思い出


年末になると、日本へ留学しているギイが戻ってくる。
休み直前に風邪を引いてしまったと言われ、もしかしたら帰国が遅れるんじゃないかと心配したけれど、何とか回復をして、約束通りNYの自宅へ戻ると連絡があり、ほっとした。
毎年元旦に行われるフットボールの試合を一緒に見に行くのは恒例行事で、それをキャンセルされるのは絶対に嫌だったのだ。
友達からブラコンだといつも笑われているし、自分でもその自覚はある。
それでも幼い頃に比べたら兄離れはできてきていると思う。
何しろ昔は絶対にギイのお嫁さんになると決めていたくらいなのだから。
ギイも私のことをすごく可愛がってくれたし、特別な存在だからといつも笑って言ってくれた。
もちろん今はお嫁さんだなんて本気で思っているわけではないけれど、それでもギイは私にとっては一番素敵な男の人だった。
例えボーイフレンドが両手では足りないくらいにいたとしても。



「ただいまー」
どこか疲れた声でギイが扉を開けて姿を見せた。
まるでちょっとご近所へでも出かけていたかのような身軽な格好で、4ヶ月ぶりとは思えないごくごく普通の様子で。
「おかえりなさい、ギイ」
ソファから立ち上がり、思わず駆け寄って飛びついた。
危なげなく私の身体を受け止めたギイは
「何だ、ずいぶんと熱烈歓迎なんだな」
と、苦笑しながら、私の髪をくしゃりと撫でて、頬にキスしてくれた。
少し身を屈めたその姿に、ギイの背がまた伸びたことを知る。目線を合わせるのに顎を上げるのって、ちょっといいなぁなんて思ってしまう。
「絵利子がこの時間に家にいるなんて珍しいこともあるもんだ」
「あら、最近はちゃんと家にいるわよ。真面目に勉強してるんだから」
「へぇ、そりゃすごい」
どういう風の吹き回しなんだろうなぁとギイが揶揄するような目を向ける。
別に勉強することが嫌いなわけではない。
ただ、頭が良すぎるのもいろいろと大変だということはギイを見ていると何となく分かるので、私はそこそこの成績で進級できればいいと思っているだけだ。
ギイがあまりにも優秀すぎるせいか、父さんも母さんも私にはそれほどうるさく勉強をしろとは言わない。
女の子だから、ということもあるかもしれないけれど、勉強だけがすべてじゃないということをちゃんと理解してくれているからだと思う。
もちろんギイだってうるさく言われていたわけじゃない。
なのに勉強大好きなんだよね、ギイは。あっという間に大学まで行っちゃうんだから。
「母さんたちは?」
いつもなら一番に現れてギイを迎えるであろう母さんの姿が見えないことを、さすがのギイも不思議に思ったようだった。
年中忙しくしている父さんに付き合って、母さんも家にいないことの方が多いのだけれど、大事な一人息子であるギイが帰ってくる時は、予定を合わせて家にいるのが常なのだ。
「出かけてるわ。お父さんと一緒。明日には帰ってくるけど、2人ともギイに会いたがってたわよ」
「ふうん。で、どこに行ったんだ?」
「知らない」
「知らないって、お前」
ギイが呆れたようにため息をつく。
だって、聞いたかもしれないけど忘れてしまったのだ。しょっちゅうアメリカ中、いや世界中を飛び回ってるんだから、行き先なんていちいち覚えていられない。
「ねぇそんなことよりギイ、風邪は治ったの?フットボールの試合、一緒に行けそう?」
ギイの手を取って、今まで座っていたソファに腰を下した。
すぐにメイドの一人がギイのために温かいコーヒーを運んでくれる。
ギイはありがとうと言って、カップを手にした。
「大丈夫。もう治ったから」
「ギイが風邪引くなんて珍しい」
「まったくだ。だが、おかげで・・・」
「おかげで?」
言いかけて口を閉ざしたギイは、何でもない、とどこか嬉しそうに目を細めた。
夏に帰国したときにも思ったのだけれど、ギイはどこか雰囲気が変わった。
昔から年齢よりもずっと大人びていて、優しい人には違いないけれど、ギイの中にどこか世の中を冷めた目で見ている部分があることを私は知っている。
誰にも気づかれないようにしているけれど、ギイと同じ血を引いている私にもそういう所があるからよく分かるのだ。
けれど、夏休みに会った頃から、ギイはすごく穏やかに笑うようになった。
何だか幸せオーラが溢れ出ているというか、何かいいことあったのかなって思うような笑顔。
日本へ留学して、何かがギイを変えたのだ。
だいたいとっくに大学を卒業しているのに、今さら日本の高校に留学したいだなんて言い出して、みんなをびっくりさせたのが2年前。
もちろん最初はみんな反対したのだ。特に母さんと私。
だって日本の、それもずいぶんと山奥の全寮制の男子校だなんて、どう考えてもギイには似合わないと思ったから。
NYの華やかな世界で上手に生きているのがギイには似合っていたし、本人だってそれを楽しんでいると思っていたのだ。
それなのに、どういうわけか日本への留学は誰が何と言おうと譲らなかった。
驚いたことに、父さんはギイの我侭に特に反対することなく、日本行きを許した。
陰でどういう交換条件が交わされたのかは知らないけれど、ギイにしてみれば父さんに一つ貸しを作った形になったはずだから、そのうちけっこうな代償を払わされるんじゃないか、と私は思っている。
親子でも、そういうところはシビアな家なのだ。
私はギイと離れるのが嫌で、それこそ泣き落としで「行かないで」と頼んだけれど、ギイは困った顔を見せながらも結局あっさりと日本へ留学してしまった。
何となくギイに裏切られたような気持ちにもなったけれど、少し距離を置くことで、ほんのちょっとだけど兄離れができたのだから、それはそれで良かったのかもしれないと、今では思っている。
あのままずっとそばにいたら、私は本当に兄離れができないままになりそうだったから。
それに、ギイが日本へ留学したことで、いいこともあるのだ。
「ギイ、あれ、ちゃんと買ってきてくれた?」
「あー、あれな」
ギイはすごーく嫌そうな顔をして、持ち帰ってきたカバンの中から紙袋を取り出した。
「きゃー、嬉しい!!まだNYじゃ売ってないの」
日本にいる時にずっと買っていた少女漫画。NYでも手に入るものの、やっぱり少し遅くなるし、割高だ。
ギイが日本にいれば発売と同時に買ってもらって送ってもらうことができる。
今回も、少しくらい我慢しろよ、と電話でギイに文句を言われたけれど、どうせ帰国するのだからお土産で買ってくるようにと約束させたのだ。
ぶつぶつ文句を言ってたギイだけれど、こうしてちゃんと買ってきてくれるのだから、やっぱり優しい。
「ありがとう、ギイ」
その肩に手を置いて、頬にキスする。
「いいけどな。でももう買わないからな」
「どうして?」
「あのな、男が買うような本じゃないだろ?けっこう恥ずかしいんだぞ、それ買うの」
ギイはうんざりしたようにため息をつく。
確かにどこからどう見てもキラキラの少女漫画だけど、別に男の人が読んだっておかしくはないのに。
少女漫画でも感動の大作があるってこと、ギイもいい加減認めて欲しいんだけどな。
「さて、と。疲れたからちょっと寝る。またあとでな」
「はーい」
ギイはコーヒーを飲み干すと、ソファから立ち上がって自室へと戻っていってしまった。
私もまたお土産の漫画10冊を手に、ほくほくと自分の部屋へと戻ることにした。




あと数日で新しい年がやってくる。
いつも忙しくしているギイもさすがにこの時期は大人しく家にいて、私の誘いにも付き合ってくれる。
ギイが帰省してから3日目。今日は久しぶりに一緒に買い物に行くことになっていて、私は朝からあれこれとデートのプランを考えていた。
いつまでたってもリビングにやってこないギイの様子を見に部屋に行くと、ギイは電話中だった。
薄く開いた扉から楽しそうな声が漏れ聞こえてくる。
「・・・くて寂しいだろ?」
からかうようなギイの口調に、電話の相手がどう答えたのか。
くすくすと笑うギイはやっぱり幸せそうで、だから何となく、その理由が分かってしまった。
「ああ、そうだな、うん・・・」
どこまでも優しい声。
そんな風に話すギイを見るのは初めてで、ちょっとびっくりしてしまった。
「・・・分かったよ。じゃあまた明日、電話するからな、おやすみ」
けれど、しばらくギイはまるでまだ何かを惜しむかのように受話器を置かなかった。
相手が切るのを待って、そしてそっと受話器を置く。
この時間でおやすみだなんて言うことは、相手は日本にいる誰かということになる。
切り際の「また明日」という言葉。
もしかしたらギイは帰ってきてから毎日その人に電話しているんじゃないだろうか。
だとすれば、それほどまでに大切な相手ということになる。
あのギイが自分から毎日電話をする相手。
「ギイ、用意できた?」
今来たフリをして、声をかける。
「ああ、行こうか」
振り返ったギイはいつも同じ笑顔で私を促す。
ギイはいったい誰と電話していたんだろう?
何となくもやもやとした気分のまま、久しぶりのデートへと出かけた。

街は新しい年を迎えるためにどこか浮き足立っている。
綺麗にディスプレイされたショーウィンドウや流れる音楽、どれもこれもこの時期にしか味わえないもので、クリスマスから新年にかけてのこの季節が、私は大好きだ。
賑やかな街を歩けば、すれ違う女の人たちがちらちらとギイへと視線を向けるのはいつものことで、私は内心うんざりしながらギイの腕に腕を絡めた。
自慢じゃないけど、私だってギイに似ていると言われることは何度もあって、つまり、それなりに整った容姿をしているので、ギイの彼女のふりをすれば、たいていの女の人は勝ち目がないと思って諦めていく。
今までも何度もそうやってギイに色目を使う女の人を蹴散らしてきた。
「どうした?」
「ギイといるともれなく鬱陶しい視線がついてくるのよね」
「そんな大げさな」
「自覚してるくせに」
「オレだって、絵利子といると嫉妬じみた視線を感じるんだけどな」
「そんな大げさな」
ギイの口調を真似すると、ギイはしょうがないなというように私の頭を軽く小突いた。
そんな風にふざけあうのも久しぶりで、やっぱりギイと一緒だと肩の力が抜けて、すごく楽でいられると実感する。
どこにいても、何をしていても、Fグループの崎という名は否応なくついて回るもので、別に今さらそれが嫌だなんて思ったりはしないけど、それでも時々すごく面倒に感じる時がある。
裕福な家庭に生まれたのは本当にたまたまでしかないのに、それを羨まれたり、嫉妬されたり。
私自身のことではないことであれやこれやと言われるのはたまったものじゃない。
贅沢だと言われればそれまだけれど、そんな複雑な心の内は、きっと同じような境遇の人にしか分からないと思う。
何も言わなくても、ギイは私のことなら何でも分かってくれる。
だから一緒にいて楽だし、甘えてしまう。ギイはギイでそんな私を妹だからと許してくれるし。
2人きりになれば、ギイはちゃんと私だけを見てエスコートしてくれる。妹だからって適当に扱うことなんてせずにちゃんと女の子として扱ってくれる。
そうやって私はどんどんギイっ子になって、みんなにブラコンだと笑われるのだ。
だけど。
「ねぇギイ、恋人できたの?」
買い物がひと段落して入ったカフェで、向かい側に座るギイに聞いてみた。
ギイは一瞬目を見開いて、さぁねというように曖昧な笑みを浮かべた。
「誤魔化してもだめよ。私にはちゃんと分かるんだから」
「じゃあ聞くなよ」
否定しないギイに、やっぱりと思ったり、少しむっとしたり。
だけど否定しないということは隠すつもりがないということで、それなら聞いてみようと思った。
「どんな人?」
「教えない」
「今まで付き合ってた人よりも綺麗な人?」
NYにいる時、それこそギイは来るもの拒まずで誘われればデートをしていた。
ギイが付き合うタイプはだいたい決まっていて、年上で、自立していて、容姿が綺麗で、そしてギイを本気で好きにならない人だ。いや、本気で好きになっても無駄だと分かっていて、割り切った付き合いができる人というのが正しいかもしれない。
ギイだって、その人たちのことを本気で好きじゃないことは幼い私にだって一目瞭然だった。
だってギイの彼女たちに対する態度は、とても恋しているものだとは思えなかったから。
どこまでも冷静で、浮かれたところなんてぜんぜんなくて。
そんな恋愛楽しいのかしら、と思っていたけれど、あれは恋愛ですらなかったのだと今なら分かる。
だけど、今朝偶然見かけたギイは、ぜんぜん違った。
電話の向こうにいる誰かのことを大切に想っていることはすぐに分かった。
すごく意外だった。
ギイは誰かのことを本気で好きになることなんてないんじゃないかと思っていたから。
「山奥の男子校で、どうやったらそんな相手と知り合えるのかしら」
「さあね。きっと運命だったんじゃないかな」
「運命!ギイの口からそんな言葉が出るなんてびっくりだわ」
どこまでも現実主義者なギイが運命だなんて言葉を使おうとは。
ほんと、いったいどうしちゃったんろう。
「・・・・ねぇ、まさかとは思うけど、同じ学校の人だなんて言わないわよね」
山奥の男子校。
別にゲイに偏見を持っているわけじゃないけれど、ギイがそうだとしたらやっぱりちょっとショックかも。
留学に反対した理由も、半分はそれだった。
あの頃のギイはまだあまり男臭さもなく、美少女にだって見えなくもなかったから、上級生とかに襲われたらどうしようと真剣に悩んだものだ。
「ねぇ、ギイってば!」
「そうだとしたら、どうするんだ?」
ギイは私の皿からケーキを一欠けらつまみ食いして、楽しそうに私を見る。
これは、からかわれてるのだろうか、それとも試されてるのだろうか。
「わかんない。だって考えたことないんだもん。それにギイが男の人に抱かれてる姿なんて想像したくないし」
正直にそう言うと、ギイは飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえた。
しばらく苦しそうに咽ていたけれど、それが落ち着くと恨めしそうに私を見た。
「絵利子〜、お前は何ていうことを口にするんだ。びっくりするだろうが」
「だって」
「勘弁しろよ」
ギイはぐったりと椅子の背に沈み込んだ。
そんなにおかしなこと言ったかしら。だって、いつも女の人と一緒にいるギイの姿ばかり見てきたからギイが男の人を押し倒す姿・・・なんて想像できないし、それならもしかして逆の立場なのかしら、なんて考えてしまってもおかしくないと思うんだけど。
最近の少女漫画でもそういう話あったような気がするなぁ。
「ギイが好きな人って、どんな人?」
男でも女でもこの際どちらでもいい。
ギイが毎日電話をして、あんなに幸せそうな顔をしてしまうほどの相手ってどんな人なのか知りたかった。
「何だよ、ずいぶんと食い下がるな」
「知りたいもの」
「どうして?」
「どんな人なら好きになれるのか、どんな人なら好きになってもらえるのか、私も知りたい」
「絵利子・・・」
ギイは私の言葉に、少し辛そうな顔をした。
「私だって、普通に恋愛したいもの」
私たちはある種特殊な家庭に生まれた。自由のようでいて不自由で、十分満たされているはずなのにどこか満たされていなくて。欲しくないものばかりが手に入って、本当に欲しいものは簡単には手に入らない。
煌びやかに見える世界の中で、大切な何かが麻痺していくのが怖くて何とか踏みとどまっている。
それが普通で当たり前になっているギイが好きになった人、そしてそんなギイのことをちゃんと好きになってくれた人というのがどういう人なのか、私はすごく知りたいのだ。
それはやがて、私自身が直面する問題だと思うから。
ギイは少し考えたあと、その人のことを話してくれた。
「・・・強いヤツだよ」
「・・・」
「弱そうに見えて、実はすごく強い。涙もろいくせに、強気で頑固で。恥ずかしがり屋のくせに、時々すごく大胆で。自分の痛みには疎いくせに他人の痛みには敏感で、すぐ感情移入してしまう。オレとはぜんぜん違う考え方をするから、時々はっとさせられる」
静かに話すギイは、大切な人を思い浮かべているかからか、その口調も優しい。
「たぶん、オレたちの周りにいる人間とは真逆な人間で、本当は好きになっちゃいけなかったのかもしれないって思ったことも何度もある。いつか傷つけて、泣かせて、だけど手離せなくて、もっと泣かせてしまうのかな、って」
ギイは頬杖をついて、どこか遠くを見つめる。
「うん、だけど・・・何より、一緒にいると、すごく優しい気持ちになれるんだ」
「・・・・」
「オレが、そうでありたいと・・・たぶん、どこかで思っている自分に近づける気がするんだよな、あいつといると」
これ以上ないくらい優しい表情で、ギイが微笑む。
私が知っているギイじゃないみたいで、その違和感に戸惑ってしまう。
だけど、昔のギイよりも今のギイの方がずっと素敵に見える。
「好きなのね、その人のこと、本当に・・・」
「好きだよ」
迷うことなく、ギイが言い切る。
その言葉に、私は唯一の味方に見放されてしまったような気がして急に寂しくなってしまった。
ギイは、抜け出せないと思っていた場所から、一人さっさと抜け出してしまった。
私を置いて。
「・・・ギイばっかりずるい」
思わずぽろりと言葉が漏れた。
私もそんな風に誰かを好きになれるのだろうか。
今はとても考えられなくて、涙が出そうになるのを必死に堪えた。
うつむいた私の額を、ギイがつんと突いた。
「絵利子にも、必ず大切に思える人が現れるよ」
「・・・・・」
「絵利子自身のことをちゃんと見てくれる人が現れる。たくさんボーイフレンドを持つのもいいけどな、自分にとって本当に大切な人を見過ごさないように、ちゃんと目は開けてなくちゃだめだ。適当な相手で寂しさを紛らわせちゃいけない」
「ギイだって同じようなことしてたくせに」
「男と女は違うだろ」
「何、その差別発言」
「差別発言でけっこう。大切な妹のことだからな」
そんな風に言われては黙るしかない。
「どうすればいいか分かんない」
「うん?」
「誰が自分にとっての大切な人かなんて、どうやって見分ければいいか分かんない」
Fグループという甘い蜜に群がる多くの人たち。
もちろんその中に自分にとっての大切な人がいるとは思わないけれど、どこか人間不信なところがあることは否めないので、本当に大切な人が現れても、私は気づかずに通り過ぎてしまうのではないだろうか。
ギイみたいに運命の人にちゃんと出会える自信がない。
「大丈夫だよ」
ギイはくしゃりと私の髪を撫でる。
「ちゃんと分かる。すぐに分かる」
「ギイも?すぐに分かったの?」
「んー、そうだな・・・きっとそうなんだろうな・・・」
もしかしたらギイは、留学をして偶然その人を見つけたのではなくて、その人に会うために留学したんじゃないだろうかとふと思った。
だって、そんな運命の人にたまたま留学した先で出会うなんてこと、どう考えても難しいもの。
ギイなら、自分にとっての大切な人を追いかけて日本へ留学するくらいのこと、簡単にしそうだ。
「で、ギイ。その人、同じ学校の人なの?」
ここまで話したのだから、ちゃんと答えてもらわなくては、と再度探りを入れてみたが、
「それは内緒」
と、ギイは綺麗な笑顔ではぐらかした。




やっと見つけた大切な存在。
それはギイにとって、何にも変えることのできない宝物に違いない。
自分が大切にしているものにはとことん情熱的なギイが、新年を恋人と過ごさずにいられるなんてどうしたことかしらと思っていたら、案の定、突然ギイは
「ちょっと日本に行ってくる」
と言い出した。
父さんも母さんもさして驚きはしなかったけれど、だからといってすぐに許すはずもない。
「フットボールの試合は?」
私が尋ねると、それまでには帰ってくるとギイは言う。
それまでには帰ってくるだなんて行っても、今から日本へ行くことを考えると、本当に数時間しか滞在できないことになる。
日本で年賀状を出すのを忘れた、というのがギイが口にした理由だけれど、もちろんそれが本当の理由ではないことくらい分かっていた。
日本にいるギイの恋人。
きっとその人に会いに行くのだろう。
母さんは、風邪が治ったばかりだというギイの身体の心配をしてなかなか首を縦には振らない。
年賀状は日本じゃ重要なコミュニケーションツールだ、なんてあれやこれやと言い訳をするギイを眺めていると、私はだんだんと笑いが込み上げてきた。
こんな風に何かに必死になるギイなんて、私はそれまで見たことがなかったから。
何でもできて、何でも持っていて、いつもクールで。
そんなギイがここまで一生懸命になるという日本の恋人は、いったいどんな人なんだろうとますます興味が増した。
それにしても、と思う。
あーだこーだといろいろと理由をつけてはいるものの、どう考えてもギイの理由は弱すぎる。
私たちの両親は少々のことでは怒ったりしないし、自分でちゃんと責任が取れるなら大抵のことは許してくれるのだが、それにはもちろん納得いくだけの理由が必要だ。
年賀状を出しに行くという理由だけじゃさすがにねぇ。
やれやれ、何て手間のかかる兄だろう、と私はため息をついた。
「お母さん、ギイには日本に行かなくちゃならない理由が他にもあるわ」
私が言うと、ギイはぎょっとしたように振り返った。
もちろんギイに好きな人がいるということは私しか知らないことで、そのことを両親にバラすとでも思ったのか、ギイが一瞬渋い顔で私を睨んだ。
「どういう理由なの?」
母さんが首を傾げる。
私はおもむろに立ち上がり、手にしていた本をギイに突きつけた。
「ギイってば、私が頼んでおいた漫画を買い忘れてるのよ。最新刊も忘れずにって言っておいたのに、これ、3ヶ月も前に出た9巻なのよ?ちゃんとお願いしたのに、ひどいでしょ。せっかくお休みの間に読もうと楽しみにしていたのに!年賀状を出すついでに、私の本も買ってきてもらうから、いいでしょ?」
「・・・・・・」
きらっきらの少女漫画の表紙を突きつけられたギイは、
「最新刊?どれも同じ表紙に見えたぞ・・・」
と力なくつぶやいた。
母さんは少し考えたあと、仕方ないわねぇとギイの日本行きを許してくれた。
普通で考えればとうてい納得してもらえるような理由ではないのだろうが、どんな理由であれ一つだけではなく二つとなるとあっさりと通ってしまうところが、我が家の七不思議なのだ。






空港のロビーは年末からの旅行を楽しもうという人で溢れ返っていた。
たった数時間恋人に会うのためだけに日本へ向かうというギイは、手には何も持っていない。
財布やパスポートを無造作にポケットに突っ込んでいるだけだ。
一応日本は外国だというのに、この気楽さはいったい何なんだろう。
まぁそういうところもギイらしいとは思うのだけれど。
「それにしても絵利子、ずいぶんと強引な嘘をついたもんだな」
昨夜のリビングでのやり取りを思い出してか、ギイがくすくすと楽しそうに笑う。
暇だったので、ギイを見送りに一緒に空港までやってきた。
出発までの時間をカフェで過ごす。もちろんギイのおごりだ。
「あら、誰のおかげで日本へ行けることになったと思ってるの?もっと感謝してくれてもいいと思うんだけど」
「ああ、めちゃくちゃ感謝してるよ。さすがオレの妹」
「まぁ、別に強引な嘘でもないのよね」
「え?」
私はカバンの中から小さく折りたたんだメモをギイへと差し出した。
「最新刊、ほんとに買い忘れてたのよ。あれだけ間違えないでね、って言ったのに、以前に買った本もまた買ってきてたし」
「嘘だろ?」
ギイは頬を引き攣らせてメモを受け取る。
「分かってるとは思うけど、ちゃんとそこに書いてあるもの、買ってきてね、お兄さん」
にっこりと笑って言うと、ギイはぐったりと椅子の背にもたれ掛かった。
「絵利子、オレ、あっちに着くの大晦日なんだぞ?翌日の元日にはまた飛行機に乗らなくちゃならないし」
「だから?」
「いったいいつ少女漫画を買えって言うんだ?無理に決まってるだろうが」
「大丈夫よ、最近は空港にも大きな書店は入ってるし、私の好きな漫画家さんは人気があるから、ちゃんと最新刊だって揃ってるはずよ。安心して?」
「・・・・・最悪だ」
げっそりとするギイに、私はくすくすと笑った。
「ねぇギイ」
「何だ?」
まさかまだ何か買って来いというんじゃないだろうな、とギイが訝しげに私を見る。
「最近いつも同じコロンなのね」
「あー、そうだな」
「それって、恋人の好みだからなの?」
ニューヨークにいた頃にもギイはコロンをつけていた。
だけどいつも同じものではなくて、その時の気分でいろいろと変えていた。だけど好みはだいたい似ていて、もっとシャープでスパイシーなものが多かったようにも思う。
なのに、最近はずっと同じ甘い花の匂い。
自分の好みだから、というだけじゃないことくらいすぐに分かる。
「女って鋭いなぁ」
ギイが感心したように腕を組んで首を傾げる。
「まさか絵利子に見抜かれるなんて夢にも思わなかったな」
「失礼しちゃうわね。そういうことは女の方が敏感なのよ」
「そうかもしれないな」
ギイは困ったように深々とため息をついた。

たった数時間。
新しい年を向かえるその瞬間を大好きな人と過ごすためだけに、ギイは海を渡る。
恋人が好きだというだけで、同じコロンをつけてみたり。
毎日国際電話をかけてみたり。
あのギイが、好きな人のためにそんなことができるのだと知って、私は嬉しくなる。
誰かをちゃんと好きになることができるということが嬉しい。

「さて、とそろそろ行くな」
時計を見て、ギイが立ち上がる。
「お土産忘れないでね」
「はいはい。わかってますよ」
気をつけて帰れよ、とギイが私の頬にキスをする。
出発ゲートへと消えていくギイの足取りは軽く、私はその後ろ姿を見て、何かが吹っ切れたような気がした。






「つまり、その時のギイの後ろ姿で、絵利子はブラコンから卒業したってわけなんだ?」
クローゼットの奥から出てきた少女漫画本から始まった昔話を聞き終えて、彼はくすくすと笑った。
「そうね、そうかもしれない。だって、それまで私が恋心にも似た憧れで見ていたギイは本当のギイじゃなかったってことが分かったから。ギイの上辺だけを見て好きになる女の人たちのことを馬鹿にしながら、結局私もギイのこと何も知らなかったんだなぁって。まぁその時は私も幼かったから、そんなちょっと感傷めいたことも思ったのよね。うきうきと日本へ向かうギイを見て、ギイもただの男だったんだなぁって幻滅したというか、見直したというか」
「そりゃあ恋する男はケナゲだからね」
「ケナゲ?まぁモノは言いようね」
思わず笑いが込み上げる。
「ギイに恋人がいるって分かってからは、そういう目で見るようになるでしょ?そしたら、ギイってけっこう面倒くさい男だなぁって思えてきたのよね。だって、ヤキモチ焼きだし、束縛はするし、つまらないことですぐに拗ねるし、託生さんって偉いなぁって本当に思うわ。あんなギイとずっと付き合ってられるんだもの」
「絵利子、それはギイが可哀想だよ」
「そうかしら。ギイってほんとどうしようもなく子供だと思うんだけどな」
聞けば、ギイが託生さんを好きになったのは高校時代からではなく、もっと以前からだったというではないか。どうやら初恋だったらしいのだけれど、ほんと、ギイの執念深さを思うと身震いがしてしまう。
私ならそんなストーカーみたいな人は絶対にごめんだ。
「でもまぁ、そういうギイを知ることができたからこそ、無事ブラコンを卒業することができたんだけどね」
私は大好きだった少女漫画をダンボールへと詰める。
ギイの恋人が同じ高校に通う託生さんだと知ったのは、あれからずっとあとになってからだ。
ギイは恋人の存在は否定しなかったけれど、私がどれだけお願いしても、長い間それが誰なのかを教えてくれなかった。
今思えば、私がまだ子供でブラコンで、同性の恋人に対して嫌悪感を抱くんじゃないかと思っていたのだろう。
けれど、私がギイから卒業できたと分かると、ようやく託生さんを紹介してくれた。
よく言えば「仲睦まじく」悪く言えば「バカップル」な2人を見てたら、素直に恋人が欲しいなぁと思えてきたものだった。
相変わらずボーイフレンドには困っていなかったけれど、本気で好きになった人はいなかった。
このまま出会えずに終わっちゃうのかなぁなんて思っていたある日、ギイが宣言した通り、私はあっけなく恋に落ちた。
ああ、この人なんだ、と意味もなくわかった。
ちゃんと分かる。すぐに分かると言ったギイの言葉通り、一目で私は彼を見つけた。
それが今私の隣にいる人で、1ヶ月後には夫となる人だ。

「それにしても、ずいぶんたくさん買っていたんだなぁ」
次から次へと出てくる少女漫画を見て、彼が呆れたように肩をすくめる。
「だって、すごく憧れていたのよ。ある日突然に、自分だけを愛してくれる素敵な男の人が現れるの。あらゆる困難を乗り越えて、結ばれる二人。そんな夢みたいなこと、私には絶対に訪れないって思っていたから」
Fグループのご令嬢という面倒な肩書きを持つ私のことを、肩書きなしで愛してくれる人が現れるかどうか、いつも不安に思っていた。
だからせめてお話の中だけでも、と思っていたのだ。
「女の子はそういうの好きだよな」
「ロマンティックで素敵でしょ?」
「男には分からない世界だけどね。だけど、せっかく集めたのに、本当に捨てちゃっていいのかい?」
「いいの。ちゃんと現実の王子様が現れたから、もういいの」
少女漫画は幼かった私にとって、唯一現実逃避をして、幸せな気持ちにしてくれるものだった。
どんな女の子にもいつか素敵な王子様が現れるのだと夢を見させてくれる宝物だった。
最後に手にしたのは、あの時、ギイがお正月の空港で人目を避けながら買ったという最新刊。
むちゃくちゃな妹のお願いを、けれどギイはちゃんと叶えてくれた。
私はそんなギイが大好きだった。
例え恋人のこととなると、余裕がなくなって普通の・・・いや少し困った男になったとしても。
「何にしろ、絵利子がブラコンから卒業してくれて良かったよ。ギイが相手じゃ、僕は一生絵利子と結婚できなかっただろうからね」
彼がおどけるように言う。
「あら、ずいぶんと弱気なのね。安心して、ギイよりもずっと愛してるから」
「それはどうもありがとう」
苦笑する彼の肩を押し返す。
「それにしても、なかなか片付けられないものねぇ」
引越し準備のためにそろそろ部屋の片づけを、と思ったものの、溢れる物の多さにため息が出る。
「物の片付けを始めると、どうしても思い出が溢れてくるからね」
「うん、そうかも」
「ギイがすごく素敵なお兄さんだってこと、思い出した?」
「ちょっとはね」
同時に、ギイのお嫁さんになりたいとまで思っていた自分を思い出してしまって、恥ずかしいけれど、それもいい思い出の一つだ。
「さ、一休みしてお茶にしましょう」
私が彼の手を引くと、彼は笑って私の肩を抱いてくれる。
これから始まる大好きな人との新しい生活に不安がないといえば嘘になる。
けれど、ちゃんと幸せになれるんだということは、ギイが教えてくれた。
あらゆる困難を乗り越えて、今も一緒にいる2人を知っているから、だから私もちゃんと幸せになれると信じることができる。
やっぱりギイはいくつになっても自慢の素敵なお兄さんだ。
そんなことを思っていると、久しぶりにギイに会いたくなってしまった。
託生さんも誘って、4人で食事しないかって、このあと電話をしてみよう。
懐かしい思い出話に、きっと盛り上がるに違いない。





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あとがき

ギイは恋人よりもお兄さんくらいがちょうどいいかも。