日曜日、久しぶりにギイと葉山と3人で麓の街へと下山した。
僕は見たい映画があり、葉山は欲しい楽譜があり、ギイは妹に頼まれた本を買うという、それぞれ別々の目的があった。 一番時間がかかるのが僕だったので、映画が終わる頃にいつものカフェで待ち合わせることにした。 ところが、だ。 絶対に僕が最後だろうと思っていたカフェには、ギイも葉山もいなかった。 「何やってんだ、あいつら」 まぁ待たせるよりは気が楽か。 僕は窓際の席に座るとコーヒーを注文して、さっき観たばかりの映画のパンフレットを眺めた。 いつもはパンフレットなんて買わないのだが、今日観た映画はなかなか良かったので、思わず買ってしまったのだ。 (そういえば奈美が見たいって言ってた映画も同じ監督のものだったな) これなら期待できるかもしれない。どうせ観るなら面白いと思えるものの方がいいし。 だいたい奈美は洋画だと役者の見分けがまったくつかないらしい。 今までもあり得ないような人違いを普通にして、何度も僕を呆れさせている。 邦画ならそんなこともないだろう。 僕がぼんやりとそんなことを考えていると、急に静かだった店内がざわめき出した。 (来たか) いつものことではあるが、この何とも言えない空気感には呆れるやら感心するやら、だ。 顔を上げなくたって分かる。 この空気感で、僕はヤツが現れたことをすぐに知ることができる。 便利といえば便利だし、迷惑といえば迷惑だ。 「待たせたな、章三」 予測通り、相棒であるギイが前の席に座った。 手にしていた本屋の紙袋を、無造作に空いた隣の席に投げ、よほど外が暑かったのか、上着を脱いで脇に置き、傍らのメニューを広げて少し考えるかのように首を傾げる。 ギイはまったく気づいていない・・・のではなくて、気づいていて知らぬふりをしているんだろうが、店内の女の子たちの視線がギイの一挙一動に釘付けになっている。 誰もがする何てことない仕草でも、ギイがすると妙にさまになって人目を引くのだ。 何しろ祠堂でもピカ一の美男子だ。 もう見慣れたとはいえ、僕だってそれは十分に認めている。 同じ男でも見惚れるヤツがいるくらいなのだから、女の子たちにしてみれば、そりゃもう王子様のようにでも見えているんだろう。 (確かにギイのバックグラウンドは王子様に近いものがあるが、中身はまったく普通の男なんだがな) 注文をとりにきたウェイトレスがギイの容姿に見惚れて注文を聞き返す。 これもよくあることだ。 しかしギイも慣れたもので、特に気分を害することなく、もう一度注文を繰り返した。 (面倒臭いだろうなぁ) 常に人目に晒されて、別に欲しくもない熱い視線を送られて。 そういうのを羨ましいと思う人間もいるだろうが、僕なら代わるといわれても真っ平ごめんだ。 「何だよ」 ギイが僕の視線に気づいて、気味悪げに眉をしかめる。 「いーや。葉山はどうした?」 「託生はまだ楽器店で物色中。オレがそばで待ってると気にするから先に来た」 葉山の話題が出たとたん、ギイの表情は柔らかくなる。 まったくこいつは分かりやすい。 不純同性交友にはこれからも反対の立場を守り続けるつもりだが、ギイのこういう表情を見ると、相手が男であれ女であれ、誰かを本気で好きになるっていうのはすごいことだよなぁと思う。 そしてこのギイにこんな表情をさせる葉山はたいしたものだ、とも。 「何にしろ遅すぎる。いつまで待たせるつもりだ」 とりあえずその場を繕うために言うと、 「悪い悪い。これお詫びな」 と、ギイは笑いながらテーブルの上に紙袋を滑らせた。 (怪しい) ギイは理由もなくプレゼントをするようなヤツではない。 だいたい悪い悪いなんて口にしているが、悪いなんて思っちゃいないはずだ。 (何か裏があるのでは?) そう思ったとしても仕方がないと思うのだが・・・。 「何だよ、別に裏なんかないぜ」 ギイは屈託のない笑みを浮かべて、運ばれてきたコーヒーを口にする。 「いつも世話になってるからな、章三には」 「よく分かってるじゃないか」 もっぱら葉山がらみで、僕はどれほど振り回されていることか。そう思うと少しくらいの賄賂があっても許されるべきだと思えてきた。 ギイがニヤニヤと笑うのを横目で見つつ、僕は渡された紙袋を開けみた。 中には雑誌が入っていた。 (本?いったい何の本だ?) 嫌な予感に眉を顰めるとギイが身を乗り出して、にっこりと笑った。 「それの20Pな。あと、43Pもよろしく」 「ギイ・・・」 こいつはいったいどんな顔をしてこれを買ったんだ? 女性向けの料理の本なんて。 袋から取り出した本をまじまじと眺める。 読んだことはないが、名前だけはよく知っている料理の本だ。 簡単イタリアン特集だと!? 何なんだ、これは! 「いやー、めちゃくちゃ美味そうでさ、ぜひとも章三に作ってもらわねば、と」 「あのな、寮にいて、いったいいつ作れっていうんだよ」 僕は呆れてギイを見た。 ギイはうーんと少し考えたあと、 「秋休みにさ、この前みたいに、またオレん家で託生と3人で合宿しようぜ」 名案だろ、と言わんばかりの得意顔で僕に言う。 「断る」 「何でだよ」 即答の僕にギイがむっとする。 「お前らの家政婦なんてごめんだね。これは葉山にやれよ、で、ヤツに作ってもらえ」 愛する葉山の手作りだ。どれだけ出来栄えがまずくても、ギイにとっちゃ最高のプレゼントに違いない。 これこそ名案だと言うと、ギイはソファに深く沈みこみ、うーんと唸った。 「託生なー、包丁持たせて怪我でもされちゃまずいしさ、それならオレが作るかな」 「自分で作れるなら、僕にこんな本を買ってよこすな」 「いいだろ。実用的じゃないか」 ギイは楽しそうに笑って、あと51Pもよろしく、と懲りずに言った。 僕が料理ができると知ると、ギイは家に遊びにくるたびに何か作ってくれと言うようになった。 ずうずうしいにもほどがあるが、章三の料理は最高だ、と言われると悪い気はしなくて、ほいほいと作ってしまう僕も僕だ。 (簡単イタリアンねぇ) ぱらぱらとページをめくると、なるほどそこにはすごく美味そうな写真があった。 レシピに目を通すと、それほど難しくはなさそうである。ちょっと作ってみたいかな、と思ったが、ギイに知られるとまずいので僕はあえて知らぬふりをした。 「ごめん。遅くなって」 頭上からの声に顔を上げると、葉山が息を切らして立っていた。 「そんなに急がなくても良かったのに」 ギイが笑い、席を空ける。葉山はありがとうと言ってギイの隣に座った。 「でも赤池君がずいぶん待ってるんじゃないかと思って」 「確かに、まさか僕が一番乗りだとは思わなかったがな、それほど待っちゃいないから気にするな」 僕が言うと、葉山はほっとしたように微笑んだ。 ウェイトレスにコーヒーを注文して息を整えると、葉山はテーブルの上に無造作に置かれていた件の料理本に視線を向けた。 「赤池君、イタリアン作るの?」 その一言に、ギイがげらげらと笑った。僕はギイを一睨みして、きょとんとする葉山にため息をついた。 「葉山、どうしてそれが僕の本だと思う?」 「え?だって、料理の本だろ?まさかギイのじゃないよね?」 「託生、正解。今度、章三が作ってくれるってさ」 「誰がそんなこと言った!」 ギイと僕がやりあっている間にも、葉山はそうなんだーと、のほほんと笑って本を手にする。 こいつは本当に緊張感のないヤツだ。 葉山はぱらぱらとページをめくると、そこに載っている写真に目を輝かせた。 「美味しそうだなぁ」 「葉山もイタリアン好きなのか?」 「特別に好きってことはないけど、でもこの本の料理はどれも美味しそう」 「だよなー、章三に作って欲しいよなー」 「ギイ、調子に乗るな」 「ギイもイタリアン好きなの?」 葉山の言葉に、ギイは素直に好きだと言った。僕は思わず、 「イタリアンに限らず、ギイは何だって食うだろうが」 と突っ込んだ。だが、ギイはちっとも悪びれず、 「作り甲斐があるだろ?」 と言ってのけた。 確かにギイ相手だと作り甲斐はある。 何しろギイの胃袋はブラックホールなので、普段は作りたくても作れない大皿料理を試作がてらに作れてしまうのだ。親父と2人だけだとそうはいかない。 が、認めるのも癪なので、僕は葉山が僕へと返そうとした本をそのまま押しやった。 「なに?」 「葉山にやるから、これで少しは勉強しろ」 「ええっ!何でぼくが!」 「いつもギイに世話になってるんだから、たまには料理でも作ってやれ。恋人の作った料理ってのは男にとっちゃ醍醐味だからな」 「お、章三、いいこと言うなー」 ギイが妙に期待を込めた目で葉山を見る。葉山はとたんに嫌そうな顔をした。 「無理だよ、ぼくに料理なんて」 絶対に食べる方がいい、と小さく言う葉山に、ギイも僕も声を上げて笑った。 もちろん僕もギイも、葉山にそんなことなんて期待しちゃいなかったのだ。 そんな出来事があったことなんてすっかり忘れた頃、ギイがやけに上機嫌でやってきて僕に言った。 「託生がオレのためにタラスパを作ってくれた」 どういう心境の変化で葉山が料理をする気になったのかは知らないが、どうやらあの時、ギイがイタリアンが好きだと言ったのを覚えていたようで、母親に教えてもらったらしい。 タラスパ以外にもパスタなら作れそうだと言って、今では無理やり押し付けたあの「簡単イタリアン特集の料理本」を見ているらしい。 「良かったな、男の醍醐味が味わえたじゃないか」 僕が半分嫌味で言うと、ギイはこれ以上ないくらいに嬉しそうに笑った。 あまりに馬鹿正直なその笑顔に、僕はうっかり感動してしまった。 まったく、ギイにこんな笑顔をさせる葉山はたいしたものだ、と。 やっぱりあの本を葉山に押し付けたのは正解だったな、と思う。 完璧な料理より、誰かが美味しいと言ってくれる料理の方が価値がある。 誰かのために心をこめて作る料理ほど美味しいものはないのだ。 いくら僕が完璧なイタリアンを作ったところで、ギイはこれほど嬉しそうには笑わないだろう。 葉山があの本でまたギイのために料理を作れば、単純なギイは美味しい美味しいと言って残さず食べるに違いない。そしてまたあの眩しい笑顔を見せるのだ。 いつまでもにやけっぱなしのギイの頭を軽く叩いて、僕は葉山を探しに行くことにした。 葉山でも作れそうで、なおかつギイが好きな料理のレシピを、記憶の中から引っ張り出す。 ギイの笑顔は、葉山のことも笑顔にするのだろう。 まったく、お人よしすぎると自分でも思うが、2人の笑顔が見れるのは僕にとっても嬉しいことだ。 「不器用な葉山でも作れるレシピか。こりゃなかなか難問だ」 それでも何故か楽しい気分になるのが不思議だった。 |