3年になってから、担任の大橋先生のご好意で、ぼくはほとんど毎日構内の外れにある温室でバイオリンの練習をしていた。
誰に聞かれることもなく、ゆっくり練習ができていたのは最初の数日間だけで、どこから聞きつけたのか、真行寺が部活前にやってきては、ぼくの練習を聞いていくようになった。 その日も、さぁ始めようかと思った時に、真行寺がひょっこりと顔を見せた。 「葉山さーん、今から練習っすか?」 満面の笑みを浮かべる真行寺に、ぼくはやれやれと肩を落とす。 「そうだよ。だから邪魔しないでくれるかな」 「あー、ひどいっす。俺、邪魔なんてしたことないじゃないっすかー」 「まぁ、そうだけど・・・」 でもそこで聞いてるだけでも、ぼくにしてみれば気になってしまうんだよね。 もっとも、バイオリンを弾き始めたら真行寺の存在は気にならなくなるんだけど。始めるまでがなぁ。 「葉山さん、いつもどれくらいここで練習してるンすか?」 真行寺はベンチに腰を下ろすと、ぼくを見上げて言った。 子犬(・・・にしては大きいけど)・・のような素直な目で見つめられると、邪魔するななんて言って悪かったかなぁなんて思ってしまうから不思議だ。 「どれくらいかな、その日によっても違うんだけど・・・だいたい7時くらいまでかな。お腹が空いてくるからね」 もっと早く終わらせることはあるけど、遅くても7時までと決めていた。何しろ温室にはちゃんとした照明器具が備わっているわけじゃないので、あまり遅くまでいると楽譜が見えなくなるし、何より帰り道が暗くて怖くなる。 「葉山さん、何か一曲弾いてくだ・・・」 言いかけた真行寺がふと視線を止めて、大きく目を見開く。 「うおっ、リンリン!!久しぶりに姿見たー!」 振り返ると、少し離れた場所にある植木鉢の陰から、温室の主である黒ネコ、リンリンがこっちを見ていた。 可愛らしいその姿に、真行寺のテンションが一気に上がる。 「かーわいーなー。あれでもうちょっと触らせてくれたら言うことないのになー」 「そうだね」 「ねぇ、葉山さん、今度リンリンの好きそうなもの持ってきて、餌付けしてみるのはどうでしょう?」 「うーん、どうかなぁ。食べ物じゃ買収されないような気がするけどな」 リンリンはけっこう頭がいいと思うんだよね。 「ですよねー。はー、触りてー」 真行寺が悔しそうに地団太を踏む。猫大好きなんだよね、真行寺は。 だから三洲くんのことも好きになったのかな。 猫っぽいもんな、三洲くんて。 リンリンをずっと眺めていた真行寺は、やがてはっとしたように顔を上げた。 「あ、いかんです。俺、部活に行くっす!葉山さん、練習頑張ってくださいね!!」 「ありがと」 真行寺はばたばたと温室を出て行った。 何とまぁ慌しいことだ。 彼がいなくなると、温室の中は急に静かになった。 ほんと真行寺はいるだけでその場が賑やかになる。 一緒にいると楽しいし、明るくなれる。 三洲は真行寺のそういうところを気に入ってるのだろうか。 そういえば、三洲が真行寺のどういうところを好きなのか、聞いたことないなぁ。 というか、それ以前に好きだなんて認めないんだろうけど。 ぼくはその場にしゃがみこむと、まだ離れた場所でじっとこっちを見ているリンリンに笑ってみせた。 怖くないよー、というつもりだったけど、どうやら猫には通じないみたいである。 毎日ここへ通ってるぼくにさえ、リンリンは懐いてはくれない。 その柔らかな手触りを知っているぼくとしては、ほんのちょっとでもいいから撫でたいなぁなんて思うんだけれど。 「リンリン、こっちおいで」 手を差し伸べても、リンリンは可愛らしく首を傾げるだけだ。 「うーん、今日もだめか」 やれやれと立ち上がったとき、後ろで扉が開く音がした。 真行寺が忘れ物でもしたのかな、と思って振り返ると、めずらしいことにそこには三洲が立っていた。 「あれ、三洲くん、めずらしいね、どうしたの?」 「たまには激励を、と思ってね。ほら差し入れ」 手にしていた缶コーヒーをぼくへと差し出す。 「ありがとう」 ちょうど喉が渇いていたところなので、ありがたくちょうだいすることにする。 ぼくがここで練習をしているのを、同室者である三洲は当然知っていて、だけど、今まで滅多に顔を見せたりしなかった。彼自身が忙しいということもあるだろうけど、たぶんぼくの邪魔にならないようにと気遣って くれているんだと思う。 何も言わないけれど、彼はそういうことをしてくれる人だ。 そういう気遣いはギイと通じるところがあるなぁと思う。 三洲はベンチに腰を下ろすと、ぐるりと辺りを見渡した。 「今日は真行寺は来てないのか?」 「さっきまでいたよ。・・・あ、三洲くん、もしかして真行寺くんに会いにきたの?」 ぼくをダシにして? だったら、他人事ながら、ちょっと嬉しくなる。 いつも邪険にされてはヤサぐれている真行寺の喜ぶ顔が見られるのだから。 しかしこういう時に限って、真行寺がいない!!ほんと何てタイミングの悪い! けれど、ぼくの言葉に、三洲は冷ややかな視線を返すだけだった。 「葉山、暑さで頭がボケてきてるんじゃないか?」 「すみません」 やっぱりそうそう簡単には認めないか。 「真行寺のヤツ、また邪魔してるんだな。一度びしっと言ってやった方がいいぞ」 「いや、別に邪魔ってわけじゃないから・・・大丈夫だよ」 もしかして、真行寺がいたら叱責するつもりで来たのかな。 それはちょっと真行寺が可哀想な気がするぞ。 なので、それ以上は追求せず、ぼくは差し入れの缶コーヒーを一口飲んだ。 真行寺のことに関しては、三洲はほんとに本心を見せない。 鈍いぼくにだって、三洲が真行寺のことを好きだということは分かるのだ。 どうせ好きならもっと素直になればいいのに、なんて余計なお世話なことを考えてしまう。 ギイには「人の恋路に首を突っ込むな」とさんざん言われているけれど、だけど、両思いなんだったら少しは真行寺も報われてもいいかなぁって思ってしまうのだ。 だって、真行寺はあんなに三洲のことが好きなんだから。 とは言うものの、だからといってぼくに何ができるわけでもないんだけど。 その時、ちりんと足元で音がした。 「リンリン?」 さっきまで離れた場所でこっちの様子を伺っていたリンリンが、あろうことかぼくの足元へと近づいてきていた。 やった、ようやく想いが通じたか、と思ったら、リンリンはそのまま三洲の方へと擦り寄っていった。 ぐるぐると喉を鳴らし、三洲の足元でじゃれる。 「・・・なつっこいネコだな」 あまり嬉しくなさそうに三洲がつぶやく。 「ひどいよ、三洲くん!」 「何が?」 「人見知りの激しいリンリンがどうしてそんなに簡単に三洲くんには慣れちゃうんだよ!」 「・・・・人を見る目があるんじゃないか?」 「えー!」 それはいったいどういう意味だよ、と文句を言うぼくをまったく相手にせず、三洲は少し身を屈めるとリンリンの頭をくるりと撫でた。 にゃーと可愛らしく声を上げるリンリン。 けれど三洲は、それ以上遊んでやるつもりはないらしく、あっち行けというようにリンリンの頭をつんと突いた。 きょとんと三洲を見上げていたリンリンだったが、入口の方でかたんと小さく音がしたことで、脱兎のごとく逃げていってしまった。 「誰か来たな」 三洲の言葉にぼくは小さくため息をつく。 今度はいったい誰がきたんだろう?ああ、今日はぜんぜん練習にかかれそうにない。 どうしてみんな次から次へと温室に遊びにくるんだろう。 「おや、めずらしい」 三洲の声に顔を向けると、そこにはギイがいた。 約束をしていたわけでもないのに、ギイが温室に来るなんて本当に珍しいことだから、ぼくは夢でも見ているのかと思ってしまった。 ギイはそこに三洲がいることには少しばかり驚いたようだったが、相変わらずのポーカーフェイスで表には出さない。 ギイが来たことで、三洲はベンチから立ち上がった。 「じゃ俺はこれで帰るよ。練習がんばれよ、葉山」 「あ、うん。三洲くん、差し入れありがとう」 「どういたしまして」 三洲はギイには一瞥もせず、さっさと温室を出て行った。 その後ろ姿を見送って、ギイはぼくの近くへとやってきた。 「ギイ、どうしたの?何かあった?」 「別に。何かないと来ちゃまずいのか?」 「そうじゃないけど・・・」 理由もないのにここへ来るなんて、1年のチェック組に知られたらまずいんじゃないのかな。 ギイはそんなぼくの考えを見抜いたのか、大丈夫だよ、と笑った。 そしてぼくの肩に手を置くと、そっと身を屈めてキスをした。 軽く触れるだけのキスでも、ぼくはほっとして胸が熱くなる。 「三洲ってよくここに来るのか?」 「ううん。今日が初めてだよ。激励にって、差し入れもらった」 「へぇ、差し入れねぇ」 ギイがぼくをうながしてベンチに座る。 「三洲のやつ、託生のこと気に入ってるからなぁ」 「ええ?まさかギイ、三洲くんにまでヤキモチ焼くつもり?」 ぼくはあまりのことに笑ってしまう。 「三洲くん、きっとここにきたら真行寺くんに会えるんじゃないかと思って来たんだよ。ここのとこ、生徒会が忙しくて、ぜんぜん会えてないみたいだし」 「ふうん。で、真行寺は?」 「それが、三洲くんが来るちょっと前までいたんだけどね。入れ違いで会えなかったんだ」 「そりゃ残念だったろうなぁ・・・って、真行寺も来てたのか?」 「うん。ほとんど毎日遊びにきてるよ。物好きだよねぇ。赤池くんもたまに来るし、何だか千客万来って感じ。大橋先生は賑やかでいいって言ってくれてるけど」 「・・・いかん、オレの知らない間にライバルが増えてる」 ギイは困ったというように天を仰ぐと、メガネを外して胸のポケットに入れた。 「オレももうちょっと時間作って託生に会いにこないと、そのうち愛想尽かされそうだな」 「そんなことないよ」 いろんな事情で、以前みたいに会えないことは承知の上だ。 共犯者になるって覚悟を決めたんだから、そんなに心配してくれなくていいのに。 ギイは両手を広げると、ぼくを胸の中に抱きかかえた。 甘い花の香り。 ぼくがうっとりと目を閉じると、ギイはよしよしというようにぼくの髪を撫でた。 「託生、今夜ゼロ番に来いよ」 「いいけど・・・」 「お泊りしてってくれる?」 「うーん、それはどうだろう」 簡単に泊まってけ、なんて言うけど、ぼくはギイみたいに一人部屋じゃないんだから、泊まるとなると三洲に点呼を頼まないといけないし、そうなるとその理由だって言わないといけない。 まぁぼくが外泊すると言えば、理由なんていわなくても分かるんだろうけど、さすがに面と向かってギイのゼロ番に泊まるから、とは言いにくい。 ぼくの考えなんてお見通しのギイは、 「じゃオレがちゃんと根回ししとくから、な?」 と、いたずらっぽく笑う。 「分かったよ。じゃあよろしくお願いします」 ぼくが言うと、ギイは嬉しそうにちゅっとぼくの耳元にキスをした。 その時、にゃあと可愛らしい泣き声が足元で聞こえた。 視線を移すと、ギイの足元にリンリンがいた。じーっとギイのことを見上げている。 「何だ、お前まで託生との逢瀬を邪魔するつもりか?」 笑いながらギイが身を屈め、伸ばした片手でリンリンを掬い上げる。 わ、何でリンリンは抵抗しないんだ!? ぼくは唖然と、ギイに甘えた声を出すリンリンを眺めた。 「ひどいよ、ギイ」 「何が?」 「人見知りの激しいリンリンがどうしてそんなに簡単にギイには慣れちゃうんだよ!」 さっき三洲に言ったのと同じ台詞を、今度はギイに言ってみる。 ギイはそうなのか?というようにリンリンを眺め、 「メンクイなのか、お前?」 と、他の人が聞いたら絶対に怒りそうな台詞をさらりと言ってのけた。 さすがギイ。 その台詞、よほど自信がないと言えないよね。 「ぼくにも懐いて欲しいなぁ」 「これ以上ライバル増やしたくありません」 ギイは苦笑しながらも、 「ほら、託生」 と、よほどぼくが恨めしげにしていたのか、リンリンをぼくに差し出した。 ぼくの腕の中に大人しくおさまったリンリンは、しょうがないなというようにぼくを見上げる。 柔らかな手触りに、自然と笑みがこぼれた。 やっぱりリンリンはメンクイなのか? ギイの指先に撫でられて気持ちよさそうにするリンリンを、ぼくはどうにも納得できない気持ちで見つめる。 「気持ちよさそうだね、リンリン」 「なに、羨ましい?託生?」 「ち、違うよ!」 「分かった分かった。今夜ちゃんと気持ちよくしてやるから、猫に妬くなよ」 「だから違うってば!!!」 真っ赤になったぼくを見て、ギイは楽しそうに笑った。 |