机の上に置かれたバイオリンケースを眺めて、ぼくはどこかまだ夢見心地でいた。
ギイから恐れ多くも永久貸与されてしまったストラディバリウス。 本当ならぼくみたいな一般庶民は一生かかっても触ることすらできないであろう最高級品だ。 その音しか・・・それも生ではない音しか聞いたことのなかったぼくは、それがすごいバイオリンだということは頭では分かっていたけれど、億の値がつくほどの価値が本当にあるのか実感としては分かっていなかった。 けれど、実際に手にして音を出してみると、それはもう言葉にできないほどに素晴らしかった。 ぼくみたいな素人に毛が生えた程度の弾き手でさえ、その音の違いはよく分かるほどに、目の前のバイオリンの音は美しかった。 ギイはこんなに素晴らしいバイオリンをずっと長い間、ただ大事にしまっていたのかと思うともったいないなぁとため息が出てしまう。 それにしても、初めてバイオリンを習う子供にストラディバリウスをぽんと買い与えてしまうのだから、やっぱりぼくとギイは住む世界が違うなぁとしみじみ思ってしまうのだけれど、とりあえず今はそういうことは考えずに、ありがたくこの幸運を味わうことにする。 ぼくは手を伸ばしてケースの鍵を開ける。蓋を持ち上げ、横たわるバイオリンに目を細めた。 (どうしよう) やっぱり改めて眺めるとその美しさに手が震えてしまう。 音楽室でギイから手渡された時、何の前情報もなかったから、簡単に触ってしまったけれど、よくよく考えれば、これは楽器であるとともに芸術品でもあって、細心の注意を払って手にしなければならないものなのだ。 おずおずと手を伸ばし、弦を弾いてみる。 響きのある音に口元が緩む。 兄が亡くなり、それと同時にぼくはバイオリンを弾くことをやめてしまった。 すべてを白紙にして、一からやり直したかったのだ。 たぶん、それまでの自分とは違う自分になりたかったんだと思う。 今思えば、辛かったものと一緒に、大好きなものまで捨ててしまっていたのだ。 心のどこかで、音楽のことを忘れらずにいたことに、ギイはいつから気づいていたのだろう。 ぼくでさえ忘れかけていた思いを、ギイが思い出させてくれた。 久しぶりにバイオリンに触れてみると、自分がどれだけ弾くことが好きだったのかが分かる。 そして、一度湧き上がった気持ちは膨れ上がるばかりだ。 今こうして目の前にバイオリンがあるだけで、まるで初めてそれを買ってもらった時のようにどきどきしている。 「綺麗だな」 この世に誕生してからもうずいぶんな時を経ているというのに、この輝きはどうしたことだろう。 「だめだ、すごく弾きたくなってきた」 消灯まであと一時間ある。 ギイは今夜はめずらしく見たいテレビあるとかでここにはいなかった。 こんな時間に部屋で楽器を演奏するなんてとんでもないことは分かっているので、ぼくはケースを閉じると立ち上がった。 鍵をかけて部屋を出る。 「あれ、託生、どこ行くんだよ」 階段を降りたところで、利久に見つかった。 そろそろみんな部屋に戻ろうという時間なのだから、どこへ行くんだと不思議に思っても当然だ。 「ギイならテレビ見てたぜ」 「うん、知ってる」 じゃあね、と話もそこそこに、ぼくは利久と別れた。 どうやら今日は何か人気の番組でもあるらしく、ほとんどの生徒がテレビを見に行っているようで、ロビーにも人気がない。 ぼくはきょろきょろと辺りを見渡して、そっと寮を抜け出した。 本当に子供みたいなことをしているという自覚はあったけれど、どうしても今すぐ音を鳴らしてみたくなってしまったのだ。 こんな時間に寮を抜け出すなんて、あんまり誉められたことじゃないけれど、消灯までに戻れば問題ないはずだ。 ケースを片手に薄闇の中を敷地の外れへと向かう。 音楽堂あたりまで行けば誰もいないし、音も聞こえないだろう。 いつもなら暗い場所は苦手だと思うのに、現金なもので、今は平気だった。 逸る気持ちを抑えながら音楽堂に辿りつくと、ぼくはその場で丁寧にバイオリンを取り出した。 一つ深呼吸をして肩に構え、ゆっくりと弓を引くと、澄んだ音が辺りに広がった。 (すごい) 以前、ぼくが持っていたバイオリンとは比べ物にならない。 よく響く澄んだ音。 ここまで違うのかと思わせる音に、ぼくは夢中になって昔覚えた曲をいくつか弾いてみた。 けれど、あの頃は楽勝だった曲なのに、指がぜんぜん動かなくなっていて、どうにも思い通りには鳴らない。 楽器は毎日弾いてやっと現状維持で、それ以上の向上を望むなら、かなりの時間をかけて練習しなければならないものだから、3年もの間バイオリンから遠ざかっていたぼくが下手になっていても当然のことなのだけど・・・ 「だめだ」 頭の中で思い浮かべている音とは程遠い音に愕然としてしまう。 いや、音自体は素晴らしいのだけれど、いかんせん技術が追いついていない。 ぼくはバイオリンを肩から外すと、そのまま音楽堂の階段に腰を下ろした。 「はぁ、3年ってけっこうな時間だったんだなぁ」 今更ながらにそれを実感してしまう。 去年まで、ぼくにとって時間がたつのはすごく遅かった。 兄のことを忘れたくて、毎日がすごく長くて辛かった。 忘れよう忘れようとして、気がつけば3年がたっていた。 たった3年だと思っていたけれど、今になって思えば長い時間だったのだ。 少なくともバイオリンを弾くためには。 そして過ぎ去った時間は取り戻すことはできないのだ。 ぼくはそっと手の中のバイオリンを指でなぞった。 (どうしよう) ギイに声をかけられたのはそんな時だった。 「託生」 顔を上げると、ギイが憮然とした表情で立っていた。 「ギイ・・・?どうしたの?」 「どうしたのって、お前、今何時だと思ってるんだよ」 呆れたような声色のギイに、ぼくは慌てて腕時計を見て時間を確認した。 「うわ、どうしよう、もうこんな時間だなんて・・・」 とっくに消灯してるじゃないか。ぜんぜん気づかなかった。 立ち上がろうとしたぼくの手首を掴んで、ギイが再び腰を下ろすようにと促す。 「ギイ?」 「点呼は誤魔化しておいた。せっかくだから、もうちょっと夜のデートを楽しもうぜ」 ギイは綺麗にウィンクなどしてみせた。 「ギイ、もしかして探しにきてくれたの?」 誘われるがままにギイの隣に座り、ぼくが尋ねると、ギイはそうだよと笑った。 「部屋に帰ったらいないんだからな、心配するだろ」 「そっか、ごめん。消灯までには戻るつもりだったんだけど・・・」 「バイオリンの練習してたのか?」 「ううん、練習ってほどのものじゃなくて・・・」 ぼくは手にしていたバイオリンを注意深くケースへとしまった。 「音楽室で、ギイからこのバイオリンを渡されて弾いてみただろ?それを思い出してたらもうちょっと音を鳴らしてみたくなって」 言いながらもぼくはやはり少しばかり気持ちが沈む。そんなぼくに気づいたのか、ギイはぼくの肩を引き寄せると、頬に柔らかく口づけた。 「何か問題あったか?お前、ずいぶん難しい顔してたぞ」 「え、問題なんて何もないよ?バイオリンは素晴らしいものだよ。ありがとうギイ」 「バイオリンに問題がないなら、何考えてたんだ?」 なおもギイが聞いてくる。 ぼくが何を考えていたかを言わないままには許してもらえそうにない気配に、思わず笑いが零れる。 「心配性だな、ギイ」 「当たり前だろ」 そうかな。ギイはぼくのことに関しては特別心配性な気がするんだけどな。 さっきまであれこれと考えていたことは、まだ自分の中でも綺麗に整理できていなかった。 だからギイにちゃんと説明できるか不安なのだけど・・・けれど話している間に、逆にすっきりしない思いも 見えてくるかもしれないと、ぼくは口を開いた。 「えっと・・・3年って長かったんだなって」 「うん?」 どういうことだ、とギイが首を傾げる。 「ぼくがバイオリンを止めたのは、兄さんが亡くなったことがきっかけだったんだ」 「・・・・」 「何もかも最初からやり直そうって思ったのかな?今となってはよく分からないことも多いんだけど・・・その頃はもう両親との関係も冷え切ってたし、とにかくいろんなことを全部リセットしようって思ったんだと思う。だから実家から遠く離れた祠堂にやってきたし」 ギイはぼくの手を取ると、きゅっと指を絡めた。 ぼくが兄の話をすると、決まってギイはこうして手を握ってくれる。 まるで大丈夫だよ、と力づけてくれているようで、胸の奥が温かくなる。 「バイオリンは好きだった。だけど、止める最後の方は辛いことから逃げるためだけに弾いていたような気がする。バイオリンを弾いている時だけは、嫌なことを忘れられたから。だけど、そういうのって続けていると、音楽が好きだからというより、脅迫観念のようになってきちゃって、すごく嫌な音しか出なくなってくるんだ・・・。音楽って、音を楽しむものなのに、あの頃のぼくはぜんぜん楽しんでなかったから、何だかバイオリンに悪い気がして、兄が亡くなったときに、バイオリンを手放したんだと思う。何ていうか・・・嫌な音しか出せない自分が嫌になってたんだと思うんだ・・・上手く言えないけど」 「そっか」 ぼくは傍らのバイオリンケースをそっと手で撫でた。 「バイオリンを手放して、ゼロからやり直すつもりで、だけど上手くいかなくて。すべてを諦めることに慣れすぎてて、どうしたらいいか分からなかった。ギイが名づけた人間接触嫌悪症も治したかったけど、どうにもならなくて。そんな風に毎日がもどかしかった。だから時間が流れるのが遅くて・・・」 「ああ」 「だけど、ギイと同室になってから毎日が楽しくて、時間があっという間に過ぎていくから、長く感じていた毎日のことなんて忘れてたんだ。バイオリンのことも・・・忘れてた」 ギイは片手を伸ばすと、ぼくの頭を抱え込むようにして、その胸に抱き寄せた。 大好きな甘い香りに目を閉じる。 「今日、このバイオリンを弾いてみて、忘れてた気持ちが甦ったっていうか・・・初めてバイオリンを弾いたときみたいに新鮮で、わくわくして、すごく嬉しくて・・ああ、ぼくはやっぱりバイオリンを弾くのが好きだったんだな、って思い出したんだ」 「良かったじゃないか、何も問題はないだろ」 「うん、そうだけど・・・さっきもう一度弾いてみて、このバイオリンをぼくが借りてて本当にいいのかなって思い始めてさ」 「どうして?」 ギイが優しく尋ねる。 「普通なら触ることすらできないようなバイオリンを貸してもらって、すごく浮かれちゃってたけど、やっぱりあまりにももったいなさすぎて、ぼくなんかが弾いてちゃだめなんじゃないかなって思えてきたんだよ」 想像を遥かに超えた美しい音を奏でるバイオリン。 こんなに素晴らしい楽器は、もっと上手な・・・佐智さんみたいに上手な人が弾かないと、本当の音は出ないんじゃないかと思うのだ。 「今、弾いてみて思った。ぼくじゃ宝の持ち腐れだなって」 すごく悔しいけれど、それは事実だ。 「たった3年だけど、少なくともバイオリンを弾くためには長い時間だったんだなって今さらながらに思ったよ。そして過ぎ去った時間は取り戻すことはできないんだなって、まぁ、そんなことをぼんやり考えてたんだよ」 「託生」 ギイはしょうがないな、というようにぼくの髪を撫でると、うーんと少し考えるように低く唸った。 「確かに託生の言うように、音楽をやる人間にとって3年は長い時間なんだろうなって思う。その間一度もバイオリンに触れてなかったんだろ?そりゃ指が動かなくなってたって当然だし、上達もすることはないだろう。だけど、託生にとっては必要な3年だったんじゃないかな」 「必要な?」 「そ。さっき託生が言った通り、弾くのが楽しくないままに弾いてたって、決して上手にはならないんじゃないのかな。そりゃ無理やりにでも続けていれば、技術は向上したかもしれないけど、気持ちの面でさ、成長はできなかったんじゃないかって思うんだ。3年離れることで、託生は気持ちをリセットして、弾くことの楽しさを思い出したんだろ?それで十分じゃないか」 「だけど・・・」 「託生はこいつが世界的に有名なものだからって気後れしてるのかもしれないけどな、所詮楽器なんて道具にすぎないだろ?それに、宝の持ち腐れだなんて言うけど、オレが持ってる方がよっぽど宝の持ち腐れじゃないか。仕舞い込んだまま弾くことなんてないんだぞ?オレは託生がこれを楽しく弾いてくれるなら、それでいいんだ。いや、託生がこれを持っててくれるだけでいいんだよ」 「どうして?」 「オレにとって、こいつは特別なものだからさ」 そう言って、ギイはどこか切なげに微笑んだ。 「いつか託生に会えたら渡そうと思ってた。だからオレなりに大切にしてきたんだ。オレにとっては、これはただのバイオリンじゃない。託生に渡すことができなければ、何の意味もないものなんだ」 「ギイ・・・?」 「だから、託生が持っていてくれ。それだけでいい」 真摯な言葉で真っ直ぐに見つめられ、ぼくは小さく頷いた。 「・・・ありがとう、ギイ」 「よし、戻るか」 ギイが立ち上がり、ぼくへと手を差し伸べる。その手を取って、ぼくも立ち上がった。 手を繋いで寮までの道を2人して歩く。ちょうどあと半分くらいというところで、ふいにギイが立ち止まってぼくを見た。 「オレ、託生に辛いこと思い出させちまったか?」 「え?」 バイオリンを手にしたことで、兄のことも思い出した。 ぼくに辛い過去を思い出させたんじゃないかと、ギイはごめんな、と言った。 「そんなことないよ、ギイ」 ぼくは彼を見上げて微笑んだ。 「最近思うんだけどさ」 再び歩き始めると、ぼくに手を引かれるようにギイも歩き出す。 「辛いことがいっぱいあって、前はどうにかしてそれを忘れて、一からやり直そうって思ってたんだ。だけど、辛いことって忘れるものじゃなくて乗り越えるものなんだよね。だって、どうしたってその記憶が無くなるわけじゃないし」 きっと、そういうことが分からなかったから、ずっと心を開けずにいたのだと、今なら分かる。 忘れられないものを無理に忘れようとするから、苦しいのだ。 受け入れて、乗り越えていくことができれば、きっと少しは楽になれる。 「今はまだ完全じゃないけど・・・いつかちゃんと乗り越えるから。だからギイ、そんなに心配してくれなくていいんだよ?」 兄の話をするたびに、傷ついたような表情をするギイ。 ぼくよりもずっと辛そうに見えて、それが申し訳なく思えるのと同時に、ほんの少しありがたいなと思ってしまう。ほんと、贅沢だと思っているから、ギイに余計な心配はしてほしくない。 「・・・心配くらいさせろよ。オレ、お前の恋人だろ?」 ギイが苦笑しながらぼくの手を強く引き、その腕の中へと抱きしめる。 優しく背中をなでられて、その心地よさに目を閉じた。 「ギイがいるから」 「うん?」 「ギイがいるから、乗り越えられると思う。昔のこともそうだけど、これから何があっても、頑張ろうって思える。ギイ、ぼくにもう一度バイオリンを弾くチャンスをくれてありがとう。えっと・・・まずは3年前の腕前まで戻せるように頑張るよ」 永久貸与をしてくれたストラディバリウス。 ギイは、楽しく弾けばそれでいいと言ったけれど、自分が使わないからという理由だけで、ぼくにこのバイオリンを貸してくれたわけではなかったのだ。 あとになって、このストラディバリウスに「sub rosa」という名をギイがつけていたのだと佐智さんから教えられて、ぼくはギイの想いの深さをあらためて知り、それからはそれまで以上に真剣にバイオリンに向き合うことになる。 そしてそのことがきっかけとなり、まさか佐智さんと同じ道へ進むことになろうとは、この時のぼくはまだ知る由もなかった。 |