ロンドンにて



約束の時間より少しだけ早く劇場に着いたので、このあとの予定を頭の中でシミュレーションしてみることにした。託生はきっと見たかったミュージカルを堪能して興奮しているだろうから、その話をゆっくりと聞いてやれる店がいいだろうと、すでにディナーの予約は済ませてある。
静かでシックで、ちょっとお高めだけど誰にも邪魔されずに心行くまで語り合える店だ。
まだまだ英語が得意とは言い難い託生だけれど、オレと一緒に海外で過ごす時間が増えたせいか、英語しか聞こえてこない状況であってもそれほど緊張しなくなった。
何を話しているか分からなくても何度も聞き返していくうちに、何とか理解できるようにもなってきた。
聞き返す勇気があるのはすごいことだ。シャイな日本人が不得意とすることだから。
もっとも、託生は昔から度胸だけは人一倍あったな、と思う。
何しろまったく英語が分からないのにオレの実家に電話をしてきたくらいだ。
控えめで人の前に進んで出る性格ではないけれど、ある意味どんと肝が据わっているところがあって、いざとなった時の託生の開き直りには感心することがある。
あの日別れてからたぶん、託生は一人でいろんなことを考えて、誰に頼ることもなく前へ進む覚悟を決めたんだろう。
一緒にいる時には決められなかった覚悟を、オレと離れてから決めたのだ。
もしずっと一緒にいたら、その覚悟はできなかったのかもしれないと思うと、あれは怪我の功名的なものったように思えて、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ良かったのかもと思えた。
もちろんひどいことをしてしまったという自覚はあるので、後悔と反省の方が大きいのはもちろんだ。
閉幕時間から少しすると劇場の扉が開き、中から多くの人が出てきた。
皆それぞれ満足した表情をして互いに感想を口にしている。
どうやら評判通りの出来だったようだ。
人波の中、頭一つは背の低い黒髪の日本人はよく目立つ。
もっとも日本人だらけであっても、託生のことはすぐに見つけられる自信はある。
「託生」
手を上げると、託生はぱっと弾けるような笑顔を浮かべて小走りに駆け寄ってきた。
「ギイ、待った?」
「いや今来たとこ」
うっすらと頬を赤くさせ、何か話したくてうずうずしている様子が伝わってきて、これは相当感動したんだろうなと分かる。
「良かったみたいだな」
「うんっ、すごく感動した。ああ、本当に感激しちゃったよ」
興奮冷めやらぬ様子で託生が手にしたパンフレットを大切そうに胸に抱える。
行こうか、と促して歩き出した。
「あ、香織ちゃんは?元気にしてた?」
ついさっきまでアフタヌーンティを一緒にしていた友人の妹は、もちろん元気にしていたと告げると、託生はほっとしたようにうなづいた。
「ぼくも会いたかったな」
「いつでも会えるよ。今度ロンドンに来た時には一緒に食事でもしよう」
「うん。だけど不思議だな。日本から遠く離れ場所で、知っている人に会うことができるなんて」
しみじみと言う託生だが、世界中どこへでも簡単に行くことができるこの時代、その気になればどこでだって会えるのだ。
要は会いたいと思うかどうかだ。
「オレは日本から遠く離れた場所で、託生とデートできると思うと嬉しいけどな。世界中どこででも託生とデートできるのは嬉しい」
「それはぼくだって嬉しいけどさ、でもちょっとドキドキするよ」
「え、オレに会えるから?」
ぎゅっと肩を抱くと、託生は違います、と軽く体をぶつけてきた。
「日本語だって不自由なのに、外国語しか使えないところへ行くのはドキドキするって意味」
「だからさ、オレが英語教えてやるって言ってんのに」
「ギイ、スパルタだからやだ」
こういうことだけはやたらとはっきりと拒否ってくれるよな、ほんと。
それでも、苦手だなんて言いながらも、こうしてちゃんと見知らぬ土地でデートしてくれるからなぁ。何だかんだで託生の方がオレに合わせてくれてるんだよな。
つんっとシャツの袖を引っ張られて託生をみると、何だかちょっと困ったような顔をして、あのさ、と託生が言った。
「えっと、絶対やだってことはないんだよ。ごめん、せっかくギイが教えるって言ってくれてるのに」
どうやらぴしゃりと断ったものの、オレに申し訳ないとでも思ったらしい。
抱いたままの肩を引き寄せて、託生のこめかみにちゅっとキスをした。
「おかしなこと気にするんだな。でもまぁもしオレが本当に教えるとなったら、心を鬼にしてスパルタに徹しないと、ついつい甘やかしてしまいそうだし、断って正解だろうな。もし託生が本気で英語を勉強したいっていうなら、優秀な先生を探すよ」
「うーん、そうだなぁ、こうしてギイと一緒にいろんな国を訪ねることがあるのなら、ちょっとは勉強してみようかな・・って、ギイ、そんな満面の笑み浮かべないでよ」
「託生がやる気になってくれる日が来るとはなぁ。ほら英語が分かるようになれば、ミュージカルだって生で楽しめるぞ。それって有意義なことだろ?」
「ううう」
ついさっきまで大感激をして楽しんだミュージカルを思い出したのか、託生は真剣に英語を勉強するかどうか悩み始めたようだった。
どこまでも生真面目な恋人の姿に思わず笑みが零れる。
生まれ変わって、もう一度託生と巡り合えることが天文学的な確率なのだとしたら、やっぱりこうして一緒にいる今を大切にしなくてはならない。
できれば同じ時間を同じ気持ちで楽しめるように、ちょっとした努力をするのは必要だと思う。
それは託生だけではなくてオレも同じだ。
今生きているこの現世で、二人で一緒にいられるように。
もうこの世にはいない友人を思い、その気持ちはさらに強くなる。
「託生、ちょっと歩くけど、夕食の予約をしてある。そこでミュージカルの感想聞かせてくれる?」
「もちろん。本当に素敵だった。ギイも一緒に観られたら良かったのに」
我慢できないとばかりにいつもより早口で話し出す託生が愛おしい。
ぽつぽつと灯りが灯り始めた夕暮れのロンドンの街を、恋人と歩く。
幸せというのはこういうことだと改めて感じながら。



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あとがき

「真冬の麗人」(同人誌)未読の人はごめんなさい。しかし託生くんは英語でミュージカル見たのかなぁ。