目には見えない幸せのしるし


※このお話は以前に書いた小話のバージョンアップ版です。



寮の部屋は決して広いとは言えない。
バスルーム兼洗面所は二人で立てば身体が触れ合うのは必至だ。
その朝も先に洗面所を使っていると、あとからやってきたギイがどんっとぼくの背中にぶつかってきた。
ぶつかる、というよりは抱きついてきた?
危ないなぁ、もうちょっとで歯ブラシで口の中を衝くところだったじゃないか。
ぼくはむっとした表情をしてギイを振り返った。
「ギイてば、ちょっと待ってよ」
「おはよ、託生」
「おはよう」
ぼくが少しくらい怒った顔をしたところで、ギイはぜんぜんお構いないしだ。
というか、本気で怒ってるかどうでないかをすぐに見抜いてしまうので、今はぼくが怒ってるわけじゃないと瞬時に判断したのだろう。
なので、背中から腹部に両腕を回して、ぼくのことを遠慮容赦なく引き寄せてくる。
「苦しいよ、ギイ」
朝っぱらからぎゅうぎゅう抱きしめられては暑苦しいことこの上ない。
アメリカ育ちのギイからのスキンシップは、純粋な日本人のぼくとしては、ちょっと過剰気味に感じられてまだ慣れない。
別に嫌だとかそういうことじゃないんだけど、しょっちゅう抱きしめられたりするのは、やっぱり恥ずかしいのだ。それが例え二人きりであったとしても。
「ギイ、もう終わるから、部屋で待っててよ」
「別にいいだろ、ここでも」
「狭いだろ」
「狭いから、だろ」
言って、ぼくの首筋にキスしようとするギイを何とか押しのけた。
まったく、ああ言えばこう言うんだから。
ぼくは手早く洗面を終え、ギイに場所を譲った。
部屋で制服に着替えていると、しばらくして洗面所からギイが出てきた。
彼はもう制服に着替えていて、ネクタイだけがまだ締められないまま首からぶら下がっている。
「ギイ、今日は放課後委員会だっけ?」
「ああ」
そっか、と特に深い意味はなくぼくはうなづく。
同じ部屋で同じクラスで、級長と副級長ではあるけれど、そうそういつも一緒にいるわけではない。
もっとも忙しいのはぼくではなくて、もっぱらギイだ。
何しろ級長というだけではなく、クラスのみんなから頼りにされているので、いつもあれこれと相談ごとが持ち込まれているのだ。ギイも時間のある限りは相談に乗っているから、そりゃ放課後は忙しいことこの上ない。
「あー、今日は託生と別行動かー」
「最近ずっと一緒だったから、たまにはいいんじゃない?」
「お前、冷たいなー」
「普通だよ」
「よし、夜は一緒に食べような。お前、どこにいる?」
ネクタイを締めるギイが鏡越しにぼくに尋ねる。
「どこって、部屋にいるよ。ぼくはギイみたいにあちこちから声がかかるわけじゃないからね」
笑うと、ギイはそうか?と軽く肩をすくめる。
上着を着て、さて出ようかという時、ギイはちょっと待てとぼくの肩に手を置いた。
「なに?」
「いや、ちょっと、さ」
「?」
ギイはうーんと少し考えたあと、ひょいと身を屈めてぼくの胸元に顔を寄せた。
「な、なに?」
何かを確かめるように、くんと鼻を鳴らすと、やっぱりまた不思議そうな、ちょっと困ったような顔をした。
「ギイ?」
「いや、いいんだ。行こうか」
ギイはあっさりとぼくの胸元から顔を離すと、いつもの極上の笑みを見せた。




いったい何だったんだろう。
朝のギイの不思議な行動がずっと頭から離れなくて、ぼくは授業も半分上の空だった。
ギイは時々おかしなことをするので、その度ぼくはその理由が分からなくて首を傾げるのだ。
聞いてもギイは教えてくれないことも多いし、教えてくれてもやっぱり意味が分からなかったりで。
頭のいい人ってぼくみたいな凡人では想像もできないようなことを考えてるんだろうけど・・・

(だけど、やっぱり気になる)

あの時、ギイは絶対にぼくの匂いを嗅いだ。
そして、ちょっと困ったような顔をした。
ぼくは首を傾げて肩先に鼻をくっつけると、くんと匂いを嗅いでみた。

(おかしな匂い・・・してないよね?)

ギイはコロンをつけていて、いつもすごくいい匂いがする。
ちょっと甘い花の匂い。ぼくはその匂いがとても好きで、時々その香りを感じたくて、気づかれないようにギイのそばに立ってみたりすることもあるくらいだ。
ふわっと微かに香ると、それだけで何だか幸せな気持ちになれるからだ。
ぼくはそんなコロンはつけてないので、ギイみたいないい匂いなんてしない。
いい匂いはしなくてもいいんだけど、だけどおかしな匂いがするのは嫌だ。
自分の匂いって自分じゃ気づかないものだし。
だいたい男子高校生なんて、汗臭いというのが相場だから、体育のあとの更衣室なんて、そりゃもう何ていうか、男臭いというか、なかなかに強烈な匂いが充満している。

(汗の匂いとかしてたのかな)

そろそろ寝汗をかく季節になってきたけれど、まだ朝からシャワーを浴びるほどじゃないはずだ。
くんくんと匂ってみても、特にそんな匂いはしない。
別にそこまで気にすることはないんだろうとは思うんだけど、だけどギイが気にするような匂いがしてるんだとしたら、ちょっと嫌だなぁと思ってしまう。
まさか面と向かって臭いだなんて言ったりはしないだろうけど、密かに思われてるのもいたたまれない。

(どうしよう)

ギイに直接聞いてみようか、とちらりと隣に座るギイを見てみる。
ギイは真面目に授業を聞いているふりして、ぜんぜん別のことを考えてる時もあって、たぶん今は別のことを考えているんだろう。そんな顔をしている。
最近ぼくにもそういうことが分かるようになってきた。
いったい何を考えてるんだろうか。そういえば、考える時、ギイの頭の中では英語が流れてるんだっけ。
ああ、ぼくにはまったく想像できない世界だ。
ぼくの視線を感じたらしいギイがふいっと顔を向け、そしていつものようににっこりと笑った。
ぼくは慌てて視線を元へと戻したけれど、頬が熱くなるのをとめることはできなかった。



放課後になると、ギイは予定通り委員会へと行ってしまった。
「ちゃんと部屋にいろよ」
と、どういうわけかぼくに念を押して足早に教室を出て行く後ろ姿を見送って、ぼくは教科書をまとめて鞄につめた。
「葉山、暇か?」
「赤池くん・・・」
すでに帰り支度を済ませた章三が、暇ならちょっと付き合えよとぼくを促す。
「なに?」
「明日の風紀委員会の資料作り手伝ってくれ」
「えー、何だよそれ」
「しょうがないだろ、人手不足なんだ。暇なんだろ?」
あっさりと言って、章三がほらほらとぼくを急かす。
まぁ暇なのは事実なので反論はできないんだけど。
風紀委員の章三も、ギイと同じく忙しい人で、おまけに人使いが荒い。立ってる者は親でも使え、の勢いの章三だけれど、自分もそれ以上に働くので誰も文句は言えないのだ。
ぼくは部活もやってないし、放課後はたまに図書委員をするくらいなのを知っているので、時々こうして召集されてしまう。
まぁ、日頃から章三にはあれこれと世話になっているので、資料作りを手伝うくらいは何でもない。
仕方ないなと諦めて、二人で肩を並べて廊下を歩いた。
「資料作りったって、もう原稿はできてるんだ。今度の委員会のためにコピーを取るだけだから」
「ふうん」
「これくらいなら葉山にもできるだろ?」
「そうだね」
「おや素直だな」
「最近分かったんだよ、赤池くんに何言ったところで、ぼくはきっと勝てないんだろうなって」
「分かってるじゃないか、葉山」
章三は楽しそうに笑うと、職員室の隣にあるコピー室の扉を開けた。
中には誰もいなくて、章三は手馴れた様子でコピー機の電源を入れた。
「こっちの原稿2種類は全部で50部。これは100部な。それぞれホッチキスをかけて、これとこれをセットにする」
簡潔に説明をして、章三はぼくに原稿を渡した。
まぁこれくらいならあっという間だ。章三一人でもどうということのない作業なのに、ぼくを誘ったということは、たぶん話し相手が欲しかったんだろう。
まぁ一人で黙々とやるよりは誰かがいてくれた方がいいという気持ちは分かる。
かしゃんかしゃんとコピー機が動き出すと、しばらく手持ち無沙汰になる。
「あのさ、赤池くん」
「うん?」
ぼくはちょっと考えたあと、今朝の出来事を章三に相談してみることにした。
馬鹿馬鹿しい内容だけど、幸いにもここには誰もいない。
「赤池くん、ぼくって、何か匂う?」
「は?」
椅子に座って今さらながらの原稿チェックをしていた章三が顔を上げ、怪訝そうにぼくを見る。
「何だ、それ」
「えっと、だからさ、一緒にいて気になるくらいおかしな匂いしてるかな?」
「それ、汗臭いとかそういう意味か?」
「うーん、そう、なのかな」
「どうしてそんなこと聞くんだよ」
ぼくは章三の隣に座ると、今朝のギイの行動を話してみた。
「突然顔近づけてさ、ぼくの匂いを確認したんだよ」
「で?」
「で、って?」
「だから、ギイは臭いとか、そういうこと言ったのか?」
「ううん、言ってない」
「じゃ、別に臭いってことはないんだろ」
つまらなさそうに言い捨てて、章三はまた資料に目を落とす。
確かにギイにはっきりと言われたわけじゃないけど、どう考えてもあれはぼくの匂いを確認してた。
そして困った顔してた。
「だけどさ、赤池くん・・・」
「分かった。じゃちょっと匂ってやるよ」
「えっ」
章三は面倒くさそうに資料を閉じると、きょとんとするぼくに呆れたような視線を向けた。
「何だよ、実際臭いかどうか確認しなきゃアドバイスのしようもない」
それはそうかもしれないけど、辛辣な章三のことだ。もし本当に臭かったりしたら、はっきりと臭いといわれそうで、それはそれで立ち直れないかも。
「ほら、こっち向けよ」
「・・・・」
もともとぼくから投げかけた相談なのだから、嫌だと言うのはおかしな話だ。
渋々、ぼくは章三の方へ身体を向けた。
章三はどれどれ、というように頭を傾けると、ぼくの胸元に顔を寄せた。
そして、くんと鼻を鳴らす。
しばらくそうしたあと、顔を上げると、うーんと首をかしげた。
「別に臭くはないけど?」
「ほんとに?」
「ああ」
別におかしな匂いなんてしないけどなぁ、と章三がぼくの肩に手を置いて、もう一度胸元に顔を寄せたその時、コピー室の扉ががらりと開いた。
ぼくも章三も何気なくそっちの方を見たら、あろうことかそこにはギイがいた。
「・・・・何やってんだ?」
瞬時に怒りオーラを身に纏ったギイが低く尋ねる。
ぼくと章三は互いに顔を見合わせて、まずい、とばかりに慌てて離れた。
ぼくの肩に手を置き、胸に顔を埋めている章三の図、となっているのに気づいたのだ。
別にどうということのない体勢ではあったけれど、邪まな目で見れば、ちょっとまずい体勢だったような気がしないでもない。
ギイは不機嫌を隠そうともせず近づくと、腕を組んでぼくたちを見下ろした。
「託生」
「え、あ、はい」
「今はちょっと忙しくて時間が取れないけど、この状況の説明は、あとできっちり聞かせてもらうからな」
「え、ちょ、ちょっと待ってよ。おかしな誤解しないでよ」
「そうだぞギイ、お前、僕と葉山の間に何かあるなんて馬鹿なヤキモチ焼くなよっ」
筋金入りのストレートである章三にしてみれば、ぼくとの仲を邪推されるなんて、まったくもって不本意なことだろう。
「別に誤解なんてしてない。託生と章三で何があるっていうんだ」
それこそ馬鹿を言うな、とばかりにギイが肩をすくめる。
だったらそんな不機嫌オーラを出さないで欲しい、と言いたかったけど言うタイミングを逃してしまった。
ギイは空いているコピー機でさっさとコピーを済ませると、足早に部屋を出て行った。
本当に時間がなかったらしく、ぼくも章三も抗議する暇がないくらいだった。
再び二人きりとなったコピー室で、章三は心底嫌そうな顔をした。
「葉山〜」
「な、何だよ、別にヤキモチ焼いてないって言ってたじゃないか」
だいたい本当にやましいことなんてしてないんだから、そんな恐い目で睨まないでほしい。
章三ははーっと大仰にため息をつくと、
「お前はまだギイの嫉妬深さを分かってない。あいつは普通じゃ考えられないようなことでもヤキモチを焼くんだぞっ」
「あー、うん、そうだよね。あとでちゃんとギイには説明しておくから」
「当たり前だ。まったくお前たちの痴話喧嘩に僕を巻き込むんじゃないぞ」
「うん」
これはあとでちゃんとギイの誤解を解いておかなくては、章三に恨まれてしまいそうだ。
でも、だいたいギイのおかしな行動のせいじゃないかと思うんだけどな。
あんなことされなければ、ぼくだって章三にこんなこと頼んだりしなかった。

(そうだ、ぜんぶギイのせいじゃないか)

ぼくは何だか釈然としない気持ちで、出来上がったばかりの資料にばしばしとホッチキスをかけた。



章三の手伝いが終わると、ぼくはギイの言いつけ通り、305号室でギイが帰ってくるのを待った。
その日の宿題を片付け、読みかけの本を読み終えて、なかなか充実した放課後ではあった。
そろそろ日も暮れて、お腹すいたなぁなんて思っていると、ギイが帰ってきた。
「おかえり、ギイ」
「ああ。ただいま」
手にしていた荷物をぽんと机に放って、ギイはぼくへと近づいてちゅっと頬にキスをした。
「腹減ったなぁ」
「すぐ食堂に行くかい?」
「そうだな、いや、それよりもお前、先に話さないといけないことがあるだろ」
ずいっとぼくへと近づき、ギイはコピー室でのことを思い出したのか、むっとしたように唇を尖らせた。
「たーくーみー、お前、章三と何してたんだ?」
ああ、やっぱり覚えていたか。
忘れててくれてるといいなぁなんて思ってたぼくが甘かった。
仕方がないので、腹をくくる。
「だから、ギイがヤキモチ焼くようなことじゃないよ。ちょっと確認してもらってたんだよ」
「確認って何だよ」
「・・・・」
「ん?」
ぼくはおもむろにギイのシャツの胸元を掴むと、ぐいっと自分の方へと引き寄せた。
そして顔をくっつけて、くんと匂いを嗅いでみた。
「託生?」
いきなりのことに、さすがのギイもびっくりして目を見開いた。
ぼくは構わずギイの匂いを確認する。
「やっぱりいい匂いがする」
「は?」
ぼくはぱっと手を離すと、ギイから離れてベッドの上に座り込んだ。
「託生、どうしたんだよ?」
苦笑しながらギイがぼくの隣に座ろうとする。ぼくはそんなギイから距離を置こうと身体をずらす。
「おい、何で離れるんだよ」
「だって」
「だって何だよ」
他の人がどう思おうがどうでもいいんだけど、やっぱりギイにそんな風に思われるのは嫌なので、ぼくは思い切って聞いてみることにした。
「・・・・ギイ、ぼくのこと臭いって思ってるだろ」
「・・・・何だって?」
それこそ鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、ギイがまじまじとぼくを見る。
「臭いって、何が?」
「だから、ぼくのことだよ」
「託生が臭いって?」
「そう」
ぷっと吹き出して、ギイはぴたりとぼくの隣に身を寄せた。
とたんに、ふわりと甘い花の香りが鼻をくすぐる。
「そんなことあるわけないだろ」
「・・・ほんとに?」
「当たり前だろ?そんなこと思ってないよ」
ギイの口調も表情も嘘を言っているようには思えなくて、ぼくはほっと肩の力を抜いた。
「・・・そっか・・良かった」
「何でいきなりそんなこと言い出したんだ?」
「ギイがぼくの匂いを嗅いだから」
「いつ?」
「今朝だよ、部屋を出る前に、ぼくのこと匂って困った顔しただろ?!」
忘れたとは言わせない。
あのせいで、ぼくは今日一日あれこれと悩んでいたのだから。
「ああ、あれな」
ギイはようやく思い出したようで、ぽんと手を打った。
そして何がおかしいのか、くすくすと笑い出す。
ぼくはどん、とギイの肩を押し返した。
「笑うなよ」
「いやだってさ、託生が臭いなんてことあるわけないだろ」
「じゃ、どうしてあんな困った顔したんだよ」
「だってお前、いい匂いしたからさ」
「は?」
ギイはぼくの肩に腕を回すと自分の方へと引き寄せて、そしてぼくの首筋に顔を埋めるようにして深呼吸をした。
「託生、いい匂いがする」
「あのね、そんなことあるわけないだろ、ぼくはギイみたいにコロンなんてつけてないんだし、だいたい、今日は体育があって汗かいちゃったし、ちょ、っとギイってば、匂うなよっ!」
くんくんと鼻を鳴らすように、ギイがぼくの首筋や胸元に顔をくっつけてくる。
必死でそんなギイを引き剥がそうとするものの、半ば押し倒されるようにして二人してベッドに横になった。
「ギイっ!」
「あのさ、託生」
顔を上げて、ギイがぼくを覗き込む。
「ずっと不思議だったんだよ。お前、コロンなんてつけてなくてもいい匂いがするからさ。今朝も洗面所でちょっとくっついただけで何か気持ちよくなる匂いするしさ、気のせいかなぁって思って、もう一回確かめさせてもらったんだよ」
「・・・・」
「そしたらやっぱりいい匂いするだろ?何でかなーって不思議でさ」
「ギイ、やっぱりどっかおかしいよ、病院行った方がいい!」
ぼくは何だかもう恥ずかしくて、顔が熱くなって仕方なかった。
ギイがどこまでも真面目なのも性質が悪い。
「授業中もどうしてかなぁって考えてて分かったんだけどさ」
「あの時そんなこと考えてたのかい?!」
「だって気になるだろ」
「・・・・」
あっけらかんと言うギイはやっぱり凡人のぼくには理解できない。
だいたい授業中にそんなこと考えるなって言うんだよ。
けれどギイはぼくの冷たい視線などまったく気にした様子もなく、一人で何やら納得したように続ける。
「よく考えたら当たり前なんだよな。ほら、よく年頃の女の子って父親が臭いって嫌がるだろ?あれって、自分と近い遺伝子を持つ人間とは交わることのないようにできてるんだよ。つまり、交わってもいい人間ほど、その人にとってはいい匂いがするってことなんだよな」
遺伝子?
ああ、そりゃぼくとギイとじゃ遺伝子はぜんぜん違うだろうなぁ、とぼくは別の意味で納得する。
そんなギイはうんうんとやけに嬉しそうにうなづいて、ぼくを抱き寄せる。
「だから、オレにとって託生がいい匂いするのは当然のことなんだよなぁってことが分かって、納得できたんだよ」
「いい匂いなんてしないよ」
「だからさ、それは鼻で感じることのできる物理的な匂いじゃないのかもしれないけど、他の人には感じられない匂いが、オレにはちゃんと感じることができて、それがいい匂いだって思えるってことは、オレにとって託生はやっぱり赤い糸で結ばれた人だってことだろ?」
「・・・・」
もし好きになってはいけない人なら、いい匂いはしないわけで。
他の人には感じない匂いでも、ギイには何か特別なものに思えるということだろうか。
うわぁ、それはそれでやっぱり恥ずかしいんだけど。
何も言い返せないでいるぼくに、ギイは唇を寄せる。
「オレたち、やっぱり最強の恋人同士だな」
「そ、れは・・・嬉しいけど・・・」
小さなキスを何度も繰り返す合間に、ぼくはつぶやく。
「だけどギイ、どう考えてもぼくはいい匂いなんてしないと思うよ。だからもう匂ったりしないでよ」
「何だよ、お前だってオレの匂いでうっとりしてるくせに」
「ちっ、違いますっ!!あれは、ギイのコロンが・・・・っ」
いきなりこっ恥ずかしいことを指摘されて、だけど事実だから言い返せない。
本当に時々ギイは意地が悪い。
くすくすと笑うギイがぼくの耳元で囁いた。
「じゃ託生、今夜風呂に入った後に、何もつけてないオレの匂い嗅いでみて、で、どう感じるか教えてくれよ」
「ええっ」
ギイ自身の匂いがいい匂いだと感じるかどうか?
それがいい匂いと感じるか嫌な匂いと感じるか、ってこと?
そんなこと試してみなくても、ギイの匂いが嫌だなんて思うはずないのに。
あれ、じゃあギイもそれと同じなのかな。
ぼくの匂いがあるとして、それはギイにとっては嫌だとは思わないってことなら、それはまぁ嬉しいことではあるんだけど・・・。
結局その夜、風呂上りのギイに半ば強制的にベッドに引きずり込まれた。
抱きかかえられた胸の中で、コロンなんてつけていないギイの匂いに、やっぱりちょっとうっとりしてしまって、
「何だか、変態っぽくてやだ」
と思ったりもしたんだけど、でもまぁ嫌だと思うことがなくて良かったと、ちょっとほっとしたりもした。
コトの顛末を知った章三は心底呆れ返り、
「男の匂いがいい匂いだなんて、お前らはどこかおかしい」
と、きっぱり言ってくださった。
それからしばらくの間、ギイはぼくを抱きしめると何かを確認するように鼻を鳴らすので、ぼくは恥ずかしくて仕方なかったのだけれど、だけどそんな時のギイはやけに幸せそうな顔をするものだから、もうどうでもいいか、と思ってしまうあたり、やっぱりギイのことが好きなんだなぁと再確認してしまうのだ。
もちろんこんなことを章三に言えば、また何を言われるか分からないので、絶対に秘密なのだけれど。




****** 以下おまけ話 ******


ふわっと漂った香りに、僕は顔を上げた。
今までずっと忘れていた記憶がその香りと共に思い出されて、思わず笑ってしまった。
隣に座った奈美が、急に笑い出した僕に不思議そうに首を傾げる。
「なに?」
「いや」
一度思い出すと、するすると記憶が甦り、さらに笑いが洩れしまって、ますます奈美が怪訝そうな顔をした。
「ああ、悪い。奈美のことじゃなくて」
僕は読んでいた本を閉じて、奈美が持ってきてくれた湯のみを受け取った。
「昔さ、葉山に『ぼくって匂う?』って聞かれたことがあってさ」
「ええ、何それ?」
奈美が目を丸くしてくすくすと笑う。
「それを確認してるところをギイに見つかって、睨まれたのを思い出した」
「確認って何したの?」
「普通に匂いを嗅いだんだけど?」
とたんに奈美が眉をしかめた。
「章三くん、それおかしいわよ。葉山さんの匂いをくんくんって嗅いだの?」
「他にどうやって確かめろって言うんだよ?」
「そうかもしれないけど・・・」
奈美は何とも微妙な表情で僕を見る。
「あのな、女の子の匂いを嗅いだわけじゃないんだぞ。別に疚しいことなんてないからな」
いくらギイと葉山がそういう仲だからって、僕までそんな目で見られてはたまらない。
「まぁそうよね、それでどうなったの?」
「ギイが言うには、自分にとって本当にぴったりと合う人からはいい匂いがして幸せになれるんだってさ。ギイが葉山はいい匂いがするなんて平気な顔で言うもんだから、呆れ返ったのを思い出したんだ」
本当にあの時は、こいつら絶対にどこかおかしいと思ったものだが・・・
「いい話じゃない。さすが崎さん、ロマンティストねぇ」
奈美がうっとりとうなづく。
そうか??
ロマンティストだなんていいものではなく、単に恋に目が眩んだだけの、ただの男なんだけどな、とは一応言わないでおく。
というのも、馬鹿馬鹿しい話だとその当時は思ったけれど、今こうして隣に座る奈美から柔らかな甘い香りがすると、確かに幸せを感じるのも事実なので、一概に馬鹿馬鹿しい持論だと切り捨てることもできないのかとも思いなおしたからだ。
「でも、崎さんの言うこと、私は分かる気がするな」
「え?」
「だって」
奈美は視線を正面にあるベビーベッドへと移した。すやすやと眠る子供に零れるような笑みを浮かべる。
「まだミルクの匂いしかしないけど、すごく幸せな気持ちになれるもの」
「ああ・・・そうだな、うん」
まだ生まれたばかりの小さな命からは、確かに僕たちを幸せにしてくれる匂いがする。
「奈美もいい匂いがするよ」
何の気なしに口にすると、奈美はぱっと頬を染めた。
目に見えない些細なものでも、幸せになるには十分な力があるのだということを、もう僕は知っているから、今ではギイの言うことを馬鹿馬鹿しいだなんて思うことはない。
その日一日の出来事を、奈美が楽しそうに話すのを聞きながら、久しぶりに相棒の顔が見るために連絡でもしてみるか、と心に決めた。



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あとがき

ギイは託生くんが脱ぎ捨てたシャツをくんくんしてそうだなぁ。章奈美は結婚後という設定で!