※ベトナム旅行行ってるときに妄想していたお話(笑)当然パラレル。大丈夫な人だけどうぞ! 「14時にホテルの部屋で」 小さな紙片に書かれたメモを知らず知らずのうちに強く握り締めていた。 ギイが長期滞在している高級ホテル。 フランス様式の建物は周囲の建物とは全く違う。 もちろんホテルの中は別世界だ。 ぼくなんか一生かかっても足を踏み入れることはできないだろうと思っていた。 今だって、このメモがなければ扉を開ける勇気すら出てこない。 手を伸ばそうとすると、さっとドアマンが扉を開けてくれた。 みすぼらしい格好のぼくを一瞥して、けれど何の感情も顔に出すことはない。 内心はきっと軽蔑しているに違いない。もしくは汚らわしいと思っているか。 ぼくは突き刺すようなドアマンの視線に気づかないふりをして、ホテルのロビーを横切った。 中にいるのは誰も美しく着飾った人ばかりだ。 上流階級と呼ばれる人種には、どうしても腰が引けてしまう。 普段交わることのない人たちだから、どう接すればいいかがわからないのだ。 もっとも、向こうはぼくのことなんて視界には入っていないんだろう。 そもそも住む世界がまったく違うのだ。 早く人目から逃げたくて、エレベーターホールへと歩き出したぼくは、ロビーの片隅で奏でられている美しい音楽に足を止めた。 古めかしいピアノの伴奏に合わせてバイオリンが主旋律を奏でている。 このホテルで生まれて初めて、ぼくはバイオリンの生演奏を目にした。 その美しい形と響き渡る深い音色。 耳に優しくて、心が震える。 ああ。一度でいいから触れてみたい。 もちろんどうやって弾くかなんて分からない。だけど、ちょっとだけでも手に取って、その重さや手触りを確かめてみたい。 どれくらいぼんやりとしていただろうか、くしゃっと背後から髪を撫でられて、はっとした。 振り返るとギイが困ったような笑みを浮かべて立っていた。 「いつまでたってもやってこないから、ここかなと思って」 「あ・・・ごめん・・」 ギイはぼくが見入っていたピアノとバイオリンを一瞥したけれど、さして興味を引かれた様子はなかった。 たぶん、ギイにとっては、ホテルの片隅でBGM代わりに流れている生演奏など、特別なものでも何でもないのだろう。 「託生はバイオリンがお気に入りだな」 肩を抱かれて歩き出す。 「うん・・・綺麗だよね。音が・・」 「確かにな。今度、バイオリンのコンサートに一緒に行こうか?チケット手配するよ」 「ううん。そんなの行けないよ」 ギイのいる煌びやかな世界と、ぼくのいる世界は違いすぎる。 会うのはホテルの部屋でだけ。 それがぼくとギイが会う時のルールだ。 ギイは不満そうだったけれど、ぼくは彼の恋人じゃない。 もう何度か足を踏み入れた最上階のスウィートルーム。 部屋に入ると、何ともいえないいい匂いがした。 見るからに高そうな調度品の数々には溜息が出るばかりだけれど、ギイにはそういうものがよく似合う。 ギイ自身が高級品で、だから身につけているものも、周りにあるものも、彼が選ぶものはどれも一流のものばかりだ。 部屋には少し古い部屋の香りと、ギイの香りが交じり合っている。 ぼくはギイが身につけているコロンの香りが大好きで、この部屋に入るといつも深呼吸をしてしまう。 情事のあとの脱ぎ捨てられたシャツからも甘い匂いがして、ぼくは時々そっとシャツに鼻先を埋めてしまうくらいだ。 大きな窓からは町の中央を流れる川が見えた。 薄汚れた川の色を見るといつも気分が沈んだ。 どれだけ流れても決して澄むことがない川は、ぼく自身のこれからの生活を彷彿とさせる。 この部屋の中から一歩外へ出れば、ぼくはまたあの汚れの中へと帰っていかなくてはならない。 「託生、美味いワインがあるんだ。こっちにおいで」 呼ばれてギイへと歩み寄る。 ボトルを片手にしたギイが器用にコルクを抜き、背の高いグラスにワインを注いだ。 「支配人に頼んでおいたら、昨日届けてくれた。よく冷えてるから飲んでみて」 促されて一口飲むと、ふわっと口の中で甘い香りが広がった。 冷たい液体が喉を通っていく感触が心地いい。 「美味しい」 「だろ?託生に飲ませてやりたかったんだ」 ギイは長い腕でぼくを引き寄せると、ワインを口に含んだまま口づけてきた。 流し込まれる液体を必死で飲み干した。 それほどアルコールに強いわけじゃないので、たった二口だけでも身体が熱くなるのを感じた。 ワインがなくなると、ギイが舌先を咥内へと差し入れてきた。 「んっ・・・」 強く抱きしめられて、貪るような深い口づけに夢中になる。 縺れるようにして広いベッドに押し倒されて、シャツを脱がされた。 汗ばんだ肌をギイの唇が這っていく。 触れた部分がさらに熱を持って、身体中に広がっていくような気がした。 開け放たれた窓の外から聞こえる喧騒に、今がまだ昼間だということを思い出した。 だからどうということはない。 ギイがぼくを呼び出すのはそれが目的で、ぼくも分かっていてここへ来たのだ。 くすぐったいほどに優しく、ギイがぼくの全身をくまなく愛撫していく。 いっそ有無を言わせず、快楽など与えずに抱いてくれた方がずっといいのに、ギイは決してぼくに苦痛を与えるようなことはしなかった。 「託生・・・」 恥ずかしい格好にされて、ギイがぼくの名前を呼ぶ。 閉じていた目を開けると、欲情に濡れたギイの淡い金茶の瞳がぼくを見つめていた。 ゆっくりと身の内に入ってくる屹立の熱さに息を飲む。 抱えられた脚が空に浮き上がる。 揺すぶられ、突き上げられ、痛みと共に言葉にできないほどの快楽に支配されていく。 ギイの肩に両手を回すと、ギイはぴたりと胸を合わせて口づけてくれる。 ベッドの軋む音や、繋がった場所から聞こえる濡れた水音や、時折堪えきれずに漏れる嬌声に眩暈がしそうになる。 「あ・・・っ」 背を逸らして、互いに堪えていた快楽を解き放つ。 ギイの唇が何かを紡いだように思えたけれど、それが何なのかは分からなかった。 浴室にはぴかぴかのバスタブがある。 お湯を溜める習慣なんてこの国にはないから、初めてバスタブに張られた湯に身を沈めたとき、何ともいえない心地よさに驚いた。 ぼくがあまりに感心したものだから、ギイはそれからというもの、情事のあとには一緒に入ろうと言ってきかなくなった。 ギイは毎回湯の中に何やら得体知れない液体を混ぜる。透明な湯が白く濁り、とてもいい匂いがする。 向かい合わせに座っても、互いの裸体が見えないのも良かった。 いくら何度も身体を重ねているといっても、まじまじと見られるのは気恥ずかしい。 「託生、ほらこっち来て」 手を引かれ、背中を向ける格好でギイの脚の間に身を置いた。 「黒い髪、綺麗だな」 ぱしゃっと首元に湯をかけられ、そのままくしゃくしゃと髪を撫でられた。 ギイはぼくの髪を洗うのが好きで、一緒に風呂に入ると必ず髪を洗ってくれる。 子供じゃないのに、と文句を言っても聞く耳持たない。 どうせぼくにはギイに何かを言うような資格はないので黙っているのだけれど。 「なぁ、もう少し伸ばしてみれば?」 「洗うの面倒だし」 「オレが洗ってやるよ」 ギイがこの町にいるのは一ヶ月だけ。 髪が伸びる頃にはもういなくなるくせに、どうしてそんなことを口にするのだろうか。 泡だらけになった髪をシャワーで流すと、ギイは両腕をぼくの身体に回して首筋に口付けた。 「託生・・・」 「駄目だよ・・もう時間が・・・」 「ああ、分かってる。ちょっとだけ」 強請られるように唇に柔らかな口づけが降ってくる。 ぼくとギイの間にあるのは愛情ではありえないのに、どうしてこんな風に優しくするのだろうか。 妙な苛立ちを感じて、ぼくはギイの手を払うとバスタブから立ち上がった。 脇に置いてあったバスローブを羽織り、素足のまま部屋に戻った。 椅子の背にかけておいたシャツを身につける。しばらくすると同じようにバスローブに身を包んだギイが浴室から出てきた。 「託生、明日も会える?」 「明日は無理」 「じゃあ明後日」 「・・・・ギイ、ちゃんと仕事してるの?」 貿易会社の御曹司だというギイ。父親の仕事を手伝うためにこの町にきたのが2週間ほど前だった。 川を渡るための小さな船が毎日何度も行きかうのを、その日ぼくは桟橋の傍からぼんやりと眺めていた。 あの船に乗って、川向こうへ渡り、そして違う国へ行く。 そんな夢をたまに見ることがあった。それは絶対に実現しない夢だけど。 分かっていても、時折現実から逃げたくて桟橋に立つのだ。 川向こうからやってきた小さな船の先頭に立つ人のシルエットに目が止まり、見るともなく見ていると、彼もぼくに気づいたようで、何か眩しいものでも見るかのようにじっと見つめ返してきた。 それがギイだった。 見るからに上流階級の人間だと分かり、ぼくはすぐに興味がなくなった。 自分とは違う世界の人だからだ。 ただ、とても綺麗な顔立ちをしていたから目が離せなかった。 ああ、何もかもを手にしている人はいるのだな、と妬みでも何でもなく単純に感心してしまった。 それほどギイの容姿は際立っていた。 ギイは船を下りると、真っ直ぐにぼくへと近づいてきた。 たぶん年齢は同じか少し上くらい。背丈はずいぶんと高いけど。 「やぁ、今日は暑いね」 まるで仲のいい友達に話しかけるみたいに、ギイはぼくに声をかけてきた。 ぼくが黙っていると、ギイは今渡ってきたばかりの川を振り返った。 「川向こうから渡るのに船しかないなんて不便だな。みんなはいったいどうしてるんだろう」 ここに住む人が川向こうへ渡ることなんてない。 生まれた時から住む世界が決まっていて、どんなに汗水流して働いても、一つ上の階級へ上がることはほとんど不可能だ。 生まれた時から自分が生きる世界は決まっている。 まだまだ発展途上のこの国では、それが当たり前になっている。 この国はこれからどんどん発展していく。その中にはきっとのし上がっていくチャンスもあるのだろう。 けれど、そんなチャンスはごく僅かだ。 他所の国の裕福な連中がやってきて、この国から、この国の人からあらゆるものを搾取して、お金を儲け、贅沢をするのだ。 そんな光景を、ぼくは嫌というほど見てきた。 「オレ、昨日着いたばかりで、まだ町のことが全然分からないんだ。案内してくれないかな」 ギイは明るく笑うと、ぼくにそう言った。 「案内人なら、あそこのホテルに行けば専門にしてる人がいるけど」 「専門の案内人もいいけど、どうせなら歳が近いほうが話も気軽にできるだろ」 「・・・・」 「バイト料は弾むよ」 おどけたように言うギイに、ますます胡散臭さが募った。 忙しいから、とその場を去ろうとしたけれど、ギイはあとをついて来て、あれこれと勝手に世間話をしてきた。 通り過ぎる人が好奇の目で見るのに耐え切れず、ぼくは足を止めて振り返った。 「あのさ、ぼくは専門の案内人じゃないんだ」 「いいよ、それでも」 何なんだ、こいつは、と正直うんざりしたけれど、どうせ今日は仕事はなかったし、半日ほど付き合ってそれなりにお金をくれるというのなら、それでいいかと思い直した。本当に最初はただそれだけだった。 「・・・バイト料、弾んでくれるんだよね」 「もちろん」 どうせお金なんて有り余っているのだろう。それなら貰えるだけ貰ってやろうと意地の悪いことを考えてしまった。いつもならそんなことを思ったりしないのに、どういうわけかギイを見ているとそんな気になった。 「どこが見たいの?」 「とりあえず一通り町を見せてもらおうかな」 ギイはホテル前に止まっていた車を呼んだ。 まさか車で回るなんて思ってもみなかったぼくは、すぐに後悔してしまった。 汚れた服のまま、綺麗な車に乗るのは躊躇われたのだ。だけど、そんなことを思ってるなんて見抜かれるのもやっぱり悔しくて、ぼくは平気なふりをして黒塗りのクラシックカーに乗り込んだ。 中は広くて綺麗で、ふわふわのシートは沈み込むほどに柔らかい。 ぴたりとぼくの肩に触れるくらい近づいて、ギイが隣に座った。 「中央通りへやってくれ」 ギイが運転手に告げると、車は音もなく滑るように走り出した。 いつも通りから眺めるだけの車の中にいる自分、というのが不思議な感じがして、ぼくは案内することも忘れて外を眺めてしまった。 「ああ、そうだ。名前を聞いてなかったな。オレは崎義一。ギイって呼んでくれ」 「・・・ぼくは、託生」 「託生?なに託生?」 「葉山託生」 車の中でギイは自分のことをあれこれと話した。 フランスに住んでいること。学生でもあるけれど、実業家の父親の仕事の手伝いもしていること。 取引先となる農場の実態を視察するために、この国に一ヶ月ほど滞在する予定だということ。 「託生は?学生?」 「・・・学生だけど・・学校にはあまり行ってない。働かなきゃいけないから」 「何をしてるんだい?」 これといって定職があるわけではない。 長くても1週間ほどの仕事を転々としてお金を手に入れる毎日だ。 ほんの半年ほど前まではごくごく普通の学生だった。 生活が変わってしまったのにはもちろん理由がある。人のいい父が知人に騙されて、何も生み出さない痩せた土地を押し付けられ、持っていた財と呼べるものはすべて失ってしまったせいだった。 辛うじて借金だけはしなかったものの、ここではろくな職もないからといい、父は隣町へ出稼ぎに出ていた。 母はそれ以来塞ぎこむことが多くなり、家の中で細々とした内職を続けている。 そして兄は・・・ 「ああ、楽しそうだな」 ギイのつぶやきに顔を上げると、公園でたくさんの子供たちが嬌声を上げて遊んでいる姿が見えた。 無邪気な笑顔を子供たちを見ていると、自然と笑みが零れる。 あんな風に何の悩みもなく遊んでいた頃もあったのに。 もうずっとずっと遠い昔のことのように思えてならない。 「ちょっと止めてくれ」 ギイが車を止めさせて、扉を開けて外へと出た。おいでというように覗き込まれ、ぼくも車から外へ出た。 強い日差しに目を細める。 ギイは少し離れた路上で売っている冷たいジュースを買ってきた。 「はい」 「・・・・ありがとう」 薄いカップに入っているのはほんの少し果実で味つけをした甘ったるいジュースだ。 安い飲み物だというのに、ギイはごくごくと喉を鳴らして飲み干した。 「こういうジュースって子供の頃飲んだよな。今飲むとそんなに美味しいって思わないけど、見ると飲んでみたくなる」 「変なの」 「そうか?託生は甘いジュースは嫌い?」 「そんなことないよ」 今は滅多に飲むことはないけれど、小さい頃は好きだった。 遊びにいった帰りに、母がよく買い与えてくれた。 久しぶりに口にしたそれは、やっぱり甘ったるくて、だけど懐かしい味がした。 「問題は口の中がずっと甘いことだな」 ギイは苦笑するとそのまま歩き出した。仕方ないので、カップを手にしたまま、ぼくはギイの後ろを歩いた。 「あれは?」 「郵便局」 「ずいぶんと凝った作りだな」 興味深そうにギイが一つ一つの建物を眺めていく。 ぼくにしてみれば別段珍しいものでもなかったけれど、ギイに質問されて答えるたびに、それが少しはいいもののように思えるから不思議だ。 気安い口調で話しかけてくるギイと、ぽつぽつと返事をするぼく。 案内をして欲しいだなんて言っておきながら、ギイはたいていのことは知っているようだった。 ほんの少し話をしただけでも、ギイが頭がよくて、仕事ができる人なんだろうなということは分かった。 ちゃんとした家に生まれて、大切にされてきた人が持つ鷹揚さや、お金に苦労したことのない余裕のある感じ。明るくて、好奇心旺盛で、ギイはぼくが憧れていたすべてを持っているように見えた。 一緒にいるとそれだけで、ぼくは自分が本当に価値のない人間のように思えて仕方なかった。 「託生、このあとは何か予定がある?」 「・・・・べつに・・・」 ギイと別れたら、あとはもう家へ帰るだけだ。 あの息苦しい空間にいたくなくて、できるだけ遅く帰るためにどこかで時間を潰すくらいはするだろうけど。 「案内してくれたお礼に食事を奢るよ。どこか美味しい店は知っている?」 「そんなのいいよ。バイト料くれるんだろう?それとも食事がその代わり?」 「バイト料はバイト料。食事はまぁあれだな、もうちょっと仲良くなりたいから、お近づきの印に」 仲良くなりたい? ギイの言ってる意味が分からなくて、ぼくは黙り込んだ。 ギイはそれが了承の印だと思ったらしく、今夜はオレが店を選ぶよと笑った。 家に帰りたくなかったこともあって、ぼくは半ば投げやりな気持ちでギイの誘いについていった。 ギイが選んだのは町の中心にある高級フレンチの店だった。 店の存在は知っていたけれど、もちろん入ったことなんてない。 だいたいフレンチなんてどんな料理が出てくるのかも分からない。 薄汚れた服のままこんな店に入っていいのだろうか、と思ったけれど、店員は笑顔でぼくたちを奥の部屋へと通してくれた。たぶんギイと一緒だからなのだろう。 「託生は何か嫌いなものはある?」 「・・・・何でも食べれるけど・・・これ、いったいどういう料理なの?」 「どんなって・・・まぁゆっくり話をしながら食べるにはいい料理かな。時間をかけて料理が出てくるから ワインも楽しめる」 「ふうん。ぼくは全然分からないから任せるよ」 「そう?じゃあ・・」 ギイはウェイターを呼ぶと、メニューを見ながらコースではなくアラカルトでオーダーをした。 一つ一つ、ウェイターに質問をして吟味しながら選んでいく。 いったいどんな料理が出てくるのか・・という期待よりも、ぼくはテーブルに並べられたカトラリーを見て、困ったな、と思っていた。 これはどうやって使うのだろうか。 たぶん順番があるのだろうけど、さっぱり分からない。まぁ部屋は個室でギイとぼくしかいないのだから、間違ったところでどうということはないだろうけど。 ギイはオーダーを終えると、にこにこと笑ってぼくを見つめた。 「ナイフとフォークが苦手なら、お箸をもらおうか?」 「けっこうです」 「そう?まぁマナーなんてそれほど気にしなくても、美味しく食べるのが一番だから適当に使えばいいよ」 「こういう店、初めてだ・・」 正直に言うと、ギイはくすっと笑った。 「じゃあ遠慮せず楽しんで。食べたいものがあった言って」 運ばれてきたワインは少し辛口で、だけどその感動するほどの美味しさに溜息が漏れた。 食事が始まると、ギイはあれこれとぼくのことを知りたがった。 食事をご馳走になっているという引け目もあって、ぼくは仕方なく尋ねられたことに答えていった。 家族は4人。父は隣町に出稼ぎに出ている。家は決して裕福ではなく、ぼくは月の半分は学校へ行き、半分は仕事をして家計の助けをしている。 「勉強は嫌い?」 「どうかな、考えたことないな。勉強したところで、それが何の役に立つんだろうって思うこともあるし。 もともとそんなに勉強ができるわけでもないし。学校なんてすっぱりとやめて、もっと稼げる仕事につくことも考えたりもするけど・・・」 生活のことを考えればそうした方がいいのだろうが、だけどせめて卒業だけはしておきたいとも思っていた。 就職難のこのご時勢、まともに学校に行っていないとなると低賃金の職にしかつけなくなる。 いろいろと考えなくてはいけないことはあったけれど、全部あとまわしにしているような状況だったのだ。 あまり楽しくもないことを考えながら、ふわっとした白身魚の身を、慣れないカトラリーで何とか小さなサイズに切り分けていく。 だけど、だんだんと面倒になってきてフォークだけで食べることにした。 マナー違反かもしれないけれど、ギイは特に気にする様子もない。 「お兄さんがいるんだっけ。学生?」 「・・・・兄は・・・学生だけど、最近は遊んでばかりいるよ。母とぼくが稼いできたお金を使って」 「両親は何も言わないのか?」 ぼくは小さく笑った。滅多に飲むことのないアルコールのせいか、普段なら口にしないようなことがするっと口から出てしまった。 「母は出来のいい兄をとても可愛がっていて、兄のどんな我侭でも許してしまうんだ。母やぼくが稼いできたお金も、兄の小遣いとして渡してしまう。どんどんエスカレートして、最近じゃあちゃんと学校に行ってないんじゃないかな。あまり良くない友達と一緒にいるみたいだし」 「・・・」 「いい兄さんだったけど・・・変わっちゃったな」 兄は父のことを尊敬していたけれど、信頼していた人に簡単に騙された父を見て失望したのだろう。 真面目に勉強して、働いて、そんなことしても人の善悪が見抜けないと騙される。兄はそんな現実から逃げたかったのかもしれない。 もちろんそんなことは何の言い訳にもならない。 どこまでも兄を甘やかす母にも問題があるし、そんな母に何もいえないぼくにだって問題はある。 だけど波風を立てて、微妙なバランスを保っている今の現状を壊してしまうのが怖いのだ。 「変わることを怖がっていたら、結局何も変えられない」 ギイがぼくの心を見透かしたかのように、静かにつぶやいた。 ぼくは顔を上げて彼を見た。 「こんなことしても無駄だとか、何も変わらないとか、自分が本当にしたいことや欲しいものを何もしないで諦めるのはもったいない。何かを変えるってことはすごくエネルギーがいることで、失敗するかもしれないし、自分が傷つくこともあるけれど、諦めたそこで終わりだろ?あとがない。だろ?」 「・・・だけど、諦めた方が楽なこともある」 「うん、そうだね」 ギイはぼくの悲観的な言葉にも優しくうなづくだけだった。 そんなことが言えるのは、ギイが裕福で苦労をしていないからじゃないか、と八つ当たりのようなことを思ってしまう。そしてすぐにそんな自分が嫌になる。 だけどギイはそんなぼくを責めるようなことはしなかった。 ぼくだって、本当は今の生活に満足しているわけじゃない。やりたいことだっていっぱいある。 だけど・・・ 「託生」 ギイがすっと手を伸ばして、ぼくの手を掴んだ。きゅっと指を絡められて、どきりとした。 「結果が同じだったとしても、もしあの時動いていれば、って思わないようにしないと駄目だと思うんだ。後悔したくないから、だからオレもここにきた」 「・・・・?」 それはいったいどういう意味だろう。 ギイは何かを後悔しないように、この国にやってきたということなのだろうか。 「明日も会いたいな」 「・・・どうして?」 「案内の続きもして欲しいし、それに・・・」 「・・・」 「託生に会いたいから。ただそれだけ」 優しい声で乞われて、ぼくは何故か嫌だとは言うことができなかった。 食事が終わり、ギイがぼくに今日のバイト代だと言って手渡したのは、想像していたよりもずっと高額なものだった。こんなに貰えないと言っても、ギイは譲ろうとはしなかった。 たぶん、ギイにしてみれば、これくらいの金額はどうということはないのだろう。 ぼくが数日働いて手に入れることができるお金を、ギイは何の躊躇もなく簡単に差し出せるのだ。 それならそれでいいだろう。 ぼくはありがとう、と言ってお金をポケットに突っ込んだ。 ギイは泊まっているホテルの名前を告げ、明日15時にロビーで会おうと半ば一方的に約束を取り付けた。 物好きなことだなと呆れつつ、ぼくは挨拶もそこそこにギイと別れた。 家に戻ると、兄はまだ帰ってなくて、母はいつもの通り疲れた顔でぼくを出迎えた。 ポケットに突っ込んでいたお金を取り出して母に渡すと、さすがにその金額に驚いた顔を見せた。 「どうしたの、これ」 「バイト代」 「こんなたくさんのお金・・いったい何のバイトをしたの?」 疚しいことなど何もしていない。だけど、説明するのも面倒で、ぼくは何も言わずに部屋に戻り、そのままベッドに潜り込んだ。 目を閉じると、さっきまで一緒にいたギイの顔が思い浮かんだ。 自分とは違う世界の人だ。 キラキラと輝いていて、自信に溢れ、約束された輝かしい未来がある。 嫌味なくらいに何でも持っている彼を腹立たしいと思ってもおかしくないのに、どうしてかそんな風には思えなかった。かといって、羨ましいかと言えばそんなこともない。 ほんの数時間一緒にいただけだけど、彼は彼なりにきちんと努力をして今の場所にいるのだということが分かったからだ。 強いて言えば、何の努力もできていない自分との差に恥ずかしさを感じて、少し気が引けてしまう感はあったけれど、それは彼を嫌いになる理由にはならなかった。 会えばまた理由のない胸の痛みを感じる予感はあったけれど、流されるままに明日も会う約束をしてしまった。 (託生に会いたいから) ぼくは彼に握られた手をそっと口元へと運んだ。 さらりとした暖かい手だった。 住む世界の違う人でも、もしかしたら友達になれるのだろうか。 そんなことを思って、あり得ない想像に苦笑する。 ギイからすれば、きっとちょっと物珍しいだけで、会うことに深い意味などないのだ。 それならいいアルバイト先ができたと思って、せいぜい稼がせてもらえばいい。 彼らがぼくたちの国からあらゆるものを搾取していくのなら、ぼくはそれを取り戻すだけだ。 どうせギイにしてみれば、たいした金額ではないのだろう。 自虐的な考えに、ぼくは胸の奥がぎゅっと痛くなるのを感じた。 お金のためだと思えばいい。 それ以上、何も期待してはいけない (期待?) いったい彼に対して何を期待するというのだろう。 ぼくはころりと寝返りを打って、深夜になっても窓の外から聞こえてくる喧騒を子守唄代わりに眠りについた。 翌日、約束の時間にぼくはギイが泊まっているホテルのロビーへと出向いた。 その場に似つかわしくない姿のぼくに、宿泊客がちらちらと視線を向けたけど、気にしないふりをしてギイを待った。さすがにソファに座るほどの勇気は持てなくて、ロビーの片隅で立ち尽くしていると、どこからから柔らかな音が聞こえてきた。 顔を向けると、ピアノとバイオリンの生演奏がされていた。 ぼくは引き寄せられるようにその近くへと歩み寄った。 初めて目の前で演奏を見た。 音楽が好きで、自分でも弾いてみたいとずっと思っていた。どんな楽器の音も好きだったけれど、とりわけバイオリンの音色には心を揺さぶられる。 綺麗だなぁと思わず頬が緩んだ。 「託生?」 呼ばれて振り返ると、ギイは不思議そうな顔をして立っていた。 すっかり聞き入ってしまっていたのか、とぼくは慌てた。 「あ、ごめん・・・」 「すごく熱心に聴いてたな。音楽が好きなのかい?」 「嫌いな人なんているのかな」 思わず苦笑する。 「あー、確かに。じゃなくて、興味があるのか、っていうのが正しいかな」 ギイはさりげなくぼくの肩に手を回して歩き出した。 「興味は・・・あるけど・・・」 それは単に音楽を聴きたいという興味ではなく、自分であの楽器を演奏してみたいという興味だ。 バイオリンは小さい時から習わなくてはいけない楽器だから、今さらとは思うし、楽器を習うだなんて贅沢ができる経済状況ではない。 だけど、それはぼくの夢だ。 自分であの美しい音を出してみたいとそう思うのだ。 「オレは音楽はからっきしだからなぁ、そっか、託生はバイオリンが好きなんだな」 どこか嬉しそうにギイが笑う。 ホテルを出ると、その日は車ではなく2人で目的があるわけでもなく町を歩いた。 昨日よりもずっとくだけた感じで、ギイは四方山話を楽しげにして、ぼくはぼくで、昨日よりもずっと平常心でギイと会話をすることができた。 ギイといるとほんの少し緊張して、だけど不思議と安心もできた。 これ以上ギイに心を許してはいけないと思うのに、自分でもどうすることもできず、するすると気持ちが傾いていくのが分かった。 駄目だと思っても、ギイには不思議な魅力があって、それはぼくの気持ちを掴んで離さない。 「ギイは将来はやっぱりお父さんの仕事を継ぐの?」 ふと思いついて聞いてみると、ギイは少し驚いた顔をして、すぐに面映そうに微笑んだ。 ぼくは何かおかしなことでも聞いただろうかと訝しんだ。 「いや、託生がオレのことを知りたがるなんて嬉しいな、と思ってさ」 「別に深い意味はないよ。ただの話のついでみたいなもんだよ」 おかしな誤解をされては困る、と思わずきつい口調で反論した。 ギイははいはい、とあまり分かってないような相槌を打って、そうだなぁと少し考えた。 「このままいけばそうなるのかな。まぁ仕事自体は面白いし嫌いでもないし。まだまだ勉強しなくちゃいけないことは多いけど、そういうのも楽しいよ」 「そっか」 「昔は厳しい父親に逆らうこともできなくて、跡をつぐなんてまっぴらだって思ってた時期もあったけど、仕事自体は楽しいかな」 「ふうん」 「・・・託生は?将来は何をしたいんだ?」 「将来なんて・・・」 毎日の生活がいっぱいいっぱいのぼくにとって、いったいどんな将来を思い描けばいいのかも分からない。 「託生は、違う場所で生きてみたいとは思わない?」 「え?」 違う場所? 「ここではない違う場所で、これからの人生を生きてみたいとは思わないか?自分の人生を、自分のために生きたいとは思わない?」 「・・なに、それ」 決して満足していない今の生活に、けれど何もできずにいる今の自分を責められているような気がして、ぼくはギイを睨んだ。 「ぼくは別に今の暮らしを悲観しているわけでもないし、逃げたいとも思っていない。ギイからすれば生活はひどいものかもしれないけれど、哀れんでなんて欲しくない」 きっと、幼稚な強がりだとすぐに分かっただろう。 できることなら逃げ出したい。 息苦しい家からも。自分のことしか考えていない兄からも。そんな兄を可愛がる母からも。 どんなに働いても楽にはならない生活からも。生きることに精一杯で夢さえ見れない現実からも。 だけど、そんなことを望んでもどしようもなくて。 そしてそんな風に思う一方で、逃げたいと思う自分が嫌で、絶対に負けてなんてやるものかという気持ちもまだ残っている。 逃げたって何も変わらないってことは分かっているから。 相反する気持ちが思いが胸の中で渦巻いて、上手く言葉にはできなかった。 「哀れんでるわけじゃないよ。そうじゃなくて・・」 「だったら何?」 「託生の笑顔が見たいだけだよ」 「・・・っ」 ギイは立ち止まると、何か懐かしいものでも見るようにぼくを見つめた。 「オレは、昔みたいに託生に笑って欲しいって思うだけだよ」 「昔みたいに・・・って、どういうこと?」 ギイとは昨日初めて会ったはずだ。 そうじゃない?ぼくとギイは昔どこかで会っている? 「覚えてないなら、いいんだ」 ギイは落胆した風もなく、先を歩き出した。 もともとそれほど記憶力がいいわけでもないので、もし子供の頃に出会っていたとしても忘れてしまっているのかもしれない。 思いもしなかったことを言われて、ぼくはらしくもなく動揺してしまっていた。 「ギイ・・っ」 「うん?」 思い出せない。 いや、そもそも本当に、ぼくとギイはどこかで会っているのだろうか。 ギイがぼくをからかっているなのかもしれない。 でもそんなことをする意味なんて何もない。 立ちすくむぼくに、ギイが困ったように笑った。 「託生、お茶にしようか。とても美味しいコーヒーを飲ませてくれるカフェを教えてもらった」 「・・・・」 「早くおいで」 背を向けられて、何とも言えない感情が込み上げた。 ギイは強引に近づいてきて、ぼくの中へと入ってくる。 誰にも触れて欲しくなかった部分に遠慮なく触れて、揺さぶって、混乱させる。 これ以上一緒にいたら、ぼくは叶いもしない夢を見てしまいそうになる。 分かっているのに、このまま帰ってしまうことができない。 呼ばれるままにギイについていってしまうのはどうしてだろう。 その答えを考えるのは怖かった。 その日も別れ際にギイはアルバイト代と言って、封筒に入ったお金を手渡した。 見なくても分かる。 昨日と同じか、それ以上の金額が入っている。 これといった仕事をしたわけでもないのに、ギイは当たり前のようにぼくにお金を手渡す。 ぼくの経済状況を知っているからだろうか。 普通で考えればこんな金額を渡すはずがない。こういうことは決して褒められたことじゃないんだろうけど、だけどぼくは、ありがとうと言ってそれを受け取った。 半ば意地になっていたのかもしれない。ぼくとギイとの間にはお金の繋がりしかないと明確にしておきたいと思ったのだ。 それ以上は何もない。 それ以上は求めてはいない。 それ以上は期待しない。 これ以上ギイに気持ちを傾けていくと自分が変わってしまいそうで怖かった。 「じゃあこれで」 ぼくがその場を離れようとすると、ギイが素早くぼくの手首を掴んだ。 びっくりして振り返ると、ギイはどこか思いつめたような表情をしていた。 「なに?」 「もうちょっと一緒にいたい」 「なにそれ・・・」 いったい今何時だと思っているのだろう。結局お茶をしたあともあちこちを見てまわり、連れまわしたお詫びにと言って、今日も食事をご馳走してくれた。 一緒にいる時間は楽しくて、ぼくは何度もそんなことを思う自分を戒めた。 けれど結局こんな時間になるまで一緒にいてしまったというのに。 「託生、オレと一緒にいるのは嫌か?」 「・・・・そんなこと・・・考えたことないよ。こんなのただのアルバイトだし、それ以上でもそれ以下でもない・・・ぼくはお金のために・・・一緒にいるだけだよ」 それは真実というよりは、そうでなければいけないのだと自分に言い聞かせるための言葉だった。 ギイは一瞬傷ついたような目をして、けれどぼくの手首を掴む力を強めた。 「じゃあ、このあとの時間にもアルバイト料を払うよ。それならいいんだろ」 「・・・・」 「いくら払えばいい?託生の欲しいだけ言えばいい」 「・・・っ」 ぼくはギイの手を力いっぱい振り払った。 大きく息をして、込み上げてくる胸の痛みに必死で耐えた。 一緒にいたくないわけじゃない。 ギイのそばは居心地がいい。 けれど、素直にそう言ってどうする。ギイは仕事でここへ来ていて、また自分の国へと戻っていく。 どれだけ好きだと思っても・・・・ 「・・・・」 ぼくは当たり前のように思い浮かんだ「好き」という思いに呆然としてしまった。 違う、そんなはずはないと混乱する頭で必死に打ち消した。 誰もが振り返るような綺麗な容姿、優しい口調、ふざけているようで本当は真面目で、未来に対して明るい理想を持っていて、そのための努力は惜しまない。 ほんの数日一緒にいただけでも、ギイが素晴らしい人なのだいうことはよく分かった。 惹かれないわけがない。 だけど、だけど・・・ 「・・・アルバイト料は倍だよ。深夜料金」 わざと軽い口調で言ってみる。ギイはいいよと即答した。 「お金持ちの考えることって分からないな」 ぼくはやれやれと肩を落とした。 「ほんと物好きにもほどがある」 「そうかな」 「そうだよ」 「オレが託生のことを好きだと思うのはおかしなことかな」 真面目な顔でギイが言う。 あまりのことに咄嗟に言葉が出なかった。 何を言っているのだろうか。 ギイは一歩ぼくへと近づき、ぼくは一歩ギイから後ずさった。 「託生」 「・・・・っ」 きっとぼくは怯えたような顔をしていたのだろう。ギイはそれに気づいて、ふっと表情を和らげた。そしておどけるように両手を上げた。 「おかしなことはしないよ、今はまだね。いきなり襲ったりもしない」 「あ、当たり前だろっ」 「だけど口説くよ」 「え・・・」 本気なのか冗談なのか分からない口調だったから、ぼくは何も言えなかった。 じゃあ行こうかと促されて、一瞬躊躇したあと仕方なくギイのあとをついていった。 半分は冗談でアルバイト料は倍だなんて言ったのだけれど、今さらあれは嘘でした、とも言えない。 それにぼくは、ギイと一緒にいることが嫌ではなくなっている。 絶対に駄目と思うのに、もっとギイといたいと思い始めていたのだ。 次の日から、ぼくたちはギイぼ仕事が終わると必ず会うようになった。 夕方近くに待ち合わせて、食事をして、夜遅くまで他愛ない話をしたり、時々は数少ない名所と言われる夜景の綺麗な場所へ行ったりと、傍から見ればまるでデートのようなことを飽きもせず繰り返した。 その頃には、認めたくはないけれど、ぼくはギイのことが好きだと自覚するようになっていた。 自分と同じ男の人で、住む世界の違う人で、あと少ししかここにはいない人のことを好きになるなんて、本当に馬鹿だと思ったけれど、だけど、それなら逆に期間限定でいいのかもしれないと思った。 どうしたって結ばれるはずのない人だけど、一生のうちに一度くらいは夢を見たっていいんじゃないか。 少しくらい幸せだと思う時間があってもいいんじゃないか。 ギイとは違って明るい未来なんて見えない暮らしの中で、ぼくはギイと一緒に過ごした時間があればこの先も生きていけるような気がしたのだ。 ギイはぼくのことを口説くと言った言葉通り、毎日のように好きだと言うようになった。 最初はあまりにあっけらかんと言うものだから、本気にするのも馬鹿らしい気もしたけれど、やがてその言葉に嘘がないことは分かった。 嬉しくて、ぼくも好きだよと言いたかったけど、それは言ってはいけないことだと思った。 だいたい言ったところでどうなるというのだ。 「帰らなきゃ」 ここのところ毎日帰りが遅いと、さすがの母親もいい顔をしなくなった。 帰るたびに大金をもって帰るのだから、兄とはまた違って意味で心配をしているのかもしれない。 そのくせ、深く追求しようとはしない。 ぼくが持って帰るお金でずいぶんと助かっているのは事実だからだ。 「まだいいだろ」 「無茶言うなよ」 「帰したくないな」 ギイは子供みたいな唇を尖らせ、ソファに沈み込んだ。 ギイが宿泊しているホテルの部屋は豪華なスウィートルームで、初めて足を踏み入れた時は、何だか目がちかちかするような気がして居心地が悪かった。 それでも慣れというのは恐ろしいもので、今ではこの無駄に豪華な部屋でも少しはリラックスできるようにもなった。 「託生、今日泊まってけば?」 帰り支度をしていると、ふいにギイが言った。 ぼくは馬鹿みたいに心臓がドキドキしているのを気づかれないようにわざとそっけなく言った。 「・・・深夜料金上増しになりますよ、お客さん」 「昼間のアルバイト代の3倍くらい?」 「安いな」 「じゃあ5倍くらい?」 くすくすと笑ってギイがソファから立ち上がり、ぼくの背後に立つ。 ふわりと香るコロンに動けなくなった。 「託生」 そっと両腕を回されて引き寄せられる。 とたんに身体中の熱が一気に上がったような気がして眩暈がした。 「託生が好きだ」 「・・・・」 「託生もオレが好きだろ?」 自信たっぷりの物言いには呆れるしかない。 ギイのことが好きだなんて、一度だって言ったことはないし、態度にだって出さないようにしてきた。 会うのはただのアルバイト。 お金のため。 何度もそう言って、だけどギイはまるで信じてないように笑うばかりで。 一緒にいられるのはこれ以上なく幸せだったけど、同じだけ辛かった。 もうすぐ別れなくてはいけない人に好きだと言って何になるのだ。 「嫌いじゃないよ・・・」 ぼくは俯いたまま小さく言った。 「だって、ギイは普通じゃ考えられないくらいのアルバイト料をくれるからね。いいお客様だよ」 「・・・・」 「ねぇ、ギイがぼくを好きだって言うのは・・・何が目的?ぼくにはきみにあげられるものなんて何もない。ああ、違うか・・身体くらいはあげられるのかな。もしかして最初からそれが目的だった?」 声が震えそうになった。 それがギイを侮辱する言葉で、同時にぼく自身をも貶める言葉だと分かっていた。 ギイはそんなことをするような人じゃない。 好きだなんて言って欲しくなくて、これ以上好きになりたくなくて。 ぎゅっと目を閉じて息を潜めるぼくの肩を、ギイがいきなり掴んだ。 「わかった」 「え・・・」 そのまま引きずられるようにして、隣の寝室へと押し込まれた。今まで足を踏み入れたことのない薄暗い部屋にぎくりとした。 ギイは広いベッドにぼくを突き飛ばすと、後ろ手に扉を閉めた。 窓から差し込む青白い月の光が、しんと静まり返った空間をさらに冷え冷えとしたものしていた。 ギイといるといつも暖かいのに、今はそんな暖かさを感じることはできなかった。 「ギイ・・・」 ギイは怒っているような、傷ついているような表情でぼくを一瞥すると、おもむろにチェストの引き出しを開けて、中に入っていたものを取り出した。 そして投げ捨てるようにしてそれをぼくへと向かって投げた。 一瞬びくりと身をすくめたぼくは、はらはらと舞い落ちる紙幣に目を細めた。 今まで見たこともないような大金が宙を舞って床へと落ちていく。 花吹雪のように見える景色の向こうにギイがいた。 「これでいいのか?好きなだけ持って帰ればいい。こんなもので、託生がオレのものになるならいくらでも渡すよ。文句はないだろう?嫌だなんて言わせない」 「・・・待って」 「待たない」 ギイはネクタイを緩めると、片足をベッドへと乗り上げ、起き上がろうとしたぼくの肩を押し戻した。 真っ直ぐに見つめられて息が止まる。 今まで後ろめたさと気恥ずかしさからギイの目をまともに見たことはなかった。 (ああ、何て綺麗な色なんだろう) 薄い金茶の瞳。髪の色と同じだった。 ゆっくりと近づいてくる唇が自分のそれに重なると、ぼくは思わずギイの肩を掴んだ。 何度も何度も触れるだけの口づけをされて、心地よさにぼうっとしてくる。 誰かとこんな風にキスをするのは初めてだった。 怖いと思う気持ちと、好きな人に触れられているという喜びと、こんなことをしたらもっと辛くなるだろうという予感。いろんな感情が混ざり合って、ぼくはきりきりと胸の奥が痛くなって、耐えられずにギイから顔を背けた。 「託生・・・」 「・・・・っ」 気づいたら涙が溢れて止まらなくなっていた。 「託生・・・好きだよ」 「ぼくは、好きじゃない」 「それでもいい。お金のためだって言うなら、それでもいいよ」 「・・・っ」 「お金で買えるなんて・・思ってもみなかったな・・」 ギイは小さく笑うと、片手でぼくのシャツのボタンを外した。 突き飛ばして逃げればいい。金で買おうとするギイのことなんて罵倒して、二度と会わなければいい。 そうした方が楽になれると分かっているのにできなかった。 ギイに触れられた場所からじわじわと熱が生まれていく。 「好きじゃない・・・」 だからこれはお金のためだ。 ギイはぼくの言葉にうん、とうなづいた。 分かってるよ、とつぶやいて、ギイはぼくの身体を強く抱きしめた。 朝早くに目が覚めて、隣で眠っているギイに気づかれないように部屋をあとにした。 外はまだ空気が冷えていて、火照った頬に気持ちよかった。 好きな人と初めて一晩過ごして、ふわふわと足元が地面から浮いているような気がしてならなかった。 (何だか、いろいろすごかった・・・) 何が何だか分からなくて動けないでいるぼくに、ギイは最初から最後まで優しかった。 怖かったのは最初だけで、次第に気持ちよさから自分でも信じられないような声を出してしまっていた。 ぼくは足を止めて、目についた店で水を買うと建物の陰に隠れるようにしてしゃがみこんだ。 (恥ずかしい・・・) 半分以上は思い出せないけど、だけど信じられないようなことを口走り、あり得ないようなことをしてしまったような気がする。 ギイはキスも、その先も慣れていた。 そりゃああれだけカッコよくてお金持ちなら女性からモテないわけがない。 「・・・・・」 冷たい水で喉を潤して、ふぅっと息を吐き出す。 これっきりにしよう。 もう十分だ。 ギイは来月には自分の国へと戻っていく。 そしてきっともう二度と会うことはないだろう。 それでいい。最初から一緒にいられるはずのない人だ。 せめて一度だけでもあんな風に近くにいられたのだから、もうそれだけで十分だ。 ぼくはそう決めて、家には戻らずそのままその日の仕事へと出向いた。 夕方まで働きづめで、日が暮れる頃に家路についた。 とりあえず早く眠りたいとそればかり考えていて、ぼんやりとしていた。 目の前にギイが立っていることにも気づかなかった。 人影に顔をあげると、ギイがいて心臓が止まるかと思うくらいに驚いた。 しばらく夢でも見てるのかと何の反応もできなかった ギイはいつものスーツ姿ではなく、さっぱりとしたコットンのシャツを着ていて、ラフなかっこうだというのに、一瞬見間違えたのかと思うくらいカッコよかった。 「託生」 「・・・・・」 声をかけられて、あっけに取られた。 まさか会いにくるなんて思いもしなかったのだ。ぼくは彼を無視して通り過ぎようとした。 ギイはそんなことは想定内だったようで、慌てた様子もなくそのまま後ろをついてくる。 「起きたらいなくなってたから驚いたよ。早起きなんだな」 「・・・・」 「ホテルの朝ごはん、美味しいから一緒に食べたかったのに」 「・・・・」 「ずいぶん無理させちまったけど、身体大丈夫か?」 「・・・・っ」 まさか人通りの多い通りの真ん中でそんなことを言われるとは思わず、ぼくは振り返ってギイを睨んだ。 「やっと振り返った」 いたずらっぽくギイが笑う。それはいつもと同じ笑顔で、ぼくは思わず目をそらした。 「・・・何の用?もう街の案内は必要ないし、昨夜やりたいことやって、もう気がすんだんじゃないの?」 「・・・そうだね、街の案内はもう必要ない。だけど、代わりに夜は付き合って」 「・・・・」 「アルバイトだって言ったのは託生だろ。オレはいい客なんだよな。オレは託生のことが抱きたい。託生はお金を稼ぎたい。利害関係は一致してる。どうせあと半月もすればオレはここを去る。その間・・その間だけでも・・・託生は・・・好きなだけ稼げばいい」 ずいぶんと自分勝手でひどいことを言われているというのに、何故か怒る気にはなれなかった。言っている本人がひどく傷ついた顔をしていたし、それがギイの本心じゃないことくらい、ぼくにだって分かった。 ぼくは一度だってギイのことを好きだとは言っていない。 それなのにギイは自分の気持ちに素直に行動ができるのだ。 その自信はいったいどこからやってくるのだろうか。 ぼくは疲れ果てていて、考えるのが面倒になっていた。 もう会わないと決めていたのに、会えばやっぱりもっと一緒にいたくなる。 好きだけど、口にはできなくて。 会ってはいけないと思うのに、やっぱり会いたくて。 自分にこんなに自虐的な部分があるなんて思わなかった。 「・・・条件がある」 ぼくは思いのほか落ち着いてギイに告げた。 「朝まで一緒にはいない。だから会うのは昼間だけ。毎日会うのも無理だから。ぼくにだって仕事はある。アルバイト料は街を案内していた時よりも多くして。金額は任せるから。それから・・」 「それから?」 「・・・二度とぼくに好きだなんて言わないで」 ギイの声でそれを言われると、いつかきっと、ぼくも好きだと言ってしまうだろう。 報われることのない恋をするのはあまりにも辛い。 「わかった。条件を飲むよ」 「うん。じゃあこれで。朝から立ちっぱなしでくたくたなんだ。さよなら、ギイ」 「明日、会えるか?」 「ギイ、仕事があるんだろう?」 「明日は休みだよ。遅めのブランチにしよう。13時にホテルのロビーで待ってるよ」 「・・・・」 ぼくは返事もせずにその場をあとにした。 (もし、違う場所で、同じような世界に生きるもの同志だったら・・・) もっと違う形で、好きだって素直に言うことができたのだろうか。 そんな風に考えることすら意味のないことのように思えた。 次の日から、会えば必ずギイとセックスをした。 まったく抵抗がなかったわけではないけれど、ギイのことが好きだったし、好きな人に触れられることは素直に気持ちがいいと思えた。 お互いに溺れるようにその快楽に身を委ね、ベッドの中にいる時だけは、まるで恋人のような甘い時間を過ごした。 ギイはどこまでも優しくて、その優しさにぼくは居心地が悪くなり、ついそっけない態度を取っては自己嫌悪に陥った。ギイはそんなぼくの態度に嫌な顔をすることもなく、さらにぼくを落ち込ませた。 こんなことをしていて一体何になるんだろう、とホテルを出るといつも思った。 お金のため、だなんて単なる口実でしかなくて、それがなかったとしても、きっとギイに誘われればぼくは断ることなんてしなかっただろう。 それほどに、ぼくがギイのことを好きになっていた。 そんな毎日が続いたある日、とぼとぼと暗い夜道を歩き家に帰りつくと、珍しく兄の姿があった。 「兄さん」 「おかえり、託生。ずいぶん遅いんだな」 「・・・兄さん、お酒飲んでる?」 どこか眠そうな顔をして、兄さんはそんなに飲んでないよ、と笑った。 最近は家で顔を合わせることが少なくなってしまった。昔は両親からからかわれるくらいいつも一緒にいたのに。 兄さんは頭もよくて優しくて、すごく整った顔立ちをしていて、誰からも人気があった。 それなのに最近じゃどこか人を寄せ付けない雰囲気があって、声をかけるのを躊躇ってしまうことがある。 「ねぇ兄さん」 「うん?」 「あのさ、学校、ちゃんと行った方がいいよ。せっかくいい学校に行ってるんだし、兄さん、勉強できるんだから、もったいないよ」 「託生こそ、最近あんまり行ってないんだろ?母さんが言ってたよ。アルバイトだって言って大金を持って帰ってくるって。いったい何のアルバイトをやってるんだい?」 「・・・・」 さすがにギイとのことは言えなくて、ぼくは口を閉ざした。 兄さんはじっとぼくを見つめ、やがて不思議そうに首を傾げた。 「託生、ちょっと雰囲気変わったな」 「え?」 「いつまでたっても子供っぽいって思ってたけど、急に大人っぽくなった。何かあった?」 問われて思い浮かんだのはもちろんギイのことだ。 ギイに恋をして、ギイに好きだと言われ、キスをして、何度も肌を重ねた。 どれも初めてのことばかりで、ギイに出会ってからすごいスピードで自分自身が変わっていってるのは感じていた。 誰かを好きになるということは簡単に人を変えることができるのだ、と今さらのように思う。 「兄さん、ねぇ、いつまでもふらふらしてても何も変わらないよ。ちゃんと学校に行って、卒業して仕事をしないと・・・」 「そうだな・・・」 微笑んで頷いてはいるものの、兄さんにその気がないのは分かった。 以前ならもどかしく思っても、兄さんがすることに本気で怒ったり意見したりすることはなかった。 だけど、この時はいつまでたっても今の状況を変えようとしない兄さんに腹が立って仕方なくて、つい強い口調で言ってしまった。 「兄さんはそうやって楽なことばかりして、母さんに心配かけてる。勉強もしない、仕事もしない、じゃあこれからどうするつもり?ぼくや母さんが働いたお金で遊んでばかりいて、いったい何がしたいの?自分ばかりがしんどい思いをしてるわけじゃないんだよ。父さんのことはぼくだってびっくりしたし、生活が変わっちゃったのも辛いことだけど、でもしょうがないよ、今さらそんなこと言っても仕方ないんだよ。兄さん、しっかりしてよ。父さんがいない今、兄さんが母さんを支えてあげないでどうするんだよ」 一気に言い切って、ぼくははぁはぁと肩を揺らした。 いつもならこんなことを言ったりしないぼくが声を荒げたものだから、さすがの兄さんも咄嗟に言葉が出なかったようで、まじまじとぼくを見返した。 「あ・・・ごめん・・・・」 生意気なことを言って、怒られるんじゃないかと思ったぼくはその場から逃げようとした。けれど素早く立ち上がった兄さんに引き止められた。 「託生」 「えっと・・・」 「驚いたな、託生がそんなこと言うなんて」 「・・・」 兄さんはうつむくぼくの髪をくしゃりと撫でた。 「託生の言う通りだな。いつまでも逃げてばかりじゃしょうがないよな」 優しい声に、ぼくはそろそろと顔を上げた。 兄さんはさっきとは違うしっかりした目をしていた。 「ほんとはさ、こんなことしてちゃ駄目だってことも分かってたんだ。けど、母さんも託生も何も言わない。 僕が何したってどうでもいいのかって思うと余計に何もかもがどうでもよくなって。悪循環だよな。 どこかで元に戻らないともう戻れなくなるってことも分かってたけど、だけどきっかけがなくてずるずるとここまで来てた」 「兄さん」 「託生に怒鳴られるなんて思ってもみなかったけど、でもちょっとすっきりしたな」 確かにその言葉通り、兄さんは何か吹っ切れたような顔をして、うんと頷いた。 「ありがとな、託生」 「・・・・っ」 「心配かけてごめんな」 ぶんぶんとぼくは顔を振った。そしたらどうしてか泣けてきてしまった。 兄さんは小さい頃から自慢の兄さんで、頼りないぼくのことをいつも守ってくれた。 大好きな兄さんにがっかりしていた自分が嫌で、だけど面と向かって文句を言うこともできなくて。 だけど、ちゃんと気持ちを伝えれば、兄さんはそれを聞いてくれた。 もっと早くに話をすれば良かったのだ。 (何かを変えるってことはすごくエネルギーがいることで、失敗するかもしれないし、自分が傷つくこともあるけれど、諦めたそこで終わりだろ?) ギイの言葉が脳裏に浮かんだ。 ほろほろと流れる涙に驚いた兄さんがぎゅっと抱きしめてくれた。 (ああ、ギイ。きみの言う通りだ) 兄さんに昔みたいにしっかりして欲しいって思っていたのに何も言えずにいた。 だけど、ちゃんと口にして思いを告げれば、案外簡単に物事は変わっていく。 いい方向に向かうか、悪い方向へ向かうかは分からないけれど、だけど何かが変わることには違いない。 「今日は何だか楽しそうだな」 いつものようにギイとホテルでランチをして、食後のコーヒーを飲んでいた。 最近はホテルのレストランではなく、ギイの部屋でルームサービスを取ることの方が多くなっていた。 食事はどれも美味しかったし、人目がない部屋でゆっくりできるのはほっとした。 けっこうな頻度でギイと食事をしていても、未だにカトラリーは上手に使えなかったし、ギイは気にしなくていいと言うけれど、マナー通りできてるかどうかを気にしながらする食事は味気なかった。 ギイはレストランから部屋に戻る時間が短縮できるのがいい、なんて本気か冗談か分からないことを口にしている。 「何かいいことあった?託生」 「兄さんが学校に行くようになった」 あの夜以来、兄さんはそれまで付き合っていた悪い友達とは会わないようになり、もう一度ちゃんと学校へ通うようになった。母さんはそのことにひどく喜び、希望が持てたせいか沈んだ顔も見せなくなった。 怠け癖が出そうになると、 「託生に怒られるからなぁ」 と言って、兄さんは笑う。 冗談だと分かっていても、兄さんがそれを口実に元の生活に戻ってくれるのならそれでよかった。 生活は相変わらずだったけれど、母さんと兄さんとぼくとの間に流れる空気が少しづつ優しいものに変わっていくのを肌で感じることができ、ぼくはずいぶんと気持ちが楽になっていた。 「ねぇギイ」 「うん?」 「どうしてギイは、いつも前向きでいられるのかな。超然としてて、怖いものなんて何もないように見える」 ギイは手にしていたカップを置くと、さて、と首を傾げた。 「超然ね、そんな風に見える?」 「うん」 「そう見えるんなら、きっと託生がいるからだよ」 「ぼく?」 「そう。託生がいたから、オレは強くいられるんじゃないかな」 にっこりと笑うギイに、どうして?と聞くことができなかった。 時々ギイが言うことはよく分からない。 やっぱり頭のいい人は何を考えているのか分からないな、と思う反面、そんなギイのことをもっと知りたいとも思う。 素直にそう言ってみようか。 ぼくはきみのことが好きだと。 だからもっときみのことが知りたいと。 そうすれば、兄さんの時と同じように、何かが変わるのだろうか。 どうにもならない恋でも、やっぱり何かが変わるんだろうか。 もし、結果が同じだったとしても、思いを告げないまま永遠に別れてしまっても、ぼくは本当に後悔はしないのだろうか。 (言ってみようか・・・・) 「託生」 ぼくが心を決めて口を開いた一瞬早く、ギイが妙に改まった様子でぼくの名を呼んだ。 「なに?」 「実は明日、帰国することになったんだ」 「え?」 ぼくは一瞬それが何を意味するのか分からなかった。 予定ではあと1週間はここにいるはずだったのに? ギイは何も言えずにいるぼくに苦笑した。 「思っていた以上に仕事も早くに片付いたんで、急だけど帰国することになった」 「そう・・・なんだ・・・」 全身の力が抜けていくような気がして、ぼくはぎゅっと手を握り締めた。 最初から別れは決まっていた。それが少し早くなっただけ。 ここまで動揺することじゃないはずなのに、ぼくはひどく混乱してしまって、じゃあと言って立ち上がった。 「もう・・・今日で終わりだね・・・あの・・ありがと、いろいろとよくしてくれて」 「託生」 「国へ帰っても元気で」 「託生、明日もう一度会いたい」 ギイが立ち上がり、身を乗り出すようにしてぼくへと叫ぶ。 「どうして?もう会う必要なんてないはずだよね」 「オレは託生が・・・」 「言わない約束だろっ」 思わず叫ぶと、ギイはぴたりと口を閉ざした。 好きだなんて言われたら、明日ここを離れる人だというのに、好きだと言ってしまいそうになる。 何かが変わるかもと思っていたのに、やっぱりそんなのは無理な話なのだ。 「さよなら、ギイ」 「明日、10時に船着場で待ってるから。最後にどうしてももう一度会いたい」 「・・・っ」 ぼくはギイの顔も見ないまま、逃げるようにして部屋を出た。 通いなれた廊下を走り、エレベーターに乗り込む。 誰もいない小さな空間で、ぼくは涙が出そうになるのを必死に堪えた。 いったい何が苦しいのだろうか。 ギイが帰ってしまうこと? それともギイに好きだと言えなかったこと? どうしたって身分違いで報われない恋だってこと? ギイが、ぼくを好きだということ? ぼくが、ギイを好きだということ? 「・・・・っ」 ぼくはずるずるとその場にしゃがみこみ、込み上げる涙を必死で飲み込んだ。 ギイがいずれここを離れるなんて最初から分かっていたことなのに、どうしてこんなに胸が痛いのか。 (明日・・・) もうギイには会えない。 今さらのようにその事実が重く圧し掛かってきていた。 ギイが帰国する日、最後の最後まで会いに行くかを迷った。 結局いくことにしたのは、ぼく自身がギイに会いたかったからに他ならない。 これで最後だと思うと自然と足は重くなったけれど、一目だけでも会って、その姿を忘れないように焼き付けておきたかった。 約束通り、ギイは初めて出会った船着場にいた。 ぼくの姿に目を細め、軽く手をあげる。 「よかった、来てくれて」 「うん・・・」 ちょっと話をしようか、とギイはぼくを手招き、人気のない川岸のベンチに腰を下ろした。 目の前を流れる川も、聞こえてくる街の喧騒も、行きかう人たちも昨日までと何も変わらないのに、明日からはもうギイがいないのだと思うと、すべてが色あせていくような気がした。 しばらく2人で何も言わずに汚れた川の流れを眺めていた。 やがてギイが傍らに置いてあったケースを引き寄せた。 「託生に渡したいものがあって」 ギイはそのケースをぼくへと差し出した。 けっこうな大きさのもので、ぼくはそれを受け取るとギイを見た。 「開けてみて」 「うん・・・」 膝の上に乗せて、そっと蓋を開けると、中には真新しいバイオリンが入っていた。 ぼくは自分の目を疑って何度も瞬きをしてしまった。 「なに、これ・・」 「託生、音楽が好きで、バイオリンに興味があるって言ってたから」 「・・・どうして?」 声が震えて仕方なかった。 まさかバイオリンに触れることができるなんて夢にも思っていなかった。 思っていたよりもずっと軽くて、とても綺麗な色をしていて、この楽器が美しい曲を奏でるのかと思うと胸が高鳴った。 「これはオレから託生へのお礼の気持ちだよ」 「お礼?」 こんなプレゼントをしてもらうようなこと、ぼくは何一つしていない。 ギイはぼくへと身体を向けると、どこか照れたような表情で言った。 「託生は覚えていないだろうけど、実はオレたち、昔一度会ってるんだよ」 「会ってるって?」 そういえば前にもそんなことを言っていたような気がする。だけどギイと会った記憶なんてぜんぜんない。 ギイは眩しい笑顔を見せると、その時のことを話してくれた。 「10年以上前のことだよ。親父の仕事でここへ来ることがあって、少し期間も長いこともあったから、家族も一緒に来ていたんだ。今でもそうだけど、親父は昔からすべてのことに厳しくて、オレは生まれた時から事業を継ぐ者としてそりゃもう自由になる時間なんてないくらいいろんなことを押し付けられてたんだ」 「・・・・」 「子供だったから親の言うことは絶対で、反発するってことを覚える前にレールの上に乗せられてたから、それに疑問を覚えることもなかった。だけどそういう鬱屈ってやっぱり蓄積していくんだよな。オレ、周りの子供よりもお利口さんだったから、親の前ではいい顔はしてるけど、心の中で思ってるのは全然違うことで、だけどそういうのを言葉にして言わない方がいろんなことは上手く行くって計算したりして。ほんとやな子供だよ。年を重ねていくと、オレの将来にはいったい何があるんだろうって悲観的な気持ちにもなった。自分で選んだことなんて何一つない人生を送ることになるのかなって」 小さな子供の頃に、そんなことを考えなくてはいけないような生活っていうはどんなものなのだろうか。 ぼくは今でこそ思っていることを上手く口に出せずに思いを内へと溜めることの方が多いけれど、小さい頃はさすがにそんなことは考えたこともなかった。 毎日何も考えずに、兄さんと遊びまわっていたように思う。 「オレだけじゃなくて、妹もさ、同じ環境で育ってるんだから同じように育つだろ?絵利子は・・あ、妹は絵利子っていうんだけど、絵利子とだけは不思議と考えてることが通じ合うっていうか、お互いの気持ちが分かるのはあいつだけだった。本当の意味で味方になってくれるのは絵利子だけだったから、オレたちはずいぶん仲が良かったんだ。半ば無理矢理この街へ連れこられた時、何があったのか忘れてしまったけど、絵利子がとうとう切れて、付き添っていた人の目を盗んで逃げ出しちゃったんだよ」 「逃げ出したって?」 「勝手に街に飛び出してさ、まぁちょっとした家出みたいな感じ?すぐに見つけられるのは分かってたけど、それでも初めての反抗だったんだろうな。オレもそんな絵利子を追いかけてホテルから逃げ出した」 小さい二人が右も左も分からない街へと飛び出すくらいだからよっぽどのことがあったんだろう。 それにしても無鉄砲というか度胸がいいというか、ギイと絵利子ちゃんは性格が似ているらしい。 「その日は何かお祭りの日だったみたいで、街はそりゃすごい人でさ、オレと絵利子は早々にはぐれてしまったんだよ。気づいた時はもう血の気が引いて、子供ながらにパニックになったよ。さすがに女の子を一人にするのはまずいって分かってたし。30分くらいあちこち探し回って、見つけた時に一緒にいたのが託生だったんだ」 「え・・?」 つまり、迷子になった絵利子ちゃんとぼくが一緒にいたってこと? 遠い記憶を思い出してみる。お祭りの日・・・迷子の女の子と一緒にいたことあったかな・・・。 ふいに綺麗な顔立ちの女の子のことを思い出した。 くるんとカールした髪と、白いワンピースを着ていた。 通りで泣きながら立ち尽くしていたから、声をかけたのだ。 あの時、ぼくは兄さんと遊ぶ約束をしていて、公園へ向かう途中だった。 あの女の子がギイの妹だったのか。今の今まですっかり忘れていた。けれど思い出すと、あとはするすると記憶が甦ってきた。 女の子を連れて、ぼくは川べりの公園へ向かった。 絵利子ちゃんは最初はワンピースが汚れるのが嫌だと言っていたけれど、すぐに一緒になって走り回るようになった。 さっきまで泣いてたのに、すごく楽しそうに笑うものだから、ぼくも楽しくなってしまって、いつも以上にはしゃいでいたように思う。 何しろ絵利子ちゃんはそれまで知っている女の子の中では一番綺麗な子だったのだ。 すごく不純かもしれないけど、やっぱり可愛い子が笑ってくれると嬉しくなったのだ。 「オレが見つけた時、絵利子は泣いてるどころかすっごく楽しそうにしててさ。そんな笑顔を見るのは初めてだったから、すごくびっくりしたんだ。一緒にいた託生もにこにこと笑っててさ。お前、オレに何て言ったか覚えてる?」 「え、ぜんぜん覚えてないよ。何か変なこと言ったの?」 「一緒に遊ぼうって」 ギイは遠い昔を懐かしむような目をしてぼくを見た。 「何の屈託もなく、オレに一緒に遊ぼうって。オレは毎日毎日、親からあれこれと押し付けられて、遊ぶなんてこと考えたこともなく・・・いや、遊んでいても心の底から楽しんでるわけじゃないっていうか、だいたい一緒に遊ぼうなんて言ってくれるような友達もいなかったしな」 「まさか。ギイなら友達がいっぱいいそうなのに」 「家が金持ちだってだけでけっこう遠巻きに見られたし、本当の友達なんていなかったなぁ」 そうか、何でも持っていると思っていたけれど、本当はそうでもなかったのかもしれない。 ぼくはお金持ちではなかったけれど、仲のいい友達はいた。 「泥だらけになった絵利子にもびっくりした。どちらかというと人見知りで内気な絵利子がすごく楽しそうに笑ってて、そんな風に外で走り回って遊ぶなんて初めてだったんじゃないかな。で、2人がやけに楽しそうだったからオレも混ぜてもらって、日が暮れるまで3人で一緒に遊んだ」 「ああ、うんそうだったね。覚えてるよ。だけど何して遊んだのかなぁ。特別なことはしなかったと思うけど」 「ああ。普通の子供の遊び。だけどオレたちには初めてだった。夕方になって、さすがにもう帰らないとまずいってことになった。帰りたくないっていう絵利子を宥めていたら、託生が言ったんだ・・」 (また明日も一緒に遊べばいいよ) 「当たり前のように言うからさ、驚いたな。オレがそれは無理だなって言うと、託生の方が驚いて、遊びたいって言えばいいのにって」 「・・・・」 「すごく簡単に、不思議そうに言うから、オレの方が驚いたよ。そんなこと言えないって言ったら、自分がしたいことはちゃんと言わないと駄目だって。怒られても平気だよって。服が汚れたら洗えばいいし、遊んだ分だけあとで勉強すればいいんだからって」 そんなこと言ったことすら思い出せない。 今のぼくなら絶対に口にしないような言葉だ。 本当にそんな偉そうなことを言ったのだろうか。 恥ずかしくて俯いていると、ギイはそっとぼくの手を握った。 「託生のあの一言で、何ていうか、それまでいろいろ我慢していたものがすっと溶けていったようなが気がしたよ。言いたいことを我慢して、本当にしたいこともしないで、そのくせ心の中では不満ばかり抱えていた。でも託生の言葉がどういうわけかすとんと腹の底に落ちたんだよな。やりたいこととやるべきことをちゃんと同じようにすれば誰からも怒られることなんてないんだし、少なくとも、オレはそれをちゃんと言葉にして言わなくてはいけないって」 「うん・・・」 「あのあとオレと絵利子はそりゃもう怒られまくったけど、堂々としてたよ。勝手に飛び出したのは悪かったと思うけど、泥だらけになって遊んだことは悪いことじゃないって口にして言った。絵利子までそれまでの不満をぶちまけたくらいだから、何ていうか、オレたちにとって託生との出会いはそれまでの世界が大きく変わるような出来事だったんだよ」 「そんな・・・・」 たぶん、ぼくは深い意味なんて考えていなかったはずだ。 その時楽しく遊んだギイと絵利子ちゃんともっと遊びたくて、そんなことを口にしただけだろう。 小さな子供だったぼくは、きっと兄さんを真似て同じようなことを言っただけなのだ。 兄さんはよく両親にそういうことを言っていたから。 「そのあと帰国してから、オレも絵利子もやるべきことをする代わりに、ちゃんとしたいことを口にして、自由をもぎ取った。息をすることが楽になって、それまでの生活が楽しいものになった。友達も増えて、明るい未来を描けるようになった」 ぼくはゆるゆると首を横に振った。 そんな大層なことをぼくはしたつもりはない。 「なぁ託生、託生がオレに与えてくれたものはほんの小さなきっかけだったけど、それがなければ、今のオレはなかった。オレはずっと託生のことを覚えていたよ。もう一度会いたいって思ってた。簡単にはここへ来ることができなくて、だけど絶対に探し出すつもりでいた。船でここへ渡るときに、川辺に託生がいることに気づいたオレがどんな気持ちだったか分かるかい?一目で気づいた。運命めいたものを感じて身体が震えたな」 「ギイ・・・」 ギイはぼくの何気ない一言で、それまでの自分を変えたのだ。 それはぼくの言葉じゃなくても良かったのかもしれない。 だけど、自分を変えるきっかけを見逃すことなく、ギイはなりたい自分に近づくことができた。 それなのにぼくはずっと立ち止まったままのような気がする。 子供の頃にはできていたことが、大人になるとできなくなってしまったのはどうしてだろう。 ギイは黙り込むぼくに真っ直ぐな瞳を向けた。 「託生、すごく自分勝手な言い分だとは思うけど聞いて欲しい。託生の生活が厳しいことも、ここでの暮らしが楽でないこともよく分かる。この国はまだ貧富の差が激しくて、どれだけ頑張っても意味がないって思うことも多いかもしれない。だけど、発展途上のこの国にはあらゆるチャンスが眠ってる。それを見つけだせるかどうかはその人次第だ。何かを変えることは簡単じゃない。だけど頑張ってみる価値はある。自分が努力したことで周りが変わらなかったとしても、託生、自分自身は変わることができるんだ。オレがその証拠。託生のおかげで変わることができた。だから託生も諦めないで欲しい」 ぼくは熱くなっていく目元に唇を噛んだ。 ギイはぼくへと近づくと、そっと抱き寄せた。肩先に頬を乗せて、ぼくは溢れる涙に目を閉じた。 「昔みたいに、託生に笑って欲しかった。あの笑顔が忘れられなかった。託生が好きだよ。なのにお金で買うみたいなことしてごめん。託生のこと、どうしても手離したくなくて、そばにいて欲しくて、恋人みたいに抱きたかった。託生のこと傷つけるつもりはなかった」 「うん・・・」 「大好きだよ、託生」 「・・・っ」 ぼくも好きだよ、と胸の中でギイに告げた。 しばらくそうして抱き合ったあと、ギイはそっと身体を離すと、頬を濡らす涙を拭ってくれた。 「本当はずっとここにいて託生のそばにいたいけど、今は無理だから。学生の身分で、託生のこと攫うことはできないから。だから託生、3年待って欲しい」 「・・・なに、それ」 「3年たてば卒業する。そしたら仕事をして、自分で稼いで、もっと自由に生きることができるようになる。二十歳になったらオレ、託生のこと強奪しにくるから、それまで待っててくれないか?」 「だから・・っ、何だよ、それ・・・」 また涙が溢れそうになってしまう。 ギイは困ったように笑って、ぼくの頬をきゅっとつまんだ。 「だから、強奪。託生のこと攫いにくるから覚悟して待ってて」 なにを馬鹿なことを言っているんだろうか。 そんなことできるわけがないのに。 ギイはぼくの膝の上のバイオリンケースを指でとんとんと叩いた。 「これは、3年の間、オレのことを忘れさせないための人質だよ。初心者用のそれほど高くないヤツだけど、初めてならその方がいいって聞いたから。上達したらもっといいヤツをプレゼントするよ。それと、これはバイオリンを教えてくれる人の連絡先。さすがにバイオリンは独学ってわけにはいかないだろうから、1週間に一度、教えてくれる人を見つけておいた。オレの幼馴染にバイオリオンをしてるヤツがいて、そいつの知り合いだから、怪しい人じゃない。授業料は前払いしておいたから安心して訪ねていっていい」 「どうして・・・?」 「うん?」 「どうしてそこまでしてくれるの?ぼくは・・・ギイに何もしてあげられないのに・・」 「好きな人へのプレゼントだから気にしなくていい。自分やりたいって思うことが一つでもできれば、生きていくのはとても楽しくなる。3年は長い。今度オレに会うまでの、気持ちの拠り所となればいいと思ったから」 「・・・・」 「託生はオレにたくさんのものをくれた。託生は分からなくてもいい。オレは託生から貰ったものを、別の形で返したいだけなんだ」 「・・・っ」 「・・・もう行くよ」 名残惜しそうに立ち上がったギイに、ぼくは反射的に顔を上げた。 「3年後の同じ日に、必ずもう一度ここにくるよ」 「・・・・」 「オレは託生が好きだよ。託生の気持ちはやっぱり教えてくれない?」 いたずらっぽく笑って、首を傾げる。 知ってるくせに。 ぼくがギイのことをどう思っているかなんて、本当はギイはお見通しなのだ。 お金を渡し続けたのも、それがぼくの言い訳になると知っていたからそうしたのだ。 お金なんて渡したかったわけでも、貰いたかったわけでもない。 ただ、臆病で、本当の気持ちが言えなかったぼくのために、ギイが逃げ道を作ってくれていただけなのだ。 「・・・さよなら、託生」 「ギイ・・・」 「託生の気持ちは、次に会った時にちゃんと言葉にして教えて?オレ、それを拠り所にして、頑張るから」 ギイはぼくの肩に手を置くとゆっくりと身を屈め、柔らかく唇を重ねてきた。 たった数秒の口づけが、永遠のように長く感じられた。 ギイが去って、ぼくの手元にはバイオリンが残った。 ずいぶんと迷ったけれど、結局ぼくはギイが教えてくれた先生の元を訪ねた。 楽器を習うなんて分不相応だとは思ったけれど、ぼくはこれが自分自身を変えるきっかけになるような気がして勇気を奮い立たせたのだ。 ギイが言った通り、好きなことができるということは生活に彩りを添えてくれる。 そのことで他のことも頑張れる。 生活は相変わらず厳しくて、学校へ毎日行けるわけでもなく、以前と何も変わってはいないというのに、ぼくは変わることのない現実に不満を募らせることがなくなった。 そんなことより、もっと他にやらなくてはならないことがあると分かったからだ。 3年後、ギイはきっと約束通りぼくに会いに来るだろう。 その時、ぼくは堂々と胸を張って、彼に会いたいと思う。 たとえ周りの何かを変えることはできなくとも、ぼくはぼく自身の力で変わることができたのだと、ちゃんと彼に見て欲しかった。 ギイのことを考えない日はなかった。 最後の最後まで、彼に言えなかった気持ちは、今もずっと胸の奥で大切に育てている。 3年後、ギイに会ったら、会いたかったよと笑顔で言おう。 そして、ギイが好きだよと言葉にして告げよう。 それはきっと2人を繋ぐ絆を変えるきっかけになると思うから。 |