生徒が一人、ある日突然いなくなっても、日常生活というのは何も変わらない。
それまでと同じように時間は過ぎていく。 けれど、そこにいるはずの人がいないことをふとした拍子に思い出しては不思議な気持ちになる。 それは2年の時に鈴木健志がいなくなった時に似ていた。 あの時と違うのは、ギイはどこかで生きているということだ。 だから、二度と会えないなんてことはない。いつかどこかで、もう一度会えるだろうと思う反面、もともと生きる世界が違う人だったから、もう二度と会えなくても仕方がないという諦めにも似た気持ちを持つ者も少なくはなかった。 ギイがこんな山奥の寮にいたこと自体がやっぱり普通のことではなく、だからこんな風に突然いなくなっても、そっちの方が普通なのかもしれないという空気が次第に漂うようになった。 ギイだからしょうがないよ、と誰かが言うと、確かになとうなづくより他になく、やがてそれさえも口にしなくなり、まるで最初からギイはいなかったような気がしてくる頃、祠堂に冬がやってきた。 <野沢政貴> 放課後の音楽室で受験勉強をするのは今のところ託生と政貴の二人しかいない。 祠堂から音大を目指す生徒はかなり限られるので、学校側も楽器の練習ができる場所として受験が終わるまでの期間限定で、音楽室を開放してくれた。 ピアノもあるし防音だし、託生も政貴もこのところ毎日音楽室へ通っていた。 お互いに協力しながら受験勉強を進める方が張り合いもあるし、気合も入る。 託生は子供の頃からバイオリンやピアノを習っていたこともあり、政貴よりも少しばかり受験勉強に役立つ情報も持っている。 政貴は実技以外の学科の情報をどこからか仕入れてきて託生に教えてくれる。 お互い目指す学部は違うけれど、それでも基礎の部分は同じなのであれこれと情報交換をしながら不安な毎日を何とか合格目指して頑張っているところだった。 「葉山くんは大学には実家から通うのかい?」 「うーん、まだ検討中、かな。野沢くんはどうするんだい?」 「俺はちょっと遠くなるし、出ようかなとは思ってるけど」 「そっか、一人暮らしってちょっと想像つかないな」 問題集から顔をあげて、託生は少し考えるように首を傾げた。 もともとふんわりとした雰囲気のあった託生は、ギイがいなくなってから少し大人びた表情を見せるようになった。 けれど、こんな風に小首を傾げる様子は昔と同じで、ほっと安心する。 ギイがいた頃の託生のことが好きだから、変わらないでいて欲しいというのは身勝手な考えかもしれないと思うのだけれど、きっと誰もがそう思っているはずだと政貴は思う。 「でも葉山くん、三年間寮生活してたわけだし、一人暮らしをしたとしても、ある程度のことは何とかなりそうだと思うけど」 「そうなんだけど、だけど寮だとすぐそばに誰かいて、何かあれば助けてもらえたし。そういうのがまったくないって想像できないなって」 政貴はそうかもね、と笑った。 託生はうんとうなづくと、また問題集へと意識を戻した。 うつむき加減に集中して問題を解いている託生に、政貴は毎回すごいなと感心する。 あの事件で怪我をした託生が祠堂に戻ってきた時、もうギイは姿を消していた。 二人が付き合っていることを知っている者たちはみな、託生がどんなに辛い気持ちでいるかを想像するだけでも胸が痛く、どんな言葉をかければいいかも分からなかった。 けれど託生はあからさまに落ち込んだ様子を見せることはなく、周囲の者が腫れものに触るように接することに、 「そんなに気を使ってくれなくてもいいのにね」 と言って笑った。 もしかしたらギイからちゃんと説明を受けていて、託生も納得をしていて、だから平気なのかもしれないと思ったけれど、実際には託生にとっても今回のことは予想外のことで、何が何だか分からないのだという。 それならどうしてそんな平気な顔をしていられるのだろうかとも思う。 もしこれが自分なら、託生のように平然と受験勉強なんてしていられないだろう。 「ねぇ葉山くん」 「うん?」 「あのあと、ギイから連絡あった?」 「・・・ううん」 顔を上げることもなく、託生はさらりと答える。 「ごめん、こういうの、聞かれたくないよね」 政貴が言うと、託生は問題を解く手を止めて、顔を上げた。 「そんなことないよ」 「ほんとに?」 「うん。みんなギイのことはタブーみたいな感じでぜんぜん話さないけど、そっちの方が不自然だよね。まぁぼくに気を使ってあえて話題にしないようにしてくれてるんだろうなぁって思うんだけど」 ギイと託生が恋人同士だとちゃんと知っている者はごくわずかだけれど、2人が2年の時には同室で仲良くしていたこと自体はみんな知っている。 人間接触嫌悪症で、誰とも打ち解けることのなかった託生が、ギイと付き合うようになってからは人が変わったように柔らかくなって、それまで託生のことを遠巻きにしていた者たちとも少しづつ距離を縮めていった。 今では穏やかで優しい託生と一緒にいると癒されると、誰からも好意を寄せられている。 だからこそ、ギイがいなくなって託生のことを心配するものも多くいた。 特にギイとも親しくしていた友人たちは何とも複雑な気持ちで、託生とどう接すればいいかも迷っていた。 だから自然とギイのことは口にできないでいるのだ。 「ギイ、どうしてるのかな」 政貴がつぶやくと、託生もそうだね、と言った。 「本当に葉山くんは・・・ギイが卒業までは祠堂にはいないってこと知らなかったのかい?」 「知らなかったよ。そういうこと、全然言わないから、ギイは。ひどいよね」 ギイは大切なことはいつも自分の中にしまって、何でも自分で解決しようとしていた。 誰もがギイならどんなことでもできるような気でいたけれど、本当はもっとギイの抱えている問題に目を向けるべきだったのだ。 Fグループの御曹司が、こんな山奥の寮にいること自体、不思議なことだったのだから。 「いろんな事情があったんだろうけど、ギイが一番ここにいたかったんだろうし、たぶん何とかして祠堂に残ろうってしてたんだろうね」 政貴の言葉に、託生はそうだよね、と笑った。 その託生の笑顔に、政貴は実はさ、と続けた。 「葉山くんが落ち込んでいないはずはないと思うんだけど、思っていたよりもずっと普通だから、ギイがいなくなること実は知ってて、だから平気なのかなとか思ったんだよね。でもそうじゃなくて。だとしたら、葉山くんのその強さはどこからくるんだろうって」 きっと誰もが託生が淡々と日常を過ごしていることに違和感を感じているに違いない。 だけどその理由すら聞くこともできずに遠巻きにしているのだ。 託生は政貴の問いかけに少し考えたあと、平気じゃないけど、と言った。 「平気じゃないよ。今でもどうしてギイがいなくなったのかも分からないし、いろいろと考えることがたくさんあって何から考えればいいか分からないくらい。だけどさ、受験もあって、今はギイのことを考える前に勉強してちゃんと卒業して進学しなくちゃなって。ギイのことが原因で受験に失敗なんてしたくないし」 「うん、それはそうだね」 「受験が迫ってて良かったのかもしれない。そういうのがなかったら、もしかしたらもっといろいろ考えてしまって、落ち込んでたかも。そういう意味ではみんなもギイがいなくなったのはショックだけど、そればかり考えていられないしって感じで良かったのかな」 いいはずはないけれど、と政貴は思う。 ギイのことはみんな大好きだったし、理由も分からずいきなり消えてしまったことのショックは大きい。 けれど確かに託生の言う通り、いつまでもそればかり考えていられる時期でもない。 一番ギイの近くにいた託生がそんな風に言えることに、政貴はまいったなぁと苦笑する。 「葉山くんはなかなか見た目通りじゃないよね」 「え、どういうこと?」 「さすがギイの恋人だけあるなってこと」 「え、え??」 一人で納得している政貴に、託生は戸惑いを隠せないようできょとんと政貴を見返す。 「いいんだ。葉山くんが元気でいてくれるなら。だけど、もし何か辛いことがあったら、俺で良ければ力になるから、ちゃんと話をしてほしいな」 「野沢くん・・・うん、ありがとう。そんな風に言ってくれるとすごく嬉しいよ」 ギイにも託生にも、政貴自身いろいろと世話になったし、託生のことは今は同じ音大を目指す同志としても大事に思っている。 正直なところ、何も言わずに姿を消したギイには複雑な気持ちはあるけれど、何か理由があるに違いないから、今は託生を支えてやれればと思うのだ。 「葉山くん、頑張って合格しようね」 「うん、もちろん」 じゃあもうちょっと頑張ろうか、とまた二人して問題集に取り掛かった。 <真行寺兼満> ギイ先輩がいなくなったと聞いても、最初は何のことだかさっぱり分からなかった。 葉山さんが怪我をしたらしいと聞いて、そっちの方が驚いて心底心配した。 とにかく前代未聞の出来事だったし、先生方は必死に隠そうとはしていたけれど、やっぱり隠しきれるはずもなく、事件はあっという間に全学生が知るところとなった。 何しろギイ先輩がいきなり退学してしまったのだ。 何の説明もないせいで好き勝手な憶測が飛び交って、葉山さんのことを悪く言うヤツもいたりして、幾度となく腹立たしい思いもした。 あのギイ先輩が、こんな形で葉山さんのことを置いていくはずなんてないし、たぶん理由を知らないのは俺たちだけなのだろうと思っていたのだ。 だけど、葉山さんも何も知らされていないのだと知って、今度こそ本当にギイ先輩に対して本気で腹を立ててしまった。 あんなに葉山さんのことを大切にしていたはずなのに、いったいこれはどういうことなのか。 どんな理由があったにしろ、葉山さんを泣かせていいはずがない。 やり場のない怒りはまだ燻り続けていて、真行寺には持て余し気味だった。 「真行寺くん、最近ずっとそんな顔してるね」 「え?」 敷地の外れにある温室で、葉山さんは今日もバイオリンの練習をしている。 音大を受験するという葉山さんは、以前にも増してバイオリンの練習をしていて、本当はほいほいと遊びにきてはいけないんだろうけど、だけど、葉山さんがどうしてるかがやっぱり心配で仕方なかったのだ。 葉山さんはバイオリンをケースに丁寧に置くと、一休み、と言って俺の隣に座った。 今使っているバイオリンは今までとは違うものだ。 ギイ先輩から借りていたというバイオリンはあの事件があって手元からはなくなってしまったので、受験に向けて急遽手に入れたものらしい。慣れるまで大変だよ、とそれでも葉山さんは穏やかな笑みを浮かべて練習に励んでいる。 音楽のことは全然分からないけれど、葉山さんが弾くあのバイオリンの音が好きだった者としては、どうしてギイ先輩はバイオリンを置いていってくれなかったんだ!とこれまた怒りがこみ上げる。 「それにしても真行寺くんも物好きだねぇ、せっかく部活が休みだっていうのにこんなところまで遊びにくるなんて」 「邪魔してますか?俺?」 「そんなことないよ。受験の予行演習だと思ってるから」 以前は下手で恥ずかしいと言っていた葉山さんだけれど、最近はそんなことは言わずに、俺が聞いていても少しも気にせずに弾いている。そりゃあ受験では実技もあるわけだから、人に聴かれるのは嫌だなんて言ってられないだろう。 「最近、三洲くんと喧嘩でもした?」 「へ?」 「だって真行寺くんが温室に来るときはいつも眉間に皺が」 くすくすと笑う葉山さんに、はーっとため息が漏れる。 こんな時に俺とアラタさんの仲を心配するなんて、本当にこの人は人がいいというか何というか。 「眉間に皺があるのは、きっとギイ先輩のせいです」 「え、ギイのせいって?」 「だって、俺、まだぜんぜん納得できてませんし」 まるで駄々っ子のようだと思いながらも、そして葉山さんに言うのはお門違いだと分かっていても言わずにはいられない。 「だってこんなのあんまりですよ。どんだけ考えても、どうしてギイ先輩が急にアメリカに帰ってしまったのかも分からないし、誰にも何も言わずに、あんないきなり。おまけに葉山さんは事件に巻き込まれて怪我しちゃうし、それなのにギイ先輩は・・・」 支離滅裂だと分かっているし、一番辛いのは葉山さんなのに。 だけど言わずにもいられない。もし直接言えるならギイ先輩にだって文句を言いたいくらいだ。 俺の訴えに、葉山さんは困ったように首を傾げた。 「あれは・・・本当にギイのせいじゃないんだよ。確かにちょっと怪我もしたし、びっくりもしたけど、絵利子ちゃんが・・・あ、ギイの妹に怪我がなくて本当に良かったって思うし」 「そりゃそうですけど!そんなの俺だって分かってますけど!だけど・・・俺は葉山さんが辛い思いしてるのが嫌なんです」 言えば言うほど、葉山さんが困ってしまうのに、それでも言わずにいられないのは俺がまだ子供だからなのだろうか。 誰にも愚痴らしいことなんて言わない葉山さんは大人だなぁと思う反面、辛い時には辛いと言って欲しいと思ってしまう。そりゃ俺は年下だし、愚痴をこぼす相手にはならないだろうから、野沢先輩とかアラタさんとか、ちゃんと話を聞いてくれる人になら誰でもいいから、気持ちを吐き出して欲しい。 ただそれだけなのだ。 しばらく黙って俺の憤りを聞いてくれていた葉山さんは、やがてふっと優しく微笑んだ。 「優しいね、真行寺くんは」 「俺、怒ってるンすよ。ギイ先輩に対しては。3年になってすっかりイメージチェンジしちゃって、でもそれは葉山さんのためなのかなって薄々感じてたし、だからしょうがないなって思ってたけど。ひどいっすよ、こんなの。あの時には無理でも、電話とか手紙とか、何でもいいから連絡くらいしてくれても罰は当たらないと思うのに」 「そうだね」 葉山さんは大きく伸びをして、凝り固まった肩をぐるぐると回した。 「・・・ごめんなさい、俺、好き勝手言いすぎてますよね」 「うん?」 「一番辛いのは・・・葉山さんなのに」 誰よりもギイ先輩の近くにいたのは葉山さんで、誰よりもギイ先輩のことを大切にしていたのも葉山さんだ。裏切られて、辛い思いをして、きっと忘れたいと思っているだろうに、俺からこんな八つ当たりをされてはやってられないだろう。 「真行寺くんは本当に優しいね」 「え」 「ぼくもさ、ちょっとはギイに対して怒りたいって気持ちもあったんだけど、どういうわけか周りのみんながぼくの代わりみたいにギイに対して文句を言って怒るからさ、何だかもういいかって思っちゃって」 「はぁ??何っすかそれは!!」 葉山さんってば甘すぎる!!!いくら優しいからといって、それはほんとにお人よしすぎます! 「ほら、そうやってみんな、お前は甘い!って言うんだよね」 「そりゃそうでしょ。当たり前だと思います。俺からすれば、どうして葉山さんがそんなに穏やかでいられるのか不思議なんですけど」 「うーん、そうだなぁ・・・」 だって何も言わないでフェードアウトだなんて、ひどい裏切りだ。 葉山さんは少し考えたあと、 「真行寺くんは、ギイがぼくのことを嫌いになったと思う?」 と聞いた。 あのギイ先輩が葉山さんを嫌いになることなんてあるだろうか。 3年になってからは疎遠を装っていたけれど、あれは1年生たちに対してのパフォーマンスだと聞いているし。 いろんなことを総合的に考えても・・・ 「ギイ先輩は、絶対に葉山さんのことを嫌いになったりはしないと思います。たぶん、みんなそう思ってると思います」 そう言うと、葉山さんは嬉しそうに笑った。 「よかった。真行寺くんがそう思ってくれていて」 「それは・・・」 「だからね、ぼくはギイのことを怒ったり嫌いになったりはしないんだよ」 ギイ先輩が葉山さんのことを好きなのはそうだとしても、あんなことされて、それでも怒ったりしない理由にはなるのだろうか。 何だか納得できないぞ。 「ありがとう、真行寺くん。いろいろ心配してくれて、何だかごめんね」 「やや、何で葉山さんが謝るんすか!そんなの・・・だって葉山さんは何も悪くないのに」 しゅんとうなだれてしまう俺の背を、葉山さんはぽんぽんと叩いた。 それは小さな子供にする仕草のようで、たった1つしか違わないのに、葉山さんがうんと大人のように思えてしまった。 いつもはちょっと頼りなくて守ってあげたいと思わせる人なのに、辛い場面だと驚くくらいに強く見えることがあって、そのギャップに戸惑ってしまう。 「葉山さん、俺は何があっても葉山さんの味方ですから」 「え、あ、うん。ありがとう」 「何かお手伝いできることがあったら、絶対に言ってくださいね!」 「うん、わかったよ」 「絶対ですからね!!」 しつこく言ったところで、たぶん葉山さんは全部自分で飲み込んで一人で頑張ってしまうんだろう。 たぶん、葉山さんが弱音を吐ける相手はギイ先輩だけなんだろう。 俺には何もできないけれど、ただ神様に祈ることだけはできる。 どうか葉山さんがもう一度ギイ先輩と出会えますように。 そして二人が幸せになれますように。 <片倉利久> いくら受験生だからといっても、たまには休息だって必要だ。 と利久に力説されて、それは確かにそうだよなと妙に納得してしまって、日曜日の午後、託生は久しぶりに利久の部屋で将棋をさしていた。 ベッドの端に腰をかけて、将棋盤をはさんで真剣勝負に頭をフル回転させる。 勉強とはまた違う意味で頭を使うので、これで休息になるのだろうかと思うのだけれど、まぁ遊び半分なので、リラックスムードで将棋をさす。 「利久、勉強進んでる?」 「あー、まぁほら、俺は地元の大学だし、そこまでレベル高くないし。託生こそ音大って難しいんだろ?」 「うーん、勉強よりも実技の方が心配かなぁ。何しろ独学だしなぁ」 「そうだよなぁ、音楽の先生もバイオリンは弾けないしな」 「そういうこと」 パチン、パチンと駒を進める。 利久は手の中で駒をかしゃかしゃ言わせながら、次の手を考え始めた。 こうなると時間がかかるのだ。 お互いそれほど強いわけでもないので、時々とんでもない手を打ってしまうことがある。 今のところ託生が勝ち越していることもあって、最近利久はすごく慎重に考えるようになっていた。 託生はよいしょと立ち上がる、机の上に置いてあった缶コーヒーを手に取った。 「利久も飲む?」 「んー、ちょうだい」 「はい」 こうしている1年の時に戻ったような気分になる。 誰とも親しくしていなかった託生にとって、利久は唯一心を許せる友達だった。 周囲から心無いことを言われても、利久だけは託生のことを庇ってくれた。 今思えば、頑なだった自分が悪かったのだと思うけれど、あの頃は自分を守ることだけで精いっぱいだった。 一人でも平気だと思っていたけれど、それはただの強がりにすぎず、利久がいたからぎりぎりの寂しさも耐えることができていたんだと思う。 「卒業したら、もうこんな風に託生と将棋することもなくなるんだなぁ」 しみじみと利久がつぶやいた。 託生はベッドに座ると、そうだねとうなづいた。 祠堂を卒業したら、利久は地元に戻ってしまう。託生も無事音大に合格すれば、どうしたって離れ離れになってしまう。仕方のないことだとは思うけれど、やっぱり寂しい。 「祠堂って、地方からの学生がほとんどだから、卒業したら滅多に会えないのはみんなそうだけど、いざ自分がそうなるとやっぱり寂しいよなぁ」 「うん、そうだね」 「だってさ、3年間一緒に生活してたんだぜ?もうさ、家族みたいなもんだろ?何かこれからもずっと一緒にいられるような気がしてたんだよ!あっという間に3年がたって、もう数か月で卒業だなんて信じられないよなー。だいたい自分が大学生になるなんて考えられないんだけど」 「そっか、卒業したら大学生なんだ」 「たーくーみー、そんなしみじみ言うなよ、ほんとに気づいてないんじゃないかって心配になるじゃんか」 「ええ、まさか、ちゃんと分かってるよ」 長男というわけでもないのに(正しくは長男だけれど、姉がいるから弟でもある)、利久は託生のこととなると心配性になってしまうようで、まるで手のかかる弟の世話するように接することがある。 末っ子の託生としては、そういうところも心地よかったのかもしれない。 「利久と離れ離れになるのは寂しいな」 思わず零れた言葉に、利久がぱっと顔を上げた。 「何だよ」 「いや、うん・・・俺も託生と会えなくなるのはめちゃくちゃ寂しいよ」 「うん」 「まぁまだあと少しはこうして一緒に将棋できるけどな」 「そうだね」 「2年の時はさ、クラスも別だったし、託生はギイと仲良くなってずっと一緒だったから、1年の時ほどは一緒にいられなかったしなぁ・・・」 そうは言っても、ギイはいつも忙しくしていたから、そこまで疎遠だったわけじゃない。 たぶんギイが目立つので、ずっと一緒にいると思われがちなだけだ。 「託生は俺よりギイといる方が楽しそうだったしなー」 思わぬ台詞に託生はびっくりした。 まさか利久がそんなことを考えていたなんて思ったこともなかった。 確かに2年になってからはクラスも寮の部屋も分かれてしまったから、1年の頃みたいにずっと一緒にいられるわけではなかったけれど、託生にとっては利久は大切な親友で、いくらギイと仲良くしていたからといって、利久のことをないがしろにしたことはない。 だいたいギイは神出鬼没であちこち飛び回っていたから、暇な時はけっこう利久と遊んでいたようにも思うのだが。 「利久とギイを比べたことなんてないよ」 「分かってるよ」 「利久はぼくにとってはすごく大事な親友だと思ってるし」 「俺だって託生のことは一番の親友だって思ってるぜ」 二人して顔を見合わせて笑ってしまった。 こんなことを改めて口にするのは相当恥ずかしかったけれど、利久に、ギイの方が大事なんだろうと誤解されるのは本意ではない。 「ギイ、今頃どうしてんのかなぁ」 ぱちん、と利久が駒を動かす。 あの日の事件の詳細は一部の人間しか知らないことなので、どうしてギイがいきなり祠堂を去ったのか、託生も利久には話せずにいた。 話すとなると、自分とギイとの関係も話さないわけにはいかない。 ギイとのことは誰かれなしに話しているわけじゃないし、あえて吹聴することでもないから、自分からは誰にも話していなかった。 特に3年になってからはただの友達・・よりももっと疎遠なふりをしていたし。 だけど・・・ 「ギイも一緒に卒業できると思ってたのにな」 「・・・うん」 「あのさ、託生」 利久はどこか改まった口調で、少し視線を彷徨わせたあと、決意したように小さく息を吐きだした。 「間違ってたらごめん。託生とギイってさ、えっと、その・・・もしかしてつ、付き合ってたりし、た?」 「・・・」 「あ、えっと、別に面白がってるとかそういうことじゃなくて、ただ、もし託生がギイと付き合ってたとしたら、ギイが突然いなくなって、辛い思いしてるんじゃないかって・・・思ってさ」 利久は顔を赤くしながらしどろもどろと言い募った。 そんな利久に、託生は今までずっと本当のことを言えずにいたことに胸が痛くなった。 男同志っておっかないじゃん、と言っていた利久だけど、ギイと託生のことを知ったとしても決して馬鹿にしたりはしないだろう。そんな男じゃないと分かっていたのに。 「利久」 「うん?」 「ギイと付き合ってた・・・えっと・・・2年の時、から・・・」 「えっ」 心底驚いたように利久が目を見開く。 「何だよ、聞いておいてそんなに驚くなんて」 打ち明けたこっちだって恥ずかしいのに、と託生が軽く利久を睨む。 「やや、だって、もしかしたらって思ってたけど、でもなぁって半信半疑だっていうか・・・そっか、託生、ギイと付き合ってたんだ」 緊張が抜けたような表情で、利久がはーっと大きく息を吐く。 「そっか、そうだよなぁ、やっぱりそっかー。2年になってさ、託生、嫌悪症も治ってちゃんと笑うようになったし、ギイもさ、すごく託生のこと大事にしてるの知ってたし・・・」 「うん」 「実はさ、今だからバラすけど、託生はギイと一緒にいるとすごく楽しそうだったから、実はちょっと託生のこと取られたような気がして落ち込んだこともあったんだよな。付き合ってたんなら、しょうがないか」 「え?」 へへ、っと利久がバツ悪そうに鼻の頭を指先でかいた。 「俺じゃ託生の嫌悪症治してやれなかったし、あんな風に笑ってくれなかったなぁ、とかさ」 「利久、そんなこと考えたの?利久は一番大切な親友だよ。ギイはまた別の意味で大切な人だけど、2人を比べたりしたことはないし、どっちの方が大切とか、そういうの考えたこともないよ」 「わかってる。俺が勝手にちょっとヤキモチ妬いてただけだから。じゃあ託生は、ほんとはギイが急にいなくなるのも知ってたのか?」 「ううん・・・それは知らなった・・」 そっか、と利久は申し訳なさそうに口を閉ざした。 「ごめんね、利久」 「何が?」 「ずっと、ギイとのこと黙ってて」 「あー、いやまぁ、そんなに簡単には言えないよな」 利久はうんうんと頷き、それからいきなり大興奮の様子で声を上げた。 「だってあのギイだぜ?もし俺がギイと付き合うってことになったら、周りからの嫉妬が怖くてとても言えないし!いや、その前にあのギイと付き合うだなんて、何かもう恐れ多くて無理だけど!」 利久は無理無理っと腕でバツ印を作るとぶんぶんと首を横に振った。 託生は思わず吹きだしてしまった。 親友だというのにずっと黙ってたことを責めない利久の優しさも、ギイが消えた理由を知らない託生を下手に慰めたりしない心遣いも、託生にとってはありがたくて、嬉しかった。 利久はいつも託生にとっては温かい場所でいてくれる。 「託生、ギイと別れたわけじゃないんだろ?」 「・・・うん。ぼくはそう思ってる」 「ならまた会えるさ。あのギイがこのまま消えっぱなしだなんてありえないもんなぁ。あんなに託生のこと大事にしてたし。卒業してしばらくしたら、またひょこっと現れるんじゃないのかな。その時は、託生、ちゃんとギイのこと怒らないとダメだぞ。急にいなくなって辛かったって、ちゃんと言うんだぞ」 利久は真剣に託生に言い含める。 辛いだなんて一言も言っていないのに、当たり前のように利久には分かってしまうのだ。 たぶんいつまでたっても利久にとって託生はハラハラドキドキさせられる存在で、心配しないわけにはいかないのだろう。 ギイが時々冗談でヤキモチを妬くくらいに、利久は託生のことを大事に思ってくれているのだ。 あまりにも近すぎて忘れてしまうほどに、託生にとって利久は大切な存在なのだ。 「卒業してもたまには連絡してくれよな。ギイばっかじゃなくってさ」 「当たり前だろ。利久こそ岩下くんにばかりじゃなくて、たまにはぼくにも連絡してよね」 「なっ、何でここで岩下の名前が出るんだよ」 わたわたと慌てふためく利久が楽しくて、ついつい揶揄ってしまう。 そうそう簡単に友達以上の関係になるとは思っていないけれど、利久が岩下のことを意識しているのは託生も知っている。望んだような形にならなくても、後悔することがなければいいなと思う。 少なくとも託生自身はギイとのことで後悔をしたことはないと胸を張って言えるから。 <三洲新> 真行寺のことを恋人だと認めてしまったことは別に後悔はしていない。 おかしな意地を張って、大切なものを失うくらいなら少しは自分の気持ちに素直になった方がいいと思ったし、真行寺のことを大切だと思う気持ちは嘘ではなかったからだ。 とは言うものの、やっぱりそれまでよりも甘ったるい雰囲気にはなかなか慣れることができない。 けれどそういうのもこれから普通のことになっていくんだろうし、何しろ祠堂で一緒にいられる時間はあと僅かなので、そこは譲歩することにしている。 その甲斐もあってか、最近真行寺はずいぶんとご機嫌だ。まったく単純なヤツだ。 「アラタさん、俺、今日ちょっと失敗しちゃったんですよね」 寮の部屋にひょっこりとやってきた真行寺は、葉山がいないと知るとどこかほっとしたように表情を見せた。 真行寺は葉山と仲がいいので、不在を悲しむことはあってもほっとすることなんてないはずだ。 ということは、失敗というのは葉山に関連したことかと推理した。 「失敗って?葉山に何かしたのか、お前?」 「ええっ、何で葉山さんがらみだって分かったんですか?」 心底驚いたように目を見開く真行寺に、軽く肩をすくめる。 真行寺は嘘がつけない分、思っていることがすぐに表情に出て分かりやすい。 恋人として心を許しているのならなおさらだ。 「で、何したんだ」 「・・・葉山さんにギイ先輩の話を・・・」 「別に失敗でもないだろう。崎の話を避けてばかりいる方が不自然だ」 「それはそうなんですけど、葉山さんの前で、ギイ先輩のことを責めるようなこと言っちゃって。葉山さん困らせちゃったなーって。あああ、俺、ほんとにだめだー。めちゃくちゃ落ち込む」 ばふんとベッドに顔を埋めて、じたばたと自己嫌悪に陥る真行寺に、やれやれとため息が漏れた。 祠堂中の生徒たちが突然崎がいなくなったことに興味津々で、葉山なら何か知っているんじゃないかと思っていて、あの事件直後は不躾な質問をされている現場に何度も出くわした。 その度に、それとなく牽制をしてきたけれど、当の葉山はそれくらいのことでは傷ついた様子はなく、そう言えばそういうヤツだったなと今さらながら感心もした。 もっとも、葉山の本心は分からないし、傷ついていないわけもないのだから、簡単に安心してはいけないとも思うのだが。 「真行寺」 「・・・はい」 ベッドの顔を伏せたまま起き上がろうとしない真行寺の隣に座り、くしゃりとその髪を撫でてやる。 見た目よりもずっと柔らかな髪を何度か撫でていると、そろりと真行寺が顔を上げた。 「俺、ちゃんと葉山さんに謝った方がいいっすよね」 「いや、別に葉山は気にしてないと思うぞ」 「でも・・・」 「大丈夫だ。お前が本当に葉山のことを思って言ったことなんだろう?面白がったり、ただの興味本位で言ったことじゃないのなら、葉山は怒ったりはしない。そんなヤツじゃないってことくらい、お前だって分かってるだろうが」 「・・・それは、はい・・・」 しゅんとうなだれた様子はまるで大型犬のようにでちょっと笑ってしまう。 「みんな少しナーバスになりすぎなんだよ」 「でもアラタさんは葉山さんにギイ先輩の話はしないでしょ?」 「俺はあいつが祠堂にいた頃だって、別にあえて葉山にその話題を振ったりはしてなかった」 ということは、いなくなってから話を振る方が不自然なのか? 俺だけは崎の話をしないことが普通なのだとしたらそれはそれで楽なのかもしれないが。 「崎先輩、ほんとにどうしちゃったんですかね。葉山さんに何も残さないで消えちゃうなんてあんまりっすよ」 「何も残さなかったわけじゃない」 「え?」 きょとんと見返す真行寺にもう一度大丈夫だよ、とうなづいてみせた。 一時間ほど同じ部屋で予習復習に勤しんでいた真行寺が帰るのと入れ替わるようにして、葉山が戻ってきた。 どこかすっきりとした表情を見て、久しぶりに片倉に誘われて将棋をしてくると言っていたので、いい気分転換になったんだろうなと思った。 葉山のことは1年の頃から気になる存在だった。 誰のことも拒絶していた頑なさは、いっそ潔くて好ましく思えた。 クラスも違ったし何の接点もなかったけれど、気になる存在ではあったから、崎が葉山のことを気にしていることはすぐ気づいた。 崎のそれが、恋心的な感情なのだろうなということにもすぐに気づいた。 それからもっと葉山に興味が湧いたような気もする。 あの崎が片思いだなんて正直驚いたけれど、相手が葉山ならさすがの崎も手も足も出せないのも仕方がないと思ったものだ。 何しろあの頃の葉山は少しでも触れようものなら全身から怒りのオーラを発していたのだから。 それが2年になって2人が同室になると、いつの間にか葉山はそれまでの刺々しさはなくなって、いい顔で笑うようになった。 崎はどんな魔法を使ったのだろうかと不思議に思ったが、何てことはない、恋人同士になったことで、葉山の中の何かが変わったのだろう。 葉山を変えたのが崎だということは気に入らなかったが、柔らかい笑顔を見せるようになった葉山も悪くなかった。 それまでの固い殻が消えた葉山は思いの外お節介で、困っている人を見過ごせなくて、その度に崎は渋々手を貸していたようだが、恋人にはどこまでも甘いアというのもある意味新鮮だった。 2人にちょっかいをかけるつもりなんてさらさらなかったが、崎はともかく、葉山とはもう少し話してみたいと思ってた。 3年になって、崎が考えもなしに馬鹿なことをしたせいで葉山が辛い思いをしているのを見ているのは忍びなかった。 崎には任せてられないと、不本意ながらもヤツを挑発してしまうほどに。 (あいつは本当に馬鹿だ) 何回同じことをして葉山を傷つければ気が済むんだろう。 そういうところが気に入らないのだ。 「三洲くん、夕食行く?ちょっと早いけどお腹空いたからもう行こうかと思ってるんだけど」 葉山に声をかけられて時計を見ると、あと少しで食堂が開く時間になっていた。 「まだお腹空いてない?」 「いや、行こう」 うん、とうなづいて葉山が厚手のカーディガンを羽織った。 一緒に部屋を出て、食堂へと向かう。 すっかり日も暮れ、んしんとした寒さが足元から上がってくる。今年の祠堂の冬はいつもよりもずっと厳しくなりそうな気配がしている。寒がりな葉山は肩をすくめてポケットに手を突っ込んで歩いていた。 「そういえば葉山、真行寺がおかしなこと言ったみたいで悪かったな」 「え?真行寺くん?」 きょとんと見返す葉山は何のことか分からないようで、しばらく考え込んでいたが、やがて、ああと小さく笑った。 「真行寺くん、まだギイのこと怒ってるみたいで、あ、でも別におかしなことは言われてないし、三洲くんが謝ることなんて何もないよ」 「あいつは葉山に懐いてるからな、それが高じて崎のことを許せないんだろ」 「そっか・・・。何だか真行寺くんに申し訳ないな」 「何が?」 「だって、誰かのこと怒るのってしんどいことだよ。嫌いになったり、恨んだり。そういう負のエネルギーを持つのって何もいいことないよね。おまけにギイのことは、直接真行寺くんには関係のないことで、たぶん、ぼくの代わりに怒ってくれてるんだろうけど、だから、そういうしんどい思いをさせちゃうのって何だか悪くて。・・・たぶん、ぼくがもっと怒ればみんながそこまで怒ることもないんだろうけど」 「葉山は怒ってないんだろ?」 「うーん、・・・怒ってないってこともないんだけど・・・」 「まぁ葉山が誰かに対して心底怒るって想像できないけどな」 そう言うと、葉山はびっくりしたように目を見開いた。 「そんなことないよ。誰かのことをすごく嫌いで憎んで、ってこと、ぼくにだってあるよ。実は割と長い間そういう気持ちを持っていたから分かるんだ。誰かを嫌いになるってしんどいことだよ」 「・・・」 やっとたどり着いた食堂は暖かく、気の早い生徒たちがもう数人姿を見せていた。 トレイを取って、葉山と定食の列につく。 「みんなギイのことが大好きだったから、いきなりこんなことになって戸惑ってしまって、責めたりするんだろうなって。ギイらしくないから余計にそう思うんだろうなって。だけどみんな本気でギイのことを嫌ったりはしないんだろうけど」 「葉山はバカだな」 「え、ちょっとひどいな」 「バカだけど、葉山らしいし、そういうところがすごいと思う」 貶されてるのか褒められてるのか微妙だなぁと葉山は首を傾げて笑った。 窓際は寒いからという葉山の一言で、暖房のよく効いているエリアに座り、本日の夕食を食べ始める。 「卒業したら、三洲くんもしばらく真行寺くんと会えなくなるね」 「そうだな」 「そういうのが、ちょっと早く来たって思うことにしてるんだ」 葉山は無理してるようには見えず、ごくごく普通にそう言った。 どこまでもお人好しなセリフに力が抜ける。 それは、ちゃんと会えることが分かっているから言える言葉じゃないのか? 葉山の場合、もう一度崎と会えるかどうかも分からない。何しろヤツは今頃アメリカにいることだろう。 大企業の御曹司で、きっと今回いきなり祠堂からいなくなったのも、それが絡んでいるに違いない。 今のご時世、身分違いだなんて言葉は使いたくないけれど、葉山と崎がこの先やっていくには、越えなくてはいけないハードルがたくさんあるだろうことは想像に難くない。 他人事ながら、面倒な恋人を持ったものだと少しばかり同情もしたくなるが、たぶん葉山は困難なことだなんてこれっぽちも思ってはいないのだろう。 真行寺は、崎が葉山に何も残さずに消えたと憤っていたけれど、そんなことはない。 春に、崎が突然葉山と距離を置いた時は、その理由が分からず動揺して嫌悪症が再発しそうになっていたけれど、今また同じようにいなくなった理由も分からない状況でも葉山がここまで落ち着いていられるのは、崎との絆が揺るぎないものになっていて、不安になる必要がないと信じているからだろう。 何も残していないわけじゃない。 崎は間違いなく葉山に大切なものを残していったのだ。 それは認めないわけにはいかない。 「葉山、にんじん残すな」 「あとで食べるんだよ」 「いや、絶対に食べないだろ」 このセリフ、以前崎も言っていたなと思い出してちょっと笑うと、葉山も同じことを思ったのかくすぐったそうに笑った。 あんまり長く放っておくつもりなら、誰かがこんな風に葉山のことを笑わせるようになるかもしれないってこと、崎は分かっているのだろうか。 あとで後悔したって遅いんだから、さっさと葉山の元に帰ってこい。 そんなことを思ったことにため息が漏れる。 こんな甘っちょろいことを考えてしまうのは、きっと真行寺のせいだ。 あいつといると考え方まで甘くなる。 けれど葉山に限定でならいいだろう。 <赤池章三> この時期になると部活を引退した3年生たちは、放課後は自室かもしくは図書室、自習室で受験勉強に勤しむことになる。基本的に寮の部屋は同学年同志となっているので、お互い境遇は同じということで気兼ねなく勉強に集中もできる。 夕食までの時間を利用して明日の予習をこなしていた章三は空になったマグカップを持って部屋を出た。 もうすぐ食堂へ行く時間ではあるが、もう一杯コーヒーが飲みたくなったのだ。 給湯室に入ると、中にいた葉山託生が顔を上げた。 「赤池くんも休憩?」 「ああ。勉強してるとコーヒー飲みたくなるよな。葉山もか?」 「うん。あ、お湯沸かすね」 託生が慣れた手つきで湯を沸かす傍らで、章三はカップにコーヒーの粉を入れた。 「あ」 「うん?」 託生がまじまじとカップをみている。 ふわりと甘い香りが広がって、ああ、と章三は苦笑した。 「バニラマカダミアな。まだちょっと残ってたから。葉山も飲むか?」 「うん、ありがとう。やっぱりいい香りだよね」 ギイが好きで、しばらく章三と二人してハマっていたコーヒーだ。託生のカップにも粉を入れて、そのままお湯が沸くのを待った。 「何だかこのコーヒーを飲むとギイを思い出すよね。赤池くんと二人してよく飲んでたもんね」 「確かに。葉山が仲間外れされたって拗ねてるって、ギイが惚気てたな」 「別に拗ねてなんか・・って、やっぱりちょっと悔しかったのかも。だってギイは誰とも距離置くようなこと言っておきながら、赤池くんとはちゃっかりお気に入りのコーヒーで楽しんだりさ」 託生は自分だけ仲間外れにした、と文句を言うが、あれは本当にギイの息抜きだったのだと章三は思っている。 それまで誰とも何の壁も作らず、むしろ誰にもフレンドリーに接していたギイが、新学期が始まったとたん、誰のこともシャットアウトしたのだ。そりゃあストレスだって溜まる。 そんなギイが章三とこっそりお気に入りのコーヒーを楽しむくらい、ヤキモチを妬くほどのことではない。 本音では託生と一緒にいたいギイが、その託生のことを一番遠ざけなければならない状況だったのだから、さすがのギイもやさぐれようというものだ。 甘ったるい香りのコーヒーを2人で飲みながら、ギイが託生とのことを惚気ていたことは、もちろん託生は知らないことだ。 「葉山、卒業したらどうするんだ?」 「どうするって?」 章三からのお裾分けのコーヒーをそのまま給湯室で立って飲む。 「だから、ギイのこと、どうするんだ?」 「どうって・・・」 どこか恨めし気な視線をよこす託生に、何だよと章三が眉を顰める。 「別に、そんなおかしなこと聞いてないだろ?」 「そうだけど。そういう赤池くんこそ、このままギイと会えなくてもいいの?」 いいわけはない。 もちろん章三にとってギイは大切な友人だし、周りから相棒だと言われるほどに気が合った。 だから託生とは違う意味で、もう一度会いたいとは思っている。 思ってはいるが。 「赤池くんは、ギイのこと怒ってる?」 「え?」 「みんな・・・ギイと仲良くしていた人はみんなギイが何も言わずにいなくなったこと、少なからず怒ってるからさ。そりゃあ、いきなりだったし理由も分からないんだから仕方ないって思うけど、赤池くんもやっぱり怒ってるのかなって思って」 託生はどこか納得していないような口ぶりで、その気持ちは章三にも何となく分かった。 「いや、あれだろ、3年になってすぐも、あいつは誰にも何の相談もなくいきなりスタイル変えて困惑したけどそれなりに理由があったし、だから今回いきなりいなくなったのにもそれなりの理由があるんだろうさ。だから怒るっていうよりは、もっと何とかやりようがあったんじゃないかっていう呆れた気持ちの方が大きいかな。あいつは何するにしても極端すぎる」 「うん」 「嘘つかれたわけじゃないし、騙されたわけでもない。まぁ今のところは、だけど。それでもあいつはいつだって僕たちには誠実だっただろ。だから怒ったり嫌いになったりはしないが、でもまぁ、何でも自分一人で決めてしまうあたりは見くびるなって説教したいところだけどな」 章三が言い放つと、託生はそうだよねと笑った。 「だが、あいつが何の連絡もしてこないっていうのはやっぱりおかしいよな。葉山のためなら何が何でも連絡しそうなものだし、もしかしたら今回ばかりはあのギイでもどうしようもない状況に陥ってるのかもしれない。そう思うと、なおさら怒る気にはなれない」 託生は少し考えたあと、口を開いた。 「赤池くん、ぼくは今回ギイから連絡がないのは、ギイが自分の意思でしてこないんだと思ってるんだよ」 「どういうことだ?」 思わず問い返すと、託生は軽く肩をすくめた。 「だってあのギイだよ?もしそうしたいと思ったら、どんな手を使ってでも連絡してくると思うんだ。だけど連絡がないっていうことは、ギイは連絡できないんじゃなくて、連絡しないって決めたんだと思うんだ」 「何のために?」 「それは分からないけど、だけど、それは自分のためじゃなくて、またぼくのためだったりするんじゃないかなって思うから・・・ほら、新学期が始まった時も、ぼくを守るためだっただろう?敵を欺くには味方からっていうのがギイのやり方だし」 「なるほど」 うん、と託生はうなづいた。 ぼんやりしているように見えて、やっぱりギイのことを一番よく知っているのは葉山なのだなと不思議な感慨を持って章三は思った。 章三がギイと一緒にいる時間以上に、託生はギイと一緒にいたのだ。 ただの友達としてではなく、恋人としてなのだから、当然と言えば当然だ。 「みんなギイのことを少し美化しすぎてるところがあるからな」 だからそういう「理想のギイ」からはみ出てしまうと、どうして?と皆不思議に思ったり、憤ったりするのだろう。 「はは、そうかもね。ギイって完璧な人に見えるもんね。まぁそうじゃない部分もいっぱいあったりするんだけど、そういうこと、みんなは分からなくてもぼくだけはちゃんと分かっていてあげたいって思うんだ。みんながギイのことを怒っても、ぼくは怒らない。嫌いにもならない。だってね、あの日、ギイは言ったんだよ・・・」 「何て?」 「え、えーっと、それはちょっと秘密なんだけど」 「おい、何でそこで赤くなる」 「赤くなんてなってないよ!」 慌てる託生の様子から、どうせくさいセリフをギイが言ったんだろうと思ったが、章三はあえて口にはしなかった。 「とにかく、ぼくはギイの気持ちを疑ったことはないし、あの日を境にギイの気持ちもぼくの気持ちも、何か変わったかっていうと何も変わってないわけだし、そりゃあ不安じゃないって言ったら嘘になるけど、だけどそういうのも全部ひっくるめてギイのことを好きでいようって決めたんだよ」 「・・・」 「ギイは、ぼくの嫌なとこも駄目なとこも、全部ひっくるめて好きになってくれた。だからぼくもギイの駄目なとこも好きでいたいんだ。不安だし会えなくて寂しいなぁとか、辛くないわけじゃないけど、ぼくはギイからきっちりと別れようって言われない限りは、ギイのことを信じることに決めたんだ」 何につけても自分の考えを強く主張することなんてほとんどない託生がきっぱりと言い切ったことに、章三は恥ずかしながらも少しばかり感動してしまった。 託生はあまり自分の気持ちを口にしないから、とギイがぶつぶつと文句(という名の惚気)を言っていたのを思いだした。 「葉山、そういうこと、ちゃんとギイに言ってやれよな」 「ええっ、そんな恥ずかしいよ」 「はぁ!?僕に言う方が恥かしいはずだろうがっ、って違う、そういうことを聞かされる僕の方が恥かしいんだよっ」 うっかり神妙に聞いてしまったが、よくよく考えると、何でこんなところで惚気話を聞かされなくてはいけないのだろうか。 それもこれも、お前がいきなりいなくなったりしたせいだ、と章三は内心恨めしく相棒のことを思った。 皆がギイのことを怒る、と託生は言ったが、そういうのとはまた別の意味で、章三にだってギイに対しては怒る権利はありそうだ。 どこまでも一途に消えてしまった恋人のことを思い続ける友人の惚気話を、きっと卒業してからも聞かされることになるのだろうから。 「まぁいつになるか分からないが、ギイと再会した時には・・・」 「時には?」 「また三人でこのコーヒーが飲めるといいよな」 ギイが好きだった甘い香りのコーヒー。 「さすがのギイももう好みが変わってるんじゃないかなぁ」 託生が言うと、章三は軽く肩をすくめた。 「大丈夫だろ、あいつは一度好きになったらしつこく好きでいるタイプだから」 「・・・」 どこか揶揄するような章三の言葉に、託生はちょっと気恥ずかしそうな表情で笑った。 消灯後の寮はしんと静まり返っている。 一人部屋であればこっそりとベッドの中で本を読むなど夜更かしをすることもできるだろうが、同室者がいると自分だけが勝手なこともできない。 なので、消灯時間を過ぎるとそれまで賑やかだった寮は静寂に包まれる。 そんな静けさの中、託生はそっと忍び足で廊下を抜けて階段を上がった。 誰もいないと分かっていてもやはり少しはドキドキもする。 手にした小さな鍵で今は誰もいない部屋の扉を開ける。 あの日まで、このゼロ番にはギイがいた。二人きりで会うのは控えようと言いながら、章三や矢倉を交えたら大丈夫と言って、託生を部屋に誘ってくれた。 時々人目を忍んで泊まりにきたこともあった。 そんな慣れ親しんだギイのゼロ番も、今はガランと寒々しい。 ベッドの端に腰を下ろして、託生は小さく息を吐きだした。 ギイがいない生活にもようやく慣れた。 いなくなってしばらくは、友人たちは託生に気を使ってギイのことを口にはしなかった。 そのおかげでゆっくりと一人でギイのことを考えることができた。 あれこれ考えて考えて、結局どれだけ考えたところでどうしようもないのだというところに行きついた。 どうしたってギイのことを嫌いにはなれない。 あの日、屋上で、託生のことを愛していると言ったギイの笑顔や声が今でも鮮明に焼き付いていて、思い出すとやっぱり胸の奥がぎゅっと絞られるように痛くなる。 あの言葉に嘘は欠片もなくて、 きっと、ギイもどこかで託生のことを思ってくれていると素直にそう思える。 誰に理解されなくてもいい。 託生だけがそう信じることができるればそれでいいのだ。 もちろん不安だし、寂しいし、ギイに言いたいことはいろいろあるけれど、今はちゃんと大学試験に合格して自分がやりたいと思っている音楽の勉強ができるように、やれるだけのことをやりたいと思っているのだ。 託生は手にしたゼロ番の鍵を眺めた。 (いつ夜這いに来てくれてもいいからな) 冗談めかして、でもちょっと本気のニュアンスも滲ませてギイが言って、ゼロ番を合鍵を託生に渡した。 ゼロ番は一人部屋なので、誰も使わない鍵が一つあって、それをこっそりとくれたのだ。 だけど結局、何だか気恥ずかしくて実際に使ったことはなかった。 ギイがいなくなった今になってようやく使うだなんて何だか変な気分だった。 会いに来ても誰もいない。 こんなことなら恥ずかしがってないでちゃんと使えば良かったのだ。 今さから後悔しても遅いけれど。 託生は立ち上がると、手にした鍵を壁のフックの片方ににそっと戻した。 ギイが持っていたはずの鍵はいつの間にかここに戻っていて、もう片方のフックにかかっている。 二つ並んだ鍵を眺めて、あるべきものがあるべき場所に戻ったことに何だかほっとした。 ギイがいない部屋の鍵を、それでもずっと返すことができずにいた。 夜、どうしても辛くなった時に、こっそりと何度かここへきて、やっぱりギイがいないのだと確認して、しばらくぼんやりとギイのことを思ったりもした。 大丈夫と思う気持ちと不安な気持ちが入り混じり何度も押しつぶされそうにもなった。 だけど最近は大丈夫だという気持ちの方が強くなって、今度ギイに会う時のために、今できることをちゃんとやろうと思えるようになっている。 だからもうこの鍵はここに戻しておこうと思った。 一人だったら無理だった。 だけど、章三や政貴や、託生のことを心配してくれる友人たちがいるから、ゼロ番の鍵はもうなくてもいい。 「またね、ギイ」 二度と会えないだなんて思ってないから。 今度会えたら、そりゃあ少しは文句も言うとは思うけれど、だけどたぶん「会いたかった」と言ってしまうだろう。 その時ギイも、同じように返してくれるといいのになと思う。 託生は二つの鍵をしばらく眺めたあと、ゼロ番をあとにした。 |