音大へ入学して一人暮らしを始めると、自分だって仕事で忙しいはずなのに、ことあるごとにギイが遊びにやってきた。 祠堂の寮よりはマシだけれど、決して広いとは言えない部屋だというのに、ギイはまるで自分の部屋のように寛ぐのだから笑ってしまう。 普段はNYの豪華なペントハウスで暮らしているくせに、「託生の部屋は居心地がいい」と言って、狭い部屋でのんびりと過ごす。 そんな風に一緒にいると、まるで祠堂で同室だった頃に戻ったような気持ちになった。 その日、夜遅くにやってきたギイはずいぶんと疲れていたようで、挨拶もそこそこに倒れこむようにしてベッドに横になった。 やや呆れ気味のぼくが枕もとの灯りを消そうとすると、ギイはぱっと目を開けてぼくの手を引き「ごめん、ちょっとだけ寝る」と言ってキスをした。 そしてそのまま朝まで一度も目を開けなかった。 ぼくが先に目覚めてベッドを抜けだしても、起きる気配がない。 よっぽど疲れてるんだなぁと気の毒に思いつつ、起こさないようにキッチンでお湯を沸かし、コーヒーを入れる。 ギイはぼくのベッドでうつぶせになったままぴくりともしない。 そっと近づいて顔を覗きこんでも気づかないので、これはしばらく起きそうにないなとぼくは苦笑する。 ギイが起きるまで特にすることもないので、なるべく音を立てないように今練習をしている楽譜を取り出して、隣の部屋で譜読みを始めることにした。 課題として与えられた曲はそれまで弾いたことのないもので、技術的にはさほど問題はないのだけれど、まだ全体的なイメージというか、自分の中でどんな曲に仕上げればいいのかが掴めないでいた。 ぼくはポータブルプレイヤーのイヤホンを耳にして、録音していた曲を再生させた。 目を閉じて、音を追う。 ここはもっと強く弾きたいなとか、もう少しゆっくりとか、どんどん膨らんでいくイメージを自分のものにしていく。 どれくらいそうしていただろうか。 ふと気づいて目を開けた。 隣の部屋で眠っているギイへと視線を向けると、ギイはベッドの中で本を読んでいた。 「ギイ?」 イヤホンを外して、立ち上がる。 ベッドへと近づくと、ギイはおはようと言って、読んでいた本を胸元へ伏せた。 そしてぼくの手を引くと、口づけをねだる。 「おはよう、ギイ」 ベッドの端に腰をおろして身を屈めて口づけると、ギイは嬉しそうに笑った。 「ごめんな、昨日さっさと寝ちまって」 「いいよ。疲れてたんだろ?」 「ちょっとなー。託生の顔見たら安心したっていうか力が抜けたっていうか・・・」 「何だよ、力が抜けたって」 「あー、ほっとしたってこと」 うーんとベッドの中でギイは大きく伸びをした。 さらさらの髪に思わず触れると、ギイはくすぐったそうに目を細め、ぼくの手を取った。 何かを確かめるように指を絡める。 そんな何でもないことで、ぼくは幸せな気持ちになれた。 「起きたのなら声かけてくれればいいのに」 「いや、邪魔したくなかったし。終わった?」 「大丈夫だよ。何読んでたの?」 「さっきそこの本棚から借りたんだけど?」 ギイは伏せた本を持ち上げてぼくに見せた。 「ああ、昔好きだった本。引っ越すときに、持ってきたんだよ」 「この話、初めて読んだ」 ギイは起き上がるとあぐらをかいて、膝の上で本を開いた。 ぼくもその隣に並んで座る。 「これって、託生が小さい頃に読んでた絵本?」 「そうだよ」 懐かしいなぁとぼくはページをめくる。 「このねずみって兄弟?」 ギイが尋ねる。 「え、どうだろ。考えたことないな」 「恋人同士ってこともあるのか?」 「うーん、友達じゃないのかな?」 「ふうん、でも一緒に住んでるんだ。仲いいんだな」 「そうだね」 「それにしても、こいつら拾った卵でカステラ作るなんて、チャレンジャーだよな。だいたい何の卵かも分からないってのに、割ったら中からひよこが出てきたらどうするんだ?」 (それは怖すぎる) ぼくは思わず頬を引き攣らせた。何だってギイはそんなおかしな想像をするんだろう。 「ギイ、あくまで絵本なんだから、そんな生々しく考えないでよ」 「はは、けど美味そうだな、このカステラ」 「だね」 そういえばまだ朝ごはん食べてないなと思い出す。 「パンケーキ食いたいなぁ」 突然のギイのつぶやきに顔を上げる。 「パンケーキ・・・」 ってホットケーキと何が違うんだっけ?と考える。 いや、そもそもどうして急にパンケーキなんだ? 「この絵本見てたら、誰でもそう思うだろ?カステラでもいいんだけど、朝からカステラっていうのもちょっと違うし、やっぱりパンケーキだよなぁ」 うんうん、とギイがうなづく。 「ふわっふわのパンケーキ。二段重ねで、はちみつたっぷりかけて、生クリーム乗っけて。アイスクリーム添えてさ。バナナ味のパンケーキもいいよな。あ、今の季節ならイチゴを間にはさんでみるのもいいなぁ」 「・・・・ものすごく食べたくなってきた」 ギイがあまりに具体的に言うものだから、空腹も手伝ってぼくの頭にはパンケーキしか浮かばなくなる。 「美味しいやつ食べたい」 思わず口にすると、ギイはニヤリと笑って、 「だろ?じゃ行くか」 よいしょと立ち上がる。 近くに美味しいパンケーキの店なんてあったっけ?と首を傾げるぼくに、 「材料って何がいるんだっけ?」 とギイがにこやかに笑う。 「ええっ、もしかして作るつもりなのかい?」 「ああ、託生がな」 「何でぼくなんだよ!!」 いきなり決め付けられては、ぼくだって納得いかない。 むっとしたぼくに、ギイが蕩けるような笑みを見せた。 「オレ、託生の作るパンケーキが食べたい」 あまりにも甘いおねだりに、うっかりうなづきそうになったけど、それでも一応反抗してみる。 「・・・ぼくはギイの作るパンケーキが食べたい」 「よし、じゃ一緒に作るか」 って、ギイてばぜんぜん料理なんてしないくせに、何でそんなに強気なんだろう。 それにぼくだって一人暮らしを始めてから、そりゃあ少しは料理はするようになったけど、パンケーキなんて作ったことないのに。 何だか上手く乗せられたような気がしてならないが、でもまぁ2人で作るのも楽しそうだ。 「ねずみになんか負けられないからな」 「張り合うなよ、ギイ」 思わず吹き出したぼくの頬にギイがキスをする。 「まずはあれだな」 玄関を出ると、ギイはふむと考えるように言った。 「どこかで卵を拾わなくては」 「えっ!そこから!?」 いや、ひよこが出てきたら困るし、と言うと、ギイは声を上げて笑った。 久しぶりの2人だけの休日。 ぼくたちは小雨の降る中傘をさして、パンケーキの材料を調達しに行くのだった。 |