いくら会いたかったからといえ、夢に見るほど会いたかったとはいえ、公衆の面前で、恥かし気もなく抱き締めてしまうだなんて、我ながらよくやったものだと今さらながらに驚いてしまう。
だけど、少しでも離れたらまたギイが消えてしまうんじゃないかと思うと、どうしても離れられず、ぼくはぎゅっと抱き着いたまま、ギイにぽんぽんと背中を叩かれて、ようやく腕を離すことができたのだ。 「ギイ・・・」 久しぶりに会う恋人は、ぜんぜん変わっていなかった。 いや、正確には祠堂にいた頃よりももっとシャープな顔つきになっていて、すっかり大人の男の人に見えた。 だけどぼくを見る目は優しくて、あの頃と何も変わらない。 2年という時間は長かったはずなのに、こうして会うとそんな時間を一気に飛び越えて、あの頃に戻ってしまう。 あの、ギイと過ごした祠堂での時間に。 「ギイ・・・ほんとに?」 「もちろん本物だよ。託生・・・久しぶり」 ギイはどこか躊躇するように微笑んだ。 実際に会えたら何を言えばいいだろうとずっと考えていた。 いろんなことを聞きたくて、言いたくて。 だけど会えばきっと何も言えなくなるんだろうなと思っていた。 ギイがそこにいるだけで胸がいっぱいになって、もしかしたら泣いてしまうかもしれないなんて思ったりもした。 だけど、今、こうしてギイを目の前にしたら、 「ギイの馬鹿っ」 無意識のうちに口が開いた。 「馬鹿っ、何で、今まで・・・っ」 違う、そんなことが言いたいわけじゃない。ギイを責めるつもりなんてこれっぽっちもないし、ただただ会いたかったと、それだけを伝えたかったのに。 「うん、ごめんな、託生」 ギイがもう一度ぼくを抱きしめる。 ぎゅっと力強く抱きしめられて、懐かしい香りに包まれて、その温もりに張り詰めていたものがゆるゆると溶けていくのを感じた。 本当に不思議なくらい、ギイに抱きしめられていることがしっくりと落ち着いた。 ああ、ぼくはずっとずっと、ギイに会いたかったんだなぁと思った。 突然姿を消してから、もう一度会いたくて、そのために今回の留学ができるように死に物狂いで頑張ってきた。 会いたいだなんて、そんなの当然だと思っていたけれど、こうしてギイに触れているともっと切実に、ギイのことを求めていたんだなと思えた。 一緒にいた時には気づかなかった。 ぼくはギイがいなくちゃダメなんだ。 ひとしきりの抱擁のあと、ギイが名残惜しそうにぼくの身体を離した。 「託生、このあとの予定は?」 「えっと、フェアウェルパーティがあるんだ。明日、帰国するから、演奏会の打ち上げっていうか、たぶんそういうの」 お世話になった方々へのお礼も兼ねて。一緒に過ごした友人たちとの別れを惜しむ場になるだろう。コンサートはもうすぐ終わる。 そのあとすぐに会場へと移動になるはずだ。 「あの・・ギイ・・・」 どうしよう。 今、この手を離したら、またギイと会えなくなってしまうんじゃないだろうか。 そんな恐怖が一気に押し寄せてくる。 思わずギイのシャツの袖口をぎゅっと握り締め、それを見たギイがふっと笑った。 「じゃあオレもそのパーティに一緒に行ってもいい?」 「え?」 「大丈夫、ちゃんと佐智のOKも取るからさ。けっこうな人数が集まるみたいだから、一人くらい増えたって分かりゃしないだろうし」 「でも」 いいのだろうか。留学生たちと、学生たちと先生たちと。たぶん出席者はそういう人たちばかりのはずで、そんな中にギイがいたら目立つことこの上ないと思うのだが。 ためらうぼくに、ギイは大丈夫だよと笑った。 「せっかく2年ぶりに会えたのに、このままさよならだなんて寂しいこと言うなよ」 「それはこっちの台詞だよ」 「そうでした」 ごめんな、とギイはもう一度ぼくに謝る。 少しおどけたように、だけど本心からの言葉だと分かる。ぼくにだけは、それが分かる。 2年も会ってなかったのに、ギイはやっぱりギイのままで、そのことに嬉しくなる。 話したいことも聞きたいことも山ほどあるけれど、今この場で長話はできそうにもない。 とりあえずはコンサートが終わるまでは客席にいるからと言って、ギイはぼくの頬に軽くキスをしてその場を離れていった。 本当にあとで会えるよね、と言いそうになったのは、やっぱり突然ギイがいなくなったことの後遺症なのかもしれない。 ギイのことを信じていたから、絶対にまた会えると思う反面、何も連絡してこないギイに、心のどこかで不安にも感じていた。 いつも一緒にいて、これからもずっと一緒にいられると思っていたけれど、それは本当に奇跡のようなことで、お互いの努力なしでは成し得ないことなのだと、ぼくはあの時に知ったのだ。 いろいろ話したいことがいっぱいある。 聞いて欲しいことも、聞きたいことも。 「夢じゃないよね」 ギイがくれた一輪の青い薔薇。 ぼくはギイに会えた喜びを抱きしめるように、そっと胸元へと引き寄せた。 フェアウェルパーティは思っていたより盛大で、ぼくはどういうわけかあちこちから声をかけられては、その日の演奏の感想や質問を次々へと浴びせられ、同じような話を何度もすることになった。 緊張していたこともあって、自分でも演奏している時のことはあまり覚えていなんだけど、とにかくサツキの演奏に負けないようにと必死だったという記憶しかない。 本当に、あんなに必死にバイオリンを弾いたことはないなと思う。 だけど楽しくてもっともっと弾いていたくて、あっという間に終わってしまったことが何だか寂しくて仕方がない。 自分で弾いていながら、あんなに感動したことはなかった。 本当なら、その感動にどっぷり浸って何も考えられないんじゃないかと思うのだけれど、今はギイのことで頭がいっぱいだった。 ぼくはいろんな人と話をしながらも、いつも視界の端にギイの姿を探していた。 いつもなら華やかな輪の中心にいるであろうギイは、なるべく目立たないようにしているよ、と言った通り、会場の隅で大人しくぼくの知らない誰かと会話をしていた。 時折ギイの視線がぼくへと向かい目が合ったりすると、何となく気恥ずかしくて、ついつい知らないふりをしてしまったりもした。 まるで祠堂でギイに片思いをしていた頃みたいだとも思った。 もっとも、この2年はある意味ギイに片思いしていたようなものだ。 会えなくて、だけど好きな気持ちは変わることがなくて。ただギイに会いたいというだけで、ぼくはこの留学の権利を勝ち取るために必死に練習をしてきた。 それこそ死に物狂いで。もう二度とあんなに脇目もふらず、バイオリンのことだけを考えることなんてないんじゃないかと思う。 だけど、そのおかげで今日のコンサートで満足のいく演奏ができて、そしてこうしてギイにも再会できたのだから、その努力は少しは報われたと思ってもいいのかもしれない。 「託生くん」 ぼんやりとそんなことを考えていると、佐智がにこにこと話しかけてきた。 「今日もお疲れさま。いい演奏だったよ」 「ありがとうございます」 佐智が口にする言葉はすべて本当のことだけだから、今日の演奏は本当にちゃんとできていたのだろう。 だからぼくも素直に礼が言うことができた。 「義一くんがさっきからうるさいから、適当なところで帰っていいよ」 「え、でも」 そういえば、佐智はギイがここに現れることを知っていたのだろうか。 ギイが姿を消してから、佐智もギイには会っていないと言っていたけれど。 「義一くん、託生くんと再会できてすっかり舞い上がってるみたいだから、今夜は覚悟しておいた方がいいかもね」 いたずらっぽく言う佐智に、うっかり顔が赤くなってしまう。 そりゃこのあとギイと二人で会うつもりだけど、だけど明日にはもう帰国しなくてはいけないから、そんなゆっくりはできない、と思うのだ。 だから、何としても次の約束だけはしっかりと取り付けたいと、それだけは決意しているのだけれど。 「託生くん」 「はい」 「演奏してみてどうだった?」 ずばりと問われて、どう答えればいいか迷った。 サツキとの演奏はエネルギーの消耗が半端なく、終わったあとはくたくたになったけれど、何ていうか、今まで経験したことのない刺激と感動があった。 そういうごちゃまぜの感情をどう表現すればいいか分からなくて、しばし考え込んでしまった。 「えっと・・・正直、練習してた時は必死すぎて、もうやめたいって思ったことも何度もあったんですけど、だけど、何ていうか・・練習と本番はぜんぜん違って、ぼくたちの演奏を聴いてくれる大勢の人たちの前でバイオリンを弾くってことは、何ていうか・・・」 世界が変わってるよ、と佐智が言った通り、確かにあの演奏の前と後では世界が変わったように思えた。 あんな経験は滅多にできるものではない。 だけど、もしかしたら佐智が言っていたのはそうではなくて。それだけじゃなくて。 演奏が終わった時、確かに託生の世界はそれまでとは変わっていた。 そこにギイがいたからだ。 初めて経験した演奏だけじゃなくて、そこにギイがいたから、ぼくの世界はそれだけで昨日までのものとは変わった。 「佐智さん、ギイが来ること知っていたんですか?」 「来れたらいいな、とは思ってたけどね」 魔法のように消えて、魔法のように現れたギイ。 ギイは祠堂でぼくの世界を変えた。人間接触嫌悪症で、誰にも心を開こうとしなかったぼくの世界をあっという間に変えてしまった。 あの時と同じように、ギイはまたぼくの世界を変えるのだろうか。 「ほら、託生くん、一通り挨拶したのなら、帰っても大丈夫だよ。そろそろ義一くんが痺れを切らして文句言ってきそうだから」 離れた場所にいるギイはちらちらとこっちを見ている。 お預けを食らった大型犬みたいに思えてちょっと笑ってしまった。 「じゃあ、お言葉に甘えて、そうします」 「うん」 「ありがとうございました。本当に・・ここに来ることができて、本当によかった」 心からお礼を言って、ぼくはぺこりと頭を下げた。 「まだまだ、託生くんが目指す場所はここじゃないからね。もっと違う場所で、もっと違う風景をきみなら見ることができると思うよ」 「・・・」 「頑張って」 「・・・はい」 留学ができて、いい演奏ができて、ギイとも再会できて、何となくこれでゴールのような気がしていたぼくに、佐智さんはきっちりと釘を刺してくれた。 そうだった、これはまだ始まりにすぎないのだと、改めて思った。 うん、と一つうなづいて、ぼくは気持ちを引き締めた。 パーティはますます盛り上がっていて、ぼくがいなくなったところで何の問題もなさそうだ。 会場の片隅にいたギイの元へと駆け寄ると、ギイは眩しいものを見るかのように目を細めた。 「挨拶まわりは終了?」 「うん、たぶんもう大丈夫。ギイは?」 「オレ?オレはここじゃまったく部外者だからな、いついなくなっても問題なし」 少し身を屈めて、ギイがぼくの顔を覗き込む。 「託生が泊ってる部屋に行ってもいい?」 「・・・うん」 「いろいろ積もる話もあるんだけど、もし今夜中に終わらなかったら、泊まっていってもいい?」 「・・・うん」 よし、とギイはいきなりぼくの手を掴むと、そのままずんずんと出口の方へと歩き始めた。 「ちょ、ちょっとギイ、手、離して。恥ずかしいよ」 「オレは恥かしくない」 「ぼくは恥ずかしい」 だってさすがに男が男の手を取ってぐいぐい引っ張っていく図に、みんなちらちらと視線を向けてくる。 おまけにギイは2年の間に、あの頃とはまた違う雰囲気の美男子になっていて、ギイのことをよく知る ぼくだってちょっとドキドキしてるくらいなのだ。 注目されないわけがない。 「ギイってば」 「はいはい」 ぱっと手を離されて、ほっとしたのもつかの間、今度はがっしりと肩を抱かれてしまった。 「ちょっ・・」 「託生くん、あんまりあれこれ言うと、今度はその口塞ぐからな」 「どうやって?」 思わず言うと、ギイは突然足を止め、あやうくぼくは前に躓きそうになる。 「もうギイ、危ないよっ」 「お前な、2年の間にオレを翻弄する技を身につけた?」 「はい?」 「あー、違うな、お前昔っからそうだもんな。無意識にオレのこと振り回すんだもんな」 うんうんとギイは勝手に納得して、ぼくの肩を抱いたまま会場をあとにした。 ロビーを抜け、玄関先で待機しているタクシーに乗り込むと、ぼくが泊っている部屋はどこ?と聞いた。 迷子になってもちゃんと帰れるように、と財布の中に入れていた住所を書いたメモを取り出す。 ギイはそれを確認すると運転手にさらりと告げた。 「ギイってば相変わらず強引だなぁ」 「そうか?佐智がOKするまで、オレ大人しくちゃんと待ってただろ?」 「いつ佐智さんがOKしたの?」 「お前に、もう帰っていいよって言うまでは大人しくしてろって、それがパーティに出る条件だって言われたんだよ」 そうなんだ。 正直なところ、ぼくも本心ではパーティよりもギイのことが気になって仕方なかった。 早く二人きりになりたい、というよりはまたギイがいなくなってしまうんじゃないかと思ったからだ。 だけどギイはちゃんとそこにいて、今もこうして隣にいる。 「ん?」 じっとギイを見つめると、ああ、ちゃんとギイがここにいるんだなと思った。 夢じゃない。 そっとギイの手に触れてみると温かくて、ちゃんと知っている手だと思うとわけもなく泣きたくなった。 「託生」 「うん?」 「いろいろごめんな」 小さく、ギイがすまなさそうに言う。 ぼくはそんなギイを見つめた。髪は3年生の時みたいに少し短くしていて、だけどもう眼鏡はかけてない。 ぼくの記憶の中にいるギイが目の前で現実の人として蘇っていく。 「・・・いろいろ言いたいこととか、聞きたいこととか、ギイがいなくなってから考えたんだけど」 ギイがぼくの手をぎゅっと握り締める。 「文句だって言ってやろうとかさ」 「もちろん何でも聞くよ」 「うん、でも、ギイの顔見たら全部吹っ飛んじゃった感じ」 「・・・」 「ちょっと悔しいけど。ほんとに、どうして・・こんなに・・・」 2年も会えなかったというのに、どうしてこんなに好きなままなんだろう。 会えたとたんに、好きって気持ちがまた増殖して、ギイのことを好きだということがやっぱり正しいことだったんだと思える。 「馬鹿だな、託生」 ギイはぼくの手をぎゅっと握ると、もう一度馬鹿だなとつぶやいた。 大学から宿として提供されている部屋は小さくても(といっても、日本だと十分な広さだ)、生活するには必要なものはすべて揃っている。 ここで暮らすのはわずかな間だったので、荷物もほとんどない。 明日帰るから荷物も全部トランクにしまってあるから部屋は閑散としたものだ。 「何だか祠堂の寮を思い出すな」 「わかる」 ベッドが二つ、部屋の壁際に並んで置かれていたら、本当に寮っぽい。 「ギイ、何か飲む?て言っても、インスタントのコーヒーくらいしかないんだけど」 「何でもいいよ」 「あ、そうだ」 ぼくは部屋に元々備え付けられていた食器の中から陶器のマグカップを手にして水を注ぎ、ギイがくれた薔薇の花をそっと挿した。 やけに豪華な薔薇の花は質素な部屋には不釣り合いにも思えたけれど、昔の約束を忘れずにギイがくれた花はやっぱり嬉しかったし、不思議な色の花は綺麗だった。 「生花って日本に持って帰れるのかな?」 「あー。ちょっと難しいかもしれないな」 「そうなんだ。置いて帰るの嫌だな」 そっと薄い花びらを指でなぞる。 「心配しなくても、これから何度でもプレゼントするよ」 「・・・ギイ、また会えるの?」 もしかしたら今回会えたのは本当に特別なことで、またしばらく会えなくなるとか、そんなことがあってもおかしくない。 こうして再会できたのに、また会えなくなるのは正直辛い。 ああ、でももしそうなるとしても、今度はいきなり消えてしまうわけじゃないから大丈夫なのかな。 「あの時はごめんな、託生」 ギイは座ってもいいか?と確認してからベッドの端に腰かけた。 おいでと促され、ぼくもその隣に腰をおろす。 「ほんとにごめん。もっとちゃんと話したかったんだけど・・・オレにもどうすることもできなくて」 「うん、ギイが大変だったことは聞いたよ。松本先生からも、聞いた」 「そっか。ずっと連絡もできなくてごめん。その気になれば裏の手を使ってでも連絡することはできたと思う。だけど、今度会う時は、いろんなことちゃんと決着つけてから、正々堂々と託生に会いたかったんだ。誰にももう邪魔されたくなかった」 「・・・」 「だけど、そういうことを託生にちゃんと話をすることもできなかったし、離れている間、めちゃくちゃ不安だった。ほら、三年に進級したときにも、オレ失敗してるし、もちろん大丈夫だって思ってたけど、だけど託生がオレに愛想尽かすことだってあるわけだし・・」 ギイらしくもなく、どこか不安そうな視線を彷徨わせる。そんなギイにぼくは驚いてしまった。 だってぼくが知ってるギイは、いつも自信満々で、どんなことがあっても絶対に弱音なんて吐かない人だった。 あんな風に別れてしまって、だけど何の連絡もないのは、きっとギイはしばらく会わなくても大丈夫だと思っているからだろうなと思ってた。 実際、ぼくはそれくらいのことでギイと別れるつもりもなかったし、あの日、屋上でちゃんとギイの気持ちを聞いていたから、あのまま終わってしまうだなんてこれっぽっちも思ってなかったのだ。 「ギイってば」 「何だよ」 ぼくはギイへと向き直ると、ちょっと子供っぽく拗ねた様子を見せる彼の手を取った。 「少し会わない間に、何だか大人っぽくなったなぁって思ってたのに、中身は逆に子供ぽくなったみたいだね、ギイ」 「子供っぽくはないだろ」 「はは。ほんとは、今日久しぶりにギイを見たら、何だか別人みたいに思えてちょっとドキドキしたよ。祠堂にいる時にギイのことは飽きるくらい見てたのに」 「飽きるって、お前・・」 ますます拗ねたようにギイがぼくの肩を押し返す。 「もちろん飽きたりしなかったけど、でもたぶんギイが知らないだけで、ぼくはずっとギイのこと見てたし、会えない時でもギイの顔を忘れたことなんてなかったのに、だけど今日久しぶりにギイの顔を見た時、ギイってこんな顔してたんだなって、今さらみたいだけど、かっこいいなぁって思ったんだよ」 「・・・」 「ずっと会いたいって思ってたんだよ、ギイ」 「うん」 ギイはふわりと両手を広げてぼくのことを抱きしめた。 ぼくもためらうことなくギイのことを抱きしめ返した。 「ギイ、お願いがあるんだけど」 「なに?」 ぼくは身体を離すと、少々の怒りも込めてギイに訴えた。 「もうぼくに隠し事はしないでほしい。ぼくはギイに比べたら頼りないだろうし、ギイの問題を解決してあげられないかもしれないけど、だけど、何も知らされないままぼくの知らないところでいろんなことが進むのは嫌だ。これからもぼくと一緒にいたいって思ってくれるなら、ギイが抱えてる問題も悩みも、ちゃんと話してほしいし、一緒に考えさせてよ。ぼくもギイには隠し事なんてしたくないし、困った時は話を聞いて欲しい。ギイが、ぼくに何も言ってくれないなら、ぼくだって何も言えなくなる」 「託生・・・」 「見くびらないでよ、ギイ」 「・・・っ」 ギイがはっとしたようにぼくを見る。 「ぼくはギイが思っているより、祠堂にいた頃よりずっと強くなってるよ。この2年、ぼくがどんな思いでいたか分かる?ぼくだって、ギイと同じ覚悟をちゃんとできるよ」 あの頃は一歩踏み出すことが怖かった。知らない世界に飛び込む勇気を持てなかった。 口にはしないそんな恐れを、ギイはきっと見抜いていて、だからぼくには何も求めずにその覚悟ができるまで待つつもりでいてくれたのだ。 だけど、そのせいでこんな風に離れ離れになってしまったんじゃないだろうか。 ずっとそれが気になっていた。 「嬉しいことも辛いことも、悲しいことも、ギイといつだって分かち合いたいって言っただろ?」 3年に進級してギイが急に別の人のように余所余所しくなったあのとき。 ギイなりの理由はあったけど、ぼくはそんな風にギイに守られたくないと思ったのだ。 「オレ、同じ間違いを何度もしてるよな」 「でも今回は不可抗力だったんだろ?」 突然の帰国はギイの意思ではなかった。 今回の突然の別離は仕方なかったとしても、これから先、もしも同じような問題が起こったとしても、もうぼくは二度とギイと離れ離れにはなりたくないのだ。 「託生、何だか逞しくなったな」 「え、そ、そうかな」 「うんカッコよくなった。やばい、託生の新しい一面にまた惚れ直しそう」 ちゅっと軽くキスされて、何言ってんだよと笑う。 「全部ちゃんと話すよ。まだまだ前途多難かもしれないけど、だけど託生、オレと一緒に乗り越えてくれる?」 「当たり前だろ」 「そっか、当たり前って言ってくれるんだな」 「ギイは違うの?」 「いや」 違わない、と言ってギイはぼくの肩先に額をくっつけた。 そしてありがとう、とつぶやいた。 ごめんと謝られるよりも、ありがとうという言葉の方がずっといい。 やっと二人きりになれたことで、肩の力が抜けた。 交代でシャワーを浴びて、かろうじて残っていた飲み物で乾杯をして、それから、突然の別れのあとアメリカへ戻ってから何をしていたのかをギイから聞いた。 何でもできるギイにでもどうにもならないことはあるのだな、とある意味感心してしまった。 だけどこれからは自由にぼくと連絡が取れるようになったと言った。 「祠堂にいた時にもらった携帯、まだ持ってるよ」 「オレも。でもあれはもう使えないんだよな」 「うん、どうやっても電源が入らなかったし」 「でも番号は生きてるよ。変えてないから。もうちゃんと繋がる」 「あ、ぼくは新しい番号に変わってるんだ」 新しい番号を口にすると、ギイは一度聞いただけで覚えてしまったようで、じゃあ今度からここにかけるよと言った。 夜は深まってもちっとも眠くならない。 二人で狭いベッドに横になって、他愛もない話を続けた。 ギイはずっとぼくの手を握っていて、薄闇の中、息がかかるくらいの近さで小さな声で。 祠堂の寮の部屋でも、時々こんな風に一つのベッドでいろいろ話したなぁと思い出す。 「ギイはまたしばらくはアメリカなんだろ?」 「そうだな、でも会いにいくよ。託生が会いたいって思った時にはちゃんと会いにいく」 「遠距離恋愛になるんだね」 「不安か?」 「大丈夫だよ、何しろ2年も会ってなくても大丈夫だったんだから」 「それはありがたいと言うべきか、悲しむべきか」 ギイがうーんと小さくうなる。 「赤池くんもきっと会いたがるよ」 「章三、元気にしてるのか?」 「うん。時々ご飯に行ったりしてるよ」 「ふうん。オレも会いたいな。でも会ったらめちゃくちゃ説教されそう」 「それは覚悟しておいた方がいいかも」 笑うと、ギイも小さく笑った。 もぞもぞと体勢を変えて、ギイはぼくの身体を引き寄せた。 久々の再会で、こんな風にくっついてると、やっぱりちょっとはそんな気持ちにもなったりするんだけど、どうやらギイは今夜は何もするつもりはないらしい。 コンサートで疲れたぼくを気遣ってくれているのだろうけど、昔のギイならそんな時でもちょっとだけ、とか言っただろうに、と思うとちょっと寂しいような・・。 いや、大人になったなぁと思うべきなのか。 そんなことをこっそり思っていると、見抜いたかのようにギイがよしよしというようにぼくの髪を撫でた。 「あー、しまったなぁ、託生からその気になってくれるなんて珍しいことなのに」 「え、そんなんじゃないし」 「それはそれでがっかりなんだけど。もしかして、がっかりしてくれた?」 がっかり、とかじゃないけど。別に期待してたわけでもないし、って、いやでもしたくないかと言われれば、そんなことはないっていうか・・・だって、2年ぶりに再会して、こんな風にくっついてると、そりゃ、さ。 ギイはぼくのこめかみにちゅっと音をさせてキスをした。 「いろいろしたいのは山々なんだけどさ、託生も疲れてるだろうし、さすがに今日は何の準備もしてないんだ、だからごめんな」 「え、いや、そんな謝られても・・・」 困るじゃないか。 ていうか、ギイがそんなこと言うから自分でも分かるくらいに顔が熱くなってしまった。 「明日はちゃんと・・するから・・さ」 どうやらギイも眠くなってきたようで、すぐに静かな寝息が聞こえてきた。 穏やかな息遣いにぼくも次第に睡魔に襲われる。 明日はちゃんとだなんて言っても、残念ながら明日はもう帰国しなくてはいけない。 って、ギイに言ったっけ? うん、言ったはずだ。たぶん。 久しぶりのあれこれはもうちょっと先まで持ち越しでも、残念とかがっかりとか、そういう気持ちにならないのは、たぶんもう離れ離れになることはないんだろうなとそう思えるからだ。 これからいつでも会える。 良かった。もう一度会えて。 昨日まで必死で練習をしていて、今日緊張の本番を迎え、いきなりギイと再会できて、フェアウェルパーティに出席して。 さすがにくたくたなので、ほどなくぼくも眠りに落ちた。 本当にぐっすり、ぐっすりと眠って、目が覚めたのは、ぱたんと扉が閉まる音がしたからだ。 もう少し寝ていたいと、もぞもぞとベッドの中で寝返りを打って、そしてはっと身体を起こした。 隣が空だと気づいたからだ。 「ギイ?」 まさか帰っちゃった? けれどもちろんそんなことはなくて、扉の前に立っていたギイはぼくが起きたことに気づくと、ふわりと笑ってベッドまで戻ってきた。 「おはよう、託生」 それは昔、祠堂の寮で何度も迎えた朝と同じで、何だかくすぐったくなる。 「早起きだね、ギイ」 「いや、ちょっとお客さんが」 「え?誰か来たの?」 「サツキちゃんが」 え、いったいどうして彼女がここへやってきたのだろうか。 昨日のコンサートのことで、何かあったのだろうか。 そういえば、フェアウェルパーティでもちゃんと話もできなかったし、もしかして怒ってるなんてことはないよな。 あたふたとベッドを出たぼくの腕を、ギイがやんわりと引いた。 「サツキちゃん、託生が今日帰国するのをめちゃくちゃ残念がってたぞ」 「でも最初から今日が帰国日だし」 「他の留学生たちはやっとコンサート終わって、少しは観光とか楽しんでさ、それから帰国するもんだろ?」 「まぁ、そんな人もいるだろうけど」 ずいっとギイがぼくへと顔を寄せる。 思わず押されるようにして身を引いた。 何だか嫌な予感がする。こういう表情のギイを、ぼくは昔何度も見た。 「託生、帰国日延ばせよ」 やっぱり。言い出すんじゃないかと思ったよ。 「・・・無理だよ」 そんなこと言われても。だってここも今日引き払わないといけないし、何より飛行機の時間だって決まってる。 「大丈夫。飛行機なんていくらでもチェンジできるし、宿はオレの家に来ればいいんだし、サツキちゃんとももっと話したいだろ?昨日のコンサートのこととかさ」 それは確かに興味深いんだけどさ。 あの時のあの何とも言えない気持ちを共有したのはサツキだけなんだし。 もっとちゃんと感謝の気持ちも伝えたい。 「でも・・」 「せっかく再会できたのに、たった一晩で帰るなんて、託生はそんな薄情なヤツだったのか?」 「えー、でも・・」 「大丈夫。託生が心配しているあれこれは全部オレがちゃんと片付けてやるから。それともそんなに早く帰りたい?オレ、託生のために1週間スケジュール空けてあるんだけどな」 忙しいギイが1週間とはすごいことだ。 小さな子供みたいに拗ねてみせるギイに、やれやれと笑いが漏れた。 「しょうがないな、もう」 「よしっ」 ギイが満面の笑みを見せて、ぼくをぎゅっと抱きしめた。 「でも1週間は無理だから」 「わかってるよ」 「ほんとに?」 「ほんとほんと」 ギイの返事はどこまでも嘘くさいけれど、だけどまだしばらく一緒にいられるというのはやっぱり素直に嬉しいことだ。 「ほんと、相変わらず強引だなぁ、ギイ」 「強引な恋人は嫌いか?」 いたずらっぽく問われて、ぼくはどうかなぁと首を傾げた。 思えば祠堂で同室になった時から、ギイはぐいぐいとぼくを引っ張って、いろんな世界を見せてくれた。 自分一人ではできないことも、ギイがいれば叶うこともある。 他力本願だと言われそうだけど、そういう自分が嫌いじゃない。 「黙ってないで何とか言えよ、託生」 「・・・嫌いじゃないよ、ギイ」 「ほんとに?」 「強引な恋人っていうか、強引なギイは嫌いじゃない」 ぽろりと零れた言葉に、ギイはずいぶんと喜んでいた。 サツキが持ってきてくれたというカップケーキを朝食代わりにいただくことにする。 帰国を延ばすだなんて、ぼくとしては思い切った選択ではあるのだけれど、だけどやっぱりギイと一緒にいたいという気持ちの方が勝ってしまった。 あと数日。ギイと一緒にいられることが、今回の留学のご褒美だとしたら、ぼくは初めて自分で自分を褒めてあげたいと思うのだった。 |