「なぁ託生」 「なに?」 のんびりとした呼びかけに、ぼくは条件反射のように返事をした。 305号室、背中合わせに互いの机に向かっていた時のことだった。 「ちょっと頼みがあるんだけど」 「・・・」 ぼくはおそるおそるギイを振り返った。 ギイがぼくにお願い? 何だかすっごく嫌な予感がする。そんな不安が顔に出たのか、ギイはぼくを見てぷっと吹き出した。 「託生、何でそんなに警戒するんだよ、失礼なヤツだなー」 それはギイがいつも無理難題を口にするからなんだよ、と言い返したかったけどやめた。 無理難題を口にするのは託生の方だろ、とかいろいろ言われそうな気がしたのだ。 だいたいギイに口では勝てないのだ。 お願いごとくらい何でもきいてあげたいけれど、こういう嫌な予感がした時は気をつけた方がいい、と最近分かるようになってきた。 うん、ぼくも少しづつだけど成長しているなぁ。 「で、頼みってなに?」 それでも一応聞いてみる。 「んー、ちょっと思ったんだけどな」 「うん」 「俺は託生のこと託生って呼ぶだろ?」 「うん」 「託生は俺のこと、ギイって呼ぶわけだけどさ」 「・・・そうだね」 「一回、下の名前で呼んでみてくれよ」 「・・・え?」 ギイは椅子の背を抱え込むような形で座り、ぼくへと極上の笑みを見せた。 そんな笑顔を見せられたら、麓の女の子たちならどんなことでも二つ返事できいちゃうんだろうけど、生憎ぼくはその笑顔にも慣れているので・・・ 「何で?」 と冷静に聞き返した。ギイはうーんと考えて言った。 「いやこの前、佐智と電話で話してる時にさ・・・」 「佐智さん?元気にしてた?」 思わず声が大きくなる。ギイの幼馴染の井上佐智。 同い年ながら、世界で活躍するバイオリニストで、ぼくのあこがれの人だ。 一生会うことなんてできない雲の上の人だと思っていたのに、ギイを通じて知り合うことができた。佐智さんの名前を聞くだけで、どうにも鼓動が早くなってしまう。 ギイはそんなぼくをどこか不機嫌そうに眺めた。 「お前、ほんとに佐智のこと誤解してるのな」 「何だよ誤解って」 「あいつもただの人間だってこと」 「分かってるよ、そんなことくらい」 「どうだかなぁ」 ギイはどこまでも胡散臭そうにため息をつく。 「ギイはね、佐智さんとずっと一緒にいるから分からないんだよ」 「おいおい、別にオレはあいつとずっと一緒になんていないぞ。会えるのなんて年に数えるほどだし」 託生と一緒にいる時間の方が断然長い、と文句を言う。 「佐智さん、今はヨーロッパツアーだっけ?」 「みたいだな。・・・って、佐智のことなんてどうでもいいんだよ」 ギイが話を打ち切る。 「だからさ、佐智はいつもオレのこと『義一くん』って気味悪く呼ぶわけだけど、もし託生に言われたらどんな感じなのかなぁって思ったんだよ。やっぱり気味悪いのか、それともそうでもないのかってな。だから一度俺のこと下の名前で・・・・」 「やだ」 「・・・・」 「・・・・」 「即答かよ」 ギイが喉の奥で笑う。 「やだよ。だいたい、どうしてそんなことしなくちゃならないんだよ」 「んー、ちょっとどんな感じが知りたいっていうか・・・」 何だなんだ、それは。 ぼくは肩をすくめてそっぽを向いた。 ギイは椅子から立ち上がると、ぼくのそばに立った。そしておもむろに手を伸ばすと、広げていた教科書を閉じ、机に手をついてぼくの顔を覗きこんだ。 「ちょっと、何するんだよ。まだ途中なのに」 「託生、ちょっと言ってみろよ」 「・・・やだ」 「けち」 「・・・っ!けちじゃない。っていうか、呼べないよ、そんなの」 だって、1年の頃はギイとは親しくなかったから『崎くん』て呼んでたし、2年になってからは『ギイ』だし。 だいたい『ギイ』って呼べって言ったのはギイの方じゃないか。 佐智さんがギイのことを義一くんて呼ぶのは別に何とも思わないけど、それを自分が言うのはどうにも抵抗がある。 「ちぇ、託生のケチ」 「・・・・」 相手にしちゃだめだ、と自分に言い聞かせて、ぼくは教科書を広げて、再び宿題に取り組みことにした。 ギイは軽く肩をすくめると、自分の席へ戻っていった。 ほんと、ギイって時々変なことを考えるんだから困ってしまう。 そのあと、ギイはその話題には一切触れなかったので、ぼくはそんなやり取りがあったことなんてすっかり忘れていた。 けれど忘れていたのは、ギイがそうそう簡単に諦める男じゃない、ということもだった。 その夜、ギイは当然とばかりにぼくのベッドに潜り込んできて、体育でへとへとだと訴えるぼくを舌先三寸で丸め込んで、コトを始めてしまった。 今思えば、もっとがっちりと断れば良かったと思うのだけれど、ギイの甘い声で誘われて最後まで拒むことなんてぼくにはできないのだ。 こればかりは自分でもどうかと思うのだけれど、しょうがない。 さんざんギイに焦らされて、これ以上はもう無理という時に、ギイはぼくの耳元で言った。 「託生、義一って言ってみて」 ぼくは閉じていた目を見開いて、目の前にいるギイを凝視した。 「ギイ・・今、何て言った?」 「だから、義一って言ってみて」 「なっ・・・」 ぼくは唖然とギイを見返した。 緩く揺すられて、ぼくは小さく息を呑む。 「ばかっ・・・こんな時にっ・・・」 「こんな時だから言ってるんだろ?」 くすくす笑う振動さえ辛くて顔を背ける。 「託生・・」 「やだっ」 「頑固だなぁ、託生は」 「・・・っ」 呆れたようなギイの声と共に指先で撫でられ、背筋を走る快楽に身を捩る。 「ほら、呼ばないとしてあげない」 「・・・ばかっ・・・」 道理でいつもより焦らされたわけだと今気づいた。 「ギイのばかっ・・・やっ・・・」 「義一って言って、おねだりしてみて、託生」 低い声で囁かれてぼくはぎゅっと目を閉じた。 そのあとも口を閉ざすぼくにギイは意地悪なことばかりして、ぼくをぎりぎりまで追い詰めた。 こういう時、ギイはほんとに意地が悪くなる。 「・・・・っ」 「聞こえない」 「義一っ!」 もう限界で、もうどうにでもなれと思ったぼくは、甘いおねだりになんて絶対聞こえない声色で、大声で叫んでやった。 もちろん、それじゃ満足なんてしやしないギイに、ぼくはそのあとやっぱり泣かされた。 「泣くほど我慢することないだろ?」 それほどのことかよ、と、涙のあとの残る眦にキスをして、ギイが笑う。 ぐったりと疲れた身体を抱き寄せられて、もう悪態をつく元気もない。 優しく頬を撫でられて、うっかり誤魔化されそうになったけれど、ぼくはじろりとギイを睨んだ。 あのあとぼくが「義一」と呼んでお願いするまで、ギイは許してくれなかった。 「ギイって、時々すごく意地悪くなるよね」 「そんなことないぞ」 心外だとばかりにギイが唇を尖らせる。 もちろんギイが本当に意地悪だなんてことはないんだけど、わざとそうしてぼくをいじめるのだからもっと性質が悪いと思う。 「泣かせてごめんな、託生」 「・・・もういいよ。で、念願通り、下の名前で呼ばれてどうだったんだよ?」 やっぱり気味悪かったなんて言われたら、しばらく同じベッドじゃ眠らないつもりだったのだが、 「めちゃくちゃ興奮した」 というギイの返事に、ぼくは開いた口が塞がらなかった。 「何ていうか、新鮮っていうか・・何だか違う人みたいで・・・・」 「へぇ、ギイはぼくじゃない人を抱いてるような気がして興奮したんだ?」 ついさっきの意趣返しのつもりで意地悪して言うと、 「えっ、そうじゃなくて・・・自分が違う人間になったようなって意味で・・・」 ぼくの言葉にギイは慌てて釈明を始める。 そんなギイを見るのは初めてだったので、ぼくは思わず吹き出してしまった。 「冗談だよ。とにかく、ぼくはもう絶対にギイのことを義一だなんて呼ばないからね」 「おや残念」 「だって、何だか違う人にされてるような気分だったから」 半分眠りに落ちかけながら言った言葉に、ギイががばっと身を起こした。 「何だって?おい、託生、違う人ってどういうことだよっ?!」 「うるさいなぁ、もう眠らせてよ・・・」 「絶対だめだからな、そんなの!」 「ギイがそう呼んでみろって言ったくせに・・・」 「もう二度と義一って呼ぶんじゃないぞ」 「はいはい」 あーうるさい。 我侭でヤキモチ焼きの麗しの恋人を黙らせるために、ちゅっと一つキスをして、ぼくは枕に沈み込んだ。 そのあともギイは一人で何だかぶつぶつ言ってたけど、そういうのって自業自得だとぼくは思う。 |