夏近し


予定変更で時間ができたので、これはもう託生に会いに行くしかないと、オレはいそいそと温室へと向かった。
もともと放課後は階段長と島田御大を初めとする先生方との連絡会があったのだ。
それが突然御大が出張となってしまい、連絡会は明日へ延期となった。
思いがけない自由時間。
となれば、やることは一つしかない。


温室に近づくにつれ、柔らかなバイオリンの音が聞こえてくる。
邪魔しないようにそっと扉を開けると、あろうことか中には真行寺がいた。
うっとりと託生を見つめる表情に、無性に腹が立ってきた。
お前が見つめる相手は託生じゃなくて三洲だろうが、とか、浮気してると三洲に言いつけるぞ、などと大人気ないことを思ったが、託生の奏でるバイオリンの音を聞いていると、なるほどうっとりと聞き惚れても仕方がないかと思えてきた。
音楽のことなどからっきしのオレでさえ、託生の音が日に日に変わっていくのが分かる。
弾いているのが楽しくて仕方がないという音。
華やかさはないけれど、優しくて、何かを愛しんでいるようで切なくなる。
まるで恋しい気持ちを言葉の代わりに音にしているような。
何ていう曲だろうか。
まるで託生が見えない誰かに愛の告白でもしているかのように思えて、何だかちょっと音楽に嫉妬しそうになる。
しばらくぼんやりと聞いていたが、やがて静かに曲が終わった。
余韻に浸る暇もなく、真行寺が大声で賞賛した。
「葉山さん、すっげー。俺、めちゃくちゃ感動したっす」
「え、あ、うん、ありがとう」
「何だかどんどん上手になってますよね、葉山さん。そりゃ毎日放課後ずっと練習してるから当たり前かもしれないですけど」
真行寺が手放しで褒めるものだから、託生はますます恐縮してしまい、それでも照れくさそうに礼を言う。
「毎日どれくらい練習してるんですか?」
「そうだな・・・」
託生は少し考えたあと、
「日によって違うけど、3、4時間くらいかなぁ」
と言った。
「え、そんなに!?」
「それでも短いけどね。休みの日なら一日弾いてられるけど」
「葉山さん、頑張ってますよねー」
しみじみと真行寺がうなづき、ふと思いついたように顔を上げた。
「葉山さんってバイオリン弾いてるときは何考えてるんっすか?」
真行寺の問いかけに、託生は虚をつかれたように瞬きをして、
「何も考えてないな」
と答えた。


オレの知らないところで、真行寺と2人きりでいるのはどうなんだ、ということより、託生の中にオレがいない瞬間があるのだという事実に、自分がショックを受けていることを知る。

バイオリンにヤキモチを焼いてどうする。

だいたいあれはオレが託生に渡したものなのに。
憮然と立ち尽くしていたオレに、真行寺が気づき「うおっ」と飛び上がった。
わたわたとオレと託生を見比べて、ベンチに置いてあった荷物を掴んだ。
「ギイ先輩っ、あの、珍しいですね、えっと、すみませんっ」
思わず口から出た言葉に、何か謝るようなことでもしたのか、と言いそうになったが、そこはぐっと堪えて片手を上げる。
「俺部活に行くっす。葉山さん、相手してくれてありがとうございましたっ」
「気をつけてね、真行寺くん」
思わず言わずにいられないほど、真行寺は慌てふためいて温室を飛び出していった。
まさしく嵐のように騒々しく。そして、真行寺が出て行った温室は静けさを取り戻した。
「ギイ、真行寺くん、怯えてたよ?」
「ご冗談を」
託生はオレを見ると、嬉しそうに笑った。
「ところで、どうしたんだい、ギイ。こんな時間にここにくるなんて珍しいね」
オレは託生の手からバイオリンを奪い取ると、そっとケースに横たえた。
「予定変更で時間ができたから、久しぶりに託生のバイオリン聴かせてもらおうかと思ってさ」
「言ってることとやってることが違うけど?」
オレにバイオリンを取り上げられた託生は呆れた視線をオレに向ける。
「んー、そう思ってここに来たけど、それよりもやりたいことがあったのを思い出したから」
「やりたいこと?」
「こういうこと」
腕を伸ばして託生の身体を引き寄せると、託生は抵抗することなくすんなりと腕の中に身を寄せてくれた。
ひとしきり抱き合ったあと、そっと口づけると、託生は素直にそれに応えてくれる。
こうして触れ合うのは久しぶりで、離し難くなる。
長い口づけのあと、託生は困ったように首を傾げた。
「どうしたの、ギイ?」
「今はオレのこと考えて?」
「え?」
「バイオリン弾いてる時は仕方ないけどな、オレといる時はオレのことだけ考えてくれ」
先ほどの真行寺との会話。
オレのことなど忘れて音楽のことだけを考えてバイオリンを弾く託生。
それはもちろん当然のことだけど、やっぱり少し寂しかったりもする。
「ああ・・さっきの聞いてたの?」
一体いつからいたのさ、と託生は驚いて、そしてオレの子供っぽい我侭にくすくすと笑う。
「笑うな」
「だって」
はーっと大きく息をつくと、託生は真っ直ぐにオレを見つめた。
「いつでもギイのことを考えてるよ」
「・・・・っ」
「本当はさっきバイオリンを弾いてる時もギイのことを考えてた。ギイに会いたいなぁって思いながら弾いてた」
だけど、そんなこと真行寺くんには言えないだろ?と頬を赤くする。

優しくて、何かを愛しんでいるような、まるで恋しい気持ちを言葉の代わりに音にしているようなあの音は、オレのことを想いながら弾いてくれていたのか。

言葉にならない感動が胸の奥を熱くする。
子供っぽいヤキモチを妬いた自分が馬鹿馬鹿しくなって、反省するしかない。
オレは託生を抱きしめて、大きく深呼吸をした。

「愛してるよ」
そっと囁くと、託生はうんとうなづいた。

「拗ねたりしてすみませんでした」
「いえいえ、もう慣れましたから」
おどける託生に苦笑して、その頬に手を添えて口づけた。

少なくともこの瞬間、託生の中に、オレはいる。

離れていても、言葉を交わせなくても、ちゃんとお互いのことを想っている。
だから大丈夫なのだと、いつも託生はオレに教えてくれる。

それじゃあリクエストにお応えして1曲、と託生はバイオリンを手にした。

オレのために弾いてくれた曲は、さっきよりもずっと甘くて、オレを幸せな気持ちにしてくれた。





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あとがき

ギイに睨まれた真行寺が不憫。