雨の日、ふたりで。


6月になると、彼はほんの少し情緒不安定になる。


高校2年の6月、それまで訪れることができなかった兄の墓へと行くことができて、何かが吹っ切れたように彼は笑顔を見せるようになった。
オレのおかげだと彼は言ってくれるけれど、オレは壁を乗り越えるための手助けをほんの少ししただけで、乗り越えられたのは彼自身の力だ。
彼がその身体と心に受けた傷や痛みは、どれだけ想像力を働かせたところで、本当の意味で理解をしてやることはできないし、軽々しく忘れた方がいいなどと言えるものではない。
すべてを無かったことになどできるはずもなく、どれだけ時間が過ぎたとしても、彼の記憶の中から兄との出来事を消し去ることなどできないのだ。
それはオレにとってひどく切ないことでもあり、彼とはまた別の痛みを感じないわけにはいかなかった。
けれど、オレと一緒にいる時は、彼はいつも穏やかな笑顔を見せてくれる。
まるで生まれてからずっと幸せだったかのように。
だから普段はオレも忘れていられるのだ。
けれど、ある時期になると時折見せる彼の憂いた表情に思い出すのだ。
ああ、6月が来たんだなと。

2人で一緒に墓参りに行く時は、梅雨の合間の晴れた日が多かったというのに、今日は朝からずっと細かい雨が降っていた。
しっとりとした、やけに生暖かい空気。
どうせ降るならもっと激しく降ってくれたらいいのに。
彼の記憶の中にある雨の日を思い出すような雨じゃなければいいのにと、いつも思う。
墓地へと向かう車の中、彼はずっと黙って窓の外を眺めていた。
何を考えているのか確かめるのも怖いような気がして、見ないふりをしていると、ふいに彼の方から話しかけてきた。
「雨、止まないね」
「ああ、そうだな」
「ごめんね、車の中、花の香りでいっぱいになっちゃってる」
晴れていれば窓を開けてることもできたのに。
「いや、いい匂いだから気にならない」
「うん。でもお墓参りにこんな綺麗な色の花っていいのかな?」
「故人のことを思って選んだ花なら大丈夫。気持ちの問題だから」
「そうだね」
膝の上の花束をそっと撫でるようにして抱え直す。
兄がどんな花が好きだったか分からないと言うから、毎回一緒に花屋の店先でその時一番綺麗に咲いている花を選ぶようにしていた。
鮮やかなオレンジの花は、確かに墓前に供えるには相応しくないのかもしれないが、とても美しく、大切な人に贈るにはぴったりだと思えた。
それきりまた車内は静かになった。
やがて車は墓のある敷地内へと入った。雨の止む気配はなく、傘をさして目的の場所へと向かう。
2人の他に人の気配はなく、砂利を踏む音だけが辺りに響いた。
兄の墓の前で並んで立ち、彼は何かを考えるように一つ息をついた。
どうやらすでに両親がお墓参りをすませていたようで、墓の周りは綺麗に掃除がされていた。
兄の墓参りに来られるようになってからも、彼はまだ一度も両親と一緒にはここへは来たことがない。
その理由を聞くつもりはなかった。
どれほど月日が過ぎたとしても、どうしても癒えることのない傷はあるのだ。
「ほら、貸せよ」
声をかけて傘を受け取り、その場にしゃがみこむ彼が濡れないようにとさしかける。
花を添え、そのまま少しの間、彼は手を合わせることなくじっと墓を見つめていた。
もう10年以上も前にこの世を去った兄に、いったい何を思うのだろうか。
今、彼は兄の何を思い出しているのだろうか。
優しかった思い出なのか、それとも辛かった出来事なのか。
やがて彼はゆっくりと手を合わせて目を閉じて俯いた。
ぼくは兄を許すことができるよ、と彼はいつかそう言っていた。
そう言葉にすることで、気持ちの整理をつけたかったのではないかと思う。
前へ進むために、過去に縛られないために。
けれど、彼がそう言って笑うたびに、逆にオレの中に一つの疑問が浮かんでしまう。


もし彼の兄が、もっと違う形で彼のことを愛していたら。
彼はそれを受け入れたのだろうか?


一度思い浮かんだ考えは答えが見えないまま、言葉にできないまま、胸の中で燻り続けていた。
彼のことを信じているのに、不安ばかりが募っていく。

「ありがとう」
声をかけられ我に返った。
立ち上がった彼が、オレのことを不思議そうに見つめている。
「傘・・・ああ、濡れてる。ごめんね」
手を伸ばして濡れた肩の雨粒を払ってくれる。
オレの手から傘を受け取ると、もう一度ありがとうと言って、彼は行こうかとオレを促した。
「もういいのか?」
「うん。報告終了」
「報告?」
歩き出した彼を追うようにしてオレもまた歩き出す。
「ぼくは今、幸せだから心配しなくていいよって」
「・・・・・」
「考えてみるとさ、兄さん、ぼくのこと心配ばっかりしてたなって思って。小さい頃はテンポが遅くて、いろんなことが上手くできなくて、何でもできる兄さんからしてみればきっともどかしかったと思うんだ。でも怒ったりせずに、いつもぼくの心配をしてくれてた」
「・・・・・」
「だから、もう心配しなくていいからって。幸せにしてるから大丈夫って。ああ、でも毎年同じこと報告してるような気がするなぁ。これってあんまり変わり映えしない生活送ってるってことなのかな」
彼の口調はどこまでも穏やかで、その言葉に嘘はない。
オレといる今が幸せだと思ってくれているのだとしたら、これ以上嬉しいことはない。
それなのに、どうしても不安になってしまうのは何故だろう。
「なぁ」
どうしようもない息苦しさが込み上げてきて、思わず声をかけて足を止めた。
先を歩いていた彼が振り返る。
さっと風が吹き、飛ばされないようにと傘の柄を強く握る。
風を避けようとするかのように肩をすくめる彼を真っ直ぐに見つめた。
「なに?どうかした?」
「聞いてもいいか?」
「うん」
「もし・・・もし兄貴が・・・あんな形じゃなくお前のことを愛して、同じように愛して欲しいって言っていたら・・・」
「・・・・」

お前は同じように兄のことを愛したか?

言葉にして聞くのは怖かった。
だからいつも喉の奥で飲み込んでいた問いかけは、口にしてもやはり最後まで言うことはできなかった。
彼はオレが言いたいことが何なのか理解したのか、ほんのちょっと困ったように瞳を揺らした。
瞬時に、彼を傷つけるようなことを口にしてしまったことを後悔した。
「悪い、馬鹿なことを言った」
「ううん・・・」
緩く首を振って、さしていた傘を畳むと、彼はオレの傘の中へと入ってきた。
ぴたりと肩をくっつけて、また歩き出す。
「そういうの考えたことないんだけど・・・」
「だから悪かったよ。忘れてくれ」
「もしかして、生きていたら最高のライバルだったかもしれない、なんて本気で考えていたのかい?」
「まぁ・・・な」
もうこの世にはいない彼の兄は、今でも彼のことを暗い過去へと縛り続け、そしてオレを脅かす。
もし生きていたら、その愛情の深さで負けていたかもしれないなどと、馬鹿げたことを考えさせる。
「・・・ぼくは、兄さんのことを、そんな風に好きになったりはしないよ」
「・・・・」
「どれだけ愛してくれたとしてもね、ぼくにとって兄さんは兄さんだから。そんな風に好きになったりはしない」
彼はオレのシャツの肘のあたりを引っ張ると、
「安心した?」
と笑った。

もしも、なんて考えても仕方のないことを、それでも考えてしまうのは、それだけ彼のことが好きだから。
死んでしまった人間は時間と共に美化されて、記憶の中ではいいことばかりが残っていく。
彼の中で、死んでしまった兄はいったいどんな形で存在しているのだろうか。
そんな不安ばかりが膨らんでいくオレの手を、彼はきゅっと握り締めた。
「6月になると情緒不安定になるのはぼくの方じゃないよね?」
なるほど。彼の言う通りだった。

もしも、なんていくら考えたって意味はない。
そんなことを考えるくらいなら、未来のことを考えた方がずっと建設的だし現実的だ。
そう思っているし、たいていのことはそう割り切って考えることができるというのに、彼のことに関してはそんな簡単に気持ちを切り替えることができない。

「兄さんが最高のライバルだったとしても、ぼくが選ぶのは決まってるけどね」
「一応確認するけど、それ、もちろんオレだよな?」
「消去法だとそうなるね」
「消去法?」
むっとしたオレの声色に、彼が楽しそうに笑う。
「冗談だよ。極めて積極的に選ばせていただきます」
「当然だ」
「自意識過剰」
「そういうところが好きなんだろ?」
どうかな、と首を傾げる彼の肩を抱き寄せて、傘の陰に隠れてキスをした。
「・・・ぼくがこの世で好きになったのは一人だけだよ」
唇が離れると、彼は小さく小さくそう言った。
「これからもずっと好きでいる自信があるんだ。だから、そんなおかしな心配しなくていいよ」
何でもないことのようにあっさりと言った彼に、すっと気持ちが楽になる。
よかった、と思わず零れた言葉に、うんと彼がうなづいた。

6月になると、お互いに少しばかり情緒不安定になる。
たぶんこれからもずっと。
けれど、一緒にいれば、これ以上薄暗い闇の中へと足を踏み入れることはないのだ。

「また来年も、一緒にここに来てくれる?」
「もちろん」
「うん・・・ありがとう」

もしかすると、彼も同じようなことを思っているのかもしれない。

一緒にいれば、どちらかが必ず明るい場所へと手を引くことができる。
一緒にいれば、大丈夫なのだと信じることができる。
だからこの手は決して離さない。

離してはいけない。




Text Top

あとがき

天気のせいではなく薄暗い話になった。しょぼん。