夏の午後


カラン、と音を立ててグラスの中の氷が形を変えた。
その小さな音は、読書に夢中になっていた意識を呼び戻すには十分なもので、気づくともうすっかり夕方近くになっていることに驚いた。
長い時間俯いたままでいたせいで凝り固まった肩をほぐすように首を回して、開け放たれた窓の外へと視線を向けた。
綺麗に手入れされた濃い緑が疲れた目を癒してくれる。
夏の午後の日差しは眩しく、聞いているだけで汗ばんできそうな蝉の声が辺りに響いていた。
オレは手にしていた本を傍らへと置くと、すぐ隣・・・かろうじて日の当たらない場所でぐっすりと眠っている恋人の姿に目を細めた。


初めて2人でこの別荘を訪れたのはまだ高校生の頃だった。
夏休みを利用して避暑に訪れた。
あの時は思いがけなく不思議な幽霊騒動に遭遇して、あっという間に時間が過ぎてしまったのを覚えている。
怖いものが滅法苦手なくせに、託生はどういうわけかこの別荘のことはひどく気に入って「毎年来たいな」などと滅多にしないおねだりまでしてきたくらいだ。
海外のもっとゴージャスな別荘にだっていくらでも連れていってやれるのに、日本の方が落ち着くと笑う。
確かにここは管理人のフミさんが一人しかいないので、誰に気兼ねすることもないし、2人きりで濃密な時間を過ごすこともできる。もっとも当の本人は「単に日本語が通じて楽だから」なんて色気のないことを言ってはオレをがっかりさせるのだ。
ゆっくりと傾いてきた日差しが託生の身体半分にかかる。
このままだとおかしな焼け方しちまうなと思い、眠る託生の肩をそっと揺らした。
「託生」
何度か声をかけると、小さな子供がむずがるように身じろいで、やがてゆっくりと目を開けた。
汗ばんだ前髪をかき上げてやると、ふわりと微笑んで、
「暑いね・・・」
と、ため息混じりにつぶやいた。
「だからクーラーのある部屋へ行こうって言っただろ?」
でも夏は暑い方がいいよね、などとジイさんみたいなことを口にして、託生は身体を起こし、眩しい光に目を細めた。
もちろんこのリビングにもちゃんとクーラーはついているのだが、窓を開け放つと吹き込む心地よい風が好きだと言って、つけようとしないのだ。
寝室はオレの主張によりクーラーをつける。でないと、暑いからと言って託生は指一本触れさせてくれないからだ。
「何時だろ」
「んー、4時少し前だな」
「そう、ずいぶんと寝ちゃったな」
一人にしてごめんね、と託生がオレの顔を覗きこむ。
管理人のフミさんには休暇を取ってもらったので、今この別荘にはオレと託生の2人しかいなかった。
まとまった休暇なんてなかなか取れないのだけれど、今年は何とか託生の休暇にあわせて休みをもぎ取った。島岡は渋々といった感じだったけれど、オレだって人並みに休みをもらう権利はあるはずだ。
NYでの仕事が終わると同時に飛行機に乗り、日本へと向かった。
長時間のフライトは慣れているはずなのに、託生と会えると思うだけでその時間の長く感じること。
日頃の寝不足気味の身体を休めるために目を閉じたが最後、目覚めたら日本だった。
空港で待ち合わせていた託生と合流して、そのままこの別荘へ直行した。


「ギイ、本読み終えたの?」
「あとちょっと。別に急いでるわけじゃないし。なぁ、腹減らないか?」
言ったとたん、託生が吹き出した。
「相変わらずだなぁ、ギイ。昔とぜんぜん変わらない」
「わーるかったな」
「でも確かにお腹空いたな」
早めの昼食を取ったきり何も食べてない。
立ち上がり、うーんと大きく伸びをする託生を、見るともなく眺める。
すらりとした体型は昔のままだけれど、あの頃のような華奢な印象はない。成人した青年の身体つきに妙な色香を感じてしまうのは恋人としては当然のことなのか。
それとも託生が変わったのだろうか?
「ギイ、夕食どうするの?」
「今夜は麓に下りて何か食べよう。作るの面倒だし」
「うん、で、明日からは自炊だね」
「別に毎晩食べに行ったっていいんだぜ?」
気のきくフミさんは食材をちゃんと揃えてくれているから、簡単なものなら何でも作れるだろう。せっかくのんびりしに来てるのだから、自炊なんてしなくてもいいとは思うのだが、託生が『昔みたいに一緒に作ろう』と楽しそうに言うものだから、それでもいいか、と思ってしまった。
託生は一人暮らしを始めてからずいぶんと作れるレパートリーが増えたらしく、機会があれば披露してくれる。章三が作るような凝ったものではないけれど、託生がオレのために作ってくれるというだけで、十分ご馳走になる。
だが、今夜は楽をさせてもらうことに最初から決めていた。
「汗かいたからシャワー浴びてくるよ」
託生がそう言って浴室へと向かう。
「オレも一緒に入ろうか?」
「・・・・」
肩越しにじろりとオレを一瞥して、託生は無言のまま部屋を出て行った。
相変わらずの反応に笑いが漏れる。
ポーカーフェイスを装っているけれど、頬が赤くなるのは昔のままだ。
もう20代も半ばになろうかというのに、そして付き合い始めてずいぶんたつというのに、いつまでたっても託生はオレのからかいに慣れることがない。

(可愛いな)

いい大人に対して使う言葉ではないことくらい十分承知しているが、ああいう反応を目にするとどうしてもそう思ってしまう。
もちろん託生が可愛いだけじゃないことはよく分かっている。
高校を卒業して、託生は音大へ進み、在学中にいくつか賞を取り、佐智と比べればまだまだ無名に近いだろうが、それでもゆっくりと着実にバイオリニストとしての地位を築き始めている。
音楽で食べていくには才能はもちろん必要だろうが、それだけではだめなのだ。
託生もちゃんとそれを分かっていて、音楽を続けていくために血を吐くほどの努力していることを、オレはよく知っている。
逆に努力だけでやっていける甘い世界でもないのだから、やはり託生には音楽の才能があったのだろう。
何事においてもあまり執着することがなく欲のない託生が、こと音楽に関してはびっくりするくらい時間をかけて納得いくまで貪欲に突き詰めていく。
『何をするにも時間かかっちゃうんだよね』
なんて、笑って言うけれど、音楽を深く深く探って自分のものにしていく姿を、オレはいつだって羨ましく思っている。
いつも時間との戦いで、目の前の仕事をこなしていくだけの日々を送っているオレにしてみれば、託生はまるで別世界で生きているようで、いつか手の届かないところへ行ってしまうような不安が押し寄せるときがある。
オレがアメリカへ戻り本格的に親父の仕事を手伝い始めたこともあって、未だに遠距離恋愛に甘んじているのも原因の一つかもしれない。会いたい時に会えないというのはやはり辛いものだ。
何とかしたいと互いに思っているが、大人になるといろんなシガラミにがんじがらめになって、思う通りにはならないことの方が多くなる。
学生時代とは異なり、社会人にもなればそれは自分だけの問題ではなくなり、身動きできなくなる。
オレにも託生にもそれぞれの生活があって、どれほど相手のことを愛していても、優先すべきことが他にあることも理解している。
それを冷たいとか薄情だとか思うこともない。
けれど・・・

「あれ、ギイ寝ちゃったの?」

シャワーを浴びてすっきりした様子の託生が声をかけてきた。
「起きてるよ。あまりの暑さに溶けそうだなぁって思ってた」
「えー、大げさだな。街中に比べたらここはすごく涼しいのに」
託生は笑ってオレのそばに腰を下ろすと、濡れた髪をタオルで拭った。
ふと庭へと視線を向けて、思い出したように水やりしなくちゃとつぶやいた。
「朝に水やりするの忘れてた」
言うなり、託生は庭先にそろえてあったサンダルに足を通そうとして、ああ、と肩を落とした。
「だめだ。フミさんのだから小さいや」
「待ってろ。持ってきてやる」
立ち上がって、玄関から託生の靴を持ってきて、庭先へと置いた。
託生は庭へと出ると、建物脇の水道につないであったホースを手にして、蛇口を捻った。
勢いよく水が庭へと撒かれる。
きらきらと光を弾いて緑を潤していく水撒きの様子を見ていると、ふいに笑いが込み上げた。
「なに?」
それに気づいた託生が振り返る。
「いや、お前、祠堂にいたときもそうやって温室で水撒いてたなぁと思ってさ」
「え、ああ、そうだね。そう言われてみれば」
託生も思い出して小さく笑う。
あの頃も、大橋先生に頼まれては温室の水撒きをしていた。
直接花を濡らさないように注意しながら、いつも丁寧に水やりをしていた。
園芸部員じゃないのに、なんて文句を言いながら、だけどせっせと植物の世話をしている託生を、大橋先生は嬉しそうに見てたっけ。
何だかんだ言いながら、託生はお気に入りだったもんな、大橋先生の。
今もフミさんが育てている花たちを慈しむように水を撒いている。

(変わらないなぁ)

こうしているとあの頃に戻ったような気になる。

「朝顔なんて懐かしいなぁ。小学生の時に育てたよね」
「何だそりゃ」
「え、アメリカじゃないのかな。観察日記を書くんだよ。夏休みの宿題で」
「へぇ」
「この朝顔ももうすぐ咲きそう」

他愛もない話を交わしながら水をやり終えると、託生はこのまま玄関に回るよと言った。
オレは了解と立ち上がり、戸締りをすると財布と車のキィだけ持って玄関を出た。
初めて託生とここへ来た時はまだ高校生だったから、アメリカで免許は取得していたけれど、フミさんに運転は禁止された。
さすがにこの歳になって禁止されることはなくなったけれど、それでも山道の運転には注意をするように、と口すっぱく言われてしまう。
どうやら彼女にとっては、オレはいくつになっても子供にしか見えないらしい。
託生が運転する時には、フミさんはさらに心配性になる。
「ぼくだってちゃんと免許持ってるんだけどな」
と託生が拗ねるのもお約束だ。




「昔はこの道を2人して歩いたね」
緩やかな坂道を下りながら、助手席の託生が窓の外を眺めながら思い出したように言った。
そういえば、麓の街までレンタルビデオを借りにいって、手をつないで歩いたな。
あれはちょっとしたことで喧嘩になって、仲直りして・・・と思い出していると、託生も同じように記憶を辿っていたのか、
「ギイに置いてけぼりされたの思い出した」
と低くつぶやいた。
あ、やっぱり思い出したか、とオレは苦笑する。
「ボート小屋でデートしたあとだろ?だから、悪かったって」
バックミラー越しに託生を見ると、託生もまたオレを見ていて、2人して笑った。
「何だかずっと昔のことみたいだな」
「そりゃお前、もう10年近くたつんだぜ?10年一昔っていうからな」
「10年かぁ、早いなぁ」
託生はしみじみとうなづき、そのまま黙り込んだ。
穏やかな横顔に、いったい何を考えているのだろうか、と思う。
楽しかった昔のことだろうか。
それともあっと言う間に過ぎ去ったこの10年のこと?
楽しいことばかりじゃなかったし、たぶん一緒にいるために辛い思いをしたのは託生の方が大きいだろう。
目的のためには少々のことなら受け流してしまうオレとは違って、託生は何でも真正面から受け止めてしまうから。
悩んで、傷ついて、それでも一度も弱音を吐くことはなかった。
結局オレよりも託生の方がずっと強いんだな、と思い知らされる。
何を言われても耐えることのできる託生。嫌悪症時代のことを思えばそれも当然かもしれないけれど、その我慢強さには舌を巻く。
けれど、結局その我慢強さに状況の方が変わっていった。
ゆっくりと少しづつ、オレたちは周囲の人たちに受け入れられ、一緒にいることを許された。
オレ一人だったらきっと無理だった。
託生だったから、ここまでこれた。
「あれ、雨だ」
ぽつぽつとフロントガラスが雨粒で濡れ始め、やがてスコールのような激しい雨が降り始めた。
「うわぁすごいね」
託生がぴたりと窓に顔を寄せてひとしきり感心する。
視界が悪くなったので、スピードを落とした。後続車もなければ、対向車もない。
暗い土砂降りの雨の中に自分たちしかいないというのは妙に楽しく感じられたが、それを楽しいと感じないであろう人間もいるわけで、託生のどこか不安そうな様子に、つい悪戯心が湧き上がる。
「出そうだな、託生」
「え、何が?」
ぱっと振り返って、託生が怪訝そうな顔する。
「あの時もこんなすごい雨だったろ?」
「・・・あの時って?」
嫌な予感がしたのか、託生は僅かに身を引いた。オレはわざとゆっくりと、
「ゆ、う、れ、い・・・」
と囁いた。
すると託生は顔色を変えて、ばしっとオレの肩を叩いた。
「いってー。何すんだよっ、危ないなー」
「ギイが悪いんだろっ、怖がらせるようなこと言うからっ」
「ったく、もう大人なんだから幽霊くらいで怖がるなよ」
「幽霊くらいって・・普通は怖いだろ、大人でもっ!」
「オレは幽霊なんて怖くないもーん」
「・・・ギイは普通じゃないんだよ」
「お、聞き捨てならない台詞だな。オレのどこが普通じゃないって?」
道路脇に車を止めると、託生はぎょっとしたようだが、逃げようったって車の中じゃ逃げようがない。
オレはシートベルトを外して覆いかぶさるようにして託生に身を寄せ、その頬をつまんだ。
「最近生意気だからオシオキするか」
「なっ、何言って・・」
暴れる託生の手首を掴み、唇を重ねた。
しばらく無駄な抵抗を続けていた託生だが、やがて大人しくなり、絡めた舌に応えるようになる。
戒めていた手首を緩めて、肩先へと指を滑らせ、薄いシャツの上から身体の線を辿り、太ももの内側を撫でると、託生は大きく目を見開いて、オレの肩を掴んだ。
「待って、ギイ」
敏感な部分に触れると、託生は冗談だろっ、と身を竦めた。
「そういや車でしたことなかったなぁ」
耳元で囁くと、託生は真っ赤になった。
ゆるゆると刺激を与え続け、ぎゅっと託生が目をつぶったところで手を離した。
「・・・・ギイ?」
中途半端に熱を与えられたせいで、瞳は潤んでいて、正直なところ、ここでやめてしまうのはオレの方が辛いのだが・・・。
「続きは夜までお預けな」
「・・・っ」
「しばらくオレのこと考えて我慢して?」
呆然とする託生の頬にちゅっとキスをして、再びハンドルを握る。
「ギイのばかっ」
「久しぶりに聞いたな、その台詞」
「こんなことしておいてっ」
「オレだって辛いんだからお互いさま」
「!!」
託生は赤い顔をしたままぷいっとそっぽ向いてしまった。
高校の頃からまったく変わらない拗ね方に笑いが漏れる。
託生といるといつまでも一番楽しかった頃まで時間が戻る。
オレが一番肩の力を抜いて、オレらしくいられた3年間。
託生のことをいつも一番に考えていられた日々。
もう一度あんな幸せな時間を過ごしたいと思うのは贅沢なことなのだろうか?
すっかり拗ねてしまった託生が口をきいてくれなかったせいで、麓の町までお互い無言のままだった。
ちょうどいい具合に、予約していた店に着く頃には雨は止んだ。
店の前で車を止め、先に託生を下ろした。
少し離れた場所にある駐車場に車を入れて店まで戻ると、託生はぼんやりと店の前に立っていた。
「先に入ってて良かったのに」
肩を抱いて促すと、託生は
「綺麗だねぇ」
とつぶやいた。
店の入口までのエントランスは木々で囲まれている。先ほどの雨でしっとりと濡れた緑の葉は、柔らかなオレンジ色の光にライトアップされ、雨粒に反射してきらきらと光っている。
どこか幻想的な雰囲気に託生はすっかり魅了されてしまったようだった。
ついさっきまで拗ねていたのも忘れてしまったように、しばらくその美しさに心奪われていた。
「去年はなかったよね、このお店」
「最近できたみたいだな」
「こういう情報は早いよね、ギイは」
「託生に旨いもの食わそうと思ってさ」
誰もいないのをいいことに髪にキスすると、託生は慌てて少し離れた。
「誰も見てないよ」
「そういう問題じゃないだろ」
じゃあどういう問題なんだ?
ほんと、往生際が悪いよな、今さら誰に知られたってどうってことないだろうに。
「さ、入ろう。料理もなかなか旨いらしいからな」
「こんな格好でいいのかな」
託生は躊躇したように足を止めたままオレを見る。
ごくごく普通の白いシャツにジーンズ。別におかしなところなんてどこもない。
「オレだって似たような格好だけど?」
ちなみにオレが着ているシャツは同じブランドで色違い。託生にプレゼントした時はペアのシャツなんて、とずいぶん嫌がられたけれど、実際に着てみると色が違うというだけで同じデザインとは見えないと分かり、託生も一緒に着てくれるようになった。
「ギイは何着てもカッコいいからさ」
深い意味などなく零れた託生の言葉に、オレは苦笑する。
「褒めていただいたお礼に今夜はご馳走するからな」
「え、そんなつもりで言ったんじゃ・・・」
慌てる託生の背を押して、店の中へと入った。ぐるりと店内を見渡すと、思った通り、女性のグループかカップルばかりで、男2人だとやけに目立つ。そういうことに敏感な託生が困ったような顔をする。
「いらっしゃいませ」
「予約していた崎です」
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
迎えてくれたウェイターが二階へと続く階段へ誘導してくれる。
「ギイ、予約してたの?」
「ちゃんと個室をキープしました。2人だけの方がゆっくり食事できるだろ?」
「うん・・ありがと」
下手に目立つことを嫌うのも昔のままだが、バイオリニストとなれば、大勢の観衆の前で演奏する機会だって増えてくるのだから、嫌でも顔を知られることになるってこと、託生はわかってるのだろうか。
案内された小さな個室はシンプルなインテリアで、気にならない程度の静かな音楽が流れていた。
2階の個室はここだけのようなので、誰にも邪魔されずに食事ができる。
「はい、じゃあ乾杯」
かちんとグラスを合わせる。車なので、オレはノンアルコールで、託生は甘めのワインを。
運ばれてきたカジュアルフレンチは噂通り、味もなかなかのもので、盛り付けの美しさを託生はずいぶんと楽しんでいるようだった。
互いの近況なんて毎日話しているというのに、それでも話は尽きない。
「そっか、じゃあ休暇が終わったら、しばらくギイはヨーロッパかぁ」
「まったくこき使ってくれるよ」
「えーっと時差はどうなるのかな。ややこしくて分からなくなりそうだ」
やっとNYとの時差ならすぐに計算できるようになったのに、と託生は唸る。
「オレがちゃんと計算して電話するって」
「よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げて、託生がくすくすと笑う。
「そうだ、赤池くんが休暇中に会えるなら一度ご飯でも行こうって」
「何であいつオレじゃなくて託生に連絡するんだ?」
むっとしたオレに、託生はさぁと首を傾げる。
「だってギイ、忙しくてなかなか捕まえられないからさ」
「メールすりゃいいだろ」
「別にぼくに連絡してきたっていいだろ?ギイを捕まえようとするよりも、ぼくに連絡した方が早くギイに話がいくって言ってたよ」
「あー、まぁ確かにそうかもな」
何しろ直に話をしようと思うと時差を考えなくてはならないし、章三にしてみれば、オレの仕事の合間を考えるくらいなら、託生に連絡した方が楽だと思っても仕方がないのかもしれない。
別にそんなこと考えなくてもいいのにな、とも思うのだが、そのあたり章三はけっこう気にするヤツだからな。
「行くだろ、ギイ?」
「ああ、あとで章三に連絡しておくよ」
「うん。楽しみだな」
託生はワイングラスを口にして、しっとりと微笑む。
「なぁ託生」
「うん?」
「あんまり飲みすぎるなよ」
「え?」
「さっきの続きしたいから」
にっこりと笑うと、託生がテーブルの下でオレの足を思いっきり蹴飛ばした。
こういうところも昔と何も変わっちゃいない。



美味い料理を心ゆくまで堪能して、オレたちは店をあとにした。
「託生、ちょっと寄り道していこうか」
「寄り道?」
初めてここを訪れたあの頃よりも、麓の町はずいぶんと賑やかになり店も増えた。
まだ何か買い物するの?という託生に、着いてからのお楽しみ、と言って車に乗せる。
帰り道となる山道を走り、けれど別荘へと続く道には入らず、そのまま車を走らせる。
それでなくても灯りの少ない場所がますます寂しくなっていく。
「まさかギイ」
「うん?」
「・・・肝試ししようなんて言わないよね」
思いもしなかった託生の台詞に思わず吹き出した。
「しないしない。託生に泣かれたら困るし」
「泣かないし」
「いや、絶対泣くだろ」
だいたい文化祭の出し物のお化け屋敷でさえ(それもまだ製作途中だったのに)怖がって中に入ろうとしなかったくらいだ。
「託生はお化け屋敷とかさ、絶対最後まで辿り着かないタイプだよな」
「お化け屋敷なんて行かないし」
「今度一緒に行ってみるか、すっげぇ怖いって評判のがNYにあるんだ。ちゃんと最後まで辿り着けるか行ってみようぜ」
「・・・ギイの意地悪」
唇を尖らせる託生に喉の奥で笑う。これ以上拗ねられると困るので、この辺りでからかうのはやめにした。5分ほど走り、緩やかなカーブを曲がりきった所で車を止め、託生を車の外へと誘い出す。
「ギイ、何かあるの?」
「こっち」
託生の手を取って、鬱蒼とした木々をくぐるようにして歩くと、やがて視界が開けた場所に出た。こんな何もない避暑地でも、景色を楽しむための見晴台はあるもので、今までその存在は知ってはいたが、暑い中わざわざ来ることもないかと思って、託生を誘ったことはなかった。
地元の人間はほとんどやってこないし、避暑にきた連中でここの存在を知っている者は少ないだろう。
思った通りオレたち以外に人影はない。
「うわぁ綺麗なところだねぇ」
託生がため息のようにつぶやく。
先ほどの雨のおかげで空気が澄んでいるのだろう。
眼下に広がる町の灯火よりも、真上の夜空を彩る星の数の方が断然多い。
都心を離れると、まだ星は綺麗に見えるんだなぁと、ここへ来るたび感心してしまう。
無言で夜空を見上げているせいで、託生の足元がふらつく。
倒れないようにと背後から抱きしめると、託生は振り返って、ごめんと笑った。
しばらくそうして2人して煌く星を眺めたあと、オレは託生のこめかみにキスをして身体を反転させた。
「すごくいい所だね。この星空を見せたくて連れてきてくれたのかい?」
「まあ、それもある」
「・・・どうしたの、ギイ?」
いつになくオレが固い表情をしていたせいか、心配そうに託生が尋ねる。
うん、確かにちょっと緊張してるような気もするが、心を決めて口を開く。
「あのさ、託生」
「うん」
「オレ、もうこういう関係、終わりにしたいって思ってるんだけど」
託生ははっとしたように目を見開いてオレを見つめた。そして静かに目を伏せると
「それ、別れたいってことだよね」
と小さく言った。
「は??」
思ってもみなかった言葉に驚いたのはオレの方だ。
託生は俯いたまま何かに耐えるように小さく息を吐いて、そして顔を上げた。
「ごめん、どうしたらいいかすぐには答えられないよ」
「ちょ、ちょっと待った!!お前、何か勘違いしてる。ちょっと待て!」
何で別れるなんて単語が出てくるんだ、とオレは先ほどからの会話をリピートしてみる。
そして自分が失言していることに気づいた。
「あ、すまん、託生、そうじゃなくて、関係を終わらせたいっていうのは、つまり、こういう生活を終わらせたいってことだ」
「それ、どう違うわけ?」
「あー・・・」
オレはがっくりとうなだれた。そうだよな。確かに微妙な言い回しだった。
ていうか、日本語ってやっぱり難しい。
オレは体勢を立て直して、託生の手を取った。
そして今度こそあらぬ誤解なんてしようのない言葉を慎重に選んだ。
「託生、オレと一緒に暮らさないか?」
「・・・え?」
「ずっとそばにいて欲しいから、一緒に暮らしたい」
託生にとっては本当に思いもしなかった言葉のようで、呆けたようにオレを見つめていた。
今まで何度も冗談めかして、アメリカへおいでなんて言ってたし、託生もいつかそうしたいと笑っていたけれど、こんな風に真面目に話をもちかけたのは初めてだったから、託生も戸惑っているんだろう。
「どうしたんだよ、急に・・」
「急じゃないよ。ずっと考えてた」
オレは託生の手を握る指に力を込めた。
「ずっと考えてた。祠堂を卒業してからずっと。本当は卒業と同時に、一緒で暮らしたかった。けど、オレはアメリカへ帰らなければならなかったし、託生も日本の音大に進んだし。まぁ遠距離恋愛も楽しかったけどな」
託生が疑わしそうにオレを見るから、オレもつい笑ってしまった。
すれ違いや誤解で何度も喧嘩した。
その分会えた時はそりゃもう離れがたくて、一気に想いは深まった。
だから、今となれば喧嘩したのもいい思い出だ。
「託生が日本の音大を卒業した時に、アメリカに呼びたかったけど、なかなか上手くタイミングが合わなかっただろ?」
「・・・うん」
「実際さ、毎日電話もしてるし、メールだってしてる。オレが日本へ来るときには時間を作って会ってるし、長期休暇の時にはこうして一緒にバカンスを楽しんでる。別に問題ないだろ、って託生は言うかもしれないけどな」
オレは言葉を切って、一つ深呼吸した。
「だけど、受話器越しにおやすみって言ったり、いつになるか分からない出張を待ち遠しく思ったり、お互いの休暇が合うように調整したり、そういうのやめたいなって思ったんだよ」
「・・・」
オレはそっと託生の頬に触れた。
「毎日ちゃんと顔を見ておやすみって言いたい。出張に行くのが楽しみじゃなくて、出張で離れてしまうのが
寂しいって思いたい。長期休暇じゃない普通の休日も一緒に過ごしたい」
「・・・ギイ」
「離れていても愛情が薄れることなんてないって、ちゃんとわかってる。そばにいないと不安だとか、そういう段階はとっくに超えてるし、だけど・・いやだからこそ、一緒に暮らしたい。託生がそばにいるのが日常にしたい。祠堂にいた頃みたいに、同じベッドで一緒に眠りたい」
「・・・・」
「一緒に暮らそう、託生」
オレの精一杯のお願いに、託生は困ったように唇をきゅっと結んだ。
オレには託生が何を考えているか手に取るように分かっていた。一緒に暮らすのが嫌なわけではないのだ。ただ今の生活が180度変わることに戸惑っているだろう。
「ごめんな、託生」
「え?」
「一緒に暮らそうってオレの方から言ってるくせに、結局託生にアメリカに来て欲しいってことなんだ。オレが日本に来ることだって、ちゃんと考えた。だけど、本社がアメリカだからどうしてもそれはできなくて。託生だって今日本で仕事してるのは分かってる。だからずっと言い出せなかったんだ」
「・・・うん」
「託生もようやくバイオリニストとしての仕事が増えてくる時期だし、今がちょうど次のステップへの分かれ道だろ?今ならさ、生活の拠点を海外に置いて仕事を始めることができる。海外で仕事するなんて不安だらけだとは思うけど、佐智も、託生にその気があるのなら、協力するって言ってくれている。このまま日本で本格的に仕事を始めたら、そうそう簡単にアメリカに来ることはできなくなる。だとすれば、今が最後のチャンスだと思うんだ」
託生は無言のまま俯いた。
「託生にばかり負担かけて、辛い思いさせることになるってわかってるのに、こんなことしか言えなくてごめんな」
「・・・・・・」
「オレと一緒にアメリカに行ってくれないか?」
もし、託生がそれはできないと言えば、もちろん無理強いはできない。
けれど、もうオレの方が託生と離れたまま生活するのは嫌なのだ。
「ギイ」
託生は真っ直ぐにオレを見つめる。
「もしぼくが、アメリカへは行けないって言えば、ギイは仕事やめてでも日本に来るつもりなんだろう?」
「・・・・」
「愛を成就できないような仕事を続けるな、って、ギイ、昔言ってたもんね」
ああ、そんなこと言ったかな。
あの時、託生はびっくりしてたけど、オレにしてみれば当然のことだ。
「だけど、そんな我侭、ギイの立場でどう考えたって許されるはずないだろ?」
「仕事と託生なら、オレは託生を選ぶよ」
仕事なんていくらでも替えはあるけれど、愛する人の替えはない。
言い切るオレに、託生はやれやれというように微笑んだ。
「嬉しいけど、・・・やっぱり、それは困るな」
小さなつぶやきに、オレはそういう答えだって予測していたにも関わらず胸が痛んだ。託生の気持ちを大切にしようと思っているのに、拒絶されるのはひどく辛い。
もちろん今まで通り、離れていたって気持ちが変わることはないのだから、何も変わることはない。互いに少しばかりの寂しい気持ちを抱えながら生活を続けるだけだ。
託生はそっとオレを抱きしめると、胸に頬をくっつけた。
「ありがとう、ギイ」
「・・・・」
「ぼくのこと、ずっと好きでいてくれて。ずっとそばにいたいって言ってくれて、ありがとう」
「託生・・・」
「いいよ。アメリカへ行く。ギイと一緒に暮らすよ」
何の迷いもなく言い切った託生の肩を思わず両手でつかんで身体を離した。
「本当に?」
「うん」
あまりにあっさりとうなづくものだから、オレの言ってる意味がわかってるのだろうか、とまじまじと託生を見た。
「困るって言ったじゃないか」
「うん、ギイが仕事辞めるのは困る」
「・・・・」
「ギイを無職にしないためには、ぼくが行くしかないよね」
「・・・お前、わかってるよな。アメリカで暮らすんだぞ?」
「わかってるよ。あー、英語の勉強またしないとだめかぁ」
やっぱりやめようかな、とオレの目を覗き込み、くすりと笑う。
こんなにあっさりと託生が了承するとは思ってなかったので、まだ信じられない気がして、オレは言葉もなく託生を見つめていた。
不安な思いが表情に出たのか、託生がふわりとオレの頬に触れた。
「ギイ、ぼくだってギイとずっと一緒にいたいって思ってたよ?」
「・・・・」
「今の生活に不満はないけど、だけど100%満足してるかって言われたら、やっぱり違うなって思ってた。だって会いたい時にギイに会えないから。毎日電話で声を聞いていても、でもこうして触れたいなって思った時に触れることができないのは辛かったよ。ギイと一緒にいるためにはぼくが動くしかないってわかっていたのに、ずるずると先延ばししてたのはぼくの方なんだ。ぼくが決心できなかったせいで、ギイに辛い選択をさせるようなことになってごめんね?」
「託生・・・」
そんな風に考えたことなどなかった。
託生のせいだなんて、思ったことは一度もないのに。
仕事のせいにして動けないでいたのは、むしろオレの方なのに。
なのにお前は、わがままを言うオレの気持ちを軽くするためにそんなことを言うんだな。
オレはいつもいつもそんな託生に救われている。
「愛してるよ、ギイ」
託生はオレの手を取って、きゅっと力を込めて握りしめると、ぺこりと頭を下げた。
「いろいろご迷惑かけると思いますが、よろしくお願いします」
芝居がかった台詞に笑って、オレは託生を強く抱きしめた。
そしてようやくほっと肩の力が抜けた。
このバカンスの間に、一緒に暮らそうと託生に告げようと決めていた。
自分では気づいていなかったが、ずっと緊張してたんだなぁと今さらながらに思い知った。




「でもギイ、今すぐっていうのは無理だからね」
別荘に着くと、思い出したかのように託生が言った。
「一応こっちの仕事のこともあるし、いろいろ片付けてからってなると、早くても3ヶ月くらいはかかるから、今年中に行ければいい方かなぁ」
「3ヶ月?」
「かかるだろ?まぁ10年に比べたらあっという間だよ」
悪戯っぽい瞳で笑う託生に、何も言い返すことはできない。
託生の言う通り、生活の場を海外へ移すのだから、じゃあ来週からというわけにはいかないだろう。
まぁオレとしては身体一つで来てくれてもぜんぜん構わないのだが。
「一緒に住む家を探しておくよ」
「うん。あ、あんまり大きな家にしないでよ、ギイ」
「どうして?」
「だって、一緒に住むなら姿が見える家がいいよ。じゃなきゃ、一緒に住む意味がないだろ」
電話やメールや、いつも連絡はしていたけれど、どれも相手の姿を見ることはできなかった。
生活するなら、互いの気配を感じられるような家がいい。
素直にそう告げる託生に愛しさが込み上がる。
初めて会った時からずっとずっと、託生に対する想いは変わらない。
「さて、託生」
「うん?」
そっと肩に腕を回して、耳元で囁く。
「オシオキの続きするか」
きょとんとしていた託生は、オレが車でしたことを思い出したのか、ぱっと頬を赤くした。
「オシオキされるような悪いことしてないはずだけどな」
「お前、オレが別れ話したと誤解した時、すぐに「嫌だ」って言わなかっただろ。オレ、けっこう傷ついたんだからな」
オレが別れ話をすると思われていたことも、すぐに嫌だと言わなかったことも。
オレが不機嫌になったので、託生は慌てて弁解を始めた。
「え、だって、別れたいって言われて嫌だなんて言っても仕方ないっていうか・・・かといって、すぐに分かったなんて言えないし・・・」
「あのな、オレがそんなこと言うはずないって、もう10年の付き合いなのに、どうして気づかないんだよ」
「あー、うん・・・そっか・・ごめん」
「オシオキされてもしょうがないよな、託生くん?」
う、っと言葉を詰まらせた託生は、やがて渋々といった感じでうなづいた。



NYで託生と一緒に暮らすようになってからも、夏になると2人してこの別荘に遊びにきた。
フミさんの元気な姿を見てほっとして、そしていつまでたっても子供扱いされては何故か少し嬉しくも思った。
忙しい日常から一時解き放たれて、託生と2人で休日を楽しむ。
特別に何かするわけでもなく、ただのんびりと過ごすだけでも、それは間違いなく至福の時間で、オレたちにとって、ここはかけがえのない大切な場所となった。
「また来年も来ようね」
別荘を後にする時、必ず託生はそう言う。
その言葉に誘われて、毎年毎年、2人でここを訪れる。
きっと10年後も、同じように夏の午後をここで過ごしているのだろう。






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あとがき

20代半ばのギイ託が大好物です。託生くんがカッコいい男の子になってて、ギイがますます手放せなくなってたりするとうっとりです。