人気のない校舎の階段をゆっくりと上がる。
まだ外は明るいが、とっくに夕食の時間を過ぎているせいか、いつもならウルサイくらいに聞こえてくる部活の声さえ聞こえてこない。 自分の足音だけが小さく廊下に響く。 教室に忘れ物をしてしまったことに気づいたのは、ついさっきのことだった。 授業が終わったあと、面倒な相談事を持ち込まれたせいで、うっかりしてしまったのだ。 特に急ぐものでもなかったけれど、何となく取りに行ってもいいかという気になって、こうして教室へと向かっていた。 何の気なしに扉に手をかける。 勢いよく開けると、誰もいないと思っていた教室の中にいた生徒がびくりと身を竦めて振り返った。 「・・・・葉山?」 中にいたのは葉山託生だった。 自分の席で机の中を覗き込んでいたところに、オレが前触れなく扉を開けたものだから、きっと心臓が止まるくらい驚いたのだろう。 そんな顔をしてオレを見ている。 けれど、驚いたのは葉山だけではなかった。 オレだって飛び上がるほど驚いた。 いや、葉山よりオレの方が驚いた。 まさか中に人がいるなんて思ってもみなかった、それが葉山だなんて夢にも思わなかったからだ。 ガラにもなく鼓動が早くなった。 こんな風に葉山と二人きりになるという幸運がいきなり舞い込んでくるなんて。 嬉しさと緊張で心臓が痛くなるような気がした。 どれくらい互いに見つめあっていただろうか。ほんの短い時間のはずなのに、それは永遠のような時間にさえ感じられた。 張り詰めた空気に、オレはふと我に返った。 そうだ、いくら待ったところで、葉山から声をかけてくることなどないのだ。 それは悲しいけれど事実だ。 「どうした、葉山も忘れ物か?」 声が上ずりそうになるのを何とか押さえて、いつも通りに声をかけ、自分の席へ向かう。 葉山のいる場所の斜め後ろがオレの席だ。 今のオレの席はほんとベストポジションだった。 授業を聞くふりをして葉山を眺めることができる最高の場所。 後ろ姿ばかりというのがちょっと残念なんだけどな。 ゆっくりと席に近づくと、葉山は一歩後ずさった。 (相変わらず近づかれるの苦手なんだな) 人間接触嫌悪症。 オレが名づけた葉山の癖。 「忘れものか?」 「あ、うん・・・・」 葉山は小さくうなづく。手にしているのは数学のテキストか。そういや、宿題出てたな。 「崎くんは?」 めずらしく葉山が聞いてくる。 いつもなら絶対に声なんてかけてこないのに、ここに二人しかいないからか?だとしたら、ほんと今日はめちゃくちゃラッキーだな、オレ。 葉山はクラスの連中とはほとんどしゃべることはない。それでも悪意なく声をかけられると、それなりに返事をする。けれどそこから会話が弾むこともない。 唯一まともに会話ができるのは寮で同室の片倉くらいなもんだ。 何度片倉を羨ましいと思ったことだろう。 笑ってくれなくてもいいから。 普通にクラスメイトとしてでいいから、葉山と言葉を交わしたいとずっと願っていたのだ。 だから、こんな風に葉山から声をかけてくれると、オレはそれだけで幸せな気分になってしまう。 何しろ葉山はオレのことを避けていて、まともに視線を合わせてくれることすらないのだから。 それが、どうした気の迷いか、葉山はじっとオレのことを見つめている。 「オレも忘れ物。偶然だな」 机の中からノートと茶封筒を取り出す。 ほら、と見せると、葉山は小さくうなづいた。 「それにしても、すっかり日が長くなったよなぁ、こんな時間なのにまだ外は明るい」 窓辺に立ち、外を眺める。 つられて葉山も視線を窓の外へと向けた。初夏の夕暮れ空は淡いオレンジ色に染まっていてとても綺麗だった。それを葉山と一緒に眺めてるのだということが、今のオレには信じられない出来事だった。 そっと葉山を見ると、葉山は魅入られたようにその美しい夕暮れ空を見つめていた。 ほっそりとした横顔。 華奢な身体。 案外長い睫。 どれもいつも密かに眺めているものばかりなのに、まるで初めて見るもののように、葉山の姿形がオレの胸をしめつけた。 (好きなんだ、葉山) ずっとずっと好きだった。 初めて会ったあの時から、オレはずっとお前に憧れて、お前に一目会いたくて、遠く離れたアメリカからここへやってきた。 待っていたのは前途多難な片思いだったけれど、それでもこうして手を伸ばせば触れることのできる距離で、同じ景色を見つめることができる。 (今、好きだって言ったら、お前はどうするのかな) 悪い冗談だと軽蔑されるくらいならまだいいけれど、そんなことを言えば、お前が傷つきそうだから、溢れそうな想いをぐっと飲み込む。 片思いがこんなに辛いものだとは思わなかった。 当たって砕けるのが怖くて想いを告げることさえできない。 (崎義一ともあろうものが) 自嘲気味な笑いが漏れる。 今までどんな相手にだって物怖じしないで、自分の思う通りにしてきたオレが、葉山の前じゃたった一言さえも言えないでいる。 「綺麗だね」 ぽつりと葉山がつぶやく。 オレへと言ったわけではなく、本当にそう感じたから思わず零れた言葉だろう。 「綺麗だな」 つい答えたオレに、葉山が驚いたように振り返る。どうやらすっかり自分の世界に入っていて、オレの存在なんて忘れていたらしい。やれやれ、葉山にとって、オレなんてどうでもいい存在なんだよな。 「寮に戻るんだろう?一緒に帰ろうぜ」 「・・・・一人で帰れるから」 勇気を振り絞っての誘いを、葉山はやんわりと拒絶する。 「どうせ同じ方向なんだし、別にいいだろ?」 「・・・崎くんといると・・・目立つから・・・」 葉山は小さく答える。 ああ、そうだな。確かに必要以上に目立ってるよな、オレは。 けど、目立ちたくないなんて言いながら、お前、けっこうその言動で注目されてるって自覚あるのかな。 「そっか、じゃあ、先に帰るよ」 無理強いして、これ以上葉山に嫌われたくないしな。 今日はほんの少しでも話してくれた。それだけで十分。 「あ、そうだ。葉山、短冊書いたか?」 「え?」 オレは手にしていた茶封筒の中から、七夕用の短冊を取り出した。 「寮で配ろうと思ってたんだけどさ、大笹につける願い事書く短冊。いち早く葉山にやるよ。ほら」 何の気なしに、一番上にあったピンク色の短冊を葉山へと差し出す。指が触れないように、なるべく端っこを持って。 葉山は戸惑ったようにそれを見つめていたが、手を出そうとはしない。 「あ、もしかしてピンク嫌いだったか?じゃあ青いヤツな」 わざとおどけて言って、封筒の中から青い短冊を取り出して、もう一度葉山に差し出す。 すると葉山はおかしそうに小さく笑った。 そしてオレの手から青い短冊を受け取った。数センチで指が触れ合うその距離に、オレは心臓が高鳴るのを感じた。もちろん触れることなどありえないのだけれど。 「願いごとなんて、別にないんだけど・・・」 葉山は困ったように小さく首を傾げる。 (オレにはたくさんあるよ) お前と向き合って話したい。 つまらないことで笑いあいたい。 そして、できることならオレのことを好きだと思ってほしい。 ほんのちょっとでいいから、そう思ってくれるなら、何でもするのに。 神様にだって願ってしまうのに。 葉山は手にした短冊をテキストに挟むと、お先に、と小さく言ってオレの横を通り過ぎた。 けれど数歩歩いたところで足を止め、思い出したようにオレを振り返った。 何か言いたげに視線をめぐらせ、けれど結局何も言わないままオレに背を向けた。 教室を出ていく足音。 小さくなっていくその音が切なくて、オレはぎゅっとブレザーの胸元を握り締めた。 再会してまだ3ヶ月。 焦ることなどまったくないのに、どうしてこんなに苦しいのか。 (好きなんだ、葉山) 胸の奥で燻る想い。 大丈夫。長期計画はオレの得意とするところだ。 いつか必ずこの想いをお前に告げる。 「あいつ、何言おうとしたのかな」 すぐに追いついて葉山が困ったりしないように、しばらくそのまま窓の外を眺める。 目の前に広がるのは、ほんの少し前まで一緒に見ていた夏色の空。 『綺麗だね』 耳に残る葉山の声。 切なくて、胸が痛い。 「綺麗だな、葉山」 いつか一緒に、もう一度一緒に眺められたらいいのに。 |