ギイとのことを両親に話そうと思い始めたのは、ギイが祠堂から姿を消してから少ししてのことだった。
周りからは、これでぼくとギイは別れた(あるいは捨てられた)と思われているのかもしれないなぁと考えてみたことはある。だけど、どう考えてもこれですべてが終わりになるとは思えなかった。 あのギイがこんな中途半端な形でぼくとの関係に終止符を打つことがあるだろうかと思うと、答えは否で、だとしたら、これはほんの少し会えないだけのインターバルのようなものなのだろうと思わざるを得なかった。 さすがに、 「ギイのばかっ、こんなのギイらしくないじゃないか」 と憤ったりもしたけれど、だけど怒ったところで当の本人はここにはいない。 あのギイが、何も残さずに祠堂を去らなくてはならなかったような理由がきっとあって、あのギイが、ぼくに何の連絡もよこせないような理由がきっとあって、だとしたらぼくにできることはギイを信じて待つことだけだったのだ。 もちろん、ただ待っているだけではダメだとも思っていた。 まずは音大に入学して、何とかギイがいるであろうアメリカへ行こう。 会えるかどうかは分からないけれど、何もしないで待ってるだけなんて恋人としてどうかと思ったのだ。 そんなことを考えるうちに、ギイのことをこの先もずっと好きでいることは決まっているのだから、それをいつまでも親に言わないでいるのはどうなんだろうと思うようになった。 嘘をつき続けることはできない。 高い入学金を払ってもらって好きな音楽の勉強をさせてもらうのに、隠し事をしたままっていうのは何だかすごく嫌なのだ。 (だけど、これは自分勝手な自己満足なんだろうな) 同性の恋人がいるなんて、おまけに一言も言わずに姿を消してしまった人を今でもこれからもずっと好きでいるつもりだなんて、いきなり打ち明けられても困るだけだろうなということは分かっていた。 両親を困らせたいわけじゃないけれど、ただ、ギイのことを隠したくないだけだ。 この先もぼくはギイと一緒にいると決めたのだ。 もし打ち明けることで、両親からまた冷たい態度をとられることになったとしても良かった。 兄の時とは違う。 ギイとのことを、ぼくはこれっぽっちも後悔はしていないし、誰に何を言われても平気だった。 「とは言うものの、どう言えばいいのかな」 彼女ができたんだ、と軽く言えるような内容でもない。 第一彼女でもないし。 あれこれ考えても仕方がない。ただ事実を告げるしかない。 ぼくは自室を出ると、階段を下りてキッチンいる母親に声をかけた。 「あら、託生、お風呂沸いてるわよ。入っちゃいなさい」 「うん、お父さんは?」 「まだよ。今日は遅いんじゃないかしら」 「そう」 ぼくはソファに座ると、洗い物をする母さんの背を眺めた。 父さんが遅いのなら、話はまた今度にしようかなと思った。 「ねぇ託生」 「なに?」 母さんは洗い物で濡れた手をタオルで拭うと、ぼくの前に座った。 「本当に家を出るつもりなの?」 「ああ・・・うん、ごめん。お金かかるのに・・」 「そんなことはいいんだけど・・・」 受験する音大は実家から通えないことはなかったけれど、何となくもう両親と一緒に暮らすのは難しいかなと思っていた。 祠堂で3年間離れていた。 その前も兄のことがあって、ここはそれほど居心地のいい場所ではなかった。 ギイと出会って、それまで考えたこともなかった兄の気持ちの欠片を知ることができて、冷たく固まっていた心は次第に溶けていった。 今はあの時のわだかまりは少し薄くなったものの、この場所はいろいろと思い出すものが多すぎてちょっとしんどいなと思うことがある。 「また託生と一緒に暮らせるようになったら、いろいろしてあげたいこともあったし・・・。今まで何もしてあげらなかったから・・・」 母さんがどこか申し訳なさそうにぼくに言う。 昔、ぼくのことを突き放したことを後悔してるから、そんな風に思うのかな。 罪滅ぼしのつもりで? 「いいよ、そんなの・・・そんなに気を使ってくれなくても平気だよ」 ぼくが言うと、母さんはちょっと寂しそうな目をした。 「託生には、何もしてあげられないままなのね」 「そんなことないよ、大学行かせてもらうだけでも十分だし」 「そんなの当然でしょ。そうじゃなくて、託生は今まで我儘言ったことないから」 そうだっただろうか。 記憶を辿ってみても、確かに両親に甘えたことはないようにも思う。 唯一ぼくが譲らなかった我儘は、祠堂へ行きたいと言ったことだろう。 あの時、どうしてもこの家から、両親から離れたくて、知る人のいない祠堂への入学を希望した。 けっこうな入学金と授業料。祠堂があんなお坊ちゃん学校だと知っていたら、もっと違う全寮制の学校を選んだかもしれない。 もっとも、今となって祠堂を選んで正解だったと思うけれど。 「ぼくに我儘、言って欲しかった?」 「そうね、子供を甘やかせる期間って限られてるし。託生だって大学を卒業したらもう社会人でしょ。そうなったら逆に甘えられても困るし」 「・・・・だけど、もしぼくが我儘を言ったら困るんじゃない?」 「そうねぇ、そうかもしれないわね。でも託生が言う我儘なんて、それほどの我儘でもないような気がするわ」 母さんの言葉にぼくは苦笑した。 ソファの上に両足を引き上げて膝を抱えると、ぼくはひどく落ち着いた気持ちのまま口を開いた。 「じゃあ最大の我儘を言ってみようかな」 「なぁに?」 「好きな人がいるんだ」 「え?」 母さんは突然の告白に目を丸くした。 「すごくすごく好きで、たぶんぼくはこの先、その人以外の人を好きになることはないと思う。その人は、誰にも心を開けなかったぼくのことを・・・接触嫌悪症で二度と誰のことも好きになんてなれないって思ってたぼくのことを、ぼくの心をとても大事にしてくれて、好きだと言ってくれた。その人のおかげで、ぼくはこうして今母さんの前で向き合って話ができる。もしその人に出会えてなかったら、ぼくは今でも心を閉ざしたままだった。ぼくにとってはすごく大切な人なんだ」 「託生・・・」 「今は会えないけど、いつ会えるかもわからないけど、でもぼくはその人のことを信じてるし、ずっと好きでいる・・・覚悟をしてて・・・もし母さんたちに反対されても・・譲れないんだ」 どう言えばギイへの想いを正確に伝えることができるのだろう。 たぶん、言葉では無理なのだ。 ギイとぼくとで築いてきた想いと時間があって、それは傍から見れば子供っぽい感情なのかもしれないけど、だけど今はそれが真実ですべてだ。 母さんはぼくの話を黙って聞いていたけれど、やがて小さく吐息をついた。 「それ、崎・・さんのことなの?」 「え・・・」 今度はこっちが驚く番だった。 ギイの名前は出していないのにどうして、と言葉に詰まる。 母さんはそんなぼくの様子ですべてを悟ったのか、やっぱりね、と肩を落とした。 「どうして・・?」 「何となく、もしかしたらって・・・。仲良くしてもらってるのは知ってたし、NYの自宅にも遊びに行ったり、休みの時には毎晩のように電話もあって、もちろん祠堂で片倉くん以外にも親友と呼べる友達ができたんだなって最初はそう思ってたんだけど、この前、託生が怪我をして病院に運ばれたとき、あなたは覚えてないかもしれないけれど、目を覚ました時に『ギイは?』って。病室にいないって分かったときにすごく不思議そうな顔をしてた。そのあとまた眠っちゃって。あれだけ仲良くしていた崎さんが、急にアメリカに帰国したって聞いた時の託生の様子とかいろいろ見てると、崎さんが託生にとって特別な存在なんだろうなとは思ってたの」 「・・・そうなんだ」 離れていても母親の勘というのは働くものなのだろうか。 ギイと二人でいるところは、結局一度だって目にしていないはずなのに。 「託生と崎さんは・・・その・・・」 「付き合ってるよ。ぼくはギイのことが好きなんだ」 今度こそちゃんと真っすぐに母さんの目を見て告げることができた。 言ってしまえばそれは特別なことじゃないなと思えた。 ギイへの想いはぼくにとってはすごく自然なことで、恥ずべきことでも何でもない。 母さんは自分の息子が同性と付き合っていることを断言されて、さすがに表情を固くして黙っていた。 気持ち悪いと思っているのだろうか。 やっぱりぼくは自分の子じゃないと思っているのだろうか。 それならそれでぼくは・・・ 「尚人が・・・」 母さんはぎゅっと両手を握りしめたまま絞り出すように言った。 「尚人が託生のこと・・傷つけて、そのせいで・・・」 突然出てきた兄の名に、ぼくは慌てた。 「違うよ。ぼくは別に男の人が好きなわけじゃないよ。ギイだけが特別なんだ。ギイじゃなきゃダメなんだ。ごめんね、母さんが望むような息子になれなくて」 「・・・」 「許してほしいとか、認めて欲しいとか、そういうことを望んでるわけじゃなくて、ただ、いつかはちゃんと言わなくちゃいけないって思ってた。何ていうか・・・ギイとのことはたぶんぼくにとっては生きていく上で必要不可欠っていうか、一緒にいるのが普通で離れるなんて考えられないから、だから・・・」 「でも崎さんとは連絡が取れないんでしょ?」 「今はね」 だけどまたすぐ会える。 根拠のない自信を見せるぼくに、母さんは緩く首を振った。 「諸手を上げて喜ぶことはできないけど・・・託生が幸せになれるって言うのなら、頭ごなしに反対するつもりはないのよ、だけどまだ託生は若いから、今から崎さんだけがすべてだなんて決めつけることはないと思うの。大学へ行って、社会へ出て、もっといろんな人と出会って、それから託生にとって大事な人を選んでも遅くはないと思うの」 「そうだね」 「託生が、それでもやっぱり崎さんじゃなきゃって思うなら、そのときお母さんたちに崎さんを紹介してくれればいいから」 「反対しないの?」 「・・・正直に言えば、複雑だけど・・だけど尚人のことがあって、あれからいろいろ・・本当にいろいろ考えて、託生が傷つくようなことはもうしないって決めたから。託生がしたいってこと、どんなことであっても受け入れようって、そう父さんとも話したのよ」 ああ、兄さんとのことで、傷ついたのはぼくだけじゃなかった。 父さんも母さんも、どうすればいいか分からなくていっぱいいっぱいで、きっとひどく傷ついたのだ。 過去のことだからって、すべてを許せるほど広い心は持てなくて、今でもどこかであの頃の両親のことを恨んでいる自分もいて、だけどギイのおかげで少しづつ過去ではなくて未来へと目を向けることができるようになった。 母さんはもっといろんな人と出会ってから決めればいいと言う。 たぶん初めて誰かを好きになって、その相手からも好きだと言ってもらえたぼくが、周りのことが見えなくなっているだけなんじゃないかと思っているのだろう。 そんなことを思う時点で、ぼくのギイへの想いは正しく伝わっていないのだと思うけれど、だけどそれは仕方のないことだ。 だって、ぼくの心はぼくのもので、どれだけ言葉を尽くしても他人にはきっと理解はしてもらえない。 それでもいい。理解してほしいわけじゃないのだ。 ただ知って欲しかっただけだ。 ぼくには好きな人がいるのだということを。 そんな風に、誰かを好きになれるようになったのだということを。 ギイのいない時間を一人で過ごすことで、ギイ以外の誰かのことを好きになったりするのだろうか。 もちろんそんなことは絶対ないとは言えないだろう。 人生何があるか分からないのだ。 祠堂でギイに出会えたことさえ奇跡のようなことなのだから。 だけど、今のぼくはギイ以外の人のことなんて想像ができない。 「ごめん、いきなりこんなことを聞かされて混乱するよね」 「そんなことは・・・ううん、そうね、やっぱり少し・・・受け入れるまでには少し時間がかかるかもしれないけど・・・でも託生が正直に話してくれて嬉しいのもある。だってずっと黙ってることだってできたのに、どうして急に話す気になったの?」 「どうしてかな・・・大学に行かせてもらうのに、黙ってるのって誠実じゃないのかなって思ったり、それに祠堂を卒業したら・・・ぼくはギイに会いにアメリカに行こうと思ってるんだ」 「え」 「あ、もちろんすぐじゃないよ。ただ、ギイは何の理由もなく消えちゃうような人じゃないから、たぶん今は会いにこれない事情があるんだと思うんだ。だったら、ぼくの方から押しかけようかと思って」 不安を払拭するようにあえて明るく言うぼくに、母さんは言いにくそうに口を開いた。 「ねぇ、こんなこと言いたくないけど、崎さん、もう託生のこと・・・好きじゃなくなって、それで何も言わずにアメリカに帰ったってことはないの?だって大企業の長男だって」 母さんがそう思うのも当然だろう。 だって、誰が見てもギイがぼくとの関係を終わらせて帰国した、という風に見るのが自然だ。 だけど。 「うーん、それはないと思うな・・って、楽観的すぎるかな」 「・・・・」 「我儘言ってごめん。ほら、やっぱり困ったよね?」 笑って言うと、母さんは脱力したように微笑んだ。 「託生が決めたことなら、何も言うことはないわ。ただ無理したり、思いつめたり、崎さんとのことで傷ついてほしくないって思うだけ」 「大丈夫だよ」 父さんには私から話そうかという母さんに、僕は首を横に振った。確かに言いにくいことではあるけれど、父さんにもぼくの口からちゃんと伝えたかった。 怒鳴られても怒られても、それでもぼくの気持ちはぼくの口から伝えないといけないのだ。 「託生がそこまで好きになった崎さんてどんな人なのかしら」 「カッコいいよ。頭もいいし、スポーツもできる。祠堂では一番の人気者だった」 「とてもいい声してたけど」 「あれ、話したことあったっけ?」 「NYへ行く時に、託生の電話に途中から」 「ああ、そんなこともあったね。うん、声も素敵な人だよ」 写真の一枚でも手元にあればいいのに。ギイは写真嫌いだったからなぁ。 「あまりいろいろなことを急がないでね、託生。もし崎さんと託生が本当に縁があるのなら、きっとまた会えるんだから、ゆっくりといろんなこと考えてね。上手くいかなくても思いつめたりしないで」 「うん、ありがとう」 ぼくは素直に礼を言った。 同性を好きになったぼくのことを嫌悪したり罵倒したりせずにいてくれた母さんには感謝しかない。 だけど、ぼくはのんびりしているつもりはないのだ。 早く自分に自信をつけて、ギイの隣に立てるくらい強くなって、そしてギイに会いにいく。 『託生にはないかもしれないが、オレにはとっくに覚悟があるんだよ』 ギイの言葉を思い出して、ほんとに失礼しちゃうよなと今は思う。 ぼくだって覚悟は決めた。 ギイへの想いは証明したよ。 両親にだって、誰に向かってだって胸を張って言える。 ぼくはギイのことを愛してるって。 本当に自己満足だけど、思いを口にすることで、ほんのちょっと強くなれた気がするのだ。 数日後にはぼくは祠堂を卒業する。 待ってて、ギイ。 きみに会いにいくために、ぼくはもっと強くなる。 |