ちょっときつい打ち身かな。しばらく熱持って腫れるかもしれないが、心配するほどのことじゃない」
「ありがとうございます」
たいしたことはないと聞いて、託生はほっとした。バイオリンの練習がしばらくできないのは痛いけれど、大げさなことにならなくて良かった。
「で、どうしたんだ?何かにつまづいたか?」
代えの湿布薬を用意しながら、中山先生が尋ねる。
「階段でちょっと。足が、もつれてしまって」
「まったく老人じゃないんだぞ。音楽もいいが、葉山はもうちょっと運動しないとだめだな」
「はい、すみません」
運動不足のせいで足が縺れたと思われたのだろうか、それとも運動神経がよければもっとちゃんと避けれたということだろうか、と託生は首を傾げた。
「しばらくはバイオリンの練習は控えるんだぞ」
まぁ、したくてもできないだろうがな、と中山先生は袋に入れた湿布薬を託生に手渡した。
章三はそんな二人のやりとりを黙ってみていたが、大事に至らなかったと分かりほっとしたようだった。
「ありがとう、赤池くん。もう大丈夫だから」
保健室を出ると、託生は付き添ってくれた章三に礼を言った。
章三は、いやと肩をすくめる。しばらく二人で寮へ向かって歩いていると、ふいに章三が足を止めた。
「赤池くん?」
「なぁ葉山」
「なに?」
「お前、本当につまずいただけか?」
「え?」
どきっとして託生はじっと自分を見つめる章三から視線を逸らした。
あの時、最初によろけたのは間違いなく偶然にぶつったからだ。けれど、そのあとは。
体勢を立て直すには十分だった託生の背を、誰かが押した。
明確な意志を持って。
「誰かに押されたのか?」
ずばりと言い当てられて、託生は咄嗟に違うと言えなかった。
さすがギイの相棒だけはある。いったいどこでバレたのだろう、と託生は感心してしまう。
それとも、ギイによく言われるように、自分が嘘をつくのが下手なせいだろうか。
「つまずいただけだよ」
「おい、葉山っ」
章三が歩き出した託生の肩を掴む。
「お前、誰が犯人なのか知ってるのか?」
「・・・・」
「知ってるんだろ。誰だ?」
「・・・ぼくが勝手につまづいたんだよ。運動不足のせい」
「お前な、僕を相手にそんなつまらない嘘が通じると思うなよ」
確かに章三相手に嘘は通じないだろうけど、だけど告げ口みたいなことはしたくなかった。
それに、彼の名前さえ知らないのだ。
チェック組の誰かだとは分かってる。いつもギイの周りにいる1年生の一人。
給湯室で託生に声をかけてきた彼だ。
「どうして庇う?」
「たいした怪我じゃなかったから、大丈夫だよ」
「葉山」
章三がいつになく真剣な表情で託生に向き合う。
「お前はたいしたことないって思ってるかもしれないがな、分かってるんだろう?お前に嫌がらせしようなんて思うのはギイ絡みに決まってる。だとしたら、もっとエスカレートするかもしれないんだぞ?今回はこれくらいで済んだかもしれないけど・・・」
「大丈夫だよ」
「葉山っ」
章三が本気で心配してくれているのはよく分かっている。
けれど、本当に何でもないのだ。これくらいのこと、どうってことはない。
「わかった」
託生が打ち明ける気がないと知った章三は、あっさりと引いた。
そしてやれやれと大仰にため息をついてみせた。
「何だって葉山はおかしなところで意地っ張りなんだろうな。まぁもともと性格が頑固なんだよな。ぽやーっとした外見に騙されるけど。1年の時のことを思えば、それが葉山の地なんだな、最近忘れてたけど」
どこか棘のある言葉に、託生は困ったなぁと思った。
章三を怒らせるつもりなんてこれっぽっちもないのに。
「ごめん。だけど、本当に大丈夫だからさ、こんなことで赤池くんに迷惑かけたくないんだよ」
「いいよ。別に友達がいがないなんて思ったりしないから」
「だから、そんなこと思ってないし」
小さくつぶやくけれど、章三はポケットに手を突っ込んだまま、無言で先を歩いていく。
とぼとぼと託生はそのあとを歩いた。
怪我をした上に、章三とも気まずくなるなんて、本当に踏んだり蹴ったりだ、と託生はうんざりと肩を落とす。
だけど、もちろんこれだけでは事は済まなかった。
章三と別れて270号室に戻ると、、その日はバイオリンの練習をすることもできないので早めに宿題も終わらせて、ベッドに横になって本を読みながら放課後の時間を過ごした。
同室の三洲はまだ戻っていない。たぶん生徒会の仕事で忙しいのだろう。もちろん夜になれば戻ってくるが、放課後に部屋にいることなんて滅多にないので、託生にしてみればほとんど個室のようなものだった。
夕食の時間になると食堂へ向かった。痛めた左腕はやっぱりまだ痛くて、トレイを持つのも億劫になるくらいだった。珍しく親しい友人が誰も見当たらなかったので、適当な席について一人で夕食を済ませた。
帰りがけに売店に寄ってペットボトルを買って部屋に戻り、今日はもう寝てしまおうと思っていたところに、部屋の扉がノックされた。
「葉山、いるか?」
「あ、赤池くん・・」
昼間のことがあったので、ほんのちょっと気まずい気もしたが、章三はそんな素振りは見せず、ちょっといいかと聞いてきた。
「どうしたの?」
「いいから。ちょっと出られるか?」
誘われるがままに章三に連れられて部屋を出た。
階段を上がり始めた頃から、何だか嫌な予感がして何度も足を止めそうになった。
「ほら入れよ」
「・・・・」
章三が顎で示したのは3階のゼロ番。ギイの部屋だ。
託生はきゅっと唇を噛み締めて、章三を睨んだ。
「ギイに、用はないから」
「お前になくても、ギイにはある」
「・・・・卑怯だよ、赤池くん」
「何が?ギイに会うと何かまずいことでもあるのか?いつもならありがとうって礼を言う場面だろ?」
しばらく二人きりで会うのよそうと言われ、ここしばらくはギイのゼロ番は訪ねていなかった。
確かに章三の言う通り、いつもならギイに会えると思うだけで嬉しくて仕方ないはずだ。
けれど、どう考えても章三がただの親切で託生をここに連れてきたとは思えない。
あの時何があったか話そうとしないからって、ギイを持ち出すのはずるい。
だいたいギイ相手だと何でも話すだろうと思われていること自体も腹立たしかった。
「とにかく入れ。話はそれからだ」
「嫌だ」
間髪入れずに答えた託生に舌打ちして、章三は片手でゼロ番の扉を開けると、もう片方の手で託生の肩を掴んで無理矢理ゼロ番へと突き入れた。
「赤池くんっ!」
「うるさい」
託生を中へと押しこめ、章三は後ろ手に扉を閉めた。
来客用のソファに腰かけていたギイが顔を上げた。無表情なままにメガネを外して、
「悪かったな、章三」
と低く言うと、ゆっくりと立ち上がって託生へと近づいた。
いつもとは違う雰囲気に思わず一歩後ずさる、けれど後ろには章三がいて逃げられない。
「託生」
いつもなら心が震えるほどに愛しく思えるその声も、この時はただ怖いものとしか思えなかった。
初めて聞くようなギイの声。
だから、ギイが怒っているのだと気づいた。
いつものように見せかけでの怒りなどではなく、本気で怒っている。
「腕の具合は?」
その言葉は優しいものなのに、声色はひどく冷たく聞こえた。
託生はそんなギイから視線を外して、大丈夫、と答えた。その返事に章三はやれやれというようにため息をついた。
「じゃあ僕は帰るから、あとは二人でよく話し合うんだな」
「ありがとう、章三」
「ギイ、あんまり怖がらせるなよ」
「そんなことしないさ」
「ならいいけど」
じゃあな、と章三は託生の肩を叩いてさっさとゼロ番をあとにした。
扉が閉まると奇妙な沈黙が続いた。
先に動いたのはギイだった。託生の頬を両手で包み込むと、うつむいていたその顔を上向かせる。
「託生、本当に腕は大丈夫なのか?」
「・・・・大丈夫だよ、ちょっと転んだだけだから」
「転んだ?」
ギイがふっと笑う。そして託生の額に自分の額を押し当てると、苦しげに目を閉じた。
「託生、どうして嘘をつく?」
「・・・・嘘じゃないよ」
「どうしてオレにまで嘘をつく、託生」
「本当につまずいて、転んだだけだよ、ギイ」
言い終わらないうちに、ギイが強い力で託生の肩を掴んで引き離した。
「嘘をつくなっ!」
「・・・っ」
らしくない大声で、ギイが叫んだ。
まるで自分が傷つけられたかのような痛みに耐えている目をしていた。
大きく肩で息をして、怒りを堪えようとする姿に、託生は緩く首を振った。
「ギイ、赤池くんに何を聞いたの?」
「お前が、集会のあと、講堂を出る時に階段から落ちて怪我をしたって」
「うん」
「だけど、つまずいたわけじゃない」
「・・・・・」
「誰かがお前の背中を押した」
「・・・・・」
「お前は、倒れたあとに顔を上げて誰かを見た。章三の肩越しに、お前は、お前のことを突き飛ばした誰かの姿を見た。章三はそんなお前を見て、それが誰か知っている相手だったんじゃないかと思ったそうだ」
「すごいね、赤池くん。ぜんぜんそんな素振り見せなかったのに」
託生がどれほど取り繕うとしても、疑われるのも当然だったのだ。
というか、章三は最初から託生が誰かに押されて倒れたことも、その犯人を知っていることも全部承知の上だったのだ。それなのに託生は何も言わないのだから、さぞかし苛立ったことだろう。
確かにあの時、託生は人混みの中ではっきりと彼の顔を見た。
そして彼の顔を見て、突き飛ばされたのだと知った。
「託生・・・」
「ギイ、そんな顔しないでよ。たいした怪我じゃなかったんだし、ぼくは本当に大丈夫だから」
「そういう問題じゃないっ」
苛立ったようにギイがきつい口調で言い、ぐっと握りこんだ拳を口元に押し当てた。
「無言電話も続いているらしいな」
「・・・・それも赤池くん?」
「誰でもいい。どうしてオレに何も言わなかった?エスカレートしたら、犯人を探しだしてただじゃおかないって言っただろ?」
「うん」
「オレのいない時を狙ってかけていたんだろう?」
「分からないよ。偶然かもしれないし」
「偶然なわけないだろう」
吐き出すように言い捨て、ギイは大きく息を吐き出した。
「犯人は誰だ?」
「・・・分からないよ」
「嘘だ」
間髪いれずに否定され、託生はその突き放したかのようなギイの言い方にあっけに取られ、そしてじわじわと怒りが込み上げてきた。
「どうしてぼくの言うことを嘘だなんて決めつけるんだよっ。赤池くんの言葉は信じるのに、ぼくの言葉は信じないの?ぼくは大丈夫だって言ってるだろ?どうしてそれを信じてくれないんだよ。例え誰かがぼくを突き飛ばしたんだとしても、それは彼とぼくとの問題だ。ギイがそこまでムキなることじゃないだろう?そんなにぼくは頼りない?ぼくは鈍いから上手に立ち回れないだろうって思ってるの?」
「誰もそんなことは言ってない」
「だってそういうことだろう?結局ギイはぼくのことをたいしたことないって思ってるんだろう?自分がいなきゃダメだって思ってるんだろう?もういいから。ギイに迷惑かけるようなことはしないから」
「託生っ」
「これはぼくの問題だからっ」
「・・・・っ」
言ってすぐに自分が失言したことに気づいた。
すっとギイの周りの空気が冷えた気がした。
今まで何度もギイと喧嘩をした。小さいものからそこそこ大きいものまで。お互いけっこう言いたいことを言い合うし、しばらく口をきかないことなんかもあるのだけれど、それでもギイのことを怖いなどと思ったことはない。
けれど、今は、目の前にいるギイがひどく怖く感じられた。
無表情に託生を見つめるギイが怖かった。
「・・・・託生の問題?」
「・・・・」
「本気でそう思ってるのか?」
「・・・・」
黙る託生に、ギイは小さく息を吐くといきなりその手首を掴んだ。そして、そのまま引きずるようにしてゼロ番を出た。
いきなりの行動に託生は何が何だか分からず、きつく掴まれた手を解こうとしたがそれも叶わない。
「ギイ、ちょっと待って・・・っ!」
「・・・・」
「ギイっ・・・」
廊下を歩く生徒たちが物珍しそうに二人を眺める。最初は事件か、というように面白がる表情を見せた生徒たちも、いつにないギイの固い表情に、これはただ事じゃないと知りすぐに視線を背けた。まるで見世物のように周囲からの視線を浴びながら廊下を突き進み、階段を降りていく。
いったいどこへ行こうというのか。託生は何度も足を止めようとして、けれどその度ギイに引き寄せられた。
一階まで降りたギイは迷うことなく喫茶室の扉を開けた。
中にいたグループはほんのわずかだった。
週末でもなければここが人で溢れることはない。時間的にもみな自室で勉強をしている時刻だ。
その中に例のチェック組だちがいた。あの時の彼も。
「崎先輩」
約束でもしていたのか、突然現れたギイに驚くことなくこっちですというように、グループのうちの一人が笑顔で手を上げた。
けれど、ギイの後ろにいた託生の姿に、その笑顔はすぐに消えた。
ギイは気にした風もなく、彼らへと真っ直ぐに歩み寄る。
「ギイっ」
まさか、と嫌な予感がして一気に鼓動が高鳴る。
ただの友達だと、親しい友人の前でもそんな風に装っているというのに、いったい何をするつもりなのか。
託生は自分の手を引くギイに必死で抗った。けれどいつにない強い力がそれが許さない。
「あの・・・崎先輩?」
チェック組は4人。いつも積極的にギイと接点を持とうとしている1年生だ。
ギイの様子がいつもと違うことに気づいて、彼らは訝しげにお互いの顔を見合わせた。
ギイはそんな彼らをぐるりと一瞥すると、ぐいっと託生の手を引き自分の隣に無理矢理立たせた。
「今日、全校集会のあと、誰かが託生の背中を押して怪我をさせた」
「ギイっ」
託生の言葉などまったく耳に入っていないようなギイの横顔。
3年になってから、氷の女王などと揶揄されているギイは、それまでの気安い雰囲気は封印して、どこか人を寄せ付けない雰囲気を身に纏っていた。けれど、託生といる時は何も変わらないギイだったから、勝手に思っていたのだ。
チェック組の前にいるギイは本当のギイじゃないと。
わざと冷たく見えるように演技しているのだと。
だけど、そうじゃなかったのかもしれない。
託生が知らなかっただけで、見ようとしなかっただけで、こんな風に冷静に相手を追い詰めていくギイも本当のギイなのだ。
知りたくなかったギイの一面。
まるで人を人をして見ていないような、どこまでも無機質で冷たい視線や、抑揚のない口調。全身から静かに怒りのオーラが出ていることは、託生だけではなく目の前のチェック組にも伝わったのだろう。
ギイが本気で怒っていると。
「あの・・・崎先輩、僕たち何のことか・・・」
「分からないって言うのか?」
「えっと・・・何か騒ぎになってたのは知っていますけど・・・」
どこか怯えたように託生を見て、またギイの様子を伺う。
「誰も何もしていないって言うんだな?」
「もちろんです、だって・・・そんなこと・・・」
そうだ。
その子は何もしていない。託生の背中を押した彼は、青い顔をしてギイの視線から逃げるように俯いている。たぶん、ここにいる連中は何も知らないのだ。あれは、あの彼が自分一人でやったことで、他の連中は何も知らない。
いや、実際に背中を押したのは彼だけれど、ここにいる連中はそれを知っていたのだろうか。
どちらでもいい。
どちらにせよ、彼らは自分からそれを認めることはないだろうから。
「崎先輩、誤解ですよ。本当に僕たちじゃないし・・・だ、だいたい何か証拠でもあるっていうんですか?」
必死に言い募る1年生が口にした言葉に、ギイは嫌悪の感情を隠そうともしなかった。
ギイが溢れそうになる感情を、それでも必死に堪えているのは託生にはよく分かった。
ギイは彼らを一瞥すると、託生を少し押し出した。
「ここにる」
え、と託生はギイを見上げた。
「託生、この中にお前の背中を押したヤツがいるだろう?誰だ?」
「・・・っ」
ひやっとするほどに冷たい言い方に、けれど託生は絶対に言うまいと首を振った。
ここで言えばどんなことになるか分からないほど鈍くはない。
当事者である1年生はギイがこんな行動に出るなんて絶対にないと思っていたのだろう。それがこんな風に人がいる場所で詰め寄られることになって、どうすればいいか分からないようでうろうろと視線を彷徨わせている。
「見たんだろう?誰だ?」
「・・・」
きゅっと唇を結んだまま、託生はギイを睨んだ。
傍から見ればギイと託生が喧嘩をしているようにも見えただろう。
1年生たちも固唾を飲んで二人を見守っている。
「これは託生の問題じゃなくて、オレの問題だ」
「どうしてっ、ギイには関係ないっ・・・」
「誰かがやった。ふざけたつもりだったのか、それとも悪意を持ってやったのか。どちらにせよ、一つ間違えば大怪我になるところだった。託生との間にどんなトラブルがあったのかは知らないが、いずれにせよそういうトラブルや悩み事を聞いて解決するのが階段長の役割なのだとしたら、オレはそれができてなかったことになる。オレじゃあとても役に立たないと思われたのか、それともそんなオレへの当て付けなのか・・・」
「そんなことっ・・」
1年生たちが慌てて首を横に振る。
言いがかりもいいところだ、と託生は内心呆れ返った。今回のことが、そんなことが理由じゃないことくらい百も承知のくせして。嫌がらせの標的になったのはギイではなく託生なのに。
それなのに、階段長であるギイに問題があるかのように話をすり替えた。
今後、託生に、いや誰かに同じようなことが起きれば、それはギイへの嫌がらせになるのだと匂わせて。
もちろんそんなことは詭弁だと、ここにいる誰もがわかっていた。
ギイが託生のためにここまでしているのだということは誰が見ても明白だ。
それでも、それを面と向かってギイに言えるような雰囲気はなかった。
「もし故意にしたのだとしたら、停学や退学だってあり得ることだからな、有耶無耶にするわけにはいかない」
ギイの言葉に、1年生たちは表情を変えた。まさかそこまで大事になるとは思ってもいなかったのだろう。
託生だって言われては初めて気づいた。どんな形であれ、相手を傷つけるような喧嘩は禁止されている。
確かに、もし故意に悪意を持ってやったことだとすれば、処分の対象にはなるのだけれど・・・。
言葉を発することができずにぴりぴりとした緊張感が漂い、誰もが今すぐにでもこの場から逃げ出したいような気持ちになっていたと思う。そんな張りつめた雰囲気を破ったのはギイでも託生でも1年生たちでもなく、喫茶室に入ってきた矢倉と野沢政貴だった。
ぱんっと矢倉が手を叩き、その音に弾かれたように皆が振り返る。
「お前たち、こんなところで何やってる」
「矢倉くん」
「喫茶室で揉め事が起こってるって連絡が入ったから来てみたら、ギイ、諌める立場のお前が何やってんだ」
「・・・」
見ると、喫茶室の入り口には人だかりができている。おそらく託生たちがここにきた時に中にいた生徒たちが、何だかややこしそうな雰囲気に気づいて階段長の矢倉たちに連絡をしたのだろう。
これだけの人間が一つ屋根の下で暮らしているのだから、些細な諍いや揉め事はしょっちゅうなのだ。寮内の揉め事は、基本的に階段長が間に入ることになっていて、たいていのことはそれで事足りる。
よほどのことがない限り、先生が出てくることはない。
「ちょっと話聞かせてもらうからな」
「もう解決した」
ギイが短く言うと、矢倉は肩をすくめた。
「当事者の言葉なんて信用できないな。さ、1年たちは全員4階のゼロ番へ行け。吉沢が話を聞く。葉山は野沢から事情聴取。階段長のギイは、1階のゼロ番。俺が話を聞く」
「・・・」
「ほら、さっさと行け」
有無を言わせず、てきぱきとその場を取り仕切る矢倉からは、普段のおちゃらけた様子はかけらも感じられない。
いざとなるとやっぱり階段長なんだな、と託生はぼんやりと思った。そうでなければ階段長になど選ばれないのだ。
「葉山くん、先にゼロ番に行っててくれるかな。すぐに行くから」
政貴はそう言うと、うなだれる1年生たちを連れて喫茶室を出て行った。
「さ、ギイも」
促した矢倉を託生が止める。
「待って、ごめん、矢倉くん、ちょっとだけギイと話がしたいんだ。二人だけで」
矢倉はギイと託生の顔をかわるがわるに眺め、どうしたものかと考えたが、少しだけだぞと前置きして、入口付近で物見高く溢れていた生徒たちを蹴散らし、部屋を出て行った。
二人きりになると、託生は怒りを収めるために大きく深呼吸をした。
「ギイ」
「・・・」
「どうしてこんなことしたんだよ。こんなことしたら、ただの友達だなんてふり、何の意味もなくなるじゃないか」
「どうせあいつらは最初から疑ってるさ。だから託生に手を出した」
「それでも、疑ってるだけなのと、確信するのじゃ全然違うだろ?」
それくらいギイだって分かってるくせに。ギイはまた苛立ったように語気を強めた。
「そんなことより、託生が傷つく方が我慢できないっ。こうならないように友達のふりをしているが、大事な左腕を怪我してまで秘密にすることじゃない。何も手を打たずに黙っていれば、あいつらはまた手を出してくるんだぞ」
「そんなことないよ」
「どうして分かる?」
「だって、すごく傷ついた、後悔をしている目をしていたから」
「なに?」
託生の言葉の意味が分からないというようにギイが目を細める。
今さら勝手につまずいたなんて言っても仕方がないと諦めて、託生は背中を押されたことを認めた。
ギイは再び怒りを顕わにしたが、それは1年生に対するものなのか、それとも隠し通そうとした託生に対するものなのか分からない。
「あの時、ぼくは彼の顔を見たよ。押されたぼく以上に、押した彼の方が傷ついた顔をしていた。自分がしたことがどういうことなのか、やっと分かって、すごく後悔をしている表情をした。それを見て、これが最初で最後だって思ったんだよ」
「・・・」
「彼はちゃんと反省してた。だからこれ以上追い討ちかけるようなことはしたくなかった」
自分の気持ちの赴くままに人を傷つけて、それでも平気な人もいるだろう。
だけど彼は違った。
講堂の出口で、倒れた託生と目が合った瞬間に、泣き出しそうな顔をして逃げ出した。
今だってギイに追い詰められて真っ青な顔をしていた。人を傷つけるということがどういうことなのか、彼はちゃんとわかったのだ。
そんな彼を今さら追い詰めて何になる。
そんな託生の言葉を、ギイは馬鹿馬鹿しいと切り捨てた。
「だからいいって?あいつらが本当にそんな風に反省すると思うか?託生の言う通り、あいつはそうかもしれない。自分がやったことを反省して、もうこんなことはしないかもしれない。けどな、一人に情けをかけたって、他の連中には伝わりゃしない。その度に託生が嫌な思いをして、だけど我慢すればいいって言うのか?どうしてそこまでする必要が・・・」
「だって共犯者になってくれって言っただろ?」
「え・・・?」

ギイがそう言った。
いいよと託生が答えた。

ギイが背負う荷物をできるだけ軽くしたいと思った。
それでなくても親しかった友人たちを全員シャットアウトして孤独な状態でがんばってるギイに、余計な心配はかけたくなかった。ギイのためにできることなら何でもしたかった。
たとえそれで自分が傷つくことになっても良かったのだ。
託生にとって共犯者になるということはそういうことだった。
ただ友達のふりをすることに甘んじているだけじゃ意味がないのだ。
ギイに頼るのではなくて、自分でできることは自分でしなければ。守られてばかりではギイの共犯者でいることなどできやしない。
託生の言葉に耳を傾けていたギイは何かを考えるように黙っていたが、やがて顔を上げた。
「わかった」
その口調はそれまでのぴりぴりするようなものではなく、どこまでも静かで、それが余計に怖い気がした。
「やめよう、託生」
「え?」
「もういい。共犯者だなんて、オレが言ったのが間違ってた」
ギイはくしゃりと託生の髪を撫でると、扉を開けて顔を覗かせた矢倉のもとへと歩き出した。
たった一言でその場に取り残された託生は、ギイを追いかけることもできず、一人その場で立ち尽くした。









「少しは落ち着いた?」
2階のゼロ番。大まかな経緯は把握しているのか、政貴はあれこれを託生に尋ねることはしなかった。
ソファに座った託生は政貴から温かい紅茶を受け取ると、小さくうなづいた。
「大丈夫だよ。ありがとう、野沢くん」
「そう言う割には顔色はまだ悪いけどね。ああ、腕の怪我は?しばらくバイオリン弾けないんだって?」
「うん・・・でも大丈夫だよ。すぐに治るし」
託生が言うと、
「大丈夫っていうのが最近の葉山くんの口癖だね」
「え?」
政貴は託生の隣に座り、だってさ、と続けた。
「3年になってからあんな風にギイと距離を置くようになって、平気なはずないのに、葉山くんはいつでも大丈夫だって言うだろ?それってほとんど口癖だよね。本心じゃない。ただの条件反射」
「そんなこと・・・」
「だからギイが心配するんだよ」
「・・・・」
そうなのだろうか。自分では意識したことなどなったけれど、確かに考えてみれば、誰かに心配されるたび、大丈夫だと言っているような気がする。
それは本当に大丈夫なのだというよりは、自分に言い聞かせているところもある。
本当はぜんぜん大丈夫なんかじゃないのに。
寂しくて、辛くて、どうしようもないのに、だけどギイに頼るわけにはいかなかった。
「葉山くんて、見かけのイメージに反して、案外と男だよね」
「え、何それ?」
「いつもギイといると、ギイが何でもやっちゃうだろ?あからさまにそうでなくても、ギイは葉山くんの世話焼くの好きそうだし。葉山くんも、ギイといると信頼しきって、力抜いて、ギイに任せっぱなしに見えるんだけど、だけど違うよね。たとえ相手がギイでも、嫌なことは絶対に嫌で、たとえ周りから何て思われても自分がそうしたいって思ったら突き進む。大好きなギイに何て思われても平気なところあるだろ?」
「そんなことないよ。それに、それってけっこう自己中なヤツみたいに聞こえるんだけど」
「そういう意味じゃなくて、自分の中に信念があるなってこと」
政貴はうんうんとうなづく。
「ギイにもさ、そういうところあるだろ?3年になってからの変貌からしてそうだよね。自分でこうって決めたら突っ走るとこあるっていうか。もちろんそれがベストな選択な時もあるけど、ギイもけっこう猪突猛進なとこあるからなぁ。特に葉山くんのことに関しては。だから、葉山くんと似てるとこあるのかなって思う反面、二人してそんな風に周りが見えなくなっちゃうと、お互いのことすら見えなくなっちゃうよ?」
「野沢くん・・・・」
「ギイは何をするでも葉山くんのことを思ってて、葉山くんが傷つかないようにって動いてる。今回のことだってやり方はまずかったかもしれないけど、やったことは間違ってないと思うよ?」
「・・・」
「これでしばらくチェック組は大人しくなるだろうし、葉山くんとギイの仲が邪推から確信に変わったとしても、下手に手を出せばギイが怖いって分かっただろうし。よかったんじゃないのかな。どうせいつまでも隠せるとは思ってなかったしさ、あのギイが葉山くんなしでいられるわけがないんだから」
どこまで楽天的な政貴の言葉に、託生は思わず笑ってしまった。
この友達は、見た目では考えられないくらい強い人で、繊細そうに見えて実はずいぶんと野太い一面がある。小さなことをあれこれと悩むことなく、どっしりと構えてどんなことでも受け入れてくれる。
そしてやっぱり階段長らしくちゃんと人のことを見ている。
「葉山くん、もしかしてギイとも喧嘩した?」
「喧嘩にもなってないような気がするな。何だか上手く気持ちがかみ合ってないっていうか・・・」
もういい、と言われた。
共犯者じゃなくていいと、ギイは言った。
そう言われた瞬間、託生はそれまで張り詰めていた気持ちが急にすべて消えてしまったような、そんな不思議な感覚に襲われた。
いったいギイは、どういうつもり共犯者になってくれなんて言ったのだろうか。
そんな簡単にもうやめようなんて口にする程度の、軽い気持ちで言ったのだろうか。
その言葉を大切にしようと思っていた自分の方が間違っていたのだろうか。
上手く考えをまとめることができずに、託生は知らず知らずのうちに吐息をついた。
政貴はそんな託生を慰めるように優しく言った。
「3年になってから2人きりで会う機会もなくなってるし、そりゃあ気持ちだってすれ違うこともあるよね。だから、このあとちゃんと話し合うといいよ」
「え?」
「矢倉とも話したんだけど、萎れてる1年生のフォローは吉沢が引き受けてくれたし、まぁあとでギイだって上手くやるだろうからそれはいいとして、一番こじれてそうな葉山くんたちを元に戻さないとな、って」
元に戻す、と政貴は言うけれど、果たしてギイにその気があるのかどうかも分からない。
共犯者をやめようといわれたことが、そのまま恋人であることもやめようと言われた気がして、正直あの言葉はこたえた。
「ねぇ野沢くん」
「何だい?」
「ぼくは、ギイの荷物にだけはなりたくないんだよ」
「荷物?」
「ぼくとのことがなければ、ギイは3年になってからあんな風にみんなと距離を置くようなことしなくても良かった。あんなに友達がたくさんいて、いつもみんなと楽しく笑ってたギイが、今の状況が楽しいはずがない。寂しくないはずがない。ぼくは1年の時、自分から望んでそういう状況にいたけれど、それでもやっぱり時々は寂しいって思ったよ。ギイは強そうに見えて、本当はすごく寂しがり屋なところがあるから、本当は辛いんだと思うんだ。だから、ぼくのことで今以上に辛い思いはして欲しくないって思ったんだ。1年のチェック組のことはぼくなりに対処できると思ったんだよ。ギイの力を借りなくてもね。そういうのって間違ってると思う?」
「うん、葉山くんの言いたいことは分かるよ。間違ってもないと思うし。何だろうね、ギイも葉山くんも自分で自分のこと追い込む性格なんだなぁ、2人とも案外とマゾだったりするんじゃない?」
政貴がくすくすと笑う。
「2人ともいろんなこと大げさに考えすぎだよ。確かに、目の前に何か問題があるとそればっかり気になってしまうよね。でも、そのせいでもっと大切なものを無くしたら元も子もないだろ?ちゃんとギイと話をして、お互いにお互いのこと分かり合った方がいいよ。絶対に上手くいくから」
「そうかな」
「心配しなくても、これくらいのことでギイが葉山くんと別れたいだなんて思うわけないだろ。葉山くんの方からちょっと歩みよってあげれば?ギイ、珍しく頭に血が上ってるから、あれじゃまともな考えなんてできないよ」
「ひどいね、野沢くん」
思わず吹き出してしまった。あの天下のギイを相手に、そこまでばっさりと言い切ることができるのは政貴くらいなものじゃないかと思えてくる。
「1年生たち、大丈夫かな?」
「うん?吉沢がちゃんとフォローしてるよ。心配しなくても、そういうの上手いからさ。階段長って基本的には自分の階の揉め事担当だけど、内容によってはお互いに力借りたりしてるんだよ。ほら、人には得意とする分野があるからさ」
「うん」
「さ、そろそろ矢倉がギイのことクールダウンしてるはずだし、行こうか。1階のゼロ番借りることになってるから」
何となく腰が重かった。
あんな風に怒ったギイを見るのは初めてだったし、もう共犯者じゃなくてもいいなんて言われたあとで、いったいどんな顔をして会えばいいのか分からない。
それでも逃げるわけにはいかないし、ギイの気持ちも知りたかった。
それでなくても会える機会は少ないのだから、こうして政貴たちが場をセッティングしてくれるのは素直にありがたかった。
「ありがとう、野沢くん」
「お礼なんていいよ。葉山くんとギイにはいろいろと世話になってるから」
何でもないことのように笑って、政貴は部屋の扉を開けた。





1階のゼロ番に行くと、やけににこやかに矢倉が出迎えてくれた。
「よぉ、入れよ」
中に入ると、ギイはどこか手持ち無沙汰な様子で部屋の真ん中で立っていた。
「さっき吉沢が来て、一年坊主たちは相当びびったみたいで反省してるってさ。まさか停学だの退学だのなんて言葉が出てくるとは夢にも思ってなかったんだろうな」
「寮内での喧嘩は処罰の対象だって、入寮式の時に話したはずなのに聞いてなかったのかな」
のんびりと野沢が答える。
「一人が葉山にしたこと認めたらしいけど、葉山がそこまでの処分は望んでないってことで先生への報告は見合わせることにした。ここで恩を売っとくのも手だしさ」
「そうだね、それがいいね、ね、葉山くん?」
「え、ああ、うん、そうしてくれると助かるよ」
託生はギイをまともに見ることもできずに、視線を逸らしたままうなづいた。
そんな託生に矢倉と政貴は顔を見合わせた。
「さて、と。じゃああとはギイと葉山がちゃんと話し合ってくれればいいんだけど、どうする、俺たちいた方がいいか?」
「いや、二人にしてくれ」
ギイがはっきりと言う。矢倉は了解とうなづくと、政貴と連れ立ってゼロ番を出て行った。
どちらから先に話を始めるか、何とも微妙な空気が流れる。
ギイはふっと肩の力を抜くと、ソファにどさりと座り込んだ。
「矢倉に、託生にちゃんと謝れって言われたよ」
「・・・・」
「あんな風に公衆の面前に引っ張り出されたら、託生の立場がないだろうって。うん、そうだよな。よくよく考えればそうなんだけど、あの時はそこまで考えられなかった」
もういつものギイだった。
どうやら矢倉に容赦なく説教されたのだろう。さっきまでのぴりぴりとした様子は感じられない。
祠堂広しと言えどギイに説教できるのは章三か矢倉くらいしかいない。
託生は少し距離を置いて、ギイの隣に座った。
「野沢くんに、二人ともいろんなことを大げさに考えすぎだって言われたよ」
「うん?」
「そのせいで大切なものを無くしたら元も子もないだろうって」
「ああ、矢倉にも同じこと言われた。あいつらよく見てるよな」
ギイはばつが悪そうに前髪をかき上げた。
「ギイ」
「うん?」
「ぼくはもう・・・ギイの共犯者じゃいられない?」
「・・・・」
「ギイのこと、怒らせるつもりはなかったんだよ。ギイの辛さも寂しさも、ぼくは少しでも一緒に持ちたかっただけなんだ。いつもいつも、ギイは自分で全部背負い込んじゃって、それってさ、ぼくのことを信頼してないからなの?頼りないって思ってるから?共犯者ってどういう意味でギイは言ったの?ぼくは、共犯者っていうのはギイと同じ高さで同じ困難を越えていくべき存在なんだと思っていたよ。そうありたいって思って、そうなれるように頑張るつもりだった」
「託生・・・」
「ギイは違うのかな」
視線を上げてギイを見ると、ギイは泣き出しそうな表情で首を振った。
「ごめん。託生の言う通りだ」
「・・・・」
「だけど・・・ただオレは、託生のことを守りたかっただけなんだ」
「守る?まるで女の子だね」
苦笑する託生にギイはそうじゃなくて、と少し考えたあと言った。
「オレが託生のことを守りたいって思うのは、託生のことを信頼してないとか、頼りないと思ってるとか、女の子扱いしてるとかそういうことじゃない。それは違う。そんな風に思ったことなど一度だってないよ」
「じゃあなに?」
「愛してるからだよ」
ギイの言葉に、託生ははっと目を見開いた。
「託生のことを愛してるから、大切にしたいし守りたい。弱いとか強いとかは関係ないんだ。誰かがお前のこと傷つけるようなことがあれば、オレはどんな手を使ってでもそれを阻止するよ。誰よりも大事だと思ってるんだ。当然だろ?そんな風に思うのはおかしいか?」
問われて、託生はふるふると首を振った。
「もういいって言ったのは、共犯者って言葉で、託生に余計なプレッシャーかけたんじゃないかと思ったからだよ。そんな言葉に縛られて、託生がオレのために我慢したり無茶なことして怪我したりするくらいなら、共犯者なんてやめていいって思った」
「・・・・」
「過保護だって思うかもしれないけど、しょうがない。こんなふうにしかオレは託生のことを愛せない。諦めてくれ」
あまりにきっぱりと言うものだから、託生は怒る前にあきれてしまった。
そして笑いがこみ上げる。
「変なの、ギイ」
「変じゃない」
「変だよ」
託生は向きを変えて真っ直ぐにギイを見つめた。
そんなに大切にしてくれなくていいのに。
ギイが思うほど、自分は簡単に傷ついたりしない。ギイがいるから、強くなれると思っている。
見つめあっていると、何だかくすぐったいような気恥ずかしいような気持ちになった。
ギイが託生の手を取った。
その温もりに、それまで張り詰めていた気持ちが溶けていくような気がした。
「ギイ」
「うん?」
「ギイがぼくのことをそんな風に大切にしたいって思ってくれるのと同じように、ぼくだってギイのことを守りたいって思ってるんだよ?誰かがギイのこと傷つけるようなことがあれば、ぼくだって戦うよ。愛してるのは、ぼくだって同じなんだよ?そんな風に思うのはおかしいかな?」
「託生・・・」
「もしまた同じようなことがあれば、ぼくはきっと自分のことよりギイのことを優先する。ギイに怒られたってしょうがない。そんな風にしかぼくはギイのことを愛せない。だから諦めて?」
ギイの台詞をそのまま返すと、ギイは一瞬の瞠目の後、やれやれというように天を仰いだ。
ギイのように、強い力や行動力があるわけじゃない。考えも浅はかだったり、及ばないことも多いだろう。
けれど、ギイが言うように、相手が弱いか強いかなんて関係ないのだ。
ただ守ってあげたいと思う、それだけだ。
「自分よりも相手のことを守りたいって思ったり・・」
「うん?」
「かと思えば、その人のためなら自分が我慢しようって思ったり。両極端だよね、ぼくたち」
託生の言葉にギイは瞠目して、そして照れくさそうに、そうだなと笑った。
引き寄せられて、そのまま胸の中に閉じ込められる。
ぺたりと胸に頬をくっつけて、託生はギイの心臓の音に耳を傾けた。まるで小さな子供ようにギイの鼓動に安心する。ギイはくしゃりと愛おしそうに託生の髪を撫でた。
「なぁ、こういうのって似たもの夫婦っていうのかな?」
「夫婦?」
ギイの問いかけに、託生は眉をしかめる。
「うん、気持ち的にはそんな感じで」
「だけど、こういうところが似ちゃうのってどうなんだろうね。矢倉くんたちにもいっぱい迷惑かけちゃったし」
「あー確かにな。しばらくネチネチと嫌味言われるに違いない」
「赤池くんにも言われるよ」
「それが一番の問題だ」
真面目な顔でうなづくギイに笑ってしまう。
たぶんギイだけじゃなく、託生だって嫌味を言われるに違いない。
章三が一番容赦ないからなぁとぼんやり思う。
「ごめんな、いろいろ」
ギイのつぶやきに託生が顔を上げた。
「やっぱりオレ、お前に迷惑かけてるよな」
「・・・そんなこと・・・ぼくだって、ごめん」
相手のことばかり考えるあまり、それを理由に頑なになっていた。好きだからってことを、共犯者だからってことを免罪符にして、やっぱりどこかで無理をしていた。
きっとギイも気づかないうちに同じように気負っていたのかもしれない。
「オレはもっと託生に頼ることにするよ。だから託生もいろんなことを我慢しないこと」
「うん」
「隠し事はしない。嘘はつかない。困ったことがあれば相談する。目の前の困難なことは、二人で一緒に考えて解決していこう」
「うん」
「そんな風に、もう一度オレの共犯者になってくれる?」
今度こそ、その意味を間違うことなく、お互いを支えあえる共犯者になろう。
頼ったり頼られたり、たぶんそれでいいのだ。
好きな人のことを大切にしたいという思いは同じだから。
「いいよ、ギイ」
うなづく託生に、ギイはほっとしたように微笑んで、その頬に口づけた。


迷惑をかけてしまった階段長のみんな(特に吉沢)にはギイとは別々にお詫びとお礼に回った。
もちろん階段長ではないけれど、章三のところにもちゃんと顔を出した。
彼の好きなブリックパックを袖の下として差し出すと、章三はじろりと一睨みしたあとに、部屋に入るようにと促した。
「あの、いろいろ心配かけてごめん」
託生が言うと、章三は軽く肩をすくめた。
「僕も勝手にギイに告げ口したりして悪かったよ」
「でも赤池くんの方が正しかったよ。ぼくはちゃんとギイに彼らのことで相談するべきだった」
「なぁ、葉山。僕は別に葉山だけじゃ解決できないなんて思ったわけじゃないんだぜ。葉山だけの問題じゃないだろ?お前たち二人の問題だと思ったからギイに話した」
「うん、分かってる。ありがとう、赤池くん」
託生がうなづくと、章三は少しほっとしたように微笑んだ。
その様子を見て、章三も今回自分がしたことが正しかったかどうか不安だったのだと気づいた。
「それにしてもギイはずいぶんと派手にやってくれたよな。あいつ、ちゃんと後始末できるのか?」
喫茶室での騒ぎは当然章三の耳にも入っていた。そりゃああれだけ派手に言い争えば・・・おまけに当事者がギイなのだから、今回のことは寮生たち全員の知るところとなっているはずだ。
「たぶん。何しろキレ者の階段長たちが一致団結してるからね。1年生たちへのフォローはばっちりだと思うよ。ギイも、ちゃんとするって言ってたから」
「そっか、ならいい。お前たちもちゃんと仲直りしたんだろうな。僕はもう痴話喧嘩に巻き込まれるのはごめんだぜ」
「その時はまた袖の下持ってくるよ」
笑って言うと、章三はちぇっと舌打ちして、それでもどこか楽しそうに笑った。
「赤池くんは、何があってもギイの相棒だよね」
「何だよ、まさか『ぼくも相棒の方が良かったなぁ』なんて言うつもりじゃないだろうな」
「言わないよ。ぼくは赤池くんみたいな相棒にはなれないよ。でもいいんだ」
「うん?」
「もっと違う関係があるって分かったから」
「?」
恋人でも、友達でも、相棒でもない。
たとえギイが、それがやむを得ないことで本心でないとしても、親しい友人たちを距離を置いてそれまでとは違う人のようにそっけなくしても、何も変わらずにギイのことを心配して、心を砕く、そんな友人がギイにはたくさんいて、きっと知らないうちにたくさん助けられているのだ。
「赤池くん、これからもよろしくお願いします」
「・・・あんまりお願いされたくないけどな」
「そんなこと言わずに、ね」
お願いします、と手を合わせると、章三はしょうがないなと肩をすくめた。
ギイにはこんなにいい友達がいる。
困った時には心から心配して助けようと手を差し伸べてくれる。
そしてきっと同じように、自分も彼らにたくさん助けられている。
共犯者は託生だけではなく、知らないうちに、きっとみんなが共犯者になっているのだ。
それは思いのほか心強いことで、不思議と力が湧いてくるような気がした。





Text Top

あとがき

 仲良くしていただいているkiyo9646様へのハピバ話でした(kiyoさんのサイトはこちらから!) いただいたお題は「本気で(託生くんに)怒るギイ」でした。む、難しかった。お題クリアできてるかしら。