その朝、ベッドで惰眠を貪っていたぼくは、ギイの叫び声で飛び起きた。
「え、なに・・・?」 ギイが叫ぶなんて事態がまったく想像できないので、ぼくは夢でも見たのかと思って、そのままずるずるとベッドに倒れこんだ。 まだ眠かった。 何しろ昨夜はギイに眠らせてもらえなかったのだ。いくら今日が休日だからって、あんまりだ。 絶対に昼まで寝てやる。ぼくはそう心に決めていた。 もう一度夢の中へと向かおうとした時、再びギイが叫んだ。 「はふひっ!」 「な、なに?」 やっぱり夢じゃなかったようで、ぼくは今度はちゃんと目が覚めた。 だって、洗面所から出てきたギイは歯磨きの途中だったようで、口元が泡だらけだったのだ。 そんなギイを見るのも初めてで、ぼくは思わず見入ってしまった。 「ひっはい、ほれは・・・」 「ギイ、汚いから泡だらけでしゃべらないで、っていうか、何言ってるか分からないし!」 ギイはまたばたばたと洗面所へ駆け込み、口をゆすいで戻ってきた。 「託生、お前、これは何なんだ?」 「何って歯磨き粉だろ?」 ずいっと差し出されたのは誰がどう見ても歯磨き粉。 先日帰省したときに、ちょうど歯磨き粉が切れてたから実家にあったのを持って帰ってきたのだ。 「お前、これ使ったか?」 「ううん、まだだよ」 だろうな、とギイが乾いた笑いを漏らす。 寮での同室者が必ずしもそうだとは思ってないが、ぼくとギイは同じ歯磨き粉を一緒に使っていた。 狭い洗面所にそれぞれの歯磨き粉を置くのも面倒だし、共有しても別に嫌じゃないし。 だからぼくが実家から持って帰ってきた歯磨き粉を、ギイも使ったんだろう。 それがどうしたんだろうか? 「これ、すごい味だぞ」 「味?」 「イチゴ味だ」 イチゴ味の歯磨き粉?そういや子供の頃、そういうのあったなぁ。懐かしいなぁ。 「美味しそうだね」 「そんないいものか」 思わず笑ったぼくに、ギイは露骨に嫌そうな顔をして、いきなりぼくにキスをした。 自分の舌先に残る歯磨き粉の味を味わってみろと言わんばかりの濃厚なキス。 「んーっ!!」 苦しさにぼくはギイの胸元を叩いた。しばらくして唇が離れると、口内に甘ったるいイチゴ味が残る。 イチゴ味、なんだけど・・・何ていうか、まさに人口甘味料の甘さというか。 「・・・気持ち悪い」 ぼくは思わず口元を拭った。 子供の頃は美味しいと感じた甘い味なのに、大人になって味覚が変わったせいか、どうにも気持ち悪くて仕方ない。道理で家で使われないまま残っていたはずだ。母親が「全部持っていっていいわよ」と大量にくれた理由がやっと分かった。 「どうすんだよ、あれ」 ギイがくいっと親指で洗面所を指す。 洗面所に置かれた大量の歯磨き粉。 「おまけにいろんな味があったぞ」 いろんな味? ああ、そういえば、一つでいいと言ったのに、母さんがどうせすぐ使うでしょ、とたくさん持たせてくれたっけ。 小洒落たデザインのチューブの歯磨き粉。 どうやらそれはイチゴだのメロンだの、あらゆる味の歯磨き粉だったようだ。 「責任取れよな、託生」 「責任って?ぼく一人で使えってこと?」 「ちがーう」 ギイはにやりと笑ってベッドの端に腰掛けた。 「オレが使ったあとに、託生が口直ししてくれってこと」 「口直し?」 「口直しのキス」 今したみたいな濃厚なキス? 「あのさ、ギイ」 ぼくはやれやれとため息をついた。 「ぼくも同じ歯磨き粉使うんだから、口直しにはならないだろ?」 「・・・・・・」 「・・・・・・」 ぼくたちは大量の味つき歯磨き粉を前に、低くうなるしかなかった。 『あら、託生、どうしたの?』 電話の向こうの母さんは、少しばかり驚いたような声で言った。 それはそうだろう。何しろつい先日実家に帰ったばかりだったし、普段もよほどのことがなければ電話なんてしない。 たぶん、祠堂にいる学生のほとんどがそうだと思うのだけれど、自分から実家へ連絡するなんて、お小遣いが底をついて泣きつく時くらいなものだ。入学したての1年の頃ならまだしも、寮生活も2年目になれば、さらに実家とは音信不通になる。 ぼくはそれまで母さんたちと確執があったこともあって、自分から家に電話するのなんて、もしかしたら初めてかもしれなかった。 ぼくからの電話に、母さんは驚きつつもどこか嬉しそうで、何だか今まで電話しなかったことが申し訳ないような気になった。 「母さん、あの歯磨き粉なんだけど・・」 『使ってみた?どうだった?』 「どうだった・・・じゃないよ。あれ、イチゴ味みたいなんだけど・・・」 すぐ隣に立つギイが、ぼくの持つ受話器に耳をくっつけてぼくたちの話を聞いている。 ちょっと離れてよ、という素振りを見せるぼくに、ギイはなおもくっついてくる。 ぼくたちが電話の前でごそごそやっているなどとは知らぬ母は、暢気な口調で言った。 『そうなのよ、あれね、商店街の福引で当たったのよ。1年分。でもよく見るとイチゴ味って書いてあるじゃない。最近ああいうフレーバーな歯磨き粉が流行ってるんですって。知ってた、託生?』 「え、知らない・・けど・・・」 『お父さんだってそんな味の歯磨き粉使わないし、託生、小さい頃好きだったでしょ?』 「小さい時の話だろっ」 横でぷっとギイが吹き出す。ぼくはじろりとギイを睨みつけた。 『あら、尚人と2人してイチゴだのメロンだの言ってたじゃない』 「だ、だからそれは子供の時の話で・・・」 母さん、まさかぼくの歳を忘れてるんじゃないんだろうな。もう高校二年生なんだよ! さすがにイチゴ味の歯磨き粉なんて好んで使いたいとは思わない。 『まぁいいじゃない。昔を思い出して使いなさいよ』 「母さん!使わないものを何でもぼくに押し付けるのは・・・」 『話ってそんなことなの?』 がっかりしたような母の声。 そう、そんなことだよ。 だって、ギイがどうしてこんなものを押し付けられたのか理由を聞け、っていうから。 『こんなことで電話するくらいなら、普段ももうちょっと電話してきなさい』 そのあと少しばかり音信不通の息子への愚痴をこぼして、母さんは電話を切った。 ぼくはがっくりと肩を落として受話器を戻した。 「福引で歯磨き粉1年分ってのも珍しい景品だよなぁ」 ギイがしみじみとうなづく。 「・・・突っ込みどころはそこじゃないだろ、ギイ」 「確かに」 ギイは楽しそうに笑った。 ぼくたちは305号室へ戻ると、洗面所に置かれた大量の歯磨き粉にため息をついた。 しばらく二人でそれを眺める。 「捨てるか?」 ギイの提案に貧乏性のぼくは素直にうなづけない。 でもなぁ、イチゴ味の歯磨き粉ってやっぱりちょっと・・・・。 悩むぼくに、ギイがぽんと手を叩いた。 「よし、託生。これ、欲しいやつにやろうぜ」 「え?」 ギイは歯磨き粉をかき集めると、ぽいっと袋に詰め込んだ。 「あげるって誰に?」 「誰かいるだろ。イチゴ味の歯磨き粉が好きなやつ」 「・・・・」 いないと思うけど。 とは口にできず、ぼくはギイに促されて部屋を出た。 いったいどこへ行くんだろうと思っていると、ギイは階段を降りて1階の談話室へと向かった。 テレビを楽しんでいる寮生たちをぐるりと見渡して、ギイは一人の人物に目を留めた。 (え、彼だけは絶対に無理だと思うけど・・・) ぼくはギイを止めようとしたけれど、一瞬早く、ギイは彼に声をかけていた。 「よぉ、章三」 顔を上げた章三は、ギイを見るなり眉をひそめた。 にこにことやけに機嫌のよさそうなギイがたいてい何か企んでいるということは、相棒である章三なら一発で見抜けるからだろう。 「何だよギイ、気持ち悪いな」 「いきなり気持ち悪いとは失礼なヤツだな」 「用があるならさっさと言えよ」 章三の向かい側に座ったギイは、ほら、と歯磨き粉の入った袋を差し出した。 ぼくもギイの隣に座り、その様子を黙って見つめる。 「何だ、これ」 「歯磨き粉だ」 「それは見たら分かる。何でこんな大量に?」 「福引の景品だってさ。章三にやるよ」 (欲しいヤツにやるなんて言っておきながら、これじゃあ押し付けじゃないか!) と思ったけれど、ぼくとしても章三がもらってくれるなら万々歳なので黙って成り行きを見守ることにする。 「・・・なぁギイ」 訝しげに歯磨き粉を眺めていた章三は、ついと顔をあげると、ギイを睨んだ。 「歯磨き粉ってさ、一応消費期限があるって知ってるか?」 「知らない」 「だいたい3年くらいで使った方がいいんだってさ。未開封でな」 「へぇ」 「こんなに大量の歯磨き粉、祠堂にいる間に使いきれない」 「確かにな。じゃ、一つでいいや。貰ってくれよ」 ギイは袋の中からさっきぼくたちが使ったのとを同じイチゴ味をセレクトして、章三へと差し出した。 「章三、これは特別な歯磨き粉だからな。じっくりと味わってくれ」 満面の笑みのギイに比べ、章三の表情はさらに渋くなる。 「・・・・なぁ、ギイ」 「何だ?」 「子供じゃないんだから、今更イチゴ味の歯磨き粉なんて欲しくないんだけどな」 章三は差し出された歯磨き粉を、そのままギイへと押し返す。 パッケージを見ただけでイチゴ味と分かるなんて・・・。あ、そうか、小洒落たパッケージに小さく書かれた英語の表記か。ぼくはぜんぜん気づかなかったけど。 「いや、ちょっと待て、章三」 ギイがずいっと身を乗り出し、指先でとんとんと歯磨き粉をつつく。 「確かにこれはイチゴ味だ。だがな、子供の頃使っていた歯磨き粉よりもずっと進化してる。あんな子供騙しの味じゃない。大人向けのイチゴ味だ。これを一度も味わうことなく終わるなんて、もったいないとは思わないか?」 ギイの言葉に、章三が少しばかり興味を引かれたように、歯磨き粉へと視線を落とした。 何しろイチゴ牛乳が好きな章三だ。大人向けのイチゴ味だと言われれば気にならないはずがない。 「自分じゃなかなか買ったりしないだろ?ちょっと試してみたいと思わないか?」 「・・・・わかった。じゃあ一つ貰ってやるよ」 若干の警戒心を滲ませながらも、ギイにそこまで言われてはやはり無視するのも躊躇われたのか、章三はイチゴ味の歯磨き粉を引き取ってくれた。 「ギイってば、詐欺師になれるよ」 そのあとも、目についた級友たちを同じような手口で騙して、ギイは山ほどあった歯磨き粉を全部配ってしまったのだ。あまりの手際の良さに、ぼくはテレビショッピングの販売員を見ているような気になった。聞いているだけで欲しくなる、あれだ。 「何言ってんだ。確かにオレたちの口には合わなかったが、あれが大人向けの歯磨き粉だっていうことは間違ってないんだし、みんな一度試してみたら気に入るかもしれないしさ」 「そうかなぁ」 「あ、しまった、託生」 「なに?」 立ち止まったギイがやれやれと天を仰ぐ。 「あいつらに全部やっちまったから、オレたちの歯磨き粉がなくなった」 「・・・・・ギイ、また誰かを口先三寸で騙して、調達してきてよ」 くすくす笑うぼくの頭を、ギイがこつんと指で弾く。 「騙すだなんて人聞きの悪い」 「じゃあ誑かす?」 「お前、それぜんぜん意味が違うから」 ギイはがっくりと肩を落として、力なくぼくを見つめた。 それからしばらくして、談話室でいかにイチゴ味の歯磨き粉が素晴らしいかを説いていたギイの姿を見ていた下級生たちの間で、ギイがイチゴ味の歯磨き粉がお気に入りらしいという噂が広まり、ギイフリークの連中が麓の街でいろんな味の歯磨き粉を買い占めたらしい。 もちろんギイに「めちゃくちゃいい味だ」なんて騙されて歯磨き粉を押し付けられた級友たちの間では、 「ギイって歌だけじゃなくて、味も音痴なのか?」 と噂になった。 ギイは不本意だと怒っていたが、適当なことを言って騙した代金だと思えば安いものではないだろうか。 もちろんぼくはお小遣いでギイの好きな味の歯磨き粉を調達させられた。 すっきりさっぱりのミント味。 やっぱり普通が一番いい。 |