「今夜はすげぇ嵐みたいだぜ」
利久の口調はどこかウキウキしている。空を見上げると、まだ綺麗な青空で、とても嵐が来るなんて思えない。ほんとに嵐なんて来るのかな、と思わず首を捻ってしまう。 「なぁ、託生。子供の頃、台風とか来ると妙に嬉しくなかったか?」 「どうかな・・・特に嬉しくはなかったけど・・・」 寮から校舎までの道のりを、2人でのんびりと歩く。 利久とこうして登校するのは久しぶりだった。今日は偶然朝の学食で一緒になって、そのまま登校しようということになったのだ。 ちなみにギイは担任に呼ばれて、さらに早くに登校している。 「台風の日ってさー、懐中電灯とか用意して、何かいつもと違うって感じじゃん?わーわー騒いでよくお袋に怒られたなぁ」 「そうなんだ」 何だかその様子が目に浮かぶようだよ。きっとお姉さんと2人して楽しんでいたんだろうな。 利久もけっこうお祭り好きだもんな。 「託生は騒いだりしなかったのか?」 「うーん、普通だったと思うけど」 「何だよ、つまんないなー」 「そんなこと言われても・・・」 台風の日は何をしていただろうか。 遠い記憶を巡らせてみる。 (兄さんが・・・) 台風で学校が休みになると、兄さんが一緒に遊んでいた。 本を読んでくれたり、宿題を見てくれたり。 新しく覚えたバイオリンの曲を聞いてくれたり。 (楽しかったな・・・) 同級生の友達と遊ぶより、兄さんと遊ぶ方が楽しかった。 ぼくがどんな我侭言っても、笑って聞いてくれたから。 「託生?」 黙り込んでしまったぼくを、利久が不思議そうな顔で覗き込む。 「え、あ、ごめん。なに?」 「何ぼーっとしてんだよ。大丈夫か?」 「うん、ごめん。利久が嬉しいのはさ、嵐が来たら部活がなくなるからだろ?」 「へへ、ばれたか」 ぺろりと舌を出して、利久が笑う。 「けど、祠堂じゃ嵐が来たって学校は休みにならないもんなー。何しろ寮がすぐそこにあるんだからさ」 「そうだね。って、何だよ、利久、部活だけじゃなくて学校まで休みになって欲しかったのかい?」 「たまにはそういうのもいいかなーって」 やれやれ。そういうお気楽なところが利久のいいところだよね。 ぼくは笑って、まだ嵐など訪れそうにはない青い空を見上げた。 午後になると利久の言う通り、空は薄暗くなり、ぽつりぽつりと雨が降り出した。 授業が終わる頃には、それは大雨へと変わった。 「すげぇなー。俺、傘持ってないんだけどな」 「俺だって」 「傘なんてさしてたって、絶対濡れるだろ、これ」 教室に残っていたクラスメイトたちが窓辺へ集まり、皆口々に窓の外を眺めてはため息を漏らす。 ぼくも見事な降りっぷりをただ眺めるしかできない。 (託生、てるてる坊主作ろうか) 兄さんが外に遊びに行きたいと我侭を言うぼくのために、てるてる坊主を作ってくれたことを思い出す。 いくつもいくつも。 窓辺にぶら下げて、雨が止むようにと願ってくれた。 (どうして今日は兄さんのことばかり思い出すんだろう) ぼんやりと、まるで夢の中での出来事のように、兄さんと遊んだ時のことが甦る。 「託生?」 ふいに声をかけられて、びくりと身を竦ませた。 振り返ると、ギイが不思議そうな顔をしてぼくを見ていた。思わずほっと息をつく。 「どうした?ぼんやりして」 「あ、ううん。傘持ってこなかったから、どうしようかな、って」 ぎこちなく答えると、ギイはしょうがないなというようにふわりと笑った。 「ほら、これ使えよ」 差し出された折畳み傘。さすがギイ。用意周到だなぁ。 だけど・・・。 「でもぼくが借りたらギイはどうするんだよ」 確か今日は評議委員会があるから、一緒には帰れないはずだ。雨は夜半まで続くって言ってたし、ギイが帰る頃でもまだ降っているんじゃないかと思う。 「大丈夫。誰か一人くらい傘持ってきてるだろうし。一緒に入れてもらうからさ。託生、もうちょっと雨脚がおさまるまで待ってから帰れよ。こんな雨じゃ傘さしてても濡れるからな」 「うん、わかった。ありがとう」 「・・・・」 「どうしたの?」 「いや。じゃ、またあとでな」 委員会が始まるから、と慌てて教室を出て行くギイを見送って、ぼくは言われた通り、雨が少しおさまるのを待つことにした。 雨に濡れるのは今でもあまり得意ではない。 できれば小雨になってから寮へ戻りたかったけれど、雨は勢いを増すばかりでいくら待ってもおさまりそうにない。 ぼくは諦めてギイが貸してくれた傘を片手に教室を出た。 305号室へ戻り、やはりぐっしょりと濡れてしまった制服を脱いで乾いた私服へと着替えた。 ギイがいない部屋はやけに広く感じられて、ぼくはベッドに横になると目を閉じた。 今日は朝からずっと昔のことばかり思い出している。 いつも兄さんのことなんて考えたりしないのに。 命日が近くなると、もちろん思い出さずにはいられない。けれど、日常生活の中で、兄さんのことを思い出すことなんてほとんどないのだ。 (薄情なのかな・・・) そうではない、と思い直す。 一年前までは意識して思い出さないようにしていた。 できるだけ昔のことは考えないようにしていた。両親のことも兄さんのことも許せなかったからだ。 けれど今は、そんな理由で思い出さないのではない。 自分の中で、すべて過去のこととして姿を変えたからだ。 (だから、無理に忘れる必要もないし、無理に思い出す必要もないんだ) そう自分に言い聞かせる。 何かの拍子に、兄さんのことを思い出しても、何も怖がることはない。 もうすべて終わったことなのだから。 (雨の日は、兄さんも学校を休んでることが多かったな・・・) 身体の弱かった兄さんは、雨の日はいつも辛そうだった。 でも、そういうこと、あまり口にしたりしない人だった。 だから、ぼくは兄さんの病状がどれくらいなのか、あまりよく知らなかったのだ。 激しく振り続ける雨の音が眠気を誘う。 ぼくはそのまま眠りに落ちた。 目が覚めたとき、部屋の中は真っ暗だった。普通ならまだ薄暗い程度の時間だったが、雨のせいで夜中かと思うほどに暗かった。 「ギイ、まだ戻ってないんだ」 委員会が長引いているんだろうか? とにかくあちこちから引っ張りだこで忙しいギイなので、こうして部屋で待っていてもいつ戻ってくるか分からない。 ぼくは先に夕食を済ませてしまおうと思い、部屋を出た。 学食は賑わっていたが、やっぱりギイの姿はなくて、代わりにといっては何だけど、相棒の赤池章三がぼくを見つけて手を上げた。 「一人か?」 「うん。赤池くん、ギイ見なかった?」 「知らない。あいつ、今日は委員会だろ?まだ学校じゃないのか?」 夕食のトレイを手にして、2人して空いた席に座る 「それにしてもすごい雨だな。朝まで降るみたいだぜ」 学食の騒がしさで雨の音は聞こえないが、窓に叩きつける雨つぶがちゃんと見える。 「赤池くんは台風の時ってどうしてた?」 「どうしてたって?」 意味が分からん、と章三がぼくをうながす。 「利久は台風の日は懐中電灯持ち出して騒いではお母さんに怒られてたって」 「ああ、なるほど。子供の頃ってそういうことやるよな」 章三はくっくと笑った。 「赤池くんもそういうのやった?」 「そうだなぁ、やったな。家中の傘を集めてさ、全部広げて傘の家作った」 「へぇ」 それは楽しそうだ。 「うちは三人家族だからさ、それほど傘がないだろ?奈美んちの傘も全部持ち出して、二人でせっせと傘の家つくって、あとで怒られたなぁ」 「はは、赤池くんもいたずらして怒られたりするんだ」 今の章三からは想像がつかない。今は逆に怒る立場だもんな。 「葉山は?」 「ぼく?」 「そんないたずらしなかったか?」 「傘の家は作らなかったなぁ」 ちょっとやってみたいなぁなんて思うけど。今なら寮の玄関に溢れるほど傘がある。あれで傘の家を作ったら、ちょっとすごいだろうなぁ。 「ま、今じゃ台風が来たって何も楽しいことないけどな。祠堂じゃ学校が休みになることもない」 「ふふ、利久と同じこと言ってる」 「みんな思うだろ、それ」 章三がちょっとバツ悪そうに笑った。 天下の風紀委員でもそんなこと思うんだと思うと、何だかおかしかった。 夕食後、章三と2人で向かった談話室は、テレビを見るために集まった生徒たちで大賑わいだった。 嵐がきているという、ちょっと日常から離れた状況をみんな楽しんでいるようにも見える。 ぴかっと眩しい閃光が走ったかと思うと、がらがらと耳を塞ぎたくなるような音が鳴り響いた。 寮内のあちこちからどよめきが起こるが、それは怖がっているというよりは、むしろ面白がっている歓声といった方が良かった。 ほんとみんなお祭り好きだよな。 「すごいな。停電にでもならなきゃいいんだけどな」 章三が窓の外を眺めてつぶやく。 「そうだよね。こんな山奥で停電になんかなったら、大変だよね」 陸の孤島。ミステリー小説だと殺人事件が起こったりするシチュエーションだ。 章三と並んで窓の外を見ていたぼくは、再び真っ暗な夜空に走った稲妻を凝視した。 「綺麗だねぇ」 思わず漏れたぼくの一言に答えるように、背後で誰かがため息をついた。 「つまらん」 振り返ると、腕組みをしたギイが不機嫌そうに立っていた。 「あれ、ギイ。いつの間に。もう夕食食べたの?」 「ああ」 どこかむすっとした様子のギイに、ぼくは首を傾げる。 「どうしたの、ギイ?あ、もしかして先にご飯食べちゃったから怒ってる?ごめんね」 「そうじゃなくて、お前、ぜんぜん雷怖くないんだな」 「え?雷?うん」 雷なんてぜんぜん怖くないよ。音はうるさいけど、綺麗だなぁって思うくらいで。 「残念だなぁ。雷が怖いから一緒に寝て、なんて言って欲しかったなぁ」 「さて、僕は部屋に戻るかな」 馬鹿げたギイの発言に眉を顰め、章三はさっさとその場を立ち去ってしまった。 「ギイってば、赤池くん呆れてたじゃないか」 「何だよ。お前が滅多に甘えてくれないから、これはチャンスかなーって思っただけだろ」 拗ねたように唇を尖らせるギイに、ぼくは笑ってしまう。 「わかったよ。じゃあ雷は怖くないけど、一緒に寝てくれる?ギイ?」 とたんにギイがぱっと見惚れるような笑顔を見せた。 章三は、ギイはぼくに甘いというけれど、ほんとはぼくの方がギイに甘いんじゃないかと最近思う。 まぁ惚れた弱みだから、しょうがない。と思うことにしているんだけど。 (託生、雷が怖いなら一緒に寝ようか) ふいに兄の声が甦った。 まだ小さくて、雷が怖かった頃、兄さんはぼくと一緒に寝てくれた。 布団の中はとても暖かくて、寒がりなぼくにはすごくそれが心地よかった。 だけど、あの時の暖かさは、もしかしたら・・・ 「託生、部屋に戻ろう」 「あ、うん」 また少しぼんやりとしていたらしい。だめだ、本当に今日はどうかしてる。 ギイに促されて、ぼく達は賑やかな談話室を後にした。 部屋へ戻る間にも何度か雷が大きな音を立てた。 「すごい音だな」 「ギイは台風の時って、どうしてた?」 「どうって?」 「赤池くんは傘の家作ったんだって」 「へぇ。傘の家は作らなかったなぁ。んー、特にいつもと変わらなかったな。もちろん外出禁止で家の中にいたけどな」 「そうなんだ」 305号室に戻ると、ギイは腰掛けたベットをぽんぽんと叩いた。 「おいで、託生」 「え?」 「いいから、ほら」 言われるがままに、ぼくはギイの隣に座った。 ギイの長い指先がゆっくりとぼくの頬を撫で、そのまま唇が近づいてくる。 柔らかな口づけのあと、ギイはじっとぼくの目を覗き込んだ。 「なに?」 何か言いたいのにどうしようか迷っている、そんな風に見えて、ぼくはギイの手に触れた。 「ギイ?」 「託生、何かあった?」 「なにかって?」 「朝からずっと泣きそうな顔してたから」 「え?」 泣きそうな顔? 何のことか分からずにいると、ギイはやれやれというように肩をすくめた。 「何だ、自分で気づいてなかったのか?」 「だって、別に何も・・・」 言いかけて、ふと思い出した。 今日は朝からずっと兄さんのことを考えていた。 何かの拍子に兄さんと遊んだことや、話したこと、何てことのない風景が思い出されて仕方なかった。 だけど、泣きそうな顔なんて・・。 「託生?」 「あ、うん・・・えっと、自分でもどうしてか分からないんだけど、どういうわけか、今日は兄さんのことをよく思い出しちゃって・・」 ぼくの言葉に、ギイは少し傷ついたような表情を見せた。傷ついた、というよりは、ぼくに嫌なことを言わせたんじゃないかという不安がよぎったような、そんな表情だった。だからぼくは慌てて言った。 「違うんだ、あの・・嫌なことを・・思い出してたわけじゃなくて・・・」 ギイは最後まで言わせずにぼくの身体をぎゅっと抱きしめた。 「ギイ・・・」 「ほんとに?」 「うん」 「オレには嘘つくなよ?託生」 「ほんとに嘘なんてついてないよ」 心配性だなぁ、ギイ。 ぼくはギイの腕を解くと、今日一日考えていたことを口にした。 「利久に言われて、台風の日に何してたのかなぁって考えてたんだ。そしたら兄さんがいつも遊んでくれたなって。兄さん、身体が弱かったから、雨の日はよく学校を休んでたんだ。台風で学校が休みになると、遊びに行けなくてつまらなくしてるぼくの相手をよくしてくれた。楽しかったなって」 「そっか」 「あの時は何も思わなかったんだけど、休んでるってことは、兄さんの身体の調子が良くなかったってことで、本当は寝てなくちゃいけなかったんだろうなって」 ぼくは今になってそのことに気づいたのだ。 そしてその事実をギイに話しているうちに、どんどん胸が苦しくなってきた。 「雷が怖くて、一緒に寝てくれた兄さんのベッドの中が暖かくて、ぼくは単純に喜んでたけど、でもそれはきっと熱があったからで、本当はぼくと一緒に遊ぶような元気はなかったんじゃないかって。ぼくが遊んでっていうから、きっと無理して付き合ってくれてたんじゃないかって・・・」 「託生・・・」 ギイがぼくの指先をきゅっと掴む。 「不思議だね、ギイ」 「うん?」 「1年前まで、ぼくは兄さんのことを思い出さないように必死だった。だけど今はそんなことしなくても良くて。それにね、ふいに思い出しても嫌なことは思い出さないんだ。もちろん嫌な記憶がすべて綺麗に消えてしまったわけじゃないんだけど、だけど今日、ふと思い出す兄さんとの思い出は楽しかったことばかりで・・・ぼくは・・」 「託生・・」 ギイが困ったようにぼくの頬へと手を伸ばした。 ギイの指先が濡れた僕の頬を拭う。 そこでやっと、自分が泣いているのだと気づいた。 涙で視界が歪んで、ぼくは思わずギイの視線から逃げるように俯いた。 「ぼくは・・ずっと、ずっと忘れてたんだ。嫌なことばかりじゃなかったのに・・・兄さんが、とてもぼくのことを大事にしてくれてたこと、大切に思っててくれたこと、知ってたのに、だけど・・許したくなかったから、嫌な思い出と一緒に全部、忘れてしま、って・・」 ぽたぽたと涙が落ちる。泣くつもりなんてなかったのに。 どうしてこんなに涙が出るんだろう。 ギイはぼくの頭を片手で引き寄せると、強く胸に抱きかかえた。 何も言わずに、しばらくぼくの髪に鼻先を埋め、ぼくの涙が止まるのを待ってくれる。 「ごめん、ギイ」 こんなこと聞かされても困るだけだろう。けれどギイは何も言わずにぼくを抱きしめてくれた。 「謝ることなんて何もない。泣いたってかまわない。託生が、辛いと思ったことも、嬉しいと思ったこともオレは全部知っていたいから。一人で泣くくらいなら、オレの前で泣いてくれた方がいい」 「・・・っ」 ぼくが顔を上げると、ギイは優しく笑って言った。 「託生の心の傷がさ、少しづつ薄れていって、辛い過去を乗り越えられたんだよ。だから、楽しかった記憶が甦ってきたんじゃないのかな。忘れていたわけじゃない。ほんの少し心の奥に隠れていただけだ。託生にとってたった一人の兄貴だったんだ。これから先、思い出すのなら楽しかった思い出だけでいい。今の託生なら、きっとそれができる」 「ギイ・・・」 「オレがいる」 ギイはぼくの頬を両手で包み込み、真っ直ぐに視線を合わせた。 「これから先の託生の思い出は、全部オレが楽しいものにする。過去の思い出は、変えてやることはできないけれど、辛かったことは思い出せないくらいに、これから幸せにする。それじゃだめか?」 ぼくはまた溢れてきそうになる涙を必死で堪えながら、何度も首を振った。 「泣くなよ、託生」 「・・・っ、ギイが、泣かせたくせに・・」 いったいギイはどれだけぼくを幸せにするつもりなのだろう。 いったいどれほどの愛情を、ぼくにくれるつもりなのだろう。 「ギイ」 「うん?」 「雷、おさまったけど・・やっぱり今日は一緒に寝てくれる?」 「もちろん、喜んで」 ギイは過去の思い出は変えられないと言ったけど、楽しい思い出ばかりを思い出すのだとしたら、それは変えてしまったのも同じことだ。 そうさせてくれたのはギイだ。 ギイはぼくの未来だけじゃなく、過去の思い出さえも幸せなものに変えてくれる。 「ありがとう、ギイ」 これからも、きっとぼくはこの言葉を何度も言うことになるのだろう。 ぼくにはそれしかできないけれど、ギイがぼくを幸せにしてくれるように、ぼくもギイのことを幸せにできるようになりたいと思う。 今すぐには無理でも。 いつかきっと。 |