祠堂は山奥に建つ全寮制の男子校だ。
全国各地から集まった生徒たちは、皆そこそこの家柄の者が多く(まぁ昔はもっと上流階級のお坊ちゃましか入学できなかったみたいだけど)、基本的には無茶なことをすることはない。 とはいうものの、娯楽らしい娯楽も何もない中で、年頃の男子高校生が集まっているのだから、やはり少しばかり羽目を外す者も出てくる。 例えばこっそり煙草を隠しもっていたり、ビールを持ち込んだり。 寮は基本的に自主管理が原則となっていうので、お目付け役ぽい先生はいない。 階段長がそれぞれのフロアの管理をしていることになるのだけれど、それを取りまとめるのは風紀委員たちだ。それぞれの学年、一クラスに一人の風紀委員。全風紀委員の中から委員長と副委員長。 その立場上普段の生活態度が他の生徒たちの見本となるように気をつけなくてはならないがが、彼らとて羽目を外したい生徒の一人ではあるので、風紀委員はなかなかなり手がいないのもまた事実だった。 逆に風紀委員にぴったりという人物もいるにはいる。 「風紀委員って赤池くんのためにあるような役職だよね」 託生の嫌味のない感想に、章三は苦笑する。 昼の食堂で託生とギイと章三は三人でいつものように昼食をとっていた。 2年になって人間接触嫌悪症が治ると、託生は去年までの人嫌いが嘘のように誰とでも話をするようになり、親しい人間も増やしつつあった。 今や学年で一番の注目株である。いい意味で託生とちょっと話してみたいと思っている連中と、逆に今までの過剰反応が本当に治ったのかを試してみたいと意地の悪いことを考える連中が半々というところだ。 そんな中、託生が今まで通りのんびりと過ごせているのは一重にギイの暗躍のおかげだと章三は思っている。あの頑なだった託生の殻を打ち破ったのだからさすがギイと思いながらも、梅雨が明け、そろそろ夏本番かという頃から、ギイと託生の距離は傍目から見ていても分かるほどに近づき、時折感じる甘ったるい雰囲気に、正直なところ章三は嫌な予感がしてならなかった。 基本的に不純同性交遊には反対派なのである。 しかし、もし二人がそうだとしても、だからといって友達関係を断ちたいのかと問われれば、決してそんなことはなく、だからこそ章三は悩ましく思っているのだ。 「確かに章三は風紀委員の鑑みたいな男だがな、案外とそこまで真面目でもないんだぞ、託生」 「そうなの?」 本日のおススメメニューであるハンバーグ定食をギイはあっという間に平らげ、まだ足りないと言って、うどんを食しているところである。 「おいギイ、葉山におかしな情報を植え付けるな」 「別にいいだろ。今さらオレたちの間で」 もちろん託生に対して隠し事をしたいわけではない。ギイの言う通り、章三は風紀委員ではあるが、かといって何から何まで真面目にやっているかとそういうこともなく、こっそり煙草を吸ったりすることだってある。もちろん褒められたことではないから口にすることはないが。 「赤池くんって厳しそうに見えるけど、でも理不尽な締め付けはしないからみんな安心して風紀委員を任せられるんだよね」 託生が特に気負った風もなくさらりと言う。 これは褒められたのだろうか、と章三は首をかしげる。 たぶん特別な意図などなく、託生は思っていることをそのまま口にしているのだろう。 「葉山は?副級長やってみてどうだ?」 「え、どうって言われても・・・たいていのことはギイがやってくれるから、ぼくはたいしたことはしてないよ」 「まぁたしかにギイが級長なら副級長はこれといってすることはないよな」 「赤池くんは?風紀委員って忙しいの?」 「別にしょっちゅう取り締まりをしているわけでもないし、毎日委員会があるわけでもないし、それほど忙しいわけじゃないさ」 「そういえば、今年の一年生の風紀委員に厄介なのがいるんだって?」 ギイが思い出したように章三に尋ねる。 あー、と章三は珍しく歯切れ悪く低く唸った。 四月に入学してきた新入生たち。もちろん一年生であっても風紀委員は選出されるし、委員会にも出席をすることになる。 入学したてで右も左も分からない者たちばかりなので、ほとんどの一年生たちは先輩たちの動向を見守るだけで、これといって意見をしたりすることはない。 章三が一年の頃もそうだった。 もちろん先輩のすることがすべて正しいというわけではないので、意見した場面もあったが、その時は相手を怒らせることなく上手にそれとなく意見を述べるのがいいはずなのだが。 「厄介ってどういうこと?」 託生が尋ねる。何と答えるべきか、と章三は考えた。 ギイが厄介だと言ったのは1年の皆本という生徒だ。 どこぞの会社社長の息子らしいが、その程度の生徒は祠堂にはうようよいるので別にどうでもいい。 だが、お坊ちゃま育ち特有の遠慮のなさというか正直さというか、とにかく先輩に対して敬意を払うということを知らなさすぎるのだ。 先日の委員会の席、風紀委員長の柴田が次回の持ち物検査の予定を説明し始めると、おもむろに皆本が手を上げ、 『持ち物検査ってプライバシーの侵害じゃないんですか?』 と言い出した。 その場にいた委員たちは一瞬にして固まった。 それを今ここで言うのか?というところである。 寮には持ち込み禁止のものがいろいろあって、時々そういう禁止品を持ち込む生徒もいるので数か月に一度、抜き打ちで持ち物検査を行うのだ。 最初はやはり抵抗はあるものの、やましいことがなければ別に問題はない。 もちろん誰もが好きでやっているわけでもない。 柴田はこの手の意見が出ることは最初から分かっていたようで、特に慌てることなく優しく言った。 「確かにプライバシー侵害だと言われればそうかもしれないけれど、それ以上に寮での生活を乱さないように誰かが管理をしなくちゃならない。寮に管理者が置かれていないのは、生徒の自主性を尊重しようという先生方からの信頼があるからだよ。俺たちはその信頼を裏切るようなことをしてはいけないんだ。自主性に任せて問題が起こらないというのがもちろん一番いいことだとは思うけれど、これだけの生徒がいるとどうしても、自分一人くらいなら平気じゃないかと思う者も出てくる。それを許していると結局最後には皆がそれでいいと思い始める。今の寮がきちんと規則通り運営されているのは、俺たち以前の先輩たちが同じように憎まれ役を買って出て、管理をしてくれていたからだよ。俺たちはその役目を引き継いだわけだから、今は個人の意見ではなく、風紀委員としての役割を優先した方がいいんじゃないかな」 「それは・・・そうですけど・・・でも、禁止されているものじゃなくても、人に見られたくないものもあると思います」 「うん、もちろんそういうものまで全部見せろと言うわけじゃないよ。今年入学したばかりの一年生たちからすれば、持ち物検査ってすごく嫌なことに感じるかもしれないけれど、そこまで厳密なものじゃないから心配しなくてもいいよ」 「厳密なものじゃないんなら、やる意味ないじゃないですか」 まぁ確かにそうだけどな、と章三も思いつつも、それを言ったら終わりだろうとも思った。 物事には建前と本音というものがあって、分かっていても口にするとややこしくなることもあるのだ。 そのあとも、皆本は柴田と押し問答を続け、それでも最後は委員長が「決定事項」と言い切り、持ち物検査は来月行われることとなった。 「まぁ自分が納得できないことをちゃんと口にするっていうのは大切なことだとは思うけどさ、何ていうか、柴田先輩を困らせたいだけなのか?って思うこともあってなぁ」 「一年生の意見に慌てるような柴田先輩じゃないだろ?」 ギイが軽く肩をすくめる。 三年の風紀委員長である柴田俊は見た目は歌舞伎の女形のような日本的な美丈夫だ。 しかし、優しそうなその見た目に反して芯はしっかりしていて、だからこそ昨年度に引き続き風紀委員長を任せられている。 「もちろん柴田先輩は皆本のことは何とも思っちゃいないんだろうけどな」 「じゃあ何が厄介なの?」 託生の言葉に章三はまたうーんと唸った。 「何ていうか、何かにつけて突っかかってくるんだよな。風紀委員もなりたくてなったわけじゃないみたいだし。委員会のたびに必ず一言問題発言をするからちょっと周りからも浮いてるんだよなぁ」 最初に柴田に反抗的な態度をとったものだから、2年生からは煙たがられているし、1年生たちも基本的には柴田のことが好きなため、皆本のことはよく思っていない。 なので、皆本が発言するたび、委員会には不穏な空気が流れるようになった。 しかし皆本が言っていることはあながち間違ってばかりでもなく、今まで何となく慣習でやってきたことを改めて見直すきっかけになることもあるのだ。 指摘されてみてそう言えばそうだよなぁ、と思う部分もあるにはある。 けれど、さらにそれを突き詰めればやっぱりそれは必要だったりもする。 着眼点は悪くないのだから、あと一歩どうしてそれをやっているのかを自分で考えてくれればいいのだが、そこまでは考えが及ばないようで、結果として、柴田に対してあれこれといちゃもんのような質問をしまくるのだ。 章三自身は皆本に対してこれといって思うところもなかったのだが・・・ 「まぁあんまり柴田先輩にあれこれ文句をつけるもんだから、一度それとなく注意したんだよ。言っている内容が正しくても伝え方を間違えると正しい形で受け入れてもらうことができないって。それでなくても委員会の中じゃほとんどが柴田先輩派だし、下手すりゃ本当に孤立しちまいそうだったからな」 「へぇ」 「そしたらプライド傷つけられたのか、あいつ今度は僕に噛みつくようにになっちまってね」 「えっ、それはまた怖いもの知らずな」 思わず託生が言い、ギイが吹き出した。 二人して失礼なヤツらだな、と章三が渋い顔をする。 「最近じゃ柴田先輩に絡む代わりに僕に絡むようになった。柴田先輩からは喧嘩はしないようにって釘刺されてるから適当にかわしてるけどな」 自分にも他人にも厳しい章三だが、かといってむやみやたらときついことを言うわけではなく、基本的には面倒見がよくて優しい男だと託生は思っている。 何しろ、2年になってすぐ、ギイと温室に閉じ込められた時も、学校中を探しまわってくれたのだ。 今となっては託生にとって章三はなくてはならない大事な友達の一人になっている。 「赤池くんが困るなんてよっぽどだよね」 「まぁ毎日顔を合わせるわけでもないからどうってことはないんだけどな。何にしろ柴田先輩には心配かけたくないから何とかしなきゃとは思ってるんだが、どうだかね。下手に頭がいいだけに、やりづらい」 「何かできることがあるなら力になるから」 託生が珍しく身を乗り出して章三に言った。 力になるってどうやって?とおそらくギイも章三も思ったに違いない。 だいたい最近ようやく人付き合いを覚え始めた託生が、いくら相手が一年生とは言えやたらと弁の立つ皆本相手に何かできるとも思えない。 逆にやりこめられてしまうのがオチだ。 それがギイと章三が無言のうちに思ったことである。 「それはどうもありがとう。気持ちだけはありがたく受け取っておくよ」 「あ、赤池くん、冗談だと思ってるだろ。ぼくだってやるときはやるんだからね」 「葉山が?あー、確かに無鉄砲で怖いもの知らずなところあるよな、お前。けど、ギイが心配するからほどほどにしておけよ」 「そうだそうだ」 ギイが大きくうなづく。 「ぼくだってたまには赤池くんの役に立ちたいよ」 神妙に言う託生に、章三はおや?と目を見張った。 去年まで他人にまったく興味がなかった託生が変われば変わるもんだと感心する。 それもこれも、全部ギイのおかげなんだろう。 いつもどこか痛そうな表情をしていた託生が、今はずいぶんと穏やかで優しい顔つきになった。 それは章三にとっても喜ばしいことだった。 「どうしてもしんどくなったら、じゃあ葉山に頼ることにするよ」 「うん」 「期待してる」 半ば冗談めかしての言葉ではあったが、託生は面映ゆそうに笑った。 「ずいぶんと章三の味方するんだな」 その日の授業が終わり、寮の部屋へと戻るとギイが思い出したように言った。 制服を脱いでいた手を止めて託生が振り返る。 「ギイは助けてあげようって思わないのかい?」 「そりゃあ、いざとなればな。だけど、章三の場合、あまりいざという時がない」 「・・・そっか、確かに赤池くんて自分で何でもできちゃう人かも。ぼく、余計なこと言っちゃったかな」 そんなことないさ、とギイが笑う。 「みんな章三のことは一人でも大丈夫って思ってる節があるが、実はそうでもなかったりするし、あいつも託生が力になるって言ってくれて、本当は嬉しかったんじゃないかと思うぜ」 「それならいいけど。ねぇギイ、1年の皆本くんってどんな子なの?」 「知らないよ」 「嘘だ」 「何で決めつけなんだよ」 「だって、ギイが知らないことなんてないじゃないか」 「オレだって知らないことはある」 そうかなぁと託生が疑いの目を向け、ギイはやれやれというように肩をすくめた。 「本当に知らないんだって。1年A組の風紀委員で、出身は託生と同じ静岡。去年の卒業生に兄がいて兄弟そろって祠堂に入学。成績は中の上・・・ってくらいしか知らないな」 「十分知ってるじゃないか」 さすがギイというべきか。 もしかして全校生徒のことを知っているんじゃないか、と託生はこっそりと思ったりもした。 「だから、そういう基本的プロフィールしか知らないってこと。直接話したこともないしな。まぁ章三に絡んでくるくらいの怖いもの知らずだという情報は上書きされたわけだけどな」 「そうだよね。ほんと、そうだよねぇ。ぼくなんて今でも赤池くんに絡むのにはなかなかの勇気がいるっていうのに、すごい度胸だよね」 「だいたい柴田先輩にも意見するっていうのがいい度胸だ」 「ほんとに。だけど、ぼくは皆本くんの顔さえ知らないんだよね」 「じゃあすれ違ったら教えてやるよ。けどな、頼むから無茶しないでくれよ。託生も怖いもの知らずなところがあるからな」 分かってるって、と気楽な返事をした託生を、ギイは胡散臭そうに眺めた。 あの章三に絡んでくる1年生というのはいったいどういう子なのだろうか、とずっと託生は気になっていたのだが、顔を見る機会は案外と早くやってきた。 放課後、図書室の当番をしていると、1年生らしきグループがやってきた。彼らの会話が聞くともなく聞こえてきて、その中の一人が皆本だということに気づいたのだ。 (あの子が皆本くんか) 章三の話から、もっと気の強そうなタイプを想像していたのだけれど、予想に反して皆本は小柄で細身のまだ中学生っぽさの抜けない感じの生徒だった。 友達同志で楽しそうに会話している姿からは、章三が言うような小生意気な感じは全くしない。 もしかして人違いかなと思うほどだ。 皆本を含むグループは教科書を開くこともなく、周囲にも聞こえうほどの声で話を続けている。 どうやら彼らは図書室に勉強しにきたというよりはどうやらおしゃべりをしにきたようで、楽しそうなのはいいのだが、他の生徒たちに迷惑がかかる前に注意をした方がいいかな、と託生は立ち上がった。 これが2年、3年生だとそのあたりのタイミングが分かっていて、注意される前にさっさと部屋を出ていくのだが、まだ入学したばかりの1年生たちは託生が近づいてきてもまったく気づいていないようだった。 「ねぇ、きみたち」 託生はなるべく小さな優しい声で皆本たちに声をかけた。 「ここ図書室だから、話をするならもうちょっと小さな声でね。勉強している人たちの迷惑になるから」 「あっ、すみません」 託生に注意されて自分たちがうるさかったことに気づいたのか、ごめんなさいと素直に頭を下げる。 反抗的な態度を取られたらどうしようかと、実はちょっとドキドキしていた託生はほっとして、じゃあねとその場を離れ、もとのカウンターの中に入った。 しばらくカードの整理などをしていると、ふいに手元に影がさした。 顔を上げると、件の皆本が立っていた。 「貸し出し?」 手に本を持っていたので、託生がたずねると、皆本はうなづいて本を差し出した。 「ちょっと待ってね」 本の背表紙の裏に差し込まれたカードを抜き取り、日付を入れる。名前書いてねと皆本にカードとペンを渡すと、皆本はうなづいて意外と綺麗な字で名前を書き入れた。 (皆本・・優くんか・・・ゆう?すぐる?何て読むのかな) 託生がぼんやりと記入された名前を眺めていると、 「葉山先輩って赤池先輩と仲がいいんですよね」 と、突然皆本に話しかけられた。 「え?」 「いつも食堂で一緒にいるから」 顔を上げて皆本を見ると、先ほどのあどけない表情ではなく、どちらかというとむっとしたような顔つきで託生を見ていた。 「僕、風紀委員で委員会で赤池先輩と一緒になるんで」 「ああ、うん。知ってる」 「え?」 今度は皆本の方が驚いた顔をした。 まさか章三から自分のことを聞いているだなんて思ってもみなかったのだろう。 託生はなるべく平静を装いつつ説明した。 「あ、えーっと、ご飯食べる時とかにいろいろ話する中で、委員会の話とかも聞くから」 「生意気な一年生がいるって言ってましたか?」 ますますむっとした表情になり、皆本が低く言う。 当たらずとも遠からずといったところではあるが、なるほど章三が言っていた通り、なかなか度胸のある子だなぁと託生は思った。けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。少し子供っぽさの残る顔つきのせいか、生意気な口ぶりさえも可愛いと思えてしまう。 けれど、そんな風に思う人ばかりでもないだろう。祠堂はそれほど上下関係にうるさい校風でもないけれど、体育会系の部活をしている者の中には下級生の口のきき方にうるさい者もいる。 皆本は案外と誤解されやすいタイプなのかもしれないから気を付けて欲しいなぁと思う。 「赤池くんはそんなことは言ってなかったよ」 「・・・気遣っていただかなくても・・・、もうちょっと口のきき方に気をつけろって注意されましたし」 「ああ」 なるほど。 そういう礼儀には厳しいからなぁと託生は思った。もちろん先輩として当然のことだけれど、皆本にしてみればそんな風に注意されること自体、慣れていないのかもしれない。両親から注意されることはあっても、同年代の先輩から注意されるということは寮生活をしていればこそのものだ。 風紀委員でもある章三にしてみれば、1年生たちが少しでも早く祠堂になれて、上級生たちともうまくやっていけるようにとの思いもあって注意することもあるだろう。 それが皆本にしてみれば、うるさい先輩だと感じたのかもしれない。 とはいうものの、章三は託生にとっては大切な友人なので、できれば章三のいいところも知って欲しいし、嫌ったりしないで欲しいとも思う。 「あのさ、赤池くんってずばずばモノを言うところはあるけど、すごくいい人だよ?」 「・・・規則重視でそれを他人に押し付けることを楽しんでるように見えますけど。2年や3年の先輩たちってみんなそんな感じですよね。赤池先輩って、特に柴田先輩の肩ばっかり持ってるし、風紀委員ってそういう人ばかりじゃないんですか?」 「それはずいぶんな偏見だと思うけど」 確かに風紀委員というのは規則がきちんと守られているかとチェックする立場だとは思うけれど、だからといってそれはそういう役割だからであって、別に好きでやっているわけではないと思うのだ。 どうやら皆本はずいぶんな誤解をしているような気がして、託生はどうしたものかと思案した。 「皆本くんも風紀委員をやってるわけだし、同じように規則をチェックする立場だよね。でも、だからってそれを楽しんだりはしていないだろう?赤池くんはきちんとした人だから、自分のやらなければいけないことを分かっていて、やるべきことをやっているだけだよ。それは柴田先輩だって同じだと思う」 「・・・」 「一度プライベートで赤池くんと話をしてみるといいよ。ああ、でもなかなか用もないのに先輩と話をするチャンスってないか・・・あ、じゃあ今夜の夕食は一緒に食べようか」 「えっ、いえそんなこと・・・」 さすがの皆本もまさか託生がそんなことを言い出すとは思っていなかったようで、それはちょっと、と口ごもる。下級生特有の遠慮だと思った託生は、大丈夫大丈夫と笑った。 「学年が違っても一緒にご飯食べたりするし。別に気を使う必要もないよ。あ、ギイも一緒だから今夜は4人だね」 「え、崎さん?」 どうやら皆本もギイのことは知っているようで、なおさら困ったような表情を見せた。 「あの・・・僕は崎さんのこともよく知りませんし、せっかくお誘いいただいたんですが・・・」 「大丈夫だって。じゃあ19時に食堂でね。あ、席は売店前が分かりやすいかな。待ってるからね」 いつもの託生であれば、皆本の腰が引けていることを優先して強引に誘ったりはしないのだけれど、何しろ章三と仲良くなって欲しいということが最優先だったので、若干有無を言わせぬ口調で言い切った。 皆本も先輩の誘いをあまり強固に固辞するのも失礼になると思ったのか、じゃあまたあとで、と小さく言うと貸し出しを受けた本を手に図書室を出て言った。 「よし、ぼくだっていざとなればこれくらいはできるんだよ」 強引に物事を進めるのは苦手だけれど、今回ばかりは我ながらいいアイデアだと思った。 やはり食事を一緒にすると気持ちも解れるというか、少し近づけるのではないかと思うのだ。 ギイは基本的には誰とでも気軽に話ができるし、託生も自分が誘った以上はちゃんと間を持たせようと決めていた。 「仲良くなれるといいんだけどな」 その日の図書当番が終わると、託生はこの計画をギイに話すべく、ダッシュで寮へと戻った。 託生からその話を聞いたギイは何とも微妙な顔をしてみせた。 「それはまた、託生にしてはずいぶん思い切った提案をしたもんだな」 「そうかな。だって赤池くんのこと良く思われないのは嫌だし。ちゃんと話をすればきっと皆本くんだって赤池くんのことを好きになると思うし」 「いや、別に今でも嫌いってわけじゃないだろう」 「でもいろいろ突っかかってるんだろ?」 まぁなぁと曖昧な相槌を打って、ギイは制服のネクタイを外した。 胃袋がブラックホールのギイは、いつも夜の食堂が開くと同時に足を運ぶ。最近は託生も一緒に行くのが当たり前になっているので、どちらかが外出していれば帰ってくるのを待つようにしていた。 「図書室でちょっと話しただけだけど、そんなに嫌な子じゃなかったよ。たぶん、まだ入学したばかりで先輩たちとの付き合い方に慣れてないだけなんじゃないかな」 「そうかもなぁ」 「ねぇ、ギイも皆本くんとちゃんと話したことはないんだろう?」 「ないな」 「じゃあ今日は赤池くんと皆本くんが仲良くなれるように協力してよね」 「協力って何すりゃいいんだよ」 素朴な質問に、託生はうーんと首をひねる。 確かに協力といってもお見合いじゃないんだから別に何かをする必要もないような気がする。 「その場が和やかに進むように、明るい話題を持ち出す、とか」 「和やかにねぇ」 ギイはあまり気乗りしていないようだった。 もともとギイは他人のことには不干渉というのが基本スタイルで、頼まれもしていないのに自らあれこれと首を突っ込むことはしない。 とはいうものの、託生があれこれと首を突っ込むことを放ってはおけないので、結果的には一緒になって厄介ごとに巻き込まれてしまうのだ。 「託生が心配するほど、章三は困っちゃいないと思うけどな」 「まぁそうかもしれないけど」 「けど気になる?」 「うーん・・」 確かにギイの言う通り、章三は皆本のことなどそれほど気にしてはいないのだろう。 だけど、たとえそれが誤解だったとしても、いや誤解ならなおさら、皆本が章三のことを悪く思うのは嫌だったのだ。章三は規則重視の頭の硬い男だと皆本は思っているようだが、そんなことはないし、どうせなら仲良くなって欲しいと思う。 託生は章三のことが好きだから、好きな人のことを皆本も好きになって欲しいなと思うのだ。 「まぁ、オレも章三に意見する1年生には興味があるし、一緒に飯食うくらいどうってことはないから和やかに会話が進むように協力するよ。さ、お腹空いたから食堂行こうぜ」 「うん。今日はカレーらしいよ」 「ハヤシライスだって聞いたけどな」 「え。ほんとに?」 二人でカレーとハヤシライスどっちが美味しいかを言い合いながら開いたばかりの食堂へと向かった。 皆本と約束をした場所を見ると、まだ誰も座っていない。 周りをぐるりと見渡すと、章三がクラスメイトと一緒にカウンター前に並んでいるのが目に入った。 「赤池くん!」 「よぉ葉山」 たいていは一緒に夕食を食べるが、別にいつも約束をしているわけではない。 その時たまたま一緒になれば席を同じにするという感じではあったが、今夜ばかりそういうわけにはいかない。 「赤池くん、一緒にご飯食べよう」 思わず鼻息荒く誘いをかけてしまい、章三が一瞬怯む。 「葉山、何でそんなに興奮してるんだ。ハヤシライスがそんなに好物だったか?」 「ハヤシライスは好きだけど、そうじゃなくて・・・、あ、いつもの席で待っててね、絶対だよ」 「はいはい。葉山がそんなにハヤシライスが好きだとは知らなかったな」 不思議そうな顔をしながら章三はトレイを手にいつもギイと三人で座る席へを先に向かっていった。 「託生、張り切りすぎ」 「え、そんなことないよ。やだな」 ギイが苦笑するのを軽く睨んで、託生はハヤシライスとサラダの乗ったトレイを手に、章三が座る席へと向かった。ちょうど皆本が食堂に入ってきて、託生をみつけて軽く頭を下げた。 「何だ、葉山、皆本といつの間に親しくなったんだ?」 いつものように章三の間に託生が座り、その隣にギイが座る。 皆本はカウンターでハヤシライスを受け取っている。 「親しくっていうほどでもないんだけど、図書室でちょっと話をしたんだ。で、今日は一緒にご飯を食べようってことになったんだけど、いいよね、赤池くん」 「別にかまわないが・・何だか葉山が熱心すぎて怖いな。熱でも出すんじゃないか?」 「あんまり下級生と親しくすることないからちょっと興奮してんだよ。知恵熱出したらオレがちゃんと看病するから安心しろ」 ギイがからかうと、託生は子供扱いしないで欲しいんだけど、と唇を尖らせる。そんな子供っぽい仕草がやたらと可愛く見えてしまうのは惚れた欲目なのだろう、とギイはこそりと思った。 「あ、皆本くん、こっちこっち」 託生が皆本を手招きし、皆本はギイの姿に一瞬緊張したような表情を見せたが、すぐにこんばんわと小さく会釈をした。 「すみません、葉山先輩に誘われて・・・」 「ああ、遠慮しなくていいよ。皆本は章三と風紀委員会で一緒なんだろ?」 ギイがそれとなく共通の話題を口にした。皆本は隣に座る章三をちらりと見た。 「一緒です」 「いろいろと風紀の在り方について意見してくれてる後輩だよ、な?」 章三が笑いを含んだ口調で補足すると、皆本はぱっと頬を赤くした。そんな言い方しなくても、と託生がはらはらと二人を眺める。 しかし皆本も負けてはいないようで、隣の章三を軽く睨んだ。 「そりゃ言いたくもなりますよ。ちょっと厳しすぎると思いませんか?普通の高校で持ち物検査なんて聞いたことない」 「だから、寮生活をしてるんだからしょうがないだろ。お前、納得したんじゃなかったのか?」 「納得はしてません。だっておかしいし」 「そんなに人に見られたらまずいものを持ってるのか?しょうがないヤツだな」 「別にそんなもの持ってません。赤池先輩こそ実は持っていちゃまずいものを持ってるんじゃないですか?」 「おっと、お前やっぱり鋭いな」 「えっ!」 皆本がびっくりしたように目を丸くする。冗談のつもりで言ったのに、という気持ちがありありと見えたのか章三が吹き出した。 「お前、案外と可愛いな、いつもそうしてればいいのに」 からかい口調っで章三が言うと皆本はむっとしたように黙り込む。その表情は不機嫌そのものだ。 託生からすればべつに何てことのない会話なのだが、どうも皆本には勘に触るらしい。 やっぱり相性が悪いのだろうかと託生はうーんと唸ってしまう。 「ところで皆本はもう寮生活には慣れたか?確か兄貴が卒業生にいたよな」 ギイがそれとなく話題を変えると、皆本ははいとうなづいた。 「兄からとてもいい学校だって聞いてたし、両親も勧めてくれたので。寮生活なんてちゃんとやっていけるかなってちょっと不安だったんですけど、友達もできたし、毎日楽しいです」 「それは良かった」 「崎先輩はアメリカから留学してるって聞いたんですけど、どうしてわざわざ日本に?」 「んー?まぁいろいろ理由はあるんで一言では難しいんだけど、ここなら自分らしい高校生活が送れるかなって思ってさ」 どうしてギイがアメリカから?というのはおそらく学校中の誰もが疑問に思っていることだろう。 まさか託生に会うためだけにやってきたとは誰も思ってはいないに違いない。 「あの・・・赤池先輩は・・どうして祠堂に?」 皆本が歩み寄ろうとしてか章三にも尋ねる。 どうしてこの高校に?なんて、普通ならあまり交わされることのない話題だよな、と託生はぼんやりと思う。 祠堂は偏差値もそこそこ高いし歴史ある名門校ではあるけれど、何しろ立地が悪く全寮制だ。 不便極まりないこの高校を選ぶにはそれなりの理由があることが多い。 何となく、という生徒の方が少ないだろう。 託生自身も家族との折り合いが悪く、少しでも遠くへ行きたかったという理由がある。 入学したての頃は挨拶代わりに「どうして祠堂に?」とみんな言っていた。 「僕は、あれだな、父親の育成のためかな」 「え?育成?」 ぱちぱちと皆本が瞬きをする。 「そう。うちの親父は一人じゃ何もできない人なんで、そろそろ自立してもらおうと思ってね」 「・・・実家でまで風紀委員なんですか?」 どこまでの憎らしい皆本の物言いだったが、章三は気にした風もなく、 「あー、なるほど、言われてみれば確かに風紀委員だったのかもしれないな。そうか、なるほどねぇ」 何を思い出してか、章三は一人で納得したようにうなづく。 章三の父親に何度か会ったことがあるギイも思わず苦笑した。 「確かに章三の親父さんは章三に頼りっぱなしみたいに見えるけどな。けど、章三がいない時にはちゃんと一人でやってるんだろ?」 「やってくれてなきゃ困る」 「でも母親がいれば別に・・」 何気なく口にした皆本の言葉に、章三は 「うち、母親もういないから」 と、あっさりと言った。 それはギイも託生ももちろん知っていることではあるが、かといって同級生たち全員が知っている事実でもない。 変に同情されるのも面倒だしな、と言って章三もよほどのことがない限り、自分からそのことを言ったりはしないのに珍しいこともあるものだ、と託生は思った。 もっともこの話の流れでは隠しておくのもおかしな感じかもしれない。 皆本は章三の言葉に何とも言えない表情をしてうつむいた。 「だからまぁ、章三が口うるさいのは家で母親の代わりをしているからってのもあるんだろうなぁ」 のんびりとした口調でギイが言うと、 「誰が母親だ。っていうか、僕がギイに対して口うるさくなるのは、お前がいつも・・」 「はいはい、分かってるって。章三にはいつも感謝してます」 「適当だな、お前」 ギイと章三の丁々発止なやり取りはいつものことで、託生にしてみれば特に何も思うところはないのだが、二人がわーわーと言い合いをしている様子を、皆本は何だか思いつめたような顔をして眺めていた。 30分ほどで夕食は終わり、空になった皿を乗せたトレイをカウンターに戻すと、ギイと章三は談話室へ寄ると言ったので、その場で二人と別れた。 皆本と二人になり、託生ははーっと肩を落とした。 「えーっと、ごめんね、ギイと赤池くんっていっつもあんな感じで言いあってるけど、別に仲が悪いってっわけじゃなくてむしろすごく仲がいいっていうか。でもちょっとうるさかった?」 食事の後半は無言になってしまった皆本が気になっていた託生はそれとなくフォローを入れてみる。 皆本と章三が仲良くなればいいと思っての食事会だったのに、ギイと章三ばかりがうるさくしていてあまり話ができなかったようにも思う。まぁそれはいつもののことと言えばそうなので、普段通りの姿を見てもらえたという点ではよかったのかもしれないのだが。 もうちょっと章三と皆本の会話が弾むように何とかできればよかったのに、と託生は自分のスキルの低さにがっかりする。 「赤池先輩って、崎先輩と仲がいいんですね」 「去年同室だったしね。相棒だもん、仲はいいよ」 「相棒・・・あの赤池さんにもそういう人がいるんですね」 あの、っていうのはどういう意味だろうか。 「あのさ、皆本くんは赤池くんのこと嫌いなの?」 「・・・」 直球勝負で聞いてみると、皆本は少し考えたあとで小さく言った。 「・・・苦手です」 やっぱりそうか、と託生は低く唸った。いや、別に自分が嫌いだと言われたわけでも何でもないのだから困ることなど何もないのだが、やっぱり人には相性というものがあるのでこればかりは仕方がないのだろうか。 「ごめんね、何だか無理やり付き合わせちゃって」 「いえ・・・」 「苦手なのは仕方ないけど、でも赤池くんはすごくいい人だから、できれば嫌いにはならないで欲しいな。たぶん、委員会で話をしていくうちに、きっと仲良くなれる日もくるからさ」 「そんな日、来るでしょうか」 眉をひそめて皆本が首を傾げる。 それは、努力次第だろうと思うが、人との関係は努力じゃどうにもならないこともある。 「・・・赤池くんと仲良くなりたいなぁって思ってくれれば、きっとそうなれるよ」 託生が言うと皆本はやっぱりちょっと怒ったような表情を見せて、それからぺこりと一礼をするとそのまま寮へと戻っていってしまった。 「失敗かなぁ。やっぱりぼくの力じゃ無理だったのかなぁ」 これがギイだったらもっと上手く二人の仲をくっつけてくれたのかもしれない。 皆本と別れたあと、託生はトボトボと談話室へと向かった。 ギイと章三は自販機のコーヒーを飲みながら何やら話し込んでいた。託生に気づくと、手をあげてこっちへ来いと誘ってくれる。 「皆本は帰ったのか?」 「うん」 「何だよ、元気ないな」 「だってさ」 言い淀むと、ギイはしょうがないなというように肩をすくめ、章三は不思議そうに首を傾げる。 「皆本くんが赤池くんと仲良くなれればいいなぁって思ってたんだよ。でもダメだった」 「それ、今ギイに聞いたんだけどな、葉山にしてはずいぶんと積極的なことを考えたもんだと感心してたんだ」 章三が笑う。 「そんな落ち込んだ顔するなって、別に皆本と仲違いしてるわけでもないし、相性の悪い後輩がいるからってどうってこともないし、そこまで頑張ってくれなくても・・・」 「分かってるよ、そんなこと。だけど、さっき思ったんだけど、皆本くんも本当は赤池くんと仲良くしたいと思ってるんだよ。だけどそういうの、上手く表に表せない人もいるだろ?」 「託生みたいに?」 横からギイが混ぜ返す。 「そう、ぼくみたいに・・って、そうじゃなくて!もう、ギイってば、おかしな茶々入れるなよ」 「はは、悪い悪い」 「だからね、きっと口では憎たらしいこと言っても、それは本心じゃないと思うから、仲良くなれればいいなって思ったんだよ」 必死に言い募る託生に、章三は分かった分かったと両手を上げた。 「葉山の言いたいことは分かった。僕だって皆本の憎まれ口が全部が全部本心だとは思ってないし。けどまぁ無理して親しくなる必要もないだろ・・っていうか、あいつも普段は素直なくせして、僕と話すとあんな風になるわけだから無理して近づかない方がいいかなとも思うしな」 「・・・」 「だけど、葉山が頑張ってくれたのはありがたく思ってるから、そんな落ち込んだ顔するなって」 「別に落ち込んでるわけじゃないよ。ただ、やっぱりぼくにはこういうの向かないのかなぁと思ってさ」 「やっぱり落ち込んでるじゃないか」 ギイがからりと笑う。 「託生が向かないっていうよりは、こういうことは誰にも無理なことなんだって。何とかできるのは当事者だけ。章三のスタンスは中立なわけだから、あとは皆本がもっと素直になってくれればなぁ。な、章三」 「さてね、僕は別にどっちでも」 軽く肩をすくめた章三に、あーあと託生はがっくりと肩を落とした。 ギイにはもう皆本には関わるなとやんわりと釘をさされたが、はい分かりましたと素直に引くのもちょっとしゃくな気がしたので、あまり無理せずこれからも何かあれば力になろうとこっそりと決めた。 章三は皆本との仲を意識して近づけようとすることはなかったが、それでも寮や校内で顔を合わせると、皆本に声をかけてたりして、少し気にはしているようにも見えた。 皆本は皆本で相変わらず表情は硬いままではあったけれど、話しかけられれば一言二言返事をするようになっていた。 託生にもちゃんと挨拶をするし、ギイには言わずもがなで愛想もいいくせに、章三の前だと露骨に眉を顰めるのだから、困ったものである。 その日、図書室の当番を終えて鍵をかけて寮へ帰ろうとしたところへ、章三がどこか慌てた様子でやってきた。 「あれ、赤池くん」 「葉山、もう鍵かけたか?」 「うん、どうしたの?あ、返却する期限忘れてたとか?」 ギイもよく持ち出し禁止の本を女史に頼み込んで借りておいて期限を忘れるということがよくあるので、それくらいのことでは驚かない。 「いや、忘れ物なかったかと思ってさ」 「忘れ物?何を忘れたの?」 言いながら、託生は今閉めたばかりの扉の鍵を開ける。放課後、章三が図書室にやってきて、明日の課題をやっていたのは知っている。たいていは寮の部屋で予習はするのに珍しいなぁと思ったものだ。 「万年筆なんだけどな」 「万年筆?」 そんな忘れ物あったかな?と託生は首を傾げる。 部屋の電気をつけて、カウンターに置かれた忘れモノ箱の中を探ってみる。 シャープペンシルや消しゴムの類はよく落ちていたり忘れられたりでたくさん入っている。みんなどこで無くした分からないままであきらめてしまうことも多いからだ。 「今日忘れたんだよね?」 「筆箱落とした時にどこかに紛れたかもしれないな」 章三は座っていた席の辺りをきょろきょろと探していたが、どこにも万年筆はなかった。 「どんな万年筆?」 「赤いやつ」 「赤?」 これまた珍しい。 ギイも万年筆を使っているけど、もっとシックな色だった。男の人で赤い万年筆って珍しいよね。 「困ったな」 「大事なものなんだ」 「あー、母親が使ってたものなんで、まぁ形見というか何というか・・」 さらりと言った章三の言葉に託生の方がびっくりする。 「え、それはめちゃくちゃ大事なものじゃないか。どうして忘れたりするんだよ」 章三の母親がずいぶん以前に亡くなっていることは知っている。その母親が使っていた万年筆だとしたら簡単に諦めていいものではない。 託生は章三が座っていたという席のあたりに膝をつくと、低い姿勢で床の上に目を凝らした。 「葉山、いいよ。誰かが忘れ物で届けてくれるかもしれないし」 「だけど、落とした拍子にどこかに飛んでってるかもしれない」 落としたものは思いもしないところへ転がっていくこともある。 どれだけ探しても見つからず、章三に促されて託生は立ち上がった。 「誰かが拾ったのかな。だけど、それなら落とし物入れの箱に入ってそうなものだし」 託生がおかしいなぁとつぶやくと、章三はしばらく何かを考えたあと、ふーっと息を吐いた。 「もう帰ろう、葉山。悪かったな、時間取らせて」 「そんなこといいんだけど、明日もう一回探してみよう」 「そうだな」 図書室を出ると、章三はしみじみと託生を見つめた。 「なに?」 「いや、ありがとな、葉山」 「え、何だよ、改まって」 そんなに改まって礼を言われるようなことじゃないし、と託生はやけに優しい目をしている章三に戸惑う。 それにしても、いったいどこへ行ってしまたのだろうか。 託生は放課後の様子を思い返した。章三が座っていたあたりに誰かいただろうか。 もしかしたら何か覚えているかもしれないし、と頼りない記憶を辿ってみる。 今日はどういうわけか図書室は大繁盛で割と出入りが激しかった。 返却される本も多くて、託生は何度か書架にも出向いた。 「あ」 「うん?」 何でもない、と託生は首を振った。そういえば、章三の座る席の後ろの席に皆本がいたなと思い出したのだ。 その時は、何でそんな近いところに座るのかなと思ったのだ。 たまたまだったとは思うけれど、章三のことが苦手ならもっと離れたところに座ればいいのに、と。 もっとも、章三は自分の課題をすることに集中していたので、皆本の存在に気付いているのかいないのか、一言も言葉を交わすことはなかったと思う。 そのあと章三の方が先に図書室を出て、それからしばらくしてから皆本も出て行った。 後ろの席に座っていたのなら、章三が筆箱を落としたことも知っているだろうし、もしかしたら赤い万年筆が落ちたところも見ているかもしれない。 まさかとは思うけれど、皆本がそれを持ってるということもあるのだろうか、と思い、託生はそれはないよね、と否定してみる。 もし皆本が章三が落とした万年筆を拾ったとしたら、そのまま返せばいいだけのことだ。 だけど、考えたくはないけれど、もし嫌がらせをするつもりで拾ったまま返してないなんてことはないだろうか。赤い万年筆なんてどう考えても男が使うにはおかしいし、皆本は章三の母親が亡くなっていることも知っていて、それが形見かもしれないと気づいてもおかしくはない。 章三が大事にしているものだからこそ、拾ったまま知らぬふりをして嫌がらせを・・・ 「いや、まさかそんなことするとは思えないよな」 思わず声に出てしまい、はっとした。 寮の部屋に戻ってからもずっとあれこれ考えていた託生は、ベッドに横になってもなかなか眠ることができずにいた。赤い万年筆の行方を考えると目が冴えて仕方がない。 「どうした?眠れないのか?」 託生の声を拾ったギイが、暗闇の向こうから聞いてくる。 託生は寝返りを打つと、ちょっと気になることがあってと言った。 「こっち来る?」 「ううん。大丈夫。ねぇギイ、皆本くんのことなんだけどさ」 「お前、まだあの二人を仲良くさせようと思ってるのか?もう放っておけよ」 呆れたようなギイの声色に、託生はむっと唇を尖らせる。 「分かってるよ。そうじゃなくて、皆本くんて、もしかして赤池くんのことをめちゃくちゃ嫌ってて嫌がらせとかするようなタイプだと思う?」 思い切って託生が聞くと、向こう側のベッドがぎしっと音を立てた。 どうやら託生の方へと寝返りを打ったようだが、部屋が暗くて表情までは見えない。 「・・・あいつはそういうことはしないと思うけどな」 ぼそっと言ったギイに、託生はほっとする。 「だよね。うん、そうだよね」 「ていうかさ」 「うん?」 「やっぱりこっち来て、託生」 いくら恋人同士でも毎晩同じベッドで寝るわけではない。何しろベッドは狭いし、夏は暑くてかなわない。 もちろんたまには一緒に寝ることもある。そういう時はベッドに入る時から一緒なので、もう寝ようという頃に誘われることは滅多にない。 「おいで、託生」 「いいけど」 身体を起こしてほんの数歩でギイのいる場所へと辿りつく。そっとギイの隣に滑り込むと、素早く壁際へと場所を譲ってくれた。 「何を悩んでるのか知らないけど、もう寝ろ」 「うん」 「心配したって、なるようにしかならないから」 それは大丈夫だというのだろうか。 それでもギイが大丈夫と言えば、根拠もなく大丈夫だと思えるのが不思議だ。 託生はもぞもぞとギイのそばへとすり寄ると、ぎゅーっと胸元に顔を押し付けた。 「おせっかいだなって思ってる?」 「まぁな」 苦笑しつつ頷かれて、託生も笑う。 「だけどまぁ、そういうのが託生らしいんだろうなって思うからさ。オレは託生みたいにいい意味でのおせっかいってできないからさ」 「そうかな」 何だかんだ言っても、ギイも困っている人を放ってはおけない人じゃないかと託生は思っている。 「ありがと、ギイ」 「何もしてないだろ?」 そうかもしれないけど、そうじゃない。 もし本当に余計なお世話をしているのだとしたら、ギイはもっときつくやめろと言うだろう。 関わるな、なんて言いながらも託生がすることを遠くから見守っていてくれるような気がするのは気のせいじゃない。もし本当に踏み込みすぎた時は、きっとギイがストップをかけてくれるのだろう。 自分だけでは見えない自分を、ギイがちゃんと見てくれていると思うと心強くて勇気が出る。 「よし」 明日、皆本に確かめてみよう。 きっと考えすぎだとは思うけれど、だけどもやもやした気持ちのままではいたくない。 ギイがするっと託生の髪を撫で、そのまま静かな寝息を立て始めた。 それにつられるようにして、託生もまた眠りについた。 放課後、託生は皆本の教室へと出向いたが、そこに姿はなかった。 近くにいた同じクラスの生徒に聞いてみると、授業が終わるとすぐに出て行ったとのことだった。 「遅かったか」 「皆本なら図書室ですよ」 がっくりと肩を落とした託生に、1年生が教えてくれた。 「借りてた本の返却期限とか何とか言ってたと思います」 「ほんとに?ありがとう」 昨日に引き続き図書室か、と託生は小走りで図書室へと向かった。本当はダッシュしたいところではあるが、章三あたりに見つかるとしこたま怒られるだろうと我慢する。 すっかりお馴染みとなった図書室扉をの静かに開けると、中はまだそれほど人はいなかった。ぐるりと見渡すと、昨日座っていた場所と同じ場所に皆本は座っていた。 真剣な顔をして勉強中か、と一瞬声をかけるのを躊躇った託生だが、その手元に赤い万年筆が握られているのを目にすると、思わず声が出そうになって息を飲んだ。 見たことはないけれど、あれはどう考えても章三が探していた万年筆ではないか。 あんな赤い万年筆、どう考えても自分のものだと言うには無理がある。 それが章三の大切なものだと知っていて、返さなかったのか。それとも何か悪意あってのことだろうか。 どちらにしても返してもらわなくてはならない。 「皆本くん」 できるだけ控えめに声をかけると、皆本ははっとしたように顔を上げ、託生を見ると明らかに慌てたように手にしていた万年筆をノートの下に隠した。 「あ、葉山先輩、こんにちわ」 「こんにちわ。皆本くん、今使ってた万年筆って、皆本くんの?」 「・・・え・・っと・・」 口ごもる皆本に、託生は何ともやるせない気持ちになった。 他人のものと勝手に自分のものにしてしまうような人ではないと思っていたのに、やっぱり皆本が託生は皆本の前の席に座ると、周囲には聞こえないくらいの小さな声で言った。 「見損なったよ、皆本くん」 「え?」 「昨日、赤池くんが図書室で赤い万年筆を無くしてしまって、ずっと探してるんだよ。さっき使ってたの、赤池くんのものじゃないのかい。あれは赤池くんにとってはすごく大切なものなんだ。どうしてすぐに・・」 だんだんと声が大きくなってきたことに、皆本が託生をさえぎる。 「ちょっと待ってください。違うんです、あの・・」 「何が違うんだい。ちゃんと説明してくれよ」 託生が強く言うと、周囲の生徒が何事か?と興味津々な視線を向けてきた。皆本はその視線に気づいてさすがにまずいと思ったのか、慌てて立ち上がった。 「あの、ここじゃ目立つから、外に出てもいいですか?」 「そうだね」 手早く机の上の荷物を片付け、皆本は早く行きましょうと託生を促した。 図書室をあとにして、そのまま人気のない中庭へ出た。 周囲に誰もいないことを確認してから、託生は一つ深呼吸をした。 「皆本くん、あの万年筆は赤池くんのだよね?」 「・・・・そう、です」 「どうして拾った時にすぐに返さなかったの?赤池くん、すごく探してたのに」 「えっと・・・ちょっとタイミングを外しちゃって・・・」 嘘っぽい。 拾えばすぐに「落ちましたよ」と言えばいいだけのことじゃないか。 疑いに満ちた託生の視線に耐えられなくなったのか、皆本はすみません、と小さく言った。 「ちょっと・・・借りるつもりで、すぐに返そうと思ってました。赤池先輩が大切にしてるものだって分かってたし」 「・・・赤池くんに嫌がらするつもりとかじゃないよね?」 「え?ち、違います。そんなことしません」 ぶんぶんと首を横に振る皆本が嘘をついているようには見えない。 皆本が泣きそうな顔をしていることに気づいて、託生ははっとした。 託生は決して威圧感のあるタイプではないものの、さすがに上級生から詰め寄られては下級生である皆本が怖がっても仕方ない。 何しろ中庭には他に人もいないし、これじゃあまるでイジメているみたいではないか。 「あっ、ごめん。皆本くんのこと疑ってたわけじゃないんだけど・・・って、いやでもちょっともしかしたら、って思ってたのは事実なんだけど・・でもいくら赤池くんのことが嫌いだからって、まさかそんなことはしないって・・・」 「嫌いじゃないです」 必死に言い募る託生に、皆本はぼそりと言った。 「別に、赤池先輩のことは嫌いじゃないです」 「え、あ、そうなの?でもいつも可愛げのない態度を・・って、あ、ごめん」 ついぽろりと口から出た託生の言葉に皆本は一瞬瞠目して、それからぷっと吹き出した。 「可愛げないですよね、確かに」 「ごめん、ぼくに対してというよりは赤池くんや柴田先輩とかにはあんまり可愛い態度取ってないって聞いてたから」 「別にわざとじゃないんです」 「うん、そうだよね」 「柴田先輩も赤池先輩も、年齢は1つ2つしか違わないのに、何ていうか全然違うし。敵わないなって思うことが多いから、つい意地になるっていうか」 確かにあの二人は落ち着いているというか老たけている。 入学したての1年生からすれば、ずいぶんと違う人種に見えるかもしれない。 皆本はカバンの中を探ると、赤い万年筆を取り出した。 「あの、赤池先輩に返しておいてもらえますか?」 「・・・どうしてすぐに返さなかったの?」 ずっと不思議に思っていたことを聞いてみると、皆本は少し困ったような表情を見せた。 「ちょっと・・おまじないというか何というか・・・」 「おまじない?」 「いいんです。すみません、すぐに返さなくて」 差し出された万年筆を受け取って、託生はまじまじと皆本を見つめた。 「自分で返した方がいいんじゃないかな。ちゃんと理由も言って。赤池くん、ちゃんと理由を聞けば怒ったりするような人じゃないし」 「・・・すみません、あの人に理由は言いたくないです」 うつむく皆本の首筋がうっすらと赤くなっているのを目にして、託生はうーんと考えた。 「皆本くんが拾ってくれてたことは言っても大丈夫?」 「かまいません」 よろしくお願いします、とぺこりと頭を下げて、皆本は小走りにその場から去っていった。 手の中に残った赤い万年筆。 章三の大切なものが戻ってきてよかった、と思う反面、正直に皆本が持っていたと言うべきか、それとも何か適当な理由を・・・ 「だめだ、あれだけ図書室を探して見つからなかったのに、いきなり見つかったなんて怪しまれるだけだ」 仕方がない。拾っておいてすぐに返さなかった皆本の心証は悪くなるかもしれないが、嘘をついてもすぐに見抜かれてしまうだろう。 とりあえず章三が皆本に対して怒ることは仕方がないとして、何とか穏便にすむように頑張ろう。 とにかく早く章三を安心させてあげなければ、と託生は寮へと歩き出した。 章三は自分の部屋にいて、めずらしくベッドに横になって本を読んでいた。 めずらしく、というのは本を読んでいることではなく、ベッドに横になって、というところである。 いつもぴしっとしていて、だらしないことなどしないイメージのある章三が、脱力感満載でのんびりしている姿を見ると逆に新鮮だ。 「よぉ、葉山、どうした。ギイは一緒じゃないのか?」 「うん。赤池くんがだらだらしてるの珍しいね」 「僕だってだらける時はある」 言いながら起き上がり、託生にコーヒー飲むか?と聞いてくれる。 「赤池くん、昨日無くしたっていってた万年筆ってこれかな?」 胸ポケットから取り出した赤い万年筆を差し出すと、章三はびっくりしたように目を見開いた。 「どこにあったんだ?」 「えっと・・・皆本くんが拾ってくれてて、ぼくから返しておいてほしいって、さっき受け取ったんだ」 「そうか」 章三は万年筆を受け取ると、ほっとしたように微笑んだ。 「大切なものなんだから、もっと気をつけた方がいいよ」 「おっと、葉山に説教されるとは。でも確かにその通りだな。引き出しに入れて持ち歩かないようにするよ」 そう言って、机の引き出しを開けると、章三はそっと万年筆をしまった。 そしてポットのお湯をマグカップに注ぎ、出来上がったインスタントコーヒーを託生へと手渡した。 章三の部屋にはけっこうな頻度でお客さんが来るので、カップの数もコーヒーの種類もかなりのものだ。 「皆本、何か言ってたか?」 「え?」 いきなりそんなことを聞かれて、託生は思わず咽そうになった。 「あいつ、直接僕に返しにくればいいのにな」 「えーっと、昨日拾ったんだけど、返すタイミングを逃しちゃったみたいで、えっと・・・別にわざと返さなかったとかそういうことじゃないみたいで・・・」 「・・・」 じーっとぼくを見ている章三の表情からは何を思っているのかは読み取れない。 彼はギイと同じくらいポーカーフェイスだったりするのだ。 だけど別に嘘はついてない。微妙に核心には触れてないけど。だいたいおまじないとかわけの分からないことを章三に言ったところで不審がられるだけど。 託生がだまりこんでいると、章三はふっと笑って、軽く肩をすくめた。 「まぁいいか。無事に戻ってきたのならそれでいい。明日にでも皆本には礼を言っておくよ」 「うん、そうしてあげて」 「葉山」 「はい?」 「ありがとな、いろいろと動きまわってくれたんだろう?」 もしかしてバレているのだろうか。いやまさか。でも章三だし。 「あの・・・赤池くん、皆本くんは別に赤池くんのことを嫌いじゃないって」 「ああ、知ってるよ」 「ほんとに?」 「意地っ張りなだけだろ?」 「うん、たぶん」 嫌っているわけじゃなくて、たぶんちょっと気後れしてるだけなのかもしれない。 もっとも、だからといって万年筆を返さなかった理由もおまじないの意味も分からないけれど。 「葉山っていいヤツだったんだなぁ」 「何だよそれ」 しみじと言われてちょっと恥ずかしくなる。 去年も同じクラスだったけど、ほとんどと言っていいほど話はしなかった。託生が一方的に避けていたからだ。 まさか2年になって、ギイのおかげで嫌悪症が治って、こんな風に章三と二人きりで寮の部屋でいても気まずさを感じることなく過ごせるなんて想像したこともなかった。 ましてや「ありがとう」だなんて。 そんなこと、今まで誰かに言われたことがなかったからどうしていいか分からない。 「おい、何赤くなってんだよ」 「赤池くんが変なこと言うからだろっ」 「お前、部屋に戻るまでにそれ何とかしろよ!ギイにおかしな誤解されたくないからな」 分かってるけど顔が火照って仕方ない。 赤い顔をして帰ったりしたらギイに何を言われるか分かったもんじゃない。 託生はしばらく章三の部屋で時間をつぶして、それから305号室へと戻った。 それからも相変わらず皆本は意地っ張りな態度で章三や柴田先輩を困らせたりはしているようだったが、問題になるほどの大きな衝突もなく後期も風紀委員になったようだった。 苦手なら委員にならなければいいのに、とも思ったが、ああいう委員は一度やると次もまた押し付けられてしまうものなので皆本も渋々引き受けたのだろうと思っていた。 あの万年筆の一件について、章三が皆本と何か話したのかどうかは託生は知らないままだったが、たまに皆本と食堂で同じ席になると、 「皆本、にんじんもちゃんと食べろ、お前も葉山と同じ子供舌なのか」 「別ににんじんが食べられなくてもちゃんと育つからいいんです」 「それ、葉山も言ってたよな」 などと章三が揶揄う様子からして、二人の間でわだかまりが残るようなやり取りはきっとなかったのだろう。 ぶつぶつ文句を言いながらも、皆本は最後の最後に嫌いなにんじんを無理やり飲み込み、もっと美味そうに食べろと章三は眉をひそめる。そんなちょっとくだけた会話ができる程度には二人の仲は進展(?)したようで、託生としては何だか嬉しく思えた。 「あの二人、仲良くなれたみたいで良かったね」 託生がこっそりとギイに言うと、ギイはそうだなとあまり興味なさそうに頷いただけだった。 何だよギイてば冷たいな、と託生は少しばかり不満に思ったが、もともと二人のことにはさほど興味を示していなかったので、それも仕方ないかとも思った。 しかし、その時分からなかったことのすべてがすっきりと分かったのは、冬も近くなった11月、級友の野沢政貴と1年の駒澤瑛二との騒動が一段落した夜だった。 奈良先輩のゼロ番での宣戦布告を少しばかり不安に思いながらも、ギイに交換条件を果たせと迫られて、アルコールが入ってふわふわとした気持ちでベッドに入り、ひとしきりギイとキスしていたその真っ只中にふと思い出したのだ。 好きな人のペンでその人へのラブレターを書くと恋が実る 駒澤がしていたおまじない。 何てロマンティックなおまじないだろうと思い返し、そういえば以前にも似たようなことなかったか?と託生にしては珍しく何かが反応したのだ。 (ちょっと・・おまじないというか何というか・・・) 皆本が口ごもりながらつぶやいたおまじないという言葉。 すっかり忘れていたというのに、今回の一連の事件からふいに脳裏に蘇ったのだ。 あれはもしかして・・・ 「あああっ」 思わず叫んだ託生に、ギイがぎょっとしたように顔を上げた。 「何だよ、いきなり叫ぶなよ、びっくりするだろ」 「だって・・ねぇギイ、覚えてる?1年の皆本くんが赤池くんの万年筆を拾ったことあっただろ?」 「・・・あー、あったかな、そんなこと」 しれっと首を傾げるギイに、託生は白々しい!と軽く肩を叩く。 「ギイが覚えてないわけない!ちゃんと報告もしただろ」 託生は中途半端に脱がされていたシャツの胸元を合わせながら、やや興奮気味に起き上がった。 「あの時すごく不思議だったんだよ。どうして皆本くんが拾った万年筆をすぐに赤池くんに返さなかったのか。おまじないってどういう意味だろう、とか。そっか・・・おまじないだったんだ」 あの時。 託生が皆本を探して図書室に入った時、彼は章三の万年筆で何かを書いていなかったか。 慌ててそれを隠した姿が鮮明に思い出された。 埋まらなかったパズルのピースがぴたりぴたりと嵌っていくような不思議な感覚に鳥肌が立ちそうになった。 駒澤がそうしたように、あの時、皆本も章三の万年筆で恋文を書いていたのだとしたら? 「あれって、そっか・・え、ちょっと待って、じゃあ皆本くんって赤池くんのこと好きだったの?」 「・・・オレに聞くなよ、そんなこと」 「ギイ、もしかして知ってたの?」 さてね、とギイはふいっとあらぬ方向を向く。 「ギイってば!知ってたんだろ。皆本くんが赤池くんのことを好きだって。いったいいつから知ってたの?まさか赤池くんも知ってるなんてことあるの?ねぇってば、ギイ」 「あー、うるさい」 「わっ」 ギイが長い腕を伸ばして託生を身体の下へと引き倒した。 「何するんだよ、ギイ」 「オレは人の恋路には不干渉っていつも言ってるだろ」 それは何度も聞いているけれど、だけど今回の政貴のことだって、最後の最後にはギイはちゃんと協力をしていたじゃないか、と託生は思う。 実際のところ、ギイが協力するのは託生が絡んでいる時だけなのだが、託生はまったくそんなことには気づいていない。 それにしても、やっぱりギイは最初から知っていたのか、と託生は唖然としてしまった。 二人のことに興味がなさそうに見えていたのは、皆本の気持ちを知っていたから、だからあまり関わり合いになろうとはしなかったのだ。 「何も知らなかったのはぼくだけってこと?ギイも赤池くんも皆本くんの気持ちを知ってたの?」 「章三がどうかは知らないが、まぁオレは最初からもしかしたらそうかもなぁとは思ってた。すっげぇ分かりやすいもん、あいつ。最初からそんな気持ちだったかどうかは知らないが、好きな相手についつい憎まれ口叩いたり、愛想のない態度を取ったり。小学生みたいな反応示してたからさ」 「赤池くんに反抗的だったのは照れてたからってこと?」 いつもいつも、皆本は章三の前ではむっとして可愛げのない態度ばかりで。 何かと言えば突っかかって、それは今も変わらないと章三からは聞いている。 そんなすべては単に好きな人の前だったからだなんて信じられない。 だけど皆本は章三のことが苦手だと言ってなかったか?嫌いじゃないけど苦手。 それはいったいどういうことだ? 「だからさ、まさか男に惚れるなんてって葛藤もあったんだろう。会えば惹かれるけど、でも相手は男だしって普通なら悩むだろうし、自分の気持ちをそんな風に揺らす相手を苦手だと思っても不思議じゃない。だけどまぁ皆本のは恋心ってよりも憧れの延長っぽい気もするけど、おまじないするくらいなら本気なのかね。困ったもんだ」 と言いながらも、ギイはどこか楽しそうだ。 同性との恋愛なんて論外だと言い切る章三に思いを寄せるなんて。間違っても成就することのない恋はちょっと可哀そうにも思う。とはいうものの、相手が章三だけに託生としても皆本を積極的に応援してやることもできない。 「まぁ章三も敏いヤツだから、皆本の気持ちには薄々は気づいてるんだろうけど、だからって間違っても受け入れることはないだろうし。でもだからってあからさまに拒否するようなこともしないだろうから、生殺しっぽくて逆に皆本には酷だよな」 「そっか・・・そうだったのか」 それにしてもあのおまじないはそんなに有名なものなのだろうか。 成功例とダメな例の両方を知ってしまった今、果たしてあのおまじないが有効なものなのかどうか、謎は深まるばかりである。 「たーくーみー。もういいだろ。政貴のことも、皆本のことも、お前があれこれ考えたって仕方ないんだから」 「わかってるよ」 「じゃあもうそろそろオレに集中してくれませんかね」 焦れたようにギイがちゅっと託生の頬にキスをする。 「うーん、でも気になるんだよね」 「なにが?」 「あのおまじないだよ。今のところ一勝一敗だろ?実際に効果があるのかどうか、すごく気になる」 「・・・おまじないなんて所詮おまじないだろ?」 言外に、当たらないからおまじないだろう、というニュアンスが溢れているあたりがギイらしい。 「試してみようかな」 「は?お前、何のために?ていうか、誰に片思いする気だ。おまじないの意味わかってんのか?」 こいつはーとぎゅうぎゅうと力いっぱい抱きすくめられて、託生はくすくすと笑う。 「ギイの愛用のペンを借りて恋文を書くよ」 「そんなのすでに成就してるんだから、おまじないのお試しにならないだろ」 当然のように言われて、託生は胸の奥がじわりと熱くなった。 好きな人から同じように好きだと思ってもらえるのはすごく幸せなことだから、皆本の想いも叶えばよかったのになと思うけれど、何しろ相手が章三というところでもう望みはない。 だけどいい先輩後輩としてなら、きっとこれからも付き合いは続いていくのだろう。 それにしてもおまじない。 やっぱり効果のほどを知りたいものである。 いつか身近な人が恋に悩むようなことがあれば、このおまじないのことを教えて、その結果を教えてもらおう。 たぶんギイはぜんぜん乗ってこないだろうから、こっそりと。 そんな託生の考えを見抜いたのか、ギイがしょうがないなというように笑った。 |