思い出になる前に


葉山の初めてのコンサートは無事終了した。
クラシックのことはよく分からなかったけれど、胸が震えるような瞬間が何度もあったのでやっぱりなかなかの腕前なんだなぁと今さらながらに思った。
コンサートが終わると、会場のロビーは帰り際の客で溢れ返った。
トイレへ行った奈美が戻ってくるのを待っていると、
「この薔薇すごく綺麗」
と、通り過ぎる人が同じ台詞を口にするのが耳に入った。
ロビーに飾られた青い薔薇の花。
初めて目にする色の花は誰もの目を引いた。
確かに綺麗だ。めちゃくちゃ高そうだな、と苦笑するほどに。
これは演出として飾られたものなのだろうか。
それとも誰かからのプレゼントだろうか。
もしこれが誰かからのプレゼントなのだとしたら、こういうことをするのはギイくらいなものだ。
けれどもう8年もヤツは姿を見せていない。
まさか、と思うものの、葉山のデビューコンサートに来ないなんてことがあるだろうかとも思う。
葉山はまだギイのことを思っている。
どうせギイだって葉山のことを思っているんだろうから、いい加減観念して会いにきたらいいだろうが、と腹立たしくなる。
8年もの間、葉山がどれだけ頑張ってきたかを知っているだけに、何とかしてやりたいと思うものの僕に何ができるわけでもない。
救いといえば、葉山が決して悲壮な感じは見せずに、どちらかと言えば泰然としていることくらいだ。
普通ならあんな消え方をされたら怒って当然だと思うのだが、葉山は
『たぶん。あのギイでもどうしようもできないことがあったんだよ』
と笑うばかりだ。
そしてまだギイのことが好きだとさらりと言う。
十代の恋だからこそ忘れられないのか。
それとも運命の人だから?
どちらにしても、このままでいいわけがないだろう、とまたもどかしい気持ちになる。
その時、ぼんやりとしていた視界の端に、見覚えのあるシルエットが通り過ぎた。
「・・・っ」
背の高い、栗色の髪。
瞬時に鼓動が高鳴った。
ごった返す人々に紛れて、一瞬捉えた姿はすぐに見えなくなった。
「ギイ?」
確かめに行こうかと一歩踏み出したその時、階上の踊り場から身を乗り出すようにして、葉山が大きな声でヤツの名前を呼んだ。
周囲の皆がびっくりして振り返るほどの声で、ギイ、と。
そしてそのまま階段をかけ降りて玄関へと向かう葉山の姿を目で追う。
途切れた人の間から、懐かしい相棒の姿が見えた。
その前に立つ葉山。
何を話しているのかは聞こえなかった。
けれど2人が並ぶその姿に、時間があの頃へと戻っていくような気がした。
あんな風にギイと葉山が一緒にいる場面を、何度も見てきた。

(ああ、懐かしいな)

葉山が何かを言い、ギイが小さく笑ってうなづく。
そしてそのままギイは会場を出ていった。葉山はその後ろ姿を見送って、踵を返してまた階上へと駆け上っていった。
どことなくぎこちなさを感じるのは気のせいか。
もしかしたら・・というより、絶対に今、8年ぶりに再会したって感じだったしな。
あいつ、やっぱりちゃんと来たんだな、とようやくギイらしい行動に笑みが漏れた。
「お待たせ、章三くん」
後ろからつんと腕を引かれ我に返った。
「どうしたの?何だかぼーっとした顔してる。会場の熱気に当てられちゃった?」
「いや・・・」
預かっていたコートを奈美に渡して、たった今目にした光景をもう一度反芻してみる。
夢でも何でもない。ちゃんとギイがいた。
「・・・ギイがいた」
「え?崎さん?どこ?」
きょろきょろと奈美があたりを見渡す。
「もう帰ったみたいだけどな」
行こうかと促すと、奈美はえーっと不満そうな声を上げた。
「私も会いたかったなぁ」
「僕も会ったわけじゃなくて、見かけただけだよ」
「そうなの?葉山さんはちゃんと会えたのかしら」
会えたのは会えただろうが、それだけって感じだったな。
このあとちゃんと話をする約束はできたのだろうか。
8年ぶりに再会して、いったいどんな話をするのやら。
「葉山さんに挨拶しなくて良かったの?」
会場を出るとすっかり暗くなっていて、しんと空気が冷えていた。
どこかでお茶でもして帰ろうかと駅に向かって歩き出す。
「葉山も忙しいだろうから、また日を改めて感想は伝えるよ」
「そうね。すごく良かったって伝えてね」
「ああ」
「ねぇ、崎さんと葉山さん、また一緒にいることにしたのかな」
奈美は2人のことも知っていて、女の子特有の夢見がちな希望として、また2人が元通り付き合えばいいのに、といつも言っていた。
僕は男同士だなんて不毛なので、これを機会に葉山も可愛い彼女を作ればいいといつも言っていた。
もちろん半分本気で半分冗談だったけれど。
だってそりゃそうだろう。
世間一般の良識として、男同士でなんてあまりにも越えなければいけない壁が高すぎる。
それでなくても何も言わずに消えてしまった相手を待つことに本当に意味があるのかどうか、僕には分からなかった。
ギイのことは僕だって好きだし、信頼もしている。
突然消えたのにはきっと何か理由があるのだろう。
けれど、ギイを待ち続けることが本当に葉山の幸せになるのかどうか、僕にはよく分からなかった。
葉山にとって、ギイは特別な存在なのだとは思う。
けれど、8年の間に目を見張るほどに変わった葉山を見ていると、隣に立つのはギイでなくてもいいんじゃないかと思うようになった。
ギイがいなくても幸せになれるのならそれでいいんじゃないかと。
けれど、やっぱりそれじゃ駄目だったんだな。
「章三くん?」
あー、と僕は低く唸った。
「ギイが会いに来たってことは、ヤツにはもう一度やり直す気はあるんだろうさ。そして葉山はそれを拒むことはないんだろう。まったく、元に戻るんなら8年も音信不通になんてするなって言うんだ。あいつは本当に何を考えてるのかさっぱり分からない。あんな自分勝手なヤツを、どうして葉山が8年も待っていられるのかも僕には理解できない。たぶん葉山のことだから、文句の一つを言うでもなく元に戻るに違いないんだ。さんざん僕たちに心配させておいて冗談じゃない。どうせまた、ちょっとしたら連絡があってギイと一緒に暮らすことになった、なんて言うに決まってるんだ」
言うだけ言うと、僕はふぅと息を吐いた。
奈美はそんな俺を見て、くすくすと笑った。
「何だよ」
「だって章三くん、文句言いながらも嬉しそうなんだもん」
「・・・・」
「本当は崎さんが戻ってきてくれて嬉しいんでしょ?」
無言のまま奈美を睨むと、まったく気にしていないように奈美は僕の腕に腕を回した。
「崎さんと葉山さんが一緒にいて、幸せになってくれるのが一番いいって、本当は章三くんだって思ってるんでしょ?だから何の連絡もしてこない崎さんのことをぶつぶつ文句言って。きっともう少ししたら葉山さんか崎さんから連絡があって、三人で会おうって誘われて、またぶつぶつ言いながら会いに行くのよね」
「行くさ。ギイには説教しないといけないからな」
「ふふ、確かにそれは必要かも。葉山さんのこと8年も待たせたんだから」
8年。気が遠くなりそうな時間だな、と今さらのように思う。
「なぁ奈美」
「うん?」
立ち止まってふと思ったことを口にしてみる。
「もし僕たちが8年も離れていたとしたら、どうなるんだろうな」
「えー、今から8年?それはなかなか厳しいなぁ」
笑いながら奈美がそうねぇと首を傾げる。
「付き合う前だったら無理だったかも。何の約束もないままに離れてるのはやっぱり辛いもん。そういうところ、やっぱり女の子の方がシビアだと思うな」
「ふうん」
「だけど今なら大丈夫だと思う」
そう言って奈美はするりと左手を目の前にかざした。
薬指を飾っているのは少し前に贈ったばかりの婚約指輪だ。
「単純、って笑われそうだけど、だけど何か一つ、自分が信じられるものがあれば大丈夫なんだと思う。たとえ他人からは馬鹿みたいって思われても、誰かを好きでいることはその人にしか分からない信念だと思うから。今の私にはこの指輪がその信念の象徴なの。葉山さんにもそういうものがあったんだろうなって思う。目で見えるものじゃなくてもいいの。ちょっとした言葉でもいいの。もしかしたら言葉ですらなくてもいいのかもしれない。葉山さんと崎さんの間でしか分からない何かがあって、だから長い時間会えなくても大丈夫だったんじゃないのかな。きっと何も変わってないのよ。8年前と同じ」
「・・・・そうかもな」
奈美の言葉は、たぶん心のどこかで,、僕も思っていたことなんだと思う。
こんな風に、誰かを好きでいられればいいなと、きっと思ってた。
「明日、葉山さんから電話がくる方にキルフェボンの一番高いヤツ」
いたずらっぽく奈美が笑う。
「明日はないだろう。じゃあ僕は・・・明後日にするかな」
そんなくだらない賭けをして、僕たちは手を繋いで夜道を歩いた。


翌日、夕方になっても葉山から電話はなかったので、よし勝ったと思っていたのに、そろそろ寝るかという時刻になって遠慮がちに電話がかかってきた。
まだ日付は変わっていない。
舌打ちしてラインを繋ぎ、葉山が何かを言う前に口を開いた。
「おい、お前の隣にいる馬鹿には言いたいことが山ほどあるから覚悟しておけって言っておけ」
賭けに負けた腹立たしさも相まって、ついつい口調がきつくなる。
いきなりの、思いもしない言葉に葉山はパニックになっていた。
どうせ昨日再会して、今日は一日2人でまったり過ごしたんだろう。
胸焼けしそうなほどの甘い笑顔を浮かべているであろう相棒の姿が目に浮かぶ。
3人で会いたいんだけど、という葉山の申し出に、ちょっともったいぶってから了解と言った僕は、きっと笑っていたに違いない。






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あとがき

ギイ、やっぱり正座させられるんだろうな。