毎度のことではありますが、原作はちょいと横へ。
***** 久しぶりの休日だった。 目覚めたらすっかり明るくなっていて、自分が泥のように眠り続けていたことに溜息が漏れた。 だるい身体を引きずるようにしてシャワーを浴び、ようやく少しばかり頭の中がすっきりとした。 バスローブを身につけてテラスに続く窓のそばに立ち、青い空を見上げてみる。 「いい天気だな」 かといって、どこへ行くあてがあるわけでもない。とりあえず今日は一日部屋でゆっくりとしようと決めていた。何しろ昨日まで中国への長期出張で精根尽きるようなきついミッションをしていたのだ。 解放された今日明日の休日は、何も考えずにゆっくりして頭も体も一度リセットしたかった。 濡れた髪をタオルで拭いながら、テーブルの上に置かれたCDに手を伸ばす。 バイオリンを弾く指先だけの写真。 これだけ見て、バイオリニストが誰だか分かるのはきっとオレだけだろう。 昔、バイオリンを弾く彼の指先が器用に動く様子を飽きることなく眺めていた。 その指の形は絶対に間違えることはない。 触れて、口づけて、離したくなくて何度も強く握り締めた。 あの温もりは今でもまだ忘れられずにいる。 CDを手にしたまま、きしっと音をさせてリクライニングシートに身を預けた。 裏面に書かれた曲名に目を細める。 クラシック音楽にはそれほど詳しくないので、知らない曲名の方が多い。 しばらくじっと並んだ曲名を眺め、傍らに置いてあったヘッドフォンを手にした。 曲はすべてiPhoneに転送してある。 スタートボタンを押して、目を閉じた。 静かに流れ始めたバイオリンの澄んだ音に、知らず知らずのうちに笑みが零れた。 久しぶりに聞く託生の音だった。 柔らかく澄んでいるのは昔のままだったけれど、あの頃にはなかった力強さやぴんと張り詰めた緊張感みたいなものが加わって、音に奥行きが出てきたのが分かった。 素人の自分でさえそう感じるのだから、耳の肥えた専門家が聞けば、ひっそりと隠れていた才能が花開いたことに気づくのだろう。 佐智のように突き抜けたテクニックがあるわけではない。 けれど心地よく音に浸ることができる音だった。危うさもなく、するすると曲に引き込まれていく。 いい意味で眠気を誘うほどの心地よさ。 昔、祠堂の温室で聞いていた音とはまた違う。 あの頃よりもずっと洗練されて余分なものが何もない。 ああ、ちゃんと自分の欲しいと思っている音を手に入れたんだなと思う。 一緒にいた頃は、まだそこまで音楽に身を捧げる覚悟を決めていたわけではなかった。 音大へ行くことすらどこかで迷っていた。 けれど、やっぱり捨てられるはずもなかったのだろう。 そして辛い道になることは分かっていただろうけれど、結局託生はそれを選んだ。 (託生には音楽が沁みこんでいる) あれからどれほどの努力をしてここまで辿りついたのか。 そばにいられなかったから想像しかできないけれど、それはきっと生易しいものではなかっただろう。 (ああ、綺麗な音だな・・・) まるですぐそばで彼が奏でているような気持ちになる。 頑張ってるんだなと思うとほっとして、そして少しばかり寂しくなる。 そんな身勝手さが嫌になって胸の奥が痛くなる。 寂しいだなんて思う権利は自分はないというのに。 未練がましい気持ちになりかけたその時、とんと肩を叩かれて弾かれたように身を起こした。 目を開けると、そこには島岡がいた。 いつもの仕事モードではない緊張感の抜けた表情。オレと同様に島岡も休日なのだから、それも当然だ。 ヘッドフォンを外して、突然の登場に眉をしかめてみせた。 「驚かすなよ」 「すみません。眠ってましたか?」 「いや」 「チャイムは鳴らしたんですよ?ヘッドフォンのせいで聞こえなかったんですね」 馬鹿高い値段のヘッドフォンは、外部からの音をきっちりと遮断するというのが売りだった。 なるほど嘘じゃなかったようだ。 「せっかくの休日に申し訳ないのですが、どうしても目を通しておいていただきたい書類がありまして。ついでにランチも買ってきましたがいかがですか?」 「書類?勘弁してくれよ、休日だぞ。どこまで扱き使えば気がすむんだ」 だいたいそんなことのために合鍵を渡しているわけじゃないんだぞ。 「申し訳ありません」 笑いながら言われてもちっとも真剣みがない。 とりあえず書類を受け取ってデスクの上に放り投げた。音楽を止めて、そのまま島岡をリビングへと促す。 手渡された紙袋を覗いてみると、近くの人気デリのサンドイッチが入っていた。フライドチキンとデザートまで。さすがは有能秘書。オレの胃袋を満たす十分な量を把握している。 「コーヒーでいいか?」 「ええ、いただきます」 2人がけのダイニングテーブルにつき、島岡は雑然と詰まれた雑誌を脇へと避けた。 「ギイ、ハウスキーパーを入れたらどうです?忙しすぎてろくに掃除だってできないでしょう?」 「まぁな、けどそういうの、なるべくなしにしようと思ってるからさ」 実家には使用人がわんさかといて、仕事で忙しい父親と社交に忙しい母親の代わりに家のことは一切合財引き受けてくれていた。生まれた時からそうだったからそういうのが当たり前になっていて、自分がどれだけ特別な環境にいるかということを知っているつもりで分かっていなかった。 別にそれが悪いと思っているわけではない。言い方に問題があるかもしれないが、時間を金で買っているようなものだ。役割分担。それはそれである意味正しいことだと思う。 けれど祠堂に入学して、すべてのことを自分でやることになって初めて、これが大多数の「普通」なのだということを身をもって知った。みんなが面倒臭がることでも楽しかった。普通の高校生の生活が新鮮で、あの場所での2年半の経験は今でも宝物になっている。 今とはまったく立場は違っても、あの頃の気持ちは忘れないでいたい。 馬鹿馬鹿しいと思われても、それはオレにとっては必要なことなのだ。 島岡はやれやれというように肩をすくめた。 「まぁ、あなたが何でも器用にこなすことは知っていますけどね、ただ時間がもったいないって言いたいんですよ。家のことをする暇があるなら少しは身体を休めた方がいい」 「ちゃんと優先順位はつけてるし、そこまで家事を完璧にしようって気はないから大丈夫だ。ほら、コーヒー」 「いただきます」 甘い香りのコーヒーに島岡がふっと表情を緩めた。 「何だよ」 「いえ。昔、このバニラマカダミアのコーヒーを買って来いって出張先にまで連絡してきたことを思い出したんですよ」 「あー、そういやそんなこともあったっけな」 あの頃、章三と2人して大層メルヘンちっくな香りのするこのコーヒーにハマっていた。 田舎のスーパーには売ってなかったから、島岡に出張のついでに買ってきてくれと頼んだのだ。 今でも時折飲みたくなるので常備している。もちろん島岡に買って来いなんて言うことはない。 テーブルの上に紙袋を広げ、ランチとなるサンドイッチを広げた。 「あー、美味い。こういうのたまに食べたくなるよな」 「確かにここのは美味しいですね」 しばらく2人で黙々と腹を満たす作業に没頭した。 「託生さんのCDですか?」 「うん?」 「先ほど聞いていたのは」 「ああ。あれ聞くと気持ちよく眠れる」 まるで託生の声を聞いているような気持ちになれる。 忙しすぎる毎日の中で次第に磨耗していく神経を、託生の音が癒してくれる。 「コンサートをされるようですよ」 島岡がコーヒーのおかわりを淹れにキッチンへと向かう。 初めて聞く情報に、オレは顔を上げた。 コンサート? 「クリスマスにあわせての初めてのコンサートみたいですよ」 「そうか・・・」 託生がコンサートを開くのか。 佐智のことを知っているから、プロとしてやっていくのがどれほど大変なことかはよく知っている。 あの佐智でさえ、コンサート前はいつもぴりぴりして見ているこっちの方が胃が痛くなりそうになる。 託生はどうなんだろう。ちゃんと食べれているだろうか。 「会いに行かれますか?」 さらりと聞かれて、一瞬何のことか分からなかった。 コンサートに行かないのかと問われて、迷うことなく首を横に振った。 「今さら行けるはずがないだろ」 もう8年も会っていない。今さら会えるはずもないし、託生だってもうそんな気はないだろう。 たとえ会いに行ったところで、何が変わるはずもない。 オレの分の二杯目のコーヒーを、島岡が目の前に置く。 「一度聞きたかったんですが構いませんか?」 「うん?」 「託生さんのこと、このままでいいんですか?私には何も終わってないように思えてならないんですが」 確かにあの秋の日に、いきなり姿を消したきり託生とは会っていない。 終わりを告げたわけではない。 けれど、これだけ時間がたてば自然消滅だと思われても仕方がない。 「誰が見たって終わってるだろ」 「違いますよ、私が言っているのはギイの気持ちのことですよ」 「・・・・」 「会えなくなったからといって、あなたの気持ちが変わることなんて考えられない。今だって託生さんのことを好きなんじゃないんですか?」 「好きだよ。嫌いになる理由がない」 「じゃあどうして会いに行かないんですか?」 珍しく焦れたように島岡が声を荒げる。 オレと同じで、人の恋路には不干渉のくせして、どうして今さらそんなことを言い出すのやら。 島岡はオレがどれだけ託生のことを好きなのかを知っている数少ない人の一人だから、当然と言えば当然か。いろいろ面倒もかけたし、心配もさせた。 だけど言えないこともある。 「ギイ?」 「会わない方がいいんだ」 「どうしてですか?」 「・・・どうしても」 何を言ったところで、もう託生に会うことはない。 それは正直かなりきついし、もしもう一度あの頃に戻れるなら、と何度も思った。 けれどそれは叶うことはない夢だ。 考えてはいけない。夢見てはいけない。 オレにとっての一番輝いていた時間は、永遠に思い出の中にある。 「あなたがそれでいいなら構いませんが、託生さんはどうなんでしょうね」 「託生は、もうオレのことなんて忘れてるよ」 「そうでしょうか」 「今はバイオリンだけなんじゃないかな、プロになって、コンサートをするならなおさらだ」 そうかもしれませんね、と言って、島岡はそれきり託生の話はしなかった。 オレがどういう理由であったとしても、もう託生と会うつもりがないと分かったからなのか、それともよからぬことでも考えているのか。 (コンサート、頑張れよ、託生) 自然と笑みが零れる。 ずっとずっと祈っている。 託生が幸せでいることを。 もう二度と会えなくても、オレはお前のことがずっと好きだ。 ***** 「いいですね、音の響きもとてもいい」 ぐるりとホールを見渡して、ぼくは思わず笑みを浮かべた。 大きすぎず小さすぎず。この広さなら、たぶん聞きにきた人が同じように音を感じることができると思う。 「楽しみだな、こんな素敵な場所でバイオリンが弾けるなんて」 「おっと、ずいぶん余裕ですね。葉山さんて緊張しない性質ですか?」 「そんなことないですよ。どちらかと言うと緊張する方ですけど・・・でも経験ってすごいですよね。さすがに昔に比べたらマシになりました」 昔は佐智さんのホームパーティでの演奏でさえガチガチに緊張してしまっていた。 自分に自信がなくて、周りの人と比べては落ち込んでいた。 今はそこまで自分の卑下することはない。 自信は努力の積み重ね。あの言葉は本当だなとしみじみと思う。 自分が天才だなんて思えないから、その分誰よりもレッスンをした。自分で納得できるまで、やるべきことをやったという自信はやはり成果へと繋がっていくのだ。 少なくともプロとしてお金をもらって演奏する限り、緊張して失敗をするわけにはいかない。バイオリンの腕だけじゃなくて、メンタルをどう鍛えていくのかも課題だよなぁと考える。 「今日の予定はこれで終わりですけど、どうしますか?ホテルに戻るのなら送りますよ」 今回のコンサートを取り仕切ってくれている辻本さんがにこにこと尋ねる。 いつでも穏やかな辻本さんのおかげで、ぼくはずいぶんと楽をさせてもらっている。 「あ、このあとちょっと人と会う予定があるので、ここでけっこうです。明日は10時にホテルのロビーでよかったですよね?」 「はい。じゃあ私はここで」 「ありがとうございました」 ぺこりと頭を下げて、帰っていく辻本さんを見送った。 座席に立てかけてあったバイオリンケースを手にして、ぼくも会場をあとにした。 12月に開催されるコンサートの会場の下見ということで、今日は辻本さんと一緒に会場を見にきていた。 まだまだ無名に近いぼくには分不相応な気もしたけれど、音楽を演奏するには評価の高いホールで、下見をしてみて早くここでバイオリンを弾いてみたくて仕方なくなっていた。 (楽しみだなぁ。コンサートまで、めちゃくちゃ練習しなくちゃな) 時計を見ると約束の時間の30分前で、頭の中で移動時間を計算するとちょうどいいくらいかなとほっとした。 何しろ章三は時間にうるさいのだ。 それは祠堂にいた時から変わらない。 「急げ〜」 問題は最寄り駅から待ち合わせの店の場所が分かるかどうかだ。 ぼくは早足で駅へと向かった。 祠堂を卒業して8年。 音大へ進んで、留学をして、とてもいい師に巡り合えて、気がついたらバイオリンを弾くことが仕事になっていた。 いや、そうなるように一心不乱に邁進していた。 だから、やっとここまでたどり着けたと言う方が正しい。 それでも8年もかかってしまった。 長かったような短かったような。あっという間だったけど、やっぱり長かったかな。 その間、できるだけ音楽以外のことは考えないようにしていた。時折寂しさで押しつぶされそうになっても絶対に負けないと誓って頑張ってきた。 あの頃のぼくを振り返ると、よくまぁここまで頑張れたものだと褒めたくなる。 もっともプロとして歩き出したこれからの方が大変で、今まで以上に努力をしなければいけないのだ。 まだまだほんの入口に立ったばかりだと分かっている。うん、舞い上がっちゃいけないよな。 「えーっと、ここの三階だな」 章三が予約をしたという店が無事発見できたので、ぼくはほっとした。時間も十分間に合っている。 と思ったら、個室に入るとすでに章三が座っていた。 「赤池くん・・・何でそんなに早いのさ。5分前だろ。ぼくの方が先だと思ったのに」 「何だよその不満そうな顔は。出張先から直接きたからさ。僕だって着いたのはたった今だ。ほら座れ」 「はいはい」 よっこらしょと腰を下ろして、おしぼりを手にした。 「久しぶりだな。元気だったか?」 「うん。赤池くんも元気そう。仕事忙しい?」 「まぁまぁだな。葉山、痩せた?」 「そうかな。痩せたというよりは太れないって感じかな。何だか忙しくてさ」 「この不景気に忙しいのはいいことだ」 まぁ確かに。何しろ自営業みたいなものだから暇だと困るよね。 「けど、身体壊すなよ。葉山は夢中になると他のことが疎かになりすぎる」 「ありがと、気をつけるよ」 章三とは1ヶ月に一度くらいはこうして会っている。祠堂を卒業してからも何だかんだと気にかけてくれていて、ことあるごとに声をかけてくれる。 ギイがいなくなってからは特にだ。 大丈夫だから、って何度言っても全然聞いてくれなかった。 ぼくと同じように章三だってギイがいなくなったのはショックだったはずなのに。 自分のことよりも、ぼくの心配ばかりしてくれていた。 ほんと人がいいというか面倒見がいいというか。そういう章三のことを、ぼくは心から尊敬していたし、頼りにもしている。 「葉山、コンサート開くんだって?」 運ばれてきた料理を口にしながら、章三がどこか嬉しそうに言った。 「うん。12月」 「すごいじゃないか」 「ありがたいことにチケットも順調に売れてるみたいでさ。今からすごく楽しみだよ。赤池くんも来てくれる?奈美子ちゃんの分とチケット用意するよ」 「・・・・」 「なに?」 上目遣いに見上げられて、ぼくは何かおかしなことを言っただろうか、と首を傾げる。 「変わったな、葉山」 「え?」 「コンサートで人前で演奏するなんてさ、昔のお前さんなら絶対に無理だって尻込みしそうなことじゃないか。それが今じゃ楽しみだなんてさ」 感心したような章三の口調に、そうだよねとぼくも苦笑する。 「だけど赤池くん、あの頃からもう8年もたってるんだよ?ぼくだって少しは成長するし、慣れるってことも覚えるし。だからって緊張しないってことじゃないんだけど、それ以上に好きな音楽を弾けるのが今は楽しくて仕方ないんだよ」 「そっか・・・」 「うん」 うなづいて、ぼくはサラダの中のきゅうりをつまみ上げて、章三の皿へと移した。 「あ、この野郎。まだ好き嫌いしてんのかっ!いい大人が!」 「いいだろ。これでもいろいろ食べられるようになったんだから」 「子供か!お前は」 くだらない言い合いをしながら久しぶりの再会を楽しく過ごした。 お腹もいっぱいになって、ほどよくほろ酔いになって、やっぱり最後は甘いものだよなーという章三に付き合って、アイスクリームをちびちびと食べていた時、思い出したように章三が言った。 「ああ、そうだ。葉山のところにも来てたか?同窓会のお知らせ」 「うん来てたよ。今度のは学年の同窓会だろ?すごい人数になりそうだよね」 「だな。行くだろ?矢倉たち行くって言ってたぜ」 「たぶん大丈夫。もう返事出したの?」 「ああ」 「じゃあぼくも忘れずに出しておこうっと」 「そういや政貴、また懲りずにギイにも葉書出したらしい。今までだって一度も顔出したことないんだから、来るわけないのにな」 今までも何度かクラス単位で同窓会をした。その都度、幹事はギイにも連絡をしたらしいけど、返事がきたことは一度もなかった。 最初の頃はみんなぼくを気遣ってかギイのことは口にはしなかった。けれど、時がたつにつれ、次第にそんな気遣いをすることもなくなっていった。 誰もがギイのことを忘れてはいないし、また会いたいと思っているし、祠堂の思い出を語るのにギイを抜いては無理だから、ぼくに余計な気なんて使わないでいてくれた方がいい。 「ギイ、元気にしてるのかな」 今頃どこで何をしているのだろうか。 同窓会の葉書は、手元に届いているのだろうか。 そんなことを思いながらぽろりと口をついた言葉に、章三が小さく溜息をつく。 「なぁ葉山」 「うん?」 「正直なところ、どうなんだ?ギイに会いたいって思うか?もしあいつが同窓会に来るって言ったら、お前、どうする?」 「どうするって・・・どうもしないよ。どうして?」 「あんな風に別れて、恨んだり嫌いになったり、顔も見たくないとか、どうして思わないんだ?」 章三だってそんな風に思っちゃいないくせに、よく言うよなぁと思わず笑ってしまった。 だいたい別れたわけじゃない。しばらく会っていないだけって思ってるのに。そんな風にばっさりと言われたらさすがにちょっと凹むじゃないか。 「お前、まさかまだギイのこと好きなのか?」 「すみませんね、まだギイのことが好きで」 だって嫌いになる理由がない。 ぼくの言葉に、章三は呆れたように頭を振った。 何だよ、章三だってギイのこと嫌いになんてなってないくせに。と思うものの、口にはしない。 言えば絶対10倍になって非難されるに決まってる。 ぼくは溶け始めたアイスクリームをスプーンですくった。 8年前、本当に突然ギイはぼくたちの前から姿を消した。それきり一度も連絡もなく、どこで何をしているのかも分からなくなった。分からないといっても、きっと実家へ戻ってるだろうし、今はFグループの仕事をしているに違いない。 ギイのことだからきっとやらなくてはならないことを一人で頑張っているのだろう。 ぼくがいなくても、自分がやるべきことはきちんと最後までやる人だ。 連絡がないのは何か理由があるから。そしてギイが自分の意思でそうしているんだろう。 ギイはぼくのことを少しは思いだしたりするのだろうか。 それとももうぼくとのことは過去のことになってしまって、思い出すことすらないのだろうか。 今もその気になれば、本気で会いたいと思えば、きっと会えるんだろうと思う。 8年前も、アメリカへ行って訪ねていけば、どうにかなったんじゃないかとも思う。 だけどそれはできなかった。あの頃のぼくには無理だった。 幼い情熱のままに行動しても、きっとまた同じことを繰り返してしまう。 そう思えるようになるのに2年かかった。 「葉山、まだギイに会いたいと思っているのか?」 あの眩しい笑顔。 前向きで、いつだって温かくぼくを包んでくれた。 会いたいよ。会いたいに決まってる。 「赤池くん、ぼくは今まで一度だってギイのことを嫌いになったことなんてないよ?」 「・・・・」 「これからもね、ぼくはやっぱりギイが好きだよ」 そういうと、章三はやれやれというように肩をすくめ、それ以上は何も言わなかった。 今でもギイのことが好きだ。 ずっとずっと、会えない間も祈っていた。 ギイが幸せでありますように、と。 もう二度と会えなくても、ぼくはギイのことがずっと好きだ。 だから、ここまで頑張ってこれた。 今のぼくがあるのは、すべてギイのおかげなんだ。 「葉山がそれでいいならいいんだけどな。まぁ薄情なギイのことよりもコンサート頑張れ」 「うん、頑張るよ。コンサートはぼくの目標だったんだよ。自分の中で、一つの区切りにしようって思ってたからさ」 コンサートにはでっかい花束用意するからな、と章三はやけに張り切って言ってくれた。 ***** 「では決裁をお願いします」 「ああ」 オレは差し出された決裁書にサインをして、リーダーに差し出した。 先日まで取り組んでいたプロジェクトが形になり、チームのメンバーも一安心とばかりにほっとしてている。 「ありがとうございます」 「これからが本番だからな。今までと同じように頑張ってくれ。期待してる」 「はい、頑張ります」 一礼して部屋を出て行く彼らを見送って、やれやれと椅子の背にもたれかかった。 入れ替わりに島岡が部屋に入ってきて、労うような笑みを見せた。 「お疲れさまでした。これで滞りなく進みそうですね」 「ああ、ほっとした。このプロジェクトだけは成功させないとな。親父に何言われるか分かったもんじゃない」 中国進出はFグループの最優先事項で、今年に入ってからずっと取り組んできたプロジェクトだった。 島岡はサインを済ませた他の書類をまとめると、スケジュールを確認するようにタブレットを開けた。 「このあとの会議は延期になりました。目を通していただきたい書類が2つありますが、急ぎではありません。このままお帰りになられてもけっこうですがどうされますか?」 「書類には目を通すよ。それを済ませたら今日は帰る」 「ここのところずっと帰りが遅い日が続いていますし、今日くらいは早く帰ってください」 「そうするかな。また来週から出張だしな」 渡された書類を一枚づつめくってみる。たいした量もないしすぐに済みそうだなとうなづく。 「義一さん」 「うん?」 「今日届いた郵便物です。あと、もう一つ、こちらも目を通しておいてください」 デスクの端に封筒と雑誌を置いて、島岡は「ではまたあとで」と言って部屋を出て行った。 さっさと済ませてしまおうと集中して報告書に目を通した。一つにはサインを済ませ、一つは説明不足の部分に印をつけて、未決裁箱に放り込んだ。 「さて、これで解放されるな」 立ち上がり、上着の袖に腕を通す。ついでに島岡が置いていった郵便物を一つ一つ確認していく。 すぐに目を通せと言わなかったのだから、どれも急ぎではないのだろうがそのままにしておくのも気になる。十通ほどの郵便物の最後の封筒の宛名を目にしてぎくりとした。 懐かしい文字で「崎義一様」と書いてあった。 「・・・託生?」 すっと体温が下がっていくような感覚に、手紙を持つ指先が震えた。 裏返すと思った通り「葉山託生」と記されていた。 ちょっと癖のある右上がりの文字。 「何で・・・手紙なんて・・」 どうしたものかとしばらく考えてから、そっと手紙の封を切った。かさりと小さな音がして、中から白い便箋に包まれてチケットが出てきた。 「・・・ああ、コンサートの・・・」 以前、島岡が言っていた託生の初めてのコンサートが来月開かれる。もとより行く予定などなかったから、意識していなかったのに。 手紙の中に入っていたのはチケットだけだった。一言の手紙もない。 これは聞きにきて欲しいということなのだろうか。 チケットを送ってくる理由なんてそれしかないとは思うものの、どうして今さらとも思ってしまう。 そのくせ託生がオレのことをまだ覚えていてくれたことに胸の奥がじわりと温かくなる。 オレのことを覚えていてくれたことにほっとして、もしかしてまだオレの好きでいてくれるのだろうかと馬鹿なことさえ考えてしまう。 封筒の中にチケットを戻して、一つ息をつく。 どうしたものか。聞きに行くことは可能だろう。今からならスケジュールは何とでも調整ができる。 聞くだけなら何の問題もない。けれど行って会わないまま帰ることなどできるだろうか。 託生がどういうつもりでこのチケットを送ってきたのか、その理由が分からなければ行くことはできない。 こんな時に章三がいてくれればな、と苦笑する。 あの相棒なら「ぐだぐだ悩んでないで直接聞け」とぴしゃりと言ってのけるだろう。 「まいったな・・・」 オレは島岡がもってきた雑誌を手にした。その表紙を見て首を傾げる。 てっきり定期購読している経済誌だと思っていたのに、それは音楽雑誌だった。 ぱらっとめくり、そこに託生の写真があることに慌てて表紙を閉じた。 「何なんだ、いったい・・・」 舌打ちして、雑誌とチケットの入った封筒を鞄に放り込み、そのまま部屋を出た。廊下を挟んで向かい側の秘書室に向かい、ノックもそこそこに扉を開けると、中にいた島岡を目で呼び出す。 「お帰りですか?車を回します」 「島岡、何のつもりだ?」 「何がでしょう?」 とぼけた返答に内心舌打ちする。 チケットは託生からのものだが、あの雑誌は島岡が買ってきたのだろう。 オレがどういう反応をするかだって分かっていただろうに。 「・・・・いやいい。車を回してくれ。明日の出社は?」 「9時に迎えを」 「わかった。あとは頼んだ」 「分かりました。お疲れさまでした」 しれっとしたポーカーフェイスがこれほど憎らしく感じたことはない。 島岡は託生からの手紙も、託生のことが記事になっている雑誌も、すべて分かって持ってきたのだ。 どうやら、どうしてもオレと託生を会わせたいらしいが、そうそう簡単に会うつもりはないのだ。 オレが玄関を出る頃にはちゃんと社用車が回されていて、いつものように乗り込むと行き先を告げなくとも走り出した。 シートに深く沈みこんだまま目を閉じる。 どうして今になって? 初めてのコンサートだから、祠堂の仲間にも同じようにチケットを送っているだけなのだろうか。 それとももっと深い意味があるのだろうか。 自宅に戻ってチケットと雑誌を取り出した。音楽雑誌は日本のもので、あまり聞いたことのないものだったけれど、これから活躍するであろう音楽家を取り上げて紹介している特集が組まれていた。 その中の一人に託生がいた。 「託生・・・」 久しぶりに目にする託生の姿は、オレが知るものとはずいぶんと変わっていた。 柔らかなマシュマロみたいなイメージのあった面影はなくなり、短くした髪とシャープになった頬のラインのせいか、ずいぶんと大人っぽく見えたし、瞳には強い意志が感じられて、彼がこれまでどんな風に生きてきたのかが窺えた。 血の滲むような努力を重ねた末の笑顔は、本当に眩しく見えた。 「かっこよくなったな、託生」 インタビューは3ページにわたって掲載されていた。来月のコンサートについてがメインだったけれど、最後の方でプライベートな質問もされていた。 ----- 葉山さんが音楽を始められたきっかけは何だったんですか? 幼い頃に習っていて、だけど一度バイオリンをやめてしまったんです。もうそのままやめてしまうつもりだったんですけど、高校時代にある人がもう一度きっかけをくれて。ぼくも本気で音楽をやめたいと思っていたわけじゃなくて、本当はまた弾きたいって心のどこかで思っていたのを、きっとその人は見抜いたんでしょうね。その人のおかげでもう一度バイオリンを手にすることができたんです。だから、とても感謝してます。その人がいなければ、ぼくはここにはいなかった。 ----- では今回のコンサートも、きっとその人は喜ばれてるでしょうね? だといいんですけど。実はもうずいぶん長い間会っていなくて。すごく会いたくて、だけど音楽家として自分に自信が持てるようになるまでは会わないでいようって、勝手に自分で決めてしまって(笑)馬鹿だなぁって自分でも思うんですけど、願掛けみたいなものなのかな。 ------ コンサートも開催されることですし、その願掛けは効いたみたいですね そうですね。頑張った甲斐があればいいなと思います。 託生の声が耳元で聞こえるような気がした。 ずっと、もう託生はオレのことなんて忘れてしまったんじゃないかと思っていた。 だけど違った? オレが勝手にそう思っていただけなのだろうか。 いや、本当は分かっていたはずだ。託生がオレのことを忘れるなんてないことは。 祠堂で過ごした時間は短かったけれど、誰よりも深くお互いのことを見詰め合ってきた。 かけがえのない相手だと思っていた。それはオレだけじゃなかったし、託生がオレのことを愛してくれているのはちゃんと分かっていた。 「馬鹿だな、オレは」 優しい笑顔の託生の写真を指先でなぞってみる。 あのチケットは、託生が何かを伝えようとしてくれている証なのか。 会いたいと、だから会いに来て欲しいと、そういうことなのか。 今さら? 8年も放ったらかしにしておいて、どんな顔をして会いに行けばいいというのか。 だけど・・・今会わなかったら、本当にもう永遠に会えなくなってしまう。 その考えにぞっとした。 今まではオレが自分の意志で会おうとしていないだけで、その気になればいつでも会えるような気になっていた。 会わないだけで会えないんじゃない、と。 だけどそうじゃなくて、人の縁は本当にあっけなく切れてしまうものだから、どれだけ愛していても、ほんのちょっとのことで二度と会えなくなることだっていくらでもあるのだ。 これが最後のチャンスだとしたら? 「託生・・・」 会いたい、と。 どうしようもなくそう思った。 ***** ちらっと何か白いものが見えたような気がして、窓辺に近づいた。 ぺたりと窓ガラスに顔を寄せて薄暗くなった外を窺うと、思った通り雪が降っていた。 「冷えるはずだよ」 「え、寒いかい?温度上げようか?」 指が動かなくなることを心配して、辻本さんが暖房のリモコンを手にした。 「大丈夫です。ここすごく暖かいし。ホワイトクリスマスになりましたね。予報通り」 コンサート当日は雪になりそうだと週間予報で言っていたので、交通機関に影響が出なければいいのにとスタッフと話をしていたのだ。 だけどこれくらいの雪なら大丈夫だろう。コンサートが終わって帰れない、なんてこともなさそうだ。 「ロマンティックでいいじゃないか。コンサートの選曲もそういうのを選んでいるし、相乗効果でみんなきっとテンション上がるよ」 「そうですね。確かにホワイトクリスマスってロマンティックだな」 「どう?緊張してる?」 「まだ大丈夫かな。ステージに立ったら一気に緊張しそうですけど」 「いやいや、今緊張してないなら大丈夫だよ。葉山くんて、いざとなってからの方が度胸あるし」 「そうですか?」 そんなこと言ってくれるのは辻本さんくらいなものだ。 章三なんて昨日の夜にも電話をしてきて「深呼吸しろよ」とかあれこれ言っていたのだ。 ほんと心配性というか、ぼくのことをよっぽど頼りないと思っているに違いない。 「そろそろ集中する?一人の方がいいかい?」 「そうですね・・・」 その時控えめなノックとともに、スタッフの一人が顔を覗かせた。 「葉山さん。あの、ちょっといいですか?」 「どうしたの?」 そろりと開いた扉の隙間から入ってきたのは大きな花束だった。 とても不思議な青色の薔薇の花。 こんな色の薔薇は見たことがない。 「お花、届いてるんですけど、あの、ロビーにもたくさん、同じお花が。もうそりゃあ見事でお客さんも見惚れてるくらいなんでいいんですけど、ちょっとびっくりしちゃって」 「はー、こりゃすごいな。高いぞ、こりゃ」 辻本さんがしげしげと薔薇を眺める。 「メッセージカードがついていたので、これだけはこちらにお持ちしたんです」 「ありがとう」 ずっしりと重い花束を受け取って、ぼくはそっとテーブルに置いた。 透明なセロファンの上からオーガンジーのラッピングがされた花束は、いったい何本あるんだろうというくらいの本数があって、その中に埋もれるようにしてカードが差し込まれていた。 (見なくても分かる) 知らずと笑みが零れそうになって困った。 (来てくれたんだね・・・・) カードを開くと、一言「おめでとう」と書いてあった。 綺麗なその文字を、ぼくは昔毎日見ていた。忘れようもない。 大好きな人の文字は覚えている。 ぎゅっとカードを胸に抱きしめた。 ひどいな、と思った。緊張なんてしていなかったのに、すぐ近くにいるんだと思うだけで鼓動が高なる。 ギイのせいで別の意味で緊張してしまいそうだ。 「辻本さん、一人にしてもらってもいいですか?10分前に呼びにきてもらえれば大丈夫です」 「ああ、わかった。集中して、リラックスな」 「はい」 控え室で一人きりになると、しばらくテーブルの上の薔薇の花を眺めて、それから一つ深呼吸をした。 失敗はできない。あの頃とは違うぼくをちゃんと見て欲しいと思うから。 誰よりも彼に見てもらいたくて、ここまで頑張ってきたのだ。 ぼくはバイオリンを手にすると、すっと音を出してみた。 昔、ギイから借りていたストラドには及ばないけれど、今はこれが辛いレッスンを一緒に乗り越えてきた相棒だ。あと一時間もしないうちに、ぼくはこのバイオリンと2人きりで心地よい音を届けなくてはいけない。 大丈夫。 ぼくは大丈夫。 彼が見ている。だから大丈夫。 今までも何度もステージに立ってバイオリンを奏でた。 いつもいつもその時にできる最大限の音を出そうとしてきた。 一歩踏み出すときには足が震えそうなほどに怖いと思い、けれど音を出せばすぐにそんなことは忘れて、ただひたすらに音を追いかけることに必死になった。 熱に浮かされたような高揚感の中で、思い出すのはいつも彼のことだった。 音楽に浸かっている幸福感が彼と一緒にいた時の幸福感に似ているからかもしれない。 (終わりたくない) いつも曲を弾き終えるときはそんなことを考えている。 吐きそうなほどのきついレッスンをまたやるのは本当に辛いと思うのに、この幸福感には勝てずにまたバイオリンを弾きたいと思ってしまう。 まるで悪い麻薬のようにぼくを虜にして離さない。 (終わりたくないな) けれど最後の瞬間は必ずやってくる。 ゆっくりと引いた弓を下ろすと、ぼくは目を開けて、真っ暗な客席に視線を向けた。 しんと静まり返ってきたホールが大きな拍手に包まれていく。 ああ、良かった、とほっとした。 深々と一礼したら、じわっと涙が溢れそうになってきゅっと唇を噛み締めた。 コンサートが無事終わり、次々に控え室にスタッフや関係者が顔を出してきて、挨拶をしたりお礼を言ったり。けれど一番会いたい人は姿を見せてくれなくて、ぼくはごめんなさいと詫びて控え室を出た。 さほど広くないホールのロビーは、スタッフが教えてくれた通り青い薔薇で埋め尽くされていた。 誰もが見たこともないような見事な花に見惚れている。 ぼくは階上から見下ろすようにして大勢の人たちの中に彼の姿を探した。 いない? 来ていなかった?それとももう帰ってしまった? もう会えないのかと思うと、今頃になってじくじくと胃が痛くなるような気持ちになる。 玄関付近に視線をやった時、出て行こうとする彼の後ろ姿を見つけて急に腹が立った。 ここまで来て何も言わずに帰るだなんて、あまりにもひどすぎる。 駆け足で階段を降りて、人混みをかきわけて彼を追いかける。 追いつかない。 出て行ってしまう。 そんなのは絶対に嫌だ。 「ギイっ!!!」 思わず大声で叫んだ。 周囲の人がぎょっとしたようにぼくを見る。ついさっきまで舞台にいた人間が必死の形相で大声を上げているのだから驚かないわけがない。 誰に何を思われたってかまうものか。 ぼくは、どうしても今、彼を捕まえなくてはいけないのだから。 精一杯叫んだ声にギイは足を止めて、振り返った。 ぼくの姿を見たギイは、何か眩しいものでも見るかのように目を細め、そして困ったように小さく笑った。 変わってない。 8年たっても、ギイはやっぱりギイで、当然だけどあの頃より年齢を重ねた分大人っぽくなっていて。 相変わらずカッコ良くて、周囲の女の子たちの目を釘付けにしている。 本人は全然意に介していないところも昔のままだ。 ゆっくりと歩み寄るぼくを、ギイは瞬き一つしないで見つめ返していた。 「ギイ・・・」 「・・・久しぶり」 懐かしい声に堪えていた何かが溢れそうになって胸が詰まった。 鼓動が早くなるのを感じながら、ぼくは声が震えていないか気になって仕方なかった。 「来てくれてありがとう、ギイ」 ギイはうん、と微笑んだ。 「会わないで帰るつもりだった?」 「・・・託生が忙しいだろうなって思ったから」 あまりにも他人行儀な理由に胸が痛む。以前のギイなら何があってもこの場にいてくれただろう。 「・・・ごめん、一時間もすれば自由になれるから、少しだけ話できないかな?忙しいって分かってるけど・・・」 「・・・いいよ、大丈夫」 ほっとして、ぼくは今夜泊まるホテルを告げた。なるべく早く行くから、一階のカフェで待っていて欲しいと言うと、ギイは分かったとうなづいた。 「慌てて転ぶなよ」 揶揄する口調も、いたずらっぽい瞳もあの頃のままで、一瞬時間が巻き戻ったような気になった。 ホールを出て行くギイの後姿を見送って、ぼくはばたばたと控え室へと戻った。 辻本さんにこのあとの事務処理をお願いすると、快く引き受けてくれた。 もともと打ち上げは後日改めてとなっていたので、ぼくは手早く荷物を片付けるとホールをあとにした。 ちらちらと降っていた雪は激しさを増し、辺りはうっすらと白くなっていた。 吐く息も白く、首元に巻いたマフラーにきゅっと首をすくめた。 本当に慌てて転ばないようにと気をつけながら、ぼくはギイが待っているホテルへと急いだ。 ***** クリスマスということもあって、ホテルのロビーは賑わっていた。 託生に指定されたカフェもほとんど満席だったけれど、少し待って何とか席を確保することができた。 コーヒーを頼んで、ぼんやりと窓の外を眺めた。 (そういえば、恋人らしいクリスマスなんて過ごしたことなかったな) 託生にしたクリスマスプレゼントといえば、2年の冬のあのツリーのイルミネーションくらいなものだ。 何てことのないプレゼントを、託生は目を輝かせて喜んでくれた。 今となっては懐かしい思い出だ。 コンサートに行こうと決めて、島岡に12月のクリスマス前後に休暇を作ってもらうよう頼んだ。 それだけで島岡はすべて分かったようで、過密なスケジュールを上手くやりくりしてくれた。 けれど最初こそ託生に会おうと心を決めていたのに、実際に舞台に立つ託生を見ていると、会うのが怖くなった。 堂々と大勢の人の前でバイオリンを奏でる託生の姿を見ていたら、やっぱり今さら会っても仕方がないのではないかと思えてきた。 雑誌に載る託生を見て、懐かしくて恋しくて、どうしても会いたくなって来てしまった。 だけどもうずいぶんと2人の距離は離れてしまっていた。 お互いに住む世界が違って、別の方向を向いて歩いている。 それはそれで間違ってはいないのだ。 大きな拍手に包まれて微笑む託生を見ていたらそう思えてきた。 やっぱり会うのはよそう。 そう思って帰ろうとしていたオレを、託生が引きとめた。 上気した頬で名前を呼ばれ、言葉が出なかった。 髪を短くし、少し痩せた託生は別人のようにも見えたし、けれど8年前の面影は残していて、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。 話がしたいと言われ、どうしても断ることができなかった。 結局、顔を見て言葉を交わしてしまえば、逃げられるはずもなかったのだ。 溢れそうになる気持ちをずっと小さな箱の中に押し込めていた。その箱の蓋を、託生はあっさりと開けてしまう。 (まるで祠堂に行く前と同じだな) 小さい頃に出会った託生を追いかけて祠堂へ入学した。 ずっとずっと抱えていた気持ちを何とか告げたくて。 受け入れてもらえなくても、ただ好きだということを伝えたくて。 今思えばずいぶんと無謀なことをしたものだと思う。 あの頃みたいに、後先考えずに託生に気持ちを伝えられたら、また何かが変わるのだろうか。 どれだけ考えても答えは出ない。思っていた以上に8年という時間は長かった。 何でも分かっていたつもりだったけれど、結局オレは自分の気持ちさえちゃんと見えていない。 1時間も待たないうちに、カフェの入口に託生が姿を現した。 黒のコートに濃いグリーンのマフラー。髪が濡れているのは雪のせいだろう。 きょろきょろとカフェの中を眺めて、オレに気づくとほっとしたように微笑んだ。 「ごめんね、待たせて」 「いや」 手袋を取って、コートを脱ぐ。ついさっきまでの舞台での衣装とは打って変わったカジュアルな姿に、ようやくオレの知っている託生が目の前にいるような気がした。 すっきりとしたシンプルなセーターもセンスが良くて、着るものには無頓着だったのにずいぶんと変わったものだと感心する。まじまじと見ていると、託生は首を傾げた。 「なに?」 「何でもないよ。寒かっただろう?何か温かいものがいいな」 手を上げて店員に合図する。 「うん、えっと、カフェラテをお願いします」 オーダーを済ませると、託生は正面の席に腰を下ろした。 しばらくお互いに無言のままで、何となく気まずい空気が流れた。 先に口を開いたのは託生だった。 「ギイ、コンサート来てくれてありがとう」 「いや、オレの方こそ、チケット送ってくれてありがとな」 「・・・来てくれないかと思ったよ」 「・・・だけど送ってくれたんだな」 運ばれてきたカフェラテのカップで冷たくなった手を温めながら、託生は何かを考えるように口を閉ざした。 そしてふいに顔を上げると、真っ直ぐにオレを見た。 「8年ぶりだね」 「そうだな、もうそんなになるんだな」 あの日、一言の言葉も交わせないままに離れてしまった。 何の言い訳もできない。あれはすべてオレが悪かった。託生は何も悪くない。 「ギイは今どうしてるの?お父さんの仕事手伝ってるんだよね。もしかしてもう社長になっちゃったとか」 「まさか。親父はまだまだ現役だし、オレは今ヨーロッパのエリアの一つを任されてて、何とか頑張ってるところだよ」 「そっか。ギイ、今ヨーロッパにいるんだ」 「託生は?って聞くだけ野暮だな。プロになったんだもんな」 「って言っても、佐智さんみたいにあちこちで大きなコンサートをできるまでにはまだまだだけどね。ようやく一歩踏み出せたかな。バイオリニストですって、やっと言えるようになったよ」 今はまだ知る人ぞでも、近い将来託生の音楽を聴きたいと集まる人は増えるだろう。 今日のコンサートの反応を見ていても分かる。 佐智のような眩しいような華やかしい音ではない。託生の音はもっと柔らかく、そのくせどこか一本筋の通ったようなぴりっとしたカッコよさを感じる。 キラキラではなくぱきっ。 なるほど、あの言葉は的確だ。 「そうだ、ギイ、花をありがとう」 「ああ、初めてのコンサートだからな。いつもより多めに贈ってみました」 律儀に礼を言う託生におどけたように返すと、くすくすと笑った。 「ほんとすごい数だからびっくりした」 「約束しただろ、お前がコンサート開くときには花を贈るって」 佐智が聖矢から贈られたバラの花を受け取った時にそんな冗談を言った。 託生は覚えていたようで楽しそうに笑った。 「確かに言った。だけどぼくも言ったよね。そんなにたくさんの花もらっても面倒見切れないからいらないって」 「何だよ、迷惑だったのか?」 「そんなことないよ。嬉しかったよ、すごく」 「そっか」 「でもやっぱり多すぎて、スタッフの女の子やお客様に持って帰ってもらったけど」 ごめんね、と託生がいたずらっぽく笑う。 優しい笑顔の向こう側に、オレが知ってる託生の笑顔が見え隠れする。 同じようで少し違う。 そこには8年分の時間が確かに流れている。 オレの知らない託生の8年。 「で、どうだった、コンサート」 「うん、すごく楽しかったよ。緊張したけどね、でも弾き始めたらそんなこと忘れちゃったし、久しぶりにとても気持ちよく音を出せたな。あのホール、すごく音響設備が整ってて・・・」 音楽のことを話し始めると目の色が変わる。楽しくて仕方がないという様子の託生に目を細める。 以前ならあんなに大勢の前で引くことには腰が引けていただろうに、今では楽しいと目を輝かせている。 それは今までの託生の努力の結果だ。 「託生、雰囲気変わったな」 「え、そうかな?」 「何だか骨っぽくなった」 「何それ」 「カッコ良くなったってこと」 見た目のことだけじゃなくて、前向きで、未来に対して希望を持っている明るさがある。 バイオリニストとしてこれからどんな苦労があったとしても、ちゃんと乗り越えていけるだけの強さを身につけたと思わせる何かを感じた。 それは昔の託生にはなかったものだ。 いや、最初から持っていたのに自分では無理だと思いこんでいた。 今はそれがなくなって、とてもいい感じに落ち着いて見えるし、託生自身も以前よりも楽に生きているようにも思えた。 「ギイは変わらないね」 「そうか?」 「相変わらずカッコいい」 思わず吹き出した。 相変わらずの惚れた欲目的な発言が懐かしい。こんな話をしていると、祠堂にいた頃と何も変わっていないような気がしてくる。 目の前にいるのはまだ17歳の託生で、オレもまだ同じ17歳で。 いろんなことがいっぱいいっぱいで、だけどお互いのことが大好きで何があっても何とかなるような気がしていた。 子供だった。 あの時は精一杯考えていたつもりでも、見えていないことがいっぱいあった。 「託生」 「うん?」 「どうして、って聞かないのか?」 あの時、どうして突然いなくなったのか。 そのあと、どうして連絡しなかったのか。 「いいんだ、もう」 託生はカップをテーブルに置くと、静かに言った。無理をしているようには見えなかった。 「もう終わったことだし」 「恨み言だって何だって、全部聞くつもりだったんだけどな」 託生はううんと首を横に振った。そして必要ないよ、と静かに言った。 「そっか」 「うん」 終わったこと、と託生は言う。 それはオレとのことも終わったことだから、もう今さら何があったかなんて聞いても仕方がないということなのだろう。 嫌いになったわけじゃない。たぶん今でも好きだという気持ちは消えていない。 オレは託生が好きで、託生もオレのことが好きで。 それはお互いにが一番よく分かっていて、向かい合っているだけで、口にしなくても嫌というほど伝わってくるのに、だけどこれ以上どこにもいけない何かが2人の間にはあった。 こんなに好きだと思っていても、どうしようもないこともある。 ポーンと小さな音を立てて、カフェの壁の時計が22時を告げた。 「ああ、もうこんな時間か」 カフェの客ももうまばらになっている。託生は何か言いたげに顔を上げたのを見ないふりをして、そろそろ行こうか、と立ち上がった。 大事なことを伝えていない。 だけどオレからは言えない。 「ギイ、しばらく日本にいるの?」 カフェを出て、ホテルの玄関へと向かった。コートを着て、もう一度託生を見つめる。 そしてもう何十回、何百回と思ったことをまた思う。 ああ、オレはやっぱり託生が好きだな、と。 何があってもこの気持ちが薄れることはなくて、改めて大切なものなのだと思い知らされる。 「久しぶりに休暇もらったからな。1週間だけど。しばらく東京の実家にも顔出してなかったし、今夜はそっちに帰ろうかと思ってる」 「そっか。休暇が終わったら、またヨーロッパ?」 「そうだな」 「・・・」 「託生も休み?」 「うん、コンサートも終わったし、少し早いけど年末年始休暇ってとこかな」 オレを見上げてふわりと笑う。 髪を撫でてやりたくて、伸ばしかけた手を寸でのところで引き止めた。 触れたりしてはいけない。そんなことしたら、また託生を混乱させる。 「じゃあ行くよ。今日はありがとな、託生」 「ぼくの方こそ、来てくれてありがとう」 「元気でな」 「ギイも・・・」 さよなら、と言えなくてまた黙り込む。 向かいあったまま、お互いに動けなくて無言のまま立ち尽くしていた。 玄関の自動ドアが開いて、ひゅっと足元を冷たい風が吹きぬけた。それを合図に、オレは歩き出した。 振り返らずに、真っ直ぐに歩く。 止まっていたタクシーがオレに気づいて扉を開けた。 乗り込もうとした瞬間、強い力で腕を引かれた。 「・・・っ」 「待って、ギイ」 白い息を吐いて、託生が切羽詰った様子でオレの腕を掴んでいた。 びっくりして咄嗟に言葉が出なくて、オレは固まってしまった。 タクシーの運転手が、どうするんだ?というようにオレたちを見る。すみません、と断って、オレは託生ともう一度ホテルの中へと入った。 託生はオレの腕を掴んでいた手を解くと、ごめん、と言った。 「もうこんな時間だし、ギイも疲れてるって分かってるんだけど・・・言わなきゃいけないこと、全然言えてなくて、どうしても言わなきゃいけないことがあって・・・ぼくは・・だって・・・」 どうやら切羽詰ると日本語が怪しくなるのは治っていないらしい。 それさえも懐かしくて、愛しさで胸がいっぱいになる。 「託生、分かったから、ちょっと落ち着けって。時間なら気にしなくていいから。どうする?上のラウンジにでも行くか?」 さすがに今からもう一度カフェに戻るのは気が引けた。 託生は困ったように額に手をやって、それからふっと肩の力を抜いた。 「ギイさえよければ、部屋に・・・来てもらってもいい?二人だけで、話したいから」 「・・・いいよ」 託生がそうしたいというならそうしよう。 オレに言いたいことなんて、きっとありすぎて何から言えばいいか分からないくらいだろう。 文句の一つでも言って気持ちがおさまるならちゃんと聞く覚悟はある。 「ありがとう、ギイ」 礼なんて言う必要はない。 託生のあとをついて客室へと続くエレベーターに2人して乗り込んだ。 ***** 託生が泊まる予定だというシングルの部屋は思っていたよりも広かった。ルームライトを点けると、ぼんやりとしたオレンジ色の光が部屋を満たした。 腕にかけていたコートを椅子の背にかけ、託生はすとんとベッドに腰を下ろした。 まだ自分でも気持ちを整理できていないのか、何度か大きく息を吐き出した。 「託生、お茶飲むか?日本のホテルってやっぱりサービスがいいよな。ティーバッグのお茶なんて外国のホテルじゃなかなかない」 「・・・・」 「お湯沸かそうか?」 返事など期待していなかったので、オレはさっさとお茶の準備を始めた。 「ギイ」 「うん?」 「あの・・・どうしても言いたいことがあって・・・聞いてくれる?」 「もちろん」 湯飲みを二つ持って、向かい合うようにしてオレは部屋の椅子に腰を下ろした。 どれだけ非難されたとしても、あの時言えなかった別れの言葉を今言われたとしても、オレには何も反論はできないし、託生が望むことなら何でも受け入れるつもりでいた。 「8年・・・」 託生はぎゅっと手を握り合わせると、オレを見て、吐き出すようにして話し始めた。 「8年も会えなくて、世間一般からしたら、ぼくたちはもう別れたことになるのかもしれないんだけど、だけど、ぼくはぜんぜんそんな風には思えなくて・・すごく自意識過剰で自惚れているって笑われるかもしれないけど、ギイはぼくのことをちゃんと愛してくれてたから、だからそんな簡単に嫌いになんてなるはずないって、ずっとずっと思ってて・・・」 「託生・・・?」 「祠堂にいた頃、ギイは何度も言ってくれたよね。オレには覚悟があるからって。だけどぼくはその覚悟をする勇気がなくて、そもそも、ギイの言う覚悟の意味さえ分かってなかった。ギイがいなくなって、ぼくはすごく後悔をして、だけどすぐにギイに会いに行くことはできなかった。物理的にっていうよりは気持ちの問題で。ギイの言う覚悟がどういうものか分からないうちは、追いかけていってもきっと同じことの繰り返しになるって思った。ギイの気持ちとぼくの気持ちは同じようでいて、きっとその強さは違ってた。だから、ぼくはギイと同じ覚悟を持ってギイの隣に立てるようになろうって、そうなれたら、自分からギイに会いに行こうって決めたんだ」 「・・・・」 「ギイがいれば、ぼくは安心していろんなことを甘えられた。そんなつもりはなくても、どこかでギイに任せておけば大丈夫って思っていたし、実際ギイもそんなぼくには甘かった。一人になって、それが痛いほどよく分かった。そんな自分を変えたくて、何か一つ、自信を持ってギイに「頑張ったよ」って言えるものが欲しくて、中途半端に取り組んでたバイオリンときちんと向き合うことにした。自分には無理だとかそんな言い訳したくなくて、必死になって食らいついたよ。動機は不純だったかもしれないけど、やっぱり音楽するのは楽しくて、だんだんとギイのためとかじゃなくて、自分のために頑張れるようになった。バイオリンだけじゃなくて、それ以外のこともいろいろ経験していくうちに気づいたんだ。ギイがいなくても平気なんだって。長い間離れていて、すごく寂しくて、好きだという気持ちは変わらないけど、でもギイがいなくてもぼくは笑っているし、楽しいこともある。そうなって初めて、何ていうか・・・ぼくはぼくの足でちゃんと立てるようになってきたのかなって思えた。ギイから何の連絡もなくて、もしかしたらもうこのまま会えなくなってもいいんじゃないかって思ったこともあったけど、だけどぼくは別れたつもりなんてこれっぽっちもなかったから、絶対に会ってやるって意地になって・・・えっと・・何だか何言ってるか分からなくなってきたよね」 「いや・・・」 オレは首を横に振った。 「つまりね、ぼくは成長して、ギイがいなくてもたぶん一人でもやっていける」 「そうだな・・・」 「だけどそれじゃ足りない」 「・・・っ」 「ギイがいなくてもぼくは駄目にはならない、ギイがいなくても生きてはいける。だけど、それでもやっぱりギイがいないと物足りない。ギイがいないと、ぼくの人生は何かが欠けたままで、不完全なままで、きっと本当の意味では幸せにはなれない。ぼくは一度だってギイのことを嫌いになったことはないよ。会えなかった8年間はただ離れていただけ。ぼくはそんな風に思ってた。コンサートはぼくの中では一つの区切りだった。だからチケットを送った」 託生の言葉にオレは両手で顔を覆った。 思ってもいなかったことに、何を言えばいいか分からなかった。 託生がそんなことを考えていたなんて思いもしなかった。 そんな風にオレのことを思っていてくれたなんて。 「ギイ、もうギイの中ではぼくとのことは思い出になってしまったのかな。ギイがこの8年の間に考えてたこと、教えて欲しいんだ」 「・・・・」 「終わったことだっていうのなら・・・それでもいいから」 「違う・・・」 くぐもった声のまま答える。オレはどうすればいいか分からず、この世に及んでさえ迷っていた。 けれど、今、ちゃんと託生に告げなくてはきっと2人ともどこへもいけなくなる。 言うべきことを言って、どうするかを決めるのは託生だ。それでいいと決めて顔を上げた。 「託生、オレはあの日からずっと託生のことを思ってたよ。忘れたことなんて一度もない。最初の2年くらいは本当に連絡できなかったんだ。2年が過ぎたら、託生に連絡しようって思ってた。だけど、ちょうどその頃、託生が留学したって知ったんだ」 「ああ・・うん・・」 「託生が一人で頑張ってることを知って、今連絡するべきじゃないと思った。必死に自分の音楽をものにしようとしているのに、オレが連絡すればきっと気持ちも乱れるだろうし、もしまた元に戻れたとしたら、オレはオレで託生のそばにいたいと思うし、きっと邪魔してしまうだろうなって。だから、留学が終わるまで待とうって思ったんだ」 けれど、託生の留学がいつ終わるのかも分からない。託生の様子は島岡に頼んで教えてもらっていた。 託生が本当にきついレッスンを一人で乗り越えようとしていることを知るうちに、もしかしたらこのまま連絡をしない方がいいんじゃないかと思うようになった。 オレは託生のことになると、どうしたって過保護になって甘やかしてしまう。そんなつもりはなくても何かあればすぐに手を貸してやりたいと思ってしまう。 そんなことを続けていれば、きっと託生を駄目にしてしまう。 託生はオレがいない方がもっと大きくなれる。 だとすればこのまま会わない方がいいのかもしれない。 オレ自身が託生の邪魔をすることなく一緒にいられるくらいに大人になれば、また会える日もくるかもしれない。そんな風にあと少しだけと思ううちに、あっという間に時間はすぎていってしまった。 忙しい日常に身動きがでいなくなり、ますます託生に連絡をするきっかけをなくしてしまった。 けれど本当は怖かったんだと思う。 こんなに時間がたってから託生に連絡をして、何を今さらと言われることが。 オレが変わらず託生のことを好きなように、託生もオレのことを好きでい続けてくれている。そう思う反面、もうとっくの昔にオレのことなんて思い出になってしまっていて、新しい恋人がいたっておかしくはない。 だから自分に言い聞かせた。お互いのために、もう連絡しない方がいいのだと。 「自分勝手に託生から離れてしまったオレからは連絡できなかった。だけどじゃあ託生から会いにきて欲しいなんてもっと自分勝手で考えられなかった。会いたいなんて、また一緒にいて欲しいなんて、オレからは言えない。会えないのは、オレが何も言わずに離れてしまったことへの罰だと思っていた。託生のことを傷つけた罰だって」 8年の間、ずっと心の奥に閉じ込めていた思いを告げると、託生は立ち上がってオレの前に立った。 顔を覆う手をそっと掴んで解いてくれる。 「確かにギイがそばにいなかったおかげで、ぼくはずいぶんと強くなったような気はするよ」 どこか拗ねたような口調で託生が言う。 「最初は驚いて、音沙汰がないことに腹も立てて、何で会いにこないんだよ、ってがっかりして。だけど、何か理由があったんだろうってことくらいぼくにだって分かるし、そりゃ少しは傷ついたりもしたけど、そんなことでギイと別れたいなんて思わないよ。ギイが会いにこないんならぼくが会いにいってやろうって、逆にこんなことくらい諦めてなんかやるものかって思ったくらいで・・・」 顔を上げると、託生は笑った。そしてひどく真面目な表情でまっすぐにオレを見た。 「ねぇギイ、ぼくはもう覚悟ができてる。誰に何を言われても最後にはギイを選ぶ。誰かに反対されても逃げたりしない。そうできるくらいには強くもなった。あのまま一緒にいたら無理だったかもしれない。だけど今なら大丈夫。ギイのことを少しは守ってあげられる」 「そうだな」 「ギイは、ぼくのことが好き?」 「好きだよ」 躊躇することなくきっぱりと言い切る。 8年前と同じように、8年前よりもずっと強く。 オレの言葉に託生は少し照れたように小さく笑って、 「じゃあギイ、つまんないことあれこれ考えるのは止めて、もう諦めてぼくのものになって」 と、ふわりとオレの頭を抱えこむようにして抱きしめた。 言葉にならなくて喉が詰まった。 涙が溢れそうになるのを堪えらきれず目を閉じる。 8年間、ただ離れていただけ。 そんな風に言い切ってしまう託生はすごい。 駄目かもしれないなんて思いながらも、ちゃんと気持ちを伝えられる託生はすごい。 オレがもたもたとしている間に、託生はどんどん先に行ってしまってオレに手を差し伸べてくれる。 男前だな、託生。 ぼくのものになって、だなんて、オレはとっくの昔から託生のものだ。 託生がさらりとオレの髪を撫でる。その心地よさに笑いが漏れた。 懐かしい。 優しい手の感触も、託生の温もりも。 「ギイ、昔と同じ匂いがする」 「そうか?」 「うん。どうしよう、緊張してきた」 「緊張?」 おかしなこと言うんだな、と笑ってしまった。 「だって・・・」 「だって?」 「大好きな人に触ってるから」 そうだった。 大好きな人に8年ぶりに触れている。 緊張はしていないけれど、オレも指先が震えている。 顔を上げると、託生は身を屈めて顔を寄せてきた。 唇が触れると、胸の奥でずっと冷たく固まっていた何かが溶けていうような気がした。 ***** 狭いシングルベッドは祠堂のベッドを思い出させた。 抱きしめたまま横になっていると、あの頃を思い出す。寒がりの託生は冬になるとかなりの頻度でオレのベッドに潜り込んできたものだ。 何もしないで抱き合ってるだけでも満たされた。 「ギイ、眠っちゃった?」 「いや・・」 8年も離れていたくせに、お互いに気持ちは何も変わっていなかった。なのに、勝手にもう会えないなんて思い込んでいた自分が本当に情けなくなる。 この温もりがなくて、いったいどうやって眠っていたんだろうと不思議になるほどだ。 「あの・・・ギイ?」 抱きしめたまま何もしないオレに、託生が戸惑ったように声をかけてくる。 ああ、そうだよな。こういう展開になったのだから、それはそのつもりではあるのだけれど。 だけど・・・ 「ギイ、あの・・・やっぱりまだ迷ってる?」 もう一度一緒にいることを。好きだという気持ちはあるけれど、8年の間にお互いを取り巻く状況は大きく変化してしまった。託生は自分のことよりもオレのことを気にしているのだろう。 そういう所は相変わらずだなと思う。 「違うよ。迷ってなんていない。託生が覚悟してくれたっていうのに、オレが迷うはずないだろ。ただちょっと信じられないでいるだけだよ。本当に託生がここにいるんだなぁって」 正直に言うと、託生はしょうがないなというように溜息をついた。 そして上体を起こすと、そっとオレの頬にキスをした。 「大好きだよ、ギイ」 「・・・」 「えっと・・・」 託生はうろうろと視線を彷徨わせ、それから何か言いかけて口を噤んだ。 その様子も懐かしくて、オレはもう一度託生を抱き寄せた。 「お前、変わったかと思ったけど、やっぱり昔のまんまだな。そうやって目で誘うとこなんてぜんぜん変わってない」 「わ、悪かったね。変わってなくて!」 「いや、嬉しいけどな」 「けど?」 「8年ぶりだし、何の用意もしてないし、託生のことを傷つけたりしたくないから今夜は我慢しようかなとか、でもくっついてるのに我慢するなんてやっぱり無理かなとか、じゃあどうしたものかとか、まぁそういうことをあれこれ考えてたとこ」 「なにそれ・・」 ぱっと頬を赤く染めて託生がやけに色っぽく見えて、そのままゆっくりと口づけた。 頬に、鼻先に、額にと口づけを繰り返していると、託生は口元に笑みを浮かべて、くすぐったそうに身を捩った。 「ギイ・・・したいな・・・」 初めて聞く託生からの誘い文句に黙り込むと、託生はうろうろと視線を彷徨わせた。 「えっと、目で誘うだけの方が良かった?」 そんな風に煽られて我慢できるはずもなかった。 セーターを脱がせて、毟り取るようにしてシャツも脱がせてしまう。 顕わになった肌に手を滑らせて、ふわっと上がった体温を感じたら堪らなくなって身体のあちこちに口づけた。 託生がもどかしげにオレのシャツに手をかけた。指先が震えて上手くボタンを外せずにいることに、笑ってしまい、託生に睨まれた。そんなところは不器用なままみたいだ。 「ちょっと待て」 託生に跨ったまま起き上がって、自分でシャツを脱ぎ捨てた。そのまま託生のベルトを外して、身につけていたすべてを取り去った。 「寒い?」 「ちょっと・・・」 「すぐ熱くなる」 頬を赤くして、託生がオレの視線から逃げるようにして横を向いた。 その身体を引き戻して、少しの間も離れているのがもったいなくて肌を重ねた。 早く一つになりたくて、託生が気持ちいいと思う場所を性急に探った。 薄い背に腕を差し入れて、浮きあがった胸の先に舌を這わせると、託生は吐息を洩らして身をくねらせた。 手の中で形を変える屹立を指の腹で丸くなぞると、すぐにぴちゃりと濡れた音が聞こえた。 「気持ちいい?」 こくこくと小さくうなづく託生に深く口づけた。熱い舌先は甘くて、もっともっととねだるように絡まってくる。 会えなかった時間を埋めようとするかのように、互いの熱を高めることに夢中になった。 託生の手がオレの下肢を這い、昂ぶったものに触れた。そのままきゅっと握り締められて、思わず息を飲んだ。溢れた滴が託生の濡らしていく。 このままじゃあっという間に放ってしまいそうな気がして託生の手首を掴んだ。 「なん・・・っで・・」 「挿れる前にイったらまずいだろ」 「うん、それはさすがにまずいかも」 くすくすと笑う託生が憎らしくて、首筋をきゅっと吸い上げた。痛みに小さく唸って、けれど逃げることはせずに俺の肩先に唇を押し当ててきた。 「何かある?」 乱れた息で託生の耳元で聞いてみると、託生はぱちぱちと瞬きを繰り返した。 「何かって?」 「だから、何か濡らすもの」 「・・・・」 託生は気恥ずかしそうにじっとオレを見つめて、片肘をついて上体を起こすとベッドサイドに置いてあったチューブを手にした。 「ハンドクリームしかないけど」 「・・・貸して」 ないよりマシかと思って手にしてみると、思っていたよりずっと粘度があったので使えそうだった。 「ギイ、灯り消して」 「嫌だ。ちゃんと見たい」 見なくていいよ、と嫌がる言葉には耳を貸さず、膝に手をかけて左右に開けると、託生は両腕で顔を覆った。 「ギイ、恥ずかしいからっ」 「今さら?」 託生の身体で目にしたことのないところなんてない。全部覚えている。 とろりと蜜を零す屹立を指で撫でて、そのまま脚の間へと滑らせる。最奥を指で触れると、託生は嫌がって脚を閉じようとした。往生際の悪い、と笑ってさらに大きく開かせた。 「やっ・・・」 閉じた場所に指を差し入れて中を探る。きつく締め付ける感触に喉が鳴った。 奥まった場所で指を動かすと、託生は大きく息を吐いて腰を震わせた。 「痛くないか?」 「平気・・・だけど・・・っ・・」 「悪い、ちょっとだけ我慢して」 指を増やして、感じる場所を擦り上げる。託生は何度も胸を喘がせてぎゅっとオレの肩を掴んだ。 まだ苦しさの方が勝っている様子にたまらなくなって、身体をずらすと脚の間に顔を埋めた。 「嫌だ・・・っ、ギイ・・・ま・・っ」 ちゅるっと音をさせて咥内に含むと、指を含ませていた最奥がひくりと蠢いた。 溢れる蜜を纏わりつかせるようにして舌で何度も刺激した。唇で何度も擦り上げて、その先を促す。 同時に指で熱い内部への抽挿も繰り返す。 じゅくじゅくとした快楽に負けて、託生は細く声を上げて咥内で放った。 「は・・・ぁ・・・」 どこか呆然としたように託生がくったりと身体を弛緩させる。 力の抜けた両脚を抱え上げて、ぐっと上体を倒した。 「託生・・・入れていい?」 「ん・・・」 硬く猛ったものを押し当ててゆっくりと腰を進めてみる。 先端が飲み込ませると、その圧迫感にお互いに息を詰めた。蕩けそうに熱い内部に吸い込まれるようにして屹立を押し込んでいく。浮いた腰を掴んで引き寄せるようにして全てを含ませた。 「ふ・・・ぅ・・・あっ・・」 託生の首筋に顔を埋めて久しぶりの快楽に目を閉じた。 気持ちいい。 すぐにでも突き上げて泣かせたい衝動にかられたが何とか堪え、ゆっくりと揺すり上げてみる。 「う・・んんぅ・・・あっ・・・」 最初から感じる場所だけを狙って動いていると、託生は甘ったるい声を上げ、無意識のうちに腰を前後させた。繋がりあった部分がどろどろに溶けてしまいそうに熱くて、きゅっと締め付けられるたびにもっともっとと欲しくなった。 「ギイ・・っ、もっと・・・」 同じように感じているのか、託生がするりとオレの首に手を回した。 きゅっと抱きしめると、耳元を掠める甘い吐息にさらに煽られた。 しなやかな脚を抱え上げ、もう無理というところまで突き入れては掻き混ぜる。 頭の中が白く霞んでいくほどの快楽に支配されて、何が何だか分からなくなる。 「あっ・・・んっ・・駄目・・ギイ・・」 泣き声にも似た掠れた声に愛しさが込み上げる。 深く口づけて、汗で濡れた肌を重ねて、託生が極めた一瞬あとに、一番深い所で熱を解き放った。 大きく胸を喘がせて、託生はひくりと喉を鳴らした。 「は・・・ぁ・・」 大きく息を吐き出して、まだきつく収縮を繰り返す内部から己を抜き去ると、託生はくったりと両手をシーツの上に投げ出した。 どこか焦点の合わない瞳で見つめられて、薄く開いた唇にもう一度口付けた。 「なぁ、もう一回できる?」 「え・・・っ」 返事を聞くよりも先に託生の身体をうつ伏せにして、力の入らない腰を引き上げた。 「ちょっ・・・ギイ、待って・・っ」 「ごめん、待てない」 たった今放ったもので滑りがよくなっている場所に、もう一度腰を進めた。 「んんっ・・ばかっ・・も、無理・・・んっ」 「ああ、すごいな・・・」 二度目の挿入は容易く、奥へと誘い込まれるようにすべてを埋め込んだ。 「や・・っ・・んっ・・・」 前へ手を回してまた勃ち上がり始めたものを手にした。中を突き動かすスピードと同じようにして託生のものを擦り上げる。 かくりと頭を下げて、託生はただただ与えられる快楽に身を任せ、時折切なげに小さく泣いた。 激しくなるばかりの律動に、気持ちも身体ももみくちゃにされて、何度も極めた。 「好きだ・・・託生・・・」 耳元で告げると、手の中のものが震えた。 「ぼくも・・・好き・・・だよ・・・」 何度聞いても聞き足りない。 もっと聞きたい。 もっと言いたい。 何度抱き合っても足りなくて、もう一度こんな風に託生を腕の中に抱けることが夢のようだと思った。 翌朝目が覚めると、託生はもう起きていて、小さな音でテレビを見ていた。 朝のニュース番組。明るい音楽と共に天気予報が流れている。 「雪かー、寒いのやだなー」 椅子の上に両脚を抱えて座り、子供っぽい台詞を言う託生に笑ってしまった。 力の抜けた様子はまるっきり8年前と変わっていない。 まるで片時も離れずずっと一緒にいたかのような、これが当たり前の日常で、普段の生活のようなリラックスした空気。 ああ、オレは戻ってこれたんだなと実感する。 「託生」 「あ、ギイ、おはよう」 くるりと振り返って、託生が笑顔を見せる。 「早いな」 「早いっていうか、ほとんど寝てない」 そうでした。もう無理っていうくらい抱き合って、それでも足りなくて眠りたくなくて、朝方まで他愛もない話をしていた。 うとうとしたのはほんの少し前のことだ。 「腹減ったな」 「ふふ、ギイってば相変わらず食欲魔人なんだ。もう後先考えずに食べていい歳じゃないと思うけど」 「めちゃくちゃ運動したからな。朝のバイキング楽しみだな」 「はいはい。シャワー浴びておいでよ。ここのバイキング、和食が充実してるんだよ、昨日食べたけどすごく美味しかった」 ベッドから降りて託生のそばに立った。 見上げる託生の頬に手を添えて口づけると、託生は微かに笑った。 「不思議だよね」 「うん?」 「ずっと一緒にいたみたいだよ。離れていたなんて嘘みたいだ」 「オレも同じこと考えてた」 くすくすと笑って、もう一度口付けを交わした。 ***** 「うー。寒い」 首をすくめて、託生はジタバタと足踏みをした。 チェックアウトを済ませて、今日は一人暮らしをしている部屋へ戻るという託生と一緒にホテルを出たところだった。 夜中からまた降り始めた雪がうっすらを辺りを白く染めていて、気温もぐっと下がっている。 寒がりの託生には我慢できないのだろう。 けれど頬で感じる冷たい空気は心地よく、清々しい気持ちになれた。 たぶんそれは、ずっと抱えていたものが綺麗になくなったからなのだろう。 まるで生まれ変わったように、目に映るものが美しく輝いて見える。 託生の威力はすごいなと感心してしまう。 「はー。吐く息が真っ白だよ」 手を伸ばして託生のマフラーを耳元まで引き上げてやると、ありがとうと託生が笑う。 「それにしても、ずいぶんと髪を短くしたんだな。だから寒いんだ」 「だってさ、海外だとすごく幼く見られるんだよ。それでなくても日本人て若く見られるけど、どういうわけか中学生かなんて言われてさ。ちょっとでも大人っぽく見えるようにと思って、短くしてるんだけど、確かに冬は首筋が寒い」 「まぁ短いのも似合ってるけどな」 「ほんとに?」 「惚れた欲目も混じってるんだろうけど」 「え、ひどいな」 託生がどん、とオレの肩に体をぶつけてきた。 そのまま腕を回して肩を抱こうとすると、駄目だよと託生が腕の中から逃げた。 「何だよ、覚悟決めたんじゃないのか?」 わざとらしく、さぁおいでと両手を広げて見せると、託生は呆れたような顔でオレを軽く睨んだ。 「常識と羞恥が分かる大人になったんだよ。ギイも大人になってくれなきゃ困るんだけどな」 「言ったな」 薄く積もった雪に滑らないようにと注意しながら、駅へと向かって託生が前を歩く。 相変わらず姿勢のいい華奢な背中を見ていると、託生がふと振り返り、白い息を吐きながら、ゆっくりオレへと手を伸ばした。 「転ぶと困るから」 「それ、オレが?それとも託生が?」 問いかけには答えずに、託生は柔らかな笑顔を見せた。 手を繋ごう。 もう二度と何かに躓かないように。 誰に見られたって気にはしない。 覚悟はちゃんとしたよ、と託生が誇らしげに微笑む。 躊躇することなく手を握ると、そのまま寄り添うようにして託生が隣に立った。 「良かった」 「うん?」 「もう一度手を繋ぐことができて」 「ああ」 「もう離さないから、覚悟して」 それはこっちの台詞だと苦笑する。 考えないといけないことも、やらなければいけないことも、たぶんこれからの方がたくさんあって、あの頃よりもずっと大変なのだろうとは思うけれど、だけど、不思議と不安はなかった。 隣に立つ託生が迷うことなく手を繋いでくれるから。 オレのために強くなったという託生が隣にいてくれるから。 8年、離れていた。 もう十分だ。 これからは一緒にいられるために、どうすればいいのかを考えよう。 お互いに大切な仕事があって、生活があって、譲れない考えや、優先しなくてはいけないことがあって。 それでも一緒にいたいと思うから。 「明日、また会える?」 2人同時に口にした言葉に、顔を見合わせて笑ってしまった。 また明日。 何てことのない言葉が、こんなに幸せなものだとは思わなかった。 ちらちらと、また降り始めた雪を見上げると、隣に立つ託生も同じように空を見上げた。 「もう止むよ。天気予報で言ってたから」 明るい光が行く先を照らしてくれるような気がして、もう一度託生の手を強く握り締めた。 |