One more kiss to me


それは何度目のキスだっただろうか。
恋人同士になって、だけど寮生活を送っているのだから早々簡単に会えるわけもなくて。
休みの日に実家に戻り、いつものように遊びにきた乃木沢さんが僕の部屋にきて、いつものように他愛ない近況報告をしていたのだ。
ふと会話が途切れた時、乃木沢さんが顔を寄せてきた。
キスされる、と思ったら自分でもびっくりするくらい心臓が鼓動を早め、耳が熱くなった。
初めてではないけれど、慣れるというほどはしていない。
ふわりと唇が触れると恥ずかしいのと嬉しいのとで頭の中が真っ白になる。
今まで何人もの人と付き合ったことのある乃木沢さんにしてみれば、キスくらいで僕がこんなにも舞い上がっているなんて思いもしないのだろう。
いったん唇が離れると、乃木沢さんはやけに嬉しそうに微笑んだ。
「なに?」
「いや、嫌がらなくなったなぁと思って」
「・・・嫌がったことなんてないですけど」
「ほんとに?」
じゃあもう一度、と言ってキスされた。
うっとりとその心地よさに身を委ねていたら、ぬるっとしたものが唇に触れて、びっくりして目を開けた。
それが舌先だと分かったとたん、思わず乃木沢さんの胸を押し返してしまった。
行きがかり上、拒絶してしまった形になり慌ててしまう。
「あ・・・ごめ・・・んなさい・・」
「あー、やっぱりそれはまだ駄目?」
苦笑して、乃木沢さんが僕の頬をちょんと摘んだ。
唇が触れるだけがキスじゃないってことがくらい知っている。
だけど、そういうキスはしたことがなくて、いやそもそもそれってどうなんだろう。
無言でそんなことを考えている僕に、乃木沢さんはお伺いを立てるように首を傾げて言った。
「玲二くん、もうちょっとちゃんとしたキスがしたいんですけど」
「ちゃんとした・・って?」
「だから舌と舌をくっつけるような」
「・・・は?」

舌と舌をくっつけるキスってどんなヤツですか?






何となくは知っていた。
いわゆるディープキスってヤツ。
いや、でもしたことはないし、どうやってするかも分からないし。
そもそも相手の舌を舐めるのって気持ちいいのかどうかも微妙だ。
気持ち悪いとは思わない。だって好きな人だし。
だけど舌って、どうなんだろう。積極的にくっつけたいとは思わないんだけど、やっぱりそういうのが大人のキスなんだろうか。
本当に想像がつかない。
他人の舌なんて舐めたことないんだし。って、当たり前だよな。
「困った」
結局あのあと、あまりにも僕が呆然としてたものだから、乃木沢さんは困ったように笑って、じゃあまた今度にしようかと言った。
また今度?
今度キスするときは、舌をくっつけるようなキスをすることになるのかと思うと、それだけでパニックになってしまう。
付き合うのは乃木沢さんが初めてだなんてことは当然知られているし、だからキスするのだって乃木沢さんが初めてで。
そんなことを馬鹿にするような人ではないけれど、何も知らないんだなぁと思われるのもちょっと悔しい。
そんな虚勢、ぜんぜん意味がないってことは分かってはいるのだけれど。
いや、そんなことはどうでもよくて、問題はキスなんだよ、うん。
あれこれ想像してみてもちっとも分からない。
みんなどうやってるんだろう。
っていうか、そもそもそんなキスすることは普通なんだろうか。
「よし、教えてもらおう」
分からないことがあれば調べるのが一番だ。
調べるといっても、寮にはパソコンどころか携帯だって持込禁止なので、ネットで調べることもできない。
となると、経験者に聞くのが一番だ。
そういうキスをしてそうな人を思い浮かべてみる。

(ギイか)

アメリカ人だからということではなく、彼には大切にしている恋人がいる。
あの優しくて控えめな恋人はギイのすることならほぼ盲目的に受け入れている感がある。
たぶんいろいろと試しているのではないかと思うのだが・・・
「でもギイに聞くのはちょっと敷居が高いな」
別にギイに対して邪まな感情なんてこれっぽっちも持ってはいないが、呆れられたりするのは極力避けたい。
じゃあ誰がいいんだろうか。
矢倉あたりもいろいろ知ってそうな気がするが、そもそも僕と乃木沢さんのことは知らないわけだし。
「そうか、そうだよな」
はたと気づいた。
乃木沢さんと付き合っていることを知っている人といえばもう限られてしまうじゃないか。
「葉山くんを探さなくちゃ」
すっごく嫌な顔をされるだろうことは想像できたが、こうなればもう藁にも縋る気持ちだったのだ。




寮の部屋を訪ねてみると、葉山くんは真面目に宿題に取り組んでいるところだった。
僕が顔を覗かせると、突然の訪問に嫌な顔一つせず、にこにこと迎え入れてくれた。
「蓑巌くん、どうしたの?何か用?」
「うん、ちょっと教えて欲しいことがあって」
「ぼくに?」
「そう」
何だろう?と葉山くんは不思議そうな顔をした。
同室の三洲はいなかったので、彼の椅子を借りて腰を下ろした。
「あのさ、ディープキスのやり方を教えて欲しいんだけど」
あれこれと説明するのも面倒なので、単刀直入に聞いてみた。
けれど単刀直入すぎて、葉山くんには理解できなかったようで、しばらくきょとんと僕を見ていた。
そして数秒後に僕が何を聞いているのか分かったようで、盛大に赤くなってくれた。
ああ、ほんと、葉山くんて可愛い人だなぁ。
なんて、ギイに知られたら大変なことになりそうだ、と僕は今の感想はなかったことにした。
「あの・・・蓑巌くん・・何、それ?」
「だからキスなんだけど」
「ああ、うんうん、そ、それは分かってるんだけど、そうじゃなくて、あの、どうしてそんなことぼくに聞くのかな!」
「他に聞ける人がいなかったからっていうのと、そういうことしてそうな人が他に思い浮かばなくて」
本当にそれが一番の理由なので、ちゃんとそう答えたのに、葉山くんはさらに顔を赤くしてしまい、何だか見ていて可哀想になってきた。
「ごめん、そんなにうろたえるなんて思わなかったから。葉山くんならギイがいるし、そういうことも経験してるのかなって思って」
「えっ、いや、そんな・・・・」
「してなかった?」
「いや、それは、その・・・」
言いかけて、葉山くんは俯いてしまう。
ああ、ちゃんとしてるんだ。
そりゃそうだよね。あのギイだもんな。
それにしても、ギイっていったいどんな無体なことを
葉山くんにしているのだろうか。何だかすごく気の毒になってきた。
「あの・・・どうして急にそんなこと聞くの?何かあった?」
恐々といった感じで葉山くんが聞いてくる。
僕はうん、とうなづいた。
「そういうキスがしたいって言われたんだけど、したことなくて・・・というか、正直なところ全くやり方が分からなくて。そもそも舌なんて気持ちいいのかなって疑問もあるんだけど」
「ああ・・・う、そうか・・」
葉山くんはうーっと低く唸って、あのさ、と小さく続けた。
「と、とりあえずちょっとだけ唇を開いてればいいんじゃないかな。・・・と、閉じてちゃできないと思う、し・・・」
「うん、まぁそれはそうだよね。そのあとは?だって、舌ってそんなに長く伸びるものなのかな」
「・・・・たぶん・・え、いや、どうかな」
何かを思い出そうとするかのように視線を巡らせ、そしてまた赤くなった。
「葉山くん、それってやっぱり気持ちよかったりする?」
「・・・あー、うーん、それは人それぞれだと思うから、蓑巌くんがしたくないのなら、ちゃんとそう言えばいいんじゃないかな」
「だけど、したいって言われたら?」
自分よりもずっと年上の恋人は、きっと子供っぽいキスなんてしたくはないのだ。
まぁ舌をくっつけるようなキスが大人っぽいのかどうかは分からないけれど。
僕の言葉に、葉山くんが納得したようにうなづいた。
「そっか。そうだよね。したいって言われたらしちゃうよね」
「まぁ何でもOKしてたら身が持たないからほどほどに、とは思うんだけど」
「はは、確かにそうだよね。でも・・・」
葉山くんは少し考えたあとに、どこか照れたような笑みを見せた。
「でも蓑巌くん、舌は別として、好きな人といろいろするのって、あの・・やっぱり楽しい、かな。知らなかったこととか、思いもしなかったことで時々びっくりすることもあるんだけど、でも、そういう自分が知らなかったことを、好きな人とできるのって、ちょっといいなって思わない?」
「・・・・」
「いろんな最初が、好きな人とっていいよね」
そんなことを恋人からさらりと言われたら、そりゃギイはひとたまりもないんだろうなと、今さらながらに葉山くんの無意識の甘えテクニックに感心してしまった。
もっとも本人はそんなつもりはこれっぽっちもないのだ。
そりゃああのギイがメロメロにもなるよな、と納得してしまう。
「あの・・、蓑巌くん」
「うん?」
葉山くんは少し迷った素振りを見せたあと、小さな声でぽつりと言った。






それから一月ほどが過ぎた頃、連休で実家へ戻ったときに、久しぶりに乃木沢さんと顔を合わせた。
僕が実家に戻るたびに遊びに来るのだから、父親はどう思っているんだろうかと少し不安にもなる。
表向きは父親に会いに来ているので、乃木沢さんは1時間ほど父親と団欒をして、そのあと僕の部屋へとやってきた。
「元気そうだね」
「おかげさまで」
「祠堂も携帯電話くらいOKにしてくれればいいのにな。今時公衆電話だけだなんてなぁ」
ぶつぶつとひとしきり不満を口にしたあと、乃木沢さんは僕の手を引いてベッドに座らせた。
「さて。久しぶりに会った恋人に何か言うことはないのかい?」
「・・・何かって?」
「会いたかったとか、好きだとか、愛してるとか・・・」
「言いません」
「だろうね、じゃあ代わりに俺が言うことにしよう」
は?
この人はいったい何を言ってるんだ、と頭の中に「?」が飛び交っていると、乃木沢さんがずいっと身を乗り出してきた。
「会いたかったよ、玲二くん」
「・・・っ」
「毎日きみのことを考えてた」
「・・・いや、ちょっと・・・」
だめだ、どうしても気恥ずかしくてく、腰のあたりがむずむずしてしまう。
「愛して・・・」
「わーっ、もういいですからっ。そういうこと口にしないでくださいっ!」
真昼間からそんな台詞を恥ずかしげもなくよく言えるものだ。
この人はやっぱりどこか嘘っぽい・・・というかどこまでが本気でそこからが芝居なのかが分からない。
僕は本当にこの人とちゃんとやっていけるのだろうか、と不安になってしまう。
「ごめんごめん。玲二くんって、こういうのほんと駄目なんだなぁ」
くすくすと笑われて、からかわれていたのだと気づく。
ばしっと叩くと、乃木沢さんは楽しそうに笑った。
「いや、だけど会いたかったのは本当だし、好きだというのも本当だよ。久しぶりに会えたんだからキスくらいはしてもいい?」
「・・・・」
「心配しなくても、普通のやつにしておくから」
乃木沢さんの言う普通というのはいったいどっちのことなのだろうか。
迷っていると、拒絶されたと思ったのか、乃木沢さんは軽く肩をすくめた。
「キスもお預け?しょうがないな。じゃあまた今度会った時にしようか・・・」
「待ってください」
立ち上がろうとした乃木沢さんの腕を思わず掴んだ。
見つめられて、勇気を振り絞って言ってみる。
「あの・・・します。僕・・したことないんですけど・・教えて・・ください」
「・・・」
「舌くっつけるやつ」
乃木沢さんは軽く瞠目すると、もう一度僕の隣に腰を下ろして、うーんと低く唸った。
「玲二くん、無理しなくてもいいんだよ?」
「無理なんてしてません。今度しよう、って言いましたよね」
「あー、確かに言った」
言ったくせに、いざとなると躊躇うなんて、いったいどういうことだろう。
何だか恥ずかしいことを言ったことが馬鹿みたいに思えて、少しばかり恨みたくもなる。
「したくないならいいです」
「いやいや、したいよ。したいんだけど、どうして急にって、さ」
「だって・・・」


(あの・・、蓑巌くん)

恥ずかしそうに少し迷った素振りを見せたあと、葉山くんが小さな声でぽつりと言った。

(気持ちいいと思うよ?舌くっつけるヤツ)

思いもしなかった言葉に何も言えないでいると、葉山くんはうんうんと頷いた。

(好きな人限定だと思うけど、気持ちいいし、幸せな気分になれるよ。だから、あまり何も考えずに、とりあえずは試してみてもいいんじゃないかな)


あれこれ不安に思って、考えてばかりいたけれど、葉山くんのその言葉は静かに胸を暖かくした。
どんな風にすればいいかとか、下手だったらどうしようとか。
そんなことはどうでもいいことなのだと教えられたような気がしたのだ。
葉山くんの方こそ、あれこれと考えて悩みそうに見えるのに、思い切りがいい人なのだと改めて
思い知らされ、そしてまたこの控えめで優しい友人のことを好きになった。

「乃木沢さん」
「うん?」
僕は思い切って向きを変え、初めて自分から乃木沢さんにキスをした。
もちろんそれはごくごく普通のキスだったけれど、まずはそれから。
驚いて、けれど嬉しそうに笑った乃木沢さんがもう一度、と唇を寄せてくる。
何も知らないことばかりで戸惑うことも多いけれど、少しづつ少しづつ。
いろんな初めてを、僕はこの人と知っていく。






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あとがき

悩む内容は変わっても、聞ける相手は託生くんだけなのだな。